2024-05-02 Thu 03:46
米ニューヨークのコロンビア大で、4月30日未明(現地時間)、イスラエルのガザ攻撃に抗議するデモ隊がキャンパス内のハミルトン・ホールに押し入り、占拠。このため、大学の要請を受けた警官隊が同日夜に突入し、デモ隊を強制排除しました。また、ニューヨーク市立大でも破壊行為があり、両大学で約300人が逮捕されました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1954年1月4日、米国が発行した“コロンビア大学400年”の記念切手で、キャンパス中央に位置するロウ記念ホールが描かれています。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 * 昨日(1日)のニッポンジャーナルの内藤出演回は無事に終了しました。次回は5月8日(水)に登場の予定です。引き続きよろしくお願いします。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 5月8日(水) 10:00~ ニッポンジャーナル インターネット番組「ニッポンジャーナル」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。 5月10日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 謀略の世界史 原則毎月第1土曜日 13:00~14:30 MI6、CIA、モサドなど各国の情報機関のあらましや、現代史の中で彼らが実際に関与した事件などを幅広くご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 「龍の文化史」、絶賛配信中です。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『切手もの知り図鑑 一番切手50のエピソード』 好評発売中!★ 「動物と植物」「科学技術」「社会と文化」「神話/伝説と宗教」の4章立てで、犬、猫、宇宙開発、飛行機、クリスマスといったテーマで、初めて描かれた切手図案にまつわる秘話、思いがけない発行に至る背景に加え、シーラカンスやテレビ、警察官、タトゥー、髑髏といった、あっと驚く意外なテーマの一番切手も登場します! * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-20 Mon 01:00
米国のトランプ大統領は、おととい(現地時間18日)、国内の感染状況について「ウイルスがピークを過ぎたという前向きな兆候が数多くある」との認識を示したうえ、新型コロナウイルス対策として各州が発動している企業の営業制限などの規制が、きょう(20日)からテキサス、ヴァーモント両州で緩和され、経済活動が再開されると発表しました。今後、24日にはモンタナ州、5月1日にはオハイオ、ノースダコタ、アイダホの各州でも経済活動が再開される見通しだそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1956年6月14日、米国で発行された9セントの普通切手で、テキサス州サンアントニオのアラモ砦が描かれています。 現在のメキシコの領域に加えて米国南西部(カリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、コロラド、ワイオミング、アリゾナ、ニューメキシコ、テキサスの各州)とフロリダ半島にまで広がる地域が、かつて、“ヌエバ・エスパーニャ”の一部としてスペインの領土でした。 1776年、大西洋岸の東部13州で独立を宣言した米国は、1803年にはフランスからルイジアを購入。この結果、米国とヌエバ・エスパーニャとの国境を画定する必要が生じることにります。 当時のスペイン側の認識では、ルイジアナのうち、ミシシッピ川西岸とニューオーリンズ市が自国領でしたが、米国側はロッキー山脈の稜線までが自分たちの購入した土地だと考えていました。このため、東西はカルカシュー川(アロヨ・オンド)とサビーン川の間、南北はメキシコ湾から北緯32度近辺までは、当面、どちらにも属さない中立地帯(ルイジアナ中立地)とすることで決着が図られます。 また、米国はスペインからフロリダを購入したいと希望していましたが、スペイン側はこれを拒否し続けていました。 ところが、19世紀初頭のナポレオン戦争と、その余波としてのラテン・アメリカ諸国の独立運動により、スペインは疲弊し、本国から遠く離れたフロリダの維持が困難になります。そこで、1819年、両国間でアダムズ・オニス条約が結ばれ、米国がフロリダとルイジアナを得て、それ以西のテハス(英語名:テキサス)からカリフォルニアまでをスペインの領土とする形で、国境が確定されました。この境界線は、1821年にメキシコが独立すると、基本的には米墨間でも継承されています。 ところが、1821年のメキシコ独立の前後から、米国からテハスへのアングロサクソンの移民が大量に流入。メキシコ政府は1830年には米国人の新規移住を禁止したものの、その後も米国からの“不法移民”の流入は止まず、1832年の時点では、テハスの人口のうち、独立以前からのメキシコ人住民の人口比率は14%にまで落ち込みました。 こうした状況の下で、1835年、メキシコ大統領アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナが中央政府の権限が強い憲法を宣言すると、メキシコ各地でこれに反対する叛乱が発生。テハスでも、1835年10月1日、米国からの移住者たちが分離独立を唱えてゴンザレスで中央政府と衝突。これを機に、テキサス独立戦争(テキサス革命とも)が勃発しました。 ところで、サンアントニオでは、1718年にフランシスコ修道会が建設した伝道所の建物にスペイン軍が駐屯し、要塞化していました。この要塞は、周辺にハコヤナギの木があったことから、ハコヤナギのスペイン語名にちなんで“アラモ砦”と呼ばれていました。 テキサス独立戦争の勃発後の1836年1月、テキサス独立派のジェームズ・ボウイ大佐が、アラモ砦を解体すべく、30名の分遣隊とともに派遣されます。しかし、2月3日、現地に到着したボウイは砦を戦略拠点として保持することを司令部に具申。これを受けて、ボウイの下に義勇兵たちが集まり、その数は約200名に膨れ上がります。 これに対して、メキシコ軍は1500名の騎馬隊をアラモ砦に派遣し、テキサス軍に降伏を要求。ボウイはこれを拒否し、2月23日から3月6日までの13日間、テキサス軍は籠城戦を展開しました。しかし、最終的に、メキシコ軍総司令官アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ指揮下の 4000人の軍隊に包囲されたテキサス軍は全滅してしまいます。 しかし、アラモ砦の“玉砕”は、テキサス側の士気を大いに高めることになり、3月21日のサン・ハシントの戦いでは、メキシコ軍総司令官となっていたサンタ・アナを捕虜とする勝利を収め、ベラスコ条約を結んで“テキサス共和国”の独立を承認させました。 なお、テキサス共和国内では独立当初から米国との統合を求める声が強かったものの、米議会では併合慎重派が多数を占めていました。ところが、1844年の米大統領選挙で、テキサス併合を公約に掲げるジェイムズ・ポークが当選。これを受けて1845年2月、米議会は「1846年1月1日までにテキサス共和国が併合を承認すれば、州として連邦への加盟を認める」とする決議を採択します。 これを受けて、テキサス議会は米国への併合に同意。1845年12月、ポーク大統領はテキサスを合衆国の州として受け入れる法案に署名。こうして、現在の米テキサス州が発足しました。 さて、今回のテキサスでの経済活動の再開により、これまで新型ウイルスの戦いで籠城戦を強いられていた米国は戦術を転換した格好です。たしかに、籠城戦は疫病との戦いには有効ではあるものの、経済活動を全面的にストップさせたままでは、国民への補償ないしは補給にも限界が出てくるのは致し方ないわけで、感染死亡率の低い地域などでは、まずは兵糧の確保を優先するのは妥当性のある判断でしょう。もちろん、ソーシャル・ディスタンスなどの対策は今後も継続されるということですので、テキサスでのやり方が、感染状況などを見ながら経済を回していくうえでの、一つのモデルになってほしいですね。 * 昨日(19日)、アクセスカウンターが217万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-02-05 Wed 02:20
米大統領選の民主党候補指名争いの初戦となる中西部アイオワ州党員集会が、現地時間の3日夜(日本時間4日午前)、始まりましたが、集計システムのトラブルで長時間にわたり結果が発表されない波乱の幕開けとなりました。というわけで、きょうはアイオワ州に関連して、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1954年に米国が発行した“ルイス・クラーク探検隊150年”の記念切手で、現在のアイオワ州スー・シティへの探検隊の上陸風景が描かれています。 トーマス・ジェファーソン政権下の1803年、米国はフランスからミシシッピ川以西のルイジアナをフランスから買収しましたが、当時、この地域の大半は西洋人にとっては人跡未踏の土地でした。 そこで、翌1804年5月、メリウェザー・ルイスとウィリアム・クラークを指揮官とする探検隊がミズーリ川西方に沿って進み、現在のミズーリ州カンザスシティやネブラスカ州オマハを経て、現在のスー・シティに上陸します。上陸後の8月20日、隊員の一人だったチャールズ・フロイド軍曹が虫垂炎とみられる病で亡くなり、その遺体は川を見下ろすフロイド・ブラフに埋葬されました。ちなみに、この地域一帯は先住民のスー族の領域だったことから、探検隊の上陸地点は“スー・シティ”と命名されています。 その後も一行は探検を続け、1806年にセントルイスに帰還するまでの間に、ルイジアナ地域の地理や動植物、先住民などについての膨大な調査記録を残しました。 ちなみに、“アイオワ”という名前は、現在のアイオワ州に相当する地域に数多く住んでいた先住民のアイオワ族に由来するものですが、その意味は、スー族の言葉で“眠たがり”という意味なのだとか。もしかして、票の集計がうまくいかなかったのも、夜間の作業で睡魔と戦いながら作業をしていたスタッフが、文字通りの“アイオワ”だったからなのかもしれません。 ★★ イベント等のご案内 ★★ 今後の各種イベント・講座等の ご案内です。詳細については、イベント名・講座名をクリックしてご覧ください。 ・東アジア歴史文化研究会 2月13日(木) 18:30~ 於常圓寺祖師堂ホール 混迷を深める中東情勢を読み解く 参加費 2000円 詳細は、主催者(東アジア歴史文化研究会)まで、メール(アドレスは、e-asia★topaz.ocn.ne.jp スパム防止のため、ここでは、★を@に変えています)にてお問い合わせください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 3/3(1回のみのお試し受講も可) ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-12-10 Mon 13:41
米国の石油輸出量が、11月末、75年ぶりに輸入量を上回り、週間ベースながら石油の純輸出国となったそうです。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1959年に米国で発行された“石油産業100年”の記念切手です。 北米ペンシルベニア(ペンシルヴァニア)の地では、古くから先住民が地面に染み出た油を軟膏、虫除け、化粧、宗教儀式などで用いていました。その後、原油はランプの光源として鯨油の代替品として使われ始めます。 1849年、サミュエル・キアーは自己所有の塩水井から油を抽出し、医療用として販売を開始し、商業的に成功。さらに、1850年代に入ると、キアーは井戸の塩水から油を分離することを止め直接、原油の掘削を開始し、ジョン・カークパトリックとともに照明に使える油を蒸留しました。油の品質改良に努めるとともに、その油を用いた悪臭や煙を出さないオイルランプも発明しています。 キアーの成功を受けて、ニューヨークの法律家だったジョージ・ビッセルは、1854年、銀行家ジェームス・タウンゼントらの出資を募ってペンシルベニア石油会社を設立。同社は、採掘予定地のタイタスヴィルへ行くための鉄道のフリーパスを持っているという理由で、元車掌のエドウィン・ドレークを雇い入れ、調査とともに用地の確保を行わせます。タイタスビルには地表上に石油が滲みでる場所があり、そこから採取された石油がランプ油として使用できると判断されたためです。 ドレークの報告を基に、石油産業が莫大な利益を上げる見通しが立ったところで、1858年、ペンシルベニア石油会社はドレークを社長としてセネカ石油会社に改組され、本格的な採掘作業が開始されました。 採掘作業には、当初、岩塩採掘機などを改造して作ったドリルが使われていましたが、固い岩盤にぶつかってから掘削速度が落ち、時間の経過とともに資金も枯渇して、セネカ・オイルの出資者たちは事業から撤退してしまいます。そこで、ドレークは知人などから資金をかき集め自力で採掘を続け、1859年、地下石油の採掘に成功しました。 ドレークの成功を機に、米国では空前の石油投資ブームが到来し、産油量は急増。しかし、当時の石油需要はランプ灯に限定されていたため、あっという間に供給過剰となり、1バレル当たり20ドルだった原油価格は、1861年には10セントにまで暴落してしまいます。 ちなみに、ドイツのニコラウス・オットーが原油から灯油を採った後の“産業廃棄物”だったガソリンを燃料とするエンジンを発明したのは1876年、それを改良してゴットリープ・ダイムラーが特許を出願したのは1885年のことでした。 昨日(9日)、 名古屋市市政資料館で開催された東海郵趣連盟切手展での内藤の講演「韓国現代史と切手」は、無事、盛況のうちに終了しました。お集まりいただいた皆様、スタッフの方々には、この場をお借りしてお礼申し上げます。 ★★ トークイベント・講演のご案内 ★★ 以下のスケジュールで、トークイベント・講演を行いますので、よろしくお願いします。(詳細は、イベント名をクリックしてリンク先の主催者サイト等をご覧ください) 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス 10:00-11:30 「切手と仏教」 予約不要・聴講無料 ★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) |
2018-07-25 Wed 00:55
ご報告がすっかり遅くなりましたが、6月25日、『本のメルマガ』第685号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、国際地球観測年の期間中の米国の動向にについて取り上げました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1958年3月26日、エクスプローラー3号の打ち上げに際して作られた記念カバーです。 1955年7月29日、ホワイトハウスは「(国際地球観測年=IGY期間中の)1958年春までに人工衛星を打ち上げる」と発表しました。いわゆるヴァンガード計画です。 ただし、この時点では、具体的にどのロケットを使用して“世界初”の人工衛星(当時、米国はソ連が先にスプートニク1号を打ち上げるとは夢想だにしていなかった)を打ち上げるかは確定しておらず、空軍のSM-65アトラス、陸軍のSSM-A-14レッドストーンの派生型、海軍のRTV-N-12aヴァイキング観測ロケットを元にした3段式ロケットの3候補がありました。このうち、最終的に海軍案が選択されたことで、ヴァンガード計画が本格的にスタートします。 1957年10月4日、ソ連がスプートニク1号の打ち上げに成功すると、同月9日、米大統領のアイゼンハワーは、12月に米国も、既に進行中のヴァンガード計画に基づいて人工衛星を打ち上げる予定だと発言。しかし、この時点では、ヴァンガードロケットは1段目の試射実験が行われた段階でしかなく、2段目と3段目を結合した状態での試験は行われておらず、12月の打ち上げは技術的に困難でした。 はたして、1957年12月6日、ケープカナベラル空軍基地第18発射施設(LC-18)で、米国発の人工衛星となるべくヴァンガードTV3が打ち上げられましたが、発射2秒後に爆発し、惨憺たる失敗に終わっっています。しかも、その一部始終は生中継で放映され、米国の面目は丸つぶれとなりました。 一方、ヴァンガード計画の進捗状況に不安を感じていた国防省は、1957年11月の時点で、陸軍にも人工衛星の準備を命じていました。そこで、レッドストーン短距離弾道ミサイルとして開発が進められてきたものを“ジュノー1ロケット”として、陸軍ジェット推進研究所が衛星“エクスプローラー1号”を製造し、同弾道ミサイル局がそれを打ち上げるプランが動き出します。 エクスプローラー1号の衛星本体は、ジェット推進研究所のウイリアム・ヘイワード・ピカリングの指揮により、84日間で組み立てられました。なお、ジュノー1の性能上の制約から、本体の重量はわずか18ポンド(約8.16キロ)に抑えられています。また、人工衛星の打ち上げは、あくまでもIGYの一環として行われるというのが建前でしたから、ジェームズ・ヴァン・アレン指揮の下で組み立てられた宇宙線計測用のガイガーカウンターなどの計測機器も搭載されました。 1958年1月31日に行われたジュノーIの打ち上げは成功し、エクスプローラー1号は地球を周回する長楕円軌道に投入。エクスプローラー1号のガイガーカウンターは高度により、宇宙線計測数に大きな差異があることを報告し、これは後のエクスプローラー3号の観測結果と合わせてヴァン・アレン帯の発見につながりました。 ついで、2月5日に行われたエクスプローラー2号は発射57秒後に爆発して失敗したものの、3月17日に行われたヴァンガード1号の打ち上げは成功。衛生は無事に軌道に投入されています。この時点で、地球周回軌道上に投入された人工物は米ソそれぞれ2個ずつとなり、米国はソ連に追いつきました。また、ヴァンガード1号は太陽電池パネルを利用した最初の衛星という点でも、重要なものでした。 さらに、3月26日にはエクスプローラー3号が、7月26日にはエクスプローラー4号が、それぞれ軌道投入に成功するなど、米国は着実に宇宙開発の実績を積み重ね、ソ連に遜色のない技術力を有していることを証明しています。 しかし、米国の衛星は専門的な実績を積み上げていった一方で、プロパガンダを主目的としたソ連の衛星に比べると地味な印象はぬぐえず、打ち上げ当時は記念切手も発行されませんでした。 このため、1957年10月のスプートニク1号の打ち上げ以来、ミサイル防衛力において米国はソ連の後塵を拝しているのではないかという“スプートニク・ショック”の感覚を、一般庶民が払拭するにはしばらく時間が必要となるのです。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-11-17 Fri 15:46
ご報告がすっかり遅くなりましたが、先月25日、『本のメルマガ』第661号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、国際地球観測年について取り上げました。その記事の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、国際地球観測年の初日にあたる1957年7月1日、米国で行われた“世界最大のロケット郵便”で運ばれたカバーです。 気象、地磁気、電離層、宇宙線、経緯度、海洋、地震、重力などの諸現象について、期間を定めて、全世界の研究者たちが共同観測を行う極年(Polar Year)は、1882一83年に第1回が実施されました。 その50年後の1932-33年には第2回の極年が行われ、第3回は1982-1983年に予定されていましたが、1951年の国際学術連合会議(ICSU、現・国際科学会議)で、米オックスフォード大のチャップマンが、第二次世界大戦後の科学技術の急速な発展を考慮し、25年目となる1957-58年に繰り上げることが提案され、承認を得ます。 さらに、計画が進むうちに、共同観測の対象範囲を極地だけでなく全地球に拡大することや、観測項目にも追加が相次いだため、イベントの名称も“極年”から“国際地球観測年(International Geophysical Year、略称:IGY)”に改称され、1957年7月1日から1958年12月31日まで、ICSUの統括の下、60ヵ国以上が参加し、極光(オーロラ)、大気光(夜光)、宇宙線、地磁気、氷河、重力、電離層、経度・緯度決定、気象学、海洋学、地震学、太陽活動の12項目、すなわち、地球物理のほぼすべての分野にわたる観測が実施されました。中でも最重要課題とされたのは、太陽の磁気が地球に与える影響の研究でした。 IGYの計画が持ち上がった当初から、米国はロケット観測を提案。これと連動するかたちで、1955年2月、情報機関のための提案としてキリアン報告書「奇襲攻撃の脅威への対処」がまとめられています。同報告書は、テレビカメラを利用した原子力偵察衛星の実現を目指すフィードバック計画と、高空飛行偵察機の実現を目指すCL282(後のU2)計画が二つの柱となっていました。 一方、全米科学財団理事長のウォーターマンは、IGYの一環として科学衛星を打ち上げることを提案。国家安全保障会議文書NSC5520として「米国科学衛星計画に関する政策」がまとめられ、1955年7月29日、ホワイトハウスは「(IGY期間中の)1958年春までに人工衛星を打ち上げる」と発表しました。いわゆるヴァンガード計画です。 これを受けて、ソ連も宇宙開発計画を明らかにするのですが、この時点では、世界の大勢は人類最初の人工衛星は米国が打ち上げるものと信じていました。 こうした米国の空気を反映して、IGY初日の1957年7月1日、ネヴァダ州ダグラス群から州境を挟んでカリフォルニア州のトパーズまで、“世界最大のロケット郵便”のデモンストレーションが行われました。今回ご紹介のカバーは、そのイベントで実際に運ばれた郵便物です。 地形的に通常の輸送方法で郵便物を配達することが困難な地域では、“飛び道具”に郵便物を載せて運ぼうとする“ロケット郵便”は以前から試験的に試みられてきました。たとえば、インド北東部、急峻な山岳地帯で知られるシッキムでは、1935年4月7日以降、9回にわたって、当時のシッキム藩王の認可の下、ガントク郵便局からシッキム王立高校まで200通の郵便物を載せたロケットが発射されています。 1957年7月1日のロケット郵便も、同じく、計5000通の郵便物を載せた5台のロケットをネヴァダ=カリフォルニア両州の境を挟んで発射したもので、イベントの資金調達の手段として宣伝ラベル(封筒の左下に貼られています)も作られましたが、ラベルのデザインは、ヴァンガード計画をイメージして、地球の周囲を廻る衛星の軌道がデザインされています。 このロケット郵便を企画したのは、民間のロケット研究所長、ジョージ・ジェイムズですが、彼のみならず、ラベルを買って資金援助を行った人々、さらには、ロケットで運ばれた郵便物を記念品として買った人々は、誰一人として、IGYの期間内にヴァンガード計画によって米国は人工衛星を発射することに何の疑念も抱いていなかったに違いありません。 それだけに、同年10月4日、ソ連が米国に先立ってスプートニク1号の打ち上げに成功したことは、ロケット開発や宇宙研究の専門家以上に、ジェイムズの記念品を買った善男善女に衝撃を与え、彼らを大いに落胆させることになりました。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2016-12-16 Fri 12:25
1916年12月16日、音楽としてのサンバの最初の一曲とされる「電話で(Pelo Telephone)」がブラジルで楽曲登録されてから、今日でちょうど100年です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ニューヨークのナイトクラブ、“コパカバーナ”が1950年代末に制作した宣伝絵葉書で、1930-40年代に“ブラジルの爆弾”、“サンバの女王”と呼ばれたカルメン・ミランダをイメージしたフルーツ・ハットの女性の顔が大きく描かれています。 ニューヨークのコパカバーナは、リオデジャネイロのコパカバーナ海岸にちなんで名づけられたナイトクラブで、バリー・マニロウの往年のヒット曲『コパカバーナ』は、ここを舞台にした悲恋の歌です。ちなみに、現在、“デヴィ夫人”として芸能活動を行っている根本七保子が働いていた赤坂のクラブ、コパカバーナは、ニューヨークのクラブを真似て作られたものです。ちなみに、ついでですので、今回ご紹介の葉書のイラストの元ネタともいうべき、実際のカルメンの写真を下に貼っておきます。 さて、サンバの原型となった舞踏と音楽は、19世紀初までにアフリカ出身の黒人奴隷たちによって、奴隷貿易の集積地であった北東部のバイーアに持ち込まれました。その後、1888年の奴隷制の完全廃止を経て、“解放”された奴隷たちが職を求めて、当時のブラジルの首都だったリオとその周辺に集まるようになると、しぜんと、アフリカ系の音楽とダンスもリオに持ち込まれることになります。 19世紀末以降、リオに流入した黒人たちは、プラッサ・オンゼ(第11広場)と呼ばれる地域を中心に集住。この地域では、“チア”と呼ばれる年配女性の家がアフリカ系の土着信仰の礼拝所にして、ダンスや音楽などの社交場となっていましたが、なかでも、“チア・シアータ”と呼ばれていたイラーリア・バチスタ・ヂ・アルメイダの家には、腕の良いミュージシャンたちが数多く集まっていました。 当時、彼らが主に演奏していたのは、バトゥカーダ(打楽器のみで演奏する2拍子の音楽)、ショーロ(管楽器と弦楽器のバンドリン+、カヴァキーニョ、ギター、打楽器のパンデイロを基本構成とし、即興を重視した三部形式の音楽)、ルンドゥー(アフリカ系の軽快な舞踏音楽)などで、ここに、ヨーロッパ伝来のポルカやマズルカの要素が入り込む。「電話で」とサンバは、こうしたチア・シアータでのセッションから生まれた1曲でした。 さらに、1920年代以降、サンバのリズムやスタイルは多様化し、音楽として聴かせることに重きを置き、ゆったりとしたリズムで男女がペアで踊る“サンバ・カンサォン”が誕生。このサンバ・カンサォンの女王として君臨したのがカルメン・ミランダです。 カルメンは1909年、ポルトガル北部のマルコ・デ・カナヴェセスで生まれ、翌1910年、リオに渡りました。生まれた時の名は、マリア・ド・カルモ・ミランダ・ダ・クーニャでしたが、オペラ好きの父は、ビゼーのカルメンにちなんで、彼女をカルメンと呼び、それが、後に彼女の通り名になります。 カルメンは、幼いころから歌と踊りの才能を発揮。10代からラジオ番組のオーディションを受け、パーティーやイベントで歌っているうちに、作曲家のジョズエ・デ・バロスに見出され、1929年、最初のレコーディングを行いました。 さらに、1933年、ラジオ・メイリング・ベイガと2年契約を結び、サンバ・カンサォンの歌手としてデビュー。さらに、翌1935年には「アロー・アロー・ブラジル」「エストゥダンテス」などの映画にも出演し、女優としても注目されます。1939年の映画『バナナ・ダ・テラ』で彼女が歌った「O Que E Que A Baiana Tem?(バイーア女には何がある?)」は、現在なお、ブラジル音楽のスタンダードとして有名です。 カルメンの人気に目を付けた米ブロードウェイの劇場主、リー・シューバートは、1939年6月、英語がほとんど話せなかった彼女をニューヨークに呼び寄せました。翌1940年、彼女は『遥かなるアルゼンチン』に出演して成功しましたが、ブラジルでは「米国人の偏見を強調し、ステレオタイプにはめこんで売り出している」として彼女への反感も強く、1940年7月、彼女がリオで行った凱旋公演には容赦のない罵声が浴びせられました。ショックを受けた彼女は楽屋で号泣し、以後14年間、帰国しなかったほどです。 その一方、米国での彼女の人気はますます高まり、1943年、果物を盛った“フルーツ・ハット”をかぶって出演した映画「ザ・ギャングス・オール・ヒア」で、ハリウッドでの人気は頂点に達する。ギャラも高騰し、年収は20万ドル(現在の貨幣価値で200万ドル以上と推定)にまで跳ね上がります。“フルーツ・ハット”のインパクトは絶大で、その後も、多くのデザイナーが彼女にインスパイアされたフルーツ・ジュエリーを制作するようになりました。今回ご紹介の宣伝絵葉書にも、カルメンを意識したと思しきフルーツ・ハットの女性の顔が描かれていますが、当時の米国人にとっては、“コパカバーナの女神”といえば、やはり、カルメン以外にはありえないということだったのでしょう。 第二次大戦後は1950年に発表した「ウェディング・サンバ」が全米23位のヒットとなります。この頃になると、ブラジル社会も彼女の米国での成功を素直に祝福するようになっており、1953年10月、彼女が過労で倒れた後、休養のためにブラジルに帰国した際には、人々は温かく彼女を迎え、彼女も1955年4月までブラジルに留まりました。 しかし、ブラジルから米国に戻った直後の1955年8月5日、カルメンはロサンゼルスでの番組の収録後、ビバリーヒルズの自宅で、急性心臓発作で亡くなりました。享年46歳。彼女の遺体はリオデジャネイロへ戻り、6万人がリオ市役所での彼女の追悼儀式に参加。50万人以上のブラジル国民に見送られて、リオデジャネイロのサン・ジョアン・バティスタ墓地に埋葬されました。 なお、カルメンのエピソードを含むサンバの歴史については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました! ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-05-19 Thu 16:56
グアムのアンダーセン空軍基地で、けさ(19日朝)、B‐52爆撃機が離陸直後に墜落、炎上しました。7人の搭乗員は全員無事だったそうです。というわけで、きょうはこの切手です、(画像はクリックで拡大されます)
これは、1957年8月1日に米国が発行した“空軍50年”の記念切手で、B-52爆撃機とF-104戦闘機が描かれています。 米空軍のルーツは、1907年、気球部隊を職掌としていた陸軍通信隊の一部門として創設された航空機部門です。 その後、航空部(1914年)、航空機部門(1918年)、航空部(同)、陸軍航空隊 (1926年)等陸軍内の組織として改編・拡充され、1941年に陸軍地上軍と対等の部門として、陸軍航空軍 (USAAF) が設置されました。陸軍航空軍が陸軍から独立し、空軍省となったのは、1947年9月18日のことです。 切手に描かれたB-52は、ボーイング社が開発し米空軍に採用された戦略爆撃機で、“成層圏の要塞”を意味するストラトフォートレスの愛称で親しまれています。 特に、ヴェトナム戦争を象徴する米軍機としてのB-52D爆撃機は、ヴェトナム戦争時に最大で108発の爆弾(爆弾庫に84発、翼に24発)を搭載して出撃し、BUFF(Big Ugly Fat Fellow:でかくてデブで醜いヤツ)とも呼ばれました。ちなみに、現役戦闘機で最も搭載力のあるF-15Eは26発が搭載可能ということなので、108発というのはとてつもない数字です。“でかくでデブ”といわれるのも無理からぬことです。 今回の事故のニュースで、僕などは、ヴェトナム戦争の時代の爆撃機だとばかり思っていたB-52がまだ現役で使われているのかと驚いたのですが、調べてみると、アフガニスタンへの空爆でも、B-52はしっかりと使われていました。超音速やステルスなどの新機能を拡充した航空機は種々あれど、多種多様な兵器を大量に搭載し、遠方に投入・投下するという、爆撃機としての基本性能と、調達・運用コストの両面から、B-52を超える米軍機はなかなか出てこないのだとか。このため、B-52は、少なくとも2040年までは現役で運用される予定になっているそうです。 すでに、親子2代でB-52に乗ったというパイロットは珍しくないそうですが、このまま行くと、孫まで3代、さらには曾孫まで4代、B-52のパイロットだというケースも出てくるかもしれませんね。 ★★★ アジア国際切手展<CHINA 2016>作品募集中! ★★★ 本年(2016年)12月2-6日、中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市の南寧国際会展中心において、アジア国際切手展<CHINA 2016>(以下、南寧展)が開催されます。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。 現在、出品作品を6月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 2350円+税 【出版元より】 若く美しい女王の横顔に恋しよう! 世界最初の切手 欲しくないですか/知りたくないですか 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 2000円+税 【出版元より】 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2015-02-01 Sun 23:46
今日(1日)は、1865年2月1日に米国大統領エイブラハム・リンカーンが奴隷制全廃を定めるアメリカ合衆国憲法修正第13条に署名したことにちなみ、米国では“自由の日”になっています。今年は、リンカーンの署名からちょうど150周年でもありますし、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1960年に米国で発行された“大統領の名言”シリーズのうち、リンカーンの名言である「他人の自由を否定する者は、自らも自由になる資格はない(Those who deny freedom to others deserve it not for themselves.)」を取り上げた1枚です。 1859年、リンカーンはヘンリー・ピアース主催の トマス・ジェファーソンの誕生日を祝う会に招待されていたものの欠席することになり、4月6日、主催者のピアースに対してその旨を連絡する手紙を送ります。その際、彼はジェファーソンの理念や功績を称える文章を書きましたが、その一節として登場するのが、今回ご紹介した切手の名言です。米国型の民主主義に対する評価は人それぞれでしょうが、そうしたことを越えて、人類普遍の価値観を言い表した言葉であることは間違いないわけで、自由の日(National Freedom Day)にふさわしい一言ではないかと思います。 さて、イスラム過激派組織“イスラム国”が、けさ(1日早朝)、拘束中のジャーナリスト・後藤健二さんを殺害したとする映像をインターネット上に投稿しました。この動画について日本政府は「信憑性は高い」とみており、事実であれば、まさに許し難い話で、彼らに対しては強い怒りを感じます。 もちろん、イスラム世界の価値観においては、西洋式の“民主主義”と相いれない部分が少なからずあることは僕も理解しています。しかし、少なくとも、丸腰の民間人ジャーナリストを、いわば身代金目的で誘拐したうえ、最終的に殺害し、さらには、その様子をビデオで全世界に配信するということは、イスラムの教義とは全く無関係の犯罪行為です。誰がどう考えても、決して許容されるものではありません。 今日ご紹介したリンカーンの言葉の通り、罪のない人々の自由を侵している連中(けっして“イスラム国”には限らないわけですが…)が好き勝手なことをやっていられる事態は、一日も早くピリオドが打たれなければなりませんね。あわせて、このたび非業の死を遂げられた後藤さんのご冥福を心よりお祈りいたします。 * 第6回テーマティク出品者の会切手展は、本日夕方、無事、終了いたしました。ご来場いただいた皆様ならびに関係者の方々に、この場をお借りしてお礼申し上げます。 ★★★ イベント「みんなで絵手紙」(2月8日)のご案内 ★★★ 2月8日(日) 10:00-17:00に東京・狛江のエコルマホールにて開催のイベント「みんなで絵手紙 見て、知って、書いて、楽しもう」のトークイベントに内藤陽介が登場します。内藤の出番は13:30-14:15。「切手と絵・手紙」と題してお話しする予定です。是非、遊びに来てください。主宰者サイトはこちら。画像をクリックしていただくと、チラシの拡大画像がごらんになれます。 ★★★ 講座「切手と郵便物に刻まれた“終戦”」(2月20日)のご案内 ★★★ 2月20日13:00~14:30、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、「切手と郵便物に刻まれた“終戦”」と題する講座を行います。 2015年は第二次世界大戦の終戦から70周年にあたります。終戦の年の1945年はあらゆる意味で社会が激変した年ですが、その影響は切手や郵便物にもさまざまな痕跡を残しています。今回の講座では、当時の切手や郵便物を読み解いていくことで、一般の歴史書では見落とされがちな終戦の諸相を、具体的なモノの手触りとともに明らかにしてみたいと思っています。 詳細は、こちらをご覧ください。(画像は、日本の降伏文書調印が行われた米軍艦ミズーリ号から降伏文書調印日に差し出された郵便物の一部分です) ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★ 毎月1回(原則第1火曜日:2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。 次回開催は2月3日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました! ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-12-15 Sat 13:25
雑誌『ハッカージャパン』の2013年1月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手が語る宇宙開発史」では、前回に続き、1959-60年の米国の状況を取り上げました。その中から、きょうはこのマテリアルです。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1959年8月のエクスプローラー6号の打ち上げの記念カバーです。 1957年10月にソ連がスプートニク1号の打ち上げに成功した後、米国は1958年1月31日、人工衛星エクスプローラー1号を搭載したジュノーIロケットをフロリダ州ケープ・カナベラル空軍基地から打ち上げることに成功しました。この計画を主導したのは米陸軍で、衛星を製造したのはジェット推進研究所でしたが、ロケットは、米陸軍弾道ミサイル局が、それまで開発を進めてきたレッドストーン短距離弾道ミサイルの技術を活用し、84日間で組み立てたものです。米国としては、ともかくもソ連による宇宙の独占を一刻も早く打破したいという思いが強かったのでしょう。 もっとも、軍主導の計画ではありましたが、エクスプローラー1号の打ち上げは国際地球観測年事業の一環でもあったことから、実際の衛星の活動は科学目的の計測が優先され、衛星にはガイガー・カウンターが搭載されています。その観測結果は、エクスプローラー3号によるものとあわせて、ヴァン・アレン帯(地球を取り囲む放射線帯)の発見という成果に結びつきました。 その後も、1958年3月のヴァンガード1号(太陽電池パネルを利用した最初の衛星)、12月のプロジェクト・スコア(世界初の通信衛星)、1959年2月のヴァンガード2号(世界初の気象衛星)、ディスカバラー1号(世界初の極軌道周回衛星)など、米国の宇宙開発は着々と専門的な実績を積み上げていったものの、プロパガンダを主目的としたソ連の衛星に比べると地味な印象はぬぐえず、当初は記念切手も発行されていません。 それでも、なにかしら、1950年代後半、アイゼンハワー政権期の米国の宇宙開発の直接的な記念品が残っていないかと探してみたところ、エクスプローラー6号の打ち上げ当日の1959年8月7日、打ち上げられるロケットのデータを印刷した封筒に、ケープ・カナベラル空軍基地近くのポート・カナベラル郵便局の消印を押して作成された記念カバーを入手することができました。 この時打ち上げられたエクスプローラー6号は、捕捉放射線観測、電磁圏の電波伝播観測、流星塵のフラックス測定などを目的として打ち上げられ、その目的を達したが、一般には、衛星軌道から撮影した地球の写真データを初めて地上に送信した衛星というイメージの方が強いようです。一般の米国民にとっては、理解しづらい専門的な業績よりも、衛星写真は、ソ連に対する“ミサイル・ギャップ”を埋める対抗手段になりうるものとして、その意義がわかりやすかったものと思われます。 ちなみに、カバーに貼られている切手は、エクスプローラー6号の打ち上げから4ヶ月ほど前の1959年4月に発行された北大西洋条約機構(NATO)創立10周年の記念切手ですが、カバーを制作・販売した業者が、こうした切手を封筒に貼ることを選択したこと自体、エクスプローラー6号による衛星写真の撮影成功に喜ぶ一般市民の心情に寄り添ったものと考えてよいでしょう。 ★★★ テレビ出演のご案内 ★★★ ABCテレビ 2012年12月20日(木) 23:17~24:17 「ビーバップ!ハイヒール」 今回は「年賀状にまつわる物語を紹介! 心に響く年賀状」と題して年賀状の特集で、内藤が『年賀状の戦後史』の著者としてゲスト出演します。ご視聴可能な地域の皆様は、よろしかったら、ぜひ、聞いてやってください。 ★★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★★ 『喜望峰:ケープタウンから見る南アフリカ』 いままでなかった喜望峰とケープタウンの物語 美しい風景とウンチク満載の歴史紀行!! アマゾン、セブンネット、版元ドットコム、楽天ブックス、e-hon、hmv、honto、JBOOK、livedoor BOOKSなどで好評発売中! なお、本書をご自身の関係するメディアで取り上げたい、または、取り上げることを検討したい、という方は、是非、ご連絡ください。資料を急送いたします。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-10-21 Sun 15:20
ご報告が遅くなりましたが、雑誌『ハッカージャパン』の2012年11月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手が語る宇宙開発史」では、今回からは、何回か、1959-60年の米国の状況を取り上げようかと思いますが、まずは、その中から、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1959年6月8日、米国でのミサイル・メールの実験で運ばれたカバーです。 1959年末の時点で、ソ連はルナ2号を月に衝突させ、同3号で月の裏側の写真撮影に成功し、その成果を政治的プロパガンダとして大々的に活用していました。ただし、そうした成果は、必ずしも、すぐに軍事・民生面で実際に応用されたわけではなく、見かけの華やかさに比して、じつは米ソの実際の軍事バランスは米国が圧倒的に優位という状況は変わっていません。 一方、米国の宇宙開発は実用本位の地道なものであったため、ソ連の後塵を拝しているような印象を与え、西側世界に“ミサイル・ギャップ”の不安を与えていましたが、ソ連に比して遜色のない成果を着実にあげています。すなわち、1958年1月のエクスプローラー1号の打ち上げ成功を皮切りとして、3月のヴァンガード1号(太陽電池パネルを利用した最初の衛星)、12月のプロジェクト・スコア(世界初の通信衛星)、1959年2月のヴァンガード2号(世界初の気象衛星)、ディスカバラー1号(世界初の極軌道周回衛星)、8月のエクスプローラー6号(初の衛星からの地球撮影)などです。 こうした宇宙開発の成果を実際に応用したものとして、1959年6月、米海軍は郵政省(現・郵便公社)とともにミサイル・メールの実験を行っています。 すなわち、1959年6月8日正午少し前、フロリダ沖に停泊中の米海軍の潜水艦バルベロから郵便物(郵政長官、アーサー・サマーフィールドの挨拶状が同封されていました)を搭載したミサイルが発射され、22分後、フロリダ州メイポートの海軍補助飛行場の標的に着弾。3000通の郵便物は、バルベロがヴァージニア州ノーフォークを出航する前に、6月8日午前9時30分のバルベロ艦内郵便局の消印を押してミサイルに搭載され、着弾後、大統領アイゼンハワー以下の米政府要人ならびに万国郵便連合加盟各国(当然、ソ連も含まれる)の郵政機関の長宛に届けられました。 実験に立ち会ったサマーフィールドは、無事に郵便物がメイポートに到着したことを受けて、「郵便物の輸送という重要かつ実用的な目的のために、誘導ミサイルを平和的に利用したことは、今回が世界初の快挙であります」と演説し、ミサイル・メールを「全世界の人々にとっての歴史的偉業」と自賛しました。さらに、サマーフィールドは「人類が月に到着する前に、誘導ミサイルを利用して、ニューヨークからカリフォルニア、英国、インド、オーストラリアまで、数時間以内が郵便が届くようになるでしょう」とも述べています。このくだりは、「ソ連はルナ計画で月ロケットを成功させているというが、それが一般国民の生活にとって何の価値があるのか」と言っているようで、正論ではあろうが、負け惜しみに聞こえなくもありません。 なお、誘導ミサイルを郵便の輸送に利用するというプランは、結局、実用化されませんでしたが、現在の我々は、瞬時に世界各国に文書を送信できる電子メールを日々利用しているというわけです。 ★★★ T-moneyで歩くソウル歴史散歩 ★★★ ・よみうりカルチャー荻窪 10月30日、12月4日、1月29日、2月5日、3月5日 13:00-14:30 8月の韓国取材で仕入れたネタを交えながら、ソウルの歴史散歩を楽しんでみようという一般向けの教養講座です。詳細につきましては、青色太字をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 ★★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★★ 毎秋恒例、切手紀行シリーズの第5巻は、10月25日に発売です! 『喜望峰:ケープタウンから見る南アフリカ』 いままでなかった喜望峰とケープタウンの物語 美しい風景とウンチク満載の歴史紀行!! ただいま、アマゾン、hmv、honto、JBOOKなどでご予約受付中! なお、本書をご自身の関係するメディアで取り上げたい、または、取り上げることを検討したい、という方は、是非、ご連絡ください。資料を急送いたします。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-01-19 Thu 22:26
経営危機に陥っていたアメリカの写真用品大手イーストマン・コダック社(以下、コダック)が、きょう(19日)、日本の民事再生法に相当する連邦破産法11条の適用をニューヨークの裁判所に申請しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1954年にアメリカで発行されたコダックの創業者、ジョージ・イーストマンの切手です。 ジョージ・イーストマンは、1854年、ニューヨーク州ウォーターヴィルで生まれました。1877年、それまでのガラス板に感光乳剤を塗って撮影する方式に代わって、乾式の写真板(乾板)を開発し、イギリスとアメリカでの特許を取得。1880年に写真乾板製造会社として創業しました。これが、コダック社のルーツとなります。 その後、1884年に写真の基材をガラスから乳剤を塗った紙に換える特許を取得。さらに、1888年にロールフィルム・カメラの特許を取得し、“コダック”の商標を取得しました。そして、世界最初のロールフィルムカメラ「No.1コダック」を発売。「あなたはシャッターを押しさえすれば、後は我々がやります」とのコピーで、利用者がはカメラを送り返して10ドルを払えば、フィルムを現像し100枚の写真と新しいフィルムを装填する商法で市場を拡大します。 また、1900年に1台1ドルで発売したブローニー・シリーズはカメラを一挙に普及させることになり、コダック社が世界的な写真用品メーカーとして成長する基礎を築きました。なお、イーストマン本人は1925年に会社の経営から退き、慈善家として活動しましたが、1932年、病気を苦に自殺しています。 さて、今回のコダックの破産に関しては、「写真フィルムやカメラで業界をリードした米国を代表する名門企業だったが、デジタル化など時代の変化に対応できず、ライバルの日本メーカーに出遅れた。」との解説記事が各種メディアに掲載されていますが、実は、コダックは世界で初めてデジタルカメラを開発したメーカーです。まぁ、その後の競争を勝ち残れなかったことが今回の事態を招いたということなのでしょうが、残念な話ですな。 ちなみに、ちなみに、僕が現在メインで使っているデジカメは、去年、インド・ゴアの取材中にそれまで使っていたエプソン製品が壊れてしまったため、急遽、現地で手配したコダック製品です。安物の割に画像がきれいで、使い勝手も良いので、夏のハバロフスク取材でも使いました。昨年刊行した拙著『ハバロフスク』のうち、昨年夏に現地で撮影した写真は、基本的にはコダックのカメラで撮影したものですので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 年賀状の戦後史 角川oneテーマ21(税込760円) 日本人は「年賀状」に何を託してきたのか? 「年賀状」から見える新しい戦後史! ★ TBSラジオ・ニュース番組森本毅郎・スタンバイ(2011年11月17日放送)、11月27日付『東京新聞』読書欄、『週刊文春』12月1日号、12月1日付『全国書店新聞』、『週刊東洋経済』12月3日号、12月6日付『愛媛新聞』地軸、同『秋田魁新報』北斗星、TBSラジオ鈴木おさむ 考えるラジオ(12月10日放送)、12月11日付『京都新聞』読書欄、同『山梨日日新聞』みるじゃん、12月14日付『日本経済新聞』夕刊読書欄、同サイゾー、12月15日付『徳島新聞』鳴潮、エフエム京都・α-Morning Kyoto(12月15日放送)、12月16日付『岐阜新聞』分水嶺、同『京都新聞』凡語、12月18日付『宮崎日日新聞』読書欄、同『信濃毎日新聞』読書欄、12月19日付『山陽新聞』滴一滴、同『日本農業新聞』あぜ道書店、[書評]のメルマガ12月20日号、『サンデー毎日』12月25日号、12月29日付エキレピ!、『郵趣』2012年1月号、『全日本郵趣』1月号、『歴史読本』2月号、『本の雑誌』2月号で紹介されました。 amazon、bk1、e-hon、HMV、livedoor BOOKS、紀伊國屋書店BookWeb、 セブンネットショッピング、楽天ブックスなどで好評発売中! |
2011-07-04 Mon 23:57
きのう(3日)、松本龍・復興相が震災復興に関して岩手、宮城両県知事と会談し、暴言・放言を繰り返した揚句、同行した記者団に向かって「今の言葉はオフレコだ。書いたらその社は終わりだ」と恫喝したようすが、東北放送で放送され、You Tube 等でも配信されています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1958年にアメリカが発行した“報道の自由(freedom of the press)”の切手です。“報道の自由”を題材とした切手は各国から発行されていますが、きょう(4日)はアメリカの独立記念日でもありますので、アメリカ発行の1枚を持ってきました。 さて、報道された動画を見ると、復興相は、達増拓也・岩手県知事との会談で「(国は)知恵を出したところは助け、知恵を出さないところは助けない、そのくらいの気持ちを持って(ほしい)」、「九州の人間だから東北の何市がどこの県か分からん」などと述べたほか、村井嘉浩・宮城県知事との会談では「県で(漁港再編問題の)コンセンサスを得ろよ。そうしないとわれわれは何もしないぞ。ちゃんとやれ」と語っています。その態度は非常に横柄・尊大で、見ていて不快感を感じる人が多いというのもうなずけるところですが、その内容については、まだ“言葉足らず”ないしは表現や言い方が不適切だったという弁明も成り立つ余地があるかもしれません。 しかし、宮城県庁を訪れた際、先に応接室に通され、後から知事が入ってきたことに腹を立て(そのことじたいが僕などには理解に苦しむのですが)「お客さんが来るときは、自分が入ってからお客さんを呼べ。長幼の序が分かっている自衛隊(村井知事がかつて所属)ならやるぞ」と発言した点については、少なくとも、自治体の首長に対して記者団の面前でそうしたことを言うのは非礼であるというのが社会的な常識でしょう。本人もそのことを自覚していたからこそ“オフレコ”としたのでしょうが、さらに「書いたらその社は終わりだ」と記者団を恫喝したのは、言論の自由が保障されている民主国家の閣僚としては、著しく、適格性を欠いているとしか言いようがありません。 復興相が、今後、いかなる権限をもって、また、いかなる手段を用いて、今回の一件を報じたメディアを“終わり”にするのか、非常に興味があるところです。もちろん、このブログでも今回の件をしっかりと話題にしているわけですから、僕も“終わり”ということなんでしょう。 もっとも、実際に“終わり”なのは復興相であり、その復興相を任命したお遍路総理だというのが、圧倒的多数の国民の声なんじゃないかと思いますがね。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 5月29日付『讀賣新聞』に書評掲載 『週刊文春』 6月30日号「文春図書館」で 酒井順子さんにご紹介いただきました ! 切手百撰 昭和戦後 平凡社(本体2000円+税) 視て読んで楽しむ切手図鑑! “あの頃の切手少年たち”には懐かしの、 平成生まれの若者には昭和レトロがカッコいい、 そんな切手100点のモノ語りを関連写真などとともに、オールカラーでご紹介 全国書店・インターネット書店(amazon、boox store、coneco.net、JBOOK、livedoor BOOKS、Yahoo!ブックス、エキサイトブックス、丸善&ジュンク堂、楽天など)で好評発売中! |
2011-04-10 Sun 16:00
きょう(10日)は、第17回統一地方選の前半戦となる12知事選(北海道、東京、神奈川、福井、三重、奈良、鳥取、島根、徳島、福岡、佐賀、大分)と4政令市長選(札幌、相模原、静岡、広島)、41道府県議選と15政令市議選の投票日です。僕も、午前中、都知事選の投票に行ってきましたが、投票は20時までですので、関係する地域の方で、まだ投票がお済みでない方は、ぜひ、お出かけください。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1960年11月1日、アメリカ・カリフォルニア州のリバーサイドで使われたメータースタンプで“必ず投票しよう 11月8日”とのスローガンが入っています。日本でも、選挙はがきの消印は“選挙”の文字だけでなく、こんな風に投票を呼びかけるスローガンを入れたら良いと思うんですがねぇ…。 さて、今回ご紹介のメータースタンプの標語の対象となったのは、ジョン.F.ケネディとニクソンが争った1960年の大統領選挙で、メータースタンプが使われたカリフォルニア州はニクソンが制しました。 1960年の大統領選挙で当選を果たしたケネディ陣営は、ジョンの弟ロバートを選挙参謀として、①選挙運動の力点を東北部に限定、②有権者登録の重視、③緻密な選挙スケジュールの作成、④ケネディ・マシーン(有能なブレーンの活用)、⑤ボランティア組織の拡大、といった基本方針の下、世論調査を綿密に検証し、テレビを有効に活用することで、ケネディ・ブームを演出。当選を勝ち取りました。 なお、1960年の選挙やロバート・ケネディの生涯については、拙著『大統領になりそこなった男たち』でも詳しく取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ イベントのご案内 ★★★ 以前の記事でも少しお話ししましたが、4月25日付で平凡社から拙著『切手百撰 昭和戦後』を上梓いたします。これにあわせて、下記のイベントに登場します。 ・4月30日(土) 15:00- 出版記念トーク 於 東京・浅草 都立産業貿易センター台東館6階特設会場 スタンプショウのイベントの一つとして、出版記念のトークを行います。また、会場内で『切手百撰 昭和戦後』をお買い上げの方に、素敵なプレゼントをご用意しております。(画像は、会場内に掲示予定のポスターです。こちらもご覧ください) ・5月7日(土) 10:15- 切手市場 於 東京・池袋 東京セミナー学院 詳細は主催者HPをご覧ください。最新作の『切手百撰 昭和戦後』を中心に、拙著を担いで行商に行きます。 どちらも入場無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ マカオ紀行:世界遺産と歴史を歩く 彩流社(本体2850円+税) マカオはこんなに面白い! 30の世界遺産がひしめき合う街マカオ。 カジノ抜きでも楽しめる、マカオ歴史散歩の決定版! 歴史歩きの達人“郵便学者”内藤陽介がご案内。 全国書店・インターネット書店(amazon、bk1、boox store、coneco.net、DMM.com、HMV、JBOOK、livedoor BOOKS、Yahoo!ブックス、カラメル、紀伊国屋書店BookWeb、ゲオEショップ、ジュンク堂、セブンネットショッピング、丸善、楽天ブックスなど)で好評発売中! |
2008-10-11 Sat 12:49
プロ野球のセリーグは巨人がリーグ優勝しました。パリーグの西武のときも、僕の最新刊『大統領になりそこなった男たち』にちなんで、アメリカ切手の中からライオンを描く1枚を選びましたので、今回は“巨人”ネタということでこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1958年8月に発行のリンカーン生誕150周年の1枚で、リンカーン・ダグラス論争の場面が描かれています。“巨人”ネタということで、アメリカの歴代大統領の中で身長が一番高かったのはリンカーン(193センチ)だったということは、とりあえず指摘しておいてよいでしょう。じっさい、この切手をもても、舞台の上の人物の中で、白い上着を着て演壇に向かうリンカーンは、ひときわ大きくに描かれています。 ところで、“巨人”ネタということでいえば、そのリンカーンの背後に描かれている黒い服のスティーブン・ダグラスも見逃すことはできません。というのも、オロナミンCのCMで一世を風靡した“小さな巨人”というフレーズは、実は、このダグラスにつけられたニックネームだったからです。 ダグラスは1813年、バーモント州で生まれましたが、後にイリノイ州に移り、1842年、民主党から連邦下院議員に初当選。1847年以降は連邦上院に活躍の場を移して、アメリカが西部へと領土を拡張していった時代の領土委員会議長として辣腕をふるいました。また、当時の最大の争点であった奴隷制に関しても、1854年にカンザス・ネブラスカ法(新しい領地の人々は奴隷制を持つか否かを住民投票で決定できるとされた)を成立に尽力するなど、当時の民主党有数の実力者でした。 そのダグラスは、1858年の中間選挙で、イリノイ州選出の上院議員の座をめぐって、共和党の新人だったエイブラハム・リンカーンの挑戦を受けることになります。 当初、政界の大立者に対して、無名の弁護士にすぎなかったリンカーンには勝ち目は全くないとみられていました。しかし、春から秋にかけて7回にわたって州内各地で行われたディベートでは、奴隷制の是非は各州の政府にまかせるべきとして“住民主権論”を唱えるダグラスに対し、リンカーンは、奴隷制度は悪であり、これ以上拡大させてはならないと論じて一歩も退かず、聴衆を沸かせます。これが、今回ご紹介の一手にも取り上げられた“リンカーン=ダグラス論争“と呼ばれるもので、リンカーンの弁舌は次第に全米の注目を集めるようになります。 結局、このときの選挙では接戦の末にリンカーンは敗れるのですが、これがきっかけで彼の知名度は全国区となり、1860年の大統領選挙では共和党指名候補の大本命とみられていたスワードを破って共和党の候補指名を獲得。本選挙では、民主党候補となったダグラスとの因縁の対決を制して大統領に当選するのです。 その後、1861年4月に南北戦争が勃発すると、ダグラスは選挙での遺恨を捨ててリンカーン率いる北軍に支持者を集めるべく奮闘しますが、同年六月、48歳で亡くなっています。 さて、雑誌『中央公論』の11月号が刊行となりました。9月に中公新書ラクレの1冊として上梓した拙著『大統領になりそこなった男たち』は、『中央公論』に連載中の同名の連載の1~8月号の記事もとに加筆修正して作ったものですが、連載そのものは12月まで1年間続く予定になっています。そこで、新書刊行後の11月号と12月号に関しては、新書ではほとんど触れることのできなかった2人の人物を取り上げることにしました。そのうちの1人が、今回ご紹介のダグラスというわけです。最終回に当たる次回には、日本人にもなじみの深いある人物を取り上げようかと思っていますので、ご期待ください。 イベントのご案内 以下の通り、トークイベントを行います。よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。 10月17日(金) 在日本大韓民国民団記者懇談会 「韓国現代史:切手でたどる60年」(福村出版)をめぐって 18:30~ 於・在日本大韓民国民団中央会館8階会議室 (地図などはこちらをご覧ください) 激動の韓国現代史は、切手や郵便物にもさまざまな痕跡を残しています。切手や郵便物を通じて国家と歴史、時代や社会を読み解く“郵便学者”内藤陽介が、今年7月に刊行した『韓国現代史:切手でたどる60年』を題材に、切手というモノから見える韓国現代史のリアルな諸断面についてお話しします。参加は無料で、どなたでもご参加いただけます。なお、会の終了後、懇親会(会費5000円)を実施予定。 10月18日(土) 「大統領になりそこなった男たち」刊行記念トーク 18:00~ 於・日本郵便文化振興機構(東京・用賀) 資料代として500円(ワイン・ソフトドリンク・軽食含む)を申し受けます。あしからずご了承ください。 詳しくは、主催者の告知ページをご覧ください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ アメリカ史に燦然と輝く偉大な「敗者たち」の物語 『大統領になりそこなった男たち』 中公新書ラクレ(本体定価760円+税) 出馬しなかった「合衆国生みの親」、リンカーンに敗れた男、第二次世界大戦の英雄、兄と同じく銃弾に倒れた男……。ひとりのアメリカ大統領が誕生するまでには、落選者の累々たる屍が築かれる。そのなかから、切手に描かれて、アメリカ史の教科書に載るほどの功績をあげた8人を選び、彼らの生涯を追った「偉大な敗者たち」の物語。本書は、敗者の側からみることで、もう一つのアメリカの姿を明らかにした、異色の歴史ノンフィクション。好評発売中! もう一度切手を集めてみたくなったら 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。 |
2008-07-11 Fri 10:38
雑誌『中央公論』8月号が発売になりました。僕の連載「大統領になりそこなった男たち」では、今回は、アメリカの10ドル紙幣にも取り上げられている初代財務長官、アレクサンダー・ハミルトンを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)
アレクサンダー・ハミルトンは、1755年1月、英領西インド諸島のネイビス島で生まれました。 父親のジェイムズは、14世紀にまでさかのぼることができるスコットランドの名門の出身でしたが、4男だったため家の財産を相続することはできず、西インド諸島で砂糖や農業用品の売買に手を出したものの、典型的な“士族の商法”でことごとく失敗し、アレクサンダーが生まれた時には落魄の身でした。 一方、母親のレイチェルは、ネイビス島で小さな砂糖農園を営む家に生まれました。16歳の時、彼女の財産目当てに近づいてきたデンマーク人商人のヨハン・ラビーンと結婚しましたが、夫が自分の財産を食いつぶしていくだけなのに耐え切れなくなって、夫の元から出奔。しかし、“金づる”を失うことを恐れたラビーンは離婚を承諾せず、彼女はセントキッツ島(セントクリストファー島)へと逃れ、この地で知り合ったジェイムズと暮らし始めるようになります。ただし、正式な離婚は成立していないので、二人は内縁関係ということになります。 こうしたことから、“私生児”として生まれたハミルトンは、青年時代まで非常に苦労を重ね、1773年にニューヨークのキングズ・カレッジ(現在のコロンビア大学)に入学。在学中に独立戦争がはじまったことから、これに参加して頭角を現し、総司令官のジョージ・ワシントンの副官を務め、各ステイツの寄り合い所帯でしかなかった北米植民地を統一国家としてまとめあげるため、1787年にフィラデルフィアで憲法起草会議を開催することを提案。憲法の草案を実質的にまとめあげ、1789年にワシントン政権が発足すると、34歳の若さで初代財務長官となり、税関や連邦中央銀行、造幣局の創設などを主導してアメリカ資本主義の基礎を築きました。 ワシントン政権の政策実務を実質的に一人で取り仕切っていた彼は、いずれは大統領になりたいという野心を抱いていましたが、1796年にワシントンが引退した時点では、61歳だった副大統領のジョン・アダムズや53歳だった元国務長官のトーマス・ジェファーソンに比べて、41歳と若すぎたことや、カリブ海の島国で“私生児”(両親は正式な結婚ができなかった)として生まれたという出自の問題、さらにはハミルトンの剛腕に対して反感を持つ者が多かったことなどから、彼を大統領として擁立しようという雰囲気は、ついに、大きな動きとはなりませんでした。 第2代大統領に当選したアダムズは、ハミルトンに政府を牛耳られることを嫌い、彼を遠ざけましたが、閣僚たちはハミルトンの影響を受けた者が多数派を占めていました。1797年には、マリア・レイノルズという人妻との不倫関係や彼女の夫、ジェイムズに強請られていたスキャンダルが持ち上がりますが、これはハミルトンの名声にとって必ずしも致命的な打撃とはなりませんでした。 しかし、1799年、長年の庇護者であったワシントンが亡くなり、1801年、長年対立してきたジェファーソンが大統領に就任すると、ハミルトンの政治的な影響力は急速に減退。1804年のニューヨーク州知事選を前に、地元メディアが選挙に立候補した副大統領のアーロン・バーとハミルトンの対立を面白おかしく煽ったことで、名誉を傷つけられたと感じたバーと決闘するはめになり、同年7月11日(ちょうど今日が命日ですな)、バーの銃弾に斃れてしまいます。享年49歳。 その墓碑銘には「アメリカ国家を創った人物 アレクサンダー・ハミルトン、ここに眠る」と刻まれています。 もう一度切手を集めてみたくなったら 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。 |
2008-04-12 Sat 12:08
ご報告が遅くなりましたが、雑誌『中央公論』5月号が発売になりました。僕の連載「大統領になりそこなった男たち」では、今回はこの人物を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1960年に発行されたロバート・タフトの切手です。 アメリカ史上最も偉大な上院議員五人“フェイマス・ファイブ”の一人とされるロバート・タフトは、1889年、オハイオ州シンシナティで生まれました。祖父はグラント政権の陸軍長官、父親も陸軍長官を経て大統領になったという超名門の出身で、ロバートの孫も現在のオハイオ州知事を務めています。 1938年、上院議員に当選した彼は、当時の民主党・ルーズベルト政権のニューディール政策を激しく批判して“小さな政府”を主張し、保守派の代表的な論客となりました。また、外交面では、いわゆる孤立主義の系譜に連なる不干渉・中立政策を主張し、1939年に第二次欧州大戦が勃発した後も、1941年12月の真珠湾攻撃まではアメリカの大戦への参戦に断固反対という立場をとっています。ちなみに、第二次大戦についてのタフトの評価は(アメリカ人にしては珍しく)極めて冷静で、彼はナチスの戦犯を裁くニュルンベルク法廷を“勝者による恣意的な裁き”と批判している点は注目に値します。 なお、政治家タフトの最大の業績は、第二次大戦後、上院労働委員長として、国民生活に深刻な影響を及ぼす労働争議には大統領による指揮権発動を認めた「タフト・ハートレー法」を成立させたこととされています。 さて、タフトはその華麗なる出自ゆえに“ミスター共和党(Mr. Republican)”とも称されており、1940年、1948年、そして1952年の3回、大統領選挙にチャレンジしています。このうち、“三度目の正直”をめざした一九五二年の選挙では、当初、彼は指名確実の大本命と見られていました。 ところが、東西冷戦が本格化していく中で(当時は朝鮮戦争のさなかです)、孤立主義外交を掲げ、ソ連の軍事力よりも政府の放漫財政こそが国家にとっての深刻な危機するタフトの主張には、共和党内でも“容共的”との批判がありました。このため、タフトの主張を快く思わないグループは、第2次大戦の英雄で反共姿勢が鮮明なドワイト・アイゼンハワーを対抗馬に担ぎ出し、国民的英雄の参戦で無風と見られていた指名争いは一挙に白熱化することになりました。 共和党の候補指名争いは史上まれにみる大接戦となり、決着は1952年6月の共和党大会に持ち越されます。党大会では、当初、タフト派が有利と見られていましたが、大会の冒頭、アイゼンハワー派がテキサス(アイゼンハワーの地元です)を含む南部諸州の代議員選出に際して、タフト派が不正を働いたとのクレームをつける騒動が起こります。実際には不正の事実はなくタフト陣営は反論したのですが、党大会本部は南部のタフト派代議員を排除することを決定。この結果、アイゼンハワーが僅差で大統領候補の指名を獲得しました。 アイゼンハワー派に煮え湯を飲まされた形のタフトでしたが、その後は潔くアイゼンハワーの選挙戦に協力。11月の本選挙では、共和党候補=アイゼンハワーの当選に尽力しています。 共和党は、大統領選挙と併行して行われた上院選挙も圧勝しますが、これを受けて、タフトは共和党上院の院内総務となります。しかし、それから間もなくして癌が発見され、1953年7月31日に亡くなりました。ちなみに、院内総務時代のタフトは、名門ゆえの“大統領にならなければならない”とのプレッシャーから解放され、非常に温和だったそうです。 イベントのご案内 4月26日(土)13:00より、東京・浅草の都立産業貿易センター台東館にて開催のスタンプショウ’08会場内にて、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』の刊行を記念してトークイベントを行います。入場は無料で、スタンプショウ会場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 雑誌『郵趣』を読んでみませんか 無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください 。 |
2007-02-22 Thu 00:36
ご報告が遅れましたが、(財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の2月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手の中の建設物」では、今までアメリカ大陸のモノを取り上げたことがありませんでしたので、今回は2月22日のジョージ・ワシントンの誕生日にちなんで、こんなものをもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1960年の日米修好100年を記念してアメリカで発行された記念切手で、ワシントンDCのワシントン記念塔(Washington Monument)と桜が描かれています。 日米修好100年の記念行事が、日米修好通商条約調印100周年の1958年ではなく、批准100年にこだわって1960年に行われたのは、以前の記事でもご説明しましたが、この行事が実質的に1960年の日米安保条約の改訂と結び付けられていたためです。 さて、今回ご紹介の切手は、日米修好100年の記念行事の一環としてアメリカを訪問された皇太子ご夫妻(現在の両陛下)のワシントン到着にあわせて9月26日に発行されました。ワシントンを象徴するものとして、数ある建造物の中から選ばれたのが、ワシントン記念塔です。 ワシントン記念塔は、建国の父、ジョージ・ワシントンをたたえてワシントンの中心部に建造された巨大な白色のオベリスクで、1840年代のアメリカを代表する建築家、ロバート・ミルズが設計しました。塔の建設は、1848年7月に着工されたものの、途中、資金の不足や南北戦争などの影響で長らく中断され、冠石が完成したのは1884年12月のことで、完成の除幕式がおこなわれたのは翌1885年2月のことです。 塔は大理石と花崗岩、砂岩から構成されており、その高さは169メートル。1889年にパリのエッフェル塔が完成するまでは世界で最も高い建設物でしたが、現在でもワシントンDCでは最も高い建物です。建設中断の影響で、地上から46メートルのところで表面の大理石の色が異なっているのが肉眼でもはっきりとわかります。切手でも塔の色は青と赤に分けられていますが、実際の塔の色の変わり目(もちろん、青とか赤とか、そういう色が塗ってあるわけではありません)は切手に描かれているよりも、はるかに低い場所になります。 切手の原画はニューヨーク在住の日系二世の画家、ギヨウ・フジカワが制作したもので、記念塔にポトマック河畔の桜(日本から送られた苗木がもとになっている)を配して、日米の友好が表現されています。 なお、この切手と含めて、1960年の日米安保改定にまつわる切手の話に関しては、拙著『反米の世界史』でまとめていますので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。 |
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