2021-07-17 Sat 03:27
東京五輪選手村の韓国選手団居住棟に太極旗と共に李舜臣将軍の言とされる「今臣戦船、尚有十二、舜臣不死(今、臣にはまだ戦船12隻が残っております。舜臣は死んでいません)」をもじった「臣にはまだ5000万国民の応援と支持が残っております」との文言の横断幕が掲げられていたことが明らかになり、「“反日横断幕”はオリンピック憲章が禁止する政治的利用に該当するのでは?」などと物議をかもしています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年9月10日、米軍政下の南朝鮮で発行された10ウォン切手で、李舜臣の肖像が取り上げられています。 米軍政下の南朝鮮では、当初、無加刷の日本切手がそのまま使われていましたが、1946年2月1日にハングル加刷切手が発行され、同年5月1日、最初の正刷切手として解放切手が発行されました。 解放切手は事実上の普通切手として使用されていましたが、建前としてはあくまでも“日本統治からの解放”の記念切手という扱いでした。このため、同年9月から11月にかけて、解放切手に代わってソウルの京和印刷所が製造した新普通切手が5種類発行されます。切手の図案としては解放後の南朝鮮でのナショナリズムを喚起するようなものが選ばれているほか、解放切手では額面の表示に漢数字も使われていたのに対して、この時発行された切手からは漢字はなくなり、すべてハングル表示となっています。なお、切手の原画はすべて呉周煥が制作しました。 今回ご紹介の10ウォン切手はその1枚で、“抗日の英雄”としての李舜臣は、日本からの解放を象徴する題材として取り上げられたことはいうまでもありません。もっとも、李舜臣の生前に作成された肖像画は現存していないことから、切手の肖像は原画作者の呉周煥による完全な創作です。なお、この辺りの事情については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 さて、今回の横断幕の元ネタになった「今臣戦船、尚有十二、舜臣不死」は、1597年9月16日の鳴梁海戦に先立ち、李舜臣が三道(慶尚・全羅・忠清)水軍統制使に再任された際の言葉とされています。 1592‐93年の文禄の役の後、日本と明の和平交渉は決裂し、1597年2月、秀吉は「全羅道を徹底的に撃滅し、さらに忠清道にも進撃すべきこと」、「これを達成した後は守備担当の武将を定め、帰国予定の武将を中心として築城すること」を命じる軍令を発しました。これを受けて、同年5-6月、日本側の主力は渡海。7月15日の漆川梁海戦で朝鮮水軍をほぼ壊滅状態に追い込んだ後、左軍と右軍の二手に分かれて全羅道に向けて進撃し、8月15日には左軍が南原城を、翌16日には右軍が黄石山城を陥落させました。さらに、8月19日には両軍が全羅道の主府全州を占領。順調に作戦を進め、9月中旬には全羅道攻略戦は同道の南部を残すのみとなっていました。 ところで、文禄の役の際に亀甲船を率いて戦果を挙げた李舜臣は、1593年に三道水軍統制使に任じられましたが、慶弔の役直前の1597年1月、慶尚右道水軍節度使の元均らの中傷により無実の罪で捕らえられ、将軍から兵卒に身分を落とされていました。しかし、漆川梁海戦で元均が戦死したことから復権し、三道水軍統制使に再任されます。 その際、右水営に残った朝鮮水軍わずか12(または13)隻しかなく、戦力は圧倒的に劣勢でしたが、李舜臣は国王・宣祖に対して「今臣戦船、尚有十二、舜臣不死」 と上奏文を奉じたとされています。 もっとも、いかに李舜臣が軍事の才にすぐれていたとしても、日朝間の戦力差はいかんともしがたかったため、朝鮮水軍は日本水軍の先鋒30隻を攻撃し(李舜臣本人による『乱中日記』には「賊船三十隻撞破」との記述があります)、ある程度の打撃を与えた後、北方の古群山島付近まで撤退。その結果、水軍の戦力はとりあえず温存されたものの、鳴梁海峡の制海権は完全に日本側が掌握することになりました。 ところが、現在の韓国では、この鳴梁海戦について「李舜臣率いる少数の朝鮮水軍が日本軍に勝利を収めた戦い」として、「日本軍330隻の船を12隻で迎え撃った」などとの伝説を信じる人が少なからずいるのがややこしいところです。じっさい、大韓体育会関係者もこうした“誤解”に基づき、「今大会は日本で開催するだけに、特別なメッセージを準備した」、「選手たちの士気が上がるような応援文句を探していたが、ある職員の提案で当該横断幕を準備した」と述べています。 まぁ、歴史的事実を冷静に見てみれば、朝鮮王朝にとっての鳴梁海戦は、とても勝ち戦と呼べるようなものではなく、虎の子の水軍を温存するための撤退戦という性質のものだったわけですから、この横断幕が掲げられた宿舎で生活せざるを得ない選手たちこそ、「自分たちは日本を恐れ、命からがら逃げだすために東京に来たわけじゃないんだぞ」と怒っても良さそうなものなんですがねぇ。また、平素は極端なまでに“平等”にこだわるリベラル派諸氏が「民主国家の選手を“臣”扱いするのもおかしい」と騒がないのも不思議な話です。「知らぬが仏」と言ってしまえば、それまでのことなのかもしれませんけれど。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月19日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-03 Thu 02:24
きょう(3日)は、韓国では、建国神話で朝鮮族の祖とされる檀君王倹(以下、檀君)が即位して檀君朝鮮を建国したことを記念する“開天節”です。というわけで、この切手をもってきてみました。((画像はクリックで拡大されます)
これは、1948年8月1日、米軍政下の南朝鮮で発行された“憲法公布”の記念切手のうち、太極旗を取り上げた10ウォン切手のコーナー田型で、上部には檀君の即位を紀元とする檀紀年号(この切手の場合は4281年)がしっかり入っています。ちなみに、この切手は檀紀が入れられた最初の切手でもあります。 檀君は天神桓因の子桓雄と熊女との間に生まれたと伝えられる伝説上の人物で、西暦13世紀末に書かれた『三國遺事』によると「堯(中国の伝説上の皇帝)の即位から50年目」に即位したとされています。このほか、『東國通鑑』の記述などを根拠に、檀紀は西暦の紀元前2333年を元年と設定しています。 大韓民国政府の成立に先立ち、1948年7月17日に公布された大韓民国憲法(1948年憲法)の前文は、「我々の正当かつ自由に選挙された代表により構成された国会で檀紀4281年7月12日この憲法を制定する」と結ばれていますが、この時点では、米軍政下の南朝鮮での正式な年号表記は西暦で行われていました。ただし、今回ご紹介の切手に関しては、憲法公布という題材で、その憲法には壇紀が記されているので、切手にも檀紀の表示が入れられたものと考えられます。ちなみに、この切手の国名表示は“大韓民国郵票”となっていますが、切手が発行された1948年8月1日の時点では、“大韓民国”もまだ(正式には)存在していません。 大韓民国成立後の公文書での檀紀の使用に関しては、1948年9月25日、「年号に関する法律」(法律第4号)が制定されたことで法的な根拠が与えられました。ただし、現代韓国の檀紀は、西暦の紀元前2333年を紀元としてはいるものの、暦法としては太陽暦を採用しており、その意味では、太陰暦に依拠していたはずの古代朝鮮の暦との連続性はありません。 以後、1961年末に朴正煕政権下で年号廃止の法令が制定され、西暦に一本化されるまで、韓国の公文書には壇紀での日附が使用されており、国内向け郵便物の消印にも檀紀年号(の下2桁)が使用されていました。 なお、このあたりの事情については、拙著『朝鮮戦争』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 * 昨晩(2日)、アクセスカウンターが210万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年10月13日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-04-02 Mon 11:18
ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』3月21日号が発行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回は韓国(と一部ルワンダ)を取り上げました。その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、大韓民国成立以前の1946年10月5日、米軍政下の南朝鮮で発行された瞻星台の50チョン切手です。 米軍政下の南朝鮮では、当初、無加刷の日本切手がそのまま使われていましたが、1946年2月1日にハングル加刷切手が発行され、同年5月1日、最初の正刷切手として解放切手が発行されました。 解放切手は、事実上の普通切手として発行されましたが、名目上は記念切手でしたので、1946年9月以降、ソウルの京和印刷所が製造した新普通切手の発行が始まります。今回ご紹介の瞻星台の切手はその1枚です。 切手に取り上げられた瞻星台は慶州にある東洋最古の天文台とされている遺構で、高さは9.17メートル。円筒形で下から4.16メートルの場所に1メートル四方の出入口があります。新羅最初の女王である善徳女王(在位632-47年)の時代に建立されたと考えられており、1962年に国宝に指定されました。ただし、建物の性格については諸説あり、天文台ではなく、仏教の祭壇ないしは巨大な日時計ではないかとの説もあります。 なお、数多ある朝鮮の文化財のうち、あえて三国時代の新羅の遺構である瞻星台が切手に取り上げられた背景には、西暦4世紀以降、北緯38度線以南の朝鮮半島南東部を拠点に出発した新羅が、676年、朝鮮半島をほぼ統一することに成功した歴史的経緯に倣って、米軍政下の南朝鮮も将来的に南北統一の独立国家へと発展的に解消されるべきであるとの寓意が込められていたと考えることも可能かもしれません。 さて、『世界の切手コレクション』3月21日号の「世界の国々」では、竹島問題についての長文コラムのほか、金剛山、韓国の農業、日本側で発行された日韓国交正常化50周年記念の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。また、同氏の内容を補足するものとして、あわせて、拙著『朝鮮戦争』もご覧いただけると幸いです。 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回の韓国の次は、3月28日発売の4月4日号での東ドイツの特集になります。こちらについては、発行日の4日以降、このブログでもご紹介する予定です。 * 東京・目白の切手の博物館で開催の第9回テーマティク研究会切手展は、昨日、無事に終了いたしました。ご来場の皆様並びにスタッフ関係者の皆様には、この場をお借りして、お礼申し上げます。 ★★★ トークイベントのご案内 ★★★ <ヒロシマ トークセッション連続講座 アウシュヴィッツの手紙・戦争と切手> 4月7日(土)13:00-16:00 於・ (公財) 愛恵福祉支援財団(東京都北区中里 2-6-1愛恵ビル3F) 資料代 1,000 円 (当日会場で集めます) 会場と資料準備の関係で必ず、下記宛に事前の申し込みをお願いします。 申込先 竹内 良男(qq2g2vdd★vanilla.ocn.ne.jp スパム防止のため、送信の際は★を@にしてください) ★★★ ツイキャス出演のお知らせ ★★★ 4月8日(日)22:00~ 拉致被害者全員奪還ツイキャスのゲストで内藤が出演しますので、よろしかったら、ぜひ、こちらをクリックしてお聴きください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-10-03 Tue 12:08
きょう(3日)は、韓国では、建国神話で朝鮮族の祖とされる檀君王倹(以下、檀君)が即位して檀君朝鮮を建国したことを記念する“開天節”だそうです。檀君の即位を紀元とする檀君起源(檀紀)によると、西暦2017年は4350年だということなので、きょうは、こんなモノをもってきてみました。((画像はクリックで拡大されます)
これは、1948年8月1日、米軍政下の南朝鮮で発行された“憲法公布”の記念切手に、発行初日の日付の記念印を押したオンピースです。“憲法公布”の記念切手は、南朝鮮・韓国を通じて、壇紀の年号(この切手の場合は4281年)が記された最初の切手ですが、押されている記念印の年号は西暦で1948年となっているのがミソです。 さて、檀君は天神桓因の子桓雄と熊女との間に生まれたと伝えられる伝説上の人物で、西暦13世紀末に書かれた『三國遺事』によると「堯(中国の伝説上の皇帝)の即位から50年目」に即位したとされています。このほか、『東國通鑑』の記述などを根拠に、檀紀は西暦の紀元前2333年を元年と設定しています。 大韓民国政府の成立に先立ち、1948年7月17日に公布された大韓民国憲法(1948年憲法)の前文は、「我々の正当かつ自由に選挙された代表により構成された国会で檀紀4281年7月12日この憲法を制定する」と結ばれていますが、この時点では、米軍政下の南朝鮮での正式な年号表記は西暦で行われていました。ただし、今回ご紹介の切手に関しては、憲法公布という題材で、その憲法には壇紀が記されているので、切手にも檀紀の表示が入れられたものと考えられます。ちなみに、この切手の国名表示は“大韓民国郵票”となっていますが、切手が発行された1948年8月1日の時点では、“大韓民国”もまだ(正式には)存在していません。 大韓民国成立後の公文書での檀紀の使用に関しては、1948年9月25日、「年号に関する法律」(法律第4号)が制定されたことで法的な根拠が与えられました。ただし、現代韓国の檀紀は、西暦の紀元前2333年を紀元としてはいるものの、暦法としては太陽暦を採用しており、その意味では、太陰暦に依拠していたはずの古代朝鮮の暦との連続性はありません。 以後、1961年末に朴正煕政権下で年号廃止の法令が制定され、西暦に一本化されるまで、韓国の公文書には壇紀での日附が使用されており、国内向けの郵便物の消印にも檀紀年号(の下2桁)が使用されていました。 なお、このあたりの事情については、拙著『朝鮮戦争』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は5日!★★ 10月5日(木)16:05~ NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第9回が放送予定です。今回は、10月9日に没後50周年を迎えるチェ・ゲバラの切手にスポットを当ててお話をする予定ですので、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★ 明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。 現在、出品作品を11月10日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2016-10-09 Sun 11:38
きょう(9日)は、1446年10月9日(世宗28年9月10日)に朝鮮王朝の世宗が朝鮮語を表記するための文字(以下、ハングル)の解説書『訓民正音』を頒布したことにちなみ、韓国では“ハングルの日”の祝日です。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年10月9日、米軍政下の南朝鮮(大韓民国はまだ発足していません)で発行された“ハングル500年”の記念切手で、ハングルの文字表が取り上げられています。ちなみに、北朝鮮では朝鮮語を表記するための文字は“チョソングル”と呼んでおり、ハングルが作成された世宗25年12月(日付不明)が西暦でほぼ1444年1月に相当することから、1月の中間の日である1月15日を“チョソングルの日”としています。 さて、朝鮮語を表記するための独自の文字は、古くは“諺文”の通称で呼ばれていましたが、それが“ハングル”の名で呼ばれるようになったのは、日本統治時代の1912年以降のことで、その由来は“偉大なる文字”の意味とも、“韓の文字”の意味ともいわれています。その後、1921年に結成された朝鮮語研究会(現ハングル学会)は、1927年に雑誌『ハングル』を刊行し、さらに翌1928年に“ハングルの日”を制定(1926年以来、ハングルの覚え歌である「カギャコギョ(가갸거겨)」にちなんで行われていた“カギャの日”から改称)するなどして普及活動に努めたことから、しだいに諺文よりもハングルの呼称が定着しました。 1910年の韓国併合当時、朝鮮の識字率は非常に低かったため、朝鮮総督府は、日本語による学校教育と併行して、初等教育での諺文(朝鮮総督府としては、1945年までハングルという呼称は正式には使用していません)の使用を推進。この結果、漢字とハングルの混用という文体が急速に普及し、朝鮮内の識字率も飛躍的に向上します。なお、日本統治時代は朝鮮人によるハングルの使用が厳しく制限されていたという人がときどきいますが、それは歴史的事実と異なり、多くの朝鮮人はハングルを日常的に使用しており、日本統治時代にハングルで書かれた葉書も少なからず残されています。 ところが、1945年の解放後、日本語が漢字を使用していることにくわえ、新羅以来の中国への従属の歴史への反発などもあって、漢字を排斥し、朝鮮語をハングルのみで表記しようとする機運が南北朝鮮で盛り上がりました。 早くも1945年9月には、1942年以降活動休止に追い込まれていた朝鮮語学会(1931年に朝鮮語研究会から改称)は国語講習会を開催し、9月29日、「漢字廃止実行会発起趣旨書」を発表。日本の敗戦の原因は漢字かな交じり文の非効率性にも一因があり、漢字学習の時間を減らして、その分を科学教育に割り当てるべきとする日本の国語学者・保科孝一の言説(戦後日本の国語審議会が推進した“漢字制限”は、こうした発想によるものです)に依拠しつつ、①初等教育からの漢字の除外(ただし、中等教育以上においては、古典研究のため漢字教育を否定しない)、②日常の文章からの漢字の排除、③新聞・雑誌からの漢字の排除、④書簡封筒・名刺・表札の純ハングル化、⑤古今東西のあらゆる書籍のハングルによる翻訳、を活動目標として掲げました。 これを受けて、11月30日、ソウル市寿松町の淑明女子校講堂で漢字廃止実行会発起準備会が正式に発足。軍政庁に対して初等学校教科書から漢字を廃止するよう建議します。 一方、軍政庁でも、教育部門の責任者であったロッカード大尉の補佐官として文教部長に就任した呉天錫や、呉の推挙により朝鮮語学会の常務理事から学務局編修課長となった崔鉉培により、朝鮮語学会の唱えるハングル専用路線が文教政策の柱として採用される環境が整えられていきました。 かくして、軍政庁は朝鮮語学会の建議を受けて、ハングル専用を指示。1948年8月に大韓民国が正式に発足すると、ハングル専用法が公布され、漢字廃止運動は国家の制度として動き始めることになります。今回ご紹介の切手も、そうしたプロセスにおいて、軍政庁の政策を周知宣伝するための一手段として発行されたものと考えてよいでしょう。 なお、このあたりの事情については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 講座のご案内 ★★★ 11月17日(木) 10:30-12:00、東京・竹橋の毎日文化センターにてユダヤとアメリカと題する一日講座を行います。詳細は講座名をクリックしてご覧ください。ぜひ、よろしくお願いします。 ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました! ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2015-09-08 Tue 12:31
ご報告が遅くなりましたが、 『東洋経済日報』8月17日号が発行されました。今回は、韓国にとっての“解放70年”に近い刊行日でしたので、こんなモノをご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、解放切手に押された、発行初日(1946年5月1日)の“米軍政庁構内郵便局”の消印です。 1945年8月15日、大日本帝国の降伏が発表されると、当時の朝鮮総督であった阿部信行と朝鮮軍司令官の上月良夫は、朝鮮総督府の屋根から日章旗を下ろし、太極旗を掲揚させました。敗戦によ日本の朝鮮統治が終了することを意識しての行動でしたが、法手続き上は、連合軍が進駐してくるまで、朝鮮総督府は従前どおり、朝鮮の治安と社会秩序に責任を負わねばなりません。 一方、朝鮮各地では日本支配からの解放を喜ぶ高揚した気分があふれ、戦前からの独立運動家であった呂運亨は、早くも8月15日夜、朝鮮建国準備委員会(建準)を組織して委員長に就任。日本留学を経験した宋鎮禹・曺晩植・金性洙・安在鴻ら知日派を糾合して、日本とも提携の上で独立朝鮮の国家建設を行うとの青写真を描いていました。 このため、日本降伏後の政治的空白から朝鮮が無政府状態に陥ることを懸念した朝鮮総督府政務総監の遠藤柳作は呂を呼んで、民衆保護のための協力を要請。この要請は、あくまでも、遠藤と呂の個人的な関係に基づくもので、法的な裏付けは何もなかったのですが、呂らは、朝鮮総督府から行政権の移譲を受けたと理解(“誤解”というべきかもしれません)し、政治犯の釈放などを行います。 9月2日、東京湾に停泊していた米軍艦ミズーリ号上で降伏文書が正式に調印され、その後、連合国側で各地の日本軍の降伏を受理する担当割を決めた“一般命令第一号”が発せられ、朝鮮半島は、とりあえず、北緯38度線を境として、北側はソ連が、南側は米国が進駐して日本軍の武装解除と行政機構の接収を行い、軍政を施行するとの方針が発表されました。 この時点で、米国は、米軍が南朝鮮に進駐するまでは日本の朝鮮総督が従来通り、南朝鮮の行政実務に責任を負うのが当然という理解です。 ところが、解放イコール即時完全独立と無邪気に考えていた建準には、そうした認識は全くなく、9月6日夜、朝鮮人民共和国の樹立を宣言。人民共和国は、あらゆる党派の政治指導者を網羅的に主要閣僚として指名していましたが、主席に指名された李承晩をはじめ、そのほとんどは未だ朝鮮に帰国さえしておらず、組織としての実体はなきに等しいものでした。当然、人民共和国が朝鮮総督府に代わって社会の秩序と安定を維持できるはずもなく、日々治安が悪化していく状況を目の当たりにして茫然自失の朝鮮総督府は、朝鮮進駐の準備を進めていた米陸軍第10 軍第24 軍団のホッジ司令官に対して、「朝鮮の治安が急速に悪化しているので、一刻も早く米軍に進駐してもらいたい」と報告します。 かくして、9月5日、第24 軍団が沖縄から朝鮮に向けて出発。同8日、米軍は仁川港に上陸し、翌9日早朝、京城へ進駐。ホッジらは朝鮮総督府第一会議室で日本側・朝鮮総督の阿部信行らと降伏文書に署名しました。この間、8日に在朝鮮米陸軍司令部軍政庁(以下、米軍政庁)が発足し、9日付でホッジは軍政長官として朝鮮における米陸軍最高司令官の全権を委任されています。 就任に当たり、ホッジは「現行政府の機構を通じて施行することが必要である」との声明を発表。建準と朝鮮人民共和国を否定し、旧朝鮮総督府の機構とスタッフを基本的に継承する“現状維持”の意向を示しました。 しかし、“独立”気分が高揚していた社会の空気に冷や水を浴びせるようなホッジの対応は、朝鮮人の感情を逆なでし、米軍に対する彼らの信頼感は大きく損なわれます。このため、米国務省やマッカーサーの指示もあり、9月12日、ホッジは朝鮮総督府を廃止して日本人官吏を解任。アーノルド少将を長官として、米軍政庁による直接統治を実施することとしました。 こうして、1948年8月の大韓民国政府の正式発足までの米軍政期が開幕するわけですが、この間、米軍政庁のオフィスとしては旧朝鮮総督府庁舎が使われていました。 ちなみに、旧朝鮮総督府時代、総督府の庁舎内には郵便局がありましたが、この建物が米軍政庁となった後も郵便局は業務を継続しています。ただし、局名は“軍政廳構内郵便局”と変更されましたが…。 このあたりの事情については、拙著『朝鮮戦争』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★ 10月から毎月1回(原則第1火曜日:10月6日、11月 3日、12月1日、1月5日、2月2日、3月1日)、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で下記の一般向けの教養講座を担当します。(下の青い文字をクリックしていただくと、よみうりカルチャーのサイトに飛びます) ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。 初回開催は10月6日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『日の本切手 美女かるた』 好評発売中! ★★★ 税込2160円 4月8日付の『夕刊フジ』に書評が掲載されました! 【出版元より】 “日の本”の切手は美女揃い! ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え! <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾン、boox store、e-hon、honto、YASASIA、紀伊國屋書店、セブンネット、ブックサービス、丸善&ジュンク堂、ヨドバシcom.、楽天ブックスをご利用ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2015-04-17 Fri 11:37
1895年4月17日に日清戦争の講和条約として下関条約が調印されてから、きょうでちょうど120年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、大韓民国成立直前の1948年4月10日、米軍政下の南朝鮮過渡政府が発行した独立門の20ウォン切手です。 長年にわたって清朝を宗主国とし、事実上の鎖国体制を採ってきた朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、1876年に日朝修好条規を結んで開国。その後、列強諸国の圧力に対して、清朝の属国としての地位から脱して近代独立国家の建設を目指すべきだという勢力(開化派)と、清朝との関係を維持・強化することで危機を脱すべきと考える勢力(事大派)が対立していました。こうした朝鮮国内の対立は、朝鮮半島の権益をめぐる各国の対立ともリンクし、1894年には日清戦争を引き起こしています。 日清戦争は、朝鮮での農民反乱の鎮圧をめぐる両国の対立が直接の発端となったことにみられるように、朝鮮に対する清朝の宗主権を認めるか否かというのが最大の焦点でしたが、戦争は日本の勝利に終わり、清朝は朝鮮に対する宗主権を放棄して朝鮮が独立国であることを承認。朝鮮からの朝貢なども廃止されます。下関条約の第一条が「清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する」となっているのは、こうした経緯によるものです。 清朝の属国ではなくなったことを受け、朝鮮ではいつまでも属国の首長である“国王”を名乗るのはおかしいということになり、国王を皇帝となり、国号は大韓帝国と改められました。 その一環として、ソウル4大門の一つで、清朝の使節を迎えるための門として迎恩門とも呼ばれていた西大門と清朝への服属のシンボルであった大清皇帝功徳碑などを破壊し、その隣に建てられたのが、切手に描かれている独立門であす。 門は、徐載弼の案をもとにロシア人建築家のアファナシー・イバノビッチ・セレディン=サバチンが設計施工。パリの凱旋門をモデルに、高さ14.28m、幅11.48mで、約1850個の御影石が用いられています。建設費用は、開化派の団体である独立教会が中心となり民間の浄財を募り、1897年11月20日の完成時には、新生大韓帝国の臣民によって独立を祝賀する式典も行われました。 もともとは、現在の位置より東南に70mほど離れた場所にありましたが、1979年、高速道路の建設により現在の場所に移設されました。本来は、迎恩門の跡である2本の柱と独立門の間にはそこそこの距離がありましたが、移設に際して両者は近接するようになり、現在では下の写真のような位置関係になっています。 現在の韓国では、しばしば「独立門は日本からの独立を記念して建てられた門」という誤解が(ある種意図的に)広まっていますが、上述のように、本来は、清朝からの独立を記念して建てられたものであり、間接的には、日清戦争での日本の勝利を記念する門とみなすことさえできます。すくなくとも、今回ご紹介の切手が発行された1948年の時点では、この門が日本からの“解放”を記念して建てられたものではないことは、南北を問わず、全朝鮮人がしっかりと認識していたことは間違いありません。したがって、独立門こそは“日韓友好”の象徴ともいうべきものなのだと僕は思うのですが…。 なお、このあたりの事情については、拙著『朝鮮戦争』でもいろいろ書きましたので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ イベントのご案内 ★★★ ・4月25日(土) 11:00-12:00 スタンプショウ 於 東京都立産業貿易センター台東館(浅草) 特設会場 出版記念のトークを行います。入場は完全に無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。スタンプショウについての詳細はこちらをご覧ください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『日の本切手 美女かるた』 発売! ★★★ 税込2160円 4月8日付の『夕刊フジ』書評が掲載されました! 【出版元より】 “日の本”の切手は美女揃い! ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え! <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾン、boox store、e-hon、honto、YASASIA、紀伊國屋書店、セブンネット、ブックサービス、丸善&ジュンク堂、ヨドバシcom.、楽天ブックスをご利用ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2014-09-04 Thu 18:41
きのう(3日)発足した第2次安倍改造内閣で入閣した政治家のプロフィールを見ていたら、女性活躍相として初入閣した有村治子議員(以下、敬称略)の“先祖”は東郷平八郎なのだそうです。というわけで、東郷元帥がらみでこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年2月1日、米軍政下の南朝鮮で発行された暫定切手で、日本時代の東郷平八郎の5銭切手に、ハングルで“朝鮮/郵票/5錢”の文字が加刷されています。 1945年の日本の敗戦に伴い、日本時代の朝鮮銀行は解体されて米ソそれぞれの軍政府に接収され、米軍政下の南朝鮮では、軍政部の管理下で朝鮮銀行画業鵜を継続し(ただし、1945年9月末をもって日本人の総裁は解任されています)、引き続き、朝鮮銀行券(旧ウォン)を発行していました。 米軍政下で朝鮮銀行が発行していた旧ウォンは、当初、日本銀行券(日本円)と等価で、対米ドルの交換レートは1ドル=15円=15ウォンでした。このため、日本時代の切手・はがきをそのまま使用していても実務上の不都合はありませんでした。 ただし、その後の南朝鮮では、日本以上に急激にインフレが進行したため、日本円に比べて、旧ウォンの価値は下落し、両者の為替差が拡大していくことになります。たとえば、1945年8月15日時点では、日本国内の書状基本料金は10銭、南朝鮮内の書状基本料金は10チョンで等価ですが、1年後の1946年8月12日、南朝鮮の書状基本料金は一挙に5倍の50チョンに値上げされています。ちなみに、日本国内の書状基本料金は1946年7月25日に値上げされて30銭になっていますが、郵便料金の値上げ率から単純計算すると、南朝鮮のインフレは日本の1・6倍のスピードで昂進していたという計算になります。 こうした状況の下では、南朝鮮で日本時代の切手を、日本円と等価という名目の旧ウォンで販売し続ければ、為替差損・差益が大きくなり、不都合が生じることになります。 また、そうした経済的な事情とは別に、切手の発行を権力の象徴と捉えてみると、“解放後”の朝鮮で、いつまでも日本時代の切手をそのまま流通させていることは、新たな支配者となった米軍政庁にとって望ましいこととはいえません。このため、(朝鮮における)日本支配の終焉を人々に強烈に印象づけるうえで“儀式”として、菊花紋章と大日本帝国郵便の表示がある切手の上にハングルを黒々と加刷することは、同じ時期に日本国内で行われていた墨塗り教科書同様、体制の転換を可視化するうえで必要な演出だったといえます。 南朝鮮の暫定加刷切手は、こうした背景の下で発行されたものですが、実際には、額面が5チョン(2種類:葉書料金に相当)、10チョン(書状基本料金に相当)、20チョン、30チョン(書留料金に相当)、5ウォンのものしかなく、最も需要が見込まれる書状基本料金用の10チョン切手でさえ68万枚しか発行されていません。これでは、とうてい、民間の需要を満たすことは不可能で、米軍政庁は、暫定切手を発行した後も、加刷のない日本時代の切手を当面有効としています。その後、1946年5月1日に“解放切手”が発行されたことで、ようやく、同年6月30日限りで、日本切手および日本切手にハングルを加刷した暫定切手は、いずれも無効とされました。 さて、有村新大臣と東郷平八郎の関係ですが、よくよく調べてみると、彼女は、東郷平八郎の義父にあたる有村俊斎の弟の家系だそうで、東郷元帥とは直接的な血のつながりはないようです。したがって、東郷平八郎の遠戚(縁戚)であることには違いないでしょうが、「先祖が東郷元帥」というのは、いささか牽強付会に過ぎると感じるのは僕だけではないはずです。 まぁ、それに比べると、今回ご紹介のハングル加刷の切手は、1945年以降の南朝鮮および大韓民国の切手の原点であることには間違いないわけで、その意味では、南朝鮮と韓国の切手はすべて“東郷平八郎の子孫”ということも可能なのでしょうが、そういうと厭な顔をする人も多いんだろうなぁ。 なお、1945年以降、米軍政下の南朝鮮から大韓民国が成立していく過程については、拙著『朝鮮戦争』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ イベントのご案内 ★★★ ・9月6日(土) 09:30- 切手市場 於 東京・日本橋富沢町8番地 綿商会館 詳細は主催者HPをご覧ください。新作の『朝鮮戦争』を中心に、拙著を担いで行商に行きます。 会場ならではの特典もご用意しております。ぜひ遊びに来てください。 ★★★ 講演会のご案内 ★★★ ~韓国文化院 講演会シリーズ2014 『韓日交流史』~ 第9回は内藤陽介「韓国の切手でひも解く韓国近現代史」 です! ◇日時:2014年9月5日(金) 開場 18:30 開演 19:00 ◇会場:韓国文化院 ハンマダンホール ◇募集人員:300名様(お申し込みはお一人様2名まで) ◇入場無料(事前のお申込みが必要です) ◇主催・お問い合わせ先:駐日韓国大使館韓国文化院 03-3357-5970 ■ 韓国文化院のホームページ・トップの 「イベント応募コーナー」欄(こちらをクリックしてください)からお申し込みいただけます。たくさんの皆様のお申し込みを心よりお待ち申しております。 * 表向き、応募の〆切は過ぎていますが、直接内藤宛にご連絡いただければ、お席は確保できます。どうぞ遠慮なく、ご連絡ください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ お待たせしました。約1年ぶりの新作です! 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました! ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2014-09-02 Tue 19:19
日本人の感覚では、いわゆる太平洋戦争の終戦の日は玉音放送のあった8月15日という認識が一般的ですが、世界的には、東京湾に停泊中のミズーリ号上で降伏文書が調印された9月2日を対日戦争の終結の日と考えている国が多数派です。というわけで、きょうは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦終結直後の1945年9月、朝鮮に進駐した米海軍の駆逐艦母艦(駆逐艦などの小型艦艇に対して消耗品などの補給や乗員の休息設備を提供するための艦艇)であった“シエラ”号から差し出された封筒で、停泊地として、“KOREA JINSEN”の表示が印刷されています。当時の彼らの認識では、仁川の発音は、あくまでも、日本語風の“ジンセン”であって、朝鮮語の“インチョン”ではなかったことがわかります。 1945年9月2日の降伏文書調印に続き、連合国軍最高司令官(ダグラス・マッカーサー)の名前で「一般命令第一号」が発せられると、朝鮮半島は北緯38度線を境界として、北側にはソ連軍が、南側には米軍が進駐し、それぞれ日本軍を武装解除し、行政機関を接収して軍政を施行することになりました。 これを受けて、1945年9月5日、沖縄にあった米陸軍第10 軍第24 軍団が朝鮮に向けて出発。同8日、米軍は仁川港に上陸し、翌9日早朝、京城へ進駐した第24軍団司令官にして在朝鮮米軍司令官のジョン・リード・ホッジ(陸軍中将)と南西太平洋方面軍海軍司令官にして第7艦隊司令官のトマス・カッシン・キンケイド(海軍大将)は、朝鮮総督府第一会議室で降伏文書に署名しました。ちなみに、日本側の署名者は、朝鮮総督の阿部信行(陸軍大将)、第17 方面軍司令官の上月良夫(陸軍中将)、鎮海警備府司令官の山口儀三朗(海軍中将)です。 日本の降伏を受理した後、ホッジは米国太平洋陸軍総司令部布告(第1-3号)を布告。その第1号は、朝鮮半島の北緯38度線以南の地域(以下、1948年の大韓民国正式発足までは“南朝鮮”がこの地域の正式な呼称となります)および同地域の住民に対し、軍政を樹立し、米国陸軍最高司令官の権限の下に当分の間、行政権を施行するとしていました。これを受けて、8日に在朝鮮米陸軍司令部軍政庁(以下、米軍政庁)が発足し、9日付でホッジは軍政長官として朝鮮における米陸軍最高司令官の全権を委任されています。 ホッジは、南朝鮮を統治するにあたり「現行政府の機構を通じて施行することが必要である」との声明を発表。さらに、同月11 日午後の記者会見でも、マッカーサーの個人的な意思ではなく、連合国の意思により「暫定的方便として、現存する朝鮮の行政機関を利用していく」と述べ、終戦後、呂運亨らにより組織されていた朝鮮建国準備委員会と朝鮮人民共和国を完全に否定し、旧朝鮮総督府の機構とスタッフを基本的に継承する意向を示しています。 長らく異民族=日本人の支配下にあった朝鮮人の中には、日本の敗戦が直ちに植民地支配からの解放を意味するものと考える者も少なくありませんでしたが、国際社会の認識は違っていました。彼らによれば、終戦までの朝鮮は紛れもなく“日本”の一部であり、その処分は連合国の自由な裁量に委ねられるべきだというのがコンセンサスとなっていたためです。“日本”では日本政府を通じて占領政策を行う間接統治が行われたのに対して、南朝鮮が直接軍政下に置かれたのはこうした認識によるものです。極論すれば、南朝鮮に進駐してきた米軍にとっては、南朝鮮と沖縄は、彼らが直接軍政を施行する占領地という点で本質的になんら変わったといっても良いかもしれません。今回ご紹介のカバーで、仁川のローマ字表記が日本語の詠み方を反映した“JINSEN”となっているのも、こうした事情が反映されたものとみてよいでしょう。 いずれにせよ、 日本の降伏は1946年以降にずれ込むものとながらく考えていた米国は、1945年8月の時点では、戦後の朝鮮占領について、なんら具体的なプランを策定しておらず、とりあえず南朝鮮に上陸したホッジにしても、とりあえずは“現状維持”からスタートするしかなかったというのが実情でした。そのことに伴うさまざまな混乱については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 *昨晩、カウンターが141万PVを越えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★★★ イベントのご案内 ★★★ ・9月6日(土) 09:30- 切手市場 於 東京・日本橋富沢町8番地 綿商会館 詳細は主催者HPをご覧ください。新作の『朝鮮戦争』を中心に、拙著を担いで行商に行きます。 会場ならではの特典もご用意しております。ぜひ遊びに来てください。 ★★★ 講演会のご案内 ★★★ ~韓国文化院 講演会シリーズ2014 『韓日交流史』~ 第9回は内藤陽介「韓国の切手でひも解く韓国近現代史」 です! ◇日時:2014年9月5日(金) 開場 18:30 開演 19:00 ◇会場:韓国文化院 ハンマダンホール ◇募集人員:300名様(お申し込みはお一人様2名まで) ◇入場無料(事前のお申込みが必要です) ◇主催・お問い合わせ先:駐日韓国大使館韓国文化院 03-3357-5970 ■ 韓国文化院のホームページ・トップの 「イベント応募コーナー」欄(こちらをクリックしてください)からお申し込みいただけます。たくさんの皆様のお申し込みを心よりお待ち申しております。 * 表向き、応募の〆切は過ぎていますが、直接内藤宛にご連絡いただければ、お席は確保できます。どうぞ遠慮なく、ご連絡ください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ お待たせしました。約1年ぶりの新作です! 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました! ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2014-08-18 Mon 12:33
今日(18日)は、漢字の米を分解すると“八十八”になることから、コメの日だそうです。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年11月10日、米軍政下の南朝鮮(大韓民国はまだ成立していません)で発行された1ウォン切手です。カタログなどでは図案の説明は“ムクゲ”となっていますが、よく見ると、画面の上部には稲穂が描かれているのがわかります。ちなみに、南北を問わず、朝鮮でコメに関する切手としては、これが最初の1枚です。刷色などの問題もあって、ちょっとわかりづらいので、下に、稲穂の部分を拡大した画像を貼っておきました。 1946年5月に南朝鮮で発行された解放切手は、実質的には普通切手でしたが、建前としては記念切手でした。このため、1946年9月から11月にかけて、あらためて、ソウルの京和印刷所が製造した新普通切手が5種類発行されました。今回ご紹介の切手はそのうちの1枚で、原画作者は呉周煥です。 さて、日本統治時代、朝鮮半島はその地理的な条件を生かして、北半部では鉱業や重工業を、南半部では農業や軽工業がを中心とする“南農北工”の経済開発が進められていましたが、1945年の解放当時、南朝鮮では人口の7割を農民が占めており、207万町歩の耕地面積がありました。その内訳は、自作農60%、小作農は28%、日本人の所有が12%です。 第2次大戦後、いわゆる土地改革が世界的な潮流となる中で、米国軍政庁は、1945年9月、日本時代に土地の買収と地主経営を行っていた日本の国策会社・東拓を新韓公社に改編。旧日本人所有の土地を接収し、これを管理することとします。その後、1948年3月、新韓公社の土地を農民に払い下げるために中央土地行政処が設置され、旧日本人所有の土地は、年平均生産高の3倍の価格で韓国人に払い下げられました。 これに対して、戦前からの韓国人地主の土地の分配は、政治問題化してなかなか進みませんでした。 それでも、日本でもGHQによる農地改革の結果、不在地主が一掃されていたことにくわえ、ソ連占領下の北朝鮮では、1946年3月の土地改革で、日本人や親日派の所有地と、5町歩以上の朝鮮人地主の所有地、さらに全ての継続小作地が無償で没収され、土地なき農民に分配されていたこともあり、1948年8月に発足した韓国政府も、なんらかのかたちで土地改革(農地改革)を行い、自作農を創設する必要に迫られるようになります。 結局、李承晩政権は、1949年9月、有償没収・有償分配を原則とする農地改革法を制定。自作農の創設と土地資本の産業資本への転化を期待して、年収穫量の150%を補償価格とする地価證券を地主に交付するという農地改革が実施されました。しかし、翌1950年に勃発した朝鮮戦争により、結局、補償はうやむやにされ、戦争による耕地の荒廃という外的な要因も加わって、農地改革は地主層を没落させただけで、所期の目標はほとんど達せられないままに終わってしまいました。 なお、このあたりの事情については、拙著『朝鮮戦争』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 講演会のご案内 ★★★ ~韓国文化院 講演会シリーズ2014 『韓日交流史』~ 第9回は内藤陽介「韓国の切手でひも解く韓国近現代史」 です! ◇日時:2014年9月5日(金) 開場 18:30 開演 19:00 ◇会場:韓国文化院 ハンマダンホール ◇募集人員:300名様(お申し込みはお一人様2名まで) ◇入場無料(事前のお申込みが必要です) ◇主催・お問い合わせ先:駐日韓国大使館韓国文化院 03-3357-5970 ■ 韓国文化院のホームページ・トップの 「イベント応募コーナー」欄(こちらをクリックしてください)からお申し込みいただけます。たくさんの皆様のお申し込みを心よりお待ち申しております。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ お待たせしました。約1年ぶりの新作です! 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-08-23 Thu 16:25
韓国政府は、きょう(23日)中に、今月17日に野田首相が李明博大統領に送った親書(大統領の竹島訪問などに遺憾の意を表明し、領有権問題を国際司法裁判所に共同付託して解決する案を韓国側に提起する内容)について、東京の韓国大使館を通じて返戻するのだそうです。というわけで、きょうは韓国がらみの返戻カバーの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年5月、米軍政下の南朝鮮(まだ大韓民国は成立していません)で全州からソウル宛に差し出されたものの、差出人戻しになった郵便物です。画像の左側は付箋を貼った全体像、右側は付箋をめくって切手と日本語の文言をスキャンしたものです。 第2次大戦直後の南朝鮮では、米軍が進駐した1945年9月以降も日本時代の切手がそのまま流通していましたが、1946年2月1日、日本時代の昭和切手にハングルを加刷した暫定切手が発行されました。さらに、同年5月1日には、米軍政下の最初の正刷切手として“解放切手”が発行されます。これを受け、同年6月30日限りで無加刷の日本切手とハングル加刷の暫定切手はともに使用禁止となりました。逆に、このことは、1946年6月30日までは、米軍政下の南朝鮮でも日本時代の切手はそのまま有効だったということになります。 さて、今回のカバーですが、差出地の全州の日付印はほとんど読めませんが、到着地の京城中央の印は1946年5月16日の日付がしっかり読めます。したがって、制度的には、この時点では貼られている日本時代の30銭切手は有効なはずなのですが、この郵便物を取り扱った光化門郵便局は、すでに解放切手が発行されていることもあって、日本切手は無効と誤認。「此ノ郵便物ハ料金貼付ヲ御忘レエニナツタモノト思ハレマスカラ一應御返シ致シマス」と事情を説明した付箋を貼って、差出人に返戻してしまいました。 余談ですが、付箋の事務的な文言は、それが事務的であるがゆえに、誰もが理解できるように記されていなければなりません。光化門郵便局の現場では、当時の南朝鮮社会の現実ではハングルよりも日本語のほうが汎用性が高いと判断したからこそ、付箋での事情説明には韓国語ではなく日本語を用いたものと考えられます。同様に、“京城中央”という消印の地名表示も、日本時代との歴史的な連続性を示すものと言ってよいでしょう。 さて、今回の親書返戻の理由として、韓国側は「大統領が訪問したのは、親書に書かれている“竹島”ではなく“独島”であり、親書の指摘が事実ではないため」と説明しているそうですが、誰がなんと言おうと、(島根県の)竹島は竹島ですからねぇ。まぁ、間違った理解に基づき、手紙を返礼してしまうというのは、66年前から変わっていないというわけですな。 なお、報道などでは、親書を“返送”と表現していますが、じっさいには東京の韓国大使館の職員がしかるべき場所へ持っていくということなのでしょう。文字通り、郵便で送り返してくるということであれば、どんな封筒で送り返してくるのか、そのあたりが個人的には大いに興味があったんですがね。 PS きのう(23日)はこの記事をアップしてすぐに外出したのですが、帰宅後、親書を持参した韓国大使館の参事官が外務省の敷地内に立ち入れなかったため、韓国側は書留郵便で送ることにしたということを知りました。ということは、確実に、返送した親書が中に入っていたカバーというものが存在することになるわけですな。うーむ、実物を見てみたい。 ★★★ 内藤陽介・韓国進出! ★★★ 『韓国現代史』の韓国語訳、出ました 우표로 그려낸 한국현대사 (切手で描き出した韓国現代史) ハヌル出版より好評発売中! 米国と20世紀を問い直す意欲作 우표,역사를 부치다 (切手、歴史を送る) 延恩文庫より好評発売中! *どちらも書名をクリックすると出版元の特設ページに飛びます。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-08-15 Wed 12:51
きょう(15日)は言わずと知れた“終戦の日”です。というわけで、靖国神社がらみの切手の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年2月、米軍政下の南朝鮮(大韓民国はまだ発足していません)で発行された暫定加刷切手のうち、靖国神社の27銭切手に“朝鮮郵票”を意味するハングルと30チョンの額面が加刷されています。ちなみに、30チョンというのは、当時の南朝鮮の郵便料金としては、書留料金に相当していました。 南朝鮮では、米軍が進駐した1945年9月以降も日本時代の切手がそのまま流通しており、暫定加刷切手の発行は1946年2月1日になってからのことです。ただし、暫定切手の発行後も、暫定切手よりも日本時代の無加刷切手が貼られているケースのほうが圧倒的に多く、暫定切手が貼られた郵便物は非常に少ないのが実情です。まぁ、そもそも暫定切手の発行数は最も需要が見込まれる書状基本料金用の10銭切手でさえ68万枚しかありませんでしたから、実用性という点では、米軍政庁が暫定切手を発行する意義には疑問符がつくのですが、切手の発行を権力の象徴と捉えてみると、そのプロパガンダ的な意味は大きなものがあります。 すなわち、新たな無加刷切手を発行する以前に、“儀式”として、菊花紋章と大日本帝国郵便の表示がある切手の上にハングルを黒々と加刷することは、同じ時期に日本国内で行われていた墨塗り教科書同様、(朝鮮における)日本支配の終焉を人々に強烈に印象づけるうえで、絶対に必要な措置でした。換言するなら、南朝鮮の新たな支配者となった米軍政庁は、こうした加刷切手を発行することによって、体制の転換を可視化しようとしたといってもよいでしょう。 なお、1946年5月1日に解放切手が発行されたことを受け、同年6月30日限りで無加刷の日本切手とハングル加刷の暫定切手はともに使用禁止となりました。 さて、あらためて言うまでもないことですが、靖国神社には帝国陸海軍の軍人として戦い、亡くなった朝鮮人の方々の霊も祀られており、僕たちは、そうした朝鮮出身の英霊の方々にも哀悼の意を示すため、正午に黙祷をしました。靖国“神社”だからけしからんという人もあるのかもしれませんが、どんな国家もその国家なりのやり方で、自国のために亡くなった方に対して慰霊の誠をささげる権利はあるわけで、そのやり方が気に入らないからと言ってクレームをつけるのは、いわば、他人の家の葬式なり法事なりに入り込んできて妨害するのと同じことですから、実に非礼な話と言わざるを得ません。 こういうと、靖国神社には、いわゆるA級戦犯が合祀されており、中国・韓国が反発するから参拝はいけないという反論が必ず出てくるのですが、それなら、たとえば、韓国・ソウルの銅雀にある国立顕忠院を参拝することについて異議を唱える韓国人がいるのでしょうか。顕忠院は、独立運動家や国家功労者、朝鮮戦争、ベトナム戦争の戦死者、朴正煕元大統領など歴代大統領が祀られている施設です。現在の韓国の左派勢力の中には、日本統治時代はもとより、1987年の民主化以前は人権抑圧の暗黒時代だと主張する人もいるようですが、それなら、そうした人権抑圧の最大の象徴である朴正熙と国家の英霊を同等に扱うのはけしからんという主張が出てきてもおかしくないのですが、寡聞にして、靖国批判をする人がそういっているのは聞いたことがありませんな。 ちなみに、われらが野田首相は、昨年(2011年)10月19日、内閣総理大臣として顕忠院に公式参拝し献花したそうですが、靖国神社に総理大臣として公式参拝したことはありません。(ひょっとして、今日これからするのかもしれませんが)そういえば、前首相の管直人も、副総理兼財務相だった2010年6月、アメリカのワシントン近郊のアーリントン国立墓地を訪れ、無名戦士の墓に献花していますが、靖国神社には参拝ませんでした。 他国の戦没者を追悼することはできても、自国の英霊は無視する総理大臣というのは、どう考えても、ゆがんでいるとしか思えません。韓国の李明博大統領が「(天皇は)韓国を訪問したがっているが、独立運動で亡くなった方々を訪ね、心から謝るなら来なさいと(日本側に)言った」と放言したことが報じられたのも、そうした日本側の問題があるからで、実に情けない話です。せめて、「日本の野田首相も顕忠院を参拝したのだから、閣下も日本領竹島を訪問されたついでに、靖国神社に参拝していただいたらよかったのに…」くらいのことは、外務省から言ってもらわないと困りますな。 ★★★ 内藤陽介・韓国進出! ★★★ 『韓国現代史』の韓国語訳、出ました 우표로 그려낸 한국현대사 (切手で描き出した韓国現代史) ハヌル出版より好評発売中! 米国と20世紀を問い直す意欲作 우표,역사를 부치다 (切手、歴史を送る) 延恩文庫より好評発売中! *どちらも書名をクリックすると出版元の特設ページに飛びます。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-07-25 Wed 11:53
きのう(24日)、アメリカ大リーグで、シアトル・マリナーズのイチロー選手がニューヨーク・ヤンキースへ電撃トレードされました。というわけで、シアトルからニューヨークへの移動を示すものとして、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1947年8月5日、米軍政下の南朝鮮とアメリカとの航空郵便再開に際して使用された記念印です。貼られている切手は、右側の赤い切手が1946年9月9日発行の“朝美郵便交換再開”の記念切手で、左側の青い切手が1947年8月1日発行の“万国郵便交換再開”の記念切手です。なお、記念印の表示は、大韓民国発足(1945年8月)以前の南朝鮮の時代ですので、“朝美間航空郵便再開記念”となっています。ちなみに、美はアメリカのことで、中国語と同じ(発音はもちろん違いますが)です。 アメリカ・ノースウェスト社の米本土=極東便の商業運航は、1947年7月15日、ダグラスDC-4型機を用いて、太平洋北岸をたどるルートで再開されました。具体的には、ミネアポリスからアンカレッジを経て、東京、上海を経てマニラにいたるというルートです。このルートをベースに、シアトル=アンカレッジ線がアンカレッジで極東線に接続。さらに、1947年8月からは、極東路線にソウル発着便も運航されるようになりました。 今回ご紹介の記念印は、そのソウル発着便の再開にあたって使われたもので、航空路線の地図が描かれています。消印に取り上げられている路線図は、マニラ=ソウル=アンカレッジ=シアトル=ニューヨークを結ぶものとなっており、米国内のアンカレッジ=シアトル=ニューヨークは三角形で結ばれています。なお、アンカレッジに相当する場所のハングル表示が、“アンチョロク(ないしはアンジョログ)”となっているので、なんのことだか最初はわからなかったのですが、おそらく、“Anchorage”をほぼそのまま転写したということなんでしょう。まぁ、日本語でも「ギヨエテとは おれのことかと ゲーテ云ひ」という川柳があるくらいですから、あんまり批判はできないんですがね。 【アジア国際切手展SHARJAH 2012のご案内】 僕が日本コミッショナーを仰せつかっているアジア国際切手展 <SHARJAH 2012> の作品募集要項が発表になりました。国内の応募〆切は8月3日です。くわしくはこちらをご覧ください。 ★★★ 内藤陽介・韓国進出! ★★★ 『韓国現代史』の韓国語訳、出ました 우표로 그려낸 한국현대사 (切手で描き出した韓国現代史) ハヌル出版より好評発売中! 米国と20世紀を問い直す意欲作 우표,역사를 부치다 (切手、歴史を送る) 延恩文庫より好評発売中! *どちらも書名をクリックすると出版元の特設ページに飛びます。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-07-22 Sun 22:02
ロンドン五輪の聖火が、現地時間20日、ロンドンに到着し、きのう(21日)からロンドン東部のグリニッジ天文台から市内リレーがスタートしました。というわけで、きょうは聖火リレーの切手のうち、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、大韓民国発足直前の1948年6月1日、アメリカ軍政下の南朝鮮で発行されたロンドン五輪の記念切手で、聖火ランナーが描かれています。 朝鮮系アスリートが国際大会に本格的に参戦したのは、植民地時代の1932年に行われたロサンゼルス五輪が最初のこととされています。その後、1936年のベルリン五輪ではマラソンの孫基禎が金メダルを獲得したほか、南昇龍も銅メダルを獲得するなどの好成績を収めるなど、朝鮮系の選手はそれなりに実績を残していますが、当時は、朝鮮そのものが日本の統治下にありましたので、朝鮮系の選手は“日本人”という扱いになっていました。 1945年の解放により、国際スポーツの世界においても“朝鮮”は独立した存在として認知されましたが、南北の分断が固定化されていく中で、1947年6月20日、“KOREA”のIOC加盟が承認されたものの、全朝鮮の統一的なスポーツ組織の結成は、事実上、不可能となります。 このため、1948年7月29日に開幕した戦後最初のオリンピック、ロンドン五輪の際には、アメリカ軍政下の南朝鮮が“KOREA”チームを構成。選手団は列車でソウルから釜山へ移動し、釜山からは米軍用船で博多へ渡り、そこから進駐軍の用意した特別列車で横浜まで行き、そこから香港へ渡って、香港からロンドンへは飛行機で渡るというルートで現地入りしました。 当時、李承晩は、国連決議に基づいて、南朝鮮での単独選挙を実施するなど、ソ連軍占領下の北朝鮮地域を除く大韓民国の樹立に向けて準備を進めており、ロンドンへの代表チーム派遣も、そうした政治的な文脈の下、南朝鮮から大韓民国につながるラインこそが朝鮮の正統政府であることを内外にアピールするためのものでした。 一方、1946年2月に北朝鮮臨時人民委員会を発足させて以来、北半部での単独政権樹立を着々と進めていた北朝鮮にとっても、南朝鮮の一連の動きは、南北分断に向けた自分たちの過去の行動をカムフラージュするとともに、「南側が先に分断を仕掛けたために“やむをえず”自分たちも独自の政府を樹立するにいたった」と主張するアリバイ作りとして好都合でした。このため、北朝鮮は、南側のこうした動きに抗議していたものの、ソウル五輪の時のような妨害行動には出ていません。 なお、1948年に南北両政府が相次いで発足する前後の動きは、切手や郵便物にもいろいろと痕跡を残していますが、それらについては、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』ならびに同韓国語版でもまとめていますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧ただけると幸いです。 【アジア国際切手展SHARJAH 2012のご案内】 僕が日本コミッショナーを仰せつかっているアジア国際切手展 <SHARJAH 2012> の作品募集要項が発表になりました。国内の応募〆切は8月3日です。くわしくはこちらをご覧ください。 ★★★ 内藤陽介・韓国進出! ★★★ 『韓国現代史』の韓国語訳、出ました 우표로 그려낸 한국현대사 (切手で描き出した韓国現代史) ハヌル出版より好評発売中! 米国と20世紀を問い直す意欲作 우표,역사를 부치다 (切手、歴史を送る) 延恩文庫より好評発売中! *どちらも書名をクリックすると出版元の特設ページに飛びます。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-06-12 Tue 21:43
ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』5月25日号が刊行されました。僕の連載「切手に描かれたソウル」では、今回は、開催中の麗水万博にちなんで、亀甲船の切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)
上は、アメリカ軍政下の南朝鮮で1948年4月10日に発行された亀甲船の50ウォン切手です。下には、ソウルの戦争記念館に展示されている復元模型の写真を貼っておきました。 今回の記事で亀甲船を取り上げたのは、万博開催地の麗水といえば、李舜臣が全羅左道水軍節度(全羅南道の水軍司令官)として赴任し、亀甲船を建造した土地で、毎年5月には亀甲船祭りが行われることで知られているからです。 亀甲船に関する記録は、李氏朝鮮の歴史書である『太宗実録』13年2月5日甲寅条に「上過臨津渡觀龜船倭船相戰之狀」との記述が最初のもので、亀船という名で、首都防衛のために臨津江に浮かべられていたようです。ここでいう太宗13年というのは西暦1413年。いわゆる倭寇の時代ですな。おそらく、日本刀での切込みを得意としていた倭寇に対抗するための工夫を凝らした船だったのでしょうが、この記述だけではその実態はよくわかりません。なお、『太宗実録』には15年7月16日辛亥条として「其六龜船之法衝突衆敵而敵不能害可謂決勝之良策更令堅巧造作以備戰勝之具」との記述もありますが、これは「亀船は敵に衝突し損害を与える。勝利を決める良策として建造された堅い船である」という以上のものではなく、具体的な大きさなどは、やはり不明です。 ちなみに、1419年、すでに世宗に王位を譲っていた太宗は、倭寇の拠点とされていた対馬の襲撃を命じましたが(応永の外寇)、その際、亀甲船が使われたのかどうかは、やはり定かではありません。 李舜臣が亀甲船を用いて日本の水軍を破ったとされるのは1592年の出来事で、李舜臣とともに海戦に参加した甥の李芬の「李舜臣行録」によれば、「亀甲船の大きさは、板屋船(当時の主力戦船)とほぼ同じく上を板で覆い、その板の上には十字型の細道が出来ていて、やっと人が通れるようになっていた。そしてそれ以外は、ことごとく刀錐(刀模様のきり)をさして、足を踏み入れる余裕も無かった。前方には龍頭を作り、その口下には砲口が、龍尾にもまた砲口があった。左右にはそれぞれ6個の砲口があり、船形が亀のようであったので亀甲船と呼んだ。戦闘になると、かや草のむしろを刀錐の上にかぶせてカモフラージュしたので、敵兵がそれとも知らず飛び込むとみな刺さって死んだ。また、敵船が亀甲船を包囲するものなら、左右前後からいっせい砲火でやられた。」とのことです。 この内容が広く人口に膾炙することになって、亀甲船イコール李舜臣というイメージが定着。解放後、韓国のナショナリズムが形成されていく過程で、日本を破った民族の英雄、李舜臣のシンボルとしてもてはやされ、韓国・北朝鮮の切手にも何度か取り上げられているようになりました。ただし、李舜臣の時代の亀甲船の実物は現存しておらず、その姿はあくまでも想像するしかありません。 今回ご紹介の切手は、亀甲船を描く切手の中で最も有名な1枚ですが、図案の元ネタは、李舜臣の死後およそ200年後の1795年にまとめられた『李忠武公全書』の想像図で、日本の教科書の図版などにも取り上げられているので、ご記憶の方もあるかと思われます。 ちなみに、この切手が発行された当時、書状の基本料金が2ウォン、書留料金が5ウォンで、50ウォンは最高額面の切手でした。また、大韓民国成立以前の切手であるため、切手上部の表示が「朝鮮郵票」となっている点にも注目したいところです。 さて、ソウル・龍山洞の戦争記念館には、亀甲船の実物大と思しき復元模型が展示されています。吹き抜けのフロアに鎮座する模型には、角のある龍頭がつけられているほか、甲板にはマストが建てられ帆も掲げられていて、切手の亀甲船とはかなりイメージが違っています。 まぁ、どちらも想像の産物といってしまえばそれまでなのですが、個人的には、切手の絵柄、すなわち、『李忠武公全書』のほうが、より亀らしくて、僕の好みですな。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 内藤陽介の『韓国現代史』・韓国進出! 우표로 그려낸 한국현대사 (切手で描き出した韓国現代史) ハヌル出版より好評発売中! ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2011-12-05 Mon 09:54
ご報告が大変遅くなりましたが、『東洋経済日報』11月25日号が刊行されました。僕の連載「切手に描かれたソウル」では、徳寿宮を取り上げました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、徳寿宮内に設けられていた米ソ共同委員会宛に信託統治反対を訴えた葉書です。 韓国の5大王宮のひとつとされる徳寿宮は、元々は朝鮮時代の王族で成宗の兄、月山大君の邸宅でしたが、豊臣秀吉による文禄の役(1592年)に際して義州に避難していた宣祖が、荒廃した景福宮(ソウルの宮殿は秀吉軍の入城前に朝鮮の民衆によって焼打ちにあっていました)に代わる臨時の王宮とし、慶運宮と命名されました。 その後、景福宮の離宮であった昌徳宮が1615年に再建され、王が昌徳宮に移ると、慶運宮は忘れられた存在になっていましたが、1896年の閔妃暗殺事件といわゆる俄館播遷(高宗がロシア公使館に逃れて政務を執った非常事態)を機に、1897年以降、王の在所となり、大韓帝国の発足後は皇帝の住居となりました。ちなみに、現在の徳寿宮という名になったのは、大韓帝国最後の皇帝、純宗の時代のことです。 徳寿宮は、韓国現代史においては、第二次大戦後の米軍政時代、米ソ合同委員会が置かれていたことでも知られています。 1945年12月27日、米・英・ソ3国の外相が戦後処理を協議するためにモスクワで会談。いわゆるモスクワ協定がまとめられ、翌日、3国の首都で同時に発表されました。 このうち、朝鮮に関しては、①朝鮮の独立国として再建することを前提として、民主主義臨時朝鮮政府を樹立する、②同政府の樹立を支援し、必要な諸方策を作成するため、米ソ両軍の代表による共同委員会(米ソ共同委員会)を設置する、③5年間を限度として4ヵ国による信託統治を行う、④在朝鮮米ソ両軍の代表者会議を2週間以内に招集する、ということが定められています。 徳寿宮におかれていたのは、この②で規定された米ソ共同委員会です。 なお、朝鮮の信託統治を定めた③は、即時独立を期待していた人々が強く反発し、12月28日には、早くもソウルで信託統治反対国民総動員委員会が結成されるなど、米軍占領下の南朝鮮では大規模な反託(信託統治反対)運動が発生。これに対して、ソ連軍占領下にあった北朝鮮では、ソ連が信託統治の実施を通じて朝鮮の衛星国化をもくろんでいることを察知した金日成が、信託統治をソ連による「後見」としてこれを支持。これに引きずられるかたちで、南朝鮮の左翼陣営も信託統治賛成にまわり、南北間ならびに左右両派の激しい対立が引き起こされました。 騒然とした世情の中で、徳寿宮の米ソ共同委員会には連日、信託統治反対を訴える嘆願の葉書が大量に送られ、その一部は市場に流出して、僕のコレクションにも収まったというわけです。 信託統治反対の嘆願葉書には、日本時代の葉書の額面を生かして、差額分は料金収納印を押して利用したケースが少なくありません。逆に言うと、日本時代の印面を解放後に活用した葉書の多くは徳寿宮の米ソ共同委員会宛のものですから、その意味でも、韓国郵便史に興味のある人間にとっては、徳寿宮はなじみのある名前といえましょう。 ちなみに、現在の徳寿宮では、正門にあたる大漢門の前で、王宮を守っていた兵士たちの勤務交代式を再現した“王宮守門将交代儀式”が行われていることでも知られていますが、大漢門から約800メートル続く石垣の貞洞通り(通称:石垣道)は、銀杏の黄葉の名所として知られています。 なお、モスクワ協定と反託闘争については、拙著『韓国現代史』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 * 昨日の午後、カウンターが94万PVを超えました。いつも遊びに来てくださる方々に、あらためてお礼申し上げます。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 年賀状の戦後史 角川oneテーマ21(税込760円) 日本人は「年賀状」に何を託してきたのか? 「年賀状」から見える新しい戦後史! ★ TBSラジオ・ニュース番組森本毅郎・スタンバイ(11月17日放送)、11月27日付『東京新聞』読書欄、『週刊文春』12月1日号、『週刊東洋経済』12月3日号で紹介されました。 amazon、bk1、e-hon、HMV、livedoor BOOKS、紀伊國屋書店BookWeb、 セブンネットショッピング、楽天ブックスなどで好評発売中! ★★★ 好評既刊より ★★★ ハバロフスク(切手紀行シリーズ④) 彩流社(本体2800円+税) 空路2時間の知られざる欧州 大河アムール、煉瓦造りの街並み、金色に輝く教会の屋根… 夏と冬で全く異なるハバロフスクの魅力を網羅した歴史紀行 シベリア鉄道小旅行体験や近郊の金正日の生地探訪も加え、充実の内容! amazon、bk1、e-hon、HMV、livedoorBOOKS、紀伊國屋書店BookWeb、セブンネットショッピング、楽天ブックスなどで好評発売中! |
2010-09-22 Wed 09:50
郵便不正事件に絡み、厚労省・村木厚子元局長が偽の証明書を発行した罪などに問われ、無罪判決を受けた事件で、大阪地検特捜部の主任検事・前田恒彦が証拠となるフロッピー・ディスク内の文書の日付を改竄していたことが発覚し、逮捕されました。なんともひどい話ですが、困ったことに“日付の改竄”は切手の世界ではしばしばあります。というわけで、きょうはその一例を御紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年5月1日に、米軍政下の南朝鮮(大韓民国はまだ発足していません)で発行された“解放切手”が貼られた封筒とその部分拡大で、京城中央(現ソウル中央)の初日印が押された格好になっています。念のために申し上げておきますが、切手・消印・封筒はいずれも当時のホンモノで、ニセモノではありません。 もっとも、これが実際に郵便物として差し出され、配達されたかというと、かなり疑わしいところがあります。まず、使われている封筒は“朝鮮総督府逓信局”の通信事務用のものですが、すでに朝鮮総督府は消滅していますので、当時の朝鮮人がこの封筒を使ったのであれば、“朝鮮総督府”の表示を消して、新たな部署の名前で差し出すのが自然でしょう。担当者の個人名が書いていないのも不自然です。 ついで考えられるのが、朝鮮総督府時代の封筒を利用し、切手発行当日に切手を貼って消印を押し、後から宛名だけ書いたというケースですが、それにしては宛名の文字と消印が近寄りすぎています。すでに消印が押されているところに宛名を書くのであれば、もう少し、両者の距離は離れているのが自然ではないでしょうか。それに、封筒の下部に押されている紫色のカシェは、宛名の上から押されていますので、宛名を書いてから切手を貼り、消印を押したと考えるのが自然なように思われます。 このようなカバーが生まれるようになった背景には、1950-60年代にかけて、韓国では郵便局側が切手商や収集家に対して、レンタル料を取って消印の印顆を貸し出していたという事情があります。当時、韓国国内では、日本時代に使われていた昭和切手(解放後の南朝鮮でも使われていた時期があります)やハングル加刷切手、解放切手の未使用は大量に余っていて、なおかつ、1950-53年の朝鮮戦争によるインフレで額面上の価値が紙クズ同然となっていました。これに対して、それらの切手のきちんとした使用済みやカバーは非常に少なく、未使用に比べてはるかに高値で取引されています。 そうなると、当然のことながら、安い未使用切手に、発行当時に日付を戻した消印を押して使用済みやカバーを作ってひと儲けしようと考える輩が出てきます。当時の韓国の郵便局では、おそらく、こうした連中から“袖の下”をもらって消印の印顆を貸し出していたのでしょう。あるいは、「消印を貸し出すだけでなにがしかの収入が得られるのなら、お安い御用だ」とばかりに、郵便局側があまり深く考えずに組織として消印を貸し出していたということなのかもしれません。 いずれにせよ、解放直後の京城中央や光化門の消印が押されたカバーは、局内使用の料金受領証原符や逓送途中の中継印や到着印、占領当局の検閲の痕跡などが残っていないモノに高いお金を払うのは止めておいた無難です。 それにしても、香港のルース・カバーもそうですが、切手も消印もホンモノだけれど、カバーとしては“ホンモノではない”というケースは非常に厄介です。検事による証拠の日付改竄に比べれば罪が軽いといわれればそれまでですが、実に頭の痛い問題ですな。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 事情のある国の切手ほど面白い メディアファクトリー新書007(税込777円) カッコよすぎる独裁者や存在しないはずの領土。いずれも実在する切手だが、なぜそんな“奇妙な”切手が生まれたのだろう?諸外国の切手からはその国の抱える「厄介な事情」が見えてくる。切手を通して世界が読み解ける驚きの1冊! 全国書店・インターネット書店(amazon、bk1、DMM.com、JBOOK、livedoor BOOKS、TSUTAYA、Yahoo!ブックス、7&Y、紀伊国屋書店BookWeb、ジュンク堂書店、楽天ブックスなど)で好評発売中! |
2010-08-22 Sun 19:13
1910年8月22日に漢城府(現ソウル)で「韓国併合ニ関スル条約」が調印されて、きょうでちょうど100年です。というわけで、きょうはこんなモノをもってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年5月1日、アメリカ軍政下の南朝鮮(大韓民国はまだ発足していません)で発行された“解放切手”10銭の銘版つき田型です。 米軍政下の南朝鮮で発行された最初の正刷切手である解放切手は、名目上は“(米軍による南朝鮮)解放の記念切手”でしたが、総計4470万枚発行され(うち、1946年の製造数は3000万枚)、実質的に通常切手として用いられました。 当時の南朝鮮内には、これだけの量の切手を短期間に確実に製造しうる印刷所はありませんでしたから、解放切手は、デザイナーの金重鉉がソウルで作成した原画をもとに、日本の印刷局の彫刻課長・加藤倉吉が原版を彫刻し、印刷局で印刷するという方式で調製されました。ただし、当時は日本国内でも、切手には目打や裏糊がないのが当たり前でしたから、解放切手も日本で印刷された後、目打作業は現地で行われています。 このため、解放切手の銘版は“大日本帝国印刷局製造”となっていましたが、今回ご紹介のマテリアルでは、南朝鮮で穿孔された目打が大幅にずれてしまったため、銘版の“大日本帝国印”の部分が右下の切手の印面に入っています。1枚の切手上に“(解放)朝鮮”のハングル(右書き)と日本の文字が同時に入っている“日韓併合”切手といってもよさそうです。 さて、誰しも外国人に支配されるのは嫌なものです。しかし、不愉快ではあっても、一定以上の年月の植民地支配を受けていれば、好むと好まざるとにかかわらず、植民地側が宗主国の影響を受けるのは避けられませんし、独立した植民地は植民地時代の遺産の上に、彼ら自身が努力することによってしか、新国家を建設することができません。 韓国の現代史は良くも悪くも“日帝36年”と称される日本統治時代の遺産の上に成立しています。おそらく、当時の朝鮮人(日本統治下の正式名称は“朝鮮”です)の多くは、内心では、日本人の支配下に置かれていることを不快に思っていたことでしょう。したがって、日本の支配下でインフラ整備が進み、教育・医療水準が飛躍的に向上したことが事実であったとしても、それを日本人が「してやった」といえば、喧嘩になるのは避けられません。 しかし、当時の朝鮮人の中には、自分たちを支配している日本から学ぶことで朝鮮の発展や独立につなげていこうと真摯に努力を重ねていた人々も少なくありませんでした。というよりも、そうした日本時代に教育や職業訓練を受けた人々こそが、日本統治時代の遺産としてのインフラや社会システムとともに、1945年以降の韓国の国家建設を支えてきたことは、まぎれもない事実です。その意味では、“日帝36年”を単なる暗黒時代として全面否定することは、実は、韓国とその現代史を根幹から否定するということになってしまいます。それゆえ、過去の朝鮮統治に対して日本人が卑屈になることは、かえって、日本から学び、韓国の国家建設に携わった人を愚弄することになりかねません。 今月10日、日韓併合100年に際して発表された首相談話は「植民地支配がもたらした多大な損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明する」との内容でした。この談話では“日帝36年”は全面的に否定されるということになるのでしょうが、ということは、当然、韓国の国家建設に従事した“親日派”も断罪されるということなんでしょうから、ひどい話です。 また、国際社会の常識でいえば、損害に対してお詫びするということは、追加の補償なり賠償なりを支払うという意味になりますが、そうだとすると、1965年の日韓基本条約をもひっくり返すことになりかねません。両国間の補償問題は日韓基本条約で完全に解決していますから、追加の補償なり賠償なりというのは全く筋の通らない話です。仮に、条約に伴って日本から得た資金を、当時の韓国政府が個人補償に使わず、インフラ整備と重要産業への集中的な投資に回し“漢江の奇跡”と呼ばれた高度経済成長を実現したことが悪かったとでもいうのなら、それは内政干渉にほかなりません。まぁ、わが国の教科書検定にクレームをつけるという内政干渉を韓国はしばしばやっていますから、それに倣ったということなのかもしれませんがね。 いずれにせよ、韓国に対する安易な贖罪意識から発せられた首相談話は、実は、その本質において、韓国の国家建設の源流を否定し、“漢江の奇跡”までをも否定しています。この点において、談話は韓国の現代史を愚弄した実に非礼なものでしかありません。こうした“非礼”の代償がいかに高くつくか、いい加減、政治家諸氏にも学習してもらわないと困りますな。 * 本日未明、アクセスカウンターが73万PVを超えました。いつも遊びに来てくださる皆様には、あらためて、お礼申し上げます。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ お待たせしました。8ヶ月ぶりの新作です! 事情のある国の切手ほど面白い カッコよすぎる独裁者や存在しないはずの領土。いずれも実在する切手だが、なぜそんな“奇妙な”切手が生まれたのだろう?諸外国の切手からはその国の抱える「厄介な事情」が見えてくる。切手を通して世界が読み解ける驚きの1冊! 8月27日にメディアファクトリー新書007(税込777円)としていよいよ刊行! 全国書店・インターネット書店(amazon、bk1、Yahoo!ブックス、7&Yなど)で御予約受付中! |
2009-08-15 Sat 11:19
きょうは言わずと知れた終戦記念日です。というわけで、靖国神社がらみのマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年7月4日、米軍占領下の南朝鮮(大韓民国はまだ発足していません)からアメリカ宛ての郵便再開に際して差し出された郵便物で、靖国神社を描く昭和切手にハングルを加刷した5ウォン切2枚と、いわゆる解放切手の1ウォン切手10枚が貼られています。 南朝鮮では、米軍が進駐した1945年9月以降も日本時代の切手がそのまま流通していましたが、1946年2月1日になって、ようやく、日本時代の切手に“朝鮮郵票”を意味するハングルと新たな額面を加刷した暫定切手が発行されています。 ただし、暫定切手の発行後も、暫定切手よりも日本時代の無加刷切手が貼られているケースのほうが圧倒的に多く、暫定切手が貼られた郵便物は非常に少ないのが実情です。まぁ、そもそも暫定切手の発行数は最も需要が見込まれる書状基本料金用の10銭切手でさえ68万枚しかありませんでしたから、実用性という点では、米軍政庁が暫定切手を発行する意義には疑問符がつくのですが、切手の発行を権力の象徴と捉えてみると、そのプロパガンダ的な意味は非常に大きなものがあります。 すなわち、新たな無加刷切手を発行する以前に、“儀式”として、菊花紋章と大日本帝国郵便の表示がある切手の上にハングルを黒々と加刷することは、同じ時期に日本国内で行われていた墨塗り教科書同様、(朝鮮における)日本支配の終焉を人々に強烈に印象づけるうえで、絶対に必要な措置でした。換言するなら、南朝鮮の新たな支配者となった米軍政庁は、こうした加刷切手を発行することによって、体制の転換を可視化しようとしたといってもよいでしょう。 結局、1946年5月1日に解放切手が発行されたことを受け、同年6月30日限りで無加刷の日本切手とハングル加刷の暫定切手はともに使用禁止となります。今回ご紹介のカバーも、本来であれば、使用禁止後の7月4日に差し出されたものですから、暫定切手の部分には消印は押さないはずなのですが、差出人がアメリカ人で記念のカバーということもあって、切手としては無価値なラベルの上に捨印を押したという感覚なのでしょう。その意味では、郵便史的にきちんと説明のできるカバーではないのですが、ほかにハングル加刷切手のカバーを持っていないので、現時点では暫定的にコレクションに加えているという次第です。 なお、アメリカ軍政下の南朝鮮とその切手や郵便については、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でもいろいろと解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 異色の仏像ガイド決定版 全国書店・インターネット書店(アマゾン、bk1、7&Yなど)・切手商・ミュージアムショップ(切手の博物館・ていぱーく)などで好評発売中! 『切手が伝える仏像:意匠と歴史』 彩流社(2000円+税) 300点以上の切手を使って仏像をオールカラー・ビジュアル解説 仏像を観る愉しみを広げ、仏教の流れもよくわかる! |
2008-08-25 Mon 20:19
北京オリンピックはようやく昨日、閉幕となりました。で、次の夏季五輪は2012年のロンドンというわけで、オリンピック便乗企画の最後はこんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、大韓民国発足直前の1948年6月1日、アメリカ軍政下の南朝鮮で発行されたロンドン五輪の記念切手です。 朝鮮系アスリートが国際大会に本格的に参戦したのは、植民地時代の1932年に行われたロサンゼルス五輪が最初のこととされています。その後、1936年のベルリン五輪ではマラソンの孫基禎が金メダルを獲得したほか、南昇龍も銅メダルを獲得するなどの好成績を収めるなど、朝鮮系の選手はそれなりに実績を残していますが、当時は、朝鮮そのものが日本の統治下にありましたので、朝鮮系の選手は“日本人”という扱いになっていました。 1945年の解放により、国際スポーツの世界においても“朝鮮”は独立した存在として認知されましたが、南北の分断が固定化されていく中で、全朝鮮の統一的なスポーツ組織の結成は、事実上、不可能となります。 このため、1948年7月29日に開幕した戦後最初のオリンピック、ロンドン五輪の際には、“朝鮮”の五輪代表をめぐってさまざまな混乱が生じることになりましたが、結局、アメリカ軍政下の南朝鮮が“KOREA”チームを構成し、“朝鮮”代表を派遣しています。 当時、李承晩は、国連決議に基づいて、南朝鮮での単独選挙を実施するなど、ソ連軍占領下の北朝鮮地域を除く大韓民国の樹立に向けて準備を進めており、ロンドンへの代表チーム派遣も、そうした政治的な文脈の下、南朝鮮から大韓民国につながるラインこそが朝鮮の正統政府であることを内外にアピールするためのものでした。 一方、1946年2月に北朝鮮臨時人民委員会を発足させて以来、北半部での単独政権樹立を着々と進めていた北朝鮮にとっても、南朝鮮の一連の動きは、南北分断に向けた自分たちの過去の行動をカムフラージュするとともに、「南側が先に分断を仕掛けたために“やむをえず”自分たちも独自の政府を樹立するにいたった」と主張するアリバイ作りとして好都合でした。このため、北朝鮮は、南側のこうした動きに抗議していたものの、ソウル五輪の時のような妨害行動には出ていません。 1948年に南北両政府が相次いで発足する前後の動きは、切手や郵便物にもいろいろと痕跡を残していますが、それらについては、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でもまとめていますので、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 もう一度切手を集めてみたくなったら 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。 |
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