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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 モロッコ、AU に(再)加盟
2017-01-31 Tue 22:03
 アフリカ連合(AU)は、きょう(31日)、エチオピアの首都アディスアベバでの首脳会議を開き、西サハラ問題をめぐって30年以上対立が続いていたモロッコの加盟を承認しました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      モロッコ・OAU10年

 これは、1973年5月25日にモロッコで発行された“アフリカ統一機構10年”の記念切手です。

 1961年の時点で、アフリカの新興独立諸国は、急進派のカサブランカ・グループ(モロッコのほか、エジプト、ガーナ、タンガニーカ、ギニア、マリと、独立戦争のさなかにあったアルジェリアのアルジェリア共和国臨時政府が参加)、旧仏領諸国の穏健派を中心としたブラザヴィル・グループ、そして、両グループのいずれにも属さないモンロヴィア・グループの3つの勢力に分かれていましたが、こうした中で、旧ベルギー領から1960年に独立したコンゴでは、当初から熾烈な内戦が展開されていました。東西両陣営が内戦諸派を支援していたということもあり、アフリカ諸国間の対立が大国の直接的な武力介入を招くことを懸念したエチオピア皇帝ハイレ・セラシエは、汎アフリカ主義の旗手であったギニア大統領セク・トゥーレらとともに、アフリカ諸国の連帯・団結により、政治的・経済的発言力を強化するとともに、植民地主義と戦うことを目的とした国際組織の樹立に向けて動き出しました。

 こうして、1963年5月26日、エチオピアの首都アディスアベバにアフリカ諸国の首脳が集まり、所期の目的を達するための国際組織として、アフリカ統一機構(OAU)が設立され、モロッコもこれに参加しました。

 ところで、モロッコとモーリタニアは、いずれも、OAUが結成された1963年以降、スペイン領西サハラに対する領有権を主張していましたが、1975年10月、国際司法裁判所は、モロッコおよびモーリタニアのいずれも西サハラに対して領土権を有しないとして、その要求を退けています。これに対して、1975年11月、モロッコ国王、ハサン2世の号令一下、35万人の非武装のモロッコ人が越境大行進を行い、西サハラを実効支配する“緑の行進”が行われ、モロッコは西サハラが“自国領”であることを改めてアピールしました。

 翌1976年、スペインは西サハラの領有を断念し、西サハラはモロッコとモーリタニアが“再統合”することになりましたが、これに対して、スペイン領時代の1973年から独立運動を続けていたサギア・エル・ハムラ・リオデオロ解放戦線(ポリサリオ戦線)は、アルジェリアの支援を得て両国に対する武力闘争を開始。さらに、1976年2月27日、アルジェでサハラ・アラブ民主共和国(SADR)の樹立を宣言します。

 アルジェリアの支援を受けたポリサリオ戦線の攻撃に対してモーリタニアは敗走を重ね、1978年にはクーデターで政権が崩壊。1979年にはモーリタニア政府はポリサリオ戦線と単独和平協定も締結されました。

 こうした中で、同年、OAUは、西サハラの住民が自決への権利を行使できるように住民投票の実施を呼びかけます。また、OAU加盟50ヵ国(当時)中、過半数の26ヵ国が1982年までにSADRを承認しました。

 西サハラ問題での国際的な圧力が強まる中、1981年6月に開催されたOAU首脳会議で、ハサン2世は西サハラで独立かモロッコへの帰属かを問う住民投票を行う意思があると表明。その背後には、住民投票の実施までに膨大な数のモロッコ人を西サハラに移住させ、あくまでも“民主的”な自由投票の結果、西サハラはモロッコに帰属するという結論を導き出そうという意図があったことは言うまでもありません。

 ハサン2世の提案を受けて、8月にケニアのナイロビで開催されたOAUの実務者委員会は、西サハラでの停戦と国連PKO部隊の派遣、OAUおよび国連の監視下で住民投票を行うまでの暫定統治機関の設置などを提案します。

 ここまでは、モロッコとしても予想の範囲内でしたが、翌1982年2月、エチオピアのアディスアベバで開催されたOAUの理事会では、当初の議事予定になかったSADRの加盟問題が取り上げられ、賛成多数でSADRの加盟が電撃的に承認されてしまいました。

 当然のことながら、住民投票の実施以前にSADRを独立国として扱い、モロッコによる西サハラ支配を全面的に否定するような決定に対して、モロッコは激怒し、モロッコに近い17ヵ国とともに、直ちにOAUの理事会を退席。さらに、1982年のOAUの年次総会は、8月にリビアのトリポリで開催される予定でしたが、上述のモロッコを含む18ヵ国に加え、リビアと対立していたエジプト、チャド(北部の内戦にはリビアが関与していた)が早々に欠席を表明します。

 当時のOAUの規定では、総会は(議長国を除き)加盟国の3分の2以上の出席をもって成立することになっていましたから、加盟50ヵ国中、最低でも(議長国を除き)30ヵ国の出席が必要でした。したがって、20ヵ国が欠席した時点で総会は成立しません。そこで、OAUは、当初の予定を延期して11月にも再度、総会を招集しましたが、やはり、定足数を満たすことができず、流会となりました。

 1982年の総会が流会となったことを受け、1983年6月、アディスアベバで開催されたOAU総会は、SADRの総会出席資格を一時的に停止するという便法を使うことで、何とか流会を免れます。その後、あらためて、同年12月、翌1984年9月に西サハラで住民投票を実施すべく実務レベルの協議が再開されたのですが、1984年2月には、長年、モロッコと共にSADRの存在を否認し続けてきたモーリタニアが、ついにSADRの独立を承認。西サハラ問題でモロッコは孤立してしまいます。

 これを受けて、強行突破でSADRを総会に参加させてしまえば、モロッコも妥協せざるを得ないとにらんだOAUは、同11月12日、アディスアベバで開催された総会にSADR代表の出席を認めました。

 しかし、たとえ最後の一国になろうとも、絶対にSADRの存在は認めないとのモロッコの決意は固く、モロッコは直ちにOAUを脱退。その後、OAUは2002年にアフリカ連合(AU)へと発展的に改組されましたが、モロッコはAUへも参加を拒否し続けてきました。しかし、2016年9月23日、SADRの独立は認めないという立場は維持したまま、モロッコはAUへの加盟を申請。今回、33年ぶりの(再)加盟が実現したというわけです。


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 おかげさまで175万PV
2017-01-30 Mon 09:03
 おかげさまで、昨日(29日)、カウンターが175万PVを超えました。いつも、閲覧していただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。というわけで、175に絡んで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      英国・ペニー・ブラック175年

 これは、2015年に英国で発行された“ペニー・ブラック発行175年”の小型シートで、ペニー・ブラックとペンス・ブルーを模した切手を市松模様型の田型で収め、シートの余白には、ペニー・ブラックを製造したパーキンス・ベーコン・アンド・ペッチ社での切手印刷風景が取り上げられています。

 パーキンス・ベーコン・アンド・ペッチ社の創業者、ジェイコブ・パーキンスは、1766年、北米マサテューセッツのニューベリーポート生まれ。10代の頃は鍛冶職人として修業を積んでいましたが、その腕を見込まれて21歳の時にマサテューセッツ造幣局に雇われ、コインの原版彫刻を担当します。

 その後、爪切りから大砲の製造までさまざまな機械製作に携わっていましたが、凹版彫刻用の鋼材を開発したのを機に、彫刻家のギデオン・フェアマンと共に印刷所を創業し、1809年、学校の教科書の印刷を始めました。

 フェアマンが原版を彫刻した挿絵の教科書は、当時としては画期的なもので大いに評判となったことから、パーキンスは印刷事業に本腰を入れるようになります。その一環として、パーキンスは、米国での彩紋彫刻の特許を持っていたエイサ・スペンサーから特許を買い取っただけでなく、スペンサー本人を雇い入れて、彩紋彫刻を施した紙幣の製造に着手しました。

 一方、当時の英国では偽造紙幣の横行が深刻な社会問題となっており、英国政府は、1819年、賞金2万ドルを掲げて“偽造不可能な紙幣”を公募します。

 この機会をとらえて、パーキンス、フェアマン、スペンサーの3人は渡英し、ロンドンのオースティン・フライヤーに彫刻凹版印刷にも対応可能な印刷所、パーキンス・アンド・フェアマン社のオフィスを構え、王立協会会長のジョゼフ・バンクス卿をはじめ、関係各方面に自分たちの試作品を売り込み、高い評価を得ました。

 ところが、パーキンスらの試作品は、品質面では文句なく他を圧倒していたにもかかわらず、ジョゼフ・バンクス卿は、「“偽造不可能な紙幣”を作るのはイングランドの出身でなければならない」と頑なに主張しており、そのままでは、“外国人”であるパーキンスらが紙幣製造を受注するのは困難でした。

 そこで、パーキンスは、当時、英国を代表する凹版彫刻家であり、出版業者でもあったチャールズ・ヒースを共同経営者として迎え入れ、1819年12月、フリート・ストリートにパーキンス・フェアマン・アンド・ヒース社を開業しましたが、ほどなくしてフェアマンがパーキンスらと袂を分かったため、パーキンス・アンド・フェアマン社として“偽造不可能な紙幣”を製造することになります。

 ここに、1823年、彫刻家のヘンリー・ペッチが入社。さらに、1829年5月、パーキンスの二女と結婚したジョシュア・バタース・ベーコンが共同経営者となったことで、彼らの印刷所はパーキンス・ベーコン社に社名を変更。1834年にはペッチも共同経営者に名を連ねるようになったことで、後に、ペニー・ブラックの印刷を請け負うことになる“パーキンス・ベーコン・アンド・ペッチ社”が誕生しました。

 なお、このあたりの事情については、拙著『英国郵便史 ペニー・ブラック物語』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 昭和基地60年
2017-01-29 Sun 11:19
 1957年1月29日、南極に昭和基地が開設されてから、きょうでちょうど60年です。というわけで、南極関連の日本切手といえば、やはりこの1枚でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)

      国際地球観測年

 これは、1957年7月1日に発行された“国際地球観測年”の記念切手で、観測年のマークと南極観測船“宗谷”、コウテイペンギンを組み合わせたデザインとなっています。

 気象、地磁気、電離層、宇宙線、経緯度、海洋、地震、重力などの諸現象について、期間を定めて、全世界の研究者たちが共同観測を行う極年(Polar Year)は、1882-83年に第1回が実施されました。

 その後、50年後の1932-33年には第2回の極年が行われましたが、科学の急速な進歩を考慮して、第3回目は間隔を短縮して25年後の1957年7月1日から翌1958年12月31日までの間に、“国際地球観測年(International Geophysical Year)”の名のもとに実施されることになりました。ちなみに、この国際地球観測年は、世界各国が協力して特定の事業を行う「国際年」の企画としては最初のものです。

 国際地球観測年の共同観測事業は、ブリュッセルの国際学術連合(ICSU) が国際地球観測年特別委員会(CSAGI)を設置して準備を進め、地球の中心を縦に割って東経10度付近、同110度付近、同140度付近、西経60-70度付近で、また、地球を横に割って北極、赤道、南極の7大地帯でそれぞれ行われました。

 このうち、東経140度付近地帯の中心国となったわが国では、日本学術会議の中に設けられた国際地球観測年研究連絡委員会が学術的な見地から、また、文部省測地学審議会の中に設けられた国際地球観測年特別委員会が関係各機関の行政実務を調整する立場から、それぞれ準備を進めることになりました。当初、日本は赤道観測を行う予定でしたが、予定地の領有権を持つ米国の許可が出ず、1955年2月、南極観測に切り替えています。

 このように、国際地球年の準備が進められていった過程で、1956年11月、内閣官房副長官と文部事務次官は、次年度の記念切手発行計画に関する郵政省からのヒヤリングに応えて、国際地球観測年と南極地球観測の2件を回答しました。

 日本人による本格的な南極観測は、1956年11月に東京港を出港した観測船“宗谷”が翌1957年1月25日に南極大陸に到着し、同月29日にオングル島に昭和基地を設営することでスタートします。

 回答を受けて、郵政省サイドでは、当初、地球観測年と南極観測を別の記念切手として発行することも検討しましたが、1957年1月24日に開催された郵政審議会専門委員打合会議の結果、記念切手の発行は国際地球観測年のみにしぼり、南極観測は切手の図案において表現するということで決着がはかられることになりました。

 切手発行の方針が決定されると、1957年4月9日、郵政省の担当者が文部省3階の南極地域観測統合推進本部を訪ね、宗谷やペンギンの写真などを資料として借用しようとしました。しかし、同本部にはマスコミ各社の閲覧希望者があとをたたず、郵政省が写真原簿を持ち出すことは不可能でした。

 このため、郵政省は同本部の紹介を得て、東京大学南極資料室から資料を借用。また、CSAGI本部で作成した観測年のマーク(地球と人工衛星を描いたものと、これに西暦や記念銘を添えて八角形の枠で囲んだものの二種類があった)については、南極観測隊長の永田武 を通じて、CSAGI本部に使用許諾を求める手続きがとられました。

 一方、切手の発行日としては、観測強化の世界デーにあたる7月4日も考慮されましたが、結局、観測年がスタートする7月1日が妥当ということになり、この日にあわせて作業が進められます。

 4月10日、記念切手はグラビア4色刷とする方針が決められ、久野実、渡辺三郎、長谷部日出男の3人のデザイナーが下図を作成します。これに対して、郵務局長・松井一郎は、オーロラとペンギン、宗谷、観測年のマークを組み合わせた渡辺の原画をもとに、オーロラをやめて観測年のマークを中心に、宗谷とペンギンを添えることを提案。この案に沿って再度、コウテイペンギンを大きく描いた原図が渡辺によって作成されました。その際、画面構成の都合から、観測年のマークは左上に寄せ、半分くらい欠けた形にトリミングして用いられています。

 こうして、5月6日、原画が完成し、印刷局での作業が開始されました。なお、切手の発行枚数は、当初の予定では500万枚となっていましたが、実際には600万枚に変更され、6月21日に記念切手の現品(見本字入り)と記念スタンプの印影を添えた報道資料がマスコミ各社に配布されました。

 切手の発行日には、東京・上野の日本学術会議講堂で、午前9時(グリニッジ標準時の午前0時00分にあたる)から国際地球観測年開始記念式典が行われ、セレモニーの一環として、郵政大臣署名入りの記念切手一シートが長谷川万吉(国際地球観測年研究連絡委員会委員長)に贈呈されています。


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 新年快樂 吉祥如意
2017-01-28 Sat 06:52
 きょう(28日)は旧正月・春節です。というわけで、酉年の正式なスタートですから、ストレートにこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      中国年賀封緘葉書2017(部分)

 これは、昨年12月に中国で発行された2017年用のくじ付き封緘年賀はがきの絵面です。昨年の南寧で開催のアジア国際切手展<CHINA 2016>に参加した際、審査員長の焦暁光さんから頂戴しました。ステーショナリとしての全体像はこんな感じで、印面には夜明けを告げる鶏が描かれています。

      中国年賀レターシート2017

 さて、後漢末の応劭(204年没)がまとめた『風俗通義』には、蛇身人首の神“女媧”が六畜を造り、次いで人間を造ったという創造神話が記録されています。

 世界の初め、天は混沌、地は泥の塊で、女媧は水を混ぜて泥をこねて遊び、最初に鶏を作りました。女媧の作った鶏が一鳴きすると天門が開き、日月星辰が一斉に飛び出したとされています。その後、女媧は・羊・の順に、毎日ひとつずつ、計六畜をつくり、それらを管理するため、7日目に人間を作り、鶏には時を司る役割が与えられました。

 また、中国の伝統的な世界観では、日中が人間の世界であるのに対して、夜間は悪鬼の支配する世界とされており、夜明けを告げる鶏の声(1日の始まりだけでなく、元旦を告げるのも鶏の役割とされたため、元日のことを鶏日、元旦を鶏旦と呼ぶこともあります)は、鬼の世界から人間の世界への変転を象徴するもの、悪鬼避けとして尊重されました。また、大鶏が大吉と同じ発音だったこともあり、鶏は吉祥の動物とみなされていました。

 今回ご紹介の封緘葉書では、鶏に乗った子供が冠を手に持っていますが、もともと、トサカ(鶏冠)のある鶏は冠のある人、すなわち科挙に受かった官僚の象徴でもありました。したがって、鶏の上に冠(の子供)というモチーフは“官の上に官を加える”として、立身出世を象徴する意味があります。まぁ、僕自身はいまさら官途に就くということはないでしょうが、多少はこの絵にあやかって、拙著がもう少し売れて、貧乏物書きからは脱却したいものですな。


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 米墨国境
2017-01-27 Fri 12:28
 米国のトランプ大統領は、25日(日本時間26日)、大統領選挙での公約通り、不法移民の侵入を阻止するため、メキシコとの国境沿いに“大型の物理的障壁”を建設するための大統領令に署名しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ地図(1923)

 これは、1923年にメキシコが発行した自国地図の切手で米国(切手ではスペイン語で“ESTADOS UNIDOS”と表示されています)との国境線がしっかりとわかるデザインとなっています。

 現在のメキシコ国家の直接のルーツは、16世紀にメキシコシティを首都として創設されたスペインの副王領“ヌエバ・エスパーニャ”にさかのぼることができます。

 “新スペイン”を意味するヌエバ・エスパーニャは、もともとは、パナマ地峡以北の新大陸のスペイン領全てを指す概念で、大陸部分では、現在のメキシコの領域に加えて米国南西部(カリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、コロラド、ワイオミング、アリゾナ、ニューメキシコ、テキサスの各州)とフロリダ半島にまで広がり、カリブ海諸島や、さらには、フィリピンとマリアナ諸島をも含んでいました。

 1775年に米国独立戦争が勃発し、1776年の独立宣言を経て、1783年には諸外国が正式に米国の独立を承認。大西洋岸の東部13州で独立した米国でしたが、1803年にフランスからルイジアを購入すると、米国とヌエバ・エスパーニャとの国境を画定する必要が生じます。

 当時のスペイン側の認識では、ルイジアナのうち、ミシシッピ川西岸とニューオーリンズ市はスペイン領と考えていましたが、米国側はロッキー山脈の稜線までが自分たちの購入した土地だと考えていました。このため、東西はカルカシュー川(アロヨ・オンド)とサビーン川の間、南北はメキシコ湾から北緯32度近辺までは、当面、どちらにも属さない中立地帯(ルイジアナ中立地)とすることで決着が図られました。また、米国はスペインからフロリダを購入したいと希望していましたが、スペイン側はこれを拒否し続けてきました。

 ところが、19世紀初頭のナポレオン戦争と、その余波としてのラテン・アメリカ諸国の独立運動により、スペインは疲弊し、本国から遠く離れたフロリダの維持が困難になります。そこで、1819年、米西間でアダムズ・オニス条約が結ばれ、米国がフロリダとルイジアナを得て、それ以西のテハス(英語名:テキサス)からカリフォルニアまでをスペインの領土とする形で、国境が確定されました。この境界線は、1821年にメキシコが独立すると、基本的には米墨間でも継承されます。

 さて、1821年のメキシコ独立前後から、米国からテハスへのアングロサクソンの移民が大量に流入。メキシコ政府は1830年には米国人の新規移住を禁止したものの、その後も米国からの“不法移民”の流入は止まず、1832年の時点では、テハスの人口のうち、独立以前からのメキシコ人住民の人口比率は14%にまで落ち込んでしまいます。

 こうした状況の下で、1835年、メキシコ大統領アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナが1824年憲法を廃止して、中央政府の権限が強い憲法を宣言すると、メキシコ各地でこれに反対する叛乱が発生。テハスでも、米国からの移住者たちがメキシコ中央政府からの分離独立を唱えて叛乱を起こしました。

 叛乱側は、1836年2-3月のアラモ砦の攻防戦で守備隊が全滅する敗北を喫したものの、3月21日のサン・ハシントの戦いでは、大統領を辞しメキシコ軍総司令官となっていたサンタ・アナを捕虜とし、ベラスコ条約を結んで“テキサス共和国”の独立を承認させました。

 さて、テキサス共和国はリオ・グランデをメキシコとの国境と主張していましたが、メキシコ側はより北側のヌエセス川を国境と主張しており、対立がありました。また、テキサス共和国内では独立当初から米国との統合を求める声が強かったものの、米議会には併合慎重派が少なくありませんでした。ところが、1844年の米大統領選挙で、テキサス併合を公約に掲げるジェイムズ・ポークが当選。1845年2月、米議会は「1846年1月1日までにテキサス共和国が併合を承認すれば、州として連邦への加盟を認める」とする決議を採択します。

 これを受けて、テキサス議会は米国への併合に同意。1845年12月、米大統領ポークはテキサスを合衆国の州として受け入れる法案に署名。こうしてテキサスを併合した米国は、その西側の領土の買収もメキシコに持ちかけましたが、メキシコはこれに猛反発します。

 こうした状況の下、1846年春、米国務省の命を受けた探検家のジョン・フレモントがロッキー山脈からコロンビア川に到着する最短ルートを求めてカリフォルニア(当時はメキシコ領)に到着。探検の継続をめぐってメキシコの上カリフォルニア軍事総督と対立したフレモントは、地元の入植者を扇動してメキシコ当局に対して反乱を起こさせます。これが、カリフォルニアにおける米墨戦争の発端となりました。

 さて、戦争は、終始、米国優位で進み、1847年9月には首都メキシコシティが陥落。翌1848年2月に結ばれたグアダルーペ・イダルゴ条約により、メキシコは、リオ・グランデ以北、テキサスからカリフォルニアまでの広大な領土をわずか1500万ドルで米国に売却します。

 しかし、さすがにこの金額は安すぎるとして批判も強かったため、1853年、米国は、メキシコに対する金銭保証の意味を込めて、現在のアリゾナ州南部およびニューメキシコ州にあたる地域を1000万ドルで購入。これにより、今回ご紹介の切手に描かれたような米墨国境が画定しました。

 こうして確定された現在の米墨国境線は、日本列島とほぼ同じ長さの約3200km になりますが、2001年の同時多発テロを機に、国境にはフェンス建設が進み、現在、全体の3分の1の約1126km (700マイル)に高さ約5m の鉄柵が築かれています。これに対して、トランプ大統領の構想では、万里の長城(高さ6-9m)より高い12m のコンクリート壁を国境線のすべてに設置しようというものです。

 建設費は最大で250億ドルで、米メディアの試算によるとは、4万人が建設にあたっても完成までに4年かかるのだとか。さらに、国境警備隊員が5000人、入管当局者が1万人増員されるほか、建設後は壁の維持費も必要となります。

 トランプ大統領は、選挙期間中から、“壁”の建設費用をメキシコに負担させると主張してきましたが、当然のことながらメキシコ側は壁の建設そのものに反対し、建設の支払も断固拒否する姿勢を示しています。(ただし、メキシコ側も米国への不法移民の流出を防ぐために、何もしなくていいということにはならないと思いますが…)

 このため、両国関係を主復するため、今月31日にはメキシコのペニャニエト大統領が訪米し、首脳会談も計画されていましたが、トランプ大統領が「国境沿いの壁の建設費用を負担する用意がないなら、首脳会談は取り止めるべき」と発言したことことから、首脳会談は中止されてしまいました。

 そこで、米国側では、メキシコからの輸入に20%の“輸入税”を導入し、年間100億ドルを捻出するプランが浮上しているとのことですが、こちらも、輸出補助金を禁じた世界貿易機関(WTO)協定にも違反する可能性が指摘されています。

 また、仮に建設資金の目途がついたとして、米墨国境沿いの土地は大半が私有地で、所有者の中には建設反対派も相当含まれていますから、壁を建設するための土地を確保するのは容易ではないでしょう。さらに、米墨間の自然国境となっているリオグランデの周辺では、洪水管理を妨げたり、資源の共有を妨害したりするものの建築が法律で禁じられているほか、米墨どちらの国も川の流れを変えることも条約で禁じられていますので、設計には様々な制約が課されることになります。

 “トランプの壁”は、これらをすべてクリアしていかねばならないわけで、そう考えると、実現に向けてのハードルは相当に高そうですな。


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 茨城県出身の横綱は何処?
2017-01-26 Thu 09:00
 日本相撲協会は、きのう(25日)、東京・両国国技館で臨時理事会と春場所の番付編成会議を開き、初場所で優勝し、横綱審議委員会から推薦された稀勢の里の第72代横綱昇進を正式に決めました。新横綱は2014年春場所後に昇進した鶴竜以来で、日本出身横綱の誕生は1998年夏場所後の若乃花以来、19年ぶりです。というわけで、稀勢の里と同じ、茨城県出身横綱に絡んでこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      相撲絵・当時英雄取組

 これは、1978年11月11日に発行された相撲絵シリーズ第3集のうち、初代歌川国貞の「当時英雄取組の図」を取り上げた連刷切手です。

 「当時英雄取組の図」は、シリーズ第1集に取り上げられた「秀ノ山雷五郎土俵入の図」の作者、三代豊国が豊国を襲名する前の国貞時代の作品で、小野川喜三郎の引退以来およそ30年ぶりに誕生した横綱・阿武松緑之助と稲妻雷五郎を英雄として描いた3枚1組の錦絵です。このうち、切手には、能登国(現石川県)出身の阿武松と行司の木村庄之助の部分が取り上げられていますが、常陸国(現茨城県)出身の稲妻の部分はカットされています。ただし、稲妻はそのまま無視されたかというと、そういうわけではなく、切手の発行日に用いられた絵入りハト印(下の画像)に取り上げられています。

      相撲絵・第3集特印

 さて、阿武松緑之助は、1791年、能登国鳳至郡七海村(現・石川県鳳珠郡能都町)に生まれ、1805年に江戸に上り、武隈に入門しました。最初の四股名は小車で、1822年、小柳の四股名で入幕。次第に頭角を現して昇進を重ね、1827年、四股名を阿武松と改めました。谷風、小野川に続く3代目の横綱を免許されたのは、翌1828年のことです。1835年に引退するまでの幕内通算成績は140勝31敗24分8預かりでした。

 一方、稲妻雷五郎は、1795年、常陸国河内郡阿波崎村(現・茨城県稲敷市)に生まれ、1820年、巻の島の四股名で佐渡が嶽に入門しました。入幕は1824年の冬場所で、翌場所には小結に昇進。1830年に吉田家から横綱を免許されました。阿武松との対戦成績は4勝5敗5分1預かりと阿武松に1番負け越していますが、1839年に引退するまでの幕内通算成績は、130勝13敗14分3預かりで、勝率的には阿武松を圧倒しています。

 なお、稲妻を描く絵入りハト印の初日印指定局は福岡中央局でしたが、これは、切手発行の翌日が九州場所の初日だったためです。この時の九州場所では、全勝優勝した横綱の若乃花に、今回の切手の額入りのシートのほか、記念切手3年分があわせて贈られています。

 ちなみに、今回ご紹介の切手を含む相撲絵シリーズについては、拙著『(解説・戦後記念切手Ⅴ)沖縄・高松塚の時代』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 世界の国々:ナミビア
2017-01-25 Wed 09:24
 アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年1月25日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はナミビアの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      南西アフリカ・ヘレロ人絵葉書  
      南西アフリカ・ヘレロ人絵葉書(裏面)

 これは、20世紀初頭のヘレロ人を取り上げた絵葉書で、1905年、いわゆるヘレロ戦争の際に、オカハンジャのドイツ軍野戦局からコブレンツ宛の軍事郵便として送られています。雑誌の記事ではスペースの関係で絵面だけしかお見せできませんでしたので、今回は裏面の画像も貼っておきました。

 牧畜を生業とするバントゥー系のヘレロ人が東方から現在のナミビアの領域に移住してきたのは17-18世紀のことと考えられています。

 現在のナミビア国家の領域には、1486年にポルトガル人が最初に来航しましたが、広大なナミブ砂漠が広がる過酷な環境ゆえ植民地の形成は遅れ、1793年になって、ようやく、当時、ケープ植民地を領有していたオランダがウォルビス湾の領有を宣言しました。その後、1795年、ウォルビス湾は英国が占領しましたが、内陸の開発はほとんど進みませんでした。

 このため、19世紀初頭、コイコイ系民族のナマ人(複数形ナマクア人)が南アフリカからナミビアの地に流入しましたが、この時点では、ヘレロ人、ナマ人などアフリカ系諸民族と西洋人の間にはほとんど摩擦は生じませんでした。

 一方、ナミビア内陸部に西洋人が本格的に訪れるようになったのは、1842年、ドイツ・ライン州のプロテスタント伝道会が布教活動を始めてからのことです。

 1858年、伝道会はナミビア各地の首長との間で“ワハナス平和条約”を締結し、ナミビアでの布教活動を本格化させることになりますが、先住民の反感と抵抗も根強かったため、1868年、伝道会はプロイセン議会に保護を求めます。当初、この要請は相手にされませんでしたが、1870年代に入り、英国の南アフリカへの進出が本格的に始まるなかで、1883年、ブレーメンの商人、アドルフ・リューデリッツが、大西洋沿岸のアングラ・ペクアナ(後のリューデリッツ・ブッフト)を支配していたベタニア族の首長ヨーゼフ・フレデリクスから入江の周囲5マイルの土地を購入。その契約書にある“5マイル”は、英マイル換算の1600mではなく、独マイル換算の7500mでしたが、リューデリッツの使者はフレデリクスにこれを英マイル換算と誤解させ、ベタニア族の土地の大半を無理やり購入しました。

 これを受けて、翌1884年4月24日、ドイツ帝国議会はリューデリッツの購入した土地を帝国の保護領とすることを決定。これが“ドイツ領南西アフリカ”の起源となります。

 ドイツ領南西アフリカが成立すると、ドイツ本国からはドイツ植民地の中でも最大規模の1万3000人が大挙して入植。一方、ドイツ人の急激な流入に危機感を抱いたナマ族の首長ヘンドリック・ウィットブーイは英国に接近しましたが、英国の反応は冷淡で、ドイツ人の侵入を食い止めることはできなませんでした。

 ドイツ人は金やダイヤモンド、銅などの鉱山と農地の開発に重点を置き、武力を背景に、鉄道用地や入植者の農園用地を半ば強制的に買い集めます。この結果、土地を失った先住民はドイツ人の下、劣悪な条件で酷使される労働者へと転落。さらに、1894年以降、ドイツ人は内陸の牧畜民であるヘレロ人の族の家畜に目をつけ、略奪を繰り返すようになりました。

 こうした状況の中で、1904年1月、ヘレロ人首長のサミュエル・マハレロは、配下の7000人を率いて武装蜂起し、ドイツ人入植者の農場と教会を襲撃し、ドイツ人の男女合わせて126名を殺害します。

 “反乱”鎮圧のため、ドイツ政府はフォン・トロータ将軍率いる1万5000のドイツ軍を派遣。8月のヴァーテルベルクの戦いでヘレロ軍主力を大破すると、その後も、攻撃を緩めることなく、1904年10月には全ヘレロ人の抹殺を宣言。砂漠地帯に追い込まれたヘレロ人の多くが餓死または井戸水による中毒死で命を落とし、1907年の反乱鎮圧までに、最終的なヘレロ人の死者は総人口の80%に相当する6万人にものぼりました。

 また、1905年10月にはナマ人がヘレロ人と同盟を結んで蜂起しましたが、こちらも鎮圧され、全人口の半数に相当する1万人が犠牲となっています。

 一連の“ヘレロ戦争”の先住民側の死者は膨大なもので、それゆえ、後に20世紀最初のジェノサイドとして歴史に記録されることになりました。

 ちなみに、ヘレロ戦争以前のヘレロ人は今回ご紹介の葉書に見られるように、ほとんど裸同然の衣服で生活していましたが、戦争の後、生き残ったヘレロ人はキリスト教と西洋式の生活を受け入れます。その結果、ヘレロ人の女性は、ヴィクトリア・スタイルを模し、カラフルな模様と足首までの長いスカートを着て、頭には牛の角をかたどった横長帽子を被るようになり、そのスタイルが現在に至るまで受け継がれています。

 さて、 『世界の切手コレクション』1月25日号の「世界の国々」では、ヘレロ人とヘレロ戦争についての長文コラムのほか、ウィントフック教会、ナミビア産ダイヤモンド、アフリカ最大の塩湖として知られるエトーシャ塩湖の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、本日発売の2月1日号では、「世界の国々」はパラグアイを特集していますが、こちらについては、発行日の1日以降、このブログでもご紹介する予定です。 

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 政府資金を持ち逃げして亡命
2017-01-24 Tue 16:12
 昨年(2016年)12月の大統領選挙で落選しながらその後も大統領職に居座り続け、今月21日に赤道ギニアに亡命した、ガンビアのヤヒヤ・アブドゥル=アズィーズ・ジェムス・ジュンクング・ジャメ前大統領が、国庫からおよそ5億ダラシ(12億5000万円相当)の資金を持ち出したため、現在、ガンビア政府の国庫にはほとんど資金が残っていないことが、きのう(23日)までに明らかになりました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ガンビア・バンジュール国際空港

 これは、1997年にガンビアが発行した“経済発展”の切手のうち、首都バンジュールのバンジュール国際空港を取り上げた1枚で、左上には、今回亡命したジャメ大統領の肖像も入っています。

 英領植民地だったガンビアは、1965年2月、英国女王を元首とする英連邦王国として独立。1970年には共和制に移行し、自治政府時代からの首相だったダウダ・ジャワラが大統領に就任しました。

 ガンビアが独立した1965年、カニライに生まれたジャメは、1984年、ガンビア軍に入隊し、1992年に憲兵隊指揮官に任命(階級は注意)され、1994年7月22日、クーデターにより、大統領のジャワラから政権を奪います。クーデター後、ジャメを議長とする軍事暫定統治評議会は憲法を停止し、国境を封鎖すると同時に戒厳令を布告。1996年の“民主選挙”で、ジャメは与党・愛国再建同盟を設立して大統領選挙に出馬して当選し、以後、昨年12月まで、22年間に及ぶ長期独裁政権を維持しました。

 ジャメは保守的で厳格なムスリムということなのですが、2000年代後半以降、その政策にはエキセントリックなものも目立っています。

 すなわち、2007年1月、ジャメはハーブとバナナを煮出して“エイズの治療薬”を作ったと発表し、エイズ患者に対して、抗ウイルス薬治療を止めて、この“薬”を服用するように命じています。当然のことながら、この薬はエイズ治療には全く役に立たず、専門家は「“(ジャメの)治療薬”は非科学的であり、患者を危険にさらすだけでなく、他の人への感染の危険性もある」と批判しましたが、ジャメはこれを無視し、薬の危険性を訴えた国際連合開発計画ガンビア代表のファザイ・ガラジンバを国外退去処分にしています。

 また、2008年5月15日には同性愛を禁止する法律を制定し、国内の同性愛者に対し「国外退去か、頭を切り落とされるか」を選ぶように通告。さらに、2009年には、親族の死に魔女が関与していると疑い、ギニアから呪術師を呼び寄せ魔女狩りを開始。これにより、1000人以上の女性が拉致され、幻覚剤の投与や呪術師からの強姦を受け、少なくとも8人が死亡しましたが、野党の指導者がこれを批判するとスパイ容疑で逮捕しています。

 こうした圧制に加え、独自の資源に乏しいガンビアは経済的にも苦境が続いたことから、次第に、ジャメ政権に対する国民の不満は鬱積。2016年12月1日の大統領選挙では、野党候補のアダマ・バロウに敗れます。

 選挙結果を受けて、ジャメは、いったん敗北宣言を行ったものの、その後「不正があったので受け入れられない」と態度を一転させ大統領職に居座り続けます。2017年1月19日にジャメの任期が切れても、ジャメは一向に職を辞する気配を見せなかったため、バロウは隣国セネガルのガンビア大使館で大統領就任式を行わざるを得ませんでした。

 この時点で、ジャメはなおも大統領職に居座り続けたため、国連安保理事でバロウ支持の決議が採択されたことを受けて、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)加盟の周辺諸国が軍事介入を決定。1月20日、ギニア大統領のアルファ・コンデとモーリタニア大統領のムハンマド・ウルド・アブデルアズィーズがバンジュールに赴いて直接ジャメを説得。これを受けて、翌21日、ジャメは国営テレビを通じて「アフリカ、そして世界各地で紛争が続いているが、ガンビアは平和だ。この平和を守らなければいけない」、「1人のムスリムとして、そして愛国者として、流血の事態は避けなければならない。良心に従い、この偉大な国の権力を手放すことにした」と退陣を表明し、今回ご紹介の切手に取り上げられた空港からガンビアを出国し、ギニア経由で赤道ギニアに亡命しました。ちなみに、ジャメが出国する直前の空港では、高級車が貨物機に積み込まれるのが目撃されています。

 ジャメの亡命に先立ち、ECOWASとアフリカ連合(AU)、国連は、①ジャメとその家族の尊厳と身の安全、人権を侵害しかねない「法的措置」を一切取らない、②ジャメにガンビアへの帰国の自由を認め、ジャメが“合法的に”所有する財産を没収することもないとの共同宣言を出していますが、国庫からの資金の持ち出しは明白な犯罪ですから、当然、没収の対象となります。ただし、ジャメの亡命先である赤道ギニアは、国際刑事裁判設立条約である“ローマ規程”に署名していないため、赤道ギニア当局がジャメの身柄をガンビア側に引き渡す可能性は低いとみられており、バロウ新政権にとっては、財政難に頭を抱えながらの苦難の船出となりました。


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 チャンドラ・ボース生誕120年
2017-01-23 Mon 12:30
 インドの独立運動家、スバース・チャンドラ・ボースが1897年1月23日に生まれてから、今日でちょうど120年です。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      インド・チャンドラボース生誕100年

 これは、1997年1月23日にインドが発行した“スバース・チャンドラ・ボース生誕100周年”の記念切手です。

 スバース・チャンドラボースは、1897年1月23日、ベンガル州カタク(現オリッサ州)の弁護士の家庭に生まれました。カルカッタ大学在学中、英国人教師の人種差別的な態度に抗議して学生ストライキが発生すると、ボースは首謀者とみなされて停学処分となりましたが、ともかくも同大を卒業。1919年、英国に留学しました。

 1920年、インド高等文官試験に合格したものの、英国の植民地支配に奉仕することを潔しとせずに資格を返上します。翌1921年、マハトマ・ガンディーの“不服従運動”に参加しましたが、ガンディーの非暴力主義には強く反対。1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも、逮捕・投獄されマンダレー(ビルマ)に流刑となり、釈放後の1930年にはカルカッタ市長に選出されたものの、植民地政府の手により免職されました。

 1938年、ガンディーの推薦を受けて国民会議派議長に選出され、インド独自の社会主義“サーミヤワダ”を提唱し、若年層・農民・貧困層の支持を獲得。これに自信を得たボースは、議長はガンディーの指名によって決められるという慣例を破って、議長選挙に立候補し、ガンディーの推薦するボガラージュ・パタビ・シタラマヤに大差をつけて勝利しました。しかし、この結果、ガンディーを支持する国民会議派の多数派の支持を失い、ほどなくして、議長辞任を余儀なくされました。

 議長辞任後の1939年9月、英独開戦を知ると、これを独立運動の好機ととらえたボースは武装闘争の準備を開始。さらに、翌1940年6月、フランスが降伏し、7月にはドイツによる英本土上陸作戦の前哨戦としてバトル・オブ・ブリテンが始まると、ボースはガンディーに対して、反英レジスタンス蜂起のためのキャンペーンを行うよう要求。ガンディーはこれを時期尚早として退けましたが、ボースは大衆デモの煽動と治安妨害の容疑で逮捕されました。

 獄中でのボースは、ハンガーストライキを行い、衰弱のため仮釈放されていた12月にインドを脱出。アフガニスタン経由で、ソ連に亡命しようとしましたが、アフガニスタン駐在のソ連大使がボースの入国を認めなかったため、1941年4月2日、ベルリンに逃れます。

 ベルリンに到着したボースは、4月9日、ドイツ外務省に対して、インドでの独立派の武装蜂起と枢軸国軍によるインド攻撃を提案。ドイツ外務省は情報局内に特別インド班を設置し、1941年11月には“自由インドセンター”を創設。同センターはインドに対する宣伝工作を行うとともに、北アフリカ戦線で捕虜となったインド兵から志願者を募り自由インド軍団(兵力3個大隊、約2000人)を結成しましたが、対英和平の可能性を探っていたヒトラーは、インド独立への支持を明らかにすることは和平交渉の生涯になると考え経ていたため、おおむね、ボースらの独立運動には冷淡でした。

 一方、日英開戦が現実のものとして迫りつつあった1941年9月、日本の陸軍参謀本部はアジア各地のインド人の反英闘争を組織化するため、バンコクで“藤原機関”を結成。同年12月、いわゆる太平洋戦争(大東亜戦争)がはじまり、日本軍がマレー半島に進攻すると、藤原機関は英軍の中核を占めるインド人兵士への降工作を行い、捕虜となった英印軍将兵の中から志願者を募って、インド国民軍を編制し、マレー半島西岸の街アロースターで投降してきたモーハン・シン大尉がその司令官に就任していました。

 インド国民軍はインド独立を最終目標と掲げ、白人支配からアジアを解放するためことを大義名分として掲げ、1942年8月には4万2000の兵力を擁するまでに成長しましたが、司令官に就任したシンにはその地位に見合った能力がなく、軍内は混乱。このため、インド独立運動の指導者として声望の高かったスバース・チャンドラ・ボースが招聘されることになります。

 こうして、1943年5月、ボースはドイツから日本に渡り、当時の首相・東条英機からインド独立のための支援の約束をとりつけ、シンガポールに乗り込み、同年7月2日、インド国民軍の総司令官に就任。10月21日にはシンガポールで結成された“自由インド仮政府”の首班に就任しました。

 日本政府は、はやくも同月23日、自由インド仮政府を承認。同政府首班としてのボースは、11月5-6日、日本の戦争目的である“アジア解放”を宣伝するために東京で開催された“大東亜会議”にオブザーバーとして招聘され、日本軍の占領下に置かれていたアンダマン・ニコバル諸島を同政府の統治下に置くことが決定されています。

 ところで、日本占領下のビルマから国境を越えてインドへ進攻しようというプランは、日英開戦後の早い時期から検討されていましたが、1943年11月の大東亜会議でボースがその実施を要請し、首相・東条英機がこれを強く支持したこともあって、1944年3月8日、ビルマとの国境に近いインドの都市インパールの攻略作戦が発動されます。

 日本軍は、インド国民軍とともに、4月29日の天長節までにインパールを攻略することを目標としていましたが、その作戦計画は補給面を軽視するなど杜撰なものでした。このため、日本軍はいったん、インパール近郊のコヒマを占領したものの、ジャングル地帯での作戦は困難を極め、空陸からの英軍の反攻が始まると前線は補給路を断たれて餓死者が大量に発生。最終的に、インパール作戦での日本側の損害は、戦死3万、戦傷4万2000を数え、ガダルカナルの4倍以上の被害を蒙り、惨憺たる結果に終わりました。

 インド国民軍は、その後もイラワジ会戦などで日本軍とともに英軍と戦ったものの敗走を重ねます。さらに、ビルマでは、敗色濃厚となった日本軍の能力を見限ったアウン・サン率いるビルマ国軍が反ファシスト人民解放連盟を組織し、日本軍から離反したため、仮政府とインド国民軍は、日本軍とともにビルマからタイに撤退し、そこで終戦を迎えました。

 日本が降伏すると、ボースは戦後の東西冷戦を見越して、イギリスの“敵の敵”であるソ連に渡って独立闘争への支援を得ようとしましたが、1945年8月18日、移動中の台湾で飛行機事故により死亡。彼の死により、仮政府は自然消滅状態となり、インド国民軍も英軍に降伏しました。

 戦後、英植民地政府はインド国民軍幹部を英国王に対する反逆罪で裁こうとします。しかし、ガンディー率いるインド国民会議派と一般のインド国民の激しい抗議活動にあい、被告は釈放。現在でも、チャンドラ・ボースをはじめとする仮政府幹部はインド独立の志士として、インド国民の尊敬を集めています。

 ちなみに、ことし(2017年)は、インド独立70周年にして日印文化協定発効60周年にあたっていることから、日印両国においてさまざまな交流事業を実施する“日印友好交流年”だそうですから、この機会に、ボースの波乱に満ちた生涯を切手や郵便物でたどってみるのも面白いかもしれません。


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 50歳になりました。
2017-01-22 Sun 12:18
 私事ながら、本日(22日)をもって50歳になりました。「だからどうした」といわれればそれまでなのですが、せっかくの“ゴールデン・ジュビリー”(ジュビリーは25年に1度の記念日・祝祭のことで、ゴールデン・ジュビリーは50周年)ですから、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      英国・ペニーポスト50年記念葉書

 これは、1890年に英国で発行された“1ペニー郵便50周年記念”の葉書です。

 英国では、ヴィクトリア女王の即位50周年にあたる1887年から新デザインの普通切手が発行されており、これらは“ジュビリー・イッシュー”と呼ばれています。しかし、ジュビリー・イッシューは、たまたま1887年から発行が開始されたというだけであって、それj体には、女王の即位50周年を寿ぐ意図はありませんでした。

 ところが、“ジュビリー・イッシュー”という名称が当初から定着したことで、1889年になると、翌1890年の郵便改革の“ゴールデン・ジュビリー”の記念事業を行うべきとの声が上がるようになり、1890年5月16日から19日までロンドンのギルドホールで、7月2日にサウス・ケンジントン博物館(現ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)で記念の展覧会が開催されることになりました。

 今回ご紹介の葉書は、このうちのギルドホールでの展覧会に合わせて発行されたものです。1890年当時の英国の葉書料金は半ペニーでしたが、今回ご紹介の葉書は、通常の葉書にはない記念の文字やイラストなどが入っていることから、額面は1ペニーに設定されました。ちなみに、英国で切手を貼って私製はがきを差し出す場合の料金が官製葉書と同じになるのは1894年のことで、それまでは、私製はがきは書状料金と同額の1ペニーの切手を貼って差し出す必要がありました。このため、1894年の私製はがきについては、ポストカードと区別して“レターカード”ということもあります。

 また、この葉書の額面は1ペニーでしたが、会場での販売価格は、ローランド・ヒル記念基金への寄付金込みで1枚6ペンスでした。額面との差額が大きかったにもかかわらず、葉書は人気を博し、5月16日の午後10時には当初用意されていた1万枚は完売となり、2000枚が追加発行されています。

 なお、今回ご紹介の葉書の発行の名目となった1840年の英国の郵便改革については、拙著『英国郵便史 ペニー・ブラック物語』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 トランプ新大統領就任
2017-01-21 Sat 10:13
 昨年11月の米大統領選挙で当選したドナルド・トランプが、20日正午(日本時間21日午前2時)、首都ワシントンの連邦議会議事堂前での大統領就任式で宣誓し、第45代米国大統領に就任。新大統領は就任演説で、“米国第一”主義を宣言し、「我々は二つの簡単なルールに従う。米国製品を買い(バイ・アメリカン)、米国人を雇う」と述べました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米・FDR就任記念カバー(アメリカ製品購入)

 これは、1933年3月4日、フランクリン・デラノ・ローズヴェルト(ルーズヴェルトとも。以下、FDR)の大統領(1期目)就任記念のカバーで、大恐慌からの脱却のための方策としてFDRが選挙中に掲げていた“バイ・アメリカン”のスローガンの書かれた封筒に切手を貼り、就任式当日のFDRゆかりのニューヨーク市庁舎別館局の消印が押されています。

 大恐慌の最中に成立したFDR政権は、世界的な保護貿易主義の高まりを反映して、はやくも1933年、バイ・アメリカン法(Buy American Act of 1933)を制定しました。これが、“バイ・アメリカン法”のルーツで、同法の規定そのものは現在も残っているほか、各州においても同様のバイ・アメリカン法が制定されています。

 その後、米国が1947年にGATT(貿易と関税に関する一般協定)および1995年にGATTの規定を事実上吸収したWTO協定(世界貿易機関を設立するマラケシュ協定)の政府調達協定(GPA)の締約国になったため、協定締約国についてはバイ・アメリカン法の適用が免除されることになりました。逆に、中国、インド等の非加盟国・地域に対しては、現在でもバイ・アメリカン法の完全適用が可能になっています。また、国防省工兵隊など一部に除外規定があるほか、州政府レベルでWTO協定の対象となっているのはカリフォルニアなど37州にとどまっています。

 ちなみに、トランプ新大統領が何かと槍玉にあげているメキシコはGPAの加盟国ではありませんが、NAFTA(北米自由貿易協定)の加盟国として、同協定で加盟国は相互に国産品優先調達を廃止することが合意されていることをもって、バイ・アメリカン法から除外されてきました。

 トランプ新政権が強調する“バイ・アメリカン”ですが、じつは、オバマ前政権も2009年に景気対策として打ち出したことがあります。この時は、景気対策によって実施される公共工事の調達において、バイ・アメリカン法を適用し、米国製鉄鋼および製造品の使用を義務づけたもので、当初の法案では、GPAやNAFTAなどによる除外が考慮されておらず、保護主義的な側面が強かったために国際的な非難を浴び、諸協定で定められた対象諸国が適用を除外されるように修正されて議会を通過したという事情がありました。

 それにしても、あまりにも先鋭化した左派リベラルの跋扈に辟易とした善男善女の支持を集めて大統領に当選したトランプが、米国の左派リベラルの源流ともいうべきFDRの金看板(の一つ)を就任式で強調するというのも(しかも、2人とも、ニューヨークの出身!)、なんだか歴史の皮肉を感じさせますな。もっとも、左派リベラルが反国家と直結しがちなどこかの国と違って、保守であれ、リベラルであれ、国益が第一という大原則は変わらないのだと言われれば、それまでなのですが…。


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 きょうからJTPC展です
2017-01-20 Fri 10:29
 きょう(20日)から、東京・目白の切手の博物館で第8回テーマティク出品者の会(JTPC:Japan Thematic Philatelists Club)の切手展がスタートします。今回は、地図の歴史を題材とした作品を御出品の西海隆夫さんの御尽力で、きょう・あす(20・21日)の2日間、下のデザインのような小型印が使用されます。(画像はクリックで拡大されます)

      テーマティク出品者の会小型印(2017)

 小型印のデザインの元になっているのは、17世紀のオランダを代表する地図出版家ホンディウスの後継者、ヤン・ヤンソンによる日本地図「日本、蝦夷地、および隣接する島々の新詳細図」です。デザインの都合上、“蝦夷地”の部分が印影の中には入っていないのですが、この地図は、1643年のマルチン・ゲルリッツエン・フリースによる日本北方の探検航海の成果を踏まえ、北海道と千島列島の一部を記載した最初期のものとして知られています。

 ちなみに、日本列島を取り上げた西洋の古地図の切手としては、こんなモノがあります。

      輸入博名古屋

 これは、1985年4月5日に発行された“輸入博名古屋”の記念切手で、アブラハム・オルテリウス による世界地図帳『世界の舞台』(原題はTheatrum Orbis Terrarum)」の1595年版に掲載された日本列島の古地図が取り上げられています。

 1970年代に発生した2度のオイルショックとそれに伴う原料価格の高騰は日本の製造業にも大きな打撃を与えましたが、日本企業は徹底した合理化と品質改善でそれを乗り切り、その結果として、高品質・低価格の日本製品は世界市場を席捲するようになりました。しかし、集中豪雨的とも呼ばれた日本製品の輸出により、各国の製造業は大きな打撃を受け、1980年代以降、日本と各国との貿易摩擦が深刻な外交問題となりました。

 特に、米国では、日本車の輸出攻勢により自動車産業が壊滅的な打撃を被っていたのに対して、アメリカの代表的な輸出品である農産物に関しては、国内農家保護のための日本の輸入制限措置により牛肉などの畜産物やオレンジ、米などがほとんど日本市場に出回らないのは不公平であるとの不満 が高まり、対日感情が悪化していきました。

 このため、米国をはじめ各国との貿易摩擦解消の必要に迫られた日本政府は、さまざまなかたちで輸入促進キャンペーンを展開しましたが、その一環として、1985年3月21日から4月14日の日程で、「広げよう世界交易の輪」のテーマの下、名古屋市国際展示場で“輸入博名古屋(ワールド・インポート・フェア・ナゴヤ’85)”が開催されました。ちなみに、主催者のワールド・インポート・フェア・ナゴヤ’85実行委員会は、開催の趣旨を「世界各国の製品を展示、取引の促進を図り、円滑な経済関係の増進に寄与するとともに各国の技術、文化、生活などを広く紹介し、国際交流の推進を図ること」と説明しています。

 会場は、①カルチャーゾーン(テーマ館および国際友好館で構成)、②トレードゾーン(世界産品の展示)、③バザールゾーン(展示即売会と世界の街並みで構成)、④イベントゾーン(各種イベントの実施)の4区画で構成され、「広げよう世界交易の輪」をテーマに世界40ヵ国が参加しました。

 輸入博名古屋の開催に際しては、国策としての輸入促進に携わる通商産業省(以下、通産省)の申請により、会期中の4月5日に記念切手が発行されました。4月5日という日付は、会期初日ではありませんが、これは、通産省からの書類提出が前年度の特殊切手発行計画の申請締め切りに間に合わなかったため、年度をまたいで4月発行としただけで、特に重要なイベントなどがあったわけではありません。なお、原画作者は大谷文人で発行枚数は2500万枚でした。

 切手に取り上げられた古地図はアブラハム・オルテリウス による世界地図帳『世界の舞台』(原題はTheatrum Orbis Terrarum)」の1595年版に掲載されたもので、オリジナルはイエズス会士でスペイン王室の地図製作者だったポルトガル人、ルイス・テイセラが制作しました。

 ただし、テイセラ本人は日本を訪れたことがなく、この地図は、1579年に来日したイエズス会士アレッサンドロ・ヴァリニャーノが持ち出し、天正遣欧少年使節がヨーロッパにもたらした日本人作成の日本地図(奈良時代の僧・行基が作成したとされる日本最初の日本全図“行基図”の写しと思われる)をもとに作成されています。

 テイセラのオリジナルの地図では、Vacasa(若狭)、Sacay(堺)、Tonsa(土佐)などの地名も書き込まれていますが、切手の図案化に際しては、それらは省略されています。また、オリジナルの地図では日本を示す“IAPONIA”の表示は、音節ごとに区切られて本州部分に小さく記されているのみですが、切手では、各地の地名を省略していることもあって、中央に大きく表示されています。

 なお、テイセラの地図が切手の題材として選ばれたのは、会場内のテーマ館ではさまざまな世界地図の展示が行われましたが、そのメインの展示物がこの地図であったためです。
 
 さて、JTPCは、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。今回の展覧会は、昨年に続き8回目の開催で、会場では古地図を図案としたフレーム切手等も販売します。会期は22日までで、僕も、昨年のニューヨーク展に出品した作品 A History of Hong Kong を出品しております。また、最終日(22日)の午後3時頃からは展示作品の解説も行う予定です。入場は無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。


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 ガオの仏海兵隊基地
2017-01-19 Thu 10:24
 マリ北部・ガオの軍事キャンプで、きのう(18日)、爆発物を積んだ自動車による自爆テロがあり、これまでに少なくとも42人が亡くなり、100人以上が負傷しました。実行犯の5人は全員死亡しており、アルカイダ系の流れをくむイスラム過激派組織“アル・ムラビトゥーン”が犯行声明を出しています。というわけで、亡くなられた方々の御冥福と負傷された方々の一日も早い御快癒をお祈りしつつ、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ガオ・フランス海兵隊基地

 これは、1960年4月16日、マリ連邦時代のガオに置かれていたフランス海兵隊基地から差し出された軍事郵便で、“海兵隊第20大隊/ガオ/郵便担当”の青紫色の印も押されています。すでに、前年の1959年にマリ連邦は結成されていましたが、消印は仏領スーダン時代のものがそのまま使用されています。

 さて、マリ北部、ニジェール川沿いのガオは、西暦7世紀前後に建設された都市カウカウがそのルーツで、トンブクトゥジェンネとともにサハラ交易で繁栄。ソンガイ帝国の首都として、15世紀には7万人の人口と1000隻の舟を擁していましたが、1591年にモロッコの侵略を受けて破壊され、衰退しました。

 1880年、現在のマリに相当する地域は“オート・セネガル植民地”としてフランス植民地政府の支配下に置かれ、1890年には仏領スーダンが発足します。首都は、当初はカイに、1899年以降はバマコに置かれましたが、この両都市はいずれも仏領スーダン内では南西部に偏っていたため、北部の交通網の拠点として、フランス当局はガオに注目。港湾施設が整備されるとともに、都市のインフラ整備がすすめられました。 

 ちなみに、フランスの海兵隊(Troupes de Marine)は、1622年にリシュリューにより創設され、当初は艦上勤務を専門とする通常の海兵隊でした。その後、植民地警備が主任務となり、1900年には陸軍に移管され、事実上の陸軍部隊として植民地の防衛・警備を担当するようになりましたが、“海兵隊”の名称はそのまま維持されました。内陸部のガオに“海兵隊”の基地がおかれていたのもそうした事情によるものです。

 今回のテロ事件のあった軍事キャンプは、このフランス海兵隊の基地を継承したもので、2015年にバマコのマリ政府と北部の武装勢力との間で和平合意が成立した後、政府軍の兵士と、軍と協力する武装勢力のメンバーらが駐屯していました。

 なお、マリとその歴史については、拙著『マリ近現代史』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 岩のドームの郵便学(47)
2017-01-18 Wed 10:58
  『本のメルマガ』631号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、1985年のアンマン合意について取りあげました。その記事の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      ヨルダン・フセイン国王50歳

 これは、1985年にヨルダンが発行した国王50歳誕生日の記念切手で、国王の肖像とともに岩のドームが取り上げられています。

 1983年末のエジプトとPLOの和解を受けて、1984年1月、ヨルダンのフセイン国王は議会を再開し、パレスチナ人の有力者である(イスラエル占領下の)ヨルダン川西岸住民代表の政治参加を制度的に復活させることによって、パレスチナ問題解決への積極姿勢を示します。これを受けて、2月にはアラファトがフセイン国王と会談しました。

 ヨルダンとPLOの関係は、1970年9月、PLO内でファタハに次ぐ勢力を誇っていたゲリラ組織、パレスチナ解放戦線(PFLP)がアラブ諸国とイスラエルとの和平交渉を妨害するため、欧米系航空会社の旅客機5機をハイジャックし、うち3機をヨルダンのドーソン基地に強制着陸させ、爆破・炎上させた“ブラック・セプテンバー事件”を機に断絶していました。

 PLO内で反主流派の突き上げにあっていたアラファトは、ヨルダンとの関係修復という功績により、PLO内の権力基盤を維持しようとしたのでえす。

 一方、パレスチナからの難民を多数自国内に抱えるヨルダンとしては、PLOが自国の体制に脅威を与えない穏健組織となったうえで、自らがパレスチナ和平に向けてのイニシアティヴを握ることが外交上、重要な課題となっていました。

 かくして、アラファトとの会談後、フセイン国王は、1984年3月頃より米国の中東政策への批判を強め、ソ連を含む国際会議の開催を提唱するようになります。

 こうした国王の動きを受けて、当事者であるPLO内部では4月下旬にアラファト派と中間派が和解し、9月15日までにパレスチナ民族評議会(PNC)を開催することなどを定めた“アデン合意”が成立します。ただし、反アラファト派はアデン合意に強く反発し、かえって、アラファト派と反アラファト派の反目は強まりました。

 その後、7月にはソ連が中東和平提案を発表して国連の下での国際会議開催を提唱。9月にはイスラエルで対パレスチナ強硬派のイツハク・シャミール政権に代わり、穏健派のシモン・ペレス労働党党首を首班とする労働党・リクード連立政権が成立したほか、ヨルダンとエジプトが外交関係を再開しています。

 こうして、全体に宥和ムードが漂う中、1984年10月、ヨルダンの首都アンマンで第17回PNCが開催されました。

 議場では、フセイン国王が中東問題の解決に向けてのPLOとの共同行動を進める意欲を示したほか、アラファトも自らの指導体制の再確立を図るとともに、エジプトおよびヨルダンとの関係強化の方針を強調。しかし、PLO反アラファト派は、そもそも、このときのPNCを正規の開催とは認めず、議会を欠席。あらためて、PLO内部の亀裂の深さをうかがわせました。

 その後、PLOアラファト派とヨルダンは“共同行動”の可能性について協議を重ね、翌1985年2月11日、両者の間でいわゆる“アンマン合意”が成立します。

 その骨子は、①国連決議第242号(1967年の第3次中東戦争の戦後処理として、イスラエルに占領地から撤退することを求める一方で、アラブ側にはイスラエルの生存権を認め、イスラエルと共存することを求めている)を履行すること、②安保理常任理事国およびヨルダン、PLOを含むすべての関係当事国の参加する国際会議を開催すること、③ヨルダン川西岸地区でヨルダンとパレスチナの連合政府をつくる、の3点です。

 アンマン合意を受けて、エジプト大統領のホスニー・ムバーラクは、2月25日、米国がヨルダン=パレスチナ合同代表団との対話を開始する→合同代表団とイスラエル代表団との対話を行う→国際会議を開催するという、プロセスを示した“ムバーラク提案”を発表しました。

 当時の米国は、PLOを“テロリスト”と認定し、公式にはPLOとの交渉は拒否していましたから、3月12日、ムバーラクは米大統領のロナルド・レーガンと会談し、米国にPLOを含む合同代表団との対話を開始することの必要性を説いています。もちろん、この時の会談のみで米国がPLOのテロリスト認定を解除したわけではありませんが、4月13日には米国務次官補のロバート・マーフィーが中東諸国を歴訪して、和平プロセスの新たな進展を模索するなど、パレスチナ和平には何らかの進展がみられるかと期待されました。

 今回ご紹介の切手は、こうした情勢を反映して、1985年11月の国王50歳誕生日にあわせて発行されたもので、国王の肖像とともに、1967年までヨルダンの統治下にあった岩のドームをとりあげ、アンマン合意以降、ヨルダンがパレスチナ和平の進展に向けて主導的な役割を果たしていることをアピールしています。

 ところが、肝心のPLO内部では、反アラファト派が国連決議第242号に謳われた“イスラエルの生存権承認”の一項を頑として認めず、調整は難航。結局、アンマン合意から1年後の1986年2月、フセイン国王は合意を白紙撤回し、和平工作の中断を宣言せざるを得ませんでした。

 これにより、ヨルダンとPLOとの関係を完全に断絶したわけではなかったものの、アンマンに開設されたPLOの連絡事務所は閉鎖され、国王は、連合政府構想を撤回したうえで、①西岸地区のパレスチナ人の経済的福祉についてはヨルダンが責任を負う、②ヨルダン政府が実施する5ヵ年計画は西岸地区に対しても適用される、③ヨルダン国会におけるパレスチナ人の議席割り当てを増やす、方針を明らかにします。

 以後、フセイン国王は、イスラエルが存在しているという現実を踏まえたうえで、ヨルダン=パレスチナ=イスラエル3者による統治機構を作り、それによって、西岸地区をPLOから“独立”させ、部分的にせよ、西岸地区に対するヨルダンの主権を回復することを施行するようになりました。

 その後も、PLOはアンマン合意の継続を模索したものの、最終的に、反アラファト派の強硬論に引きずられるかたちで、1987年、アンマン合意を破棄。このように、イスラエルとの共存(=イスラエルの生存権承認)という点で、組織としての意思統一に失敗したPLOに対しては、西岸地区のパレスチナ人の間にも失望の声が大きく、そのことが、やがて、第1次インティファーダの導火線になっていくのです。


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 キルギスで貨物機墜落
2017-01-17 Tue 09:49
 中央アジア・キルギスの首都ビシュケクのマナス国際空港近くで、きのう(16日)、香港を出発し、ビシュケク経由でイスタンブルに向かう途中だったトルコの航空貨物会社ACT航空の貨物機が住宅地に墜落。この事故で、43棟が損壊し、この記事を書いている時点で、住民と乗員5人を合わせて約40人が亡くなりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・マナス国際空港(1982)

 これは、旧ソ連時代の1984年に発行された切手つき封筒で、マナス国際空港が描かれています。
 
 もともと、ビシュケクの国際空港としては、首都南郊の旧フルンゼ空港がありましたが。これに代わる新空港として市街地の北西に建設されたのがマナス国際空港です。同空港は、1974年10月、当時のソ連首相アレクセイ・コスイギンを乗せた1番機が着陸して運用が開始され、1975年5月4日にはアエロフロートのモスクワ便が定期就航しています。

 マナスという空港名は、キルギスに伝わる英雄叙事詩の『マナス(マナスエポス)』に由来するものです。

 『マナス』はキルギスの伝説の王マナスと父のジャキルハーン、息子のセメティ、孫のセイテクを中心に、キルギスの民が団結し、カルマク(モンゴル系のオイラート)やクタイ(キタイとも。中国、契丹とみられている)等の敵と戦って勝利する物語や騎馬民族の文化、中央アジアの自然などを歌い上げた壮大な叙事詩で、19世紀に文書化されるまで、長らく口承によって伝えられてきました。その分量は50万行以上にも及び、世界で最も長い詩とされています。

 ロシア帝国の時代、西トルキスタンは1867年に設置されたトルキスタン総督府の支配下に置かれており、現在のキルギス国家の領域は、北部はセミレチエ州、南部はフェルガナ州の一部となりました。

 トルキスタン総督府の支配下で、セミレチエ州はロシア人農民の入植地となっていましたが、第一次大戦後中の1916年、戦時動員に対する反発から中央アジア全域で大規模な反乱が発生すると、セミレチエ州では、キルギス人とロシア人の間で大規模な衝突が発生し、流血の惨事が発生します。

 さらに、1917年のロシア革命後、旧トルキスタン総督領ではトルキスタン自治政府が成立しましたが、自治政府は赤軍の攻撃により崩壊。1918年2月、ソヴィエト共和国としてトルキスタン自治共和国が成立し、モスクワから派遣されたトルキスタン委員会の指導下に置かれました。

 1922年末にソヴィエト社会主義共和国連邦が成立すると、中央アジアでは民族別の領域区分が導入されることになり、1924年、民族・共和国境界画定が行われます。これにより、キルギス人の居住地域は、ロシア共和国に帰属するカラ・キルギス自治州とされました。カラ・キルギス自治州は、1925年にはキルギス自治州に改称され、1926年にキルギス社会主義自治共和国となります。その後、1936年、自治共和国は、ソ連邦の構成共和国として、キルギス・ソヴィエト社会主義共和国に昇格しました。

 スターリン体制の下では、“民族主義”は厳しく弾圧されていましたが、キルギスの『マナス』は(非ロシア人の)敵との戦いを強調する内容から、戦意高揚の役割を担うものとして、例外的に高い評価を受けていました。さらに、1960年代以降、中ソ対立が激しくなると、中国と思しきカタイ(キタイ)を打倒したマナス(王)の名を冠した施設が首都フルンゼ(現ビシュケク)に複数つくられます。今回ご紹介のマテリアルのマナス国際空港も、そのひとつです。

 なお、1991年のソ連崩壊によるキルギス独立当初、マナス国際空港は利用者が激減し寂れていましたが、2001年12月、国連の承認に基づきアフガニスタンにおける対テロ戦争支援の拠点としてマナス米空軍基地が設置され、米軍部隊が駐留するようになりました。

 今回の事故原因は現在調査中ですが、キルギスのアブルガジエフ副首相は国営テレビに対し、「予備段階の情報によれば、飛行機の墜落はパイロットのミスによるもの」だと説明しているそうです。亡くなられた方の御冥福をお祈りするとともに、住宅損壊の被害に遭われた皆様には心よりお見舞い申し上げます。


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 アタリの番号は45と51
2017-01-16 Mon 10:24
 “平成29年お年玉付年賀はがき”の抽選会が、きのう(15日)、愛知県・名古屋市のJPタワー名古屋で行われ、年賀小型シートの当選番号は45と51に決まりました。というわけで、例年どおり、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      年賀小型シート(2017)

 これは、きょう(16日)から引換が始まった今年(2017年)の年賀小型シートです。かつて成人の日が1月15日に固定されていた時代には、年賀はがきの抽選が成人式と並ぶ1月15日の風物詩となっていたわけですが、いわゆるハッピーマンデーの導入により、成人の日が1月の第2月曜日となったことで、その前提が大きく変わってしまい、抽選日も近年は1月後半の日曜日ということで毎年変わっています。

 また、例年は年賀小型シートは郷土玩具を描いた年賀切手と同じものを収めたものでしたが、今回は、通常のシート切手とは別に、オリジナルデザインの“おんどり”の82円切手と“めんどり”の52円切手を1枚ずつ収めた構成となりました。ちなみに、平成29年用の年賀切手のうち、葉書用の52円切手の題材には、“倉敷はりこ”の酉が取り上げられています。そのくじ付き切手が貼られた年賀状の1枚にもアタリの51がありましたので、ご参考までに、シート交付時の手続きとして、丸に“交”の表示をしたうえで、消印を押した状態の画像を貼っておきます。

      年賀切手(2017・交付済)

 ちなみに、今回のシートの切手について、日本郵便のプレスリリースでは以下のように説明しています。

 2017(平成29)年の干支である酉(にわとり)を題材にし、年間を通してご利用いただけるデザインとしました。シート全体を絵本のようなポップなタッチでまとめ、切手部分に、愛嬌あるニワトリのつがいを描いています。
 背景は、金色・銀色を使用した色鮮やかなデザインとし、花模様等の穴を空ける特殊加工も施しています。

 郷土玩具のデザインの切手が“年間を通して”は使いづらいかどうかはともかく、東欧の切手を思わせるようなデザインは、日本では今までにない試みで個人的には面白いと思います。また、プレスリリースにある“花模様等の穴を空ける特殊加工”については、シートの裏側から見るとわかりやすいので、その画像も貼っておきましょう。

      年賀小型シート(2017・裏)

  なお、お年玉の小型シートの歴史や、年賀切手と切手に取り上げられた郷土玩具については、拙著『年賀状の戦後史』でも詳しくご説明しておりますので、この機会に、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

 * 僕宛の今年の賀状の中では、小林照幸さん、重山優さん、正田幸弘さん、田元良樹さん、松尾謙一さん、山内和彦さん(50音順)から頂戴した6通がアタリでした。この場をお借りして、お礼申し上げます。
  

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 PETAの故地 ボゴール
2017-01-15 Sun 17:28
 東南アジアとオーストラリア4カ国を歴訪中の安倍首相は、きょう(15日)、3カ国目となるインドネシアに到着し、ボゴールでジョコ大統領と会談するそうです。というわけで、ボゴールゆかりの切手のなかから、きょうはこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      インドネシア・PETA(1998)

 これは、1998年にインドネシアがPETA(Tentara Pembela Tanah Air:郷土防衛義勇軍。以下、ペタ)を題材に発行した寄附金つき切手です。

 日蘭開戦と前後して、日本軍は、オランダ領東インド(現インドネシア。以下、蘭印)の住民に向けて「日本は東亜の人々を白人の植民地支配から解放するために南進を始めた。次は蘭印へ進攻するから住民は協力せよ」との放送を行うなどのプロパガンダ工作を実施。ジャワ島占領後は、バンドンを拠点にムスリム工作を担当した第16軍治部隊参謀部別班(通称・ジャワ回教別班)が、オランダ統治下ではないがしろにされていたムスリム住民との連携を重視し、モスクの法学者に対しては一般公務員と同等の待遇とするなどの施策を行って、現地のムスリム住民から評価されていたほか、今回の安倍首相の訪問先であるボゴールには、ジャワ全島17州から優秀な青少年を集めて、ジャワ回教青年隊も組織されました。

 しかし、日本占領下の東南アジアの他の地域では、英印軍のインド人捕虜を中心にしたインド国民軍、アウン・サンらビルマの民族主義者らによるビルマ独立義勇軍が組織されたのに対して、ジャワでは、日本の軍政当局がインドネシアの民族独立を確約せず、1943年5月に設置された兵補の制度も、あくまでも現地住民は日本軍の補助兵力として扱っているだけでしたので、独立したインドネシア民族軍の創設を期待していた住民の間には少なからず不満もありました。

 その後、戦況が日本軍に不利になっていく中で、日本軍の兵力不足を補う必要が生じたこともあり、現地の民族主義運動およびイスラム指導者の建白書を容れるという形式をとって、1943年10月3日、ジャワ郷土防衛軍=ペタの設立が正式に決定されます。

 ペタの中心となったのは、ジャカルタ近郊のタンゲランでインドネシア人青年にゲリラ戦や情報戦の技術を教育していた“青年道場(インドネシア特殊要員養成隊)”の隊員で、これに、ジャワ回教青年隊の隊員が加わり、ボゴールに設立された幹部養成学校(義勇軍錬成隊)での各種訓練が実施されました。

 このボゴールの幹部養成学校を卒業した青年たちは、それぞれの故郷で、約500名規模のペタの大団を結成。ペタの兵士には日本軍の指揮下で、日本軍の歩兵操典をもとに厳しい訓練が行われ、その規模は、1945年8月の終戦時には、66大団、約3万6000人の規模にまで拡大しました。

 インドネシア独立宣言から2日後の1945年8月19日、敗戦国となった日本軍は、連合国の指示により、ペタを解散しますが、各地の元ペタ将兵らは組織と装備を維持しつつ、インドネシア国軍に参加。専門の軍事教育を受けた職業軍人として、オランダとの独立戦争で重要な役割を演じることになります。

 ちなみに、日本占領時代のペタから巣だって、独立戦争時のインドネシア国軍を指揮したスディルマン将軍の生涯は、インドネシアでは、両国の友好親善と防衛協力交流のシンボルとされており、2011年に訪日したインドネシアのプルノモ国防相は、ジョグジャカルタの歴史博物館にあるのと同じ将軍像を日本に寄贈。その像は東京・市ヶ谷の防衛省敷地内に建立されています。

 今回、安倍首相とジョコ大統領の会談の地として、ペタに所縁のボゴールが選ばれたのも、上述のような歴史的背景を踏まえてのことと思われます。

 なお、日本占領時代の蘭印については、拙著『蘭印戦跡紀行』でもいろいろ書いておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 尖閣諸島開拓の日
2017-01-14 Sat 15:18
 きょう(14日)は、1895年1月14日、日本政府が尖閣諸島の日本領への編入を閣議決定したことにちなむ“尖閣諸島開拓の日(尖閣の日)”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ギニアビサウ・尖閣(2012)

 これは、2012年にギニアビサウが発行した“尖閣諸島の風景”の切手で、左から、木白虹、尖閣諸島と五星紅旗(2種連刷)、アホウドリの切手の4種連刷構成となっています。

 さて、わが国は、1885年以降、沖縄県当局等を通じて尖閣諸島の現地調査を幾度も行い、無人島であるだけでなく、清国を含むいずれの国にも属していない土地(無主地)であることを慎重に確認したうえで、1895年1月14日の閣議決定で、尖閣諸島を沖縄県に編入しました。翌1896年、魚釣島と久場島はまもなく八重山郡に編入され、北小島、南小島と共に国有地に指定され地番が設定。同年9月、魚釣島、久場島、北小島及び南小島は実業家の古賀辰四郎に対して30年間無償で貸与されることになり(無償貸与期間終了後は1年契約の有償貸与)、1932年、4島は古賀辰四郎の嗣子である古賀善次に払い下げられ私有地となりました。

 古賀家の私有地として、尖閣諸島では、アホウドリの羽毛の採取、グアノ(海鳥糞)の採掘、鰹漁業、鰹節の製造等が行われていましたが、1940年頃、古賀善次は尖閣諸島での事業を撤退し、再び無人島となります。

 第二次大戦後の1946年1月29日、GHQは「外郭地域分離覚書」を発し、北緯30度以南の南西諸島の行政権は日本から分離されました。これに伴い、尖閣諸島は沖縄の一部として米国の施政権下に置かれることになりました。

 ところが、1969年、国連アジア極東経済委員会の海洋調査で、尖閣周辺にイラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告されると、1971年4月、台湾の国民政府が尖閣諸島の領有権を主張しはじめます。さらに、同年12月には、中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めました。しかし、そうした主張は国際的には全く相手にされず、1971年6月に沖縄返還協定が調印され、1972年5月に沖縄が祖国に復帰すると、尖閣諸島もそれに伴い、日本国沖縄県の一部となりました。

 これに対して、近年、中国は尖閣諸島への領土的野心を隠そうとせず、2008年以降、尖閣諸島沖の日本領海内での侵略行為を頻繁に繰り返しているほか、彼らの息のかかった反日団体を魚釣島西側の岩礁に不法上陸させるなど、まさにやりたい放題の状態になっています。

 また、中国側は“釣魚島(尖閣諸島の中国側の呼称)”の領有権を主張するための対外的なプロパガンダ攻勢を強めており、今回ご紹介の切手も、そうした風潮に迎合した北欧系の切手エージェントが、輸出商品として、ギニアビサウ郵政の名前で制作・発行したものです。中央の2枚の五星紅旗と尖閣の島影だけでなく、左端の木白虹には学名の“Crossostephium chinense”も記載されています。木白虹は、わが国の鹿児島県、トカラ列島以南(尖閣諸島も含む)から台湾、フィリピン、中国南部の海岸の隆起珊瑚礁に分布しており、決して、中国に固有の植物ではないのですが、あえて、“中国”を意味する学名の入った植物を持ってくることで、尖閣諸島が中国の領土であるかのようなイメージを強調しているわけです。

 ギニアビサウに限らず、一部の途上国にとって、切手の発行は外貨獲得のための輸出ビジネスの一つとなっています。国内での郵便への使用を想定せず、輸出ビジネスの一環として発行される切手は、収集家の間では“いかがわしい切手”として忌避される傾向にありますが、そうした切手を発行する側からすれば、“いかがわしい切手”であろうがなかろうが、よりマーケットで人気を得られるようなもの、すなわち、より多くの売り上げが見込めるものこそが適切であるということになります。“いかがわしい切手”を発行する国(正確にはそうした切手に発行者としての名義を貸す国)や、そうした切手を企画するエージェントにとっては、どれほど立派な主義主張や思想信条、愛国心などを掲げてみても、“商品”としてその切手が売れないのであれば、全く意味がないわけです。

 したがって、ギニアビサウと切手エージェントが、“日本領・尖閣諸島”の切手ではなく、“中国領・釣魚島”の切手を制作・発行したのは、彼らにしてみれば、単純に、日中の切手マーケットの規模の大小を反映したものであり、悔しかったら、“日本領・尖閣諸島”の切手がドル箱商品になるような市場を用意しろということになるのでしょう。

 しかし、そうした“市場原理”は否定できないにせよ、こうした切手がギニアビサウ国家の名前で発行されたという事実について、2012年の切手発行当時、日本政府がギニアビサウ政府に対して抗議しなかったとすれば(実際には、外務省はしかるべきアクションを起こしているのかもしれませんが、報道ベースでは、そうした事実は一切確認できませんでした)、国際社会からは、日本は中国の(理不尽な)主張を黙認していると取られかねないわけで、そのことの方が深刻な問題だと僕は考えています。

 なお、領土と切手をめぐる関係、そして、そうした問題に対する日本政府の対応の拙さについては、拙著『事情のある国の切手ほど面白い』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 シベリアでの赤化洗脳工作
2017-01-13 Fri 12:04
 きのう(12日)、外務省はあらたに外交文書24冊を一般公開しましたが、それにより、戦後、旧ソ連が抑留した日本軍捕虜を徹底した共産主義の思想教育で洗脳しようとした「赤化工作」の実態がかなり具体的に明らかになりました。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      シベリア抑留・1948(赤化) 
      シベリア抑留1948(赤化・裏)

 これは、第二次大戦後、シベリアに抑留されていた日本人男性が差し出した葉書で、1948年2月15日にウラジオストクを経由し、日本到着後、3月11日にGHQの検閲を受け、静岡県の宛先まで届けられています。

 いわゆるシベリア抑留者と日本との通信に使われた専用往復葉書(捕虜郵便用の料金無料葉書)については、さまざまタイプがあることが知られていますが、これはそのうちのタイプ3と分類されているモノ(右下に“No87”の表示がある)の往片です。

 1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲北朝鮮、千島、樺太に侵攻。捕虜となった旧日本兵に対して、ソ連側は「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシュケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。

 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。

 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。

 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。

 日本人捕虜に対する思想・洗脳工作の一環として、ソ連当局は、満洲から略奪してきた奉天(現・瀋陽)の満洲日日新聞社の活字と用紙を用いて(ただし、最初期は略奪資材が使えなかったため、印刷物としての品質はきわめて粗悪でした)、1945年9月15日から1949年12月30日まで、週3回、タブロイド判の『日本新聞』を全629号刊行しました。

 敗戦によって武装解除されたにもかかわらず、旧軍の秩序とそれに付随するさまざまな特権を維持しようとしていた将校・下士官への不満を募らせていた下級兵士の中には、“日本軍国主義”批判を展開する『日本新聞』の内容に対して一定の理解を示す者もあり、ソ連側は、そうした日本人捕虜を横断的に組織するためのメディアとして『日本新聞』を活用。1946年5月25日、同紙を使っての輪読・勉強会としての“日本新聞友の会”の結成を呼び掛けました。“友の会”では、ソ連側との交渉のやり方や編集部との連絡方法などが具体的に示され、“友の会”やこれを母体とする“民主グループ”は必然的に収容所内での主導権を握ることになります。

 さらに、1947年3月から4月にかけて、ハバロフスク地区の各収容所の民主グループの幹部57人を集めて約1ヵ月にわたりハバロフスク地区代表者会議が開催されます。徹底的な“学習”によって洗脳・思想改造された参加者は、活動分子(アクティブ)として収容所に戻り、所内につくられた反ファシスト委員会のメンバーとして“民主化”の名の下に、ソ連当局の意に沿わない“反動分子”や“ファシスト”の摘発に狂奔しました。摘発され、吊るし上げの対象となれば、食事の量を減らされたり、より過酷な重労働を課せられたりするため、多くの捕虜たちは面従腹背で“民主化運動”をやり過ごし、ときには、密告によってわが身を守るしかなかったことは、多くの抑留体験者の手記などによって広く知られています。

 今回ご紹介の葉書は、まさに、そうした収容所内の環境を反映したもので、以下のような文面がつづられています。(原文はカタカナ書きですが、読みやすさを考えて、漢字かな交じりに直しました)

 しばらくでした。皆様も元気のことと思います。私も至極元気で丸々と太って、毎日楽しくそして愉快に仕事をしております。
 そちらの様子は手紙によってはっきりわかっております。なぜそのようにつらいのか、苦しいのか、私はまた戦争はいかに悪いものかをはっきりと知りました。そして人間としての、正しい、生きがいのある本当に幸せな生きる道を知り、働く者の世の中でなければ、少しの人数の金持ちだけがうまいことをしている世の中では、働く者はいつまでたっても生活が楽にならず、幸せは絶対に来ないのです。この国の人は幸せな、そして私たちをこのように親切にしてくれます。では元気で頑張ってください。

 この葉書の差出人が、心底、ここに書かれているように思っていたのか、それとも、生き延びるために洗脳されたふりをしていたのかは定かではありませんが、ソ連当局としては、収容所で洗脳した捕虜たちが、帰国後、日本に共産主義勢力を扶植するための尖兵となることを期待していました。

 シベリアからの葉書は、日本到着後、検閲の対象となりましたが、今回ご紹介の葉書のように、占領日本の現状や資本主義体制を批判する内容の葉書などは、ソ連が米国による対日占領政策をどのように国民に説明しているのか、ソ連による洗脳工作がどの程度(元)捕虜の間に定着しているのか、さらに、元捕虜のうち日本における反米親ソ勢力の活動家(となる可能性が高い者)は誰かといった点で、東西冷戦が進行していく中で、重要な情報をもたらすものとなりました。

 一方、1947年後半以降、1949年8月11日に「引揚者の秩序保持に関する政令」(引揚者が船長や引揚援護局長の指示に従う義務を定め、違反者には1年以下の懲役もしくは1万円以下の罰金を科すことが定められていました)が公布されるまでの間、ソ連からの引揚船が入港した舞鶴や各地の引揚特別列車の停車駅などでは、“赤い帰還者”による騒擾事件が頻発。彼らの多くは、抑留体験を通じて、ソ連の意に背いた行動をとると帰国を取り消されて再びシベリア送りになると信じ込まされていた偽装共産主義者(表面だけ赤いという意味で“赤カブ”とも呼ばれました)だったとさていますが、そうした実情を知らない日本国民は当惑するばかりで、占領当局と日本政府は共産主義者が全国に拡散していくことへの警戒を強めることになります。

 さらに、1949年1月23日に行われた第24回衆議院総選挙では、吉田茂ひきいる保守系の民主自由党が264議席を獲得して大勝した一方で、日本共産党がそれまでの4議席から35議席へと劇的に躍進。ドッジラインの強行による深刻な経済不況の到来により労働運動は激化し、下山・松川・三鷹の三大事件が発生し、共産党の関与が疑われていた時期でもあり、「真の指導者(アクティブ)は港において早期に見付けられる事を防ぐために、蔭に潜み郷里において世論を基礎として潜かに活動する事を(ソ連に)許可された」 との認識の下、占領当局と日本政府は帰還した元捕虜を監視対象としていました。

 その際、ソ連を賛美し、日本の状況を否定的に述べていたり、アクティブであると推測されるような内容の葉書を書いたりした人物(今回ご紹介の葉書の差出人もその1人でしょう)は、当局の要注意人物のリストに加えられ、帰国後も苦難の日々を歩むことになったことは想像に難くありません。

 なお、シベリア抑留者の郵便については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 国旗を足元に置くべからず
2017-01-12 Thu 12:50
 アマゾン・ドット・コムのカナダのウェブサイトで、インド国旗をデザインした玄関マットが販売されていた問題で、同社は、きのう(11日)までに、インド政府の抗議を受けて、問題の商品の販売を中止しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      インド・独立記念切手(国旗)

 これは、1947年11月21日にはインドが発行した独立記念切手のうち、インド国旗を取り上げた3アンナ半の切手です。インドの独立は、今回ご紹介の切手にも表示されているように1947年8月15日ですが、記念切手の制作は正式独立を受けてからのことでしたので、発行日は11月21日までずれ込んでいます。なお、3アンナ半という額面は外信用の基本料金に相当しており、新生インドの国旗を広く国際社会に周知したいという意図を込めて、このデザインが選ばれたのではないかと考えられます。

 さて、現在のインド国旗は、1921年、マハトマ・ガンディーがインド国民会議に対して“スワラージ(民族自決・自治獲得)運動”の象徴として提案したデザインが元になっています。ガンディーの提案したデザインは、白・緑・赤のストライプにインドの伝統的な糸車を配したものでした。糸車は、英国の機械文明に対抗する意図を示すものとして、ガンディーらの主導したスワラージや英貨排斥・スワデーシー(国産品愛用)の象徴として用いられていたものです。これをもとに、1931年、国民会議は、現在のインド国旗と同じサフラン・白・緑のストライプに、青の糸車を配したデザインのスワラージ旗を制定します。

 1947年8月の独立を前に、同年6月23日、ラージェーンドラ・プラサード、 アブル・カラーム・アーザード、チャクラバルティー・ラージャゴーパーラーチャーリー、ビームラーオ・アンベードカルらの国旗制定委員会はスワラージ旗を元にした新国旗を策定。その際、国旗のシンボルは特定の共同体や運動を代表するものであってはならないという判断により、糸車のかわりに仏教のダルマ(法)を意味するアショーカ・チャクラ(法輪)を配したデザインが提案されます。

 これに対して、当初、ガンディーは新国旗でもスワラージ旗の糸車を継承することを主張していましたが、最終的に、国旗制定委員会の案を受け入れ、7月22日、制憲議会で原稿のインド国旗が満場一致で採用されました。ちなみに、国旗の3色のうち、サフランはヒンドゥー、緑はイスラム教、白は両宗教の和解とその他の宗教を表しています。

 さて、今回問題となった玄関マットについては、以下のような魚拓画像がネット上に残されていました。

      インド・国旗デザインの玄関マット
 
 日本の一部報道では“インド国旗に類似した模様の玄関マット”と説明されていましたが、商品の説明には、しっかり“Indian flag”と記されています。

 この玄関マットが販売されていることが明らかになると、インドのスワラジ外相はツイッターで「アマゾンは無条件で謝罪しなくてはならない。わが国の国旗を侮辱する全製品を直ちに撤去すべきだ」と抗議し、「これが即座に行われなければ、アマゾン関係者には一切ヴィザを発給しない。またこれまでに発給したヴィザも取り消す」と発言しました。国旗を踏みつけるということは、それ自体、どこの国でも非礼な行為ですが、特に、インドでは足は左手とともに不浄なものとされており、靴や足が他人に触れることもタブーとされています。そういう文化的背景を考えると、外相の怒りも(少なくともインド社会においては)至極当然のことです。

 そういうインド国民やスワラジ外相からすると、ソウルでしばしば行われる反日デモで日章旗が踏みつけられたり、北京の“中国人民抗日戦争記念館”ではガラス張りの床の下に日章旗を埋め込み、参観者は日章旗を踏みつけなければ一巡できない構造となっていることが報じられても、われらが日本政府は、さしたる抗議もせず、これを事実上黙認しているようにも見える事態は、明らかに異常なものと映るんでしょうね。情けない限りです。


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 世界の国々:チャド
2017-01-11 Wed 09:51
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年1月4日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はチャドの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      チャド・トゥーマイ

 これは、世界最古の人類化石、サヘラントロプス・チャデンシスの頭骨を描く2005年のチャド切手です。

 2001年、フランスのポワティエ大学のM.ブルネは、チャド北部のジュラブ砂漠の砂岩層から頭骨とあご2個、歯3本の化石を発見。化石は、出土したゾウやカバなど動物化石の分析や、年代が特定されている東アフリカの地層との比較などから約700万年前のものと推定され、脊柱が頭骨を下から支えている構造になっており、直立二足歩行をしていたことを示していることから、世界最古の人類化石と認定されました。

 化石は、サハラ砂漠南縁を指す“サヘル”と、チャドの国名にちなみ、“サヘラントロプス・チャデンシス”と名付けられましたが、同時に、“希望”を意味する現地語で、乾季直前に生まれた子に付けられることの多い“トゥーマイ”が愛称とされました。今回ご紹介の切手にも、右下に“トゥーマイ”の表示が見えます。

 さて、『世界の切手コレクション』1月4日号の「世界の国々」では、アフリカ連合(AU)によるダカール特別法廷で裁かれた元大統領、イッサン・ハブレとその時代についての長文コラムに加え、16世紀までに消滅したチャド文化、探検家ハインリヒ・バルトのの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、 「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のチャドの次は、18日に発売予定の1月25日号でのナミビアの特集(2回目)になります。こちらについては、発行日の25日以降、このブログでもご紹介する予定です。


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 ヴォドゥンの大祭
2017-01-10 Tue 11:43
 きょう(10日)は、年に一度のヴォドゥン(ブードゥー教)の大祭の日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ベナン・ヘビエッソへの生贄

 これは、1988年にベナンで発行された切手で、ニワトリを屠り、ヴォドゥンの雷神、ヘビエッソに捧げる祭礼の場面が描かれています。

 西アフリカおよびカリブ海地域のアフリカ系黒人の間で広く信仰されているヴォドゥンは、もともと、ベナンの最大民族であるフォン人の言葉で“精霊”を意味する言葉です。

 もともと、ヴォドゥン信仰は、西アフリカにおける太鼓を使った歌舞音曲や動物の生贄、シャーマンによる降霊などの儀式を伴う精霊信仰がその原型だったと考えられており、ベナンのフォン人のみならず、ナイジェリアのヨルバ人、トーゴのミナ人・カブイェ人、トーゴおよびガーナのエウェ人などの間で広く信仰を集めていました。

 現在のベナン国家のルーツにあたる旧ダホメ王国は奴隷貿易を行っていましたが、その支配下からカリブ海地域へ送られたフォン人伝来の精霊信仰がカトリックと習合する過程で、ヴォドゥンは“ヴードゥー”に転訛し、この名称が世界的に定着することになりました。

 なお、カリブのヴードゥーは、ハイチのマルーン(プランテーションからの逃亡奴隷)の指導者であったフランソワ・マッカンダルが発展させたもので、奴隷の信仰として、白人による弾圧を逃れる必要から、伝統的な精霊信仰に聖母マリアなどのキリスト教の聖人崇敬を組み込んでいるのが一つの特色です。このため、西アフリカの伝統的な精霊信仰とはやや趣を異にしていますが、一般には、両者は一括して “ヴードゥー”と呼ばれることも少なくありません。

 ヴォドゥンの信仰や文化は、西アフリカの自然や生活の中から生まれたもので、統一的な教義や教典はなく、組織化された教団もないため、民族・地域により大きな差があります。また、いわゆる布教活動も行われていません。このため、日本の宗教法人法によればヴォドゥンは“宗教”に該当しないことになります。

 しかし、ヴォドゥンを国教に指定しているベナン以外にも、2003年にはハイチのカトリック大司教もヴードゥーを“宗教”として認知していますし、ヴォドゥンを宗教もしくはそれに準じる民間信仰と認定している国も数多くあります。なお、ヴォドゥンおよび類似の信仰を有している人口は全世界で5000万人以上と推定されており、その規模は約3000万人といわれるチベット仏教をはるかに凌駕していることは見逃してはならないでしょう。

 今回ご紹介の切手の題材となっているヘビエッソは800にも及ぶヴォドゥンの神々のうち、最も多くの信者を集めている神の一つです。非業の死を遂げたジャンゴ(サンゴ、シャンゴとも)王はヘビエッソの化身だったとの信仰から、ジャンゴと呼ばれることもあります。そのシンボルは双頭の斧で(今回ご紹介の切手でも老人の背後、左側の壁には双頭の斧が描かれているのが見えます)、その霊力で、盗人の身体を雷で引き裂くとされています。

 ヴードゥーの多神崇拝は、欧米のキリスト教社会的な価値観では“邪教”であり、その独特の儀式や呪術は、ながらく、黒魔術と同一視されてきました。また、1960年にフランスから独立したダホメ共和国が西洋式の近代国家建設を目指して伝統文化を軽視したことに加え、1972-90年の社会主義政権時代(この間、1975年にベナン人民共和国に改称)には、ヴォドゥンの信仰と儀礼は“因習”として社会的に大きな圧迫を受けました。

 しかし、民主化後の1992年、伝統文化の再評価が進められると、ベナン国民の間に深く浸透しているヴォドンは国教に指定され、ヴォドゥンの大祭が行われる毎年1月10日は国民の祝日に指定されました。

 なお、ベナンでは、統計上は人口の42.8%がキリスト教徒、24.4%がムスリム、17.3%がヴォドゥンとなっていますが、キリスト教徒やムスリムの中にも、ヴードゥーの信仰を(部分的に)維持し、ヴードゥーの儀式に参加する場合も多いため、ヴードゥーの“信徒”の実数は統計よりもはるかに多いと推定されています。


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 梅と振袖
2017-01-09 Mon 17:50
 きょう(9日)は“成人の日”です。成人式といえば、やはり女性の振袖。というわけで、振袖姿の女性が描かれた切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます) 

      野崎村・鏑木清方

 これは、2010年10月8日に発行された国際文通週間の切手のうち、鏑木清方の「野崎村」を取り上げた1枚です。

 歌舞伎や人形浄瑠璃の演目として知られる「野崎村」は、宝永7(1710)年、大坂で大店の娘お染と丁稚の久松が心中したことを題材とした近松半二の作品『新版歌祭文』の「第三幕 野崎村の段」の通称で、安永9(1780)年に大坂・竹本座で初演されました。清方の作品は1914年に制作された歌舞伎絵で、2代目・市川松蔦のお染が、6代目・市川門之助のお常(お染の母親)に手を引かれていく場面を描いた作品。現在、東京・半蔵門の国立劇場の2階ロビーに飾られています。

 物語は(旧暦の)正月の少し前で、野崎村ではもう早咲きの梅が咲いているという設定で、清方は、お常の手に梅の枝を持たせることで季節感を表現しました。ちなみに、実際の心中事件のあった宝永7年で考えるなら元日は1710年1月30日、「野崎村」初演の安永9年で考えるなら元日は1780年2月5日ですから、かつてのように、成人の日が1月15日に固定されている時代だったら、ちょうどその頃のお話ということになりましょうか。

 大坂の油屋に奉公する久松は、養父である野崎村の農家・久作の妻の連れ子おみつと許婚でしたが、久松本人はおみつに対する恋愛感情はなく、店の娘お染とも相思相愛の仲で、お染は久松の子を宿していました。

 しかし、主人と奉公人の許されぬ恋であるうえ、お染には山家屋との縁談もまとまり、2人の前途に希望はありません。そうしたところへ、久松には店の金を使い込んだ疑いがかかり(後に冤罪であったことが明らかになりますが…)、しばらく親元に帰されることになりました。久松は嫌疑が晴れれば店に戻るはずでしたが、同行してきた小助は「金返せ」と暴れます。

 すでに、久松のトラブルを知っていた久作は、全財産を売り払って一丁銀を用意しており、小助に渡して追い返し、これを機に久松とおみつの祝言を挙げさせる心づもりでした。

 事情はともあれ、店に戻るわけにいかなくなった久松ですが、彼と一緒になることをずっと心待ちにしていたおみつは、思いがけず、すぐに祝言となったことに大喜び。まさに幸せの絶頂で、包丁に顔を写して髪を直してみたりして、いそいで準備に取り掛かります。

 この間にも、おみつの存在を知らず、久松のことを忘れられないお染は一路、久松のいる野崎へ向かいました。半刻の後、お染は久松の家に現れました。田舎の農家の裏木戸には不似合いな、垢抜けた振袖(清方の絵画では、お染の振袖の地色には黒・藍・臙脂・胡粉等の混合色が用いられており、非常に深みのある色合いになっています)のお嬢様を見て、おみつは彼女が久松と恋仲にあることを瞬時に見抜くのですが、ひとまず、久作はおみつを連れて引っ込み、お染と久松は二人きりになります。そこで、一緒になれないならひとりで死ぬというお染の言葉に心中を決意する久松。事情を察している久作が出てきて諭し、二人も一度は分かれることを決意しました。

 こうなった以上、ともかくも早く娘の祝言を済ませてしまおうと久作がおみつを呼ぶと、出てきたおみつは綿帽子の下の髪を落とし、首に数珠をかけて尼になっていました。自分と無理に結婚させようとしたら、久松はきっとお染と心中する。それなら、自分は身を引いて尼になるから、死なないでほしい…。

 ここで出てくるのが、「うれしかったは たった半刻」の名台詞です。

 その後、人目を避けるため、2人は別々の道で大阪へ戻ることになりました。お染を引き取りに来たお常が土産として持参した箱には久作が用立てた分のお金が入っており、その返礼に久作はお常に白梅を渡します。お染の手を引くお常が梅の枝を持っているというのは、このことを踏まえたものでしょう。そして、2人が去った後、おみつが久作にすがりついて号泣するところで舞台は幕が下りる、というのが「野崎村」のあらすじです。

 ただし、後日談としては、結局、久松とお染は心中して死んでしまいます。彼らにとっての“うれしかった”時間も、結局のところ、長続きはしなかったということになります。

 なお、今回ご紹介の1枚をはじめ、振り袖姿の女性が描かれた切手と、それにまつわる物語については、拙著『日の本切手 美女かるた』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 澳門で終夜の線香焚き禁止へ
2017-01-08 Sun 17:59
 マカオ政府文化局は、きのう(7日)、寺院の消防管理に関する対策会議を開催し、2017年1月28日の春節(農暦新年)以降、「寺院境内室内における終夜の線香焚きの禁止及び夜間の電源オフ必須化」を全面実施する方針を示しました。昨年(2016年)2月、媽閣廟の正覚禅林殿で照明器具のショートが原因とみられる火災が発生し、建物の大半が焼失したことを踏まえての措置だそうです。というわけで、実際に線香の煙たなびくマカオの寺院を取り上げたマテリアルをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      中国澳門・旧城壁印字切手FDC

 これは、2008年に中国澳門で発行された世界遺産切手のうち、舊城牆遺址(旧城壁)を取り上げた印字切手のFDCです。印字切手のデザインは大三巴(聖ポール天主堂跡)側から見た旧城壁を描いており、城壁の前には、同じく世界遺産に指定されている哪咤廟(ナーチャ廟)前の煙たなびく香炉を廃したデザインになっています。一方、マカオ郵政が制作したFDC用の封筒のカシェは、旧城壁の出入口を出たところから哪咤廟の香炉を描くデザインになっており、哪咤廟の軒先にぶら下がっている渦巻き線香もしっかり見えます。ちなみに、印字切手とほぼ同じ構図で見た実際の旧城壁と哪咤廟はこんな感じでした。

      澳門・旧城壁(実物)

 1569年にマカオに居住するようになって以来、ポルトガル人は何度となく、“海賊対策”の名目で城壁を築いてきましたが、そのたびに明朝から撤去を命ぜられてきました。

 しかし、1622年、オランダによる攻撃からマカオを貿易したことにより、明朝もポルトガルに対して城壁の建設を認めないわけにはいかなくなり、1632年までに、ポルトガル人は東望洋山(ギアの丘)から水坑尾街、モンテの丘を経て内港まで伸びる北側の城壁のみならず、半島南部にも城壁を築くことに成功しました。ちなみに、明朝が滅亡するのは、それから12年後の1644年のことです。

 こうして築かれたマカオの城壁でしたが、19世紀半ば以降、中国大陸から中国人が流入し、半島北部にまで市街地が広がったことで、かえって、域内交通にとっての障害となり、その多くが撤去されることになります。この結果、現在では、初期の城壁は大三巴の近くにごくわずか残るのみとなりました。この残った“旧城壁”が、現在の世界遺産の“舊城牆遺址”となります。

 一方、インドの神クベーラ(毘沙門天)の三男ナラクベーラがルーツとされる童子神、ナーチャは、道教では悪魔を退け災厄を払う神として人気があり、マカオの哪咤廟としては、大三巴南側の柿山に置かれたのが最初です。

 1888年、大三巴の周辺で疫病がはやったため、住民は疫病退散のために柿山の哪咤廟を大三巴近くに移転してほしいと頼んだものの、柿山はこれを拒否。このため、新たに作られたのが旧城壁前の哪咤廟で、大三巴と旧城壁と併せて、世界遺産に登録されました。

 なお、マカオの世界遺産については、拙著『マカオ紀行』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 切手に見るソウルと韓国:憲法裁判所
2017-01-07 Sat 11:08
 ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』2016年12月16日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、朴槿恵大統領の弾劾訴追が国会で可決された直後の号でしたので、この切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・憲法裁判所1周年

 これは、1989年9月1日に発行された“憲法裁判所開設1周年”の記念切手で、『経国大典』(朝鮮王朝の法体系がまとめられた法典)をバックにした正義の女神像が取り上げられています。

 韓国の司法制度は三審制が採られており、日本の最高裁判所に相当する大法院(ソウル特別区瑞草区)の下、ソウル、光州、大邱、大田、釜山の5大都市に高等法院(日本の高等裁判所に相当)が、ソウル(4ヶ所)、釜山、大邱、仁川、光州、大田、蔚山、水原、議政府、春川、昌原、清州、全州、済州の各都市に地方法院(日本の地方裁判所に相当)が置かれているほか、家庭法院(日本の家庭裁判所に相当)も置かれています。

 これに対して、憲法裁判所は上述の通常の司法制度とは別に、1987年10月の憲法改正によって設置が決められました。

 現行の大韓民国憲法では、第6章(第111-113条)が憲法裁判所についての規定となっています。

 それによると、憲法裁判所は、①法院の提請による法律の違憲性の審判、②弾劾の審判、③政党の解散の審判、④国家機関相互間、国家機関と地方自治団体間又は地方自治団体相互間の権限争議に関する審判、⑤法律が定める憲法訴願に関する審判、を管轄する、とされています。(第111条1)

 裁判官は、法官の資格を有する9人で構成され、大統領が任命します(第111条2)が、このうちの3人は国会が選出した者を、また別の3人は大法院長(日本の最高裁長官に相当)が指名した者を、大統領は任命しなければいけないことになっている(第111条3)ほか、憲法裁判所の長は国会が同意しなければ大統領が任命できない(第111条4)とされています。

 ちなみに、ここでいう“法官”の資格とは、15年以上の経験のある40歳以上の者のうち、①裁判官、検察官、あるいは弁護士である者、②弁護士資格を有し政府または公定機関で法律問題に従事した者、③弁護士資格を有し大学の助教授以上の地位にあった者です。

 また、憲法裁判所の裁判官の任期は6年で再任は可能(第112条1)で、弾劾または禁錮以上の刑が確定しない限り罷免されない(第112条3)が、政党に加入し、又は政治に関与することはできません。(第112条2)

 さらに、憲法裁判所で、法律の違憲認定、弾劾、政党解散の決定、又は憲法訴願に関する認容決定をするときは、裁判官6人以上の賛成が必要(第113条1)とされており、そのために、憲法裁判所は、法律に抵触しない範囲内で、審判に関する手続き、内部規律及び事務処理に関する規則を制定することができる(第113条2)とされています。

 この規定からもわかるように、憲法裁判所は、理念としては、国民の権利・自由を擁護し、国家権力の濫用を牽制する独立の機関、端的に言えば、大統領の暴走を食い止めるブレーキ役という性質の機関という位置づけになっています。その背景には、長年、軍事独裁政権下で国民の権利と自由が制限されてきたという事情があるのはいうまでもありません。

 実際、憲法裁判所が発足する以前も、3権分立の建前から、大法院には違憲立法審査権が認められていましたが、実際に大法院が違憲判決を下した例は10件程度でした。

 ところが、憲法裁判所の設置後は違憲判決が急増し、2010年までに違憲判断は350件以上にも上っています。なかには、拘置所において腰板しかないトイレは違憲との判決が出るなど、我々の感覚からすると首をかしげざるを得ないようなものもありました。
 
 さらに、憲法の上に“国民情緒法(韓国人の国民情緒に合うという条件さえ満たせば、行政・立法・司法は実定法に拘束されない判断・判決を出せるという概念)”が存在していると揶揄される韓国社会では、憲法裁判所が司法の範囲を大きく超えて“(通常の近代国家の感覚からすると)暴走”し、政治的・外交的にも大きな影響を与えるケースもみられます。2011年に憲法裁判所が出した、韓国政府が“元慰安婦”と原爆被害者らの賠償請求権問題を解決するために具体的な努力をつくさないのは憲法に反するとの決定などは、その典型的な事例と言ってよいでしょう。

 いずれにせよ、今回ご紹介の切手に描かれている正義の女神像は、先入観にとらわれず万人に平等に法を適用するものとして目隠しや目をつぶった姿で表現されていますが、その目隠しが、歴史的事実や国際条約の常識を無視し、“国民情緒法”におもねるためのものになっているとしたら、なんとも困った話ですな。


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 放牧宣言
2017-01-06 Fri 11:26
 音楽ユニットの“いきものがかり”が、きのう(5日)、「リフレッシュのために一旦各自のペースでメンバーそれぞれの可能性を伸ばすことを目的」として、事実上、ユニットとしての活動休止となる「放牧宣言」を行いました。というわけで、“放牧”関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      南ア・ダチョウの放牧絵葉書(1911)  南ア・ダチョウの放牧絵葉書(1911.裏面)

 これは、1911年10月、南アフリカ連邦(当時)のステルクストルームからオーストラリアのシドニー宛の絵葉書で、絵面には、“典型的な南アフリカ:ダチョウ牧場”とのキャプションの下、オーツホーンでのダチョウの放牧風景が取り上げられています。

 郵便史的な観点からすると、今回ご紹介の葉書では、南ア連邦成立後の1911年に、旧トランスヴァール切手がケープ州で使用されているというのがミソです。

 すなわち、1910年、ケープナタール・トランスヴァール・オレンジの各植民地は大英帝国自治領の南ア連邦として統合されましたが、連邦結成以前に発行された旧植民地の切手に関しては、いったんプレトリアに集められた後、あらためて連邦各地に配給され、1913年9月までは、旧植民地の領域を超えて、連邦全域で有効とされていました。このため、今回ご紹介のマテリアルのように、トランスヴァール切手にケープ州の消印が押された事例が生まれることになります。

 なお、南ア連邦成立時のケープ州は、1994年、アパルトヘイトの撤廃に伴う州の再編により、、西ケープ州・東ケープ州・北ケープ州の3州と北西州の一部に分割され、今回ご紹介の葉書の差出地であるステルクストルームは東ケープ州に属することになりました。

 さて、1652年、ヤン・ファン・リーベック率いる艦船で喜望峰に上陸したオランダ人は、当初、他の野生動物同様、野生のダチョウを捕獲していましたが、ほどなくしてダチョウの飼育を開始。以後、ダチョウの生産はケープ植民地の主要産業のひとつとなりました。

 かつてのケープ植民地に相当する地域でダチョウの生産が特に盛んだったのは、オーツホーンです。 

 オーツホーンはスワートバーグ山脈とウテニカ山脈の間に位置する小カルー平原の田舎町で、1863年に本格的な入植がはじまるとすぐに、ダチョウの生産が始まりました。特に、1880年代以降、ダチョウの羽根を使ったファッションがヨーロッパで流行したこともあり、ダチョウの羽根は同じ重さの金と同じ値段で取引されることもあり、ダチョウで財を成す者が続出。オーツホーンには豪勢なダチョウ御殿も数多く建てられました。わが国でいうと、北海道のニシン御殿のようなものかもしれません。ちなみに、今回ご紹介の葉書の宛先であるオーストラリアでも、1886年にはダチョウ牧場が経営されていたという記録がありますが、ダチョウ産業の規模という点では、当時の南アフリカはオーストラリアを圧倒していました。

 なお、南アにおけるダチョウ牧場とその歴史については、拙著『喜望峰』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 

 * 昨日、アクセスカウンターが174万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


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 蔣中正檔案、全面公開へ
2017-01-05 Thu 11:16
 台湾の国史館は検索システムのリニューアルに伴い、蔣介石に関する収蔵資料の“蔣中正檔案”のうち、いままで非公開だった分を含め26万件以上を、きょう(5日)から4月末までに、インターネット上で新たに順次公開します。閲覧者制限は設けず、中国大陸や香港、マカオの人々も資料へのアクセスが可能になるそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      中国・国民政府統一(1角)

 これは、1929年4月18日に中国で発行された“国民政府統一”の記念切手のうちの1角切手です。

 1916年に袁世凱が亡くなった後の中国は軍閥割拠の状態にあり、とりあえず、対外的には、北洋軍閥による北京政府が中華民国を代表するという建前になっていました。

 これに対して、1922年2月、孫文は自ら拠点としていた廣州から北方に攻め上り、北洋軍閥の支配する北京政府を打倒するとして“北伐”を宣言。1925年3月に孫文が亡くなると、1926年7月1日、中国国民党は、孫文時代の大元帥統治の軍政府を解体し、国民党中央執行委員会が指導する国民政府(広州国民政府)を樹立しました。その際、政策決定は16人の委員による合議制とされ、コミンテルンから派遣されたボロディンが最高顧問となって孫文時代の共産党との合作も維持されています。

 こうして、1926年7月、蔣介石は孫文の遺志を継いで北伐(国民革命)を開始しますが、北伐が進展し、その軍勢が上海にまで及んでくると、列強諸国は北伐に対する警戒感を強めることになります。このため、英国は、権益の護持と居留民の保護を名目として、1927年2月、本国の第13ならびに第14旅団およびインド駐留軍を中国大陸に派遣しました。

 さて、上海に派兵した英国は、現地の情勢から、軍閥打倒の統一戦争としての北伐が曲がりなりにも成功裏に終わりそうだと判断。各地の軍閥を背後から操り、軍閥同士の代理戦争によって権益の維持・拡大を図ろうとしていた従来の路線を転換し、個別の軍閥への支援を止め、蒋介石をかれらの“総代理店”として育成しようと考えます。そして、北伐を支援する条件として、蒋介石に対しては共産党との絶縁を要求。この結果、1927年4月12日、蒋介石は上海で反共クーデターを起こして共産党幹部を虐殺。孫文以来の国共合作は完全に破綻し、南京国民政府が発足しました。

 一方、蒋介石を総司令とする国民革命軍という共通の敵を前に、軍閥諸派は大同団結し、1927年6月、奉天派の張作霖を大元帥に推戴して対抗。北京政府として、南方から来た国民革命を迎え撃つ姿勢を明らかにしたのですが、勢いに勝る国民革命軍の前に各地の軍閥は相次いで敗北を喫します。そして、済南が陥落するにいたって、ついに張も敗北を覚悟し、北京を退去して本拠地の奉天に撤退しようとした6月4日、関東軍大佐の河本大作によって移動途中の列車ごと爆殺されてしまいました。

 結局、張の爆殺後、国民革命軍は北京に入城し、名目的ではありますが、中華民国の統一が達せられます。一方、満州では、張作霖の死後、息子の張学良が東三省保安総司令官となり、実権を掌握。1928年12月、関東州満鉄付属地を除く満州全域に、それまで用いてきた満州五色旗を下げ、国民党の青天白日旗を一斉に掲げさせ、東三省の主席と連名で国民党に服従することを発表しました。これが、いわゆる“満州易幟”です。

 今回ご紹介の“国民政府統一”の記念切手は、こうした事情を踏まえて1929年4月に発行されたもので、北伐の総司令官として蔣介石の肖像を描いた同図案で色変わりの4額面セットで発行されました。蔣介石の肖像が切手に登場したのは、これが最初でした。
  
 さて、蔣中正檔案は11の系列に分かれていますが、このうち、5系列は機密情報が含まれていないため、すでにネットで公開されており、今回、残る6系列26万件が新たな公開対象となりました。そのうち、機密資料とされていたのは、全体の61%に相当する16万件です。“郵票”で検索をかけると、どんな記事がヒットしてくるのか、ちょっと楽しみですね。


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 年賀状の切手
2017-01-04 Wed 10:52
 毎年のことですが、“郵便学者”という看板を掲げて生活している関係から、僕は毎年、年賀状には干支にちなんだ切手を取り上げることにしています。もっとも、ただ単に干支の切手を持ってくるだけではつまらないので、①できるだけ他の人が使いそうにないモノ、②その年の仕事の予告編になりそうなモノ、③可能な限り、干支を取り上げた年賀切手は除く、という基準で選んでいます。きょう(4日)は仕事始めでオフィスで僕の年賀状をご覧になるという方もあると思いますので、今回の年賀状の切手について簡単にご説明いたします。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・動物の親子(2010・部分)

 これは、2010年にイスラエルが発行した“動物の親子”のシートの右上の切手とタブ(と耳紙)の部分です。“動物の親子”のシートは、9面構成で、上段3枚がニワトリ、中段3枚がネコ、下段3枚がウサギで、それぞれ、左側が動物の子供を描く切手、中央が親子を描くタブ、右側が親を描いた切手となっています。ちなみに、シートの全体像の画像も下に貼っておきます。

       イスラエル・身近な動物(2010)

 元日のご挨拶でも少し触れましたが、ことしこそは、チャンネルくららで配信中の「きちんと学ぼう ユダヤと世界史」と連動した書籍を刊行せねば…と思っております。また、タイミング的にも、2017年は、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第3次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっていますので、この機会を逃してはなりますまい。

 さて、人間と鶏の関係は、いまから5000年ほど前、インド東北部から中国西南部にかけての地域で、この地に広く分布するセキショクヤケイを飼い慣らしたのが始まりと考えられています。その後、家禽として鶏を買う習慣は中東から地中海地域に広まり、いかまら2300年ほど前の紀元前4世紀頃には、エルサレムの南西45kmのラキシュで食肉と卵を取るための養鶏が行われていたことが確認されています。

 現在のイスラエルは卵の消費量が多い国で、20世紀には、国民1人あたりの卵の年間消費量(加工食品を含む)が350個程度と、世界で断トツの1位でした。2000年代以降、イスラエル政府は統計データの発表を止めてしまったため、世界の消費ランキングからは外れてしまったものの、イスラエル国民の食生活が大きく変わったわけではないので、現在でもイスラエルが“隠れ1位”の可能性は大いにあります。ちなみに、公開されている統計データによると、2014年の国別の(1人あたり)卵の消費量のランキングは、1位がメキシコの352個、2位がマレーシアの343個で、わが国は329個で3位にランクされています。

 余談ですが、昨年6月、イスラエル国内では、パキスタンからの卵の密輸が警察と税関、イスラエル卵業養鶏協会によって摘発され、国内の食用基準を満たさない4万個が廃棄されるという事件がありました。卵の消費量が世界トップクラスの国ならでは事件といえますが、イスラエルへの卵の密輸相手が、政治的には親アラブ・反イスラエルの姿勢を鮮明にしているパキスタンだったというのも興味深いですな。

 なお、例によって、年賀状の投函は年末ぎりぎりになってしまいましたので、まだお手元に届いていない方もあるかと思います。(ちなみに、拙宅には、明らかに昨年の御用納め以前に投函されたと思しき、オフィスからの年賀状が昨日の夕方にも何通か届きました)

 早々に賀状をお送りいただきながら、僕の賀状がまだ届いていないという方々におかれましては、今しばらくお待ちいただきますよう、伏してお願い申し上げます。
      

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 アウシュヴィッツ訪問者最多に
2017-01-03 Tue 11:49
 アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館は、きのう(2日)、昨年(2016年)の訪問者数が前年より約33万人増えて約205万人となり、過去最多を更新したと発表しました。これは、昨年7月、近隣のクラクフで“ワールド・ユースデー”が開かれ、これに合わせて教皇が強制収容所跡を訪問されたことを受け、ワールド・ユースデイの参加者の多くが収容所跡も見学したことによるものです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ポーランド・アウシュヴィッツ博物館開館(3ズウォチ)

 これは、1947年、ポーランドで発行された“オシフィエンチム(アウシュヴィッツのポーランド名)博物館開館”の記念葉書で、印面には収容所で殺害された収容者のイメージが、左下には収容所の監視塔が取り上げられています。

 共産党政権時代のポーランドの公式の歴史観によれば、戦後のポーランド国家は、ソ連によるナチス・ドイツからの解放を経て樹立されたものであり、それゆえ、ソ連と戦ったナチス・ドイツが“絶対悪”であるということが大前提となっていました。その反面、ナチス・ドイツの絶対悪の象徴とされるユダヤ人迫害については、単純にこれを批難すればよいというわけにも行かない事情が彼らにはありました。

 そもそも、1939年9月にドイツに占領される以前のポーランドには、推定340万人のユダヤ人が居住していました。これに対して、ポーランド全土が解放された後の1945年5月16日の時点で、ポーランド国内で生存が確認されていたユダヤ人は7万4000人。その後、領土の変更に伴う移住や終戦に伴う兵士・捕虜の復員などで、1946年6月末の時点で、ポーランド国内のユダヤ人口は25万5000人となりましたから、単純に考えると、帰国者は18万1000人という計算になります。ただし、戦前の340万人に比べると、25万5000人という数字はわずか7・5パーセントにすぎません。

 ところで、ユダヤ人の帰国が進行していくなかで、1945年6月、ジェシュフでユダヤ人の殺傷を含む反ユダヤ暴動(ポグロム)が発生。以後、ポーランド各地ではポグロムが頻発します。特に、1946年7月4日、ポーランド中心部のキェルツェで発生したポグロムでは、白昼、女性・子供を含む42人のユダヤ人が虐殺され、自分たちの生命・財産に対する物理的な恐怖を感じたユダヤ人はこぞって国外に脱出するようになります。

 戦後のポーランドでユダヤ人に対するポグロムが発生したベースには、戦前からポーランド社会に蔓延していた反ユダヤ主義的な風潮(たとえば、いわゆる“水晶の夜”事件は、一義的にはナチス・ドイツによる犯罪的な行為ですが、ポーランドによるユダヤ人の国籍剥奪と帰国拒否がきっかけになった面があったことは見逃せません)が、大戦を通じても、決して払拭されることがなかったということが挙げられます。

 じっさい、ポグロムの鎮圧を求める市民の声に対して「お前はユダヤ人を救いたいのか」と応じた警察幹部もいましたし、キェルツェでのポグロムの1週間後、ユダヤ人を殺害した犯人の一部に死刑判決が下されたというニュースを聞いたウッチ(ドイツ占領下でのリッツマンシュタット)の労働者は、実行犯の死刑判決に対する抗議のストライキを行っているほどです。(労働者たちは、ユダヤ人を殺しても罪に問われないと信じ込んでいたそうです。)

 さらに、こうした反ユダヤ感情に加えて、ドイツの占領下で強制収容所に追い立てられたユダヤ人の住居には、その後、近隣のポーランド人が住みついているケースも少なくありませんでしたから、そうした人々にとって、ユダヤ人の帰還は歓迎されざる事態だったわけです。

 いずれにせよ、ナチス・ドイツを打倒することで成立した(という建前の)親ソ政権にとっては、規模の大小こそあれ、本質的には彼らと変わらぬユダヤ人迫害・虐殺が国内で横行しているという事態は、ナチスが“絶対悪”であるという政権の正統性の根拠を根本から揺るがしかねないもので、ゆゆしき問題でした。

 こうした状況の中で、1946年5月25日、アウシュヴィッツ収容所の所長を務めていたヘスがワルシャワに移送され、ポーランド政府に身柄を引き渡されます。さらに、同年7月、キェルツェとクラクフで相次いでポグロムが発生すると、同月30日、ヘスはクラクフ・プワシュフ強制収容所の所長だったアーモン・ゲートらとともにクラクフへ移送されました。

 その後、クラクフでヘスの裁判が進行していく中で、ポーランド政府は、(事実上の)共産主義政権としては例外的に、ユダヤ人の国外への移住に“寛容”な態度をとり、ユダヤ人の出国を促すようになります。国民の反ユダヤ感情の原因となっているユダヤ人の存在を、物理的に除去してしまおうというわけです。

 この結果、1947年2月までに、ソ連からの帰国者の大多数に相当する16万人のユダヤ人が国外に脱出し、ポーランドのユダヤ人口は9万2000人にまで激減しました。

 そのうえで、同年4月2日、ポーランド最高人民裁判所がヘスに死刑判決を下します。そして、同月16日、ヘスは自分が大量のユダヤ人を虐殺したオシフィエンチム(アウシュヴィッツ)の地で絞首刑を執行されました。

 こうした前段階を経て、1947年6月14日、1940年にタルヌフからアウシュヴィッツに最初のポーランド系収容者が移送されてきた因縁の日を選んで、ナチスの蛮行を忘れないようにとの趣旨の下、旧収容所跡を国立博物館として保存することが正式に決定され、7月2日、博物館が開館します。今回ご紹介の葉書は、これに合わせて発行されたものです。

 このように、“民族的に統一されたポーランド”の政府は、反ユダヤ感情が国民の底流に流れ続けている中で、(ユダヤ人に対するホロコーストの象徴としての)アウシュヴィッツを糾弾するという矛盾に満ちた状況に、彼らなりの折り合いをつけようとしたわけですが、そのあたりの事情については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 世界漫郵記:泰国紀行①
2017-01-02 Mon 21:02
 『キュリオマガジン』2017年1月号が発行されました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記」は、今回から“泰国紀行”のスタートです。今回は、新年号ということで、タイの鶏とキンナリーについて取り上げました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      タイ・軍鶏

 これは、2001年、タイが発行した国際文通週間の切手に取り上げられた軍鶏(シャモ)の切手です。

 鶏のなかでも高級食材の一種として知られる軍鶏は、江戸時代に闘鶏用ないしは愛玩用として“暹羅(しゃもろ=タイの古称)”から輸入されたことが名前の由来とされています。

 漢字で“軍鶏”の字を当てるのは、もともと、闘鶏用の品種だったためです。タイを含む東南アジアでは現在でも闘鶏がさかんに行われていますが、日本では江戸時代からしばしば賭博禁止令が出されたため、食用として改良され、現在にいたっているわけですが、軍鶏という漢字の表記は闘鶏が廃れた後もそのまま残りました。

 ちなみに、英語でジャパニーズ・バンタムと呼ばれるチャボも、朱印船貿易の時代にチャンパ王国(現在のヴェトナム中部沿岸)からもたらされたのがその名の由来です。また、バンタムというのも、ジャワ島西部の地名、バンテンが由来。いずれにせよ、チャボもまた、タイを含む東南アジア全域でもとから飼育されていた品種です。(下に、チャボを取り上げた2003年のタイ切手の画像を貼っておきます)

      タイ・チャボ(2003)

 ところで、もとはヒマラヤに住む精霊の一種で、歌と踊りで神々に仕えるキンナリーは、タイの伝統的な絵画や彫刻などでは、上半身が人間、下半身が鳥の姿で表現されますが、その下半身は、脚が長く尾が直立したスタイルが多いようです。(下の画像はキンナリーを描いた1976年の切手です)

      キンナリー

 これは、軍鶏の長い脚とチャボの直立した尾を組みあわせてイメージが作られたのではないかと僕は推測しています。今回の記事では、そうしたことも踏まえ、タイの鶏文化とキンナリーについてまとめてみました。機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 謹賀新年
2017-01-01 Sun 00:01
      リオデジャネイロ歴史紀行刊行時

 あけましておめでとうございます。

 旧年中は郵便学者・内藤陽介の活動にご支援・ご協力を賜り、誠にありがとうございました。本年もよろしくお付き合いください。

 さて、昨年(2016年)も、多くの皆様のお力添えで、7月の全日本切手展を、無事、盛況のうち終了することができました。まずはこの点につきまして、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。

 現在、僕が実行委員長を仰せつかっている全日本切手展実行委員会(公財・通信文化協会、一社・全日本郵趣連合等で構成)では、本年(2017)年7月15-17日(土-月・祝)の3日間、昨年と同じ東京・錦糸町のすみだ産業会館を会場として全日本切手展を開催すべく、準備を進めております。競争出品作品の募集要項・特別規則など(大筋では前年までと変わりませんが、部分的に修正する箇所もございます)が正式に確定しましたら、『全日本郵趣』誌上等で発表する予定ですので、今しばらくのご猶予をお願いいたします。つきましては、本年も、皆様のご支援・ご協力をいただけると幸甚に存じます。

 切手展ということでいえば、ことしは、3-4月にオーストラリア・メルボルンでアジア展、8月にはインドネシア・バンドンで世界展、10月にブラジル・ブラジリアで世界展が予定されております。現時点では、メルボルン展への出品が決まっていますが、ほかの二つの展覧会についましても、何らかの形で参加するつもりです。皆様にはいろいろお世話になるかと思われますが、よろしくお願いいたします。

 一方、僕の本業である文筆活動に関しては、まずは、チャンネルくららで配信中の「きちんと学ぼう ユダヤと世界史」と連動した書籍の制作を最優先に考えております。2015年4月に番組を始めた時点では、10回程度配信して、その内容に加筆して書籍をまとめるつもりでいたのですが、実際にやりはじめてみると、テーマが巨大すぎてどんどん深みにはまってしまい、身動きが取れなくなってしまったというのが正直なところです。ただ、さすがに、2年越しというのは時間がかかり過ぎなので、ことしこそ、なんとか形にしなければ…と思っております。

 このほかにも、書籍に関しては漠然とした企画のアイディアがいくつかありますので、ある程度の形が見えてきましたら、このブログでも具体的にご案内していくつもりです。いずれにせよ、『リオデジャネイロ歴史紀行』1冊しか自著を刊行できずに終わった昨年の分を取り戻すべく、必死になってやっていかねばなりません。

 なお、今年は年初からスタートの新連載はないのですが、「泰国郵便学」(『タイ国情報』)、「切手に見るソウルと韓国」(『東洋経済日報』)、「小さな世界のお菓子たち」(『Shall we Lotte』)、「岩のドームの郵便学」(『本のメルマガ』)、「切手歳時記」(『通信文化』)、「世界の国々」(『世界の切手コレクション』)、「郵便学者の世界漫郵記」(『キュリオマガジン』)の各連載は、今年も継続いたしますので、引き続き、ご贔屓いただけると幸いです。

 物書きとしては、原則として、365日24時間営業で動いている僕ですが、公の場で皆様にお目にかかる仕事としては、1月4日のちゃんねるくららでの「きちんと学ぼう ユダヤと世界史」の配信が最初の機会となります。

 今後とも皆様よりのご支援・ご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。

 内藤陽介拝

 *冒頭の画像は、昨年8月、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』の刊行時に、出版元のえにし書房のオフィスで刷り上がったばかりの書籍とともに撮影してもらったものです。ことしもいろいろな場所で、一人でも多くの皆様にお会いできるのを楽しみにしております。


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