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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 世界の国々:パナマ
2017-03-31 Fri 22:46
 ご報告が遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年3月29日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はパナマの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      パナマ・反麻薬キャンペーン

 これは、1988年にパナマで発行された反麻薬キャンペーンの宣伝切手です。

 1968年、パナマではオマル・トリホスが軍事クーデターを起こして権力を掌握。その際、パナマ国家警備隊(国軍)の中尉だった マヌエル・アントニオ・ノリエガ・モレノ(以下、ノリエガ)は、トリホスを支援して反トリホス派を制圧し、その論功で1969年には一挙に中佐にまで昇進。諜報機関G2の責任者を務め、CIAがG2の訓練を行なっていました。ちなみに、当時、CIA長官としてパナマに関わっていたのが、後に大統領になるジョージ・ブッシュ(父)で、ノリエガはCIAから年間11万ドルを受け取り、各地のパナマ大使館から得た情報をCIAに流していました。

 一方、トリホスは1972年に新憲法を制定して独裁体制を構築。以後、ペルーのベラスコに影響を受けた左派民族主義の色彩が強い政策を打ち出し、パナマ運河地帯の主権を回復すべく、キューバのカストロ政権にも接近するなどして米国に揺さぶりをかけるとともに、1973年の国連安全保障理事会では、パナマ運河の主権はパナマにあることを確認させ、パナマの主権を尊重した新条約の成立を勧告する決議案を提案させました。この決議案は米国の拒否権で否決されましたが、1977年、パナマは米国と運河返還を約束する条約の締結に成功します。

 反米自主路線を採るトリホスに対して、アメリカが強く反発する中で、1981年7月31日、トリホスを乗せた飛行機が離陸後10分で墜落事故を起こし、トリホスは死亡。事故原因は現在なお不明ですが、米国の意を受けて、ノリエガが仕組んだものとみるパナマ国民は多いようです。

 トリホスの死後、国家警備隊のフロレンシオ・フローレス・アギラール大佐が後継者となりましたが、1982年3月3日、ルベン・ダリオ・パレーデス大佐がクーデターを起こして実権を掌握。ノリエガは、パレーデスの下で国家防衛軍(国家警備隊から改組)の参謀総長に就任します。しかし、1983年8月、パレーデスを追い落として軍内を掌握し、最高権力者にのし上がり、独裁体制を構築しました。

 1984年、パナマでは16年ぶりに直接選挙による大統領選挙が行われ、トリホスのクーデターで失脚した元大統領、アルヌルフォ・アリアスが実際には最多の得票を得たものの、ノリエガは選挙結果を操作し、親米派エコノミストのニコラス・アルディト・バルレッタが当選。さらに、1985年9月には、ノリエガ批判の急先鋒だったウーゴ・スパダフォラ元厚生次官が誘拐され、コスタリカとの国境地帯で虐殺されました。さすがにスパダフォラ殺害事件を許容できなかったバルレッタは大統領を辞任しましたが、反共を優先した米国はノリエガの専横を黙認していました。

 ところで、米国との関係が良好だった時代、ノリエガは米国の麻薬対策への“協力”が評価され、1978年から1987年まで、アメリカ麻薬取締局は彼に感謝状を送っていました。ノリエガによる麻薬密輸疑惑が浮上した後も、ノリエガの意を汲んだパナマ政府はこれを否定し、1988年には今回ご紹介のような“反麻薬キャンペーン”の宣伝切手を発行しています。

 しかし、1986年、ノリエガが米国への麻薬の輸出とマネーロンダリングに関与しているとの疑惑が浮上。さらに、1987年6月には元国家防衛軍参謀総長のトリホス・エレーラが、1984年の大統領選挙における不正工作、スパダフォラ殺害、麻薬密売への関与でノリエガを告発したのを機に、ノリエガ退陣・民主化運動が発生しました。これに対して、パナマ政府は、非常事態を宣言し、反政府系メディアを閉鎖するなど民主化運動を抑圧したものの、最終的に、ノリエガもパナマから排除されることになります。

 さて、『世界の切手コレクション』3月29日号の「世界の国々」では、パナマの独裁者、ノリエガについて扱った長文コラムに加え、パナマ運河鉄道、コイバ国立公園、サン・ロレンソ要塞、パナマ初の女性大統領となったミレーヤ・モスコソの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、 「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のパナマの次は、29日に発売された4月5日号でのガイアナの特集(2回目)になります。こちらについては、発行日の5日以降、このブログでもご紹介する予定です。     


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 <Melboure 2017>開幕
2017-03-30 Thu 22:15
 きょう(30日)から、オーストラリア・メルボルン郊外のコーフィールド競馬場でアジア国際切手展<Melbourne 2017>が開幕しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      オーストラリア・メルボルン展(1928)

 これは、1928年10月29日から11月1日にかけてメルボルンで開催された最初の国際切手展を記念して発行された切手です。

 1928年の国際切手展は、第4回全豪切手展を兼ねて開催されましたが、これにあわせて、組織委員会事務局長のアレク・ローゼンブラムはオーストラリア郵政のハリー・ブラウンに同国初の“小型シート”の発行を提案。これ於受けて、オーストラリア郵政は、メルボルン市役所の会場内に印刷機を持ち込んで、ガッターで囲まれた田型(今回ご紹介の画像の状態)を15組、計60枚で構成される記念切手の製造・販売を行いました。

 記念切手は、1913年のカンガルー切手に次いで1914年に発行されたワライカワセミを描く茶色の6ペンス切手を、刷色を青色に変更し、額面を3ペンスとしたもので展覧会場では会期初日の11月29日から発売され、会期終了後の11月2日からオーストラリア各地の郵便局で発売されています。

 ちなみに、メルボルンでの国際切手展の開催は、1928年の展覧会を皮切りに、1963年10月7-12日に国際展覧会の<MIPEX’63>が、1984年9月21-30日にFIP(国際郵趣連盟)展の<AUSIPEX’84>が、1999年8月4-10日にFIP展の<Australia 99>が、2013年5月10-15日にFIP展の<Australia 2013>が開催されていますが、FIAP(アジア郵趣連盟)展は今回の<Melbourne 2017>が最初です。

 なお、今回の<Melbourne 2017>は、地元ヴィクトリア王立郵趣協会の創立125周年を記念したもので、会期は4月2日まで。アFIAP加盟各国から1100フレームの作品が出品されています。

 *オマケ
 今回はオープニング・セレモニーなどが行われなかったため、それらしい写真が撮れなかったのですが、郵便局には日替わり発行の切手を求めて並ぶ行列ができていました。とりあえず、会期初日の風景の記録として、下に画像をアップしておきます。

      メルボルン展・会場初日の風景


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 作品、搬入しました。
2017-03-29 Wed 19:40
 27日の記事でも少し書きましたが、昨日(28日)、メルボルンに到着し、本日(29日)午後、無事に自分の作品を含む日本からの出品作品の搬入・展示作業を完了いたしました。下の画像は、展示が終わった状態での自分の作品の前で撮った記念写真です。黄色いベストは、IDカードとともに、設営時に入場が許可されたスタッフが着用を義務付けられていました。

      メルボルン展・設営日

 今朝、宿を出るときには、少し肌寒かったので、防寒を兼ねてネクタイをしていったのですが、せっかく、オーストラリアの切手展に参加するということで、オーストラリアの切手がデザインに組み込まれた1本を締めて行くことにしました。その部分を拡大したのが下の画像です。

      メルボルン展・ネクタイ部分拡大  メルボルン・ネクタイ(部分)

 ネクタイでは、デザイン上の都合からか、全く異なる色になっていますが、オリジナルの切手はこんな感じです。

      オーストラリア・ブルーマウンテン越え150年

 これは、1963年にオーストラリアで発行された“ブルー・マウンテンズ横断150周年”の記念切手です。

 オーストラリアのブルー・マウンテンズは、ニューサウスウェールズ中東部、シドニーの西に位置する山岳地帯で、ブルー・マウンテンズを含むグレート・ディヴァイディング山脈は、山脈、台地、高地および崖などから複雑に構成されており、標高はさほど高くはないものの、1788年の西洋人の入植後、実地踏査や英国人による入植の妨げとなっていました。

 こうしたなかで、1813年、英ケント州フォードウィッチ出身で農場経営者のグレゴリー・ブラックスランドは、ニュー・サウス・ウェールズ総督のラクラン・マクォーリーからグレート・ディヴァイディング山脈のブルー・マウンテンズを河川や谷沿いではなく尾根伝いに進む探検の承認を得て、同年5-6月、ウィリアム・ローソン、ウィリアム・チャールズ・ウェントワース、5人の従者、5匹の犬、4匹の馬とともに、ブルー・マウンテンズの横断探検を行いました。

 一行は、21日間をかけた横断行の末、山脈西側に広大な平地を発見し、6日かけて帰還。これにより、現実的な山越えのルートが開拓され、山脈の西側への農場の開拓が可能となりました。この功績により、探検隊の3人には400ヘクタールの土地が与えられました。今回ご紹介の切手は、一行が山脈を越えて平原を発見した時のイメージを描いたものです。

 さて、切手展は、現地時間の明日(30日)午前10時にオープンとなります。このブログでも、随時、会場の様子等をご紹介していくことになると思いますが、よろしくお付き合いいただけると幸いです。      


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 切手に見るソウルと韓国:サムスン創業者・李秉喆
2017-03-28 Tue 15:36
 ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』2016年3月10日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、韓国最大の財閥、サムスン・グループの事実上のトップ、サムスン電子の李在鎔副会長が逮捕・起訴され、司令塔としてグループ経営を統括してきた“未来戦略室”が解体されて間もない時期の号でしたので、この切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・李秉喆

 これは、2015年8月26日に韓国で発行された“現代韓国の人物”の切手のうち、サムスン・グループの創業者、李秉喆の肖像が取り上げられています。

 李秉喆は、大韓帝国末期の1910年2月12日、慶尚南道宜寧郡正谷面でコメ千石の農地を所有する大地主、李纉雨の二男二女の末っ子として生まれました。

 1928年10月、18歳で渡日し、翌1929年に早稲田大学専門部政経科に入学したものの、1931年9月、脚気を患って帰郷。その後、1934年10月、父親から事業資金として300石分の土地を譲り受けました。これを元手に、1936年3月、李は、鄭鉉庸、朴正源と3人で、日本向け米国の輸出港だった馬山に協同精米所を設立。3人は1万ウォンずつ投資し、不足分は朝鮮殖産銀行馬山支店からの借り入れで賄ったそうです。

 さらに、同年8月、李は日本人経営の日出自動車会社を買収し、新たに購入した10台のトラックとあわせて計20台のトラックで運送業を開始。また、朝鮮殖産銀行馬山支店の融資で土地も買収しています。

 ところが、翌1937年、いわゆる日中戦争(支那事変)が勃発し、軍需産業以外への銀行の一般貸出が中断されたことに加え、土地の価格も急落したことから、李は資金難に陥ります。このため、、彼は土地を売却するとともに、精米所と自動車会社を清算せざるを得なくなりました。

 そこで、李は再起を期して、38年3月、資本金3万ウォンで大邱に“三星商会”を設立。同商会は、日本の鉄道網を使って朝鮮の果物や乾魚を満洲と北京に輸出する貿易会社で、これが現在のサムスン・グループの原点とされています。

 三星商会が大きな利益を上げたことから、1939年、李は朝鮮醸造会社を買収し、醸造業にも進出。しかし、1941年末に太平洋戦争が勃発し、酒類は朝鮮総督府による統制の対象となったため、日本統治時代には朝鮮醸造が継続的に利益を上げることはありませんでした。

 解放後の1947年5月、李は家族とともにソウルに移り、翌1948年11月、三星物産公司を設立。同社は、香港、シンガポールなど向けイカ・寒天の輸出と綿糸の輸入から始めて取扱品目を拡大し、米国との貿易にも手を広げ、大きな利益を上げました。

 その後、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、ソウルは戦場となり、三星物産公司は壊滅的な打撃を受けましたが、李は大邱の朝鮮醸造に残されていた余剰資金を投じて、1951年1月、釜山に三星物産を設立。砂糖、肥料、紙、ウール、ナイロン、アルミ、医薬品を輸入し、日本と東南アジアに屑鉄、イカ、コメを輸出し、そこから得られた資金を元に、1953年7月の休戦以降、商業資本から産業資本への転換も成功しました。

 その先駆けとして、休戦直後の1953年8月、李は第一精糖工業を設立(砂糖の生産開始は同年11月)し、1954年9月には第一毛織工業を設立して服地の生産を開始。両社は当時の花形産業を代表する企業として、休戦後の復興を牽引し、サムソン財閥の基盤を固めていくことになりました。

 さて、李在鎔副会長の逮捕・起訴について、検察側の見立ては以下の通りです。

 すなわち、グループ内企業の第一毛織工業の大株主だった副会長は、サムスン電子株を多く保有するサムスン物産と第一毛織の合併を進めることでグループ内での経営支配を強化しようとしたものの、サムスン物産の株主である米ヘッジファンドの強硬な反対にあいました。そこで、グループとして、崔順実の財団に255億ウォンの資金を拠出し、崔の働きかけを受けた大統領府がサムソン物産の大株主だった国民年金公団に対して影響力を行使。その結果、年金公団が合併に賛成したため、2015年7月、サムスン物産と第一毛織の合併が成立したことで、副会長の贈収賄事件が成立するというものです。

 上述のように、サムスン物産と第一毛織は、いずれも、グループの創業者、李秉喆が設立した企業ですが、今回ご紹介の切手が、両社の合併とほぼ時を同じくして2015年8月26日に発行されたというのも、今にして思えば、何かの因縁だったのかもしれません。
      

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 メルボルンに行ってきます!
2017-03-27 Mon 11:55
      呉淞野戦局風景印

 私事で恐縮ですが、オーストラリア・メルボルンで開催されるアジア国際切手展<Melbourne 2012>に出品者として参加するため、きょう(27日)、メルボルンに向けて出発します。

 今回は、現在の僕のメイン・コレクションである A History of Hong Kong (香港の歴史)ではなく、2011年に横浜で開催された世界切手展<PHILANIPPON 2011>に出品した JAPAN AND THE 15YEARS' WAR 1931-1945 を出品します。この作品は、世界展での賞のランクが事実上の頭打ちになったため、2011年の横浜展を最後に事実上の引退扱いとしていたのですが、あれから5年以上が経ち、そろそろ、保管のためのメンテナンスが必要になってきましたので、すべてをダブルリーフに作り替えてアジア展に出品することにしました。したがって、今回は賞のランクにも一喜一憂することなく(もちろん、従来以上の賞をいただけるのなら、それは大変結構なことですが)、気楽に楽しんでくるつもりです。

 なお、作品のタイトルは直訳すると、“日本と15年戦争”ですが、“15年戦争”という用語には、左派・リベラル寄りの政治的スタンスがかなり濃厚に反映されているので、本来なら、別の用語に差し替えたいところです。かといって、満州事変から第二次大戦の終結にいたる“昭和の戦争”を包括的かつ端的に示す英語の表現も他にないのが頭の痛いところで、とりあえずは、英文タイトルでは“15 years' War”の語を用い、邦題が必要な場合には“昭和の戦争と日本”と表記するようにしています。どなたか、適切な用語をご教示いただけると幸いです。

 展覧会の会期は30日から2日までなのですが、作品を搬入しなければなりませんので、現地時間の明朝、メルボルン入りする予定です。なお、せっかくの遠出ですので、展覧会終了と同時に帰ってきてはもったいないので、会期終了後は各地を回って取材し、6日午後に帰国の予定です。

  さて、 冒頭に掲げたのは、日本軍の呉淞上陸作戦を描いた絵葉書に切手を貼り、呉淞野戦局の風景印を押した記念品です。今回の出品作品では、第二次上海事変のリーフで、風景印の印影部分のみをウインドウを開けて展示しています。国際切手展に戦争モノの作品を出品する際には、これまでも、出発のご挨拶として、出品作品の中から「いざ突撃」という雰囲気のマテリアルを持ってきましたので、今回もそれに倣い、実際の展示では表に出ない絵葉書の部分を含めてご紹介してみました。

 6日の帰国までの間、ノートパソコンも持っていきますので、このブログも可能な限り更新していく予定です。ただし、なにぶんにも海外のことですので、無事、メール・ネット環境に接続できるかどうか、不安がないわけではありません。場合によっては、諸般の事情で、記事の更新が遅れたり、記事が書けなかったりする可能性もありますが、ご容赦ください。

 では、いざ出陣! 

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 香港の新行政長官に林鄭月娥氏
2017-03-26 Sun 17:29
 香港の行政長官選挙は、きょう(26日)、各界代表で構成する選挙委員会(1194人)の投票が行われ、中国指導部の推す親中派で前政務司司長(政務官)の林鄭月娥(キャリー・ラム)氏が、同じく親中派で前財政官の曽俊華氏ら2人を破って当選しました。というわけで、新長官の過去の実績に関するものとして、この切手を持ってきました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      香港・再開発(2010)

 これは、2010年11月16日に香港で発行された“舊区新貌”(redevelopment of old areas:旧地区の再開発)の切手のうち、“重建(redevelopment:再開発)”をデザイン化した5ドル切手です。

 林鄭月娥は、1957年5月13日、 香港で生まれました。1980年に香港大学社会科学部を卒業後、英領時代の香港政庁に入り、財經事務及庫務局でスタッフとして予算編成などを担当しました。1997年の“返還”後も官僚として行政府にとどまり、2000年には社會福利署署長に就任。失業率の高止まりと経済の失速の中で、社会保障の対象を香港在住7年以上の者に限定する“綜合社會保障援助”を推進するなどして、成果を上げたほか、2003年のSARS問題の時には対策の陣頭指揮を執りました。

 その後、房屋及規劃地政局常任秘書長(2003年11月)、ロンドン駐在の經濟貿易辦事處長(2004年)、民政事務局常任秘書長(2006年)等を経て、2007年には新設の發展局(日本語では“開発局長”と表記されることもあります)の局長となり、都市開発・住宅政策を担当しました。

 今回ご紹介の“重建”の切手は、彼女が發展局局長の在任中だった2010年に、香港の再開発を題材に、復修(Rehabilitation)・活化(Revitalisation)・保育(Preservation。ここでいう保育は日本語とは異なり維持・管理の意)の切手とともに4種セットの1種として発行されました。

 “重建”の切手は、老朽化したり、管理が不十分で荒廃した建造物やインフラ、違法建築などを、環境にも配慮しつつ、現在の基準に合わせて立て替えて行こうというイメージを表現したものですが、發展局局長としての彼女は、僭建(住宅の違法建築)の取り締まりに辣腕をふるい、名を挙げました。

 さらに、2012年、梁振英長官の下で政務司司長に任命されると、低所得層問題を担当する扶貧委員会主席に就任。同年12月、中国の輸入業者が香港で日用品を買い占めたことで起きた物価高騰・路上占拠に対する抗議デモが発生したことを受け、輸入業者の取り締まり強化し、158人の輸入業者を逮捕しています。その一方で、2013年には、違法建築の極狭アパートに居住する低所得層への給付金支給を決定。發展局局長時代の違法建築摘発と矛盾するような施策への批判に対しては、「違法なのはアパートであり、住民ではない」と反論しています。

 2013年10月17日、彼女は2016年の立法会選挙および2017年の行政長官選挙に向けた選挙制度の意見集約を行う専門チームの責任者に任命され、1人1票の普通選挙を求める民主化運動に対しては一貫して否定的な立場を表明。また、この時点では、行司役として、2017年の行政長官選挙への立候補の意思を否定していました。
 
 しかし、その後、親中派の実務官僚として彼女を高く評価していた中国・習近平政権の強烈な後押しを受け、今回の選挙に出馬。今日の投票では、当選に必要な選挙委員(定員1200)の過半数(601)を大きく上回る777票を獲得し、決選投票を待たずに、1回目の投票で当選を決めました。ただし、世論調査によると、あまりに親中国が強すぎるうえ、一般市民の投票のないまま“当選”した彼女に対する香港市民の支持率は低迷しており、今回の当選を機に、ふたたび、和平占中の時のような大規模な抗議行動が生じる可能性も指摘されています。


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 奴隷及び大西洋間奴隷貿易犠牲者追悼国際デー
2017-03-25 Sat 22:46
 きょう(25日)は、2007年の国連総会で制定された“奴隷及び大西洋間奴隷貿易犠牲者追悼国際デー”です。というわけで、大西洋を渡ってアフリカから米州に連れて行かれた奴隷に関する切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・黒い母(1971)

 これは、1971年にブラジルで発行された“新生児解放令100周年”の記念切手で、ルチリオ・デ・アルブケルケの「黒い母」が取り上げられています。

 ブラジルでは1822年の独立後も奴隷制が維持されていましたが、ドン・ペドロ2世はこれを徐々に廃止の方向へと導き、1888年の黄金法をもって奴隷制は完全に廃止されました。その過程で、1871年に新生児解放令が発せられ、同法の施行以降に生まれた子供は、親が奴隷であっても、自由人の身分が保障されることになりました。今回ご紹介の切手は、そこから起算して100周年になるのを記念して発行されたものです。

 切手に取り上げられた「黒い母(Mãe Preta)」は、白人の下で働く黒人乳母のことで、腹を空かせた自分の子供を放置したまま、主人の子に授乳する乳母の姿が画題となっています。ちなみに、そうした“黒い母”は奴隷解放後も、白人の中上流家庭で数多く働いており、彼女たちの悲哀はブラジルの文化シーンでは定番のモチーフのひとつとなっています。有名なところでは、ポルトガルを代表するファドの女王、アマリア・ロドリゲスの出世作となった『暗い艀』の元ネタとなったブラジルの楽曲『黒い母』等が挙げられましょうか。

 なお、切手に取り上げられた「黒い母」の作者、ルチリオ・デ・アルブケルケは1877年のバラス生まれですから、黄金法で奴隷制が完全に廃止されたときでも11歳。リオデジャネイロの国立美術アカデミーでエンリケ・ベルナルデリの指導を受けて、画家としてのキャリアをスタートさせたのは20世紀初頭のことでしたから(ちなみに、没年は1939年)、彼自身は奴隷制の時代とはほとんど無関係です。その意味では、この作品も、奴隷制の廃止後もブラジル社会に広く見られた“黒い母”を取り上げたものとみるのが自然でしょう。

 ちなみに、リオデジャネイロの国立歴史博物館の展示の中には、新生児解放令の理念を表現したものとして、下の画像のようなブロンズ像が展示されていましたが、こちらもなかなかいい出来なので、記念切手の題材としては、こちらを選んだ方がよかったのではないかと、僕は個人的に思っています。

       ブラジル・新生児解放令ブロンズ像 

 なお、リオデジャネイロの国立歴史博物館とその所蔵品については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもいろいろ取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。      


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 戦艦「加賀」進水式の絵葉書
2017-03-24 Fri 23:18
 おととい(22日)就役した海上自衛隊最大の護衛艦「かが」について、きのう(23日)、中国外務省の華春瑩報道官が「(旧日本海軍の空母)加賀は第二次大戦中、米軍に撃沈された。日本は歴史の教訓をくみ取るべきだ。加賀の再現は、軍国主義の復活を意図しているのではないことを希望する」とコメントしたそうです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      戦艦『加賀」進水式絵葉書

 これは、1921年の戦艦「加賀」の進水式の記念絵葉書に切手を貼り、記念の印を押した記念品です。

 加賀は日本海軍が計画した“八八艦隊”の1隻が建造が計画されたもので、1919年1月、川崎造船所に建造が命じられました。起工は1920年7月19日で、1921年11月17日、大正天皇の名代として伏見宮博恭王以下、10万人ともいう観衆が見守る中で進水式が行われました。今回ご紹介の葉書は、この時に作られたものです。

 ところが、ワシントン海軍軍縮条約に従い、主力艦の保有数が制限されたため、建造計画は頓挫。重防備ではあったものの低速であった加賀は廃が決定され、同型艦の「土佐」が豊後水道にて射撃実験の標的として使用されたのに続き、同様の処分が行われるのを待つばかりとなっていました。

 しかし、1923年9月1日に関東大震災が発生。横須賀海軍工廠で改装中だった「天城」が大破したため、急遽、その代替として加賀は空母へ改造することとなり、同年12月13日、横須賀海軍工廠で空母への改装工事が開始。1928年に空母として竣工しました。

 その後、加賀は1932年1月の(第1次)上海事変に出動した後、1933-35年、佐世保鎮守府での大改装を経て、1937年に始まる支那事変(日中戦争)では南京、広東爆撃に参加しました。

 大東亜戦争では、1941年12月8日の真珠湾攻撃に参加したのを皮切りに、ラバウル攻撃、ポートダーウィン攻撃、 ジャワ島南方での米艦船攻撃 等に参加しましたが、、1942年6月のミッドウェー海戦で敵の爆弾3発を受け大破炎上し、沈没しました。

 ちなみに、海上自衛隊の護衛艦のうち、旧日本海軍の艦船と同じ艦名の船は今回の「かが」が初めてというわけではなく、これまでにも「いせ」、「ひゅうが」などの先例がありますが、それらをもってただちに“軍国主義の復活”というのはあまりにも短絡的でしょう。少なくとも、東シナ海で乱暴狼藉の限りを尽くしている国に“軍国主義”とは言われたくはないですな。

 まぁ、「いざというときには、ご自慢の空母(ということになっている鉄屑)遼寧でどうとでもなるんじゃないですか?」と件の報道官には訊いてみたいものです。

  * さきほど、アクセスカウンターが177万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。

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 岩のドームの郵便学(49)
2017-03-23 Thu 12:51
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』637号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、第1次インティファーダの時期のイスラム主義者たちの活動について取り上げました。その記事の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      イラン・第一次インティファーダ

 これは、1988年5月13日、イランが発行した第1次インティファーダでの殉教者を讃える切手です。

 1987年12月に第1次インティファーダが発生すると、パレスチナのイスラム主義勢力もこれに加わり、武装闘争を展開します。

 1970年代以前のパレスチナでは、反イスラエルの武装闘争は世俗主義を掲げるPLO系の組織が中心で、ムスリム同胞団は主として救貧や医療などの社会活動を担い、武装闘争には慎重でした。

 これに対して、ガザ出身のファトヒー・シカーキー(シャカーキーとも)は1979年のイラン・イスラム革命に刺激を受け、『ホメイニー:イスラム的かつ新しい解決策』を刊行。PLOなど世俗主義的な解放運動はイスラムを欠き、ムスリム同胞団などイスラム復興運動はパレスチナを欠いているとの現状認識の下、イスラムに立脚したパレスチナ解放こそが重要であると主張しました。これは、ホメイニーのイスラム革命が“イスラムと闘争の結合”の結果であるとの理解によるもので、シカーキーはイランの樹立した“イスラム共和国”と類似の体制をパレスチナに樹立することを主張していたわけではありませんが、イスラム革命の精神そのものを大いに称揚していました。

 さらに、1980年、シカーキーは、イスラエルに対する武装闘争を“ジハード”と位置付け、パレスチナ全土の解放を目標とする少数精鋭主義の“パレスチナ・イスラム・ジハード運動(以下、ジハード運動)”を組織。その軍事部門である“クドゥス旅団(クドゥスはエルサレムのアラビア語名)”は、イランやシリアの支援を受け、レバノンのヒズブッラー(ヒズボラ)とも連携して、1986-87年にイスラエルに対する断続的な襲撃事件を起こしました。ちなみに、ジハード運動は自分たちに対するイスラエルの報復攻撃が第一次インティファーダの契機となったと主張しています。

 今回ご紹介の切手は、イランがジハード運動支援の姿勢を明らかにするために5種連刷形式で発行したもので、左側の4種が第一次インティファーダで“殉教”したジハード運動の活動家の肖像を、右端の1種が石礫を投げる人々を取り上げていますが、パレスチナの地図とイスラムの聖地・岩のドームを背景に、ダヴィデの星の形をした鉄条網が破れているというデザインは共通です。

 なお、第1次インティファーダの発生を受けて、ムスリム同胞団パレスチナ支部も従来の方針を転換し、1987年12月14日、アフマド・ヤースィーンを中心に行動組織の“イスラム抵抗運動”を結成。これが、現在、ガザ地区を実効支配しているハマースの原点です。ちなみに、イスラム抵抗運動は、アラビア語ではحركة المقاومة الاسلامية‎ となりますが、ハマースというのはそのアラビア文字の頭文字を取った略称で、ハマースという単語自体は、アラビア語で“激情”を意味しています。


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 世界の国々:赤道ギニア
2017-03-22 Wed 12:40
 アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年3月22日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回は赤道ギニアの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ビオコ自由国(2010)

 これは、赤道ギニアからの分離独立を主張する“ビオコ自由国”が自らの存在をアピールするために制作した“切手”です。ただし、現時点では、ビオコ自由国の独立は認められていませんし、彼らが実効支配地域で郵便サービスを提供しているわけでもありませんので、現実には“切手を模したラベル”という位置づけになります。

 現在の赤道ギニア共和国(以下、赤道ギニア)は、ギニア湾に浮かぶビオコ島、アンノボン島、および大陸部のリオ・ムニ(ムビニとも)とエロベイ諸島から構成されており、首都のマラボはビオコ島にあります。このうち、エロベイ諸島は無人島で、アンノボン島の人口はわずか2500人しかおらず、国家の総人口の1/4がビオコ島に、残りがリオ・ムニに居住しています。

 伝承によれば、ビオコ島はもともと無人島でしたが、13世紀、現在のブビ人の祖先にあたる人々が、カメルーンおよびリオ・ムニのファン人の攻撃を逃れ、アフリカ本土から同島に移住し、定着するようになったとされており、現在でもビオコ島の住民の多くはブビ人です。

 これに対して、大陸側のリオ・ムニではファン人が圧倒的な多数派を占めており、赤道ギニア全体としては、ファン人が全人口の80%、ブビ人が同15%という割合になっています。

 ブビ人とファン人はいずれもバントゥー系ですが、言語はブビ語とファン語で全く異なっており、文化的な差異も多きかったうえ、居住地域も異なっていました。

 しかし、列強によるアフリカ分割の過程で、ビオコ島(スペイン統治時代の呼称はフェルナンド・ポー)とリオ・ムニは“スペイン領ギニア(後にスペイン領赤道ギニア)”として、一括してスペインの植民地とされます。

 スペインの植民地当局は、典型的な分割統治政策として、少数派のブビ人を優遇。現在でもブビ人の識字率が90%を上回っている一方、ファン人は70%以下となっているのは、その名残といえましょう。

 第二次大戦後、スペインからの独立が具体的に検討されるようになると、ブビ人は、少数派としての権利が保障されない可能性が大きいとして、“ブビ同盟”を結成し、独立に際しては、ビオコ島をリオ・ムニから分離するよう求めましたが、その要求は却下され、1968年、両地域を統合した赤道ギニア国家が独立。ファン人のフランシスコ・マシアス・ンゲマが初代大統領に就任します。

 初代大統領のフランシスコ・マシアス・ンゲマは、東西冷戦という国際環境の下で親ソ姿勢を鮮明にし、1970年には共産諸国の一党独裁体制に倣って与党・労働国民統一党以外の政党を禁止。1972年7月にはみずから終身大統領を宣言して、反政府勢力とみなした国民を容赦なく粛清しました。なかでも、ブビ人に対する迫害・虐殺政策は苛烈を極め、スペイン統治下でブビ人に与えられていた特権や少数派としての保護の多くが剥奪され、ブビ人の政治活動もほぼ全面的に禁止。ブビ人有力者の多くが粛清され、彼らの1/3は恐怖支配を逃れて国外に亡命したといわれています。こうした惨状は“アフリカのアウシュヴィッツ”と恐れられ、国際社会の激しい非難を浴びました。

 マシアスは、1979年8月、甥のテオドロ・オビアン・ンゲマのクーデターにより殺害されたが、その後も、現在まで超長期独裁政権を維持し続けるンゲマの下、ブビ人に対する人権抑圧は継続されています。

 これに対して、1993年、ブビ人民主活動家のマーティン・プエは既存のブビ同盟から分れて“ビオコ自治運動(MAIB)”を結成。ブビ人がビオコ島では多数派であるという条件や、伝統的な酋長の支援を生かし、ンゲマ政権に対し分離要求を行ったが、政権は一切の譲歩を拒否し続けています。

 こうした中で、1998年1月21日、首都マラボでMAIBによる反政府暴動が発生すると、政権側はこれを徹底的に弾圧。MAIBの指導者、マーティン・プエも、同年5月、反逆の罪で軍事裁判所にかけられ、禁錮26年の判決を受けましたが、収監後まもない同年7月、激しい拷問を受けた上、肺炎を病み、マラボの病院で亡くなりました。

 現在も、旧宗主国のスペインやアムネスティ・インターナショナルなどがンゲマ政権によるブビ人弾圧を非難しています。しかし、1992年にビオコ島沖でスタートした原油生産は、ピーク時で日量40万バレル水準を達成し、赤道ギニアがサハラ砂漠以南のアフリカで第3の規模を誇る産油国となったことから、西側諸国の多くは石油利権を重視し、政権に対して好意的な姿勢を取っています。このため、国際世論の圧力でブビ人の状況が改善される可能性は極めて低いのが実情です。

 さて、『世界の切手コレクション』3月22日号の「世界の国々」では、ビオコ島のブビ人について扱った長文コラムに加え、現地のクリスマス、林業、捕鯨、スペイン内戦との関係を示す切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、 「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回の赤道ギニアの次は、本日(22日)発売の3月29日号でのパナマの特集(2回目)になります。こちらについては、発行日の29日以降、このブログでもご紹介する予定です。 
    

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 東京でソメイヨシノ開花
2017-03-21 Tue 16:41
 気象庁は、きょう(21日)、全国のトップを切って「東京の桜(ソメイヨシノ)が開花した」と発表しました。東京の桜が全国一番乗りで開花するのは、2008年以来、9年ぶりのことですが、3月21日の開花は去年と同じで、平年(3月26日)より5日早いそうです。というわけで、今日は桜を取り上げた切手の中からこの1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      スリランカ・日本との国交60年

 これは、2012年にスリランカが発行した日本との国交樹立60周年の記念切手で、両国を象徴する花として、桜(日本)と蓮(スリランカ)が並べて取り上げられています。

 スリランカは、1948年にセイロンとして英国から独立1951年のサンフランシスコ講和会議には戦勝国の一員として参加しましたが、セイロン代表として出席したジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナは、「日本の掲げた理想に独立を望むアジアの人々が共感を覚えたことを忘れないで欲しい」と述べ、また、「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」という法句経の一節を引用して、対日賠償請求を放棄する旨の演説を行い、日本が国際社会への復帰を後押ししました。

 その後、翌1952年4月の対日講和条約の発効を受けて、スリランカとわが国との国交が正式に樹立され、そこから60周年になるのを記念して、今回ご紹介の切手が発行されました。

 その後も、スリランカは一貫して親日的な立場をとっており、2011年の東日本大震災に際しては、着任まもなかった駐日スリランカ大使は「こんな時こそ日本との結束を示すために、私は送られてきた」との声明を発表し、在日スリランカ人に「日本にとどまり日本人を助けるように」と伝え、福島の被災者を見舞ってくれました

 こうした友好国の切手に、日本の象徴として桜が取り上げられるというケースはほかにもいろいろありますので、これから毎年、桜の開花時期には、そうした切手の中から、何かご紹介していくことにしましょうかね。

 
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 HAPPY NOWRUZ!
2017-03-20 Mon 21:38
 今日(20日)は春分の日。日本ではお墓参りの日ですが、イランを中心にその文化的影響が及んでいる国や地域では、新年のお祭り・ノウルーズの日です。というわけで、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      イラク・ノールーズ加刷

 これは、1970年にイラクが発行した“ノウルーズ”の記念加刷切手です。

 さて、イスラム世界では預言者ムハンマドと信徒たちがメッカからメディナに移住し、イスラムの共同体を作った“ヒジュラ”のあった年を紀元とするヒジュラ暦が使われていますが、このヒジュラ暦は完全太陰暦で、かつての日本の旧暦のように閏月を入れて調整するということは行われていませんから、毎年、11日ずつ、太陽暦の日付とズレが生じます。

 この点について、ムスリムたちは、信徒の義務であるラマダン月(ヒジュラ暦の9月)の断食が、毎年、少しずつ季節を移動していくことによって、地域ごとの断食の負担の格差が是正されるメリットがあると説明しています。たとえば、ラマダン月が真冬の時期に当たると、熱帯の国では比較的楽に断食が行えますが、寒冷地域の断食は非常に厳しいものがあります。逆に、ラマダン月が真夏にぶつかると、熱帯と寒冷地域では、その負担の重さは逆転します。

 したがって、全世界の信徒にとって、断食の負担の平準化を図るためには、ラマダン月が毎年季節を移動していくことはポジティブにとらえられており、それゆえ、ヒジュラ暦は調整なしの完全太陰暦なのだ、というロジックが導き出されることになります。

 とはいえ、いくら宗教的に重要な意味があるとはいえ、毎年、暦の日付と季節がずれていけば、農作業などでは不便も多く生じます。このため、イスラム世界の各地では、イスラム暦とは別に、太陽暦に連動した農事暦が用いられることも多く、イランの場合は、イスラム以前から使われていたイラン暦として春分を元日とした太陽暦も用いられています。

 この元日が、いわゆる“ノウルーズ”(直訳すると“新しい日”の意味)と呼ばれるもので、イランを中心に中央アジアの5共和国でも祝日になっています。また、クルド人がノウル-ズを祝う習慣があることから、トルコではクルド人に対する宥和政策の一環として国民の休日に指定されているほか、イラク国内のクルド人自治区(クルディスタン)でも、ノウルーズは祝日に指定されています。今回ご紹介の切手が発行された1970年は、バアス党政権下の1970年、クルド人自治区が設定された年ですので、加刷切手の発行も、彼らに対する融和政策の一環だったということなのでしょう。

 なお、しばしば誤解されることですが、ノウルーズはイスラム圏全体に共通の行事ではなく、アラブ世界ではほとんど無視されているのが実情です。じっさい、イラクの場合も、ノウルーズはあくまでもクルド人自治区の祝日であり、国として休日・祝日には指定されていません。ちなみに、イスラム世界全体としては、イスラム教徒としての新年はヒジュラ暦のムハラッム月(第1月)1日に祝うのが主流ですが、こちらは上述のように年によって季節は一定していません。

 現在、イラク国内では過激派組織ダーイシュ(自称イスラム国)との戦いが激しさを増しており、クルド人の間でも、“戦時下”という状況に鑑みて、ノウルーズに際しても派手なことは控える風潮が強くなっているのだとか。一刻も早くダーイシュを掃討し、来年こそは、クルディスタンでも盛大にノウルーズのお祝いができるようになると良いですね。


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 タンザニア、ケニアに医師500人派遣
2017-03-19 Sun 19:09
 昨年12月からの100日間に及んだ医療関係者のストライキで、医療サービスがマヒ状態になっているケニアに対して、隣国タンザニアのジョン・マグフリ大統領は、きのう(18日)、500人の医師を派遣すると発表しました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ケニア・ウガンダ・タンザニア:ケニヤッタ病院

 これは、1973年12月12日、ケニア・ウガンダ・タンザニア名義で発行されたケニア独立10周年の記念切手で、ケニアの首都、ナイロビのケニヤッタ国立病院が取り上げられています。

 近代以前の東アフリカのインド洋沿岸部はザンジバルの支配下に置かれていましたが、1840年代以降、ザンジバルのスルターンの保護の下にヨーロッパ人宣教師がモンバサの海岸周辺から内陸に向かって入植するようになりました。

 1886年、ドイツがザンジバルに艦隊を派遣すると、ザンジバルからの支援要請を受けた英国も派兵。このため、フランスを交えた3国の協議の結果、東アフリカ南部(現在のタンザニアの大陸部分に相当する地域)をドイツ領東アフリカとし、北部(現在のケニアに相当する地域)を英領東アフリカとすることで決着が図られました。この時きめられた英領東アフリカの範囲は、タナ川の河口からモンバサを経てドイツ領東アフリカとの境界線までの150マイル(240キロメートル)の海岸線とその内陸部です。

 第一次大戦でドイツが敗れると、旧ドイツ領東アフリカは解体され、英委任統治領タンガニーカとベルギー委任統治領のルワンダ=ウルンディに分割されます。

 その後、1927年、英国は東アフリカのウガンダ、ケニア、タンガニーカ、ザンジバルの4地域を包括する関税同盟を結成し、同盟の域内では共通通貨として東アフリカ・シリングの使用が開始されます。これに伴い、ザンジバルを除く大陸の3地域では郵便組織も共通となり、“ケニア・ウガンダ・タンガニーカ”表示の切手がこれら3地域で使用されました。

 その後、1961年にタンガニーカが、1962年にウガンダが、1963年にケニアが、それぞれ独立した後も、各国の切手と並行して“ケニア・ウガンダ・タンガニーカ”表示の切手の発行は継続され、1964年にタンガニーカとザンジバルの統合によって現在のタンザニア国家が誕生すると、今回ご紹介の切手のように、“ケニア・ウガンダ・タンザニア”に国名表示を変更した切手が1976年初まで発行されていました。

 さて、今回ご紹介の切手に取り上げられたケニヤッタ病院は、1901年、先住民を対象としたネイティヴ市民病院として、40床で開業しました。ちなみに、当時のケニアでは、現地在住の白人に対する医療行為は、同病院の近くにあるヨーロッパ病院(現ナイロビ病院)で行われていました。その後、1952年に宗主国の君主である英国王ジョージ6世が崩御すると、ネイティヴ市民病院はジョージ6世病院と改称されましたが、独立後は“建国の父”ジョモ・ケニヤッタにちなんで、ケニヤッタ国立病院と改称されました。現在のスタッフ数は6000人、ベッド数は1800床です。
 
 さて、ケニアでは、昨年12月、各地の公立病院で医療関係者約5000人が賃上げと労働環境の改善を求めてストライキを開始。今月14日、ケニア政府と労働側の合意が成立し、ようやくストライキが終結したものの、医師の中にはいまだに職場復帰していない者もおり、職場復帰した医療関係者は診療を待つ大勢の患者たちへの対応に追われています。

 今回のタンザニア政府による医師派遣は、タンザニア最大都市のダルエスサラームでマグフリ大統領とケニアのクレオパ・マイル保健相率いる代表団が会談した後、発表されたもので、ケニア側は派遣される医師たちに対して「所定の給与を支払い、住居を用意し、良好な環境で働けるようにする」ことになっています。
 
 まぁ、タンザニアからすれば、地続きの隣国のであるケニア国内の衛生環境が悪化すれば、自国にも深刻な影響が生じることが懸念されるわけで、事態を放置できなかったというのが正直なところでしょうが、かつての英領時代の紐帯が、こんなところで生きてくるというのもなかなか興味深い話ではあります。


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 タージ・マハルの警備強化
2017-03-18 Sat 23:15
 きのう(17日)、インド警察は世界遺産タージ・マハルへのテロに対する警備を強化すると発表しましたが、これに挑戦するかのように、きょう(18日)、タージ・マハル所在地のアグラ駅周辺で、2回の爆発が発生しました。というわけで、きょうは、タージ・マハルを取り上げた切手の中から、この1枚です。

      インド・フダーバフシュ図書館

 これは、1994年11月21日に発行された“フダー・バフシュ東洋図書館”の切手で、同館所蔵の写本に収められたタージ・マハルの絵が取り上げられています。

 インド有数の蔵書家であったムハンマド・バフシュの死後、息子のフダーは父の写本1400点を受け継ぎ、自らもコレクションを充実させ、1880年、ビハール州のパトナに個人図書館を開設。その後、1891年に英領ベンガル総督のチャールズ・エリオットにより一般公開されました。これが、現在のフダー・バフシュ東洋図書館の起源で、現在、同館は1969年に制定されたフダー・バフシュ東洋図書館法により、連邦政府が維持・管理してます。

 フダー・バフシュ図書館は、アラビア語・ペルシャ語・ウルドゥ語の写本と、ムガール、ペルシャ、トルコの細密画のコレクションが充実していることで世界的にも有名です。今回ご紹介の切手には、そのうち、タージ・マハルを建造したシャー・ジャハーン時代の年代記『パードゥシャー・ナーメ』の一葉が取り上げられています。

 さて、今回、インド警察が、タージ・マハルの警備を強化するようになったのは、武装した男が“新たな標的”のタージ・マハルを向いて立っている画像を報道がインターネット上にアップされていたことが発覚したのが発端です。この画像は、イスラム過激派系のメディアが通信アプリで公開したものと見られていますが、今後、これに刺激を受けたテロリストが、世界的観光地のタージ・マハルをテロの標的とする可能性が指摘されていました。

 きょうの爆発がテロによるものかどうかは、現在、捜査中だそうです。もちろん、インド警察は「いかなる不測の事態にも対応できるよう準備している」と強調しているのですが、やはり、不安は拭えませんね。


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 セント・パトリックス・デー
2017-03-17 Fri 18:29
 きょう(17日)は、セント・パトリックス・デー(アイルランドにキリスト教を広めた聖パトリックの命日で、アイルランド最大の祝祭日)です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アイルランド・聖パトリックス大隊

 これは、1847年にアイルランドで発行されたセント・パトリックス大隊150年の記念切手です。

 1836年にメキシコから独立したテキサス共和国は、当初から、米国との統合を求める声が強かったものの、米議会では併合慎重派が多数を占めていました。ところが、1844年の米大統領選挙で、テキサス併合を公約に掲げるジェイムズ・ポークが当選。1845年2月、米議会は「1846年1月1日までにテキサス共和国が併合を承認すれば、州として連邦への加盟を認める」とする決議を採択する。これを受けて、テキサス議会は米国への併合に同意。1845年12月、ポークはテキサスを合衆国の州として受け入れる法案に署名します。

 テキサスを併合した米国は、その西側の領土の買収もメキシコに持ちかけましたが、メキシコはこれに猛反発し、1846年5月、米墨戦争が勃発します。

 ところで、開戦後、プロテスタントが主流を占める米軍は、メキシコのカトリックの教会に避難していた人々に対して、容赦なく発砲。このため、もともと、米国社会で不遇をかこっていたアイルランド系カトリック兵約500名は米軍を離脱し、カトリックの進行を同じうするメキシコ軍に合流。彼らは、1846年9月21日のモンテレーの戦い以降、ジョン・ライリー司令官の下、メキシコ軍の砲兵隊“セント・パトリックス大隊(スペイン語名:サン・パトリシオス)”として戦いました。

 セント・パトリックス大隊は、多くの犠牲を出しながらも勇敢に戦いましたが、1847年8月20日のチュルブスコの戦いでは35名の戦死者を出して敗北し、85名が米軍の捕虜となり、“脱走兵”としてタクバヤおよびサンアンヘルの軍事裁判にかけられました。ちなみに、米墨戦争中の米軍の脱走兵は9000人以上いましたが、軍事裁判にかけられて処罰の対象となったのはセント・パトリックス大隊のメンバーだけでした。

 裁判の欠陥、タクバヤの法廷で30名が、サンアンヘルの法廷で20名が反逆罪として絞首刑の判決を受け、1847年9月10日、刑が執行されました。その他の者には、米軍の軍歴がなかった(=“脱走兵”にはならない)ことが証明されて無罪となった2名を除き、裸の背中に50回、鞭打ちをした後、脱走兵(deserter)を示すDの文字を焼き付け、戦争が続いている間は首の周りに鉄のくびきをつけるという判決が下されています。

 米墨戦争は、最終的に、米国の勝利に終わり、1848年2月に結ばれたグアダルーペ・イダルゴ条約により、メキシコは、リオ・グランデ以北、テキサスからカリフォルニアまでの広大な領土をわずか1500万ドルで米国に売却させられました。戦後の1850年、メキシコ軍は、正式に、セント・パトリックス大隊の任を解きましたが、現在なお、メキシコ・アイルランド両国では、彼らは英雄とされており、処刑後150周年の節目には、今回ご紹介のアイルランド切手と同図案の記念切手がメキシコでも発行されています。


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 モザンビークの鉄道
2017-03-16 Thu 14:36
 今月13日からきょう(16日)まで日本を訪問中のモザンビークのフィリペ・ジャシント・ニュシ大統領が、きのう(15日)、安倍首相との会談後、両陛下とも会見したそうです。というわけで、モザンビーク鉄道港湾公社出身の大統領にちなんで、今日は、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      モザンビーク会社領・ベイラ鉄道はがき

 これは、1904年、モザンビーク会社領で発行された葉書で、ザンベジ川の鉄橋を渡るベイラ鉄道が取り上げられています。

 1822年、ポルトガルにとってドル箱の植民地だったブラジルが独立すると、ポルトガル国内では政治の混乱が続き、経済も低迷。国家財政も急速に悪化し、ポルトガルは鉄道や鉱山の利権を担保に英国から借金を重ねました。

 こうした経緯を経て、19世紀後半、列強諸国によるアフリカ分割の過程で、ポルトガルはモザンビークとアンゴラを横断する“バラ色地図計画”を発表したものの、1890年には英国の圧力で現在のザンビアジンバブエマラウイに相当する地域の領有を断念し、1891年の条約で“ポルトガル領モザンビーク”の領域が確定されます。

 さらに、1891年、ポルトガルは英仏資本の勅許会社、モザンビーク会社ニアサ会社に対して、ポルトガル植民地政庁の裁判所の運営経費を負担し、宗教活動に援助することを条件に、50年間、両者の“会社領”とされた地域において司法権を除く各種の権利(警察権や徴税権、通貨発行権や郵便事業、鉄道建設、鉱山開発、農場経営などの権利)を与えます。

 このうち、モザンビーク会社領とされたのは、現在のモザンビーク中央部、マニッカ州およびソファラ州に相当する地域で、同社の植民地経営の拠点となったのが、港湾都市のベイラでした。
 
 なお、モザンビークには、中部のベイラの他、マプート、ナカラ、ケリマネ、ペンバ、パライアの計6ヵ所の港湾がありますが、そのうち、北部の拠点となるのがナカラ、中部がベイラ、南部がマプートです。これらの港湾は周辺内陸国からの商品作物や鉱産資源の積出港となっていたため、港湾と併せて鉄道が整備されることになりました。ニュシ大統領が以前勤めていた鉄道港湾公社という組織は、こうした事情から生まれたものです。なお、主要な3港湾から後背地域へのアクセス経路はナカラ回廊、ベイラ回廊、マプート回廊と呼ばれています。

 今回ご紹介の葉書に取り上げられているベイラ鉄道は、1892年、モザンビーク会社がベイラから内陸のイギリス南アフリカ会社領のムタレ(現・ジンバブエ。ベイラから290km、モザンビーク会社領との境界からは8km)までの区間で建設を開始し、1898年に開通しました。20世紀初頭には、英領ケープ植民地(現・南アフリカ共和国)のフライバーグやソールズベリー(現・ジンバブエの首都ハラレ)を結ぶ鉄道路線と接続して南東アフリカにおけるイギリスの物流を支える大動脈となり、ベイラは域外に輸出する物心の集散地として経済的に繁栄しました。

 さらに、ボーア戦争後、ポルトガル領東アフリカに対する英国の介入は一層露骨になって、ベイラ港の港湾施設や鉄道は、モザンビーク会社からイギリス南アフリカ会社へ譲渡されただけでなく、両社の間では役員の交換も行われて一体化が進みます。またモザンビーク会社は南ローデシアトランスヴァールで南アフリカ会社が経営する鉱山に、黒人労働者を送り込み、最盛期にはモザンビークから年間10万人が出稼ぎに行きました。

 モザンビークの鉄道網は、独立後の内戦で大きな打撃を受け、その後の修復が不十分な状況が続いきましたが、近年、日本を含む各国の支援により、モザンビーク・マラウィ両国にまたがるナカラ鉄道の682kmの既存鉄道路線の整備と230kmの路線新設(ナカラ港における石炭ターミナルの新設・一般貨物ターミナルの整備を含む)が進められており、今後の地域開発と産業振興が期待されています。


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 TAXE
2017-03-15 Wed 11:53
 所得税の確定申告は今日(15日)までですが、皆さんは無事に済まされましたか?手回し良く2月中に済ませたという方も多いのでしょうが、僕は今年もまた〆切ギリギリ、先ほどようやく書類を提出したところです。というわけで、毎年恒例“TAX”ネタとして、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・リオ開港100年記念絵葉書裏面  ブラジル・リオ開港100年絵葉書

 これは、1908年7月14日にブラジルで発行された“リオ・デ・ジャネイロ(以下、リオ)開港100周年”の記念絵葉書の使用例で、1910年3月10日、リオ・グランデ・ド・スル州のサンタマリアからドイツ宛に差し出され、3月12日付のモンテヴィデオ(ウルグアイ)の中継印が押されています。葉書はもともと国内用のもので額面は50ヘアイスですが、これに100ヘアイス切手を貼り足したものの、料金不足だったため、万国郵便連合の公用語、フランス語で郵便料金(=郵税)を意味する“TAXE”の頭文字の“T”の印を押し、不足料として200ヘアイスを徴収すべきことが書きこまれています。

 1502年1月、ガスパール・デ・レモス率いるポルトガルの艦隊はブラジル・グアナバラ湾に到着。グアナバラ湾は湾口がぐっと狭まっているため、彼らはここを川と勘違いし、到着したのが1月だったことから、河口の一帯を“1月の川”、すなわちリオ・デ・ジャネイロと命名しました。

 その後、欧州でナポレオン戦争の嵐が吹き荒れていた1808年、ナポレオン軍の攻撃を受けたポルトガルのブラガンザ王朝はリスボンからブラジルに逃れ、植民地政庁のあったリオに亡命政権を樹立します。以後、1821年にポルトガルの宮廷がリスボンに帰還するまでの間、リオの開発は急速に進み、その後の繁栄の基礎が築かれます。

 今回ご紹介の絵葉書はこのリオ遷都から100周年になるのを記念して発行されたもので、同図案の切手も発行されています。絵面の原画は、ブラジル近代絵画の巨匠エンリケ・ベルナルデリが制作しました。グアナバラ湾を背景に、ブラジルを象徴する女神と、ポルトガルを象徴する勇者が向かい合うようすが取り上げられており、居並ぶ艦隊の隙間越しにポン・ヂ・アスーカルを描くことで、ポルトガル人がリオに到着したばかりであることを表現しています。また、上方には、当時のポルトガル国王カルロス1世(左)とブラジル大統領アルフォンソ・ペナ(右)の肖像も並べて描かれています。

 なお、リオデジャネイロとその歴史については、昨年刊行の拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』で詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 世界の国々:ドミニカ国
2017-03-14 Tue 10:26
 ご報告が遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』3月8日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はドミニカ国の特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ドミニカ国・バルバドス経由米宛  ドミニカ国・バルバドス経由米宛裏面

 これは、第二次大戦中の1944年1月(?)、英領ドミニカの首府、ロゾーからニューヨーク宛の書留便とその裏面で、バルバドス経由の迂回ルートで逓送されているのがミソです。

 1939年9月、ドイツのポーランド侵攻に対して、ポーランドの同盟国であった英仏は、それぞれ、ポーランドと結んでいた相互援助条約に基づいてドイツに宣戦を布告し、第二次欧州大戦が勃発します。

 大戦の勃発当初、カリブ海と大西洋の境界となっている小アンティル諸島のうち、英国の支配下にあった島々は、行政上、北部の英領リーワード諸島(東から西へと吹く貿易風の風下側)連邦と、南部の英領ウィンドワード諸島(貿易風の風上側)連邦に分割されており、ドミニカ島はリーワード諸島連邦の南端として位置付けられていました。

 また、海を隔ててドミニカ島の北隣には仏領グアドループが、南隣には仏領マルティニークがありましたが、1939年中は、英仏はともにドイツと戦う同盟関係にあったため、ドミニカ島は戦時下の緊張状態にはなく、同島と海外とを往来する郵便物も従前どおりの扱いでした。

 むしろ、当時の英国のドミニカ統治においては、1930年にカリブ族の大反乱が発生し、1936年には地方議会でアフリカ系の議員が全体の半数を占めるなど、民族主義の高揚の方が問題だと認識されていました。このため、1940年1月、英植民地当局は、民族主義の強かったリーワード諸島の枠組からドミニカ島を切り離し、情勢が安定していた英領ウィンドワード諸島の北端として行政上の帰属を変更し、植民地統治の安定をはかろうとします。

 一方、欧州戦線では、1940年6月、フランスがドイツに敗北。フランス本国ではフィリップ・ペタンを国家元首とする親独ヴィシー政権が成立しましたが、ドイツへの徹底抗戦を主張するド・ゴール派はロンドンに亡命政府の自由フランスを樹立し、仏領植民地も両派に分裂。こうした状況の中で、グアドループとマルティニークの仏領植民地政府はヴィシー政権支持の立場を取ったため、英領ドミニカ島は親独政権によって南北をはさまれることになり、情勢は一挙に緊迫化します。

 このため、戦況によっては、英領ドミニカから米国宛の郵便物の中には、北進してストレートに米国に運ばれるものだけではなく、南のバルバドスを経由する迂回ルートが取られることもありました。今回ご紹介のカバーはその一例で、裏面の着印をたどると、ロゾー(1944年月日不明)→バルバドス(1月30または31日)→ニューヨーク(2月16日着)というルートを取っていることがわかります。また、逓送途中で、英領当局および米当局によって開封・検閲を受けています。

 ヴィシー政権の支配下に置かれた仏領マルティニークとグアドループでは、フランス当局は従来以上に先住民に対して抑圧的な姿勢で臨んだため、“反対者(西インド諸島の仏領植民地でのド・ゴール派)”として、大戦中、数千人の先住民が英領ドミニカに逃れました。その中には、マルティニーク出身で、後にアルジェリア独立運動のイデオローグとなるフランツ・ファノンのように、自由フランス軍に加わってドイツと戦う者も少なくありませんでした。

 ドミニカ島は、ナポレオン戦争中の1805年に英国の領有権が確定するまでは、英仏の勢力角逐の場となっており、フランスによる支配も断続的に行われていたため、首府ロゾーを中心に、フランスの影響も色濃く残っていました。また、カリブ海の英領地域において奴隷制が廃止されたのが1834年だったのに対して、仏領地域での奴隷制廃止は10年以上も遅い1848年だったため、この間、マルティニークやグアドループからの逃亡奴隷が英領ドミニカに逃げ込む事例も少なからずあり、彼らの子孫を通じて、宗主国の違いを越えて、3地域の住民の間には交流がありました。

 こうしたことから、ドミニカ島の住民は、近隣仏領地域から逃れてきた“反対者”を積極的に支援するという状況が生まれたわけです。

 一方、ドミニカ島の宗主国、英国はドイツとの戦争の当事者でもあったから、英領ドミニカでも義勇兵の徴募が行われ、若者たちが英連邦軍の兵士として枢軸国と戦い、英国の勝利に貢献しました。ドイツとの戦争で亡くなったドミニカ島出身兵の名前は、ロゾーのヴィクトリア・ストリートにある戦没者慰霊碑に刻まれており、毎年、退役軍人や警察官、士官学校生らが行うパレードでは祖国の英雄として顕彰されています。

 さて、『世界の切手コレクション』3月8日号の「世界の国々」では、第二次大戦中の英領ドミニカについて扱った長文コラムに加え、1979年のハリケーン・デイヴィッドの際のカバー、ギムレットの材料として有名なドミニカ産ライム、世界最高齢とされた女性のエリザベス・イスラエル、先住民のカリブ人の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、 「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のドミニカ国の次は、あす(15日)発売の3月22日号での赤道ギニアの特集(2回目)になります。こちらについては、発行日の22日以降、このブログでもご紹介する予定です。 


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 HAPPY HOLI!
2017-03-13 Mon 08:27
 きょう(13日)は、ヒンドゥー世界では春の訪れを祝う“ホーリー祭”の日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      インド・こどもの日(ホーリー)

 これは、2002年11月14日にインドが発行した“こどもの日”の切手で、ホーリー祭を描いた児童画が取り上げられています。

 ホーリー祭は、インド暦第11月の満月の日(太陽暦では3月)の2日間、春の訪れを祝って行われる祭りで、もともとは豊作を祈願するためのものでしたが、その後、インド各地の悪魔払いの伝説等の要素を取り込み、誰彼無く色粉や色水を掛け合ったりする行事となりました。

 色粉や色水を掛け合う習慣は、もともとは、カシミール地方の伝承で、この日に人家に押し入ってくる悪鬼ビシャーチャを追い払うため泥や汚物を投げつけたのが由来とされています。ただし、祭としては、実際に汚物を投げ合うわけにはいかないので、糞尿の代わりに黄色、血の代わりに赤、田畑のシンボルとして緑の色粉・色水を掛け合うようになりました。また、クリシュナ伝説にちなみ、ブランコにまつわる儀礼がおこなわれる地域もあります。

 ホーリー祭の初日は、日没後、男女のグループに別れ、ヒンドゥーの神々や人間の男女の愛情を表現する歌を掛け合いで歌い、焚き火を燃やして悪霊を焼き幸福を祈願。2日目の午前中、色粉・色水などを掛け合うのが一般的です。色粉などを塗りあった後は「ハッピー・ホーリー」と言いながら抱き合うことも多く、人々は、体中、色まみれになります。また、この日だけは、カーストなどの身分秩序を越えて、無礼講が許されています。

 ちなみに、ヒンドゥーでは飲酒は禁じられていないものの、好ましからざる習慣とされているため、普段はお酒を飲まないという信徒も多いのですが、ホーリー当日だけは例外で(なにせ無礼講の日ですから)、朝から盛大に酒を飲んで、昼ごろには酔いつぶれている人が続出するのだとか。色まみれになるのは、ちょっと勘弁してもらいたいのですが、朝酒なら付き合ってみても良いかなぁ。


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 サウジアラビア国王来日
2017-03-12 Sun 14:33
 サウジアラビアのサルマーン国王が、きょう(12日)から15日までの日程で来日されます。サウジアラビア国王の来日は、1971年のファイサル国王以来、46年ぶりですが、今回の国王来日は、王族や企業幹部ら随行団が“1000-1500人の規模”、持ち込まれる荷物の総重量が450トン超という桁違いとなっていることでも話題になっています。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      サウジ・サルマーン国王(2015)

 これは、2015年4月27日、サウジアラビアで発行されたサルマーン新国王(中央)とムクリン皇太子兼副首相(右。肩書は切手発行当時)とムハンマド・ビン・ナーイフ副皇太子兼内務大臣(左。同)の3人が取り上げられています。

 サルマーン国王は、1935年12月31日、初代サウジアラビア国王イブン・サウードの25番目の男子で、イブン・サウードが最も寵愛したスデイリ家出身のハッサ妃との間に生まれた7人の男子、“スデイリー・セブン”の1人です。

 1954年にリヤード州の副知事に就任し、1955-60年、1963-2011年にリヤード州知事を務めました。2011年10月、スデイリー・セブンの一人で兄のスルターン皇太子兼副首相兼国防大臣が死去すると後継の国防大臣に就任。さらに、2012年6月、やはりスデイリー・セブンの一人で兄のナーイフ皇太子兼副首相兼内務大臣が死去すると、国防大臣と兼任する形で王位継承順1位である皇太子兼副首相にも就任しまし。

 2015年1月23日、第6代のアブドゥッラー国王の崩御に伴い、第7代国王として即位し、首相を兼任しました。

 これに伴い、王位継承順第2位だったムクリン副皇太子兼第二副首相が皇太子兼副首相に、王位継承順第2位となる副皇太子兼第二副首相にナーイフ元皇太子の息子のムハンマド・ビン・ナーイフ内務大臣が任じられました。しかし、即位後間もない2015年4月29日、ムクリンを解任し、ムハンマド・ビン・ナーイフを内務大臣と政治・安全保障評議会議長に兼職のまま皇太子兼副首相に昇格させ、息子のムハンマド・ビン・サルマーンを国防大臣と経済開発評議会議長に兼職のまま副皇太子兼第二副首相に昇格させました。

 解任されたムクリンは初代国王イブン・サウードの子ではありますが、スデイリー・セブンではなく、イエメン出身のバラカが母親です。

 1945年生まれで、英国・米国の空軍大学で学んだ後、1965年にサウジアラビア空軍に入隊。1980年の除隊後は、マディーナ州知事として医療・教育改革で実績を上げ、2005年10月、サウジアラビア総合情報庁長官に就任。国内のイスラム過激派排除に辣腕をふるったほか、パキスタンのパルヴェーズ・ムシャラフ、ナワーズ・シャリーフ、ベーナズィール・ブットーの政治的和解のために尽力しました。こうした実績が認められ、2012年7月、アブドゥッラー国王の顧問・国王特使に任じられ、2013年2月1日には第二副首相に、2014年には、サウジアラビア史上初の副皇太子に指名されました。

 このように、スデイリー・セブンの一員でないにもかかわらず、アブドゥッラー前国王に近い政治的実力者だったムクリーの存在は、スデイリー・セブン派を重用したい国王とその周辺にとっては厄介なもので、そのことが、彼の解任につながったとみられています。ただし、ムクリーに関しては、彼に何らかの非があって皇太子兼副首相から解任されたわけではなかったことは明らかでしたから、ムクリー派に対する一定の“配慮”として、息子のマンスールが国王顧問に任じられました。

 いずれにせよ、今回ご紹介の切手の3人の組み合わせは、国王の即位からわずか3ヵ月間しか続かなかったわけですが、その後、この切手がサウジアラビア国内でどういう扱いになっているのか、そのあたりについては調べきれませんでした。どなたか、詳細をご存じの方がおられましたら、御教示いただけると幸いです。

 
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 ラオス通貨を使った詐欺
2017-03-11 Sat 16:41
 「ラオスに融資すれば金利によって利益が得られる」などともちかけ、80代女性にラオスの紙幣300万キープ相当(日本円で4万円弱)を渡して、日本円150万円をだまし取っていた男4人が、きのう(10日)、大阪府警に逮捕されました。男らは、同様の手口で、京都府や兵庫県に住む60-90代の男女約100人から計約1億2000万円をだまし取ったと見られています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ラオス・改値加刷(2014)

 これは、2014年7月22日にラオスで発行された1万1000キープ切手で、1984年に発行された国章図案の1キープ切手に新額面を加刷しています。元の額面の1万倍以上の高額加刷ですが、日本円に換算すると146円前後。2013年(今回ご紹介の切手が発行される前年)に僕がラオスを訪れた時の物価では、ミネラルウォーターのペットボトルが2000キープでしたから、1万1000キープ(日本円で146円前後)だと5本半。物価感覚からすると、日本では5-600円といった感じでしょうか。

 さて、旧仏領インドシナのうち、現在のラオスの地では、第2次大戦末期の1945年3月、日本軍によっていわゆる明号作戦が発動され、同年4月、日本の影響下でシーサワーンウォン王がラオス王国の独立を宣言しました。

 ところが、第二次大戦後、インドシナ支配の復活をもくろむフランスが再進駐してくると、シーサワーン・ウォンは独立を撤回。これに不満を持つ民族主義者は、1945年10月、ラオ・イサラ(自由ラオス)を結成し、従来の仏印ピアストルに代わる新通貨として“キープ”を導入し、自らの支配地域で流通させました。

 これに対して、フランスはシーサワーン・ウォンに内政の自治権を与えて懐柔するとともに、ラオ・イサラを攻撃。このため、ラオ・イサラの指導者たちはタイに亡命政府を樹立し、ラオスの地ではふたたび、仏印ピアストルが使用されるようになります。

 1946年の第一次インドシナ戦争勃発を経て、1949年にラオスはフランス連合内のラオス王国として名目上独立し、1953年10月22日に完全独立を達成します。これに先立ち、1952年、カンボジア・ラオス・ベトナム国立発券局は独立に向けた移行措置として、仏印ピアストルとキープの両通貨を発行しました。両通貨は等価で、ラオス王国の独立後も1957年まで両通貨併記の紙幣が使われていました。その後、1957年にラオス王国は両通貨併記の紙幣を廃止し、新通貨として“王国キープ(ヴィエンチャン・キープとも)”を導入。以後、1975年まで、王国キープがラオスの法定通貨となります。

 1975年12月、王制が廃止され、ラオス人民民主共和国が成立した後も、当初は王国キープが使用されていましたが、内戦中のインフレに対応すべく、1976年6月13日、新通貨として“解放キープ(パテート・ラーオ・キープとも)”が導入されました。新旧通貨の交換レートは1解放キープ=20王国キープです。

 しかし、その後も社会的な混乱に伴い急激なインフレが進行し続けたため、1979年12月16日に100分の1のデノミを伴う通貨改革が実施され、現行通貨としてのPDRキープ(ラオス人民民主主義共和国 キープ、国立銀行キープとも)が導入され、現在に至っています。

 ちなみに、1979年の現行キープ導入後、1980年のラオスのインフレ率は188.82%(同時期の日本は7.81%)で、その後も20世紀中はおおむね2ケタの高インフレ率を記録していましたが(特に、1985年は114.70%、1999年は128.41%と3ケタを記録しています)、2005年以降のインフレ率はおおむね5-7%程度に収まっています。

 今回ご紹介の切手が発行された2014年のインフレ率は5.50%でしたから、この切手も、急激なインフレに対応するためというよりは、純粋に、郵便局の在庫不足を補うため、インフレで使い道がなくなり、大量に余っていた低額切手を持ち出して加刷したものと思われます。なお、加刷には“2014年3月5日”の日付が表示されていますが、これが何を意味するのかは調べきれませんでした。

 当初、改値加刷は機械で印刷されることも検討されましたが、現場スタッフの間では手押し加刷の方が望ましいという声が強かったため(おそらく、印刷所からの大量の横流しを恐れたものと思われます)、1枚ずつ、手押しの印が押されました。ちなみに、手押し加刷に要した経費は、加刷用の印顆の製作費や人件費など、米ドル換算で580ドルでした。また、加刷に使用された台切手の額面合計は米ドル換算で 41.13でしたが、加刷切手の額面合計は28万6675.80ドルと大幅に上昇しました。

 なお、加刷切手の製造は、2014年9月4日に終了し、それにあわせて、ラオス当局は、加刷に用いた印顆を公開の場で焼却するセレモニーを行い、以後、新たな加刷切手の製造はないことを国民の前でアピールしています。


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 朴槿恵大統領、失職
2017-03-10 Fri 15:27
 韓国の憲法裁判所は、きょう(10日)、国会が可決した朴槿恵大統領(以下、敬称略)の弾劾訴追を妥当との判断を下しました。これにより、朴槿恵は大統領を罷免されて即時失職。任期中の大統領の罷免は韓国の憲政史上初めてのことです。というわけで、今日はストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・朴槿恵大統領就任

 これは、2013年の朴槿恵大統領就任時に韓国で発行された記念切手です。

 朴槿恵は、1952年2月20日、大邱生まれ。1961年のクーデターで父親の朴正熙が政権を掌握したことに伴いソウルに移り、1974年、西江大学校電子工学科を卒業。卒業後はフランスへ留学しましたが、1974年、いわゆる文世光事件で母親の陸英修が暗殺されたため、急遽留学先のフランスから帰国。1979年に父親が暗殺されるまで、ファーストレディー役を務めました。父の死を耳にした際の第一声は、混乱に乗じた北朝鮮の南侵を懸念した「休戦線は大丈夫か」だったというエピソードは有名です。

 その後、ガールスカウト団名誉総裁、財団理事長を務めた後、1998年に行われた国会議員補欠選に当選し政界入り。当選後は、保守系のハンナラ党副総裁など党要職を歴任。2002年2月にハンナラ党を離党した後、同年末に行われる大統領選挙に向け新党「韓国未来連合」を結成しましたが、11月にハンナラ党に復帰しています。

 2004年3月23日、ハンナラ党の代表に就任。同年の選挙では、ハンナラ党の苦戦が予想されていましたが、朴槿恵の知名度と人気で後退は最小限にとどまり、“ハンナラ党のジャンヌ・ダルク”と呼ばれました。2006年5月20日、遊説中にカッターナイフで男に切り付けられ、右耳下から顎にかけて60針縫う手術を受けた際には、盧武鉉大統領の支持団体からは、「60針を縫ったのは整形手術」と揶揄されましたが、それが逆に一般国民の反感を招き、地方選挙でのハンナラ党圧勝につながりました。この実績から、2007年大統領選挙の有力候補とみられるようになり、同年6月、ハンナラ党の代表を辞任して大統領選挙の準備に専念したものの、党の公認候補にはなれませんでした。

 その後、2012年の大統領選挙を目指して、2010年12月27日、「国家未来研究院」を創設。重要選挙でのハンナラ党のあいつぐ敗北と関係者のスキャンダルにより党代表の辞任が相次いだことを受けて、2011年10月、非常対策委員会の委員長として5年5ヶ月ぶりに党の指揮を執り、ハンナラ党をセヌリ党と改称したうえで、翌2012年の総選挙では単独過半数を維持。セヌリ党の大統領候補として地位を固め、12月19日の大統領選挙で当選を果たしています。

 父親の朴正煕が日本の陸軍士官学校を卒業して満洲国軍に在籍していたことから、朴槿恵に対しては早くから“親日派”との批判が浴びせられていたこともあって、大統領就任直後の2013年3月1日、朴槿恵は三・一独立運動記念式典では、「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、1000年の歴史が流れても変わることはない」と演説。その後も、“歴史認識”やいわゆる“慰安婦問題”などで日本批判を続けたため、日韓関係は冷却。その欠を補うために対中傾斜を強め、そのことがますます、日韓関係を悪化させるという悪循環を招きました。

 発足後間もない2013年3月7日、朴槿惠政権は、中露を巻き込んで国連安保理の新たな北朝鮮制裁決議(2094号)を全会一致で採択させることに成功しましたが、2014年の旅客船セウォル号の沈没事故への韓国政府の対応のまずさから政権への支持率は急落。さらに、2016年1月の北朝鮮の核実験後、韓国が中国に対北朝鮮制裁で協力を求めたにもかかわらず、中国側は対話を通じて解決することを強調するなど、安全保障面では、朴政権の対中外交はさしたる成果は上げることができませんでした。このため、2016年7月、韓国国防省と在韓米軍がTHAADミサイルを在韓米軍に配備することを決定しますが、そのことは、中露の強い反発を招き、対中関係も冷却。中国は“限韓令”として、韓国からの輸入規制措置・非関税障壁・韓流排除などの露骨な貿易報復措置を発動し、経済状況も大きく悪化しました。

 こうした中で、2016年10月、大統領の個人的な友人・崔順実による国政介入問題(崔順実ゲート事件)が発覚したことで、支持率はさらに落ち込み、11月初頭には5%までに下落。このため、11月29日には、大統領の任期短縮を含む自らの進退をすべて国会に委ねる意向を表明すると、12月9日、国会は大統領の弾劾訴追案を可決。これを受けて、同日、大統領としての彼女の職務が停止され、きょうの憲法裁判所の判断となったといわけです。

 なお、今回の大統領失職を受けて、60日以内(5月99日まで)に、韓国では大統領選挙が実施されることになっています。韓国では、毎回、新大統領に就任に合わせて記念切手を発行していますので、次期大統領の就任時にも、慣例に従い、肖像を取り上げた記念切手が発行される可能性が高いでしょう。ただし、今回の一件で、大統領職そのものの権威が大きく傷ついたことは否めませんので、ひょっとすると、今回ご紹介の切手が韓国新大統領就任の記念切手としては最後の1枚になるかもしれません。

 さて、いまから10年近く前の2008年、僕は『韓国現代史』と題する拙著を上梓しましたが、同書は、李明博政権の発足までしかカバーしていません。来年は大韓民国の正式成立から70周年でもありますし、可能であれば、李明博以降の10年間を追加したアップデート版を作ってみたいですね。


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 ミュシャ展はじまる
2017-03-09 Thu 13:44
 昨日(8日)から、日本とチェコ(当時はチェコスロヴァキア)の国交回復60周年の特別企画として、東京・六本木の国立新美術館で“ミュシャ展”がスタートしました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      チェコ・プラハ城(1918・3ハレル)

 これは、1918年に発行されたチェコスロヴァキアのプラハ城切手(3ハレル)です。

 第1次大戦以前、オーストリア=ハンガリー二重帝国の支配下に置かれていたチェコとスロヴァキアは、1918年10月18日、チェコスロヴァキアとして独立を宣言します。当初、新国家はオーストリア時代の切手を接収し、“チェコスロヴァキア共和国”などの文字を上から印刷するなどの暫定的な処置で急場をしのいでいましたが、これと併行して、独立国としてオリジナル・デザインの新切手を発行すべく準備を進めました。

 新国家は自国出身の巨匠であったミュシャ(チェコ語の発音だと“ムハ”)に切手のデザインを依頼。これを受けて、ミュシャは、独立後まもない祖国のためにプラハ城を大きく描き、右手に小さく聖ミクラーシュ教会を配した切手のデザインを無償で作成します。

 ミュシャのデザインした切手は、1918年12月18日、最初の3額面(3ハレル、5ハレル、10ハレル)が発行されたのを皮切りに、1920年までさまざまな額面のものが発行されました。これが、いわゆる“プラハ城切手”です。

 プラハ城切手は、当時の混乱した状況の中で製造されたことから、一見、同じに見える切手でもさまざまなバラエティに分類することができます。ちなみに、今回ご紹介の切手は、このうち、最初に発行されたタイプAと呼ばれるもので、このタイプは、“CESKO SLOVENSKA POSTA(チェコスロバキア郵政)”の表示が白抜き文字で、切手の左右に縦書きで印刷されています。

 また、当時は、わずか2年5ヶ月の間に3回の郵便料金の値上げがあったため、さまざまな種類の郵便物が残されることになりました。これらを専門的に追いかけていくと、時間もお金も相当かかるのですが、それだけに、チャレンジしがいのある分野として収集家の間では人気があります。その一方で、安いものでは、1枚100円前後で入手できるモノも少なからずありますので、とりあえず、切手とは無関係に、“ホンモノのミュシャ”を手に入れてみたいという方にもお勧めの素材です。


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 国際女性デー
2017-03-08 Wed 09:20
 きょう(8日)は国際女性デーです。というわけで、例年どおり、拙著の中から女性ネタということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・アントニオカルロスジョビン(1999)

 これは、1999年にブラジルが発行した“アントニオ・カルロス・ジョビン没後5周年”の切手で、彼の代表作、『イパネマの娘』をイメージして海岸のピアノと若い女性の後ろ姿が描かれています。

 アントニオ・カルロス・ジョビン(トム)は、1927年、リオのチジュッカ地区生まれ。14歳の頃からピアノを弾きはじめ、音楽家になることを夢見ていましたが、高校卒業後は、生活の安定を考えて建築学校に入学しました。しかし、音楽への夢を捨てきれず、ナイト・クラブでピアノを弾いていたところ、1952年、当時のブラジル音楽界の大御所、ハダメス・ジナタリに見いだされ、コンチネンタル・レコードに入社。翌1953年、オデオン・レコード(EMI・ブラジル)に移って、作編曲家として活動するようになります。

 1956年、ヴィニシウス・ヂ・モライスがプロデュースしたミュージカル『オルフェウ・ダ・コンセイサォン』(1959年に『黒いオルフェ』としてフランス・イタリア・ブラジル合作で映画化され、カンヌのパルム・ドールなどを受賞)の音楽を担当して以来、ヂ・モライスとジョビンはコンビを組んで数々の曲を発表するようになり、1958年には、“サンバ・カンサゥン(白人を中心に、比較的穏やかなリズムで叙情的な内容を歌ったサンバ)の女王”、“ブラジル音楽の至宝”などと呼ばれていた当代一の女性歌手、エリゼッチ・カルドーゾのアルバム『愛しすぎた者の歌』の全収録曲を手がけます。このアルバムの成功により、ヴィニシウスとジョビンは現代ブラジル文化を象徴するビッグ・ネームとなりました。

 彼らの代表曲『イパネマの娘』の舞台となったリオ・イパネマ区は、コパカバーナ海岸の南端から西へ500mほど行ったところからはじまる海岸とその周辺の高級住宅街で、帝政末期の1885年に“イパネマ男爵”を襲爵した不動産王、ジョゼ・アントニオ・モレイラ・フィーリョが周辺一帯を開発したことが、地名の由来となりました。ちなみに、この爵位は、彼の父親、ジョゼ・アントニオ・モレイラが、サンパウロの西96km に位置するソロカーバの地のイパネマ川沿いにイパネマ製鉄所を建設した功績に対して与えられたものです。

 さて、イパネマの海岸通りから、ヴィニシウス・ヂ・モライス通りを北に歩いて最初の角には、現在、その名も“ガロッタ・ヂ・イパネマ(イパネマの娘)”という名のショッペリア(生ビールを出すバー)がありますが、もともと、この店は1960年代初頭には“ヴェローゾ”というバール(生ビールは出さず、瓶ビールを出す食事処)でした。

 さて、1960年代初頭のヴェローゾはヂ・モライスやジョビンらボサノヴァ関係者のたまり場の店でしたが、ここには、近所に住むエロイーザ・エネイダ・メネーゼス・パエズ・ピントという少女が母親のお使いで、ちょくちょく煙草を買いに来ていました。

 1945年生まれのエロイーザは、1962年の時点で17歳。身長170センチのすらっとした美少女で、ヂ・モライスとジョビンは彼女の歩く姿を見て『イパネマの娘』のインスピレーションを得たといわれています。

 ただし、一部でいわれているように、この曲の歌詞はヂ・モライスがほぼ即興で仕上げたというわけではなく、入念な準備と推敲を重ね、2通りのバージョンを作った上で現在の歌詞のほうを選び、それにジョビンが曲をつけたという、難産の末の作品でした。

 ちなみに、『イパネマの娘』の冒頭の歌詞は「見てごらん。なんて可愛い女の子だろう 優雅さに満ち溢れていて 甘い揺れのなかで やって来ては 海辺を歩いていくよ。」となっていますが、ここでいう“甘い揺れ(doce balanco)”というのは、歩きながらお尻がプリッと揺れるようすのことです。男女ともに、セックス・アピールの対象となるパーツは圧倒的にお尻だというお国柄だからこその表現で、切手のデザインも、これを踏まえて後ろ姿の女性が描かれています。

 なお、このあたりの事情については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 切手歳時記:ホタルイカ
2017-03-07 Tue 10:47
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2017年3月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ホタルイカ

 これは、1966年7月1日に発行されたホタルイカの35円切手(普通切手)です。

 ことしも、3月1日、富山湾のホタルイカ漁が解禁になりました。

 ホタルイカの水揚量が日本で最も多いのは浜坂漁港をはじめとする兵庫県ですが(富山県は第2位)、富山湾のものは身が大きく、ミソも詰まっていて美味なので、人気があります。

 富山湾の常願寺川の河口左岸から魚津港までの15 km、満潮時の沖合1260 m までの海域では、毎年春の宵、 ホタルイカの雌が産卵のため深海200-600 m から浮上して浅瀬に密集し、翌未明には沖へ帰っていきます。これが、国の特別天然記念物に指定されている“ホタルイカ群遊海面”です。ちなみに、天然記念物に指定されているのは、ホタルイカそのものはではなく、ホタルイカのいる海面なので、ホタルイカを食べることはなんら問題ありません。

 富山湾のホタルイカ漁は、こうしてやってきたホタルイカを、夜間、定置網で獲るため、網にかかるのはほとんどが雌になります。ちなみに、ホタルイカは雄よりも雌が大きく、味も雌が美味。また、定置網漁だと、小さく繊細なホタルイカの身が他の魚に傷つけられることも少ないというメリットがあります。

 一方、他の地域のホタルイカ漁は、日中、底引き網でごっそり獲るので、雌雄が半々になるだけでなく、他の魚が網に入ってホタルイカの身が傷むことも少なくありません。

 富山産のホタルイカが人気を集めているのは、こうした事情によるものです。

 ホタルイカはすぐに傷んでしまうため、産地以外でも春の味覚として楽しめるようになったのは、冷蔵・運搬技術が発達した近年のことです。このため、かつてのホタルイカは肥料として使われることも多く、富山地方では、このイカを松の肥料として使っていたため“マツイカ”と呼んでいたとのだとか。ちなみに、ホタルイカとの名前は、1905年、生物学者の渡瀬庄三郎が命名したもので、学名は渡瀬にちなんでWatasenia scintillansといいます。

 僕が子供の頃は、東京でホタルイカというと、沖漬けの瓶詰くらいしか手に入りませんでした(少なくとも、わが家ではそうでした)から、大学生になって、居酒屋で初めてホタルイカの酢味噌和えを食べたときは、今回ご紹介の切手の印象とだいぶ違うことに、ちょっと面食らった記憶があります。切手のイカは、いかにもイカらしくスリムな体型で、画面の印象からも、スルメイカ程度の大きさがあるような雰囲気ですが、実際に出てきたイカはかなり小ぶりで、ぷっくらと丸みを帯びた胴が印象的でしたから…。いまから思うと、あるいは、切手のイカは富山湾で獲れた雌ではなく、他の地域で獲れた雄がモデルになっていたのかもしれません。

 切手ではわかりづらいが、ホタルイカの触手の先には、それぞれ、3個の発光器がついていて、なにかに触ると光る仕組になっています。また、体表の海底側(腹側)にも細かい発光器がありますが、これは海底側にいる敵に対して光る姿を見せ、海面からの光に溶け込んで敵の目をくらますためのものです。

 海中のホタルイカは月の光を目印に自分の位置を把握しているらしく、月明かりのない新月の夜は、方向を見失って、棲家である深海へ戻ることができなくなります。このため、産卵を終えて力尽きた雌は光を放ったまま砂浜に打ち上げられ、“ホタルイカの身投げ”と呼ばれる光景が見られます。

 もっとも、ホタルイカを肴にちょっと一献のつもりが、ついつい杯を重ねすぎ、風呂も入らずテカリ顔のまま、自宅の玄関先でひっくり返っている僕の場合は、さしずめ“ホタルイカ身投げ”ということになりましょうか。


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 コモドオオトカゲ
2017-03-06 Mon 11:26
 きょう(6日)は、1980年3月6日にインドネシアで“コモド国立公園”が制定されて37年ということで、検索サイト・グーグルのトップページもコモドオオトカゲのデザインになっていました。というわけで、きょうはこの切手です。(以下、画像はクリックで拡大されます)

     インドネシア・コモドオオトカゲ(2000)    
     グーグル・コモド国立公園   

 この切手は、2000年にインドネシアが発行した“コモドオオトカゲ”の切手のうち、コンバットダンス(繁殖期の毎年5-8月、オス同士がメスをめぐって戦う、直立しての組み合い)を取り上げた1枚です。右側には、グーグルのトップロゴの画像も貼っておきましょう。

 コモドオオトカゲは、インドネシア・小スンダ列島のギリダサミ島、ギリモタン島、コモド島、フローレス島南部、リンチャ島などに生息する固有種で、世界最大のトカゲ(全長約200-300cm 体重約70-120kg)として知られています。

 古来、小スンダ列島には、全長7mに達する“ドラゴン”が棲息しており、スイギュウを倒したり、火を吐いたりするとの言い伝えがあり、1840年にはスンバ島の首長が文書で記録を残していましたが、その実態については不明という状況が続いていました。

 その後、1910年にオランダ人パイロットがコモド島に不時着し、“恐竜の生き残り”の目撃を証言。さらに、同年、全長2m以上の個体が射殺されたことで詳細が明らかになり、1912年、ジャワ島に持ち込まれた2頭の成体と1頭の亜成体を基に“種”として記載されました。

 乾燥した落葉樹林やサバンナ、海岸などに生息し、尾を使って泳ぐこともできます。主としてイノシシやシカなどの哺乳類を餌としていますが、鳥類やその卵、爬虫類やその卵、昆虫、動物の死骸なども食べるほか、まれに人間を襲撃することもあります。開発による生息地の破壊、獲物となるシカを人間が刈りつくしたことなどから、生息数が減少したため、早くも1920年には保護の対象となり、リンチャ島とパダール島は1938年に、自然保護区に指定されました。(パダール島のコモドオオトカゲは後に絶滅)

 また、1942年には小スンダ列島を占領した日本海軍により、珍獣として昭和天皇にも献上されています。

 1965年にはコモド島も自然保護区に指定され、1975年にワシントン条約が発効すると、ただちにコモドオオトカゲはワシントン条約附属書Ⅰ(現時点ですでに絶滅する危険性がある生き物 )に掲載。1977年には棲息地一帯がユネスコの“生物圏保護区”に指定されました。これを受けて、インドネシア政府は、1980年、コモド島を中心に、パダル島、リンチャ島などの島々および周辺のサンゴ礁からを含む総面積 2200平方キロの範囲を“コモド国立公園”に指定。今回のグーグルのトップロゴは、これにちなんだものです。

 ちなみに、コモドオオトカゲはインドネシアを代表する動物として、しばしば、国際イヴェントのキャラクターにも取り上げられています。その一端については、拙著『蘭印戦跡紀行』でもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 世界最古の現役空母が退役
2017-03-05 Sun 15:15
 世界最古の現役空母(航空母艦)としてギネス認定もされている、インドの空母“ヴィラート”が、あす(6日)、いよいよ退役します。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      インド・ヴィラート(2006年観艦式)

 これは、2006年2月12日、インド東海岸のヴィシャーカパトナムで行われた大統領観艦式を記念してインドが発行した切手のうち、ヴィラートを取り上げた1枚です。

 今回退役するヴィラートは、もともと、第二次大戦中の1944年、英海軍の空母“エレファント”として、ヴィッカース・アームストロング社のバロー・イン・ファーネス造船所で起工されました。翌1945年の終戦で建造が一時中止されましたが、1952年、造船台をあけるために工事が再開されます。その後、1953年2月16日に進水したものの、作業はなかなか進まず、1957年になってようやく完成。さらに、大規模な改装を経て、1959年11月18日、“ハーミーズ”の名前で就役しました。

 当初、ハーミーズは1981年に退役の予定でしたが、1982年にフォークランド紛争が勃発すると、急遽、整備が行われ、英国艦隊の旗艦として、軽空母“インヴィンシブル”とともに、海軍航空隊のシーハリアーやSASと海兵隊の兵員を運びました。

 ところで、インド海軍最初の空母は、1961年に英国から購入した“ヴィクラント”ですが、こちらは、もともと、1945年進水の英空母“ハーキュリーズ”でした。ハーキュリーズは、1971年の第三次印パ戦争でパキスタンの空軍基地を無力化し、バングラデシュ独立に大きく貢献。その経験から、インド政府は空母の有用性を認識し、空母2艦体制を模索していました。

 こうしたタイミングで、ハーミーズが1984年4月13日付で英海軍を退役し、1985年に除籍されたため、翌1986年4月、インド海軍はこれを購入。デヴォンポート造船所での改修を経て、1987年、サンスクリットで“巨人”を意味する“ヴィラート”の名で再就役させました。

 1993年9月、ヴィラートは浸水事故を起こしますが、これを機に、修復後の1995年には新型レーダーを追加。さらに、1999年7月から2001年4月にかけての改修作業では、推進システムの改良、防空センサーの追加、新型通信システムの導入、バラクSAM等の追加が行われています。

 2004年、インド海軍はロシアから“アドミラル・ゴルシコフ”を購入し、“ヴィクラマーディティヤ”と命名。これにより、ヴィラートは2008年に退役の予定でしたが、ヴィクラマーディティヤの改装工事が遅れたため(最終的に、ヴィクラマーディティヤの就役は2014年のことでした)、ヴィラートの退役もさらに延期され、ムンバイおよびコーチでの近代化改修が行われ、きょうまで現役として運用されていたというわけです。

 なお、退役後のヴィラートは、宿泊施設を有する博物館船となる予定だとか。機会があれば、ぜひ、ホテル“ヴィラート”に1泊してみたいものです。


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 ファン・ボイ・チャウの切手
2017-03-04 Sat 09:56
 ヴェトナムをご訪問中の天皇・皇后両陛下は、きょう(4日)、同国中部のフエにある、東遊運動の指導者、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)の記念館をご訪問されるそうです。というわけで、ストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      南ヴェトナム・ファンボイチャウ

 これは、1967年3月24日にヴェトナム共和国(南ヴェトナム、サイゴン政権)が発行した“ヴェトナムの愛国者”の切手のうち、ファン・ボイ・チャウを取り上げた1枚です。

 ファン・ボイ・チャウは、1867年12月26日、フエ生まれ。幼少時から神童の誉れ高く、6歳にして3日で『三字経』を習得し、7歳にして『論語』を読み、13歳にして科挙の前々段階にあたる、府県レベルで実施される“課”に合格しました。

 しかし、フランスによるインドシナの植民地化が進行していく中で、旧来型の四書五経を中心とした勉強には飽き足らなくなり、10代の頃から反仏運動に傾倒。1885年、清仏戦争に敗れた清朝がヴェトナムに対するフランスの保護権を認めたことに対して、阮朝の咸宜帝がフエを脱出し、反仏蜂起を起こすと、ファンもこれに参加します。そして、蜂起がフランス軍によって鎮圧されたことでフランスに対する強い憎しみを持つようになりました。ちなみに、蜂起翌年の1886年、フランスはフエの阮朝宮廷を形式的に残したまま、アンナン、トンキンを保護国とし(南部のコーチシナはフランスの直轄植民地)、1887年にはインドシナ総督府を設置。インドシナの植民地化をほぼ完成させました。

 その後、ファンは1897年に科挙に首席で合格したものの、官職には就かず、祖国再興をめざす勤王運動に参加。1904年には、阮朝の祖・嘉隆帝の血筋をひくクォン・デ(彊柢)を擁立して“維新会”を結成し、1905年初、ヴェトナム独立のための武器支援を求めて、2名の同志とともに出国し、香港、廣州上海、神戸を経由して、1905年初夏、横浜に到着しました。

 ちなみに、1904年2月に日露戦争が勃発すると、ファンは日本の勝利を予言していましたが、多くのヴェトナム人は半信半疑でした。特に、ファンの出国後、1905年5月9日にロシアのバルチック艦隊がカムラン港に寄航すると、その威容に圧倒されたヴェトナムの多くは日本の勝利は絶望的と考えましたが、実際には日本海海戦で日本連合艦隊が圧勝。このため、ファンの声望は一挙に高まることになりました。

 横浜に到着したファンは、戊戌の変で失脚し、亡命中だった清朝・変法運動の指導者、梁啓超を訪ねます。このとき、ファンが訴えたヴェトナムの状況を梁が書き留めたというかたちで出版されたのが『ヴェトナム亡国史』です。反仏武装闘争の計画についてアドヴァイスを求めたファンに対して、梁は日本政府に武器の援助を求めるよりも、独立のための人材育成が急務であると説得。さらに、ファンは梁の紹介で大隈重信、犬養毅らとも面談し、彼らからも同様の意見を得たことに加え、日本の社会を実地に観察したことで、性急な武装蜂起よりも、まずは人材の育成が重要であることを確信し、いったん、帰国しました。

 帰国したファンは、3人の学生を伴い日本に再入国し、さらに6人の学生を呼び寄せ、犬養毅の紹介で東京振武学校と東京同文書院に入学させます。これが、「日本に学べ」という意味の“ドンズー運動”の始まりで、以後、200名を超えるヴェトナム人青年が日本で軍事教練を含む質の高い教育を受けました。その中には、維新会の長であったクォン・デも含まれていました。また、ヴェトナムでは、ファンの呼びかけに応じて、慶応義塾をモデルに“東京義塾”が作られ、愛国青年の育成が始まります。
 
 これに対して、フランスは1907年、日仏協約を調印。同協約では、フランスは日本との関係を相互的最恵国待遇に引き上げることを同意する代わりに、日本はフランスのインドシナ半島支配を容認して、日本を拠点とした独立運動を取り締まることを規定していました。フランスはこれを根拠に、日本政府に圧力をかけ、1909年、ヴェトナム人留学生を日本から退去させます。さらに、ヴェトナムの東京義塾も閉鎖を命じられ、責任者は逮捕されました。

 ファンも日本からの退去を命じられ、失意の中、香港、バンコク、シンガポールなどで活動。1911年に中国で辛亥革命がおこると、皇帝の復権から、民族の独立と民主国家の建設に目標を変更し、それまでの維新会を解散。新たに、「仏賊を駆逐し、ヴェトナムを回復して、共和制のヴェトナム民国を樹立すること」を目標とするヴェトナム光復会を組織しました。その後、ヴェトナム光復会は、廣州を拠点に党員をヴェトナムに派遣して植民地政府要員の殺害を狙ったものの、ほとんど失敗。1914年にはファン自身も逮捕され、1917年まで廣州で獄中生活を送りました。

 出獄後のファンは、廣州を拠点に、日本を再訪したり、1920年には北京でソヴィエト代表団と接触したりした後、1924年には中国国民党をモデルにヴェトナム光復会をヴェトナム国民党に改組するなどの活動を行っていましたが、1925年、廣州でフランス官憲に再逮捕され、ハノイでの裁判で終身禁固の判決を受け、入獄しました。これに対して、ヴェトナムではファンの釈放を求める大規模なデモが発生したため、フランス当局は彼を釈放したものの、以後、フエ郊外でファンを監禁し続けました。ちなみに、ファンが亡くなったのは1940年10月25日のことでしたが、その直前の9月23日、日本軍は北部仏印に進駐しています。


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 スウェーデンで徴兵制復活
2017-03-03 Fri 13:37
 スウェーデンのフルトクビスト国防相は、きのう(2日)、2010年に廃止した徴兵制を2018年1月から復活させる方針を明らかにしました。兵士に志願する若者が減るなか、ウクライナ危機を受けてロシアの脅威が高まる中、要員不足を補う目的だそうです。というわけで、今日は、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ウクライナ・ポルタヴァの戦い

 これは、2008年にウクライナが発行した「ウクライナとスウェーデン 歴史の十字路で」の切手のうち、1709年のポルタヴァの戦いに参加したスウェーデン国王カール12世(左)とウクライナ・コサックの指導者、イヴァン・マゼッパのタブがついたペアです。

 1700年、ロシアとその同盟国(北方同盟)によるスウェーデン攻撃によって大北方戦争が勃発すると、スウェーデン王・カール12世は、北方同盟軍のデンマーク、首都コペンハーゲンを急襲。トラヴェンタール条約を結び、デンマークを北方同盟から離脱させるとともに、ナルヴァの戦いでロシア軍を撃破。ロシアはスウェーデンからの撤退を余儀なくされました。さらに、カール12世はドヴィナ川の戦いでポーランド(当時はポーランド・リトアニア共和国)を破り、ポーランド領内に侵攻。1706年にはフラウシュタットの戦いで勝利してザクセンにも侵攻し、ポーランドを北方同盟から離脱させました。

 一方、ウクライナでは、1704年、ロシアからの自立を目指すイヴァン・マゼッパが北方戦争に乗じてドニエプル川右岸(右岸ウクライナ)を占領。1706年にスウェーデン軍がポーランドの大半を占領したことを受けて、マゼッパは“敵の敵”であるスウェーデン軍と結び、ロシアへの遠征を企てます。

 かくして、スウェーデン軍は、1707年、ロシア本土への侵攻を開始しますが、ロシア側の焦土作戦を前に、スウェーデン=ロシア国境での戦闘を断念し、マゼッパ率いる3万のコサック兵(平時には農耕を行い、有事には軍務を行うことを条件に特権的な土地使用を認められた人々。またはその軍事的共同体)との合流を目指して、南下してウクライナから攻め込むプランに変更しました。

 しかし、マゼッパの叛乱を察知したロシア軍は、1708年、彼の本拠地・バトゥールィンを急襲して住民6000人を殺害。これにより、コサック軍は壊滅的な打撃を受け、マゼッパ自身も命からがらカール12世と合流します。当然のことながら、合流してきたマゼッパの兵力は、当初の予定より大幅に減少していましたが、カール12世は進軍を止めることなく、1709年6月、東ウクライナのヴォルスクラ川沿いの要衝、ポルタヴァを包囲しました。

 しかし、包囲戦の最中の6月17日、カール12世は狙撃兵によって足を負傷し、カール・グスタフ・レーンスケルドに指揮権を委託。すると、その直後にピョートル1世率いる4万超の兵と72門の砲を擁する大軍がスウェーデン軍陣地の北方に到着し、逆に、2万余(実際の攻撃に使用できる兵力は1万7000)スウェーデン軍を包囲。このため、圧倒的な劣勢を跳ね返すため、6月27日未明、スウェーデン軍はロシア軍に対して奇襲攻撃をかけたものの、最終的にはロシア側の圧倒的な兵力の前に多くの死傷者を出して敗走。カール12世とマゼッパは敗残兵に紛れてオスマン帝国まで逃れたものの、残りの将兵は戦場から離れたペレヴォローチナで降伏しました。この戦いでのスウェーデンの戦死者は5000人以上で、生き残った1万5000人と援軍6000人は捕虜としてシベリアに送られ、スウェーデンに帰国できた者は5000人しかいなかったそうです。また、マゼッパ本人も、翌1710年、ベッサラビアのベンデリで亡くなっています。

 さて、21世紀の現在、実際にウクライナの地でスウェーデン軍とロシア軍が再び戦う可能性は低いでしょうが、クリミア併合後のロシアはバルト海周辺で軍用機による活動を活発化させており、スウェーデン側もゴトランド島に部隊を配置するなどして警戒を強めています。そうした事態が、大北方戦争の歴史的記憶をスウェーデンに呼び覚まさせ、そのことが、今回の徴兵制復活につながったのも、まさにむべなるかな、というところでしょうか。


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 日本人も参加の独立戦争
2017-03-02 Thu 14:01
 28日からヴェトナムをご訪問中の天皇・皇后両陛下は、きょう(2日)、第二次大戦後も現地に残って第一次インドシナ戦争を戦った元日本軍将兵の遺家族とお会いになります。ということで、きょうは、こんなモノを持ってきました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      ヴェトミン加刷カバー

 これは、1946年3月3日、ヴェトナム民主共和国第1期国会(制憲国会)の開会記念カバーで、いわゆるヴェトミン加刷切手が2枚貼られています。

 第二次欧州大戦勃発後の1940年6月14日、ドイツ軍はパリに入城。同22日、フランスは降伏します。これにより、フランス北部と大西洋沿岸はドイツによって占領され、フランス南部は、親独ヴィシー政府が管轄することになりました。

 この結果、現在のヴェトナム・ラオス・カンボジアに相当するフランス領インドシナ(以下、仏印)は、いわば主なき状態に放り出されます。そして、この機に乗じて、日本はヴィシー政府に圧力をかけ、8月30日、フランスのアンリ大使との交渉で、北部仏印に関する協定をまとめることに成功しました。

 この協定に基づき、日本側は、極東におけるフランスの権益とインドシナの領土保全を認めた上で、ハノイ経由での援蒋物資の輸送を停止するため、9月23日、北部仏印に進駐。さらに、翌1941年7月、日本軍は南部仏印にも進駐し、仏印全域を事実上の軍事占領下に置きました。

 その後も、仏印は日本に対して好意的な中立を保つという状況が戦争末期まで続いていましたが、戦争末期になって、東南アジア各地からの撤退を余儀なくされた日本軍は、日本本土と中国戦線の交通が途絶することを恐れ、1945年3月、“明号作戦”を発動し、フランス植民地政府を武力によって解体。ヴェトナムラオスカンボジアに旧王族を担いだ親日政府を樹立します。

 しかし、ほどなくして、1945年8月15日に日本の敗戦が発表されると、フランスに対して植民地解放闘争を戦ってきた越南独立同盟(ヴェトミン。1941年結成)はヴェトナム独立を宣言してハノイで蜂起。9月2日、ホー・チ・ミンを国家主席とするヴェトナム民主共和国臨時政府の樹立が宣言されました。これに伴い、臨時政府の支配地域では、仏印時代の切手に“ヴェトナム民主共和国”を意味する“ Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa”と加刷した切手が発行・視聴されています。今回ご紹介のカバーに貼られている切手も、その一種です。

 1945年9月2日の降伏文書調印に続き、連合国軍最高司令官(ダグラス・マッカーサー)の名前で「一般命令第一号」が発せられると、ヴェトナムでは、旧宗主国のフランス軍が本格的に進駐するまでの暫定措置として、北緯16度線以北に中国国民党軍が、以南に英軍が進駐。その後、10-11月にかけて、ようやく、フランス軍が進駐します。なお、この間、日本軍第38軍は連合国軍の進駐に備えて待機していましたが、一部はヴェトミンなどに武器を引渡したり、個人としてヴェトミンに合流する者もありました。

 中英による分割占領時代、ヴェトナム北部では、反共を国是とする国民党軍の下でヴェトミン系労働者の多くが逮捕・追放されたため、臨時政府は非共産主義者を入閣させるとともに、1946年1月6日に総選挙を実施。3月3日には憲法制定のための第1期国会が発足します。今回ご紹介のカバーは、これを記念して制作されたものです。

 さて、1946年2月28日と3月6日、臨時政府はとフランスと予備協定(ハノイ暫定協定)を締結。これにより、フランス連合インドシナ連邦の一国としてのヴェトナム民主共和国独立と、独立後もトンキン地方にフランス軍が駐留することが決められました。しかし、その一方で、ヴェトミンの勢力が及ばなかったヴェトナム南部に関しては、フランスは、プランテーション入植者の既得権益を優先するため、3月26日、親仏傀儡政権として“コーチシナ共和国”を成立させます。

 こうしたこともあって、予備協定の締結後も、ヴェトミンとフランス軍との小競り合いは止まなかったため、6月1日、ヴェトミンは独立戦争の長期化に備え、クァンガイ陸軍中学を設立します。同校の校長はグエン・ソン将軍、政治委員は第5戦区上級軍事幹部ドアン・クエ(いずれもヴェトナム人)でしたが、教官・助教官と医務官は全員、旧日本陸軍将校・下士官で構成されていました。こうした日本軍出身教官の指導の下、ヴェトナム初の本格的な陸軍士官学校となった同校はヴェトナム陸軍をインドシナ随一の精強兵力に育て上げ、フランス、米国、中国との戦争でのヴェトナム軍の勝利に大いに貢献しています。

 陸軍中学の設立後、ホー・チ・ミン以下、臨時政府の代表団は、フランス本国のフォンテーヌブローでヴェトナムの独立問題についてフランス側と協議したものの、コーチシナの分離問題などで9月には交渉は決裂。同年12月19日、フランス軍がトンキン・デルタ地帯の各要衝やハノイのホー・チ・ミン官邸、その他重要施設を襲撃したのをきっかけに、1954年のジュネーヴ協定まで続く第一次インドシナ戦争が本格的に始まり、現地に残った約600人の旧日本軍将兵が志願兵としてヴェトミンとともに、対仏独立戦争に参加。30名以上が、ヴェトナム政府から勲章や徽章を授与される軍功を上げています。

 
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 世界の国々:ブルキナファソ
2017-03-01 Wed 11:10
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2月22日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はブルキナファソの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ブルキナファソ・掟

 これは、1999年にブルキナファソが発行した映画の切手のうち、アフリカ映画界を代表する巨匠、イドリッサ・ウエドラオゴの作品『掟』を取り上げた1枚です。作品の主人公サガ(ラスマネ・ウエドラオゴ)とノグマ(イナ・シセ)を中心に、左の円内に(若き日の)ウエドラオゴの肖像を描くデザインとなっています。

 イドリッサ・ウエドラオゴは、仏領オートヴォルタ時代の1954年1月21日、バンフォラ(ブルキナファソ西部の都市)生まれ。首都ワガドゥグーのアフリカ映画学院を卒業後、キエフとパリの高等映画学院で映画製作を学びました。

 1987年、初の長編『祖国アフリカ』を発表し、タオルミナ国際映画祭で審査員特別賞を受賞。1989年に発表した2作目の『ヤーバ』は第43回カンヌ国際映画祭の監督週間部門に出品され、国際映画批評家連盟賞とエキュメニカル審査員賞を受賞しました。

 今回ご紹介の『掟』は、1990年に発表された3作目の作品で、第43回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、叙事詩的なスタイルで“アフリカ”を描き切った力作として、審査員特別グランプリを受賞しています。

 物語は、モシ人の青年、サガは2年の放浪の後、故郷に戻り、そのことを告げる角笛を吹き鳴らすところから始まります。サガには幼馴染で婚約者のノグマがいましたが、彼女は、サガが村を離れていた間、サガの父の第2夫人になっていました。ちなみに、ブルキナファソでは、1983-87年のサンカラ政権時代に一夫多妻がいったん法的に禁止されたものの、サンカラ暗殺後のコンパオレ政権下で事実上復活しています。

 さて、再開したサガとノグマは、ほどなく、不倫の関係になり、そのことが発覚したため、サガは村の掟により殺されそうになりしたが、弟クルガの計らいでノグマと2人で出奔し、遠くの村で新生活を始め、子宝にも恵まれました。しかし、そんな彼の元に、母の危篤の方が知らされます。どうしても母親の死に目に会いたかったサガは、戻れば殺されることを覚悟して村へ戻り、布にくるまれた母の亡骸を目にしたところで、弟クルガに射殺される…というのが、物語のあらすじです。

 さて、『世界の切手コレクション』2月22日号の「世界の国々」では、“アフリカのゲバラ”と呼ばれたトマス・サンカラとその時代について扱った長文コラムに加え、伝統家屋のカーズ、モシ人の民族服・ファソダンファニ、世界遺産のロロペニ遺跡、民芸品のブルキナ・バスケットの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、 「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のブルキナファソの次は、本日(1日)発売の3月8日号でのドミニカ国の特集(2回目)になります。こちらについては、発行日の8日以降、このブログでもご紹介する予定です。 


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