2006-01-27 Fri 21:12
現在、都内の大学で週に何度か、近代以降の中東・イスラム世界を切手や郵便物から読みといていこうという内容の講義を担当しています。で、今日、その最後の試験が終わりましたので、今日から何日かに分けて、試験問題で取り上げた切手や郵便物の解説をしてみたいと思います。
今回は、切手関係の問題は全部で5種類つくり、その中から、授業で話した内容に応じて3~4問をピックアップして組み合わせてみました。なお、切手に絡まない問題も出題しましたが、それについては、試験を受けられた学生さんでもネット等で自力で調べられるでしょうから、このブログでは特に解説しません。 というわけで、初日の今日は、まず、軽く過去のブログで取り上げたものについて、補足的な説明をして見ましょう。 問題A この切手(↓)を参考に、サダトにとっての10月6日の意味を説明せよ。(画像はクリックで拡大されます) この切手については、この記事をお読みいただければ、基本的なことは全てお分かりいただけると思います。採点のポイントは、この切手が第4次中東戦争での勝利を記念するエジプト切手であることを明らかにした上で、①10月6日が第4次中東戦争の開戦日であり、サダトがイスラエルの不敗神話を破ったこと、②戦争の実績を元に、サダト政権はシナイ半島の回復を目指した対イスラエル和平に乗り出したこと、③対イスラエル和平の推進により、エジプトがアラブ世界で孤立したこと、④その結果、サダトが栄光の記念日であるはずの“10月6日”に、いわゆるイスラム原理主義者に暗殺されたこと、の4点がバランスよく説明できているか否か、というところでしょうか。 問題B いわゆる“アラブ叛乱”と↓の郵便物の関係を説明せよ。(画像はクリックで拡大されます) このカバー(封筒)については、この記事にあるとおりです。ポイントは、①ヒジャーズ側がオスマン帝国に対して独立を宣言し、オスマン帝国の主権を否定したこと、②その具体的な行動のひとつとして、ヒジャーズ側はオスマン帝国の切手を使用停止とし、独自の切手を発行するまでの間、暫定的に料金収納印を使って郵便サービスを提供していたこと(そして、このカバーがその実例であること)、の2点になります。もちろん、その背景として、アラブとイギリスの密約であるフサイン・マクマホン書簡について、一言触れておく必要があります。 なお、このカバーを“フサイン・マクマホン書簡の実物”と考えた学生さんが一部におられましたが、そういうものが手に入るのであれば、ぜひとも欲しいものだと採点しながら思ってしまいました。 |
2006-01-25 Wed 15:46
今日(1月25日)は初天神で、湯島天神では鷽替えの神事が行われる日です。まぁ、受験シーズンということでもありますから、今日はこんな1枚を取り上げてみました。
この切手は、1966年に国立劇場がオープンした時に発行された記念切手の1枚で、初代歌川豊国の作品のうち『菅原伝授手習鑑』の吉田社頭車引の場面を描いた浮世絵が取り上げられています。 『菅原伝授手習鑑』は、1746年(延享3)、竹田出雲らによって、もともとは人形浄瑠璃のために書き下ろされた作品で、浄瑠璃の初演から2ヶ月後、歌舞伎に取り上げられました。内容は、菅原道真にまつわる民間説話を織り交ぜて脚色したもので、全五段構成の長大なものです。このため、完全な通し上演は幕末以来行われず、「車引き」「寺子屋」などの場面が単独で上演されていましたが、国立劇場杮落としの特別講演として、1966年11・12月の2ヶ月間、およそ100年ぶりに通し上演が行われています。 切手に取り上げられている「車引き」の場面は、以下のような内容です。 物語の主人公である菅丞相(菅原道真)が、藤原時平の讒言により、筑紫に流されたことから、舎人の梅王丸と桜丸の兄弟は、たまたま吉田神社で時平の車に出遭ったのを幸いに、主君の恨みを晴らそうと車の前に立ちはだかり、はからずも兄弟でありながら時平の舎人になっていた松王丸と車を引き合って激しく争いました。ところが、車の中から時平が立ち上がると、その威容に圧倒された梅王丸と桜丸は体がすくんでしまい、無念のうちにその場を立ち去らざるを得なくなってしまいました。 切手に取り上げられた豊国の浮世絵では、車の上に立ち上がる時平と彼を守護する松王丸、時平に手向かう桜丸(手前)と梅王丸(後方)という構図になっています。 ところで、へそ曲がりの僕は、大学受験のとき、いわゆる天満宮やそのお守りの類を敬遠していました。 こんなことをいうと、またもや内藤は日本人のDNAが少ないといわれてしまいそうですが、菅原道真という人は権力争いに敗れて左遷され、失意の内に亡くなった人物です。伝えられているエピソードでは、晩年の彼は、自分の名誉回復のために積極的なアクションを起こすわけでもなく、また、新たな任地で自分に与えられた仕事に全身全霊をかけて打ち込み、そのことで名を残すといった前向きなことは何もせず、ただただ鬱々として無為に日々を過ごしていただけ、といったような印象しかありません。おなじく、罪を得て宮刑に処せられた司馬遷が逆境をばねに『史記』を完成させたのと比べると、人間としての度量があまりにも小さいといったらいいすぎでしょうか。 受験を一つの勝負事と考えるのなら、権力闘争に負けた後、めそめそしながら死んでいった人物がはたして、勝利をもたらしてくれる神様としてふさわしいのかどうか…。少なくとも、今日の切手に取り上げられている時平の姿は、目の前の敵を撃退している勇ましいものですから、次から次へとやってくる試験問題を片付けていくという点では、よっぽどご利益があるような気がします。 さて、昨日の記事でも少し書きましたが、2001年から<解説・戦後記念切手>シリーズと題して、戦後日本の記念・特殊切手の“読む事典”を作っています。現在は、昨年4月に刊行したシリーズ第3作の『切手バブルの時代 1961-1966』に続いて、封書料金15円時代の1966~1971年を中心にしたシリーズ第4作を制作中です。受験シーズンの間には、原稿を仕上げてしまわないといけないのですが、さてさて、どうなることやら。 ときどき、ふと、やりかけの仕事を放擲して大宰府まで逃げてしまおうかなどと弱気の虫が頭をもたげる今日この頃です。 |
2006-01-24 Tue 23:05
昨日・今日はライブドアの堀江社長逮捕のニュースで持ちきりでしたねぇ。まぁ、学生時代のベンチャー企業“オン・ザ・エッジ”(どうして、オン・ジ・エッジでないのかは不明)から始まった彼の人生は、いままさに、“がけっぷち(on the edge)”にあるということでしょうか。
ところで、物理的な意味での“がけっぷち”といえば、僕なんかが思い出すのは自殺の名所ともいわれる東尋坊です。その東尋坊が描かれている切手として、今日は、こんな1枚を取り上げてみましょう。 この切手は、1968年に福井県で行われた第23回国体(秋季大会)の記念切手で、開催県にちなみ、体操選手の背景に東尋坊が描かれています。このときの国体では、聖火リレーの火は永平寺で採火されていますから、福井の名所・旧跡としては背景に永平寺を描いても良かったと思うのですが…。やはり、長らく女人禁制だったお寺とレオタード姿の女子選手の組み合わせに問題があったということなのでしょうか。 さて、このときの国体開催に関して、地元の県・市町村の関連予算は約35億円でしたが、道路など関連事業を加えると、その規模は50億円以上にも膨れ上がったといわれています。当然、こうした巨額の経費は地元自治体の財政を圧迫することになるのですが、県内の各自治体は、国体開催を理由に起債の許可や中央からの財政支援をとりつけて公共事業を行い、インフラ整備を一挙に進めています。まさに、1964年の東京オリンピックが首都高や新幹線などのインフラ整備に大きな役割を果たした先例をなぞっているといってよいでしょう。 前にも書いたかもしれませんが、2001年から<解説・戦後記念切手>シリーズと題して、戦後日本の記念・特殊切手の“読む事典”を作っています。現在は、昨年4月に刊行したシリーズ第3作の『切手バブルの時代 1961-1966』に続いて、封書料金15円時代の1966~1971年を中心にしたシリーズ第4作の原稿を書いています。 ここで頑張って作業を進めないと、4月のスタンプショウにあわせて刊行することが難しくなってくるのですが、状況はまさに“がけっぷち”といったところです。 |
2006-01-21 Sat 15:50
東京では今日は朝から雪が降っています。そこで、今日は雪にまつわる切手の中から、こんな1枚(画像はクリックで拡大されます)を引っ張り出してみました。
この切手は、いわゆる仏領南極が1983年に発行したもので、南極の雪原を走る犬ぞりが描かれています。 20世紀に入り、南極探検が盛んに行われるようになると、イギリス・フランス・ノールウエー・オーストラリア・ニュージーランド・アルゼンチン・チリの各国は、自国の探険・踏査の事実を踏まえ、自分たちが調査した地域の領土権を主張しはじめます。彼らの狙いは、南極の土地そのものというより、豊富な地下資源や領海内の水産資源にありました。 フランスの場合、1955年に“フランス南部および南極領土(Territoire des Terres Australes et Antarctiques Françaises 以下、仏領南極)”を設定しました。その範囲は、アムステルダム島、セント・ポール島、クロゼット島、ケルゲレン島と大陸のアデリーランドです。 仏領南極の領有を宣言したフランスは、1955年中には早速、この地域用の切手を発行しています。もっとも、このとき発行された仏領南極最初の切手は、当時フランス領だったマダガスカルの切手に“Territoire des Terres Australes et Antarctiques Françaises”の文字を上から加刷したもので、正刷切手(オリジナルデザインの切手)の発行は翌1956年からになります。 当時の南極では、イギリス・チリ・アルゼンチンの三国の間で領土紛争が起こったこともあり、将来的に本格的な紛争の火種になりかねないことが懸念されていました。このため、1957年~58年の国際地球観測年のときの国際的な南極観測を契機に、国際対立を回避し、科学的調査のための平和的な場にしようとする気運が高まり、1959年、国際地球観測年の南極観測に参加した12ヶ国がワシントンで南極会議を開き、南極条約を締結しています。条約では、南緯60度以南の南極における領土権の凍結、科学的調査の自由、平和的利用と非軍事化、定期的会合と査察などが定められ、フランスが研究所を置いているアデリーランドの領有権も凍結されました。 仏領南極は基本的には無人の火山島ですから、これらの切手は実際に郵便に使うものというより、この地域の領有権を示すためのプロパガンダの一手段と考えるのが妥当です。もっとも、そういう生臭い話を別にしても、純粋に仏領南極の切手はデザイン・印刷ともに良くできた綺麗なものが多いので、集めてみると楽しいものです。 実は、今日ご紹介している切手は、一時期、今年の年賀状の題材として使おうかと思っていたのですが、結局、使わずに終わってしまいました。(実際に僕が出した年賀状については、こちらをご覧ください) とはいえ、綺麗な切手なので、どこかで使えないかなと思っていましたので、雪の日の今日のコラムとしてご紹介したという次第です。 PS 今日はこんな出来事もあったみたいです。 |
2006-01-18 Wed 23:46
1月18日はキャプテン・クックがハワイ諸島に到達し、パトロンで海軍大将だったサンドイッチ伯爵(あの食べるサンドイッチの名前の由来になった御仁です)にちなんで、この地をサンドイッチ諸島と名づけた日だそうです。
当初、クックが名づけた“サンドイッチ諸島”の範囲は、彼が視認できたカウアイ、オアフ、ニイハウ島の各島とその周辺の小島だけでしたが、のちに、ハワイ本島やマウイ島など、現在のハワイ諸島もそこに付け加えられています。 1795年に成立したカメハメハ王朝は、当然のことながら、クックの命名した“サンドイッチ諸島”という呼称を採用せず、ハワイ王国を自称しました。当然、彼らが発行した切手の国名も“ハワイ”です。 しかしながら、欧米人の間では、1870年代になっても、この地をサンドイッチ諸島と呼ぶ人が少なくなかったようで、こんなカバーも残されています。 このカバー(封筒・画像はクリックで拡大されます)は、1872年、アメリカのニューバーグ(ニューヨーク州)からサンフランシスコ経由でホノルル宛に差し出されたものですが、封筒にはしっかり“サンドイッチ諸島”と書かれています。 また、1873年にこの地を訪れた著名な女性旅行家のイザベラ・バードも、ハワイではなくサンドイッチ諸島という呼称を用いています。 当時のハワイは、アメリカ資本によるサトウキビのプランテーションが急激な発展を遂げ、ハワイ経済の対米依存が急速に強まっていた時期でした。結局、1893年、アメリカ系白人の資本家たちはクーデタを起こして“アメリカが正式にハワイを併合するまでの臨時政府”の樹立を宣言。1895年にはカメハメハ王朝を滅亡に追い込みました。ちなみに、アメリカがハワイを正式に準州として属領に編入したのは1900年のことでした。 この辺の事情については、昨年上梓した拙著『反米の世界史』でもそれなりに説明していますので、ご興味をお持ちの方は是非ご一読いただけると幸いです。 |
2006-01-16 Mon 23:18
東京・目白の切手の博物館にて開催しておりました、<中近東切手コレクション>展(以下、中東切手展)は、昨日をもちまして無事に終了いたしました。会場にお越しいただきました皆様には、この場をお借りしてお礼申し上げます。おかげさまで、展示内容については概してご好評を頂戴できたようですので、今後も機会を見つけてこうした展示を行っていきたいと考えております。
さて、中東切手展の会期中は、展示に関連する話題ということで中東・イスラムがらみの切手の話が続いておりましたので、そろそろ、別の話題を記事にしようかと思っていたのですが、今朝のニュースでクウェイトのジャビル首長の亡くなったと報じられていましたので、もう一日だけ、中東ネタにお付き合いください。 ジャビル首長は前首長の死去で1977年に即位し、1990年のイラク・フセイン政権によるクウェート侵攻時には隣国サウジアラビアに逃れ、亡命政府を作った人物です。で、その亡命政権に関しては、こんなマテリアルがあります。 これは、クウェート亡命政府が作った“自由クウェート”のラベルです。正規の切手ではありませんが、湾岸危機および湾岸戦争の時期に、クウェートを支援する湾岸諸国では切手と一緒に郵便物に貼られることもありました。画像(クリックで拡大されます)の場合は、バハレーンから差し出された郵便物に貼られた例(部分)で、ラベル部分にも、バハレーンの首都・マナーマの消印が押されています。 ジャビル首長の訃報で湾岸危機・湾岸戦争のことを思い出した人もあるかと思いますが、実は、国連が定めたイラク軍のクウェート撤退起源は1991年1月16日で、翌17日が多国籍軍による空爆の始まった日(=湾岸戦争開戦の日)でした。いまからちょうど15年前の出来事です。 というわけで、NHKテレビアラビア語講座のテキストに連載している「切手に見るアラブの都市の物語」では、明後日18日発売の2・3月号では、クウェートを取り上げてみました。記事では、今日ご紹介しているモノだけでなく、クウェートの人々の暮らしが分かるような切手も取り上げていますので、是非、ご興味をお持ちの方はご覧いただけると幸いです。 |
2006-01-15 Sun 10:27
東京・目白の“切手の博物館”で開催中の<中近東切手コレクション>展(詳しくはhttp://yushu.or.jp/museum/toku/をご覧ください)は、いよいよ、本日が最終日です。本日は14:00からと15:30からの2回、展示解説を行いますので、ぜひとも、遊びに来ていただければ幸いです。
さて、このブログでも何度か書きましたが、今回の展覧会では、僕は「中東戦争とその時代」と「アラブ土侯国の郵便史」の二つのミニコレクションを出品しているのですが、今日は、「アラブ土侯国の郵便史」の中から、こんな1枚をご紹介してみましょう。 これは、1964年3月に発行されたアブダビ最初の切手が貼られたカバー(封筒)です。 アブダビにおける近代郵便は、1960年に沿岸のダス島に暫定的な郵便局が置かれたことから始まります。 当時、イギリスと休戦協定を結んで保護国になっていた“休戦協定諸国(trucial states)”のなかで、アブダビとドバイという“2大首長国”は積年のライバルとしてあらゆる面で張り合っていました。以前の記事(http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-102.html)でも書きましたが、イギリスが“休戦協定諸国”共通の切手を発行しようとした際「ドバイの風下に置かれるような扱いは真っ平ごめんだ」として、アブダビがその切手を拒否したことは、そうした両者の関係を象徴するエピソードといえます。 結局、“休戦協定諸国”共通の切手を拒否したアブダビは、1963年3月、アブダビ市内に郵便局を設置。その1周年にあたる1964年3月から独自の切手を使用しはじめます。今回ご紹介しているのは、その切手が貼られたカバーです。 その後もアブダビとドバイの対立関係は1960年代を通じて続いていくのですが、1971年、両者を含めた7首長国が集まって“アラブ首長国連邦”が結成されます。これは、イギリス軍がこの地域から撤退するため、対岸のイランの脅威に直接さらされることになった首長国が団結せざるを得なくなった結果でした。 最近、イランの核開発問題がマスコミを賑わせていますが、隣接するアブダビやドバイにとって、その脅威はきわめて深刻なものであることは容易に想像がつきます。我々だって、核兵器を持っている対岸の大国ってのは、おっかなくてしょうがないのですから…。 |
2006-01-14 Sat 10:47
切手の博物館で開催中の<中近東切手コレクション>展も今日・明日(14・15日)の2日間となりました。
今日と明日は、14:00からと15:30からの2回、簡単な展示解説を行います。また、13:30頃からは会場に詰めていますので、展示に関するご質問等があれば、お気軽にお声をおかけください。 さて、イランの核開発やイスラエルのシャロンの容態などのニュースの陰に隠れて見逃されがちですが、レバノンの元首相暗殺事件のほうも、目が離せない状況になっているようです。 そもそもの発端は、昨年(2005年)2月、レバノンのハリリ元首相が暗殺されたことにあります。この事件にシリアのアサド政権が関与していた疑惑が強まり、シリア軍はレバノン内戦以来駐留していたレバノンからの撤退を余儀なくされました。 その後、暗殺事件に関しては、国連の独立調査委員会が2次にわたる報告書を安保理に提出し、シリア機関の関与を示唆。シリアに対する国際的な包囲網が強まる中、この年末年始にかけて、昨年6月に辞任した前副大統領のハダムが、アサド(シリア大統領)が元首相暗殺の数カ月前に「我々の決定を邪魔する者は誰だろうとたたきつぶす」と同元首相を脅していたと証言。さらに、ハダム氏「いかなるシリア機関も独断でこのような決定はできない」と述べ、元首相暗殺へのシリア政権中枢の関与を示唆したところから、アサド政権はますます窮地に追い込まれているという状況です。 シリア軍が長年にわたってレバノンに駐留できり、シリアの政権がレバノン政府に圧力をかけるということが日常的に行われてきたりしたのは、シリアとレバノンがもともとは一体のものであったという歴史的な背景があります。 非常に大雑把にいうと、第一次大戦以前、地中海東岸のアラブ地域は一括して“シリア”と呼ばれていました。それが、オスマン帝国の解体と英仏による植民地分割の過程で、シリア・レバノン・パレスチナ・トランスヨルダンに分割されます。このうち、フランスの支配下に置かれたシリアとレバノンは、旧レバノン県を中心に、キリスト教徒が人口の過半数を占めるように“レバノン(大レバノン)”が画定され、現在のシリアから切り離されました。 当然のことながら、シリアではレバノンはもともと自分たちの国の一部という国民感情が根強くあるわけです。 さて、今回の<中近東切手コレクション>展に出品している僕の作品の中には、こんなカバー(封筒)も入っています。 このカバーは、第一次大戦以前の1905年1月、ベイルートに置かれていたフランスの郵便局からクレタ島のハニア宛に差し出されたものですが、消印の表示は“ベイルート・シリア”となっています。歴史的にシリアとレバノンが一体のものだったというシリア側の主張を裏付けるようなものと言っても良いかもしれません。 もっとも、「歴史的に云々~」という主張は心情的には分からなくはないのですが、だからといって隣国の要人を暗殺してもいいということにはならないはずなのですが…。 *<中近東切手コレクション展>の詳細については、http://yushu.or.jp/museum/toku/をご覧ください。 |
2006-01-13 Fri 17:44
1月8日の記事(http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-223.html)で、イエメン最初の切手のことをご紹介したところ、去年6月にイエメンへ旅行に行かれたというSuuSuu様からコメントを頂戴しました。
現在開催中の<中近東切手コレクション>展では、イエメンに関しては、櫻井多加志さんが1960~70年代の革命政権と王党派の切手を展示してくださっているほか(ちなみに、櫻井さんは、イエメンのほか、ヒジャーズ、サウジ、アルジェリア、モロッコについても興味深い展示をしてくださっています)、僕自身もイエメン内戦について少しだけですが自分の作品の中で触れています。 で、そうしたイエメン内戦関係のものをご紹介できれば良いのですが、いつものごとく段取りが悪くって、現物は展覧会の会場に行ってしまってスキャンが取れません。というわけで、今日はイエメンがらみのもののうち、今回の展覧会には使わなかったものの、ちょっと毛色の変わったものをご紹介しましょう。 このカバー(封筒)は、1933年5月、サナァからテルアビブを経てジャッファまで送られたもので、裏面にはアラビア語とヘブライ語で宛名が書かれています。 アラブとユダヤというと絶対に交わることのないもののように考えている人も多いのですが、アラブとはアラビア語を母語とする人たちのことであり、ユダヤ人の定義が「ユダヤ人の母から生まれた者もしくはユダヤ教徒」である限り、その両方を兼ね備えたアラブ系ユダヤ教徒という人も存在します。1948年にイスラエルが建国される以前、イエメンには、そうしたアラブ系ユダヤ教徒の人々が少なからず住んでいました。このカバーも、そうしたイエメン在住のアラブ系ユダヤ教徒が差し出したものと見て間違いないでしょう。 貼られている切手は、1926年のものと比べると、かなり切手らしくなっていますが、それでも、文字と幾何学文様のみのシンプルなデザインです。こうした切手を発行していたイエメンで、1960年代に入ると、欧米系のエージェントにそそのかされたとはいえ、外貨の獲得を目指した輸出向けのけばけばしい切手を発行するようになるのですから、変われば変わるものです。 さて、ご好評をいただいております<中近東切手コレクション展>も、いよいよ後半戦に突入しました。14・15日(土・日)の両日は、14:00~と15:30~の2回、僕が展示解説を行いますので、是非、遊びに来ていただけると幸いです。 *<中近東切手コレクション展>の詳細については、http://yushu.or.jp/museum/toku/をご覧ください。 PS 今日ご紹介しているカバーは、会場には展示しておりません。あしからずご了承ください。 |
2006-01-12 Thu 23:27
昨日の記事で、少しアフガニスタンのことも触れたのですが、現在、東京・目白の“切手の博物館”で開催中の<中近東切手コレクション>展では、赤須通範さんのアフガニスタン切手のコレクションも展示されています。 赤須さんのアフガニスタンのコレクションは知る人ぞ知る有名なコレクションで、今回は、その膨大なストックの中から、1884年の国内統一以降、王制時代までのアフガニスタン切手の全体像が通観できるような抜粋展示が行われています。 現在でも状況は大して変わっていないのですが、もともと、アフガニスタンという国は地方割拠の性格が強く、中央政府の威令は首都のカブール(カーブール)周辺にしか行き届いていないことのほうが多いようです。このため、1871年に発行されたアフガニスタン最初の切手は、国名の表示が“アフガニスタン”ではなく、“カーブール王国”となっています。 こうした状況が改善され、曲がりなりにもアフガニスタンの国内統一が実現されるのは、皮肉にも、1878年の(第2次)アングロ・アフガン戦争でアフガニスタンがイギリスの保護領となってからのことです。この時期、イギリスはアフガニスタン征圧のために大規模な部隊を送っていましたが、現地の激しい抵抗に会い、1881年までには、いったん、アフガニスタンを撤退せざるを得なくなっています。 このため、イギリスはアフガニスタン政策を全面的に見直し、カーブールの君主であったアブドゥル・ラフマーンを支援して中央集権化を後押しして、アフガニスタンをロシアに対する干渉国として育成することに決めます。ちなみに、イギリスの支援を受けたアブドゥル・ラフマーンによるアフガニスタンの国内統一は1884年、“アフガニスタン王国”の表示が入った最初の切手が発行されたのは1891年、英領インドとの境界が画定するのは1893年のことでした。ちなみに、画像の切手は1892年に発行された“アフガニスタン”表示の初期の切手です。 以上のようなことを予備知識として頭に入れていただいた上で、<中近東切手コレクション>展の赤須コレクションをご覧いただければ、展示をよりいっそうお楽しみいただけるものと思われます。 つきましては、<中近東切手コレクション展>に一人でも多くの皆様がご来場いただきますよう、心よりお待ち申しております。なお、会場では、会期中の14・15日(土・日)の両日、14:00~と15:30~の2回、僕が展示解説を行いますので、是非、遊びに来ていただけると幸いです。 *<中近東切手コレクション展>の詳細については、http://yushu.or.jp/museum/toku/をご覧ください。 |
2006-01-11 Wed 23:22
かねてご案内の通り、<中近東切手コレクション>展が無事開幕しました。
初日の今日は、NHK国際放送(短波ラジオ)のアラビア語ならびにペルシャ語のスタッフの方が取材に来てくださいました。特に、ペルシャ語担当のアフシンさん(イラン出身)からは、ご自身もかつて切手を集めていた経験がおありだそうで、展示品の中でも去年の12月20日の記事(http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-204.html)でご紹介したアフガニスタンのカバー(封筒)に強い関心をお持ちになったようです。 今回の展覧会では、イランに関しては、影林さんがカージャール朝最後の国王であったアフマド・シャーの時代の切手のコレクションを出品しておられます。なかなか、まとめて見る機会のない切手ですので、ご興味のある方は、ぜひとも、会場でご覧いただければ幸いです。 ちなみに、僕が今回出品している作品は直接イランのことを題材としていないのですが、イランがらみのものをあえて探すとすると、下の1点(画像はクリックで拡大されます)ということになりましょうか。 このカバーは、1908年7月、現在の行政区画でいうとイラク中部のカルバラーからイランのイスファハーン宛に差し出されたものです。昨日ご紹介したものと同様、現在のイラクの領域がオスマン帝国領だった時代のものなので、オスマン帝国の切手つき封筒が使われています。 カルバラーは、バグダード南西の都市で、シーア派の初代イマームであったアリー(預言者ムハンマドの女婿)の息子、イマーム・フサインがウマイヤ朝軍と戦って殉教した場所です。このため、シーア派にとっては重要な聖地とされており、アラブの居住地域でありながら、シーア派国家のイラン人にとってもなじみの深い土地といえます。 郵趣的な見地からは、カバーに押されている消印が黒色ではなく青色なのが嬉しいところです。消印のバラエティをあんまり細かく追い求めるのはちょっとマニアックすぎて僕の性に合わないのですが、それでも、今回のカバーのように色変わりの消印というのは単純に集めていて楽しいものです。 今回の<中近東切手コレクション>展に展示されている影林さんのコレクションは、今日ご紹介している僕のカバーが差し出された時期のイラン側の切手にフォーカスをあてたもので、会場に飾られている他の作品と比べていただけると、イラン切手の独特の雰囲気を味わっていただけるのではないかと思います。 つきましては、<中近東切手コレクション展>に一人でも多くの皆様がご来場いただきますよう、心よりお待ち申しております。なお、会場では、会期中の14・15日(土・日)の両日、14:00~と15:30~の2回、僕が展示解説を行いますので、是非、遊びに来ていただけると幸いです。 *<中近東切手コレクション展>の詳細については、http://yushu.or.jp/museum/toku/をご覧ください。 |
2006-01-10 Tue 23:39
小泉首相がトルコを訪問してエルドアン首相と会談したそうです。新聞などによると、今回の首脳会談は「イラクの民主化や復興支援、イスラエルのシャロン首相の容体悪化で不透明感が増している中東和平で連携強化を確認する」のが最大の目的とか。
ところで、現在でこそ、トルコ、イスラエルまたはパレスチナとイラクは別々の国に分かれていますが、第一次大戦以前は、これらの地域はいずれもオスマン帝国の支配下におかれていました。 たとえば、下の葉書を見ていただきましょう。(画像はクリックで拡大されます) この葉書は、1898年10月、エルサレムからミドルエセックス(英)宛に差し出されたものです。当時、エルサレムを含むパレスチナはオスマン帝国の領土でしたから、当然のことながら、この地域の郵政は原則としてオスマン帝国が担当し、この地域ではオスマン帝国の切手が使われていました。なお、この葉書に押されている消印は、1998年10月31日から11月2日にかけて、ドイツ皇帝のエルサレム訪問にあわせて、一種の記念印として用いられたもので、個人的には、“CAMP IMPERIAL”の表示が入った独特のスタイルが気に入っています。 11日から東京・目白の“切手の博物館”で開催の<中近東切手コレクション展>には、僕はアラブの近現代史をたどるミニコレクションを出品していますが、この葉書は、その冒頭に展示しているものです。欲を言うと、アラブの主要都市で使われたオスマン帝国の切手・葉書類を網羅的に展示できればよかったのですが…まぁ、それは又の機会にしましょう。 なお、今回の展覧会では、日本女子大学4年生の手塚育美さんが「ケマル・アタテュルクとその時代」と題して、ケマルを狂言回しにオスマン帝国からトルコ共和国への変遷をたどる作品を出品しています。切手によるトルコ近現代の歴史絵巻として見ごたえのある作品ですので、ぜひとも、一人でも多くの方にご覧いただけたら、と思っております。 また、会場では、会期中の14・15日(土・日)の両日、14:00~と15:30~の2回、僕が展示解説を行います。 つきましては、<中近東切手コレクション展>に一人でも多くの皆様がご来場いただきますよう、心よりお待ち申しております。 *<中近東切手コレクション展>の詳細については、http://yushu.or.jp/museum/toku/をご覧ください。 |
2006-01-09 Mon 23:30
切手収集の世界の用語でマキシマムカード(以下、MC)というものがあります。辞書的に説明すると、「切手と共通の、あるいは関連がある絵はがきに切手を貼り、記念消印を押したもの」ということになりましょうか。
現在では、新切手が発行されたときに作られるもの、というイメージが強いMCですが、そもそもは、まったく別の関心から発生してきたものといわれています。つまり、19世紀末から20世紀初頭にかけてエジプトを旅行した欧米人たちが、スフィンクスとピラミッドを描く当時のエジプト切手を見て、絵葉書と同じ(あるいは似たような)デザインとなっていることを面白がって絵面に切手を貼って差し出したのがMCのルーツだというのです。 画像(クリックすると拡大されます)は、そうした初期のMCの実例で1902年、ファクースからカイロを経てマルセイユまで送られたものです。たしかに、こんな感じの切手と絵葉書なら、普段は切手に関心のない人でも、旅の思い出にセットにして差し出してみたくなるのも分からなくありません。 当時、この手のスフィンクスのMCは大量に作られたはずなのですが、現在では、いざ探そうとするとなかなか見つからないようです。 今回ご紹介しているスフィンクスのMCは、今週水曜日(11日)から東京目白の“切手の博物館”で開催の<中近東切手コレクション展>で展示するマテリアルの一つですが、それとは別に、同展では、鈴木瑞男さんによるエジプトのスフィンクス切手の専門的なコレクションも展示されます。なかなか、普段はまとまって展示されることの少ない切手ですから、是非、この機会にご覧いただけると幸いです。 なお、<中近東切手コレクション展>の詳細については、http://yushu.or.jp/museum/toku/をご覧ください。 PS 会期中の土日(14・15日)の午後には、僕が簡単な展示解説を行います。 |
2006-01-01 Sun 00:00
明けましておめでとうございます。
旧年中は郵便学者・内藤陽介の活動にご支援・ご協力を賜り、誠にありがとうございました。 いろいろと抱え込んだまま処理できずに越年してしまった仕事も少なからずあるのですが、2006年は、以下に掲げる現在進行中の企画のうち、出来るだけ多くのものについて成果を出せれば、と思っております。 <書籍> ・ちくまWebで連載していた「たたかう切手たち」の書籍化 ・<JAPEX05>特別企画出品「切手と郵便にみる1945年」の書籍化(編著) ・解説・戦後記念切手シリーズ第4巻の刊行 ・“世界の郵便切手”を題材としたムック本 ・“満州”ないしは“満州国”を題材とした単行本の執筆 ・雑誌『しにか』で連載していた「郵便学のすすめ」の書籍化 <展覧会> ・中東切手展(パレスチナ関係のテーマコレクション) ・世界切手展Washington2006(昭和の戦争) ・JPS審査員の1フレーム展 ・<JAPEX>(審査員出品) * なお、<JAPEX>に関しては、昨年に引き続き、実行委員長を務めることになりました。前年の実績を踏まえつつ、日本最大の切手展を通じて、フィラテリーの社会的地位をいささかなりとも向上させることが出来るよう最大限の努力するつもりです。 つきましては、昨年同様、皆様よりのご支援・ご協力を賜り増すよう、お願い申し上げます。 本年もよろしくお付き合いいただければ幸いです。 内藤陽介拝 |
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