2023-09-06 Wed 12:01
おととい(4日)はじまった新年度から、フランスでは全身を覆う(女性の)伝統衣装“アバーヤ(アバヤ、アバア、アバーアとも)”の公立学校での着用が禁じられましたが、初日の4日、アバーヤを着用して登校した女子生徒が全国で合わせて約300人に上り、うち67人が着替えを拒否し下校したことが、きのう(5日)、発表されました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1969年12月10日、にヨルダンが発行した“聖地の悲劇”の切手のうち、難民キャンプの少女と母子が描かれています。左側の少女2人は洋装ですが、中央の女性と彼女の娘と思しき少女はアバヤを着用しています。なお、アバヤはロングワンピースに似た形状で、頭髪を隠すヒジャーブや頭頂部から胸の上まで覆い隠すヒマール(顔は露出している)、目の部分以外は覆い隠すニカーブとは本来は別のものなので、今回ご紹介の切手の右端の少女のように、頭髪を覆わずに着用することもあります。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 9月8日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 「龍の文化史」、絶賛配信中です。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『今日も世界は迷走中』 好評発売中!★ ウクライナ侵攻の裏で起きた、日本の運命を変える世界の出来事とは!内藤節炸裂。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-04-09 Fri 09:49
今月3日、ヨルダン当局が、国家を不安定化させたとして元皇太子のハムザ王子を自宅軟禁下に置き、元閣僚ら少なくとも16人を拘束していた問題について、きのう(8日)、アブドゥッラー2世国王は国営テレビの演説で「反乱の芽は摘み取った」と述べ、事態は収束したとの認識を示しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1953年6月30日、ヨルダンで使用されていた暫定的な料金収納印が押されたアンマン市内便のカバーです。 第一次中東戦争の結果、1949年6月、トランスヨルダンはヨルダン川西岸地区と東エルサレムを併合し、新国家“ヨルダン・ハシミテ王国”の建国を宣言します。 しかし、パレスチナ人の中には、ヨルダンへの併合を潔しとしない者も少なくなかったうえ、戦争を通じて大幅に版図を拡大したヨルダンに対して周辺アラブ諸国は大いに反発。1951年7月20日、国王アブドゥッラー1世はエルサレムのアクサー・モスクで金曜礼拝の最中に暗殺され、息子のタラールが第2代国王として即位しました。 ところが、1952年8月11日、タラールは精神疾患を理由に議会によって廃位されてしまい、王位は息子のフサインによって継承されました。ただし、当然のことながら、すぐにはフサイン新国王の肖像切手は手配できません。 さらに、ヨルダン川西岸地区の併呑によって従来よりも大量の切手が必要になっていたこともあり、ヨルダン国内では切手の需給が逼迫します。 このため、1953年5-6月、郵便の需要の多かった首都のアンマンとエルサレムでは、切手に代えて“料金収納済み”の印を郵便物に押すことで対応していました。今回ご紹介の郵便物はその実例です。 その後も、ヨルダンでは過去に発行された切手の在庫をかき集め、各種の加刷を施したりすることで急場をしのいでいましたが、1954年2月9日、ブラッドバリー・ウィルキンソン社製の新たな普通切手が発行されたことで、ようやく切手不足も解消されることになりました。 ちなみに、ヨルダン国家成立時の諸事情については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 4月12日(月) 05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 4月23日(金) 15:00~ 東京・浅草の東京都立産業貿易センター台東館で開催のスタンプショウ会場にて、拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.1 戦前編』の刊行記念トークを行います。入場無料・事前予約不要ですので、お気軽にご参加ください 5月15日(土)~ 武蔵野大学の生涯学習講座 5月15日、22日、6月5日、19日、7月3日、17日の6回、下記のふたつの講座でお話しします。 13:00~14:30 「日本の郵便150年の歴史 その1 ―“大日本帝国”時代の郵便事情―」 15:15~16:45 「東京五輪と切手ブームの時代 ―戦後昭和社会史の一断面―」 対面授業、オンラインのライブ配信、タイム・フリーのウェブ配信の3通りの形式での受講が可能です。詳細については、武蔵野大学地域交流推進室宛にメール(lifelong★musashino-u.ac.jp スパム防止のため、アドレスの@は★に変えています)にてお問い合わせください。 ★ 『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.1 戦前編』4月20日刊行! ★ 2530円(本体2300円+税) 明治4年3月1日(1871年4月20日)にわが国の近代郵便が創業され、日本最初の切手が発行されて以来、150年間の歴史を豊富な図版とともにたどる3巻シリーズの第1巻。まずは、1945年の第二次大戦終戦までの時代を扱いました。今後、2021年11月刊行予定の第2巻では昭和時代(戦後)を、2022年3月刊行予定の第3巻では平成以降の時代を取り扱う予定です。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-17 Wed 02:16
イスラエル古代遺跡管理局は、きのう(16日)までに、約2000年前に書かれた聖書の原型ともいえる“死海文書”について、65年ぶりに新たな断片が発見されたと発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1965年にヨルダンが発行した死海文書の切手です。 死海文書は、1947年以降、ヨルダン川西岸の死海北西にあるクムラン洞窟などで発見された写本群の総称で、ヘブライ語聖書(旧約聖書)と聖書関連の文書がその中心です。 1947年初(1946年末という説もあります)、ベドウィンのターミレ族の羊飼いだったムハンマドとその従兄弟は、ヒベルト・クムラン遺跡近くの洞窟(以下、クムラン洞窟。当時は英委任統治領パレスチナの領域内)の中で、古代の巻物の入った壷を発見。彼らは、最初に見つけた4点の写本をベツレヘムの靴職人で古物も扱っていたハリール・イスカンダル・シャヒーンの元に持ち込みます。自らもシリア正教徒だったハリールは、持ち込まれた写本を古代シリア語の文書と思い、当時、シリア正教会聖マルコ修道院の院長だったマー・サムエルに見せたところ、サムエルは、4点の写本を24パレスチナポンドで買い取りました。 その後、ベドウィンたちは洞窟で見つけた3点の写本をハリールに売りましたが、ヘブライ大学の考古学教授だったエレアザル・スケーニクとベンヤミン・マザールはそのうわさを聞きつけ、1947年11月29日、ベツレヘムでハリールから写本の断片3点を買い取るとともに、残りの4点の写本をサムエルが所有していることを知ります。ちなみに、スケーニクらが写本を買ったまさにその日、国連でパレスチナ分割決議が採択され、パレスチナは本格的な内戦に突入していくことになります。 1948年1月、スケーニクとマザールはサムエルと接触し、写本4点購入の交渉を行いましたが、話はまとまらなかったため、2月21日、トレヴァーはサムエルの写本を撮影。この間、サムエルから写本についての意見を求められたアメリカ・オリエント学研究所の研究者、ジョン・トレヴァーは、写本の書体や語法が、ナッシュ・パピルス(紀元前1世紀のモーセ五書の抜書きの断片)と酷似していることを指摘していました。 こうした経緯で、同年4月、トレヴァーとスケーニクは「死海周辺で古代の写本発見」を発表します。当時、旧約聖書の最古の写本とされていた“レニングラード写本”は1008年に作成されたものだったてめ、死海文書はそれを約1000年さかのぼるものとして、注目を集めます。 1948年5月15日、第一次中東戦争が勃発すると、サムエルはベイルート経由で米国に写本を持ち込み、米国各地の大学や博物館などに写本を売り込もうとしました。しかし、真贋が定かではないことに加え、仮に本物だった場合には、複数の国がその所有権を主張してトラブルになることが予想されたため、購入の意思を示す期間はありませんでした。 そこで、サムエルは1954年6月1日付のウォール・ストリート・ジャーナル紙に写本売り出しの広告を出し、イスラエル政府の依頼を受けたマザールとスケーニクの息子イガエル・ヤディンが“匿名の購入者”として、25万米ドルで写本を購入。こうして、イスラエルは、最初の7点の写本を確保しました。 これら7点の写本は、東エルサレム(当時はヨルダンの支配下)で米英仏の三国が共同で運営していたパレスティナ考古学博物館(現ロックフェラー博物館)に寄託されましたが、1961年、ヨルダンは、突如、死海文書はヨルダンの財産であると宣言。今回ご紹介の切手はこうした背景の下で発行されたもので、切手発行翌年の1966年には、ヨルダン政府は考古学博物館ごと接収し、国有化してしまいます。 これに対して、イスラエルは1967年の第三次中東戦争で東エルサレムを占領し、死海文書を回収。死海文書は、エルサレムのイスラエル博物館内に建設された“聖書館”で保管されることになりました。 今回、65年ぶりの新発見となった死海文書の写本は、エルサレム東方から死海へと下っていく途中のユダヤ砂漠にある“恐怖の洞窟”で発見されたもので、約2000年前に書かれた巻物の断片が約20点。その中には、旧約聖書「ゼカリヤ書」(部分)のギリシャ語写本も含まれています。 ちなみに、死海文書が見つかった“ヨルダン川西岸”とその歴史については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 3月19日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-07 Thu 00:56
ヨルダンの考古遺跡として世界的に有名なジャラシュ(ジェラシュとも)遺跡で、きのう(6日)、観光客4人を含む計6人が刃物で刺され、負傷する事件がありました。容疑者は現行犯逮捕されましたが、襲撃の動機や容疑者の背景などの詳細は、この記事を書いている時点では不明です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ヨルダンで発行されたジャラシュ遺跡を描く普通切手で、2003年に発行の50フィルス切手に50ピアストルの改値加刷を施して、2018年に発行された1枚です。ちなみに、ヨルダンの通貨はヨルダンディナールで、補助通貨としてディルハムとピアストル、フィルスがあり、1ディナール=10ディルハム=100ピアストル=1000フィルスとなっていますので、50フィルスから50ピアストルへの変更は額面として10倍になった勘定になります。 ジャラシュは、ヨルダンの首都アンマンの北方48キロの地点にあり、青銅器時代(紀元前3200-1200年)には集落があったことが確認されています。ヘレニズム時代にはギリシャ風の都市が作られ、“クリュソロアスのアンティオキア”と呼ばれましたが、紀元前63年、古代ローマに征服されてシリア属州に編入されてゲラサと呼ばれるようjになり、近隣の都市とともにデカポリス(十都市連合)の一つとなりました。90年にはフィラデルフィア(現在のアンマン)とともにアラビア属州に移管され、ローマ帝国の下、交易が発達し都市基盤が整えられました。 106年にはトラヤヌス帝が新たに作ったアラビア属州を貫くローマ街道が通ったことで、ゲラサはますます繁栄し、129年から130年にかけてのハドリアヌス帝の巡行に合わせて凱旋門(ハドリアヌスの凱旋門)が建立されました。このほか、古代ローマの遺跡としては、ヒッポドローム(戦車競技場/競馬場)、ゼウス神殿アルテミス神殿、フォルム(列柱で囲まれた広場)、列柱道路、劇場、公共浴場などがあります。また、350年以後はモザイク装飾のあるキリスト教会が13ヵ所以上建設されたほか、古代のシナゴーグ跡も見つかっています。 614年、ササン朝ペルシャの侵入により、一時、ゲラサ衰退したものの、イスラム後のウマイヤ朝の支配下では繁栄を回復。しかし、746年の大地震で壊滅的な打撃を被り、その後は十字軍の時代にローマ時代の神殿の一部が要塞として使われたものの、ほぼ忘れられた存在になっていました。 現在の新市街は、19世紀後半以後、シリア各地からの移民やロシア領の北カフカースからの難民の入植により、遺跡の東隣に作られたもので、20世紀後半にはパレスチナ難民の流入もあり、行政上のジャラシュ市の人口は急増。現在は、ペトラと並ぶ遺跡観光の町として、世界各国から多くの観光客が訪れています。 さて、ヨルダンでは2016年12月にも、十字軍時代の城塞跡で知られる中部カラクで観光客を狙った襲撃事件が起き、10人が死亡、30人が負傷しました。このときの事件については、イスラム過激派組織、“イスラム国(IS)”ことダーイシュが犯行声明を出しています。今回の事件については、この記事を書いている時点では、容疑者の背後関係や動機などは不明とのことですが、今年10月26日、ダーイシュの指導者で、カリフを僭称していたアブー・バクル・バクダーディーが米軍特殊部隊によって殺害されたばかりで、ダーイシュによる報復名目のテロが拡大することが懸念されていた矢先の出来事だけに、ちょっと気がかりですね。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-12-25 Tue 00:51
きょう(25日)はクリスマスです。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1970年にヨルダンが発行した“聖地のクリスマス”の切手のうち、ベツレヘムの聖誕教会の14芒星を取り上げた1枚です。 聖誕教会は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(在位306-37)の時代、イエス・キリストが生まれたとされる洞穴の上に建設が開始され、息子のコンスタンティヌス2世治下の339年に完成しました。ただし、当初の聖堂は6世紀に焼失し、西暦6世紀、ユスティニアヌス1世の時代に再建されました。 今回ご紹介の切手に取り上げられた14芒星は、教会の地下、イエスがまさに生まれたとされる場所に設置されている銀の星で、ことし5月、現地を訪問した際にはこんな感じになっていました。(切手と同じ構図で写真を撮ろうとしたのですが、多くの観光客が群がっていたので、星そのものを撮影しようとすると、接近するしかありませんでした) 聖誕教会のあるベツレヘムはいわゆるヨルダン川西岸地区にあり、オスマン帝国の崩壊後、英委任統治領パレスチナに編入され、1948年以降はヨルダンの支配下に置かれていましたが、1967年の第三次中東戦争でイスラエルに占領されました。これに対して、ヨルダンはイスラエルによる東エルサレムとヨルダン川西岸地区の占領・併合は国際的に無効であると主張し、その一環として、今回ご紹介の切手を発行し、ベツレヘム(を含むヨルダン川西岸地区)が自国領である(べき)とアピールしようとしたわけです。 なお、このあたりの事情については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) |
2018-11-10 Sat 01:49
ヨルダンのペトラ遺跡で、きのう(9日)、土石流が発生。当時、遺跡を訪れていた日本人は少なくとも45人いましたが、無事全員が救出されたそうです。というわけで、ペトラ遺跡関連の切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1953年5-6月の切手不足に対応して、 “ヨルダン統一”の記念切手の記念名を抹消して普通切手に転用したもので、右下に、ヨルダン川東岸地区の象徴として、ペトラ遺跡が描かれています。 第一次中東戦争の結果、トランスヨルダンはエルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区を併呑し、1949年にヨルダン・ハシミテ王国が誕生しました。 しかし、1951年7月20日、国王アブドゥッラーはエルサレムのアクサー・モスクで金曜礼拝の最中に暗殺され、息子のタラールが第2代国王として即位したものの、そのタラールも、翌1952年8月11日、精神疾患を理由に議会によって廃位されてしまいます。タラールの廃位により、王位は息子のフサインが継承しますが、この間の混乱の影響で、ヨルダンでは深刻な切手不足が生じています。 ところで、英領時代を含むトランスヨルダンの時代、この地域で流通していた通貨は英委任統治下のパレスチナ(英領パレスチナ)と同じくパレスチナ・ポンドでした。ところが、英領パレスチナが消滅したためパレスチナ・ポンドも無効となり、新生ヨルダンの発足にあわせて、新たに新通貨としてヨルダン・ディナール(1ディナール=10ディルハム=100ピアストル(カルシュ)=1000フィルス)が導入されました。 こうした状況を踏まえ、1952年2月、ベイルートのカトリック・プレス社でトランスヨルダン時代の切手に対して、新通貨に対応した額面が加刷され、同月26日から発売されます。また、これと並行して、とりあえず、初代国王アブドゥッラーの肖像を描く従来の通常切手と同じデザインで、額面表示のみをヨルダン・ディナール表示に変更した切手の製造が、ロンドンのブラッドバリー・ウィルキンソン社に発注されました。 国王アブドゥッラーの図案でヨルダン・ディナール額面の切手は、当初、新国王タラールの肖像を描く新切手(額面表示は、当然、ヨルダン・ディナールである)が発行され、流通するまでの暫定的なものと考えられていましたが、タラールの廃位によって、その後も使用されることになります。 しかし、ヨルダン川西岸地区の併呑によって従来よりも大量の切手が必要になっていたことに加え、ブラッドバリー・ウィルキンソン社に発注された切手の数は、あくまでも当座の需要を満たすためのものでしかなかったため(最も大量に製造された5フィルス切手でさえ、わずか8万4100枚しか印刷されていません)、ヨルダン国内ではすぐに切手の在庫が底をついてしまいました。 このため、1952年4月1日に発行されたものの、比較的在庫が残っていた“ヨルダン統一”の記念切手の記念名を棒線で抹消して、1953年5月18日以降、普通切手として流通させることになりました。今回ご紹介の切手はその1枚です。 さらに、これでも切手の不足を解消することが抱きなかったため、1953年6月には、強制貼付切手に“郵便”を意味する加刷を施した切手も発行されるなど、1954年2月9日、ブラッドバリー・ウィルキンソン社製の新たな普通切手が発行されるまで、ヨルダンでは切手不足が続きました。 なお、このあたりの事情については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧にただけると幸いです。 ★★ トークイベント・講演のご案内 ★★ 以下のスケジュールで、トークイベント・講演を行いますので、よろしくお願いします。(詳細は、イベント名をクリックしてリンク先の主催者サイト等をご覧ください) 11月11日(日) 昭和12年学会大会 於・ベルサール神田 「昭和切手の発行」 *入場は無料ですが、学会への御入会が必要です。 11月16日(金) 全国切手展<JAPEX 2018> 於・都立産業貿易センター台東館 15:30- 「チェ・ゲバラとキューバ革命」 *切手展の入場料が必要です 12月9日(日) 東海郵趣連盟切手展 於・名古屋市市政資料館 午前中 「韓国現代史と切手」 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス 10:00-11:30 「切手と仏教」 予約不要・聴講無料 ★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) |
2018-05-15 Tue 01:34
1948年5月15日に第一次中東戦争が勃発してから、きょう(15日)で、ちょうど70年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました、(画像はクリックで拡大されます)
これは、第一次中東戦争中の1949年1月、トランスヨルダン(当時)の首都、アンマンからロンドン宛の郵便物で、“アラブの土地、パレスチナを守れ”とのスローガン印が押されています。また、国王アブドゥッラーの肖像切手のほか、強制貼付切手として、イブラヒーム・モスクを描く3および5ミリーム切手、岩のドームを描く10および15ミリーム切手が貼られています。 1948年5月14日、英国による委任統治の期限が切れるタイミングに合わせて、ユダヤ国民評議会はユダヤ人国家イスラエルの独立を宣言。これに対して、イスラエルの建国を認めない周辺のアラブ諸国(エジプト、トランスヨルダン、レバノン、シリア、イラク)は、即日、イスラエルに宣戦を布告し、イスラエルとアラブ諸国との第一次中東戦争が勃発しました。 開戦当時、アラブ側は兵員・装備ともにイスラエルを圧倒しており、緒戦の戦局はアラブ側有利で推移します。特に、トランスヨルダンの精鋭部隊、アラブ軍団は、イラク軍とともに“岩のドーム”があるエルサレム旧市街(東エルサレム)を含むヨルダ川西岸地区を占領。終戦までこの地を保持しました。一方、エジプト軍は、5月15日、隣接するガザ地区を占領し、自国領に編入しています。これに対して、20世紀以降に建設された新市街を中心とする西エルサレムはイスラエルが占領。エルサレムは東西に分割されることになりました。 エルサレム旧市街を占領したトランスヨルダンは、もともと、第一次大戦後の旧オスマン帝国領の分割の過程で、1921年、英国がヨルダン川東岸地域に委任統治領として設定しました。トランスヨルダンという名は“ヨルダン川の向こう”という意味ですが、英国を基準に見ればヨルダン川東岸を意味しています。 1946年、トランスヨルダンは英国から独立しますが、この時点では、ヨルダン川西岸は同国の領土ではありませんでした。ところが、1947年5月31日、トランスヨルダンが発行した“強制貼付切手”には、ヨルダン川西岸、英国委任統治下にあったパレスチナ域内の風景も取り上げられています。今回ご紹介のカバーに貼られている切手の岩のドームと、イブラーヒーム・モスクは、いずれも、第一次中東戦争が勃発すると、トランスヨルダンの管理下に置かれました。 そもそも、第一次中東戦争に参戦したアラブ諸国の大義名分は、ユダヤ人国家イスラエルの建国を阻止し、パレスチナを解放することとされていました。今回ご紹介のカバーのスローガン印が“アラブの土地、パレスチナを守れ”となっているのも、そうした事情によるものです。 しかし、現実には、ガザ地区を占領したエジプトと同様、ヨルダン川西岸を占領したトランスヨルダンは、混乱に乗じ、パレスチナの犠牲の上に自国の権益を拡大しようという意図をもって参戦していました。 トランスヨルダンが、いつから英国撤退後のパレスチナ(の一部)を占領しようと企図していたかは定かではありませんが、結果的に、こうした切手が郵便物に貼られ、人々の間を流通している間に、そうした方針が固められ、戦争の勃発と同時にそれが実行に移されたことになります。 そうした背景の下、今回ご紹介のカバーにある「アラブの土地、パレスチナを守れ」というスローガンは、自国の領土拡張の戦争にトランスヨルダンの国民を動員するうえで、一定以上の説得力を持っていましたし、戦争の結果として、パレスチナに独自のアラブ国家が建国されなければ、トランスヨルダンが“同胞のために”パレスチナの占領地を管理するのは正当な行為であるというロジックも導き出されることになるわけです。その意味では、トランスヨルダンの強制貼付切手は第一次中東戦争の前兆になっていたとみなすことも可能かもしれません。 さて、第一次中東戦争は、緒戦のうちこそ旧パレスチナの一部を占領するなどアラブ諸国が優勢でしたが、その優位は長くは続きませんでした。開戦後まもない5月22日には、国連安保理がパレスチナ問題を議題として取り上げ、パレスチナ全域での軍事行動の即時停止の呼びかけを決議。これを受けて、国連の仲介により、6月11日から7月8日までの4週間にわたり、第一次休戦が両軍の間で合意されました。 イスラエルは、この休戦期間を最大限に利用し、5月28日に創設されたイスラエル国防軍を中心に態勢を建て直していきます。これに対して、アラブ側では、休戦期間中、各国の路線対立から指導部内の不協和音が表面化し始め、特に、パレスチナ地域の自国への併合をめざすトランスヨルダンに対しては、他のアラブ諸国からも大きな不満の声があがっていました。 当然、イスラエルはこうしたアラブ側の足並みの乱れに乗じて緒戦での失地回復を目指して攻勢を展開。10月16日には、シナイ半島のネゲブ砂漠でエジプト軍への総攻撃を開始し、緒戦の失地を回復したばかりか、国境を越えてエジプト領内に侵攻しました。 イスラエルが英委任統治時代の旧パレスチナの領域をも越えてしまったことで、エジプトを実質的な支配下においていた英国は深刻な危機感を抱き、1949年1月1日、イスラエル駐在の米国大使を通じて、「イスラエル軍がエジプト領内から撤退しない場合、英国は1936年の英国=エジプト条約に基づいてエジプト軍を支援する」と通告。イスラエル軍にシナイ半島からの撤収を強く要求ました。 このため、イスラエルも戦争終結に向けて譲歩の姿勢を示すようになり、1949年2月23日、エジプトがイスラエルとの休戦条約を調印したのを皮切りに、3月23日にはレバノンが、4月3日にはトランスヨルダンが、7月20日にはシリアが、それぞれ、休戦条約を調印。これら各国とイスラエルとの停戦ラインが事実上の“国境”となりました。 エルサレムに関しては、すでに述べたように、旧市街を含む東エルサレムはトランスヨルダンの支配下に置かれ、20世紀以降に建設された新市街の広がる西エルサレムがイスラエルの領土となります。 休戦に先立ち、1948年12月1日、トランスヨルダンの占領下に置かれていたヨルダン川西岸地区では、現地の親ヨルダン派のパレスチナ人指導者が死海北西岸のイェリコでパレスチナ・アラブ評議会を開催し、トランスヨルダン国王アブドゥッラーを“全パレスチナ人の王”とし、同国王に対して西岸地区のトランスヨルダンへの併合を要請する決議を採択。これを受けて、同月13日、トランスヨルダン議会はイェリコでの評議会の決議を全会一致で承認。西岸地区の併合に向けて着々と準備を進めていきました。 そのうえで、イスラエルとの休戦協定成立後の1949年6月、トランスヨルダンはヨルダン川西岸地区と東エルサレムを併合し、新国家“ヨルダン・ハシミテ王国”の建国を宣言した。ヨルダン川の両岸を領有したことに伴い、“川の向こう側(東側)”を意味する“トランス”が削除されたわけで、これが現在のヨルダン国家となります。 しかし、パレスチナ人の中には、ヨルダンへの併合を潔しとしない者も少なくなかったうえ、戦争を通じて一人大幅に版図を拡大したヨルダンに対して周辺アラブ諸国は大いに反発。1951年7月20日、国王アブドゥッラーはエルサレムのアクサー・モスクで金曜礼拝の最中に暗殺され、息子のタラールが第二代国王として即位しました。 いずれにせよ、第一次中東戦争の結末は、その契機となった1947年11月の国連決議第181号と比べて、パレスチナのアラブに対して、はるかに大きな犠牲を強いるものとなりました。 すなわち、国連決議ではパレスチナを分割し、アラブ国家とユダヤ国家を創設することになっていましたが、アラブ国家は実際には創設されず、イスラエルのみが成立した。また、エルサレムを国連の信託統治下に置くというプランも、東西エルサレムがイスラエルとヨルダンによって分割されることにより、実現されないままに終っています。 その後、アラブとイスラエルの“中東戦争”は第四次まで起こっていますが、そもそもアラブ諸国の側も、彼らが掲げていた“パレスチナ解放”の大義を当初から踏みにじっていたことを見逃してはなりますまい。 なお、このあたりの事情については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が7月刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) なお、当初、『チェ・ゲバラとキューバ革命』は、2018年5月末の刊行を予定しておりましたが、諸般の事情により、刊行予定が7月に変更になりました。あしからずご了承ください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-04-22 Sun 00:17
きょう(22日)は“アース・デイ”です。というわけで、地球を描いた切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1950年に発行されたヨルダン最初の航空切手で、地球を背景に飛ぶ飛行機が描かれています。 ヨルダンにおける航空郵便は、トランスヨルダン時代の1947年11月12日、アンマン=ベイルート間で行われたのが最初で、その後、1948年1月15日にカイロまで延伸されました。当時の料金は10グラムまでの基本料金が25ミリームです。 アラブ世界では、すでに、シリア、レバノン、エジプト、イラクの各国が航空郵便用の切手(航空切手)を発行していたため、トランスヨルダンでもこれに倣い、航空郵便の開始にあわせて最初の航空切手が発行されることになりましたが、1948年5月に第一次中東戦争が勃発したため、実際の切手発行は戦後の1950年9月16日までずれ込んでいます。 この間、トランスヨルダンはヨルダン川西岸地区を併合してヨルダン・ハシミテ王国となったため、航空切手には新国名が表示されることになり、結果的に、この切手が“ヨルダン・ハシミテ王国”表示の最初の切手となりました。 また、この航空切手は、額面表示がミリームからフィルスに変更された最初の切手でもあります。 すなわち、英統治時代を含むトランスヨルダンの時代、この地域で流通していた通貨は英委任統治下のパレスチナと同じくパレスチナ・ポンドでしたが、1946年5月25日、トランスヨルダンが独立すると、独自通貨の発行が計画され、その具体的な手続きとして、1949年第35号臨時法令が制定されました。同法により設置されたヨルダン通貨委員会は、1950年7月1日、新通貨としてパレスチナ・ポンドと等価のヨルダン・ディナールが創設。これに伴い、それまでのパレスチナ・ポンドは同年9月30日をもって廃止されました。なお、ヨルダン・ディナールの補助通貨にはディルハム、ピアストル、フィルスの3種があり、1ディナール=10ディルハム=100ピアストル(カルシュ)=1000フィルスです。 ちなみに、トランスヨルダンからヨルダンへの移行期とその郵便については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもいろいろ例を挙げてご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 * 昨日(21日)のスタンプショウでのトークイベントは、無事、盛況のうちに終了いたしました。ご参加いただいた皆様ならびにスタッフ関係者の皆様に、この場をお借りしてお礼申し上げます。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が5月に刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-12-25 Mon 10:11
きょう(25日)はクリスマスです。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1964年1月4日、ヨルダンが発行した“教皇パウロ6世の聖地訪問”の記念切手のうち、ベツレヘムの聖誕教会を取り上げた1枚です。 聖誕教会は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(在位306-37)の時代、イエス・キリストが生まれたとされる洞穴の上に建設が開始され、息子のコンスタンティヌス2世治下の339年に完成しました。ただし、当初の聖堂は6世紀に焼失し、西暦6世紀、ユスティニアヌス1世の時代に再建されました。 さて、今回ご紹介の切手の発行の名目となった教皇の聖地訪問は1964年1月4日に行われました。このとき、教皇はエルサレム旧市街、ベツレヘム(以上、ヨルダン領)、ナゼレ(イスラエル領)の三聖地を訪問。現地滞在時間はわずか11時間でしたが、教皇自身による聖地訪問は、史上初のことで、さらにいえば、教皇が在位中にイタリアを離れたのも、さらには、飛行機に乗ったのも、このときが初めてのことでした。 パウロ6世(本名ジョヴァンニ・バッティスタ・モンティーニ)は1897年、北イタリアのサレッツォ生まれ。1920年に司祭となり、第二次大戦中は、バチカン国務長官ルイジ・マリオーネ枢機卿の下、イタリアのファシスト党やナチス・ドイツとの交渉などを担当する一方で、1944年にマリオーネ枢機卿が亡くなると、国務長官の代行としてレジスタンスの保護にも尽力。1953年にミラノの大司教に、1958年に枢機卿に任じられ、1963年、教皇ヨハネ23世の死去により教皇に選出されました。 ヨハネ23世は、1962年からカトリック教会の近代化と刷新のため、第二バチカン公会議を開催。公会議は、第一会期(1962年10月11日-12月8日)、第二会期(1963年9月29日-12月4日)、第三会期(1964年9月14日-11月21日)、第四会期(1965年9月14日-12月8日)に分けて行われましたが、ヨハネ23世は1963年6月に亡くなったため、第二会期以降は、後を継いだパウロ6世が取り仕切っています。 教皇の聖地訪問は公会議の第二会期が終わった直後の1964年12月、“純然たる個人の巡礼”として電撃的に発表されましたが、実際には、当時はヴァチカンとの間に正式の国交がなかったヨルダン、イスラエル両国(ちなみに、ヴァチカンとイスラエルの国交樹立は1993年、ヨルダンとの国交樹立は1994年です)との間で、教皇の即位直後から入念に準備が進められていました。 今回ご紹介の切手は、このときの教皇の聖地訪問当日に4種セットで発行されたもので、左に教皇、右にヨルダン国王のフセイン1世の肖像を配するというフォーマットは各種共通で、中央に取り上げられている建造物が異なっています。 当時のヨルダンでは切手の製造は英国の印刷会社に委託されており、数カ月の準備期間が必要なことから考えると、教皇の訪問当日に記念切手を発行するためには、公会議の第二会期が始まった1963年9月の時点で、ヨルダン政府は教皇の聖地訪問を受け入れることを決定し、その準備に取り掛かっていたと考えるのが自然なことと思われます。 なお、教皇がこの時期にエルサレムを訪問したのは、もちろん、“純然たる個人の巡礼”ではなく、東方正教会の最大の権威であるコンスタンティノープル総主教(全地総主教)のアシナゴラスと会談することにありました。 アシナゴラスは、1886年、ギリシャ北西部のイピロス(エピルスとも)地方のヴァシリコ生まれ。1910年に輔祭(主教・司祭の助手)になり聖職者としてのキャリアをスタートさせ、コルフ主教、南北アメリカ大主教を歴任し、1948年にコンスタンティノープル総主教に就任。以後、キリスト教の宗派を超えた結束を目指すエキュメニズムに積極的に取り組んだことで知られています。 エキュメニズムは、もともとはプロテスタントにおいて始まった運動ですが、1937年、この運動を促進するための組織として、正教会を含む世界教会協議会設立の合意が成立しました。ただし、カトリックは世界教会協議会には参加せず、第二次世界大戦の勃発もあり、協議会の成立は戦後に持ち越されています。 ところが、1947年11月に国連でパレスチナ分割決議が可決されたのを機に、パレスチナが内戦状態に陥り、1948年5月にはイスラエルが建国を宣言して第一次中東戦争が勃発。キリスト教にとっての聖地も紛争の直接的な危機にさらされることになり、1948年8月23日、協議会は急ぎ設立されることになりました。ちなみに、「1948年のイスラエル建国以来、聖地の平和のために努力してきた」というのが、協議会の自己認識です。 一方、当初、エキュメニズムとは距離を置いてきたカトリックですが、1958年に教皇となったヨハネ23世は、エキュメニズムに熱心に取り組み、1500年代以来、初めて英国教会大主教をヴァチカンに迎え、正教会へも公式メッセージを送ったほか、東西冷戦の解決を模索し、1962年のキューバ危機においても米ソ双方の仲介に尽力しています。カトリック教会の近代化をめざして、第二ヴァチカン公会議を開催したのも、こうした流れに沿ったものでした。 ヨハネ23世の後を継いだパウロ6世は、前教皇の遺志を継いでエキュメニズムにも取り組み、1963年の就任後ほどなくして、アシナゴラスに親書を送っています。何でもないことのようだが、ローマ教皇がコンスタンティノープル総主教に親書を送ったのは、実に、1584年、教皇グレゴリオ13世がイェレミアス2世に対して、グレゴリオ暦の採用に関しての書簡を送って以来、約380年ぶりのことです。 その後、ヴァチカンとコンスタンティノープル総主教庁との水面下での接触・交渉を経て、1963年末、パウロ6世の聖地訪問が発表されると、これに呼応するかたちでアシナゴラスがエルサレムを訪問し、旧市街の東に位置するオリーブ山での歴史的な直接会談が実現。パウロ6世とアシナゴラスとの会談では、1054年の相互破門(総主教ミハイル1世と教皇レオ9世が互いに相手を破門したとされる事件)の解消が宣言されました。 なお、東エルサレムならびにベツレヘムを含むヨルダン統治時代の西岸地区については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は28日!★★ 12月28日(木)16:05~ NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第13回が放送予定です。今回は、現在公開中の映画『ヒトラーに屈しなかった国王』にちなんで、第二次大戦中のノルウェーについてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-11-06 Mon 08:31
きょう(6日)は一の酉です。というわけで、例年同様、最新の拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』の重版を祈念して、同書で取り上げた“鳥”の切手の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1991年にヨルダンが発行した“(第一次)インティファーダ4周年”の記念切手で、パレスチナ地図とハトを背景に、岩のドームとアクサーモスク、それに投石する人々が描かれています。 ヨルダンとイスラエルの和平交渉は、第一次インティファーダ直前の1987年、当時のイスラエル外相シモン・ペレスとヨルダンのフサイン国王が極秘裏に会談し、ヨルダン川西岸(の一部)をヨルダンに返還する平和条約の調印に向けて水面下で準備が進められましたが、このときは、イスラエル首相イツハク・シャミルの反対で破談になっています。 その後、第一次インティファーダを経て、1988年にPLOがイスラエルの承認とテロの蜂起を前提とする“パレスチナ国”の樹立を宣言すると、ヨルダンはヨルダン川西岸地区の領有権(の主張)をパレスチナ国に譲渡しましたが、岩のドームを含む神殿丘の管轄権は、引き続き、ヨルダン宗教省が維持することになりました。 今回ご紹介の切手でも、こうしたことを踏まえて、岩のドームを含む神殿の丘のイメージが取り上げられています。 一方、ヨルダンが、神殿の丘の管轄権を除き、ヨルダン川西岸の領有権(の主張)をパレスチナ国に譲渡したことになっているのに対して、ヨルダン川西岸地区を実効支配していたイスラエルは、現在にいたるまでパレスチナ国を国家承認していません。 このため、1993年のオスロ合意を受けてヨルダン川西岸地区でパレスチナ人の自治を行うにしても、いったん、当該地域の帰属をめぐって、イスラエルとヨルダンの間で調整が必要となります。 かくして、1994年年に入ると、イスラエルのラビン首相とペレス外相、ヨルダンのフサイン国王の三者で和平交渉が開始されました。 交渉に先立ち、国王はエジプトのホスニー・ムバーラク、シリアのハーフェズ・アサドの両大統領に意見を求めましたが、ムバーラクが和平交渉に賛意を示したのに対して、アサドはイスラエルとは交渉のみにとどめ、いかなる合意も結ぶべきではないと主張したと伝えられています。 これに対して、米国のクリントン大統領はヨルダンに対してイスラエルと交渉を開始し、和平協定を結べば、九億ドルにも及ぶヨルダンの対米債務を免除することを約束。この結果、1994年7月25日、米国でイスラエルのラビン首相とヨルダンのフセイン国王が“ワシントン宣言”に調印。同年10月、ヨルダンとイスラエルの平和条約が調印されました。 同条約により、国境が一部修正され、一部の土地がヨルダン領に編入されましたが(その場合でも、イスラエルの農民が耕作していた土地に関しては、リース方式を導入することで、従来どおりの使用権が保証されました)、ヨルダンは東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区の領有権を放棄したことが確認されました。そのうえで、神殿の丘の管轄権はヨルダンにあること、イスラエルは毎年、ヨルダンに対して5000万立法メートルの水を提供し、ヤルムーク川(シリア南西部を水源とし、ゴラン高原の東から南へ回り込んでヨルダンとシリアの国境を、次いでヨルダンとイスラエルの国境を形成し、ヨルダン川に流れ込む川)を水源として活用することを認めること、両国は互いに相手国に対して敵対的なプロパガンダを中止し、安全保障面で協力することなどが定められました。 これを受けて、1995年9月、イスラエルとPLOはワシントンでパレスチナ自治拡大協定を調印し、PLOの自治権が行使される地域や分野などが具体的に定められることになります。 ★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は9日!★★ 11月9日(木)16:05~ NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第11回が放送予定です。今回は、11月7日に100周年を迎えたロシア革命についてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★ 明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。 現在、出品作品を11月10日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-10-20 Fri 11:51
私事で恐縮ですが、ブラジル・ブラジリアで開催される世界切手展<Brasilia 2017>に出品者およびコミッショナーとして参加するため、昨晩出国し、現在、カタールのドーハ空港にいます。これから、経由地のブエノスアイレス(アルゼンチン)に向かい、ブラジルには22日に入国の予定です。というわけで、まずは次の経由地、ブエノスアイレス宛のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第一次中東戦争勃発後の1948年8月、トランスヨルダンの首都、アンマンからアルゼンチン・ブエノスアイレス宛の書留便で、岩のドームを描く強制貼付切手が貼られています。 1945年に結成されたアラブ連盟は、加盟国間の思惑がさまざまに異なる同床異夢の組織でした。このため、英委任統治下のパレスチナで、シオニストとアラブの対立が激化し、生命・財産の危機にさらされているパレスチナの“アラブ同胞”を救済しようと主張することは、各国の立場の違いを超えて広く賛同を得られる数少ないトピックの一つでした。 このため、アラブ連盟は加盟各国に対して、パレスチナ救済のための義捐金を集めることを要請。そのための一手段として、トランスヨルダン政府は、1946年7月22日、強制貼付切手の発行を可能にする法改正を行ったうえで、パレスチナの風景を描く強制貼付切手の製造を発行し、郵便料金の半額相当の強制貼付切手を郵便物に貼ることを利用者に義務づけました。 トランスヨルダンの強制貼付切手は、1ミリームから1ポンド(=1000ミリーム)までの12額面があり、英国のトマス・デ・ラ・ルー社製で、デザイナーのヤークーブ・スッカルが図案を制作しました。このうち、中額面の10、15、20、50ミリーム切手がエルサレムの岩のドームを取り上げています。 今回ご紹介のカバーは、そうした強制貼付切手の適正使用例で、南米宛の外信書留便の料金140ミリームに対して、半額の70ミリーム相当の強制貼付切手(いずれも岩のドームを描くもの)が貼られています。また、カバー左下には、トランスヨルダン当局による六角形の検閲印が押されています。なお、トランスヨルダンの強制貼付切手については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 さて、今回の切手展ですが、会期は24日からなのですが、作品を搬入しなければなりませんので、22日にブラジリアに入る必要があります。ブラジリア行きの経路はいろいろ考えられるのですが、今回は、本業である文筆業の取材も兼ねてブエノスアイレス経由としましたので、少し早目の出発となりました。なお、展覧会の会期は29日までで、作品をピックアップした後、現地時間の30日にブラジルを出国し、11月1日に帰国の予定です。 今回の旅行期間中も、ノートパソコンを持っていきますので、このブログも可能な限り更新していく予定です。ただ、なにぶんにも海外のことですので、無事、メール・ネット環境に接続できるかどうか、不安がないわけではありません。場合によっては、諸般の事情で、記事の更新が遅れたり、記事が書けなかったりする可能性もありますが、ご容赦ください。 ★★★ トークイベントのご案内 ★★★ 11月4日(土) 12:30より、東京・浅草で開催の全国切手展<JAPEX>会場内で、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』刊行記念のトークイベントを予定しております。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★ 10月19日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第10回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、11月9日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 なお、19日放送分につきましては、10月26日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。 ★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★ 明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。 現在、出品作品を11月10日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-10-14 Sat 13:27
きょう(14日)は“鉄道の日”です。というわけで、鉄道関連の切手の中から、新刊の拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』にからめて、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、、1969年12月にヨルダンが発行した“聖地の悲劇”の切手のうち、第三次中東戦争で破壊されたヒジャーズ鉄道の線路を取り上げた1枚です。 ヒジャーズ鉄道は、ダマスカス=メッカ間を結ぶ鉄道としてオスマン帝国によって計画され、1900年、ゲオルク・ジーメンスのドイツ銀行の出資を得て着工。1908年9月1日、スルターン、アブデュルハミト2世の即位記念日に合わせて、ダマスカス=メディナ間の約1300キロで本線が開通しました。ただし、最終的に、メディナ以南への路線は建設されず、当初の目的地であったメッカまでは到達しませんでした。また、本線に加え、途中のダルアーから東進して内陸のボスラ、同じく西進して地中海岸の港湾都市ハイファ、アッコンまで、さらにその間のアフラから南進してナーブルスまでを結ぶ支線と、ヨルダン南部のマアーンから紅海のアカバ湾にあるアカバの港へ出る支線がありました。 今回ご紹介の切手は、第三次中東戦争でイスラエルがヨルダン川西岸を占領したことへの抗議の意を込めて発行されたものですから、切手に描かれている線路は、占領地域内のナーブルス周辺の風景ということになろうかと思います。 かつての東地中海では、ダマスカスを拠点とした内陸交通が盛んでしたが、スエズ運河の開通以来、ハイファやベイルート経由の船便が交通・輸送手段として急速に台頭し、ダマスカスの地位は相対的に低下していました。このため、ダマスカスの経済界は鉄道の開通によってダマスカス経済が再浮上することへの期待を寄せていました。 ところが、第一次世界大戦中、ヒジャーズ鉄道は、オスマン帝国軍の重要な兵站・物資供給ルートとなってみなされ、いわゆるアラブ叛乱により、アラブ・英連合軍により破壊されました。 さらに、第一次大戦後、オスマン帝国が解体され、沿線に誕生した各政府がヒジャーズ鉄道の運営を担当することになったものの、トランスヨルダン以南のヒジャーズ王国域内は運営者がなく、そのまま自然消滅。さらに、ヨルダン川以西のハイファへまでの支線も、1948年の第一次中東戦争で破壊され廃線となりました。その意味では、今回ご紹介の切手に描かれた線路がナーブルス近郊のものであったとしても、第三次中東戦争の時点ではすでに鉄道としては機能しておらず、実質的には、線路が破壊されたことによるダメージもほとんどなかったということになりますな。 その後、1960年代半ばにはヒジャーズ鉄道の再開が企図されたこともありましたが、1967年の第三次中東戦争(6日間戦争)で計画は頓挫。現在では、アンマンとダマスカスを結ぶヒジャーズ・ヨルダン鉄道のうちのアンマン=アル・ジーザ間の約30キロと、アンマンから南部への鉄道、特にマアーン近郊のリン酸塩の鉱山からアカバ湾に向かって走るアカバ鉄道が、旧ヒジャーズ鉄道を継承する鉄道として運行されるのみとなっています。 ★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は19日!★★ 10月19日(木)16:05~ NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第10回が放送予定です。今回は、10月18日が米国によるアラスカ領有150年の記念日ということで、アラスカを買った米国務長官、ウィリアム・スワードにスポットを当ててお話をする予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★★ トークイベントのご案内 ★★★ 11月4日(土) 12:30より、東京・浅草で開催の全国切手展<JAPEX>会場内で、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』刊行記念のトークイベントを予定しております。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。 ★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★ 明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。 現在、出品作品を11月10日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-07-28 Fri 19:02
エルサレム旧市街にあるユダヤ教・イスラム双方の聖地“神殿の丘(ユダヤ名)/ハラム・シャリーフ(イスラム名)”をめぐり衝突が続いていた問題で、イスラエル警察は、きのう(27日)、今月14日以降新たに設置した全ての警備機器を撤去。これを受けて、約2週間ぶりに敷地内でのムスリムの礼拝が再開されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1969年12月にヨルダンが発行した“聖地の悲劇”の切手のうち、瓦礫越しに見える岩のドームが描かれています。 神殿の丘/ハラム・シャリーフと呼ばれている場所は、もともとは自然の高台で、紀元前10世紀頃、ソロモン王がここにエルサレム神殿(第一神殿)を建造しました。第一神殿は、紀元前587年、バビロニアにより破壊されましたが、紀元前515年に再建されます。これが第二神殿で、紀元前19年頃、神殿はヘロデ王によって大幅に拡張され、周囲は壁に覆われました。この時の神殿の範囲が現在の“神殿の丘”になります。 その後、紀元後70年、第二神殿はローマ帝国によるエルサレム攻囲戦によって破壊され、ヘロデ王時代の西壁の幅490m、高さ32m(うち、地上に現れている部分は幅57m、高さ19m)が残るのみとなります。これが、今回ご紹介の切手にも取り上げられた“嘆きの壁”です。なお、この壁に対して各国語で“嘆き”の形容詞が付けられているのは、神殿の破壊を嘆き悲しむため、残された城壁に集まるユダヤ人の習慣を表現したもので、ヘブライ語では“西の壁”と呼ばれています。 132-135年のバル・コクバの乱(ユダヤ属州でのローマ帝国に対する反乱)の後、ユダヤ教徒は原則としてエルサレムへの立ち入りを禁止され、4世紀以降は1年に1日、例外的に立ち入りを認められるという状況が続いていました。これに対して、638年、いわゆるアラブの大征服の一環として、ムスリムがエルサレムを占領すると、ムスリムの支配下で、ローマ時代以来禁止されていたユダヤ教徒のエルサレムへの立入が認められるようになります。この結果、生活上の権利に一定の制約は設けられたものの、ユダヤ教徒はキリスト教徒とともに、アブラハム以来の一神教の系譜に属する「啓典の民」として、この地でムスリムとともに共存していくことになりました。 ところで、イスラムでは、エルサレムはメッカ、メディナに次ぐ第3の聖地とされており、691年には、アラブ系のウマイヤ朝によって、ムハンマドの天界飛翔伝説にちなむ聖なる石を包むように、“神殿の丘”の敷地内に岩のドームが建設されます。当時、メッカはウマイヤ朝の支配に異を唱えるイブン・ズバイルの一派により占領されており、ウマイヤ朝はメッカを回復できないという最悪の可能性も考慮して、ドームの建設を計画したといわれています。 当然のことながら、“神殿の丘”はユダヤ教にとっての聖地でしたが、正統派のユダヤ教においては、世界の終末に救世主が現れて神殿を再建するまで、ユダヤ教徒は神殿跡に入ってはならないとの教義もあります。したがって、神殿の丘の敷地内にイスラムの聖地としてモスクが建造されても、少なくとも世界の終末までは、ユダヤ教徒にとって実質的なダメージはないというロジックが導き出されることになり、岩のドームを聖地とするムスリムと、嘆きの壁を聖地とするユダヤ教徒住み分けが可能となりました。 その後、十字軍による侵略はあったものの、ラテン王国(キリスト教徒の占領軍が建国)の消滅後は、キリスト教側も聖地の奪還を断念。聖地への自由な通行権の確保と、現地キリスト教徒の保護を主要な関心とするようになり、エルサレムは三宗教共通の聖地(ただし、その具体的な場所は重ならない)として、ムスリムの支配者の下で、各宗教の信徒が共存する状況が20世紀に入るまで続くことになります。 神殿の丘を含むエルサレムの旧市街は、第一次大戦まではオスマン帝国の支配下に置かれていましたが、その後、英国委任統治下のパレスチナに編入され、第一次中東戦争を経て、1948-67年にはヨルダンの支配下に置かれます。ちなみに、ヨルダン支配下の“神殿の丘/ハラム・シャリーフ”には、イスラエル国籍の保有者の立ち入りは禁止されていました。 1967年の第三次中東戦争により、イスラエルはエルサレム旧市街を占領し、自国領への編入を宣言しましたが、岩のドームのある“神殿の丘(ハラム・シャリーフ)”は歴史的にワクフが設定されていることから、ヨルダン宗教省が引き続きその管理を行い、その域内ではユダヤ教徒とキリスト教徒による宗教儀式は原則禁止という変則的な状況となります。 ワクフというのはイスラムに独特の財産寄進制度で、なんらかの収益を生む私有財産の所有者が、そこから得られる収益を特定の慈善目的に永久に充てるため、その財産の所有権を放棄すること、またはその対象の財産やそれを運営する組織を意味する語です。一度、ワクフとして設定された財産については一切の所有権の異動(売買・譲渡・分割など)が認められません。ちなみに、パレスチナ、特に、ハラム・シャリーフがワクフであるとの根拠は、638年、第二代カリフのウマルが、エルサレムの無血開城に際してギリシャ正教会総主教と結んだ盟約にあるとされています。 今回ご紹介の切手も、そうした事情を踏まえ、ヨルダン宗教省はムスリムを代表してワクフ財産としての岩のドーム(を含む神殿の丘)を管理する権限を有するという、彼らの主張を表現したものです。 さて、今回の神殿の丘/ハラム・シャリーフをめぐる衝突は、今月14日、アラブ系イスラエル人(イスラエル国籍を持つパレスチナ人)3人が警官を銃撃した事件が発端になっています。このため、16日、イスラエル側は治安対策を理由に、神殿の丘/ハラム・シャリーフの入口にムスリム専用の金属探知機を設置しました。 このことが、ハラム・シャリーフに対するヨルダン宗教省の“管理権”を侵害するものとしてムスリムの反発を招き、21日の金曜礼拝にあわせて、エルサレム旧市街やパレスチナ自治区ヨルダン川西岸各地で大規模な抗議行動が発生。イスラエル治安部隊との衝突でパレスチナ人3人が死亡、約400人が負傷したほか、同日夜にはパレスチナ人がユダヤ人入植地に侵入し、3人を刺殺する事件が起きています。また、23日には、ヨルダンのイスラエル大使館敷地内で、イスラエルへの反発が原因とみられる襲撃事件も発生しました。 このため、25日、イスラエル側は金属探知機を撤去しましたが、パレスチナ側は14日以前の警備態勢に戻すよう求め、聖地敷地外の路上で数千人が抗議の礼拝を続けていました。 そこで、28日・金曜日の集団礼拝を前に、27日、イスラエル警察がすべての警備機器を撤去すると、ハラム・シャリーフの入口の外にいたパレスチナ人らがアルアクサ・モスクへと殺到。その際、興奮した群衆の一部が「われわれ自身が犠牲になる」などと叫んで警官隊を挑発したり、建造物の屋根によじ登ってパレスチナの旗を振ったりするなど騒擾状態に陥ったため、警官隊は閃光弾などを使って鎮圧し、ロイター通信によると少なくとも113人が負傷しました。イスラエル当局は、きょう(28日)の集団礼拝を前に、治安部隊を増強して厳戒態勢をとっています。 さて、ことし(2017年)は、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。 これにあわせて、本のメルマガで連載中の「岩のドームの郵便学」に加筆修正した書籍『パレスチナ現代史:岩のドームの郵便学』(仮題)の刊行に向けて、現在、制作作業を進めています。発売日などの詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。 * 7月27日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」第6回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。 ★★★ ツイキャス出演のお知らせ ★★★ 7月30日(日)22:00~ 拉致被害者全員奪還ツイキャスのゲストで内藤が出演しますので、よろしかったら、ぜひ、こちらをクリックしてお聴きください。なお、告知のツイートはこちらをご覧ください。 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★ 7月27日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第6回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、高校野球があるため、少し間が開いて8月24日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 なお、27日放送分につきましては、8月3日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-01-18 Wed 10:58
『本のメルマガ』631号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、1985年のアンマン合意について取りあげました。その記事の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1985年にヨルダンが発行した国王50歳誕生日の記念切手で、国王の肖像とともに岩のドームが取り上げられています。 1983年末のエジプトとPLOの和解を受けて、1984年1月、ヨルダンのフセイン国王は議会を再開し、パレスチナ人の有力者である(イスラエル占領下の)ヨルダン川西岸住民代表の政治参加を制度的に復活させることによって、パレスチナ問題解決への積極姿勢を示します。これを受けて、2月にはアラファトがフセイン国王と会談しました。 ヨルダンとPLOの関係は、1970年9月、PLO内でファタハに次ぐ勢力を誇っていたゲリラ組織、パレスチナ解放戦線(PFLP)がアラブ諸国とイスラエルとの和平交渉を妨害するため、欧米系航空会社の旅客機5機をハイジャックし、うち3機をヨルダンのドーソン基地に強制着陸させ、爆破・炎上させた“ブラック・セプテンバー事件”を機に断絶していました。 PLO内で反主流派の突き上げにあっていたアラファトは、ヨルダンとの関係修復という功績により、PLO内の権力基盤を維持しようとしたのでえす。 一方、パレスチナからの難民を多数自国内に抱えるヨルダンとしては、PLOが自国の体制に脅威を与えない穏健組織となったうえで、自らがパレスチナ和平に向けてのイニシアティヴを握ることが外交上、重要な課題となっていました。 かくして、アラファトとの会談後、フセイン国王は、1984年3月頃より米国の中東政策への批判を強め、ソ連を含む国際会議の開催を提唱するようになります。 こうした国王の動きを受けて、当事者であるPLO内部では4月下旬にアラファト派と中間派が和解し、9月15日までにパレスチナ民族評議会(PNC)を開催することなどを定めた“アデン合意”が成立します。ただし、反アラファト派はアデン合意に強く反発し、かえって、アラファト派と反アラファト派の反目は強まりました。 その後、7月にはソ連が中東和平提案を発表して国連の下での国際会議開催を提唱。9月にはイスラエルで対パレスチナ強硬派のイツハク・シャミール政権に代わり、穏健派のシモン・ペレス労働党党首を首班とする労働党・リクード連立政権が成立したほか、ヨルダンとエジプトが外交関係を再開しています。 こうして、全体に宥和ムードが漂う中、1984年10月、ヨルダンの首都アンマンで第17回PNCが開催されました。 議場では、フセイン国王が中東問題の解決に向けてのPLOとの共同行動を進める意欲を示したほか、アラファトも自らの指導体制の再確立を図るとともに、エジプトおよびヨルダンとの関係強化の方針を強調。しかし、PLO反アラファト派は、そもそも、このときのPNCを正規の開催とは認めず、議会を欠席。あらためて、PLO内部の亀裂の深さをうかがわせました。 その後、PLOアラファト派とヨルダンは“共同行動”の可能性について協議を重ね、翌1985年2月11日、両者の間でいわゆる“アンマン合意”が成立します。 その骨子は、①国連決議第242号(1967年の第3次中東戦争の戦後処理として、イスラエルに占領地から撤退することを求める一方で、アラブ側にはイスラエルの生存権を認め、イスラエルと共存することを求めている)を履行すること、②安保理常任理事国およびヨルダン、PLOを含むすべての関係当事国の参加する国際会議を開催すること、③ヨルダン川西岸地区でヨルダンとパレスチナの連合政府をつくる、の3点です。 アンマン合意を受けて、エジプト大統領のホスニー・ムバーラクは、2月25日、米国がヨルダン=パレスチナ合同代表団との対話を開始する→合同代表団とイスラエル代表団との対話を行う→国際会議を開催するという、プロセスを示した“ムバーラク提案”を発表しました。 当時の米国は、PLOを“テロリスト”と認定し、公式にはPLOとの交渉は拒否していましたから、3月12日、ムバーラクは米大統領のロナルド・レーガンと会談し、米国にPLOを含む合同代表団との対話を開始することの必要性を説いています。もちろん、この時の会談のみで米国がPLOのテロリスト認定を解除したわけではありませんが、4月13日には米国務次官補のロバート・マーフィーが中東諸国を歴訪して、和平プロセスの新たな進展を模索するなど、パレスチナ和平には何らかの進展がみられるかと期待されました。 今回ご紹介の切手は、こうした情勢を反映して、1985年11月の国王50歳誕生日にあわせて発行されたもので、国王の肖像とともに、1967年までヨルダンの統治下にあった岩のドームをとりあげ、アンマン合意以降、ヨルダンがパレスチナ和平の進展に向けて主導的な役割を果たしていることをアピールしています。 ところが、肝心のPLO内部では、反アラファト派が国連決議第242号に謳われた“イスラエルの生存権承認”の一項を頑として認めず、調整は難航。結局、アンマン合意から1年後の1986年2月、フセイン国王は合意を白紙撤回し、和平工作の中断を宣言せざるを得ませんでした。 これにより、ヨルダンとPLOとの関係を完全に断絶したわけではなかったものの、アンマンに開設されたPLOの連絡事務所は閉鎖され、国王は、連合政府構想を撤回したうえで、①西岸地区のパレスチナ人の経済的福祉についてはヨルダンが責任を負う、②ヨルダン政府が実施する5ヵ年計画は西岸地区に対しても適用される、③ヨルダン国会におけるパレスチナ人の議席割り当てを増やす、方針を明らかにします。 以後、フセイン国王は、イスラエルが存在しているという現実を踏まえたうえで、ヨルダン=パレスチナ=イスラエル3者による統治機構を作り、それによって、西岸地区をPLOから“独立”させ、部分的にせよ、西岸地区に対するヨルダンの主権を回復することを施行するようになりました。 その後も、PLOはアンマン合意の継続を模索したものの、最終的に、反アラファト派の強硬論に引きずられるかたちで、1987年、アンマン合意を破棄。このように、イスラエルとの共存(=イスラエルの生存権承認)という点で、組織としての意思統一に失敗したPLOに対しては、西岸地区のパレスチナ人の間にも失望の声が大きく、そのことが、やがて、第1次インティファーダの導火線になっていくのです。 ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2013-11-14 Thu 03:24
ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』517号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回は、第3次中東戦争前夜の東エルサレムの話を取り上げました。その中から、きょうはこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1964年11月20日、ヨルダンが発行した“岩のドーム(公開)再開”の記念切手で、ドームの全景を大きく描き、国王フサインの肖像を左側に配したデザインとなっています。 岩のドームの外壁には、1561―62年、オスマン帝国のスルターン、スレイマン1世によってタイル装飾が施されましたが、傷みが激しくなったため、新たにエルサレムの管理者となったヨルダン政府は、1955年以降、アラブ諸国ならびにトルコからの資金援助を得て、大規模な修復作業を行っていました。そのメインの工事にあたる外壁の修復が1964年8月に完成し、一般公開が再開されたことを受けて発行されたのが、今回ご紹介の切手です。 さて、この切手が発行される半年ほど前の1964年5月、ヨルダン統治下の東エルサレムでは、エジプト大統領ナセルの肝いりで第1回パレスチナ民族評議会が開催され、対イスラエル闘争の統一司令部を設置するという方針の下、パレスチナ解放機構(PLO)の結成が宣言されました。 1956年の第2次中東戦争(スエズ動乱)は、英仏の侵攻に屈せず耐え抜いたという点で、エジプトは政治的に勝利を収め、ナセルの権威は絶頂に達しました。しかし、純粋に軍事的な見地から見ると、英仏との密約を背景にエジプト領内に侵攻したイスラエル軍は、いともたやすくガザ地区を占領し、シナイ半島を横断してスエズ運河地帯まで進軍。エジプト軍はそれを阻止することができず、惨敗に等しい状況でした。当然のことながら、イスラエルとの全面戦争になればエジプトには勝ち目はないことをナセルも思い知り、イスラエル打倒の勇ましいスローガンとは裏腹に、本音では、イスラエルとの戦争を回避しなければならないと考えるようになります。 さらに、アラブ民族主義の理想を体現するものとして華々しく行われた1958年のエジプト・シリアの合邦は1961年9月にはシリアの離反であっけなく崩壊。さらに、1962年に勃発したイエメン内戦に革命政権の要請を受けて派兵したものの、戦況は一進一退の状況が続き、エジプト経済も疲弊していきます。 PLOの創設は、こうした状況の中で、追い詰められつつあったナセルが起死回生の切り札として持ち出したものでした。 アラブ諸国としては、さまざまな立場の違いはあっても、「イスラエル国家を打倒してパレスチナを解放する」という原則論には反対できません。したがって、曲がりなりにも、アラブの盟主ということになっているエジプトが、対イスラエル闘争の統一司令部を作るということになれば、賛同・協力せざるをえず、PLOの結成を主導すれば、シリアとの合邦失敗やイエメン内戦への介入などで傷ついた自らの権威を回復する景気となるとナセルは考えました。 また、統一司令部の傘下にパレスチナ人の武装組織を組み込んでコントロールできれば、強硬派の暴走を抑え、イスラエルを決して本気で怒らせない(=全面戦争には突入しない)程度に“抵抗運動”を継続して、アラブ世論のガス抜きをするという、微妙な調整も可能になるので、まさに、一石二鳥であるというのが、ナセルの本音です。 もっとも、現実の問題として、武装勢力の中には、ナセルの微温的な姿勢を拒否して、PLOには参加せず、イスラエル領内での武装闘争をエスカレートさせるものも少なくありませんでした。その代表的な存在が、ヤーセル・アラファート(以下、アラファト)ひきいるファタハです。 当時のアラファトは、テロ活動をエスカレートさせてイスラエルの報復攻撃を引き出せば、アラブ諸国も対イスラエル全面戦争に参加せざるを得なくなると考えていました。このため、ファタハはソ連、東欧はもとより、中国を含む反西側諸国から武器を調達し、戦闘能力を強化していきました。 かくして、イスラエル国内の世論は次第に“パレスチナ・ゲリラ”への報復を求める強硬論へと傾いていくことになります。イスラエルの政府と国民にしてみれば、PLO傘下の団体であろうとなかろうと、国内の治安を乱すテロリストは駆逐すべき存在にはちがいありません。 ナセルをはじめ、アラブ諸国の指導者たちは、“反イスラエル闘争”が自分たちの思惑を超えて動き始めたことに困惑を隠せなかったが、そこに、米ソの冷戦がさらなる影を落とします。 すなわち、エジプトやシリアの民族主義政権は、手持ちの外貨が乏しいこともあって、ソ連からバーター取引で武器を購入していましたが、イスラエルからの要請を受けた米国は、1965年以降、イスラエルに大量の戦闘機や戦車を売却。イスラエルの軍事的保護者としての立場を鮮明にしていきました。 かくして、パレスチナの地をめぐる緊張は高まり、1967年6月、ついに第3次中東戦争の簿発へとつながることになるのです。 ★★★ 絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩 ★★★ 2014年1月11日・18日・2月8日のそれぞれ13:00-15:00、文京学院大学生涯学習センター(東京都文京区)で、「絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩」と題する講座をやります。(1月18日は、切手の博物館で開催のミニペックスの解説) 新たに富士山が登録されて注目を集めるユネスコの世界遺産。 いずれも一度は訪れたい魅力的な場所ばかりですが、実際に旅するのは容易ではありません。そこで、「小さな外交官」とも呼ばれる切手や絵葉書に取り上げられた風景や文化遺産の100年前、50年前の姿と、講師自身が撮影した最近の様子を見比べながら、ちょっと変わった歴史散歩を楽しんでみませんか? 講座を受けるだけで、世界旅行の気分を満喫できることをお約束します。 詳細はこちら。皆様の御参加を、心よりお待ちしております。 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★ 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は12月3日(原則第1火曜日)で、以後、1月7日、2月4日、3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★ 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より) 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2013-10-23 Wed 10:55
ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』514号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回は、ローマ教皇のエルサレム訪問について取り上げました。その中から、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1964年9月18日、ヨルダンが発行した「ローマ教皇とコンスタンティノープルのエルサレム会談」の記念切手です。 1956年のナセルによるスエズ運河の国有化宣言とそれに続く第2次中東戦争(スエズ動乱)の結果、英仏軍の攻撃をしのぎ切ったエジプトのナセル政権とそのイデオロギーであるアラブ民族主義はピークに達し、ナセル政権を支援してきたソ連に対するアラブ諸国(特に、民族主義政権の)親近感は急速に増大しました。 こうした事態を憂慮した米国のアイゼンハワー政権は、1957年1月、議会に対して中東基本政策(アイゼンハワー・ドクトリン)を提出します。 アイゼンハワー・ドクトリンは、「中東の聖地が無神論的唯物主義を讃える支配のもとに屈するのを座視することはできない」としたうえで、①国家の独立を支える経済力を確立させるため、中東のいかなる国にも援助を与える、②希望する国に対しては軍事援助のための計画を立案する、③国際共産主義に支配されている国々からの武力による侵略に対して、支援を求める国に米軍を派遣する、④経済的・軍事的援助供与のための大統領の権限を強化する、ことを主要なポイントとしていました。 はたして、アイゼンハワー・ドクトリンの発表から間もない1957年4月、まさに聖地エルサレム(旧市街)を支配下に置くヨルダンで、政府軍の一部による反国王の反乱が発生します。 この反乱の本質は、1954年に反欧米を掲げてシリアで発足したアラブ民族主義連合政権がヨルダンの王制転覆を狙って企画したものでした。アラブ民族主義の究極の目標は、西洋列強によって分断された現在のアラブ諸国を再統合し、イスラエルを解体してアラブの統一国家を建国することにありましたが、そのためには、既存の(アラブ世界の)国際秩序を受け入れている親西側政権を打倒しなければならないというロジックが導き出されます。この文脈においては、英国による中東分割の過程で誕生したヨルダンの親英王制は、まさしく格好の標的でした。 これに対して、国王フサインは反王制クーデターを国際共産主義による介入として米国に支援を要請。冷戦思考に凝り固まっていた米国は、ヨルダンからの要請に何ら疑念をさしはさむことなく、アイゼンハワー・ドクトリンを発動し、地中海の第6艦隊を派遣。さらに、サウジアラビア(アイゼンハワー・ドクトリンを支持し、米国の軍事援助を受け入れていた)もヨルダンを支援し、反乱はまもなく鎮圧され、ヨルダンは“中東の聖地”の管理者として、西側社会からのお墨付きを得ることに成功します。 こうした経緯をふまえて、1964年1月4日、ローマ教皇パウロ6世が、エルサレム、ベツレヘム(ヨルダン領)、ナゼレ(イスラエル領)の3聖地を訪問しました。現地滞在時間はわずか11時間でしたが、教皇自身による聖地訪問は、史上初のことであり、さらにいえば、現職の教皇がイタリアを離れたのも、さらには、飛行機に乗ったのも、このときが初めてのことという、歴史的な出来事でした。 パウロ6世は1897年、北イタリアのサレッツォ生まれ。1920年に司祭となり、第二次大戦中は、バチカン国務長官ルイジ・マリオーネ枢機卿の下、イタリアのファシスト党やナチス・ドイツとの交渉などを担当する一方で、1944年にマリオーネ枢機卿が亡くなると、国務長官の代行としてレジスタンスの保護にも尽力。1953年にミラノの大司教に、1958年に枢機卿に任じられ、1963年、教皇ヨハネ23世の死去により教皇に選出されました。 前任のヨハネ23世は、1962年からカトリック教会の近代化と刷新のため、第2バチカン公会議を開催。公会議は、第1会期(1962年10月11日-12月8日)、第2会期(1963年9月29日-12月4日)、第3会期(1964年9月14日-11月21日)、第4会期(1965年9月14日-12月8日)に分けて行われましたが、ヨハネ23世は1963年6月に亡くなったため、第2会期以降は、後を継いだパウロ6世が取り仕切っています。 教皇の聖地訪問は公会議の第2会期が終わった直後の1963年12月、“純然たる個人の巡礼”として電撃的に発表されましたが、実際には、当時はバチカンとの間に正式の国交がなかったヨルダン、イスラエル両国(ちなみに、バチカンとイスラエルの国交樹立は1993年、ヨルダンとの国交樹立は1994年です)との間で、教皇の即位直後から入念に準備が進められ、その結果として、1964年1月4日の教皇の聖地訪問当日にヨルダンでは記念切手も発行されています。 ところで、教皇がこのタイミングでエルサレムを訪問したのは、もちろん、“純然たる個人の巡礼”ではなく、東方正教会の最大の権威であるコンスタンティノープル総主教(全地総主教)のアシナゴラスと会談することにありました。 アシナゴラスは、1886年、ギリシャ北西部のイピロス地方のヴァシリコ生まれ。1910年に輔祭(主教・司祭の助手)になり聖職者としてのキャリアをスタートさせ、コルフ主教、南北アメリカ大主教を歴任し、1948年にコンスタンティノープル総主教となりました。 総主教就任後のアシナゴラスは、キリスト教の宗派を超えた結束を目指すエキュメニズムに積極的に取り組んだことで知られています。 エキュメニズムは、もともとはプロテスタントにおいて始まった運動ですが、1937年、この運動を促進するための組織として、正教会を含む世界教会協議会設立の合意が成立しました。ただし、カトリックは世界教会協議会には参加せず、第2次世界大戦の勃発もあり、協議会の成立は戦後に持ち越されています。 ところが、1947年末の国連によるパレスチナ分割決議を機に英領パレスチナが内戦状態に陥り、1948年5月にはイスラエルが建国を宣言して第一次中東戦争が勃発。キリスト教にとっての聖地も紛争の直接的な危機にさらされることになったこともあり、1948年8月23日、協議会は急ぎ設立されることになりました。ちなみに、「1948年のイスラエル建国以来、聖地の平和のために努力してきた」というのが、協議会の自己認識です。 一方、当初、エキュメニズムとは距離を置いてきたカトリックですが、1958年に教皇に就任したヨハネ23世は、エキュメニズムに熱心に取り組んでいます。 すなわち、ヨハネ23世は、1500年代以来、初めて英国教会大主教をバチカンに迎え、正教会へも公式メッセージを送ったほか、東西冷戦の解決を模索し、1962年のキューバ危機においても米ソ双方の仲介に尽力しています。カトリック教会の近代化をめざして、第2バチカン公会議を開催したのも、こうした流れに沿ったものでした。 ヨハネ23世の後継教皇となったパウロ2世は、前教皇の遺志を継いでエキュメニズムにも取り組み、1963年、アシナゴラスに親書を送っています。何でもないことのようですが、ローマ教皇がコンスタンティノープル総主教に親書を送ったのは、実に、1584年、教皇グレゴリオ13世がイェレミアス2世に対して、グレゴリオ暦の採用に関しての書簡を送って以来、約380年ぶりのことでした。 その後、バチカンとコンスタンティノープル総主教庁との水面下での接触は頻繁に行われるようになり、1963年末、パウロ6世の聖地訪問が発表されると、これに呼応するかたちでアシナゴラスがエルサレムを訪問し、旧市街の東に位置するオリーブ山での歴史的な直接会談が実現。パウロ6世とアシナゴラスとの会談では、1054年の相互破門(総主教ミハイル1世と教皇レオ9世が互いに相手を破門したとされる事件)の解消が宣言されました。 もちろん、教皇と総主教が相互破門の解消を宣言したところで、長年にわたるカトリックと正教会の溝が直ちに埋まることはなく(実際、正教会内の保守派はこの点に関してアシナゴラスを厳しく批判しています)、あくまでも儀礼的なものではありましたが、キリスト教史に残る事件であることには違いないでしょう。 教皇と総主教の会談を受け、ヨルダン郵政は、急遽、会談の成功を記念する切手の制作を開始し、9月18日、今回ご紹介の切手を発行しました。切手のデザインは、オリーブ山から眺めたエルサレムの旧市街を背景に、左から、パウロ6世、フセイン、アシナゴラスの3人の肖像を配しています。パウロ6世とフセインの間にはアクサー・モスクが、フセインをアシナゴラスの間には岩のドームが描かれているのがミソです。 イスラム世界では、二大聖地であるメッカ・メディナの管理者として、毎年イスラム歴12月のメッカ大巡礼を無事に取り仕切ることができる者こそが“イスラムの盟主”であるとする考え方があります。かつてのアッバース朝しかり、オスマン帝国しかり、さらに、現在のサウジアラビアしかり、です。 こうした思考回路に基づくのなら、“巡礼者”としてエルサレムにやってきた教皇を受け入れ、無事に帰還せしめたヨルダン政府は、そのことによって、自分たちが聖地エルサレムの正統な管理者であることを証明したことになります。 当然のことながら、ヨルダン政府としては、そのことを広く内外にアピールするための手段として、国家のメディアである切手を最大限に活用したわけですが、その際、イスラム教徒が国民の多数を占めるという環境を考えれば、聖地エルサレムのアイコンとして、“岩のドーム”が優先的に選ばれるのは自然な成り行きといえましょう。 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★ 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より) 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。 * 出版元特設ページはこちらをご覧ください。 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★ 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は11月5日(原則第1火曜日)で、以後、12月3日、1月7日、2月4日、3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2013-09-21 Sat 10:35
ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』511号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、岩のドームを含むエルサレムがトランスヨルダンの支配下に入った直後について取り上げました。その中から、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1953年6月、1947年に発行されたパレスチナ救援のための強制貼付切手にアラビア語と英語で“郵便”を意味する加刷を施し、普通切手として再発行されたもので、岩のドームが描かれています。 第一次中東戦争の結果、トランスヨルダンはエルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区を併呑し、1949年にヨルダン・ハシミテ王国が誕生しました。しかし、早くも1951年7月20日、国王アブドゥッラーはエルサレムのアクサー・モスク(このドームの北側130メートルの場所にあるのが“岩のドーム”です)で金曜礼拝の最中に暗殺され、息子のタラールが第2代国王として即位します。 ところが、翌1952年8月11日、タラールは精神分裂病を理由に議会によって廃位されてしまいます。タラールの廃位により、王位は息子のフサインが継承しますが、この間の混乱の影響で、ヨルダンでは深刻な切手不足が生じています。 英領時代を含むトランスヨルダンの時代、この地域で流通していた通貨は英委任統治下のパレスチナ(英領パレスチナ)と同じくパレスチナ・ポンドでした。ところが、第一次中東戦争が勃発し、英領パレスチナが消滅したことによって、パレスチナ・ポンドも無効となり、新生ヨルダンの発足にあわせて、新たに新通貨としてヨルダン・ディナール(1ディナール=10ディルハム=100ピアストル(カルシュ)=1000フィルス)が導入されます。 このため、1952年2月、ベイルートのカトリック・プレス社でトランスヨルダン時代の切手に対して、新通貨に対応した額面が加刷され、同月26日から発売されます。また、これと並行して、とりあえず、初代国王アブドゥッラーの肖像を描く従来の通常切手と同じデザインで、額面表示のみをヨルダン・ディナール表示に変更した切手の製造が、ロンドンのブラッドバリー・ウィルキンソン社に発注されました。 国王アブドゥッラーの図案でヨルダン・ディナール額面の切手、当初、新国王タラールの肖像を描く新切手(額面表示は、当然、ヨルダン・ディナールである)が発行され、流通するまでの暫定的なものと考えられていましたが、タラールの廃位によって、その後も使用されることになります。 しかし、ヨルダン川西岸地区の併呑によって従来よりも大量の切手が必要になっていたことに加え、ブラッドバリー・ウィルキンソン社に発注された切手の数は、あくまでも当座の需要を満たすためのものでしかなかったため(最も大量に製造された5フィルス切手でさえ、わずか8万4100枚しか印刷されていません)、ヨルダン国内ではすぐに切手の在庫が底をついてしまいました。 このため、1953年5-6月にかけて、首都のアンマンとエルサレムでは、料金収納済み”の印を郵便物に押すことで対応。これと並行して、1952年4月1日に発行されたものの、比較的在庫が残っていた“ヨルダン統一”の記念切手の記念名を棒線で抹消して、1953年5月18日以降、普通切手として流通させることになりました。 さらに、これでも切手の不足を解消することが抱きなかったため、1953年6月には、今回ご紹介のように、強制貼付切手に“郵便”を意味する加刷を施した切手も発行されたというわけです。 このように、過去に発行された切手の売れ残り在庫をかき集め、各種の加刷を施すことで急場をしのぐという状況は、1954年2月9日から、ブラッドバリー・ウィルキンソン社製の新たな普通切手が発行されるまで続きました。 なお、1954年から発行された新普通切手は1フィルスから1ディナールまでの全13種で、国王の肖像やヨルダン国内の名所旧跡などが取り上げられましたが、このうちの10フィルス、15フィルス、20フィルスの各額面には岩のドームが描かれています。 このように、トランスヨルダンからヨルダン・ハシミテ王国への体制変革に伴う一連の混乱の時代を通じて、ヨルダンの切手に岩のドームが頻繁に登場している事実は、この国の成立過程を考えるうえで記憶にとどめておいてよいでしょう。エルサレムを含むヨルダン川西岸を版図に加えることによって成立したヨルダン・ハシミテ王国にとって、西岸地区の象徴として、切手という国家のメディアにおいて全世界に発信するための素材としては、やはり、岩のドームに勝るものはなかったのです。 * 昨日、カウンターが126万PVを越えました。いつもご覧いただいている皆様には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★ 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より) 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。 * 出版元特設ページはこちらをご覧ください。 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★ 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は10月1日(原則第1火曜日)で、以後、11月5日、12月3日、1月7日、2月4日、3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2013-08-19 Mon 11:07
ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』508号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回は1948年の第一次中東戦争の結果、岩のドームを含むエルサレムがトランスヨルダンの支配下に入り、その結果、トランスヨルダンが現在のヨルダン・ハシミテ王国になったという話を取り上げました。その中から、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1947年5月31日、トランスヨルダンが発行したパレスチナ救援のための強制貼付切手で、エルサレムの岩のドームが描かれています。 1948年5月の第一次中東戦争開戦当時、アラブ側は兵員・装備ともにイスラエルを圧倒しており、緒戦の戦局はアラブ側有利で推移していました。特に、トランスヨルダンの精鋭部隊、アラブ軍団は、イラク軍とともに、“岩のドーム”があるエルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区を占領。終戦までこの地を保持しています。 エルサレム旧市街を占領したトランスヨルダンは、第一次大戦後の旧オスマン帝国領の分割の過程で、1921年、イギリスがヨルダン川東岸地域に委任統治領として設定した区域です。トランスヨルダンという名は、もともとは“ヨルダン川の向こう”という意味で、英国を基準に見ればヨルダン川東岸を意味しています。 第一次大戦中、英国はメッカの太守であったシャリーフ・フサインに対して、英国と組んでオスマン帝国と戦えば、戦後、“アラブ国家”を樹立するとの密約を結びました。これに応えて、アラブ叛乱を起こしてオスマン帝国と戦い、アラブの英雄となったのが、フサインの息子のファイサルとアブドゥッラーです。 しかし、大戦後、旧オスマン帝国領は英仏の密約であったサイクス=ピコ協定に沿った形で両国の委任統治領というかたちで分割されてしまったうえ、ファイサルがダマスカスに樹立したアラブ王国はフランスによって解体されてしまいます。当然、ファイサルとアブドゥッラーは大いに不満で、アブドゥッラーは手勢を率いてフランス委任統治領のシリアに攻撃を仕掛けようとしました。 そこで、兄弟を慰撫する必要に迫られた英国は、ファイサルをイラク王として擁立し、ヨルダン川東岸の地域を“トランスヨルダン”としてパレスチナから切り離して、アブドゥッラーをトランスヨルダンのアミール(首長)として、アンマンに政府を樹立させました。 その後、トランスヨルダンは1946年にイギリスから独立しますが、時あたかも、隣接するパレスチナではシオニストとアラブ系の対立が激化し、多数のアラブ系難民がトランスヨルダン領内へと押し寄せてくるようになります。こうした状況の下で、1947年5月31日、トランスヨルダンが発行したのが、今回ご紹介の強制貼付切手です。 日本ではこうした事例はありませんが、諸外国では、戦争や災害などへの義捐金を集めるため、一定の期間、郵便物を差し出す際には、郵便料金とは別に、一定の額面の切手を添付することを義務づけることがあります。そのために用いられるのが強制貼付切手で、1947年のトランスヨルダンの場合は、郵便料金の半額相当の強制貼付切手を郵便物に貼ることが義務づけられていました。 この時発行された強制貼付切手は、1ミリームから1ポンド(=1000ミリーム)までの12額面。いずれも、英国のトマス・デ・ラ・ルー社製で、デザイナーのヤークーブ・スッカルの制作した図案は、低額面の1、2、3、5ミリーム切手がヘブロンのモスク、中額面の10、15、20、50ミリーム切手がエルサレムの岩のドーム、高額面の100、200、500ミリームおよび1ポンド切手がアッカ(アッコ)の風景、です。 これら強制貼付切手に取り上げられた風景のうち、地中海に面したアッコは別として、ヘブロンと岩のドーム(があるエルサレム旧市街)は、いずれも、1948年5月に第一次中東戦争が勃発するや否や、トランスヨルダンのアラブ軍団が進駐し、占領しているのは興味深いといえましょう。 そもそも、第一次中東戦争に参戦したアラブ諸国の大義名分は、ユダヤ人国家イスラエルの建国を阻止し、パレスチナを解放することでした。しかし、現実には、ガザ地区を占領したエジプトと同様、ヨルダン川西岸を占領したトランスヨルダンは、混乱に乗じ、パレスチナの犠牲の上に自国の権益を拡大しようという意図をもって参戦していました。 彼らが、いつから英国撤退後のパレスチナ(の一部)を占領してしまおうと企図していたかは、定かではありません。しかし、強制貼付切手に取り上げられたヘブロンと岩のドームが、切手の発行からわずか1年後にはトランスヨルダンによって占領されたという事実を見ると、すでに、1947年5月の時点では、トランスヨルダン政府には英国撤退後のパレスチナに進攻して、ヨルダン川西岸地区を占領してしまおうという目論見があったのではないかと思えてなりません。 その場合、「シオニストの暴虐からパレスチナのアラブ同胞を救え」というスローガンは、自国の領土拡張の戦争にトランスヨルダンの国民を動員するうえで、一定以上の説得力を有することになるでしょう。また、戦争の結果として、パレスチナに独自のアラブ国家が建国されなければ、トランスヨルダンが“同胞のために”パレスチナの占領地を管理するのは正当な行為であるというロジックも導き出されることになります。1947年の強制貼付切手は、まさに、トランスヨルダンによるヨルダン川西岸地区占領を準備するためのプロパガンダの一環として発行されたとみるのが自然でしょう。 さて、第一次中東戦争は、最終的にイスラエル有利の戦局が確定。1949年2月23日、イスラエルとエジプトの間で休戦条約が調印されたのを皮切りに、3月23日にはレバノンが、4月3日にはトランスヨルダンが、7月20日にはシリアが、それぞれ、休戦条約を調印します。これら各国とイスラエルとの停戦ラインは事実上の「国境」としてイスラエル国家の存在が認知され、同年5月、イスラエルは国連に加盟します。 エルサレムに関しては、すでに述べたように、旧市街を含む東エルサレムはトランスヨルダンの支配下に置かれ、20世紀以降に建設された新市街の広がる西エルサレムがイスラエルの領土となりました。 すでに1948年12月1日、アラブ軍団の占領下に置かれていたヨルダン川西岸地区では、現地の親ヨルダン派のパレスチナ人指導者が死海北西岸のイェリコで「パレスチナ・アラブ評議会」を開催し、トランスヨルダン国王アブドゥッラーを「全パレスチナ人の王」とし、同国王に対して西岸地区のトランスヨルダンへの併合を要請する決議を採択。これを受けて、同月13日、トランスヨルダン議会はイェリコでの評議会の決議を全会一致で承認するなど、トランスヨルダン川は西岸地区の併合に向けて着々と準備を進めます。 そして、イスラエルとの休戦協定成立後の1949年6月、トランスヨルダンはヨルダン川西岸地区と東エルサレムを併合し、新国家「ヨルダン・ハシミテ王国」の建国を宣言しました。これが現在のヨルダン国家です。 しかし、パレスチナ人の中には、ヨルダンへの併合を潔しとしない者も少なくなかったうえ、戦争を通じて一人大幅に版図を拡大したヨルダンに対して周辺アラブ諸国は大いに反発。1951年7月には、国王アブドゥッラーがパレスチナ人青年に暗殺される事件まで起こりました。 いずれにせよ、第1次中東戦争の結末は、その契機となった1947年11月の国連決議第181号と比べて、パレスチナのアラブに対して、はるかに大きな犠牲を強いるものでした。 すなわち、国連決議ではパレスチナを分割し、アラブ国家とユダヤ国家を創設することになっていましたが、アラブ国家は実際には創設されず、国家として成立したのはイスラエルのみでした。また、エルサレムを国連の信託統治下に置くというプランも、東西エルサレムがイスラエルとヨルダンによって分割されることにより、実現されないままに終っています。 その後、アラブとイスラエルは4次にわたる中東戦争を展開することになりますが、アラブ側が掲げていた“パレスチナ解放”の大義を当初から踏みにじっていたのは、ほかならぬアラブ諸国の側であったことは、しっかりと記憶にとどめておくべきでしょう。 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★ 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より) 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。 * 出版元特設ページはこちらをご覧ください。 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★ 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は9月3日(原則第1火曜日)で、時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-07-03 Tue 22:02
ロシア・サンクトペテルブルクで開催された国連教育科学文化機関(ユネスコ)の第36回世界遺産委員会は、きのう(2日)、26件の新規登録を決定。そのうちの1件として、昨年10月にユネスコ“加盟国”となったパレスチナから申請のあったヨルダン川西岸ベツレヘムの聖誕教会が“危機遺産”として認定されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1963年にヨルダンで発行された聖誕教会の切手です。聖誕教会のあるベツレヘムは、いわゆるヨルダン川西岸地区にあり、1967年の第3次中東戦争でイスラエルに占領されるまではヨルダンの支配下に置かれていました。その後、イスラエルの占領時代を経て、1995年以降、パレスチナ自治政府の管理下に置かれています。 今回、世界遺産に登録された聖誕教会(を含むベツレヘムの史跡群)は、イエス・キリストが生まれたと伝承される洞穴を中心に、その上に立てられている聖堂で、カトリック・東方正教会・アルメニア使徒教会が共同管理しています。2002年にはパレスチナ人活動家が教会に逃げこみ、それをイスラエル軍が約1カ月にわたり包囲しているさなかに、事件を知らずに日本人観光客がここを訪れて世界の失笑を買うという事件も起こりました。 その後も、聖誕教会を含むベツレヘムの史跡群は、パレスチナ自治区の常として、イスラエルの攻撃をしばしば受けていることもあって、パレスチナ側は、通常の世界遺産の登録のプロセスではなく、「緊急の保護を要する物件」として世界遺産(危機遺産)に申請。当然のことながら、そもそもパレスチナのユネスコ加盟に反対していたイスラエルとアメリカはこれに強く反発していましたが、今回の委員会では賛成多数で登録が認められたというわけです。 パレスチナに関しては、以前、拙著『中東の誕生』でそれなりにまとまった原稿を書いたのですが、あれから10年近くたちますからねぇ。そろそろ、アップデート版を作ることを真面目に考えないといけませんな。 ★★★ 内藤陽介・韓国進出! ★★★ 『韓国現代史』の韓国語訳、出ました 우표로 그려낸 한국현대사 (切手で描き出した韓国現代史) ハヌル出版より好評発売中! 米国と20世紀を問い直す意欲作 우표,역사를 부치다 (切手、歴史を送る) 延恩文庫より好評発売中! *どちらも書名をクリックすると出版元の特設ページに飛びます。なお、『우표,역사를 부치다(切手、歴史を送る)』につきましては、7月以降(現物を入手次第)、このブログでも刊行のご挨拶を申し上げる予定です。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2009-01-31 Sat 11:57
昨日に引き続き、都内の某大学でやっている「中東郵便学」の試験問題の解説です。今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)について説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。
これは、1952年4月1日、“ヨルダン統一”を記念して発行された切手で、地図を背景に、エルサレムを象徴する岩のドームと、旧トランスヨルダンを象徴するペトラの遺跡が描かれており、中央には“ヨルダン統一記念 1950年4月24日”との意味のアラビア語が印刷されています。 第一次大戦後の旧オスマン帝国領の分割の過程で、1921年、イギリスはヨルダン川東岸地域に委任統治領としての“トランスヨルダン(ヨルダン川東岸を意味する)”を創設。大戦中、いわゆるアラブ叛乱でオスマン帝国との戦いで重要な役割を果たしたハーシム家のアブドゥッラーをアミール(首長)として、アンマンに政府を樹立しました。 その後、トランスヨルダンは1946年にイギリスから独立。1948年5月に第一次中東戦争が勃発すると、イスラエルの独立を阻止するとして参戦し、イギリス撤退後のヨルダン川西岸地区を占領しました。エジプトによるガザ地区の占領と同様、“パレスチナ解放”の大義とは裏腹に、アラブ諸国が混乱に乗じてパレスチナの犠牲の上に自国の権益を拡大しようという意図をもって参戦していたことを象徴的に示している事例といってよいでしょう。 第一次中東戦争は、結局、イスラエル側の勝利に終わりましたが、トランスヨルダンのアラブ軍団は1949年4月の休戦までエルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区を維持します。この間、1948年12月1日には、現地の親ヨルダン派のパレスチナ人指導者が死海北西岸のイェリコで“パレスチナ・アラブ評議会”を開催し、トランスヨルダン国王アブドゥッラーを“全パレスチナ人の王”とし、同国王に対して西岸地区のトランスヨルダンへの併合を要請する決議を採択。これを受けて、同月13日、トランスヨルダン議会がイェリコでの評議会の決議を全会一致で承認するという形式を取りながら、トランスヨルダンは西岸地区の併合に向けて着々と準備を進めてきます。 そして、イスラエルとの休戦協定成立後の1949年6月、トランスヨルダンはヨルダン川西岸地区と東エルサレムを併合し、新国家“ヨルダン・ハシミテ王国”の建国を宣言し、ここに、現在のヨルダン国家が誕生したのです。 試験の答案としては、この切手が、旧トランスヨルダンと西岸地区の統合を記念したものであることを踏まえ、旧トランスヨルダンが現在のヨルダンハシミテ王国へと変貌していく過程が要領よくまとめられているかどうかがポイントとなります。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 誰もが知ってる“お年玉”切手の誰も知らない人間ドラマ 好評発売中! 『年賀切手』 日本郵趣出版 本体定価 2500円(税込) 年賀状の末等賞品、年賀お年玉小型シートは、誰もが一度は手に取ったことがある切手。郷土玩具でおなじみの図案を見れば、切手が発行された年の出来事が懐かしく思い出される。今年は戦後の年賀切手発行60年。還暦を迎えた国民的切手をめぐる波乱万丈のモノ語り。戦後記念切手の“読む事典”<解説・戦後記念切手>シリーズの別冊として好評発売中! 1月15日付『夕刊フジ』の「ぴいぷる」欄に『年賀切手』の著者インタビュー(左の画像)が掲載されました。 こちらでお読みいただけます。また、日本郵政本社ビル・ポスタルショップでは、『年賀切手』の販売特設コーナー(右の画像)も作っていただきました。 *写真はいずれも:山内和彦さん撮影 もう一度切手を集めてみたくなったら 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。 |
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