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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ノーベル文学賞にアブドゥルラザク・グルナ氏
2021-10-08 Fri 02:12
 今年のノーベル文学賞は、英保護領時代のザンジバル出身で、英国を拠点に活動しているアブドゥルラザク・グルナ氏(以下、敬称略)が受賞しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ザンジバル・ダウ船(1913・10ルピー)

 これは、1913年に英保護下のザンジバルで発行された10ルピー切手で、ムスリム商人(アラビア商人)が利用した伝統的な帆船の“ダウ船”が描かれています。今回、ノーベル文学賞を受賞したグルナはアラブ系の家系の出身(ただし、本人の母語はスワヒリ語)ですので、ザンジバルとアラブ世界のつながりを示すものとして持ってきました。

 1744年、マスカトを拠点に成立したブーサイード朝はオマーンからペルシャ勢力を追い払い、アフリカ東海岸のザンジバルからグワーダル(現パキスタン)にいたる海洋帝国を樹立。19世紀前半のサイイド・サイードの時代に全盛期を迎え、1833年、首都をマスカトからザンジバルに移しました。その後も、オマーンは大英帝国とインド洋の勢力を二分する海洋帝国としての地位を維持しています。

 ちなみに、当時のペルシャ湾岸からインド洋アフリカ東岸にかけての海洋地域はインド経済圏で、インド・ルピーが基軸通貨として流通していました。

 1856年 サイイド・サイードが亡くなると、ザンジバルを中心としたアフリカ東部沿岸地域はザンジバル・スルターン国としてオマーンから分離独立します。

 1885年3月 ドイツ政府がアフリカ大陸のインド洋沿岸部に“ドイツ保護領東アフリカ”を設立する意向を明らかにし、アフリカ大陸東岸への進出を開始すると、ザンジバルのスルターンは英国に支援を求めてドイツに対抗しようとしましたが、1886年、英仏独は連携して東アフリカの分割を進め、英国は後のケニアを、ドイツはタンガニーカ(現在のタンザニア国家の大陸部分)を領有。ザンジバルの支配地域はザンジバル島など東アフリカ沖の島嶼部および大陸沿岸から10マイル(16km)内陸までに限定されてしまいます。

 さらに、1890年、英独間で“ヘルゴランド=ザンジバル条約”が結ばれ、ドイツは、英国によるウィトゥランドの保護領化を認め、英国のザンジバル進出を黙認するかわりに、北海のヘルゴランド島をドイツ領とし、ザンジバルの支配地域だった沿岸部を買収してドイツ領東アフリカの権限範囲を確定。英国によるザンジバルの保護国化が実質的に確定しました。

 1896年 当時のスルターンの甥、ハーリド・ビン・バルガシュが王位を簒奪するクーデターが発生。英国はハーリドに退位を要求しましたが、ハーリドがこれを拒否したため、駐留していた英国艦隊は艦砲射撃を行い、わずか37分23秒で宮殿を破壊します。この結果、ハーリドは対岸のドイツ領タンガニーカに亡命し、ザンジバル・スルターン国は英国の完全な統制下に置かれました。

 1897年、ザンジバルで奴隷制度が廃止されると、英国はインド植民地政府の官僚をザンジバルに派遣して本格的な近代化(西洋化)を開始しますが、この頃から、ザンジバル党内ではアフリカ系とアラブ系の対立が徐々に深刻化していきます。

 1918年、第一次大戦でドイツが敗れると、旧ドイツ領東アフリカは解体され、英委任統治領タンガニーカベルギー委任統治領のルワンダ=ウルンディに分割。東アフリカにおける英領植民地は、第一次大戦後、ザンジバル、タンガニーカ、ケニア、ウガンダの4地域体制になりました。

 1921年 ザンジバルを除く3地域では、共通通貨として、英国東アフリカ通貨局(1919年創設。EACB)の発行する東アフリカ・シリングが導入され、翌1922年、三地域を包括する関税同盟が成立しましたが、ザンジバルは歴史的にインド経済との結びつきが強かったため、当面は1908年に創設されたザンジバル・ルピー(英領インド・ルピーと等価)が継続されました。ザンジバルが、1ザンジバル・ルピー=1.5東アフリカ・シリングの交換レートで、東アフリカ・シリング圏に編入されるのは、1936年1月1日のことです。

 第二次大戦後の1963年、ザンジバル・スルターン国は独立を回復。独立当初の同国は英連邦加盟の立憲君主国で、独立後もスルターンの地位は維持されていました。

 ところが、1963年 ザンジバル独立時の総選挙:選挙区の区割りから、54%の得票率だったアフリカ系主体のアフロ・シラジ党(ASP)が13議席だったのに対し、アラブ主体の国民党(ZNP)が得票率30%で12議席、アフリカ系ながら親アラブのシラジ人主体のザンジバル&ペンバ人民党(ZPPP)が得票率16%で6議席を獲得し、ZNPとZPPPの連立政権が発足しました。

 このため、ASPが政権を獲得できなかったことに不満を持ったASP青年団のリーダー、ジョン・オケロは、1964年1月12日、ASP中央の意向とは無関係に、“自由の戦士”と称する若者300人を集めて暴動を起こしました。いわゆるザンジバル革命です。

 ちなみに、オケロは、1936年、ウガンダ生まれ。幼少時に孤児となり、貧困の中で職を転々する中で各種の犯罪にも手を染め、性犯罪で投獄されていた時期に革命思想に触れたとされています。出獄後の1959年にザンジバルのベンパ島に渡り警察官になっていたましが、1961年から2年間、キューバへ渡って武装訓練を受けてザンジバルに帰国、ペンキ職人として働きながら、革命の同志を募っていました。

 当初、オケロの計画は市内に放火して混乱を引き起こすだけだったとされていますが、途中で次第に過激化。ついには、政府転覆を企図して、ライフル銃や槍、自動車の部品などを武器にして郊外の警察署を襲撃し、“自由の戦士”はわずか45分で警察署を占拠して、朝までに首都の警察署と憲兵隊を制圧しました。

 オケロは放送局に陣取り、“大元帥”を自称して「18歳から55歳までのアラブの男はすべて殺せ」、「処女は強姦しないように(=”自由の戦士”に処女のまま差し出せ)」などの指示を出して暴動を煽り続けるとともに、スルターンに対しては、20分以内に家族を殺して自殺するよう要求。このため、スルターンと政府首脳部はザンジバルから逃亡せざるを得ませんでした。

 その後、島内ではアラブ系・インド系(パールシーを含む)に対する略奪と殺戮が相次ぎ、5万人といわれたアラブ系ないしはアジア系住民のうち1万2000人が犠牲になり、辛くも虐殺を逃れた人々も、財産の半分を没収されて出国を余儀なくされました。

 一方、革命発生時、対岸のタンガニーカにいたASPの指導部は、“自由の戦士”の暴走に驚愕。ASP議長のアベイド・カルメはザンジバルに戻ってザンジバル人民共和国の成立を宣言し大統領に就任したものの、オケロらの暴走は止まらず、アラブ系やアジア系が所有していた土地や産業を強引に国有化したほか、アラブ系・アジア系の大量虐殺を行い、革命政府に対して批判的な国の大使を追放するなど、社会状況は大いに混乱します。

 そこで、1964年4月、カルメはオケロを追放し、治安回復のため、対岸のタンガニーカに警官隊投入を要請。4月26日、国家統合によるタンガニーカ・ザンジバル連合共和国を成立させ、ザンジバル国家そのものを消滅させることで事態を収拾し、1964年10月29日、新国家は、タンガニーカとザンジバル、それにアフリカ南部で栄えたアザニア文化の名前をあわせて“タンザニア連合共和国”が発足しました。

 連合共和国の発足後、中央政府はアフリカ系とアラブ系・インド系との融和を図ろうとしたものの、実際には両者の対立は解消されず、アラブ系・インド系の出国は相次ぎます。今回、ノーベル文学賞を受賞したアブドゥルラザク・グルナも、こうした状況の下、1968年に英ケント大学への進学を機に英国に亡命。以後、英国を拠点に研究者・作家として活動を続けてきました。今回の受賞理由が「植民地主義のもたらす影響、そして異なる文化と大陸間に沈んだ難民の運命について、妥協なく、情熱をもって洞察した」とされているのは、こうした彼の背景がその作品にも強く反映されているためです。

 ちなみに、ザンジバル革命やその後の混乱を逃れて英国に渡り、世界的な成功を収めた文化人としては、クイーンのフレディ・マーキュリーがいますが、フレディはインド系ゾロアスター教徒(パールシー)で、父親はインドの独立前に植民地政府の役人としてザンジバルに渡ってきたという背景があります。

 
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 ザンジバル沖で大沈没事故
2011-09-10 Sat 23:53
 きょう(10日)未明、アフリカ東部、インド洋のザンジバルのウングジャ島からペンバ島へ向け、約600人を乗せて航行していた船が沈没。60人の子どもを含む325人が救助されたものの、200人以上が死亡する大惨事となりました。亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。というわけで、きょうはザンジバル切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

        ザンジバル・共和加刷

 これは、1964年にザンジバルで発行された共和加刷の切手です。

 19世紀以前のザンジバルは、アラブ系のオマーンの支配下に置かれており、1832年にはオマーンのスルタンがザンジバルに遷都したほどでした。その後、1861年にザンジバルはオマーン本土と分離した独立のスルタン国となります。

 1875年10月1日、イギリスは英領インド切手をザンジバルに持ち込み、この地に最初の近代郵便制度を導入しました。その後、1889年1月にはフランスが、1890年9月27日にはドイツが、それぞれ、ザンジバルに郵便局を設けますが、1890年、ザンジバル・スルタン国がイギリスの保護国となったため、両国の郵便局はザンジバルからの撤退を要求されます。このため、ドイツ局は1891年7月31日限りで撤退しましたが、フランス局は既得権を理由に1904年7月31日まで活動を続けました。

 第二次大戦後の1963年、ザンジバル・スルタン国は英連邦加盟の立憲君主国として独立しましたが、アラブ系のスルタンに不満を持つアフリカ系住民は、翌1964年1月、ザンジバル革命を起こしてスルタンを追放。ザンジバル人民共和国を樹立します。今回ご紹介の切手は、これに伴い発行されたものです。

 さて、革命政府は露骨な報復政策をとり、アラブ系やアジア系が所有していた土地や産業を強引に国有化したほか、アラブ系・アジア系の大量虐殺を行い、革命政府に対して批判的な国の大使を追放するなどしたため、社会状況は大いに混乱します。このため、革命政府の大統領カルメは、1964年4月、治安回復のためと称して対岸の隣国タンガニーカに警官隊投入を要請。さらに、タンガニーカとの合併により、タンガニーカ・ザンジバル連合共和国を成立させ、ザンジバル国家を消滅させてしまいました。

 ちなみに、このタンガニーカ・ザンジバル連合共和国が現在のタンザニア連合共和国の直接の前身で、今回のニュースがタンザニアの出来事として扱われていたのもこのためです。


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