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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 露艦“マカロフ”沈没か
2022-05-07 Sat 05:18
 ウクライナのメディアによると、きのう(6日)、オデーサの南西約140キロにある黒海のズミイヌイ島付近で、ロシア黒海艦隊のフリゲート艦“アドミラル・マカロフ”がウクライナの対艦ミサイル“ネプチューン”の攻撃を受けて炎上。沈没した可能性もあるそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・マカロフ(1949)

 これは、今回炎上したフリゲート艦の艦名の由来となったステパン・マカロフの生誕100周年を記念して、1949年にソ連が発行した切手です。

 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。

 * その後、マカロフは沈没しておらず、無傷のまま活動を続けていることが確認されましたので、内容の一部を「ウクライナ側が報じた内容」として変更しました。

 
★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★

 5月7日(土) 14:00~ 第4回 救国シンクタンクフォーラム
 東京・永田町の星稜会館で開催の第4回救国シンクタンクフォーラムのパネリストとして内藤が登場します。今回のお題は“ウクライナとレジ袋”です。詳細はこちらをご覧ください。

 5月13日(金) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。

 武蔵野大学のWeb講座
 4月6日-7月12日 鏑木清方と江戸の残り香
 詳細はこちらをご覧ください。
 
 4月13日-7月19日 日本の郵便150年の歴史2 占領時代(1945年の終戦から1952年)
 詳細はこちらをご覧ください。
 
 5月18日-8月23日 日本の歴史を学びなおす― 近現代編その2― 幕末
 詳細はこちらをご覧ください。 

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      アフガニスタン現代史・表紙帯付き
 
 出版社からのコメント
 混迷のアフガニスタン情勢の理解に必須の通史!
 911同時多発テロ事件とその後のアフガニスタン空爆から20年。西側が支援した新共和国が崩壊し、再びタリバンが実効支配下に置いたアフガニスタン。英国、ソ連、米国…介入してきた大国の墓場と呼ばれてきたこの国の複雑極まりない現代史を、切手や郵便資料も駆使しながら鮮やかに読み解く。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 ロシア軍、ザポリージャ原発を制圧
2022-03-05 Sat 11:14
 ロシア軍の侵攻が続くウクライナで、きのう(4日)、欧州最大規模の発電能力を持つザポリージャ原子力発電所(ウクライナ南東部)がロシア軍に制圧されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・北クリミア運河(1951)

 これは、1951年にソ連が発行した“偉大なる社会主義建設”の切手のうち、北クリミア運河を取り上げた1枚で、切手上方に描かれた運河の地図の右上には、ザポリージャの地名(切手では、ロシア語のザポロージエ:Запорожьеとなっていますが)もしっかり書き込まれており、運河の起点にして今回ロシア側が占拠した原発のあるカホフカ湖までルートが伸びているのがミソです。

 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。


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 3月7日(月) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。

 3月13日(日) 13:00~ 「アフガニスタン現代史」
 3月12・13日(土・日)に東京・目白の切手の博物館で開催される「第13回テーマティク研究会切手展」にあわせて、下記の通り、拙著『アフガニスタン現代史』の刊行記念トークイベントを開催します。切手展の参観と合わせて、ぜひ、ご参加ください。(切手展の詳細はこちら

 【日時】 3月13日(日) 13:00~14:30
 【会場】切手の博物館3階会議室
 【参加費】無料 ※先着順・最大20名
 【問合先】(公財)日本郵趣協会 TEL:03-5951-3311

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 5月4日(水・祝) 13:00~ よみうりカルチャー北千住 公開講座 
 よみうりカルチャー北千住にて、公開講座「アフガニスタン現代史」を行います。拙著『アフガニスタン現代史』の内容を90分にギュッと凝縮した内容をお届けいたします。お申込など詳細は、こちらをご覧ください。
 

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 ”秘密警察の父”の像は再建されるか
2021-02-26 Fri 02:36
 モスクワで、きのう(25日)から、旧KGB(現在の連邦保安局)本部前のルビャンカ広場の銅像として、ソ連秘密警察の創設者、フェリックス・エドムーンドヴィチ・ジェルジンスキーの銅像を再建するか、中世ロシアの英雄アレクサンドル・ネフスキー大公像を新たに建てるかを問うオンライン住民投票が始まりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・ジェルジンスキー没後25年

 これは、1951年にソ連が発行したジェルジンスキー没後25周年の記念切手です。
 
 ジェルジンスキーは、1877年9月11日、ロシア支配下のミンスクで、ポーランド系ロシア人貴族の家庭に生まれました。

 幼少期はイエズス会の修道士になることを望んでいましたが、ヴィリナ(現ヴィリニュス)のギムナジヤでマルクス主義を知って傾倒し、1895年、生涯を革命に捧げることを決意し、ロシア労働者同盟に参加。1897年に労働運動を指導したとして逮捕され、シベリアに流されましたが、翌1898年、シベリアから脱出してリトアニア社会民主党の創設に参加します。さらに、翌1899年12月、同党とポーランドの社会民主党の合流を指導し、ポーランド・リトアニア社会民主党を結成しました。また、1900年にはドイツでローザ・ルクセンブルクと面会するなど、各国の共産主義運動の連携に尽力しました。

 その後、婚約者のスイス人女性が結核に罹ったため、一旦政治活動から離れたものの、1904年に彼女が亡くなると、1905年7月には革命運動に復帰。ワルシャワ近郊で党大会を招集した直後に秘密警察に逮捕され、シベリア流刑となりましたが、ほどなく釈放されて地下活動に従事していましたが、1911年頃に拘束され、1917年の二月革命でロマノフ王制が崩壊するまで政治刑務所に収監されていました。

 釈放後のジェルジンスキーの去就をめぐっては、ポーランド系革命家の大物として、ポーランドへの帰還と独立運動への参加を求める声も強かったのですが、レーニン率いるボリシェヴィキとともにロシアを中核にした一大革命政府の樹立を目指してロシア残留を選択。ロシア社会民主労働党に入党し、ボルシェヴィキ派中央委員に選出されました。

 1917年10月10日の党中央委員会では、軍事革命委員会を組織して武装蜂起を行い、臨時政府を武力で打倒する暴力革命路線に賛同し、レーニンから軍事革命委員に指名され、支配地域の治安維持を一手に引き受けることになります。そして、11月7日の十月革命では、保安部隊を率いて革命軍の参謀本部が置かれたスモーリヌイ修道院を警護しました。

 十月革命後、国内で反対派のゼネストやデモが活発化したことに加え、列強諸国による干渉出兵が始まると、レーニンは反革命派の監視・摘発のため、軍事委員のジェルジンスキーに“断固たる対処”を命令。これを受けて、1917年12月20日、ジェルジンスキーは“反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会(チェーカー)”を創設し、反体派の摘発を開始します。

 チェーカーの権限は徐々に強化され、最終的には令状無しでの捜査と略式裁判での処刑が認められるようになったため、ジェルジンスキーは「我々(=チェーカー)は組織化された恐怖でなければならない」、「赤色テロは反革命主義者の“根絶”を目的に行われる」などと主張として、部下に対して、反対派の徹底的な粛清を厳命。市中では“反革命”と見なされた人々が街灯に吊るされ、各地の収容所では数万人の“政治犯(とされた人々)”が強制労働に従事させられました。特に、聖職者や資本家、自由主義者に対する弾圧は苛烈で、チェーカーは彼らを容赦なく街頭で射殺しました。

 革命後の内戦が終結すると、チェーカーは“内務人民委員部附属国家政治局(GPU)”として治安維持のための常設機関に改組され、ジェルジンスキーはその初代長官に就任。さらに、諜報・警察活動のかたわら、交通人民委員(交通大臣)、最高国民経済会議議長(財務大臣)など、政府の要職を歴任しましたが、1926年7月20日、中央委員会の席上、2時間にもわたって、トロツキーおよびカーメネフ批判の演説を終えた直後、心臓発作により急死しました。

 ジェルジンスキーの死後、スターリンは彼を“信心深き労働者の騎士”と賞賛するとともに、プロレタリアート独裁の象徴として神格化を進め、モスクワ中心部のKGB前のルビャンカ広場が“ジェルジンスキー広場”と改称されたほか、ソ連やポーランド(ジェルジンスキーの出身国)の各地には、彼の名を讃える都市や工場、建設物が多数作られました。

 なお、冷戦崩壊後の1989年11月、ワルシャワではジェルジンスキーの銅像が市民により引き倒されたほか、1991年8月にソ連の守旧派によるクーデターが失敗に終わるとKGB本部前に建てられていた銅像もモスクワ市民によって引き倒されました。

 今回の住民投票の結果によっては、その跡地に以前と同じような像が再建されることになるわけですが、ソ連時代に建てられた多数のジェルジンスキー像は、レーニン像同様、現在なお(特に地方都市では)ソ連時代のまま街中に立ち続けているケースも少なくありませんので、ロシア人の感覚からすると、それほど大騒ぎするようなことではないのかもしれません。ただし、昨今のロシアといえば、プーチン政権の汚職を追及してきた政治活動家のアレクセイ・ナワリヌイ氏の拘束・収監が国際的にも問題視されていますからねぇ。なんとなく、きな臭い印象を持ってしまうのは僕だけではないはずです。


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      テーマティク研究会ポスター2021

 2021年2月13-28日(土~日)
 *ご好評につき、会期(公開期間)を1週間延長しました!

 テーマティク研究会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。

 通常は東京・目白の切手の博物館を会場として開催しておりますが、ことしは、新型コロナウイルス感染防止の観点から、WEB上でコレクションを閲覧できる「オンライン切手展」となりました。ぜひ、こちらをクリックしてご覧ください。


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 共産主義犠牲者の国家的記念日
2020-11-07 Sat 02:43
 きょう(7日)は、1917年11月7日(ロシア暦10月25日)にロシア10月革命が起こり、ボリシェヴィキ政権(ソヴィエト社会主義ロシア共和国)が発足したことにちなむロシア革命記念日であると同時に、米国では“共産主義犠牲者の国家的記念日”とされています。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・ラーゲリ1937
      ソ連・ラーゲリ1937裏

 これは、1937年4月、ソヴィエト社会主義共和国検察庁が、レニングラードの強制収容所(ラーゲリ)の収容者に対して、拘束に対する異議申し立てと再審査の請求を却下する旨を通知した葉書です。基本的な文面が印刷されていることから、当時のソ連の体制下では、身に覚えのない罪状で収容所送りとなり、異議申し立てと再審査の請求を行っていた人が相当数いたことがうかがえます。

 ボリシェヴィキ政権の発足当初から、レーニンはラーゲリと呼ばれる強制収容所を設置し、“反革命”とみなされた人々を、財産没収の上、次々に連行しました。特に、1922年末のソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)成立を経て、レーニンの後継者となったスターリンは、1926年に刑法を改正して“反革命罪”を正式に導入。じっさいに、“政治犯(密告による冤罪を含む)”のみならず、当局が“敵対的”と見なした民族(フィンランド人、ポーランド人、ドイツ人、朝鮮人、バルト三国人、ウクライナ人、モルダビア人、ユダヤ人、テュルク系諸民族など)、敵階級(自営農家、資本家、貴族など)の人々がラーゲリに連行されていきます。さらに、1941年6月の独ソ戦勃発以降は、戦時国際法に違反して、枢軸側の捕虜たちもラーゲリに送られました

 ソ連政府によって設置されたラーゲリの数は、ソ連全土で500ヵ所を超えるとされており、収容者数は、全労働人口の1割以上、最低でも数百万人規模に達していたといわれています。彼らの中には、過酷な労働や体罰・拷問により、“刑期”を満了する以前に命を落とした人々も多数いました。

 ソ連政府はラーゲリの収容者を事実上の“奴隷”として扱い、彼らに過酷な重労働を課すことによって、社会主義建設や第二次大戦中・戦後の労働力を賄っていました。世界恐慌の最中、スターリン政権は第一次五カ年計画を“超過達成”したとして、資本主義に対する社会主義の優位を誇示していたが、それを支えていたのが、まさに強制収容所の“奴隷”労働力だったわけです。

 さて、米国の“共産主義犠牲者の国家的記念日”は、ロシア革命100周年に当たる2017年にトランプ大統領が宣言したもので、その趣旨は以下のように説明されています。

 本日の共産主義犠牲者の国民的記念日は、ロシアで起きたボリシェヴィキ革命から100周年を記念するものです。ボリシェヴィキ革命は、ソヴィエト連邦と数十年に渡る圧政的な共産主義の暗黒の時代を生み出しました。共産主義は、自由、繁栄、人間の命の尊厳とは相容れない政治思想です。

 前世紀から、世界の共産主義者による全体主義政権は1億人以上の人を殺害し、それ以上の数多くの人々を搾取、暴力、そして甚大な惨状に晒しました。このような活動は、偽の見せかけだけの自由の下で、罪のない人々から神が与えた自由な信仰の権利、結社の自由、そして極めて神聖な他の多くの権利を組織的に奪いました。自由を切望する市民は、抑圧、暴力、そして恐怖を用いて支配下に置かれたのです。

 今日、私たちは亡くなった方々のことを偲び、今も共産主義の下で苦しむすべての人々に思いを寄せます。彼らのことを思い起こし、そして世界中で自由と機会を広めるために戦った人々の不屈の精神を称え、私たちの国は、より明るく自由な未来を切望するすべての人のために、自由の光を輝かせようという固い決意を再確認します。
 (引用ここまで)

 以後、2018年と2019年の11月7日には、トランプ大統領は、「平和と繁栄に基づく民主の核心的価値、すなわち自由、正義と個々の生命の価値に対する深い尊重を再確認し、すべての人々が平和と繁栄の未来を確保することへの支援」を謳った声明を発表してきましたので、おそらく、今年も同様の声明が出されるものと思われます。

 なお、この記事を書いている時点では、先日行われた大統領選挙の最終的な結果はまだ確定していませんが、トランプ大統領の再選はほぼ絶望的な状況です。そうすると、来年1月に発足するであろう民主党のバイデン政権は極左暴力集団のアンティファに対しても宥和的とみられているだけに、来年以降も現在のようなかたちで“共産主義犠牲者の国家的記念日”が継続されるかどうかは、ちょっと微妙かもしれません。

 ちなみに、ソ連のラーゲリを含む世界の強制収容所歴史については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。

 * 昨日(6日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は12月11日(金)の予定ですので、引き続き、よろしくお願いします。


★ 11月11日(水) 八重洲・イブニング・ラボに内藤登場★

 11月11日(水) 経済評論家、上念司さんの八重洲・イブニング・ラボに内藤が登場します。会員限定のイベントですので、手続き方法などの詳細はこちらでご確認の上、ぜひ会員登録の上、お申し込みください。よろしくお願いします。(宣伝文句がかなり大げさで、ちょっとビビってますが・笑)


★ 11月12・19日(木) InterFM 897:The Road 出演します ★

 11月12日(木)と19日(木) 17:30 InterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!に内藤が出演し、“知られざる切手の世界”についてお話します。詳細はこちらをご覧ください。皆様よろしくお願いします。


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 レーニン生誕150年
2020-04-22 Wed 01:37
 ロシア革命の指導者、ウラジーミル・レーニンが1870年4月22日に生まれてから、150周年になりました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・レーニン没後10年(幼年時代)

 これは、1934年、ソ連が発行した“レーニン没後10周年”の記念切手のうち、幼少時代のレーニンの肖像を取り上げた1枚です。

 現在でも、ときどき、「ロシア革命はユダヤ人の革命であり、ソ連はユダヤ人が作った。ボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党の多数派で、後のソ連共産党の源流)の8割はユダヤ人だった」とする主張する人がいます。しかし、こうした主張は、歴史的事実に照らしてみると、かなり荒唐無稽なものです。

 1917年2月、ロシア帝国を打倒した最初の革命直前の時点で、ボリシェヴィキの党員数は約2万3000人で、そのうち“ユダヤ人(本人の申告による)”は364人と圧倒的に少数派でした。

 その後、革命が進行し、1922年末にはソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が発足します。この頃になると、ソ連全体での共産党員の数は爆発的に増加していきますが、それでも、ユダヤ系党員は1万9564人、全党員の5.21%にすぎません。

 さらに、1923-30年のソ連人民委員会議(閣議に相当する組織)の構成員23人中ユダヤ人は5人(2割弱)しかいませんし、議会に関しても、1929年のソヴィエト連邦最高評議会の民族別議席割当数はロシア人に402議席、ウクライナ人に95議席、ユダヤ人に55議席、ラトヴィア人に26議席等で、ユダヤ人は1割程度です。したがって、ソ連国家の指導部におけるユダヤ人の比率は、党員全体に比べれば高いと言えますが、それでも、「革命政府の約8割がユダヤ人だった」などというのは無理があります。

 革命の最高指導者であったレーニンに関しても、彼が“ユダヤ人のクウォーター”だったことを、ロシア革命がユダヤ人の革命とする根拠(のひとつ)として挙げる人がいます。

 たしかに、ウラジーミル・レーニンの母マリア・アレクサンドロヴナ・ブランクにはユダヤ人の血が入っています。マリアの父(レーニンの母方の祖父)アレクサンドル・ブランクは、一般に、ウクライナ生まれのユダヤ人で、正教に改宗した人物といわれていますが、エカテリーナ2世の時代にドイツから来た入植者の子孫とする説もあります。また、マリアの母アンナは、ドイツ人とスウェーデン人の両親から生まれ、信仰としてはルター派のプロテスタントでした。

 一方、ウラジーミルの父イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフはチュヴァシ系解放農奴の父親とカルムイク人(ロシアに移住したテュルク人の末裔)の母親から生まれました。

 こうしたアンナとイリヤの子としてのウラジーミルは、ロシア帝国の法的な解釈によれば、彼は“モルドヴィン人(モルドヴァ人)、カルムイク人(中央アジア系)、ユダヤ人、バルトドイツ人、スウェーデン人による混血”となります。したがって、多種多様な民族が複雑に交じり合った血統の人物として、一言で表現するなら“ロシア帝国人”としか言いようがありません。しかも、ユダヤ人の血統を引く祖父も正教に改宗しているのですから、宗教的には“4分の1”以下です。

 したがって、レーニンにはユダヤ人の血が流れているとはいえ、ドイツ人やモルドヴァ人の要素を捨象して“ユダヤ人”という要素だけを強調するのは、フェアな議論とは言えないでしょう。

 さて、現在、いわゆる“ユダヤ陰謀論”の矛盾や、そうした陰謀論が出てきた背景などを開設する書籍を刊行すべく作業を進めています。すでに、本文は脱稿しており、これから校正作業に取り掛かろうという状況です。正式な書名や刊行日、定価などが決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。
 

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 放たれたクマ
2020-03-30 Mon 01:09
 新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐため、今月28日から1週間、国民に対して自宅に留まることが強く求められ、食料品店や薬局を除くほぼ全ての店舗が休業しているロシアで、「プーチン大統領の命令で、ロシア全土にライオンとトラ合わせて800頭が既に放たれた」という噂が流れたところ、ザハロワ報道官は「大統領が街にライオンとトラを放つというのは面白い。だが、伝統と効率を考えて実はクマを放っているのだ」と冗談を交えて噂を否定したそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・シーシキン「松林の朝」

 これは、1948年にソ連が発行した“イヴァン・シーシキン没後50年”の切手のうち、クマを描いたロシア絵画の中で最も有名な作品とされる「松林の朝」を取り上げた1枚です。

 イヴァン・シーシキンは、1832年、現在、タタールスタン共和国内にあるエラブガで生まれ、カザンのギムナジウムを卒業しました。その後、モスクワ絵画・彫刻・建築学校ならびにサンクトペテルブルクの帝国芸術アカデミーで学び、アカデミーを首席で卒業した褒賞としてスイスおよびドイツ各地で制作を行います。

 帰国後、アカデミーの会員となるとともに、既存のアカデミーの流儀に飽き足らず、ロシア各地で移動展覧会を開いた“移動派”の一員ともなり、幅広く活躍しました。

 特に、その風景画は細部に至るまで緻密な筆致で描かれ、ロシアでは非常に人気が高い作家で、極東美術館副館長のリュドミラ・コズロワは、その作品を「ロシアの森の美しさ、ロシアの大地の広大さ、それからおそらくロシア人に特徴的なロシア気質の明るさについても、叙述的に物語っている風景画」として「叙事詩的」と評しています。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた「松林の朝」は139×213センチのカンヴァスに描かれた油彩作品で、もともとは、作品中にクマは描かれていませんでした。実は、シーシキンは自他ともに認める風景画の名手ではあったものの、動物画には自信がなかったため、友人で動物画を得意とするコンスタンティン・サヴィツキーに、「松林の朝」にクマを加えるよう依頼。これを受けて、サヴィツキーは、松の倒木で遊ぶ3頭の子熊とそれを見守る母熊を描き加えて、「松林の朝」は、1889年に開催された第17回移動派美術展覧会(移動展)に2人の共作として出品されました。このため、オリジナルの作品には、シーシキンとサヴィツキーの2人の署名があります。

 ところが、展覧会の終了後、ロシア屈指の大富豪で美術品の収集家としても有名だったパーヴェル・ミハイロヴィッチ・トレチャコフがこの作品を購入。トレチャコフは、シーシキン単独の作品としたほうが絵の価値が上がると考え、サヴィツキーの署名を消してしまいました。(ただし、完全には消せなかったため、サヴィツキーの署名も不鮮明ながら残っています)

 その後、「松林の朝」を含むトレチャコフのコレクションは、自宅を改装したギャラリーともども、1892年8月にモスクワ市に寄贈され、現在はトレチャコフ美術館の所蔵品となっていますが、こうした経緯から、「松林の朝」はシーシキン単独の作品として紹介されることが多く、今回ご紹介の切手もシーシキンの作品として「松林の朝」を取り上げています。

 ちなみに、サヴィツキーが描き加えたクマの部分は、ソ連時代のチョコレートキャンディー、“ミーシカ・コソラープイ”の包装紙に取り上げられ、ソ連国民の日常生活に広く浸透していました。KGB出身のプーチン大統領も、おそらく、幼少期にはミーシカ・コソラープイを食べて育ったことでしょうから、やはり、ロシア全土に放たれる(ばらまかれる?)のはクマの方がしっくりくるということなんでしょうかね。


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 スターリニズムとナチズムの犠牲者追悼の日
2019-08-23 Fri 08:25
 きょう(23日)は、1939年8月23日に独ソ不可侵条約(に付随する東欧分割の密約)が調印されたことにちなみ、2009年に欧州議会が制定した“スターリニズムとナチズムの犠牲者追悼の日”です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・西ウクライナおよび西ベラルーシ解放

 これは、1939年9月17日、独ソ不可侵条約の密約に基づき、ソ連が“ウクライナ系・ベラルーシ系市民の保護”を口実にポーランド東部国境から侵攻を開始し、ポーランド東部を占領したことを記念して、1940年4月に発行した“(ポーランドの)西ウクライナおよび西ベラルーシ人民の解放”の切手です。

 1935年にヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄して再軍備を宣言したドイツは、1936年3月にはヴェルサイユ条約で軍隊の駐留が禁止されていたラインラント地方に軍隊を進駐させたのを皮切りに、1938年3月にはオーストリアを併合。 同年9月にはミュンヘン会談でチェコスロヴァキアのズデーテンラントの獲得を英仏に呑ませ、翌1939年3月にはプラハを占領してチェコを保護国とし、リトアニアからメーメル地方を割譲させました。

 一方、ソ連はドイツの東方侵出を警戒し、英仏との提携を模索していましたが、ミュンヘン会談の結果、英仏がドイツに妥協したことで英仏への不信感を強めます。さらに、1939年5月、極東でノモンハン事件が発生したことで、ソ連にはドイツとの衝突は避ける必要が生じました。

 これに対して、次のターゲットとしてポーランドを狙っていたドイツも、英仏との戦争を想定し、ソ連との戦争を回避する必要があったため、結果的に両者の思惑が一致。こうして、極秘交渉の末に、1939年8月23日、独ソ不可侵条約が調印されます。

 独ソ不可侵条約には、東欧をドイツとソ連の勢力圏に分割するという秘密議定書がついており、ナレフ川=ヴィスワ川=サン川を境界として両国でポーランドを分割すること、バルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)およびルーマニア領ベッサラビアはソ連が併合し、フィンランドをソ連の勢力圏とすることが謳われていました。

 これに従い、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻すると、同17日、ソ連軍は“ウクライナ系・ベラルーシ系市民の保護”を口実にポーランド東部国境から侵攻を開始。独ソ両軍は衝突することもなく、秘密議定書の分割線に従って占領域を確定させ、9月28日には独ソ不可侵条約を前進させたドイツ・ソビエト境界友好条約が締結されます。ちなみに、ドイツ軍のポーランド侵攻に対してドイツに宣戦布告した英仏ですが、同じくポーランドに侵攻したソ連に対しては宣戦布告をしませんでした。
      

★★ イベントのご案内 ★★

・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー
 9月28日(土) 15:30~  於・イオンコンパス東京八重洲会議室
 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。
 
 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。

★★ 講座のご案内 ★★

 武蔵野大学生涯学習秋講座で、以下の講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください)

 ・2019年10月13日(日) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年―
 (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回)

 ・2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 切手と浮世絵


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 サハリンにチェーホフ空港
2019-06-02 Sun 00:12
 ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、おととい(31日・現地時間)、サハリン・ユジノサハリンスクのホムトヴォ空港を、アントン・チェーホフ空港に改称する大統領令に署名しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・チェーホフ生誕80年

 これは、1940年にソ連が発行したチェーホフ生誕80年の記念切手です。

 ロシアの文豪、アントン・チェーホフは1860年生まれ。1884年にモスクワ大学医学部を卒業して医師の資格を得た後、医師と作家の二足のわらじの生活を送っていました。当初、彼は生活費を稼ぐために短篇のユーモア小説を量産していましたが、1886年に老作家ドミートリイ・グリゴローヴィチの忠告を受けて本格的な長篇に取り組み、1887年、初の本格的な長編戯曲『イワーノフ』を発表。その成功により、一躍、文壇の寵児となりました。

 その後、チェーホフは1890年4月から12月まで、サハリン(当時は全島がロシア領)での流刑囚の実態調査のため、モスクワから9000キロの大旅行を行い、サハリンから戻った後、道中の記録や調査の結果を『シベリアの旅』、『サハリン島』として順次発表していきます。この『サハリン島』が作家チェーホフの天気になったとする専門家は多く、今回、ユジノサハリンスクの空港に彼の名前が付けられたのもそうした事情によるものです。

 ちなみに、チェーホフはサハリン行きの途中、ハバロフスクに立ち寄り、帝政ロシア駐屯軍の将校集会所が置かれていた建物の特別室に宿泊しました。その建物は、現在、極東美術館として利用されており、入口のところにはチェーホフがここに宿泊したことを示すレリーフも掲げられています。このあたりの事情については、拙著『ハバロフスク』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★ 本荘法人会講演会 「切手で読み解く国際政治」 ★★

 2019年 6月4日(火) 14:00-15:30
 会場:安楽温泉

 主催は本荘法人会で、入場は無料ですが、事前のお申し込みが必要になります。お問い合わせは、本荘法人会(TEL0184-24-3050)までお願いします。


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 世界の切手:ソ連
2017-10-29 Sun 04:48
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年10月18日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はソ連の特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・レーピン

 これは、1944年にソ連が発行した“レーピン生誕100周年”の記念切手のうち、彼の代表作『スルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック』を取り上げた1枚です。

 ロシア画壇の巨匠、イリヤ・エフィーモヴィチ・レーピンは、1844年、ウクライナのチュグエフ(ハリコフ近郊)のロシア人入植者の家庭に生まれました。地元のイコン画家ブナコフの下で修業をつんだ後、サンクトペテルブルクのロシア帝国美術アカデミーで学びましたが、後に、アカデミーに批判的な移動派の旗手として活躍します。

 皇帝や貴族の肖像を制作する一方で、しばしば社会最下層の貧民や革命運動を題材とする作品を少なからず残したため、ソ連時代は社会主義リアリズムの模範としてもてはやされましたが、レーピン自身は革命後のボリシェヴィキ政権ならびにソ連政府とは距離を置き、自宅のあるサンクトペテルブルク北方のクオッカラが、帝政ロシアの崩壊後、フィンランド領に編入されると、高齢を理由に帰国を拒み続け、1930年にクオッカラで亡くなりました。

 切手に取り上げられた『スルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック』は、17世紀、服従を迫るスルターンに対してコサックたちが嘲弄に満ちた返書をしたためる、という伝説的場面が主題としたもので、1870年代末から制作が開始され、10年以上の歳月をかけて、1891年に完成しました。完成後は、それまでのロシア絵画に支払われた金額としては最高額の3万5000ルーブルでロシア皇帝が買い上げています。
 
 さて、『世界の切手コレクション』10月18日号の「世界の国々」では、スプートニク1号を中心としたソ連の初期の宇宙開発についてまとめた長文コラムのほか、国営旅行会社のインツーリストサンクトペテルブルクの冬宮コンスタンチン・ツィオルコフスキー、ライカ犬の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のソ連の次は、18日に発売された10月25日号でのルーマニアの特集になります。こちらについては、近々、このブログでもご紹介する予定です。
      

★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

 11月4日(土) 12:30より、東京・浅草で開催の全国切手展<JAPEX>会場内で、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』刊行記念のトークイベントを予定しております。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。


★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★

  明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を11月10日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。


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 スプートニクとガガーリンの闇(1)
2017-10-24 Tue 07:40
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』第658号(9月25日号)から、「スプートニクとガガーリンの闇」と題する新連載を始めました。今回は初回ということで、現在、“宇宙旅行の父”とも称されているコンスタンチン・ツィオルコフスキーの切手について取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・ツィオルコフスキー(1951)

 これは、1951年にソ連が発行した“ソ連の科学者”と題する16種セットの切手のうち、ロケットを背景にツィオルコフスキーの肖像を描いた1枚です。この時点では、“宇宙旅行”はあくまでも空想上の産物でしたから、ツィオルコフスキーはあくまでも“ロケットの父”として顕彰されています。

 コンスタン・ツィオルコフスキーは、ロシア帝国時代の1857年9月17日、(新暦では9月5日)、モスクワ南東のリャザン県イジェフスクで生まれました。ツィオルコフスキー家は、リトアニア・ポーランド王国の貴族、シュラフタの血統で、18世紀末にキエフに移住してきました。父親のエドヴァルトは森林管理の役人で、母親のマリア・ユマシェワはヴォルガ・タタール人です。

 ツィオルコフスキーは幼少の頃から科学の方面には並々ならぬ才能を発揮していましたが、1867年、10歳の時に風邪をこじらせて猩紅熱にかかり、それが元で聴力をほとんど失います。さらに、1870年、13歳の頃に母親が他界。こうしたことが重なり、1873年、古典ギムナージヤ(高等中学校)を退学してしまいました。

 しかし、その才能を惜しんだ父親の援助を得て、モスクワに出て(本来の目的であった帝室モスクワ技術学校への入学は、ギムナージヤを中退したため、入学資格を満たさず、断念)図書館で数学や物理学、天文学を学びます。その後、1879年、教師資格を取得し、1880年以降、モスクワ南方のボロフスクやカルーガで数学教師として教鞭を執るかたわら、1935年に亡くなるまで、気球や飛行船に関する数多くの論文やエッセイを発表しました。

 なかでも、1897年に発表した“ツィオルコフスキーの公式”は「噴射ガスの速度が大きく、ロケット点火時と燃焼終了時の質量比が大きい程、より大きな速度を得られる」というもので、液体燃料が固体燃料に比べて遥かに大きな排気速度を出せることを示したものとして画期的なものでした。

 また、1903年、独自のロケット理論をまとめた代表作『反作用利用装置による宇宙探検』を発表。これは同年に科学雑誌『モスクワ科学評論』にも掲載され、この中で宇宙旅行や軌道エレベータの可能性や液体水素と液体酸素を燃料とする流線型のロケットの設計図も発表されています。

 さらに、1903年の論文を継承・改良して発表した1911年の論文では「地球は人類のゆりかごである。しかし人類はゆりかごにいつまでも留まっていないだろう」との名言を記しました。この一言は、後に彼が“宇宙旅行の父”と呼ばれる所以となるのですが、当時のアカデミズムからはほとんど相手にされず、狂人扱いされていたほどです。

 1917年にロシア革命が起こり、1918年に共産主義アカデミーが創設されると(1919年に社会主義社会科学アカデミーと改称)、ツィオルコフスキーは会員募集に応募して当選します。ただし、彼がアカデミーの会員資格を得たのは、宇宙ロケットの研究によってではなく、帝政末期の1912年以来、彼が熱心に取り組んでいた金属製飛行船の開発が評価されてのことでした。

 その後、1922年末にソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立すると、ツェッペリンに代表されるドイツの飛行船開発に刺激を受けた共産党政権は、金属製飛行船の開発者としてのツィオルコフスキーに注目し、特に空軍は彼を積極的に支援しました。また、彼が帝政時代には不遇をかこっていたという経歴の持ち主であることに加え、自然を征服し、改良するという彼の思想は社会主義イデオロギーとも親和性の高いものであったことも、プラスに作用しました。

 かくして、ツィオルコフスキーは1925年に空軍アカデミーの名誉教授となり、多額の年金を国から支給され、1932年には労働赤旗勲章を授与されます。さらに、1935年9月19日にツィオルコフスキーが亡くなった際には、彼の葬儀は国葬の礼をもって執り行われました。これらは、いずれも、彼の飛行船開発の功績に対して与えられたものでした。

 その後、第二次大戦を経て、気球と飛行船は時代遅れの輸送手段となっていったが、それと入れ替わりに、ロケット開発の重要性が増してくると、今度は、ツィオルコフスキーの位置づけは“ロケットの父”へと変化していきます。

 すなわち、1939年に第二次大戦が勃発した当初、ソ連は核分裂を兵器に応用することは現実的ではないと考えていましたが、大戦中、米独などで核兵器の開発が進められていることを探知すると、1943年、物理学者イーゴリ・ワシリエヴィチ・クルチャトフに対して核兵器の研究を要請。さらに、1945年8月、広島・長崎への原子爆弾投下を知ると、核兵器の持つ政治的効果をすぐに覚り、早くも同月中には核兵器開発を促進するための“第一委員会”を発足させています。そうしたこともあって、1949年8月29日には、ソ連は原爆実験に成功しました。

 ところで、原子爆弾を実際に兵器として利用するためには、爆弾そのものの品質向上とともに、運搬手段を確保しなければなりません。ここで、ロケット開発が重要な課題となってくるわけです。

 すなわち、1949年、ソ連が最初の原爆実験に成功した時点では、彼らは欧州大陸を標的として、3000キロ程度の射程のミサイルで十分と考えていましたが、翌1950年1月、米国のトルーマン政権が水素爆弾の製造を指示すると、ソ連は“自衛のため”、米国を直接核攻撃できるミサイルを開発する必要に迫られることになりました。

 今回ご紹介の切手は、まさにこうした背景の下で発行されたもので、“ロケットの父”としてツィオルコフスキーを顕彰することで、ソ連の科学技術が歴史的に西側よりも先んじていたことを主張しようとの意図を読み取ることができます。

 1957年のスプートニク1号の打ち上げはそうしたミサイル開発の延長線上に達成されたものでしたが、そのタイミングが1957年になったのは、同年が国際地球観測年にあたっていたことに加え、ツィオルコフスキーの生誕100周年にあたっていたという事情もありました。

 以後、東西冷戦という国際環境の下で、宇宙開発はイデオロギーや武力に関係なく、ソ連の威信を内外に示すことができる文化資源として活用されることになり、それに伴った、ツィオルコフスキーも“宇宙旅行の父”として神格化されていくことになるのです。


★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

 11月4日(土) 12:30より、東京・浅草で開催の全国切手展<JAPEX>会場内で、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』刊行記念のトークイベントを予定しております。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。


★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  ★★★

 10月19日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第10回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、11月9日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、19日放送分につきましては、10月26日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★

  明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

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 ビロビジャンに杉原千畝の顕彰プレート
2017-09-09 Sat 09:05
 第二次大戦中にナチス・ドイツに迫害され、亡命を希望するユダヤ人へのヴィザ発給に奮闘した外交官、杉原千畝氏の功績をたたえ、きのう(8日)、ロシア・ユダヤ自治州の州都ビロビジャンのシベリア鉄道駅で、記念プレートを設置する式典が開かれました。

      ソ連・ビロビジャン(1933)

 これは、1933年にソ連が発行したビロビジャンの労働者を描く切手です。

 ハバロフスクの西約150キロの地点にあるビロビジャンは、中国との国境近くのビラ川、ビジャン川沿いにあることが地名の由来です。

 ロシア革命後の内戦期、極東地域には、緩衝国家として極東共和国が樹立されていましたが、列強による干渉出兵の最後の兵力であった日本軍が1922年10月にシベリアから撤退すると、ボルシェビキ政権にとって同国の存在意義もなくなり、同年12月のソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)の成立にあわせて、同国はソ連に吸収され、消滅しました。

 しかし、その後も、ソ連にとって極東情勢は必ずしも安泰ではなかったため、ふたたび、極東の緩衝地帯が必要とされるようになります。

 一方、ソ連領内のユダヤ系に関しては、当初、黒海沿岸のクリミア半島の一部に彼らを入植させた民族区を作る構想がありましたが、ユダヤ系を信用していなかったスターリンは、モスクワはもとより中央ロシアやウクライナから彼らを事実上追放するとともに、極東における防波堤として活用することを考えました。

 この結果、1927年、クリミア半島でのユダヤ民族区創設のプランは破棄され、翌1928年、「社会主義的な枠組みのなかでユダヤ人の文化的自治をめざす」との名目で、極東の国境地帯にユダヤ民族区が創設されます。今回ご紹介の切手は、こうした状況を踏まえ、ユダヤ民族区とビロビジャンを宣伝するために発行されたものです。

 はたして、スターリンの予想通り、1929年には中国との間で国境紛争が発生し、1931年に勃発した満洲事変では、日本軍はソ連と隣接する満洲の全域を制圧し、翌1932年には満洲国を建国します。

 こうした状況の下で、極東からの脅威に備えるべく、ユダヤ民族区は1935年にユダヤ自治州に昇格し、ソ連政府は「ユダヤ人の歴史上初めて自分の故郷の建設、自らの民族国家の成就への燃えるような要望が満たされた」と喧伝しました。

 ちなみに、イスラエルの建国は1948年のことで、当時は、ナチス・ドイツの迫害を逃れて欧州のユダヤ人が英国の委任統治領だったパレスチナに大挙して流入し、地元のアラブ住民との確執が深刻化していましたから、ソ連としても、社会主義体制下でのユダヤ自治洲の創設をアピールすることは、プロパガンダとしても重要なことだったわけです。

 一方、日本でも、ほぼ時を同じくして、5万人のドイツ系ユダヤ人を満洲に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満洲の開発を促進させると共に、対ソ防衛の拠点を構築する「河豚計画」が検討されたこともありましたが、結局、日の目を見ないままに終わっています。

 さて、鳴り物入りで発足したソ連のユダヤ自治州ですが、そもそも、20世紀にいたるまでほとんど人跡未踏の地だったという土地の自然環境は苛酷で、道路をはじめとする都市のインフラ機能もほとんど整備されていませんでしたから、それまで都市生活を送ってきたユダヤ系の移住者が定着するのは無理がありました。

 このため、自治州発足から4年後、1939年の時点でさえ、ユダヤ人自治州の名前とは裏腹に、同州の人口10万9000人のうち、ユダヤ人は16%の1万7695人しか住んでいませんでした。現在では、州の人口19万人弱のうち、ユダヤ系はわずか4%ほどで、ロシア人が87%と人口の圧倒的多数を占めています。

 なお、ビロビジャンの詳細については、拙著『ハバロフスク』でも1章を設けて説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  ★★★ 

 9月7日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第8回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、10月5日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、7日放送分につきましては、9月14日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。

 ★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

      タウンミーティング in 福山

  2017年9月17日(日) 14:00~、広島県立ふくやま産業交流館で開催の「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」に憲政史家の倉山満さんとトークイベントをやります。お近くの方は、ぜひ、ご参加ください。なお、イベントそのものの詳細は、こちらをご覧ください。
      
 ★★★ 最新作 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 近日発売!★★★ 

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 クリミア・タタール人
2016-05-15 Sun 21:59
 ユーロヴィジョンの決勝が、14日夜(日本時間15日未明)、ストックホルムで行われ、ウクライナ代表として出場していたクリミア・タタール人の女性歌手ジャマラが優勝しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・クリミア・タタール人(1933)

 これは、1933年にソ連が発行した“ソ連邦の諸民族”の切手のうち、クリミア・タタール人を取り上げた3コペイカ切手です。

 18世紀までのクリミア半島は、クリミア・タタール人が支配するクリミア・ハン国の版図でしたが、1768-1774年の露土戦争の結果、1783年にクリミアはロシア帝国に併合され、クリミア・タタール人の有力者層はオスマン帝国領内に亡命。その一方で、ロシア人、ウクライナ人をはじめとする移民がクリミアに押し寄せたため、19世紀の初めには、クリミア・タタール人はクリミア半島での少数派となっていました。

 1917年、ロシアで十月革命が起こると、クリミア・タタール人はクリミア人民共和国の独立を宣言しましたが、1918年初めにはボリシェヴィキがクリミア半島を占領。タヴリダ・ソヴィエト社会主義共和国を創設します。これに対して、同年4月末、ドイツに援助されたウクライナ人民共和国軍がボリシェヴィキを駆逐し、同年6月25日、クリミア地方政府を樹立しました。

 クリミア地方政府は、ドイツとオスマン帝国の保護下でクリミア・ハン国の再建をめざし、独自の通貨や切手も発行しました。その後、ドイツオスマン帝国の敗戦を受けて、1918年11月には反ボルシェヴィキの連合国が上陸したものの、1919年初までに撤退。クリミア半島はロシアの内戦に巻き込まれ、赤軍と白軍の攻防の後、最終的には赤軍に占領され、1921年10月18日、ソヴィエト・ロシアの一部としてクリミア自治社会主義ソヴィエト共和国が創設されます。そして、1922年末のソヴィエト社会主義共和国連邦成立を経て、1936年12月5日、クリミア自治ソヴィエト社会主義共和国となりました。

 1941年に独ソ戦が始まると、クリミア半島ではセヴァストーポリ要塞をめぐって独ソの激戦が展開され、最終的にソ連が勝利を収めます。しかし、クリミア・タタール人の対独協力を疑ったスターリンは、1944年5月17日、確認されているだけで、19万3865人のクリミア・タタール人をウズベク・ソビエト社会主義共和国、カザフ・ソビエト社会主義共和国等に追放しました。このうち、ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国に追放されたクリミア・タタール人の7%にあたる1万105人が餓死したほか、生き残った者も強制労働を強いられました。その後、クリミア・タタール人のクリミア半島からの追放完了を受けて、1945年6月30日、自治共和国は解消させられてクリミア州となります。

 スターリン没後の1954年、ウクライナのロシアへの統合300年を記念して、クリミア州はソ連構成国のロシアからウクライナに移管。1967年にはクリミア・タタール人の名誉回復がなされましたが、彼らのクリミア半島への帰還はソ連崩壊まで許可されませんでした。

 今回、ユーロヴィジョンで優勝したジャマラが決勝で歌った「1944」は、この1944年のクリミア・タタール人追放を題材にした楽曲ですが、2014年のクリミアのロシア編入の是非を問う住民投票では、現地在住のクリミア・タタール人の大多数は投票をボイコットし田という経緯もあるため、ジャマラの歌も編入の不当性を国際社会に訴えたものと見られています。

 ただし、ユーロヴィジョンでは、政治的な内容を歌詞に盛り込まないことがルールとして明文化されているだけに、今回の彼女の優勝については、しばらく、物議を醸すことになりそうです。

 
 ★★★ アジア国際切手展<CHINA 2016>作品募集中! ★★★

 本年(2016年)12月2-6日、中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市の南寧国際会展中心において、アジア国際切手展<CHINA 2016>(以下、南寧展)が開催されます。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を6月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。

 ★★★ 内藤陽介の新刊  『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 

       ペニーブラック表紙 2350円+税

 【出版元より】
 若く美しい女王の横顔に恋しよう!
 世界最初の切手
 欲しくないですか/知りたくないですか

 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。

 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。


 ★★★ 内藤陽介の新刊  『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 

       アウシュヴィッツの手紙・表紙 2000円+税

 【出版元より】
 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。

 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。

 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。


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 ナヴォイ劇場
2015-10-26 Mon 10:52
 中央アジア歴訪中の安倍首相は、きのう(25日)、ウズベキスタンのタシュケント抑留日本人墓地(公営ヤッカサライ墓地)と、先の大戦後に旧ソ連により抑留された日本人らが建設したナヴォイ劇場を訪ね、コンサートを鑑賞しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・ナヴォイ劇場

 これは、1950年1月3日、ソ連が発行したウズベク・ソヴィエト社会主義共和国25周年の記念切手のうち、ナヴォイ劇場を取り上げた25コペイカ切手です。

 現在のウズベキスタン共和国の領域は19世紀にロシア帝国に征服され、ロシア革命後は現在のトルクメニスタンの領域とともにトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の時代を経て、1924年10月27日、トルクメン・ソヴィエト社会主義共和国が分離されてウズベク・ソヴィエト社会主義共和国となりました。今回ご紹介の切手はそこから起算して25周年になるのを記念して発行されたもので、切手上の表示も“1924*1949”となっていますが、実際の発行は1950年にまでずれ込んでいます。

 切手に取り上げられたナヴォイ劇場は、15世紀のティムール朝の文人・政治家でウズベク人の民族的英雄とされるミール・アリー・シール・ナヴァーイーの名を冠したオペラ・バレエ劇場で、モスクワの国立アカデミー劇場(通称・ボリショイ劇場)などと並ぶ旧ソ連4大劇場のひとつとされています。

 設計はレーニン廟などで知られるアレクセイ・シュチューセフが担当し、ナヴァーイーの生誕500年にあたる1941年の完成を目指して1939年から建設作業が始まりましたが、第二次大戦により、土台と一部の壁、柱などがつくられた状態で工事は中断されます。

 このため、第二次大戦後、多くの日本人を抑留したソ連当局は、旧日本軍工兵隊の457人を動員し、ロシア革命30周年にあたる1947年11月の完成を目指して工事を再開。収容観客数1400人、舞台の広さ540平米の壮麗な劇場を完成させました。ちなみに、1966年4月26日のタシュケント地震では市内7万8000棟の建物が倒壊しましたが、ナヴォイ劇場は無傷で市民達の避難場所として利用されました。このことは、日本人の丁寧な仕事ぶりを示すエピソードとして現地では広く知られており、ウズベキスタンの親日感情の一要因となっています。

 なお、ソ連による日本人のシベリア抑留と彼らが関わった建造物等については、拙著『ハバロフスク』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ <JAPEX> トークイベントのご案内 ★★★

   アウシュヴィッツの手紙・表紙  ペニーブラック表紙   

 東京・浅草で開催される全国切手展<JAPEX>会場内で、下記の通り、拙著『アウシュヴィッツの手紙』ならびに『英国郵便史 ペニー・ブラック物語』の刊行記念のトークイベントを予定しております。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。

 ・10月30日 15:30~ アウシュヴィッツの手紙
 ・11月1日  14:00~ 英国郵便史 ペニーブラック物語


 ★★★ イベントのご案内 ★★★ 

 ・11月7日(土) 09:30- 切手市場
 於 東京・日本橋富沢町8番地 綿商会館
 詳細は主催者HPをご覧ください。新作の『アウシュヴィッツの手紙』ならびに『ペニー・ブラック物語』を中心に、拙著を担いで行商に行きます。 会場ならではの特典もご用意しております。ぜひ遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『アウシュヴィッツの手紙』  予約受付中! ★★★ 

       アウシュヴィッツの手紙・表紙 税込2160円

 【出版元より】
 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。

 11月上旬刊行予定ですが、現在、版元ドットコムamazonhontoネットストア新刊.netの各ネット書店で予約受付中ですので、よろしくお願いします。

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 戦争は女の顔をしていない
2015-10-09 Fri 11:48
 今年のノーベル文学賞は、ベラルーシのジャーナリスト・ノンフィクション作家のスヴェトラーナ・アレクサンドローブナ・アレクシエーヴィッチが受賞しました。というわけで、彼女の代表作の一つ『戦争は女の顔をしていない』にちなんで、この切手を持ってきました。

      ソ連・女性狙撃手

 これは、1943年にソ連が発行した女性狙撃手の切手です。

 1941年に独ソ戦が勃発すると、ソ連では15-30歳の女性が志願兵として赤軍に入隊し、戦場に赴きました。その中には、従軍看護婦としての衛生大隊や製パン中隊、洗濯大隊などの後方支援だけでなく、実際に最前線で戦っていた女性たちも少なからずおり、1945年までに従軍した女性の数は100万を超えるともいわれています。

 そうした彼女たちの中でも、特に有名だったのが、狙撃兵として活躍したリュドミラ・ミハイロヴナ・パヴリチェンコです。

 1916年生まれの彼女は、独ソ開戦時には24歳でキエフ大学に在学中でしたが、子供の頃から射撃競技に励んでいたこともあり、キエフ市内の赤軍事務所へと赴き、狙撃手としての入隊を志願。身体検査と適性試験に合格した後、第25狙撃兵師団第54狙撃連隊に二等兵として配属され、1941年8月、オデッサ市防衛の任務に就きました。

 彼女は、オデッサ、セヴァストーポリや北カフカスなどでの戦闘に参加し、1942年までに、36名の狙撃手を含む独軍兵士309名を射殺し、史上最高の女性スナイパーとして赤軍女性兵士の象徴的な存在となりました。

 その後、“英雄”を戦死させることを恐れた軍指導部は、彼女を女子狙撃教育隊の教官に任命し、前線からの離脱を命令。さらに、彼女を少佐に昇進させたうえで、外交宣伝の一環として米国へ派遣され、ソ連国籍を持つものとしては初めてホワイトハウスを訪問し、ルーズヴェルト大統領とも面会しています。
 
 帰国後の1943年、彼女は“ソ連邦英雄”の称号を授与されます。今回ご紹介の切手は、こうした時代背景の下、彼女をモデルにして圖案が制作されたものです。

 その後、彼女に憧れる女性が狙撃手候補として赤軍に入隊しましたが、第二次大戦を通じて従軍した約2000人の女性狙撃手のうち、終戦まで生き延びたのは500人以下だったといわれています。

 さて、今回、ノーベル文学賞を受賞したアレクシエーヴィッチは、パヴリチェンコのような英雄ではなく、独ソ戦に従軍した普通の女性の戦争体験を丹念に拾い集めた『戦争は女の顔をしていない』で旧ソ連時代の1984年にデビュー。戦後、勝利の陰で忘れられていた従軍女性たちの声から、彼女たちが体験した戦争の実像を描き出して、話題になりました。その後も、独ソ戦当時子供だった人々の体験を集めた『ボタン穴から見た戦争』(1985年)、アフガニスタン侵攻に従軍した人々やその家族に取材した『アフガン帰還兵の証言』(1991年)、チェルノブイリ原発事故に取材した『チェルノブイリの祈り』(1997年)など、市井の人々の心の声や小さな記憶を集めて伝えるドキュメンタリーを書きつづけています。

 なお、現在、彼女はベラルーシ国籍ですが、ベラルーシのルカチェンコ政権は、現在なおチェルノブイリの事故に対する言論統制が敷かれていることもあり、『チェルノブイリの祈り』のベラルーシでの出版は許されておらず、こうしたことも、今回の受賞の一要因になっているのかもしれません。

 * 昨日(8日)のトークイベント「切手に見る美女たち」のご案内は、無事、盛況裏に終了いたしました。お集まりいただきました皆様、スタッフの方々には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。


 ★★★ 講座「アウシュヴィッツの手紙」(10月16日)のご案内 ★★★ 

     ポーランド・アウシュヴィッツ解放30年   アウシュヴィッツの労務風景

 10月16日(金) 19:00~20:30、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、「アウシュヴィッツの手紙」と題する講座を行います。

 第二次大戦中、ポーランド南部のアウシュヴィッツ(ポーランド語名・オシフィエンチム)は、ナチス・ドイツの強制収容所が置かれ、ユダヤ人を中心に150万人以上が犠牲となった悲劇の地として知られています。今回の講座では、収容者の手紙を中心に、第二次大戦以前の状況を物語る郵便物・絵葉書、アウシュヴィッツを題材とした戦後の切手などもご紹介しつつ、さまざまな角度からアウシュヴィッツを考えてみたいと思います。

 申込方法など詳細は、こちらをご覧ください。(画像は、ポーランドが発行したアウシュヴィッツ解放30周年の記念切手、右側は収容者による労務風景を取り上げた戦後作成の絵葉書です) 皆様のご参加をお待ちしております。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『日の本切手 美女かるた』  好評発売中! ★★★ 

        税込2160円

 4月8日付の『夕刊フジ』に書評が掲載されました!

 【出版元より】
 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾンboox storee-honhontoYASASIA紀伊國屋書店セブンネットブックサービス丸善&ジュンク堂ヨドバシcom.楽天ブックスをご利用ください。


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 対独戦勝70年
2015-05-09 Sat 22:32
 1945年5月の対独戦勝70年ということで、きょう(9日)、ロシアでは記念の式典と軍事パレードが行われました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・戦勝加刷

 これは、1945年8月、ソ連が発行した戦勝加刷の記念切手で、対独戦勝記念の日付として、1945年5月9日の表示もしっかり入っています。

 ドイツ国防軍のアルフレート・ヨードル大将がフランスのランスで連合国軍司令長官ドワイト・D・アイゼンハワー元帥とドイツの降伏文書に調印したのは1945年5月7日02時41分のことでした。これにより、形式的には第二次欧州大戦は終結し、翌8日には、欧州各地で対独戦勝を祝うイベントが行われています。ちなみに、7日の文書での停戦発効時間は、中央ヨーロッパ時間で5月8日23時01分となっていました。

 しかし、ドイツに対する不信感が強かったソ連は、戦場での降伏文書だけでなく、批准文書の調印も要求。このため、5月8日、ソ連占領下のベルリンカルルスホルストの赤軍司令部(旧工兵学校兵舎)で、あらためて、ドイツの国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥と、赤軍のゲオルギー・ジューコフ元帥とテッダー元帥が降伏文書批准のための署名を行いました。調印時間はベルリン時間9日00時15分、西ヨーロッパ夏時間では8日23 時15分、モスクワ夏時間では9日02時15分でした。西側諸国の対独戦勝記念日が5月8日、ロシアを含む旧ソ連諸国が5月9日となっているのは、このためです。

 さて、きょうの記念式典で、プーチン大統領は「ナチズムと日本の軍国主義と戦った国々の代表に特別な感謝を表する」と演説したそうですが、ソ連が日ソ中立条約を破棄して日本に対して宣戦布告したのは1945年8月9日のことですから、70年前の1945年5月9日の時点では、ソ連はまだ“日本の軍国主義”とは戦っていません。

 なお、第二次大戦中のソ連に関しては、拙著『ハバロフスク』でもいろいろと取り上げておりますので、機会がありましたら,ぜひご覧いただけると幸いです。


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  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

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 モスクワ地下鉄で脱線事故
2014-07-15 Tue 21:55
 日本時間の今日(15日)昼過ぎ(現地時間では朝)、モスクワ市北西部のスラビャンスキー・ブリバール駅近くで地下鉄が脱線し、このブログを更新している時点で、20人が死亡、160人以上が負傷する大事故があったそうです。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      モスクワ地下鉄(1935)

 これは、1935年にソ連で発行された「モスクワ地下鉄開通」の記念切手のうち、地下鉄のプラットホームを描いた20コペイカ切手です。
 
 モスクワの地下鉄は、スターリン時代の“第1次5ヵ年計画”によって、1931年に最初の建設計画が決定され、翌1932年から工事がスタートしました。建設計画の策定に際しては、ロンドン、ニューヨーク、パリ、ベルリンの各地下鉄から技術支援を受けているものの、最終的な設計と建設はソ連の技術者が担当しています。

 その第1号として、ソコーリニキ=パルク・クリトゥーリ間の9.5キロを結ぶ1号線(ソコーリニチェスカヤ線)と、その分岐線としてカリーニスカヤ(現アルバーツカヤ)=スモレンスカヤ間を結ぶ2.1キロを結ぶ3号線(アルバーツコ=ポクローフスカヤ線)の計11.6キロが開通したのは1935年5月のことで、これを記念して、今回ご紹介の切手が発行されました。

 その後、モスクワの地下鉄建設は第二次大戦中も工事が継続されて延伸を重ね、1954年には環状線が完成。現在では12路線・総延長293.1キロの規模を誇り、平日の利用者8-900万人は世界一の東京に次ぐ第2位です。また、モスクワ地下鉄の最大の特徴は、多くの駅で宮殿や美術館を思わせる豪華な装飾が施されている点にあり、通勤客のみならず、多くの観光客を魅了しています。

 僕自身はモスクワへ入ったことがなく、したがって、モスクワの地下鉄にも乗ったことはないのですが、今回ご紹介の切手をはじめ、さまざまな切手を通じてなじみのある鉄道だっただけに、今回の事故は、やはりショックですね。ロシア緊急事態省の発表によると、テロの可能性がないということですが、ともかくも、亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、怪我をされた方のご快癒と、一日も早い復旧をお祈りしております。


 ★★ 講座「切手を通して学ぶ世界史:第一次世界大戦から100年 」のご案内 ★★ 

       中日・講座チラシ    中日・講座記事

 7月18日・8月29日・9月19日の3回、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、第一次大戦100年の企画として、「切手を通して学ぶ世界史」と題する講座を行います。

 講座では、ヨーロッパ、中東、日本とアジアの3つの地域に分けて、切手や絵葉書という具体的なモノの手触りを感じながら、フツーとはちょっと違った視点で第一次世界大戦の歴史とその現代における意味を読み解きます。

 詳細は、こちらをご覧ください。

 * 左の画像は講座のポスター、右は講座の内容を紹介した5月20日付『中日新聞』夕刊の記事です。どちらもクリックで拡大されますので、よろしかったらご覧ください。
 

 ★★★ 『外国切手に描かれた日本』 電子書籍で復活! ★★★

      1枚の切手には 思いがけない 真実とドラマがある

    外国切手に描かれた日本(表紙)     外国切手に描かれた日本(ポップ) 
    光文社新書 本体720円~

 アマゾン紀伊国屋書店ウェブストアなどで、6月20日から配信が開始されました。よろしくお願いします。(右側の画像は「WEB本の雑誌」で作っていただいた本書のポップです)


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 ソチ五輪開幕
2014-02-08 Sat 17:20
 ソチ五輪が開幕しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       エセントゥキ→ソチ

 これは、1946年3月15日、北コーカサスのスラヴロポリ地方エッセントゥキのサナトリウムから、ソチのサナトリウム宛に差し出された書留便です。日本語でサナトリウムというと、結核などの療養所というイメージが強いのですが、旧ソ連ならびにロシアの場合は、主として温泉付きの(療養も可能な)保養所というニュアンスで、療養とは関係なく、健常者も利用することができます。

 今回の五輪開催地となったソチは、黒海に面し、アブハジアとの国境に近い位置にあります。この地域がロシア領に編入されたのは1829年のことで、1838年、ソチ川の河口にアレキサンドリア要塞が建設されたのが、都市としての始まりとされています。

 帝政ロシア時代からソチは温泉地として知られていましたが、ソ連時代の1923年、鉄道が開通。その直後、リウマチの持病に悩んでいたスターリンは友人の勧めでソチを訪れ、市内のホスチンスキー地区内にあるマツェスタ渓谷の温泉に入ったところ、硫化水素水の効能で身体が軽くなったと感じ、以後、ソチに足しげく通うようになりました。

 当初、スターリンの定宿は、マツェスタ渓谷とアグラ滝の間の山脈に位置するミハイロフスコエ邸でしたが、その後、敷地内に建築家ミロン・メルジャノフの設計により、専用の別荘“ゼリョナヤ・ロシチャ(緑の林)”を建設。さらに、1934年には10億ルーブルを投じてソチのインフラ整備が進められ、幹線道路のスターリン大通り(現・保養地大通り)を中心に公演が造成され、一般向けのサナトリウムも数多く建設されました。今回ご紹介のカバーの宛先になっているサナトリウムも、そうした時代背景の下、建設されたものの一つでしょう。

 ちなみに、独ソ戦の勃発時、ソ連当局による公式録ではスターリンはモスクワにいたことになっていますが、近年の研究では、ソチで休暇を取っていた可能性があるとも指摘されています。もっとも、スターリンは1931年8月と9月にソチで銃撃された経験があり(ただし、1回目は泥酔した兵士による誤射で、2回目はスターリンの来訪を知らされていなかった護衛の兵士が別荘に近づいてきた“不審船”に警告射撃を行ったことによるもので、いずれも、暗殺事件ではありません)、以来、4人の影武者を置いていたといわれていますので、独ソ戦の勃発時にソチにいたのは影武者だったのかもしれません。なお、独ソ戦の勃発から終戦まで、モスクワで陣頭指揮を執っていたスタートンは、家族をゼリョナヤ・ロシチャに疎開させていました。

 現在、ゼリョナヤ・ロシチャは一般向けのミニ・ホテルおよび博物館として営業しています。スターリンの執務室も保存・公開されており、椅子には、スターリンの人形も座っているのだとか。まぁ、オリンピック開催期間中に現地を訪ねることはかないませんでしたが、近現代史に関心を持つ者としては、いずれは訪ねてみたいスポットですな。


 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★   

 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は3月4日13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。(4月以降の講座については、近々、ご案内いたします)


 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★

 『蘭印戦跡紀行』広告

 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。
 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。
 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。


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 五輪聖火、北極点に到達
2013-10-26 Sat 15:14
 2014年2月に開催予定のソチ五輪の聖火を北極点まで運んだ原子力砕氷船「戦勝50年」号が、きのう(25日)、ロシア北部ムルマンスクに帰港したことを受けて、ロシア・ソチ冬季五輪組織委員会は、五輪の聖火が今月19日に北極点に達した際の映像を公開しました。というわけで、きょうは、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       ソ連・ツェッペリン北極飛行

 これは、1931年にソ連が発行した「飛行船ツェッペリン伯号の北極飛行」の記念切手で、北極上空を飛ぶ飛行船とホッキョクグマ、ソ連の大型砕氷船マリギン号が描かれています。

 ロシア革命後の1922年4月、当時のボリシェヴィキ政権はドイツとラパロ条約を結び、両国の国交が樹立されました。ちなみに、英国がソ連と国交を樹立したのは1924年のことで、以後、イタリア、フランス、日本などが相次いで国交を樹立しましたが、米国は1933年まで国交を結んでいません。

 独ソの国交樹立は、第一次大戦後、ともに広大な領土を喪失し、国際的に孤立していた両国が、反ヴェルサイユ連合を形成するものでした。実際、ヴェルサイユ条約で軍備を厳しく制限されていたドイツは、ラパロ条約の秘密条項により、国際監視の届かないソ連領奥地のカザンやリペツクに独自の軍事施設を設け、国内での保有が禁じられていた戦車ならびに軍用機の訓練を行うとともに、その見返りとして、ソ連赤軍の教育を担当していました。

 このように、1933年にヒトラーが政権を掌握する以前のドイツとソ連とは、きわめて緊密な関係を築いており、そのことを反映するかのように、1930年には飛行船ツェッペリン伯号がモスクワへの親善飛行を行っています。

 1931年の北極飛行は、1931年7月24日、ドイツ南部のフリードリヒスハーフェンを出発してベルリンに寄港。翌25日、ベルリンを出発し、以後、スウェーデン、エストニア、フィンランドを経て、同日夜、レニングラードに到着し、(ソ連側の発表によると)10万人の市民の歓迎を受けました。

 今回ご紹介の切手は、この時、飛行船に搭載の郵便物に貼るために発行されたものです。このときの北極飛行の経費の相当部分は、今回ご紹介の切手を貼ったエアメールによって調達されましたが、その量は重さにして約270ポンド(122.47キロ)、数にして約5万通の郵便物でした。

 飛行船は、26日にレニングラードを発って北極点をめざし、翌27日、北極海フランツ・ヨーゼフ諸島のフッカー島(グケラ島とも)に到着。ここで、レニングラードで積み込まれた郵袋はソ連の砕氷船マリギン号に引き渡され、その後は、通常のルートでそれぞれの宛先地まで運ばれました。

 その後、一行は調査・測量(このときの飛行では、空から北極圏の地形を確認したことで、従来の地図を大きく修正するなどの成果をあげています)などを行いながら、同日深夜、今回の飛行で最北の地となるプリンス・ルドルフ島に到達。7月30日未明にレニングラード、同日夜にベルリンを経て、31日、フリードリヒスハーフェンに帰着しました。
 
 なお、1930年代のソ連切手との飛行船の関係については、拙著『事情のある国の切手ほど面白い』でも取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。
 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

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 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

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 また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。


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 チェーホフのすゝめ
2013-06-14 Fri 14:02
 詩人、中原中也が友人に宛ててチェーホフの「黒衣の僧」を勧めた書簡が新たに見つかり、あす(15日)から県立神奈川近代文学館で開かれる企画展「中原中也の手紙」で公開されるそうです。というわけで、チェーホフといえば、やはりこの切手がお勧めでしょうか。

       チェーホフ100年

 これは、1940年にソ連が発行したチェーホフ生誕80周年の記念切手です。

 文豪、アントン・チェーホフは1860年生まれ。1884年にモスクワ大学医学部を卒業して医師の資格を得た後、医師と作家の二足のわらじの生活を送っていました。当初、彼は生活費を稼ぐために短篇のユーモア小説を量産していましたが、1886年に老作家ドミートリイ・グリゴローヴィチの忠告を受けて本格的な長篇に取り組み、1887年、初の本格的な長編戯曲『イワーノフ』を発表。その成功により、一躍、文壇の寵児となりました。

 その後、チェーホフは1890年4月から12月まで、サハリン(当時は全島がロシア領)での流刑囚の実態調査のため、モスクワから9000キロの大旅行を行いましたが、その過程でハバロフスクにも立ち寄っています。そして、サハリンから戻った彼は、道中の記録や調査の結果を『シベリアの旅』、『サハリン島』として順次発表することになりますが、この『サハリン島』が作家チェーホフの天気になったとする専門家は多いようです。

 その際、彼は、ハバロフスクで帝政ロシア駐屯軍の将校集会所が置かれていた建物の特別室に宿泊しましたが、その建物は、現在、極東ロシアでも有数の美術館とされている極東美術館として利用されており、入口のところには下のようなレリーフが掲げられています。(右側には、博物館の前景の写真も貼っておきます)

      チェーホフ・レリーフ     ハバロフスク・極東美術館(前景)

 
 ちなみに、チェーホフが泊っていたのは建物の南側、坂の上の方にあたる部分で、美術館としては展示スペースではなく、事務所や収蔵品の保管庫などとして使われています。

 なお、チェーホフが泊まっていた建物とその現状については、拙著『ハバロフスク』でも詳しくご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 週末はヨーロッパ切手展へ!
2013-01-19 Sat 08:56
 きょう・あす(19・20日)、東京・目白の切手の博物館にて「第一回ヨーロッパ切手展」が開催されます。今回のお題は“黒海”で、内藤も、北カフカース(コーカサス)を題材としたミニ・コレクションを展示します。というわけで、その作品の中からこのマテリアルをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

        コーカサス観光宣伝

 これは、1930年にソ連で発行されたカフカース旅行を宣伝するインツーリスト(ソ連国営旅行社)の広告付き葉書です。

 カフカース(英名:コーカサス)は、カスピ海と黒海に挟まれた地域で、アゾフ海=マヌイチ低地=クマ川を結ぶ線が北限、トルコ=イラン国境が南限です。大カフカース山脈の分水嶺を境に南北に分けられ、基本的に、北カフカースはロシア領、南カフカースはグルジア・アルメニア・アゼルバイジャン三国で構成されています。

 北カフカースは、ロシアの連邦構成主体でいうと、クラスノダール地方(来年の冬季五輪の開催地・ソチのある地域です)とスタヴロポリ地方の二つの“地方(Край)”のほかに、西から東の順に、アディゲ共和国、カラチャイ・チェルケス共和国、カバルダ・バルカル共和国、北オセチア・アラニヤ共和国、イングーシ共和国、チェチェン共和国ダゲスタン共和国に分けられます。

 今回の僕の展示は、ロシアの連邦構成主体ごとに北カフカースの主要都市・景勝地などに関するマテリアルを紹するというもので、競争展ではないので、テーマティクないしは郵便史の作品としてルールに沿ってきっちりまとめたものというよりも、観光案内・地理案内に近い気楽な内容です。

 今日の夕方には僕も会場にいる予定ですので、是非、遊びに来てください。


 ★★★ テレビ出演のご案内:いよいよ本日です! ★★★

 テレビ朝日 2013年1月19日(土) 18:30~ 「雑学家族」

 今回は「郵便」の特集で、内藤がゲスト出演して“切手の面白さ”をウンチクとともにお話します。ご視聴可能な地域の皆様は、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。なお、放送番組の常として、大事故・大事件など突発的な事情により、番組の内容・放送時間等が変更になる可能性もありますが、予めご了承ください。(番組HPはこちらです)


 ★★★★ 第1回ヨーロッパ切手展のご案内:今日・明日開催です!! ★★★★

         ヨーロッパ切手展

 今月19・20日(土・日)の両日、東京・目白の切手の博物館にて「第一回ヨーロッパ切手展」が開催されます。今回のお題は“黒海”で、内藤も、北カフカース(コーカサス)を題材としたミニ・コレクションを展示します。競争展ではないので、テーマティクないしは郵便史の作品としてルールに沿ってきっちりまとめたものというよりも、北カフカースに関するマテリアルをいろいろとご紹介するという気楽な内容です。僕以外のコレクションはかなり見ごたえのある内容になっておりますので、よろしかったら、ぜひ遊びに来ていただけると幸いです。


 【世界切手展BRASILIANA 2013のご案内】

 僕が日本コミッショナーを仰せつかっている世界切手展 <BRASILIANA 2013> の作品募集要項が発表になりました。国内での応募受付は2月1―14日(必着)です。詳細はこちらをご覧ください。


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 なお、本書をご自身の関係するメディアで取り上げたい、または、取り上げることを検討したい、という方は、是非、ご連絡ください。資料を急送いたします。

 
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