2024-02-03 Sat 09:25
きょう(3日)は節分です。というわけで、例年どおり、“(広義の)鬼”に関連する切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1897年のブリュッセル万博の周知宣伝を兼ねて1896年にベルギーが発行した記念切手で、ブリュッセルの守護聖人である聖ミカエルにより、頭に角を生やし、背中に翼のあるサタンが成敗されている場面が描かれています。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 2月8日(木) 10:00~ ニッポンジャーナル インターネット番組「ニッポンジャーナル」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。 2月9日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 謀略の世界史 原則毎月第1土曜日 13:00~14:30 MI6、CIA、モサドなど各国の情報機関のあらましや、現代史の中で彼らが実際に関与した事件などを幅広くご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 「龍の文化史」、絶賛配信中です。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『龍とドラゴンの文化史』 好評発売中!★ 辰年にちなんで、中国 の龍を皮切りに、 日本 、朝鮮、琉球、東南アジア、キリスト教世界など、世界の龍について、そのベースとなる文化史や興味深いエピソードなどを切手とともにご紹介します。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-05 Mon 02:20
1946年7月5日、フランスのファッションデザイナー、ルイ・レアールがビキニスタイルの水着を発表してから、ちょうど75年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2005年5月7日にベルギーが発行した“ヴァカンス”の切手で、ビキニスタイルの水着でビーチに寝そべる女性が描かれています。 20世紀初頭まで、西洋での女性の水着は長袖で足首まで全身を覆うスタイルのものが主流でしたが(ただし、日本を含むアジア諸国では上半身は裸で泳ぐことも珍しくありませんでしたが)、1930年代に入ると、ラテックスやナイロン素材のものが登場して体にフィットするようになっただけでなく、女子の競泳競技が盛んになったこともあり、泳ぐ際のスピードを優先して、袖や足を覆う部分をなくして首や背中の露出を大きくしたデザインのものが生まれます。さらに、1930年代後半から1940年代にかけて、腹部を露出するツーピースの水着が流行しましたが、この時点では水着のボトムは大きく、女性たちはへそを隠して着用していました。 もともと自動車整備士であったルイ・レアールは、1940年頃、母親がパリで経営していた下着会社を引き継ぎましたが、ある時、南仏のサントロペのビーチで、女性たちが肌をきれいに焼くために水着の端をまくり上げているのを見て、橋をまくる必要のない小さな水着を作ることを考えついたものの、当時は第二次大戦中だったこともあり、製品化には至りませんでした。 第二次大戦後の1946年5月、フランスのファッションデザイナー、ジャック・エイムは新デザインのツーピースの水着を発表し、「それ以上分割できない」との意味を込めて“アトム(原子)”の商品名で、“いままでで最も小さい水着”の販売を開始します。その際、エイムは新商品の宣伝のため、地中海のリゾート地の上空に飛行機を飛ばし、“世界でいちばん小さい水着”という空中文字を見せるパフォーマンスを行わせました。 エイムに先を越されたレアールは、アトムよりもさらに小さく、世界で初めてへその部分が露出するように、新聞パターンをプリントした三角形の布を4枚、紐でつないだだけの水着(現在のストリング・ビキニの原型)を考案し、1946年7月5日、公共プールのピシン・モリトールで記者発表を行いました。なお、この時のモデルはカジノ・ド・パリ出身のヌードダンサー、ミシュリーヌ・ベルナルディーニが務めましたが、これは、レアールの水着が当時の常識からするとあまりにも露出度が高く、多くのモデルに着用を断られたためです。 ところで、記者発表直前の7月1日、米国は“平和か破滅かの選択”と称して、マーシャル諸島のビキニ環礁で原爆実験を行いましたが、レアールは、その報道からヒントを得て、水着の小ささと周囲に与える“破壊力”を原爆にたとえて、新商品を“ビキニ”と命名します。また、エイムに対抗するため、レアールはリヴィエラの上空に、空中文字で「世界最小の水着(=アトム)よりも小さい」と描くパフォーマンスを行いました。 レアールの発表したビキニはすぐにヨーロッパのファッション界に大きなセンセーションを巻き起こしましたが、その後も、レアールは「(ツーピースの水着であっても)結婚指輪をすり抜けられないなら、真のビキニではない」とする印象的な宣伝コピーの広告を打ったり、ツール・ド・フランスではビキニを着た女性を宣伝カーに乗せて選手の後を追わせたりするなど、巧みな宣伝戦略により人々の注目を集め、ビキニを女性の水着の一形態として定着させることに成功しました。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月5日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) 出版社からのコメント なぜQアノンにみんなハマったのか? ネットならではの引き寄せ構造と、現代格差社会の生んだ分かりやすい解釈。 これは米国だけじゃない! 人はみんなQを求めている!? (笑) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-26 Mon 03:13
きょう(26日)は、デ(10=Ten)ニ(2)ム(6)の語呂合わせで“デニムの日”だそうです。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1968年にベルギーで発行された広告付き葉書で、米国のジーンズ・メーカー、リーバイ・ストラウス(リーバイス)の広告が入っています。 リーバイスの創業者、リーヴァイ・ストラウスは、1829年、ドイツ・フランケン地方のブッテンハイムで織物商人の家庭に生まれました。出生時のドイツ語での名前はレープ・シュトラウス (Löb Strauß) です。 16歳の時、父親のヒルシュが亡くなったため、1847年、18歳のレープは母親と二人の姉と共にニューヨークへ移住。先に移住していた兄のヨナとルイが営んでいた織物の卸売商“J.シュトラウス・ブラザー&カンパニー”で働きはじめました。 1849年、レープはケンタッキー州西部のレイビルに移り、兄の会社の商品をケンタッキーで販売し始めました。翌1850年、姉のファーゲラ(英語名ファニー)は同じくユダヤ系の織物商、ダヴィド・シュターン(英語名デイヴィッド・スターン)と結婚し、ミズーリ州のセントルイスに移住します。なお、1853年、レープは米国の市民権を獲得したのを機に、自ら英語風に“リーヴァイ・ストラウス”と名乗るようになりました。 時あたかも、カリフォルニアではゴールドラッシュの時代です。 一家は、金鉱の労働者たちの需要を見込んで、1853年、リーヴァイが先遣隊としてサンフランシスコに渡ります。その後、リーヴァイは義兄のスターンと二人でサンフランシスコ中心部のカリフォルニア・ストリートで織物類の卸売商、“リーヴァイ・ストラウス&カンパニー”を開業しました。 リーヴァイらは、ニューヨークの兄達から織物類、衣料品、寝具、櫛、財布、ハンカチなどを仕入れて販売するだけでなく、テントや荷馬車の幌を作るためのキャンバス生地も販売し、大きな利益を挙げました。 ところで、当時の一般的な衣服は、ゴールドラッシュの時代の鉱山労働者たちが作業着として使うと、すぐに擦り切れてぼろぼろになってしまうものが大半でした。 ここに目を付けたのが、ネヴァダ州リノのテーラー、ジェイコブ・デイヴィスでした。 デイヴィスは、リガ(現リトアニア。当時はロシア領)出身のユダヤ人でしたが、1870年、リーヴァイの会社からキャンバス生地を仕入れ、作業用ズボンを製造。さらに、ポケットの両端に銅のリベットを打ち付けて補強し、頑丈なワークパンツを作って売りだします。 この“リベット補強済みパンツ”が労働者たちに好評を持って迎えられたことから、デイヴィスは特許の取得を考えました。しかし、デイヴィスは自分だけでは特許申請のための費用を捻出できなかったため、1872年、仕入れ先のストラウスに資金の援助を仰ぎ、1873年5月20日、特許番号139121号「作業ズボンのポケットを銅製の鋲で強化する特許」を二人の共同名義で取得しました。 これが、現在のリーヴァイスのジーンズの原型で、特許の取得後、リーヴァイ・ストラウス社はニューハンプシャー州マンチェスターのアモスキーグ社製の帆布を用いて、“ブルージーンズ”の製造・販売を開始。世界的な衣料メーカーへと成長していくことになります。 なお、米国におけるユダヤ系の人々の歴史については、拙著『みんな大好き陰謀論』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-30 Tue 00:22
きょう(30日)は、1960年6月30日、アフリカのコンゴ民主共和国(旧ザイール。以下、コンゴ)が“コンゴ共和国”としてベルギーから独立したことにちなみ、かの国では独立記念日です。というわけで、きょうは、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1960年6月30日、コンゴ独立に際して旧宗主国のベルギーが発行した記念切手で、地球儀上のコンゴの位置を指さす少年が取り上げられています。 1885年、現在コンゴ国家の領域にベルギー国王レオポルド2世の私領として創設された“コンゴ独立国”は、1908年、ベルギー政府の直轄植民地ベルギー領コンゴになります。 第二次大戦中、ナチス・ドイツに本国全土を占領されたベルギーは、戦後復興のため、コンゴの資源を重視し、1949年には“コンゴ社会経済10年計画”を発動して本格的な経済開発に乗り出しました。その結果、ベルギー領コンゴは、1953年までに世界の工業用ダイヤモンドの70%、、ウラニウムの半分を産出するようになり、国際空港を始めとするインフラの整備も進められました。 急速な経済発展に伴い、コンゴ住民の政治意識も高揚し、労働争議が頻発。このため、ベルギー植民地当局は、1957年に主要都市における民主的選挙を導入したほか、1958年のブリュッセル万博に多くのコンゴ人を招待するなど、不満のガス抜きをはかったものの、ベルギー本国に渡ったコンゴ人は、他のアフリカ植民地では独立運動が高揚していることや、ベルギー本国のリベラル派知識人は植民地の権利向上に前向きであることなどを知り、かえって民族主義を刺激されて帰国することになりました。 こうした状況の中で、ベルギー領コンゴにおける左派系民族主義の指導者として頭角を現してきたのが、パトリス・ルムンバは、1958年10月10日、独立運動組織としてコンゴ国民運動(MNC)を結成します。 当時のベルギー領コンゴでは、ジョゼフ・カサブブひきいるアバコ党が西部を拠点に独立運動組織としては主導的な立場にあり、1957年の選挙では首都レオポルドビルで多数の議席を獲得したほか、カサブブ自身もレオポルドビルのダンダル地区長に当選していました。一方、コンゴ南端のカタンガ州の諸部族は、アバコ党の西部偏重路線に反発し、ルンダ人のモイゼ・チョンベを指導者としてコナカ党を組織し、ベルギーとの友好関係を損なわない、穏健独立路線を主張していました。 アバコ党とコナカ党は、いずれも、地域間・部族間の対立を反映して、ベルギー領コンゴが統一国家として独立することには否定的で、統一国家を構成する場合にも、地域分権の自立性が強い連邦制を採用すべきと主張していました。 これに対して、ルムンバのMNCは独立後の中央集権国家樹立を主張し、都市部のホワイトカラー層の支持を集めていたが、党内では、カサイ州北部出身のルムンバに対して、同州南部出身のアルバート・カロンジとその支持者が強い反発を示すなど、ルムンバの基盤も盤石ではありませんでした。 ところで、当時のコンゴでは、教会による初等教育はそれなりに普及していたものの、中等以上の教育を受けた者はほとんど存在せず(1959年の時点で、小学生146万人に対して、中学生は3万人弱。しかも、小学生の半分は2年生で中退)、黒人の大学進学が認められたのは1955年のことでした。したがって、独立運動家の大衆に対するアジテーションも「独立すれば給料を倍増する」、「白人の女を買えるようにする」といった類の内容が多く、大衆の中にも、“独立”という名の神が汽車にのってやってくると信じ込んでいた者さえいたそうです。 事態が緊迫化する中で、1959年1月4日、首都レオポルドビルで植民地政府がアバコ党大会の開催を禁止すると大規模な暴動が発生。ベルギー政府は軍隊の投入を検討したが、本国の労働組合とベルギー社会党は独立運動を支持する立場から、「軍隊を植民地に投入する場合には、志願者に限る」との憲法の条文を理由に、兵士たちにコンゴ派兵に参加しないよう呼びかけます。その背景には、隣国のフランスがアルジェリア独立戦争の泥沼にはまり込んでいたことにくわえ、そもそも、一般のベルギー国民はコンゴに利害を持っておらず、独立運動にも同情的だったという事情がありました。 結局、暴動は公安軍によって鎮圧され、アバコ党幹部の多くが農村に追放されましたが、このことは、地方でのアバコ党の勢力を伸張させる結果となり、勢いに乗るアバコ党は税金の支払いボイコットを先導するなど、独立運動はさらに高揚します。 このため、1960年1月24日、ベルギー政府はコンゴの独立運動諸派を招集して“円卓会議”を開催。同年6月30日付でのコンゴ独立を約束しました。 ベルギー政府としては、“早期独立”を訴えてきた独立派の主張を逆手に取り、独立までの十分な準備期間を与えないことで主要三派が自ら政策調整を行うことを困難にしたうえで、彼らの対立を調整することで、独立後も旧宗主国としての影響力を維持しようとしたのです。 はたして、独立に先立ち5月15-20日に行われた総選挙では各派が激しい選挙戦を展開。一部の地域では流血事件も発生し、その遺恨は独立後の火種となります。 5月29日に発表された開票結果では、ルムンバのMNCが第一党をなったものの、少数党の分立状態となったため、調整は難航し、アバコ党、コナカ党を含む10党連立政権(閣僚数23)が発足したのは、独立1週間前の6月23日のことでした。 こうして、1960年6月30日、アフリカ諸国が相次いで独立する中で、ベルギー領コンゴもコンゴ共和国(旧仏領の隣国も正式な国名が“コンゴ共和国”だったため、区別するため、コンゴ・レオポルドビル、コンゴ・キンシャサなど呼ばれることもあります)として独立。新国家の首相にはルムンバが、大統領にはカサブブが就任しました。 6月30日に行われた独立記念式典では、ベルギー国王のボードゥアンが“コンゴ植民地の父”としてのレオポルド2世を讃え、ベルギーが開発した素晴らしいコンゴの国を黒人たちが立派に引き継いでくれることを願うと祝辞を述べたが、カサブブに続いて演壇に立ったルムンバは、国王を指さしながらベルギーの植民地支配を糾弾し、「我々は、自由の下で仕事をすることを許された場合、黒人にできる成果というものを、全世界に示すだろう。そして我々は、コンゴを全アフリカの輝かしい実例にするだろう」と叫び、聴衆を熱狂させています。(ただし、式典後、ルムンバはボードゥアンに非礼を詫びましたが…) しかし、コンゴ駐留のベルギー軍撤退問題をめぐり、対外強硬路線のルムンバとベルギー軍が衝突。さらに、混乱の中で、地下資源の豊かなカタンガ州を地盤とするモイーズ・チョンベは、7月11日、ベルギーの支援を受けて、カタンガの独立を宣言。親西側のカサブブと急進民族主義路線を掲げるルムンバの路線対立もあり、独立間もないコンゴは四分五裂の状態に陥り、いわゆるコンゴ動乱の時代に突入していくことになります。 なお、コンゴ動乱にはキューバ革命の英雄だったチェ・ゲバラも深くかかわっていくことになるのですが、そのあたりについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも1章を設けてご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-10 Wed 01:46
米国の白人警官による黒人暴行死を受けて世界各地に抗議デモが拡大する中、ベルギーのアントワープ市当局は、きのう(9日)、同市内でのデモ参加者から“人種差別の象徴”として赤い塗料をかけられた元国王レオポルド2世の像を撤去しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1986年にベルギーが発行した”コンゴ切手100年”の記念切手で、ベルギー領コンゴ(現コンゴ民主共和国)の地図を背景に、レオポルド2世を描く“コンゴ独立国(自由国)”最初の切手が描かれています。 1865年に即位したベルギー国王レオポルド2世は、即位当初から植民地獲得の必要性を訴えていましたが、1876年9月、コンゴ探検を支援する“国際アフリカ協会”(のちにコンゴ国際協会に改組)を創設し、1879-83年、英国の探検家ヘンリー・スタンリーにコンゴ川流域を探検させ、先住民部族の部族長たちと独占的な貿易協定を締結しました。 これに対して15世紀以来、在地のコンゴ王国と関係のあったポルトガルが反発し、コンゴ川河口周辺の主権を主張。これを英国が支持すると、独仏はベルギーを支持し、列強の対立が深まりました。 このため、1884-85年、列強14カ国によるベルリン会議が開催され、コンゴを中立化し、門戸を開放して自由貿易の地にすることを条件として、コンゴはレオポルド2世の“私有地”とされました。これを受けて、1885年、レオポルド2世の私領“コンゴ独立国”が創設されます。なお、同国は自由貿易の国という意味で“コンゴ自由国”と呼ばれることも多いのですが、これは俗称です。 さて、コンゴ独立国はあくまでもレオポルド2世の私領という扱いで、ベルギー国家とは無関係という建前でした。このため、国王は専制君主として君臨するとともに、巨額の私費を投じ、さらには、個人の信用で国内外の投資家の投資を募り、マタディ=レオポルドヴィル鉄道の建設など、近代化政策を推進しました。その一方で、莫大な開発コスト回収のため、1891年以降、象牙と天然ゴムが国王の独占事業とされ、先住民には過酷なノルマが課せられただけでなく、未達の場合は手足切断などの刑罰が科されています。 このため、1885年に3000万人と言われたコンゴ独立国の人口は、1901年までに900万人にまで減少しましたが、250トン以下だった天然ゴムの生産量は6000トンに増大しました。 こうした圧政に対しては国際世論の批判も強かったため、1906年、ベルギー議会はコンゴを国王の私領からベルギー国家の植民地へ転換させる決議を採択。国王はこれに抵抗しましたが、1908年10月、ベルギー政府は植民地憲章を制定。国王はベルギー政府からの補償金との引き換えにコンゴ自由国を手放し、同年11月、コンゴ自由国はベルギー政府の直轄植民地ベルギー領コンゴになりました。 なお、ベルギー独立国の圧政で悪名高いレオポルド2世ですが、その治世はベルギー史上空前の好景気の時代で、現存する多くの巨大建造物が作られ、積極的な都市計画によってブリュッセルの街並みも一変したことから、現在でも、ベルギー国民の間では一定の人気を保っています。ベルギーがコンゴを手放してから四半世紀以上が過ぎた1986年に、今回ご紹介の切手が発行されているのも、そうした背景があるためです。 ちなみに、ブリュッセル郊外、テルフューレンにある王立中央アフリカ博物館は、1897年のブリュッセル世界万博に際して、コンゴ独立国の展示に使用された“植民地宮殿”がルーツで、翌1898年、“コンゴ博物館”として常設博物館となり、1960年に現在の名称となりましたが、世界でも有数のアフリカ文明コレクションを誇り、長年にわたり、世界におけるアフリカ文明研究の中心となってきました。 その展示内容については、以前は、レオポルド2世の残虐行為を無視しているとしてしばしば批判の対象となっていましたが、2018年のリニューアルオープンに際しては、アフリカの人々によるビデオ証言やコンゴ人芸術家の作品展示を充実させるなど、アフリカそのものに焦点をあてる一方、植民地支配の歴史は1カ所のギャラリーに集められるなどの修正が行われています。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 7月4日付で、ビジネス社より、新作『みんな大好き陰謀論』が刊行の予定です。表紙デザインは現在制作中ですが、すでに、版元ドットコムのページもできているほか、アマゾンでの予約も始まりましたので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-03-29 Fri 01:51
ベルギー・ブリュッセルの観光名所として知られている“小便小僧”の放尿に使われている水が実は飲料水であり、1日で1000リットル以上も無駄になっていることが判明し、ブリュッセル市はエコの観点から循環させる方式に変えることにしたそうです。というわけで、きょうはこの切手です、(画像はクリックで拡大されます)
これは、2015年にベルギーが自国を象徴するものを題材として発行した外信用無額面永久保証切手のうち、小便小僧を取り上げた1枚です。 小便小僧のモチーフの由来については諸説ありますが、1142年、グリムベルゲンの戦いに際して、ゆりかごに入れられて戦場の木に吊らされていたブラバント公ゴドフロワ2世(当時2歳)が敵軍に向かって放尿したエピソードや、ブリュッセルを包囲した敵軍が城壁を爆破しようとした際、ジュリアンという少年が導火線に小便をかけて火を消し、町を救ったという伝説などが知られています。 切手に取り上げられた像は、ブリュッセル中心部、ブラバント州庁舎近くにあり、もともとは1619年にフラマン人彫刻家ジェローム・デュケノワが制作したものです。ただし、オリジナルの像は1960年代にブリュッセル市立博物館(王の家)に移され、像が元あった場所にはレプリカが設置されています。 ★★★ メディア史研究会で発表します! ★★★ 4月20日(土)14:00から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパスにて開催のメディア史研究会月例会にて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の内容を中心に、「メディアとしての“英雄的ゲリラ”」と題してお話しします。 なお、メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-07-03 Tue 00:04
サッカーのW杯は、本日未明(日本時間3日03時)、日本代表がベルギー代表と戦います。というわけで、ベルギーのスポーツ切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1920年5月20日にベルギーが発行したアントワープ(アントウェルペン)五輪の記念切手のうち、古代ギリシャ風のランナーを描く1枚で、第一次大戦での負傷兵のための寄附金(額面と同額)を上乗せして販売されました。きょうの試合でも、こんな感じで腕を前方に突き出しながら走る選手の姿が見られそうですね。 第6回のオリンピックは、当初、1916年にドイツのベルリンで開催される予定でしたが、第一次大戦が勃発したため、開催が不可能となりました。このため、終戦後の1919年、IOC会長のクーベルタンは5年ぶりにIOC総会を招集。総会では、1920年の大会開催地が議論となり、ベルギーのアントワープが選ばれました。 なお、当時は冬季五輪と夏季五輪が区別されなかったため、アントワープ五輪は、1920年4月20日の開会式の後、4月にスケートなどの冬季種目を行った後、いったん休会となり、8月14日から9月12日まで夏季競技が行われるという日程になっていました。ちなみに、冬季大会が夏季大会から独立したイベントとなったのは、1924年のシャモニー五輪が最初のことです。 アントワープ五輪は選手宣誓と五輪旗掲揚が行われた最初の大会で、第一次世界大戦敗戦国のドイツ、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国は参加が許されませんでした。また、男子テニス・ダブルスの熊谷一弥と柏尾誠一郎が、日本選手として初のメダル(銀)を獲得したほか、熊谷はシングルスでも銀メダルを獲得しています。 ★★★ 全日本切手展のご案内 ★★★ 7月20-22日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにチェコ切手展が開催されます。主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-03-18 Sun 15:21
ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』3月7日号が刊行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はベルギー(4回目)を取り上げました。その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2015年に発行された外信用無額面永久保証切手のうち、トラピスト・ビールを代表する3銘柄、(左から)オルヴァル、ウェストマール、シメイを取り上げた1枚です。 1098年、ベネディクト修道会を母体に、モレームのロベールがフランス・ブルゴーニュ地方のシトー(現在のサン=ニコラ=レ=シトー)で厳格な規律を重視するトラピスト会(厳律シトー会)を創立。同会は、12世紀にクレルヴォーのベルナルドゥスによって大きく発展し、全欧州に約1800の修道院を持つまでに発展します。 19世紀以降、トラピスト修道会でつくられるビールのうち、①トラピスト会修道院の敷地内あるいは隣接する醸造所で造られる、②醸造所の経営が修道院の管理下にある、③ビールの収益が地域社会とその慈善事業などに還元される、との3条件を満たしたものは“トラピスト・ビール”と総称され、ベルギーのビール文化を代表する存在となりました。 切手に取り上げられたビールのうち、左端のオルヴァルは、11世紀に創立されたオルヴァル聖母修道院で、1931年から醸造されています。修道院はフランス革命時に破壊され、その後、長らく放置されていましたが、1926年に再興され、その資金を捻出するための手段として、ドイツ人技術者を招いて醸造所が建てられました。オルヴァルの1銘柄のみで、ピン型の瓶と聖杯型のグラスがトレードマークとなっています。 中央のウェストマールは、アントウェルペン(アントワープ)北東30キロのウェストマール修道院で1836年から生産されており、1921年に商業販売が開始されました、一般販売用にはダブルとトリプルの2銘柄があります。 右端のシメイは、 ブリュッセルの南120キロの地点にあります、この地では、11世紀頃からビールの醸造が行われていましたが、1862年、地元の失業者の雇用対策として、スクールモン修道院でトラピスト・ビールの生産が始まりました。ルージュ、トリプル、ブルー、ドレーの4銘柄がありますが、切手に取り上げられたブルーはラベルに製造年が入っており、数年に渡り熟成保存が可能です。 さて、『世界の切手コレクション』3月7日号の「世界の国々」では、ベルギー・ビールについての長文コラムのほか、桜桃、マース川、アヘル村のベネディクトゥス修道院、ヌルシアの聖ベネディクトゥス、オルヴァルのマス、“主要3宗教の融和”の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のベルギーの次は、14日発売の3月21日号での韓国(と一部ルワンダ)の特集になります。こちらについては、発行日の21日以降、このブログでもご紹介する予定です。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-09-29 Fri 10:58
ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年9月13日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はベルギーの特集(3回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1939年7月1日、アントウェルペンにあるリューベンス(英語読みだとルーベンス)の旧宅、リューベンスハイス(ルーベンスハウス)の保存資金を集めるために発行された寄附金つき切手のうち、『キリスト降架』を取り上げた1枚です。 ピーテル・パウル・リューベンスは、1577年6月28日、アントウェルペン出身のプロテスタントの法律家ヤンの亡命中、ドイツのジーゲンで生まれました。1587年、ヤンが亡くなると、一家はアントウェルペンへ戻り、リューベンスはカトリック教徒として成長します。 リューベンスはアントウェルペンで人文主義教育を受け、ラテン語と古典文学を学び、1590年、13歳でフィリップ・フォン・ラレング伯未亡人のマルグレーテ・ド・リーニュに誇称として伺候しました。ここで芸術的素養を見込まれ、アントウェルペンの画家組合、聖ルカ・ギルドへの入会を認められ、トビアス・フェルハーフト、アダム・ファン・ノールト、オットー・ファン・フェーンらに師事し、ルネサンス期の画家の作品を徹底的に模写して修行。1598年に修業を終え、聖ルカ・ギルドの一員となりました。 1600-08年、イタリアに留学し、ミケランジェロの肉体表現、ラファエロやマンテーニャの古典思想的表現、ティツィアーノなどヴェネツィア派からの豊かな色彩による画面構成、コレッジョからの甘美的表現などルネサンス芸術を研究。一気に才能を開花させます。また、ヴェネツィアの外交使節として、名画を寄贈するためスペインへ向かう途中、大雨により名画を濡らしてしまった際には、自らそれを修復。その出来栄えの良さにスペイン国王のみならず、イタリアの貴族からも絶賛され、その名が広く知れ渡ることになりました。 1608年、リューベンスは母親の病気の報を受けて帰国。母親の死に目には会えませんでしたが、腕利きの画家として故国に迎えられ、1609年9月、スペイン領ネーデルラント君主のオーストリア大公アルブレヒト7世と大公妃でスペイン王女のイサベルの宮廷画家に迎えられます。同年10月には、アントウェルペンの有力者ヤン・ブラントの娘イザベラと結婚。宮廷が置かれていたブリュッセルではなく、アントウェルペンに工房を設けることを許されました。リューベンスは大公妃イサベルの信任が厚く、画家としてのみならず特使や外交官の役割もこなし、日ごとに高まる名声と多くの弟子に囲まれて、独自の壮大な芸術を展開させていくことになります。 アントウェルペン時代初期の代表作となったのが、十字架に掛けられるキリストを描いた『キリスト昇架』(1610-11年)と、それに続いて制作した『キリスト降架』(1611-14年)です。特に、今回ご紹介の切手にも取り上げられた『キリスト降架』は、当初、アントウェルペン市長のから、アントウェルペン大聖堂の火縄銃手組合礼拝堂のため、聖クリストフォロス(同組合の守護聖人)を主題とした絵を描くよう依頼を受けたものの、カトリックとプロテスタントの対立で失われつつあったカトリック教会の権威を取り戻すため、また、アントウェルペンの平和のため、見るだけで感動を伝えられる祭壇画をとの画家の説得により、画題を変更して制作されたもので、リューベンスの最高傑作とされています。 1621年にフランス王太后マリー・ド・メディシスが、パリのリュクサンブール宮殿の装飾用に、自身と1610年に死去した夫でフランス国王アンリ4世の生涯を記念する連作絵画の制作をリューベンスに依頼。これを受けて、24点の絵画からなる『マリー・ド・メディシスの生涯』(ルーヴル美術館蔵)が作られました。(完成は1625年) 1627年から1630年にかけて、リューベンスはスペインとネーデルラントの平和交渉のため、スペインとイングランドの宮廷を何度も往来。画家兼外交官として、各地の宮廷で賓客として遇されて作品を残し、スペインとイングランドから爵位を与えられています。 1630年、当時53歳だったリューベンスは16歳のエレーヌ・フールマンと再婚(最初の妻、イザベラとは1626年に死別)。彼の代表作の一つとされる『麦わら帽子』は、エレーヌの姉、シュザンヌをモデルに描かれました。 1635年、リューベンスはアントウェルペン郊外に土地を購入し、ここに建てたステーン城で晩年のほとんどをすごし、1640年、心不全で亡くなり、その遺体はアントウェルペンの聖ヤーコプ教会に埋葬されました。8人の遺児のうち3人がイザベラ、5人がエレーヌとの間に生まれた子供で、最年少の子供はリューベンス死去時に生後8カ月の乳児でした。 さて、『世界の切手コレクション』9月13日号の「世界の国々」では、リューベンスとその作品についてまとめた長文コラムのほか、ベルギー・ビール、ダイヤモンド、画家ファン・ダイク、アントウェルペン五輪、フライドポテトの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、ベルギーの次は、来週10月4日に発売の10月11日号でのガーナの特集になります。こちらについては、発行日の10月11日以降、このブログでもご紹介する予定です。 ★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は5日!★★ 10月5日(木)16:05~ NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第9回が放送予定です。今回は、10月9日に没後50周年を迎えるチェ・ゲバラの切手にスポットを当ててお話をする予定ですので、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★ 明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。 現在、出品作品を11月10日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-05-28 Sun 12:02
米ファストフード大手のバーガーキングが、同社とベルギーのフィリップ国王と対比し「どっちがキングかな?」と問う広告をインターネット上に掲載(下の画像。以下、画像はクリックで拡大されます)。広告では、どちらか選ぶよう促したうえで、“フィリップ国王”を選ぶと「いいのか? この男はフライドポテトを作れない」と問い掛けてくるようになっていました。
これに対して、昨日(27日)、ベルギー王室は「国王のイメージを利用するには許可が必要だ。この特殊な件に関し、王室は何も聞いていないし、商業目的なのは明白で、許可することもない」と強い不快感を表明しました。というわけで、今日はこんな切手を持ってきました。 これは、2015年にベルギーが発行した外信用無額面永久保証切手で、同国発祥の料理としてフライドポテトが取り上げられています。 現在のフライドポテトは、1600年頃、(ワロン地域)のナミュールで、農民たちが作り始めたフリッツ(Frietjes)が起源とされています。当時、ナミュールを含む南ネーデルランドはスペインの支配下に置かれていましたが、その後、ハプスブルク(1713-94年)、フランス(1794-1815年)、ネーデルランド連合王国(1815-30年)の支配を経て、1830年、ベルギー王国として独立しました。このため、ナミュールが属する国ということで、現在、ベルギーはフライドポテト発祥の地とされているわけです。 もともと、ナミュールにはムーズ川で釣った魚をフライにして食べる習慣がありましたが、冬の間は川が凍結して魚が獲れないため、魚の代わりに細く切ったジャガイモをヘット(牛脂)で揚げて食べていました。これがフライドポテトの原型です。ただし、当時のヨーロッパではジャガイモは主として家畜の飼料にされ、人間の食用とされることは稀でしたので、ナミュールのフリッツが広く普及することはありませんでした。 その後、フランス革命の混乱でパンおよび原料の小麦が不足すると、革命政府はその代用としてジャガイモを配給。これを機に、ジャガイモ食がヨーロッパで広まり、フリッツも普及します。 一方、米国では、1802年、トマス・ジェファーソンがパリからフリッツのレシピを持ち込みましたが、民間の家庭料理としてはあまり普及しませんでした。しかし、第一次大戦中、多数の米兵が欧州戦線に派遣されると、彼らを通じてベルギーの国民食となっていたフリッツが米国でも普及するようになります。なお、現地でフリッツに出会った米兵たちは、地元の住民がフランス語を話していたため、これを“フランスのポテト”と誤解。それがし“フレンチ・ポテト”の由来となったといわれています。 第一次大戦後、“フレンチ・ポテト”の可能性に目を付けたクラレンス・バーズアイは、1920年代に急速冷凍の特許を取得し、冷凍ポテトの販売を始めましたが、当時は冷凍庫の普及率が低く、商品としてはほとんど売れませんでした。その後、1950年代に冷凍庫が家庭にも普及するようになると、第二次大戦中に乾燥野菜を米軍に納入して巨額の利益を上げたジョン・リチャード・シンプロットがバーズアイの技術に着目。1950年代にアイダホ州でジャガイモの大農場と巨大な加工工場を使り、大々的にフライドポテトを販売。さらに、1965年にはマクドナルドがシンプロットの冷凍ポテトを導入したことで、フライドポテトは全世界的に普及していくことになりました。 ちなみに、今回、問題となった広告を出したバーガーキングがフロリダ州マイアミのハンバーガーレストランとして創業したのは1954年のことですから、当初から現在と同じようなフライドポテトを作っていたとしても、ベルギーのフリッツからは300年以上も後発ということになります。したがって、僕だったら、今回の同社の広告への対抗措置としては、「どっちが本家かな?」のタイトルで同じデザインのサイトを作り、バーガーキングを選ぶと「いいのか? こちらのフライドポテトは“元祖”の味じゃない」と国王陛下の声で流れるような仕掛けにしてやりたいですな。 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回 は1日! ★★★ 6月1日(木)16:05~ NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第3回目が放送予定です。今回は、5月26-27日にG7サミットが行われたシチリアにスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-04-21 Fri 16:56
パリのシャンゼリゼ通りで、現地時間20日午後9時ごろ(日本時間21日午前4時ごろ)、警官が銃撃され、1人が死亡、2人が重軽傷を負う事件があり、実行犯はその場で射殺されました。過激派組織ダーイシュ(自称“イスラム国”。IS)傘下の通信社AMAQは、射殺された実行犯はダーイシュの戦闘員でベルギー人(ベルギー出身)のアブー・ユーセフ・ベルギージーであると報じています。というわけで、今日はこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2016年にベルギーで発行された“(多宗教間の)寛容”の切手で、ベルギーの主要宗教であるユダヤ教、カトリック、イスラムの各宗教指導者(左からラビのアルベール・ギギ、アントワープ司教のジョアン・ボニ、ヘントのイマームのハリド・ベンハッドゥ)が伝統的な装束に身を包み、互いに手を携えた写真と、その下に「誰もが平等で、誰もが異なっている」との文言が入っています。 異なる宗教に対する寛容性をアピールするための切手を発行しようという企画は、2014年5月にブリュッセルで発生したユダヤ博物館襲撃事件(死者4名)の後に持ち上がり、2015年11月、Bポスト(ベルギー郵政)が、2016年に“寛容”と題する切手を発行する計画を発表。3人の宗教指導者に対して、彼らが一緒に並んだ切手を発行したいとのオファーがなされ、3人がこれを快諾したことを受けて、フラマン語圏出身の女性写真家のリーヴァ・ブランカートが、切手の原画写真を撮影しました。ちなみに、中央にカトリックのボニ司教が立っているのは、ベルギー国内では3宗教のうち、カトリックの人口が最も多いためです。 切手に登場したギギは、イスラエル紙のインタビューに答えて「この切手が示そうとしているのは、ベルギーでは、何が起ころうと、人々がどのようなニュースを聞こうと、それぞれの宗教の関係は良好だということだ。この写真で、我々は共に手を取り、連帯して、共に働いていることを示している」と述べています。ちなみに、ギギはインタビュー時には70歳で、30年以上にもわたってベルギーでチーフ・ラビとして活動してきた人物です。 現在、ベルギーにおけるユダヤ教徒はブリュッセルとアントワープを中心に4万人いるとされていますが、近年、ガザ地区をめぐるイスラエルの強硬姿勢に抗議するというかたちをとって、彼らに対する圧力が強まっています。また、ベルギー国内のムスリム人口は70-90万人とされており、その大半はモロッコ出身者もしくはその子孫です。その背景には、1960年代、安価な労働力として、ベルギーが国策としてモロッコおよびトルコからの移民を大々的に受け入れたという事情があり、現在、ブリュッセルではムスリムが人口の25%以上となっているほか、アントワープとシャルルロワにも相当数のムスリムが生活しています。 この切手が企画されるようになったきっかけは、ユダヤ博物館に対する襲撃事件でしたが、実際に切手が発行されたのは、昨年3月のブリュッセルでの連続テロ事件の後のことでしたから、圧倒的多数の善良なムスリム市民への不当な差別や攻撃を抑え、ムスリムと非ムスリムの共存を訴えるものとして、この切手を受け止める人も多かったのではないかと思われます。 その一方で、ベルギー経済の停滞もあって、移民2世・3世のムスリムは実質的な就職差別にさらされることも少なからずあり、彼らの不満は鬱積しています。 また、ベルギーでは、国内のフランデレンとワロンの対立から、総選挙後に連邦政府に長期間の政治的空白が生じることが常態化しており、たとえば、2010年の総選挙では連立交渉がうまくいかず、政治空白が540日も続いたほか、2014年5月の総選挙後も新政権発足までに4ヵ月半かかっています。 こうした政治的空白は、かつては、地方政府の自治権が強いため、それによってカバーされる面もあったのですが、欧州統合を優先し、連邦政府が国民の生命・財産を守るという意識に乏しい(ように見える)という隙を突くかたちで、テロリストが流入したり、あるいは、現状に不満を持つベルギー人ムスリムの若者が“ホームグロウン・テロリスト”になるという構図が生まれることになりました。特に、ブリュッセル西郊のモレンベーク地区(9万の人口のうち、8割がムスリムとされる)は、2015年のパリ同時多発テロ事件でもテロリストの出撃拠点となっており、ダーイシュへの戦闘員供給地ないしはテロの温床として、その悪名をとどろかせているほどです。 今回のパリでの襲撃事件は、AMAQの報道が事実だとすれば、またしても、テロの背景には“ベルギー”があったということになります。もちろん、ベルギー国内に居住するムスリムの圧倒的多数は善良な市民でしょうから、彼らに対するいわれなき差別や攻撃があってはならないのは当然で、その意味で、今回ご紹介の切手に見られるような“寛容”の精神は非常に重要なわけですが、そのためにも、十分な治安・テロリスト対策により国民の生命・財産がきちんと保存されなければならないことは言うまでもありません。要は、両者のバランスということなのですが、だとすれば、この切手と並行して、“反テロ”を訴えて、インパクトのある切手が発行されても良いような気がします。 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回 は27日! ★★★ 4月27日(木)16:05~ NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第2回目が放送予定です。今回は、23日のフランス大統領選挙の第1回投票と5月7日の決選投票の間の放送ということで、フランスの初代大統領と切手についてのお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2016-11-02 Wed 11:20
ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2016年10月26日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はベルギーの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1997年に発行されたポール・デルヴォー生誕100周年の記念切手です。 ベルギー現代美術の巨匠、ポール・デルヴォーは、1897年、リエージュ州生まれ。1920-24年ブリュッセルの美術アカデミーに学び、初期は新印象派と表現派の様式で描いていましたが、その後、デ・キリコやマグリットに影響を受けシュルレアリスム運動に接近。1935年以降は、運動には直接参加しないままシュルレアリスム展にしばしば出品するようになりました。 理想化された美しい裸婦が遠近法の建物や庭園、人工的な夜の中にたたずむ作品や、骸骨をモチーフとした作品など、幻想的な世界を描き続けたことから、“幻想画家”と称されています。今回ご紹介の切手に取り上げられているのは、1948年に制作された裸婦像です。 さて、『世界の切手コレクション』10月26日号の「世界の国々」では、ベルギー・チョコレートの歴史をたどった長文コラムのほか、小便小僧、ダミアン神父、ワーテルローの戦い、フライトアテンダントのナターシャ、ムール貝の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、ベルギーの次は、26日に発売され11月2日号でのキルギスの特集(2回目)になります。こちらについては、近々、このブログでもご紹介する予定です。 ★★★ 講座のご案内 ★★★ 11月17日(木) 10:30-12:00 毎日文化センターにて、1日講座、ユダヤとアメリカをやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました! ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-09-25 Sun 22:39
ご報告が遅くなりましたが、大手製菓メーカー(株)ロッテの季刊広報誌『Shall we Lotte(シャル ウィ ロッテ)』の第33号(2016年秋号)ができあがりました。僕の連載「小さな世界のお菓子たち」では、今回は、こんな切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2013年にベルギーが発行したチョコレート切手です。 ヨーロッパ諸国のうち、チョコレートが重要な輸出産業となっている国は、たいてい、自国のチョコレートを広く諸外国に宣伝するための切手を発行しています。数多くのチョコレート工場を有するベルギーの場合も例外ではなく、過去にも何度かチョコレートを題材にした切手を発行しています。その中でも、今回ご紹介の1点は、こだわりの1品として発行当時は大きな話題となりました。 切手シートには、溶けたチョコレートがしたたり落ちる背景の中に、スプリンクル、製菓用のブロック、ハート形のプラリーヌ、パンに塗られたチョコレートスプレッド、板チョコが取り上げられています。 このうち、スプリンクルは、チョコレートを細かい麺状に絞り出して冷やし、回転釜で粉砕して細かい棒状にしたもので、日本ではチョコレート・スプレー(スプレー・チョコレートとも)とも呼ばれる。スプリンクルは“ふりかけ”、スプレーは“しぶき”という意味です。アイスクリームやクッキー、縁日のチョコバナナなどのトッピングに使われるのは、カラフルなものが主流ですが、切手では、チョコレートそのものを見せるため、着色されていない状態で描かれています。 また、プラリーヌは、一口サイズで、中にクリームやリキュール、アーモンドと砂糖をペースト状にしたマジパンなどを詰めたものです。もともとは、1912年にベルギーの薬剤師、ジャン・ノイハウスがナッツ類に飴をからませ、ペースト状にしたものをチョコレートの中に包み込んだのが始まりとされています。ベルギーでは欠かせないチョコレートといえましょう。 実は、この切手シートには、ダークチョコレートの味と香りが付けられています。裏面の、糊の部分にカカオエキスが含まれていて、舐めるとチョコレートの味がします。さらに、印刷用のインクには香料が混ぜられているので、香りも楽しめるのです。 チョコレートの香りがついた切手には先例がいくつもありますが、この切手シートは、よりリアルな香味を再現するため、ベルギー国内のみならず、ドイツ、オランダ、スイスなどの専門家を集めて仕上げています。これまでの切手よりもはるかに完成度の高い1枚となりました。 ★★★ 講座のご案内 ★★★ ・よみうりカルチャー荻窪 「宗教と国際政治」 10月から毎月第1火曜の15:30より、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で講座「宗教と国際政治」がスタートします。初回は10月4日です。ぜひ、遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。 ・毎日文化センター それぞれ、1日講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) 10月11日(火) 19:00-20:30 リオデジャネイロ歴史紀行 11月17日(木) 10:30-12:00 ユダヤとアメリカ ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました! ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-08-20 Sat 14:39
リオデジャネイロ五輪15日目(現地時間19日)は、レスリング・フリースタイル男子57kg級の樋口黎と陸上男子4×100mリレーが銀、男子50km競歩の荒井広宙、シンクロナイズドスイミング団体、バドミントン女子シングルスの奥原希望が銅のメダルを獲得しました。というわけで、きょうは陸上のリレーを描いた切手の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1950年7月1日、ベルギーが発行した1950年ヨーロッパ陸上競技選手権大会の寄附金つき切手の小型シートで、リレーのバトンの受け渡し場面を描く切手1枚が収められています。1950年のヨーロッパ陸上競技選手権大会は、同年8月23-27日、ブリュッセル近郊のエゼル競技場(現ボードゥアン国王競技場)で行われました。 大会の開催に先立ち、ベルギー郵政は費用捻出の一手段として5種セットの寄附金つき切手を発行。今回ご紹介のシートに収められているのはそのうちの1枚で、単片切手としては額面1フラン75サンチームに対して25フランの寄附金が上乗せして2フランで販売されましたが、シートの状態では、さらなる寄付金をえるために20フランで販売されました。 しかし、さすがに単片切手の10倍もの販売価格であったため、シートは大量に売れ残ってしまいます。このため、1951年4月、周囲の文字部分を切り落とし、黒枠内に“25フラン スポーツ基金のために/ 第25回ブリュッセル国際フェア”と加刷したシートが作られ、4月21日から5月6日までの会期中、国際フェアの会場で販売されました。この時の加刷文字にはフランス語版とフラマン語(オランダ語)版がありますが、とりあえず、下にはフランス語版の画像を貼っておきました。 ちなみに、今回ご紹介のシートが発行されたのは、ベルギー国内が国王の処遇をめぐって騒然とした状況にあった時期です。 第二次大戦中のベルギーはナチス・ドイツに全土を占領され、政府はロンドンに亡命していましたが、国王レオポルド3世は首都ブリュッセルに残り、ドイツ、オーストリアでの軟禁生活を経て、終戦後はスイスで亡命生活を送っていました。国王は対独協力者ではありませんでしたが、亡命政府に同行しなかったことで反逆罪を問う声が上がり、ベルギーへは帰国できない状況が続いていました。 1946年、ベルギー政府の査問委員会は国王を反逆罪に問わないと決定しましたが、異論が続出したため、1950年に国民投票が実施されます。投票はベルギー国内の南部・フラマン語地域のワロン(復帰反対)と北部・フランス語地域のフランデレン(復帰支持)の地域間対立も絡んで、復帰支持は57%にとどまりましたが、ともかくも、国民投票で過半数が復帰を支持したことで、1950年末、国王は帰国します。 ところが、国王の帰国に際して、反対派は抗議のストライキを敢行し、暴徒化したスト参加者と憲兵隊の衝突で死傷者が発生。このため、国家の分裂を避けるため、1951年7月16日、国王は退位し、息子のボードゥアンが新国王となりました。 こうした中で、当時の首相ジョゼフ・フォリアンは、国王復帰反対運動には少なからぬ共産主義者がかかわっていたこともあって、東西冷戦下での共産主義の台頭に強い警戒感を抱き、西側陣営としての旗幟を鮮明にするとともに、戦後復興のための支援を米国から獲得するためにも、朝鮮戦争への国連軍の派遣が決定されると、直ちにベルギー国連部隊の派遣を表明しています。このあたりの事情については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『リオデジャネイロ歴史紀行』 好評発売中!★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました! ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-05-02 Mon 12:11
3月22日のテロ事件で閉鎖されていたブリュッセル国際空港の出発ロビーが、きのう(1日)、約6週間ぶりに一部再開されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1993年にベルギーで発行された“青少年のためのフィラテリー”の切手で、ベルギーのバンドデシネ(ベルギー・フランスを中心とした地域で好まれる形式のコミック)作家、フランソワ・ワルテリーのキャラクター、フライト・アテンダントのナターシャがブリュッセル国際空港を歩いている姿が描かれています。 ナターシャは、ベルギー・フランス語圏のコミック誌『スピルー』1970年2月26日号に掲載された初めて登場したキャラクターで、1971年の『フライト・アテンダント、ナターシャ』以降、『スピル―』の出版元であるデュピュイ社から多くの単行本が刊行されています。物語は、若くセクシーなナターシャと同僚たち、そして恋人のワルターとのくっついたり離れたりの恋を軸に展開されており、彼女のキャラクターは、ストーリー作家のゴスと作画担当のワルテリーによって生み出されたものですが、その後、ストーリーに関しては、ゴス以外にも、ペヨ(スマーフの作者)、モーリス・ティリュー、ラウル・コーヴァン、マルク・ワステレンが担当しています。 作画担当のワルテリーは、1946年、リエージュ近郊のアルジャントー生まれ。リエージュのサン・ルク美術学校の学生だった1962年に最初の作品を発表。翌1963年からスマーフで知られるペヨのアシスタントとして研鑽をつみ、1967年以降、後にナターシャを生み出すことになるゴスとのコンビで作品を発表するようになりました。代表作は、何と言っても、一連のナターシャ・シリーズですが、他にも、ルビーヌを主人公とした作品群も高い評価を得ています。 ★★★ 講座のご案内 ★★★ ・よみうりカルチャー荻窪 「宗教と国際政治」 4月から毎月第1火曜の15:30より、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で講座「宗教と国際政治」がスタートします。ぜひ、遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 2350円+税 【出版元より】 若く美しい女王の横顔に恋しよう! 世界最初の切手 欲しくないですか/知りたくないですか 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 2000円+税 【出版元より】 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-03-22 Tue 22:26
ベルギーの首都、ブリュッセルの近郊にあるフラームス=ブラバント州ザベンテムのブリュッセル国際空港と市内中心部の地下鉄マールベーク駅で、22日朝(日本時間同日夕)、連続してテロとみられる爆発が起き、この記事を書いている時点で、空港では11人、地下鉄駅で15人が亡くなったほか、2カ所で130人以上が負傷しました。というわけで、きょうは、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1963年にベルギーが発行したベルギー・サベナ航空40周年の記念切手で、今回の事件現場となったブリュッセル空港の上空を飛ぶサベナ航空機が描かれています。サベナ航空は、1923年、ベルギー本国とベルギー領コンゴとを結ぶ国営航空会社として設立されました。実際にブリュッセル=コンゴの間の運航が始まったのは1935年ですが、切手は会社設立から起算して発行されています。なお、サベナ航空は、経営の悪化により、2001年11月7日、全ての運航を停止。その後、同社の機材や路線の一部は、SNブリュッセル航空が引き継いだものの、2007年、同社はヴァージン・エキスプレスと合併し、現在はブリュッセル航空となっています。 さて、ブリュッセルの空港は、当初、ブリュッセル首都圏北東端のハーレンに置かれていました。第二次大戦中の1940年、ベルギー全土を占領したナチス・ドイツは、ハーレンの空港が手狭だったため、ザベンテムとメルスブロークにまたがる600ヘクタールの土地を接収し、メルスブローク側に3本の滑走路を建設しました。 1944年9月3日、ベルギーは連合国によって解放され、ドイツ軍が建設したメルスブロークの空港施設は英軍の管理を経て、ベルギーに引き渡されます。これを受けて、ベルギー当局は首都の空港機能をハーレンからメルスブロークに移すことを決定。新たな空港建物の建設と滑走路の拡張を経て、1948年7月20日、メルスブローク空港に国際空港が開港しました。 しかし、1948年の新空港開港後も空港関連施設の建設が相次ぎ、メルスブローク空港も手狭になったため、ベルギー政府は、1956年4月、隣接するザベンテム側の敷地に新空港を建設することを決定。工事は1957年4月に始まり、翌1958年にブリュッセルで開催された万国博覧会にあわせて、同年7月5日に開港しました。これが、今回の事件現場となった現在のブリュッセル国際空港です。ちなみに、ブリュッセル万博の会期は1958年4月17日から9月19日まででしたので、ザベテンテムの国際空港は万博初日には間に合わなかったものの、なんとか、会期中には開港を間に合わせたという格好となりました。 なお、ザベンテムでの空港開港に伴い、メルスブローク側の滑走路と空港施設は、ベルギー空軍の基地として利用されるようになり、現在に至っています。また、ザベンテムとメルスブロークは隣接していることから、この地域一帯の空港開発が始まったことをもって、現在のベルギー国際空港のルーツとする考え方もあり、その場合、ブリュッセル国際空港の開港をナチス占領時代の1940年とすることもあるようです。 現在、事件の影響でブリュッセル国際空港は閉鎖されていおり、運航再開のめどは立っていないようです。あらためて、亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、負傷された方々には心よりお見舞い申し上げ、一日も早い運航再開をお祈りしております。 ★★★ 講座のご案内 ★★★ ・よみうりカルチャー荻窪 「宗教と国際政治」 4月から毎月第1火曜の15:30より、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で講座「宗教と国際政治」がスタートします。ぜひ、遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 2350円+税 【出版元より】 若く美しい女王の横顔に恋しよう! 世界最初の切手 欲しくないですか/知りたくないですか 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 2000円+税 【出版元より】 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2015-06-18 Thu 15:24
1815年6月18日のワーテルローの戦いから、きょうでちょうど200年です。というわけで、今日はこの切手をもってきました。画像はクリックで拡大されます)
これは、1990年にベルギーで発行された“ワーテルローの戦い175年”の記念切手で、タブとあわせて戦闘場面がパノラマ式に描かれています。 1814年、いわゆる諸国民戦争で英国、オーストリア、ロシア、プロイセン、スウェーデンに敗れたフランスのナポレオン1世(以下、ナポレオン)は、4月6日に退位させられ、エルバ島に流されました。その後、同年9月1日から、戦後処理のためにウィーン会議が開催されましたが、各国の思惑が複雑に絡んで会議は停滞。この間、フランスではルイ18世が即位して王政復古が宣言されましたが、革命を体験した国民はその復古的な政策に不満を抱いていました。 こうした状況を見たナポレオンは、1815年2月26日、エルバ島を脱出してフランスに上陸。ルイ18世は逃亡し、国民の歓呼の中、3月20日、ナポレオンはパリに入城して、再び帝位につきました。 これに対して、各国は第7次対仏大同盟を結成。ベルギー方面にウェリントン公率いる英蘭連合軍とブリュッヒャー率いるプロイセン軍が展開します。一方、ナポレオンはフランス軍主力を率いてベルギーへ向かい、6月15日、リニーの戦いでプロイセン軍を破り、プロイセン軍の追撃はグルーシーの別働隊に任せ、自身はブリュッセル南東のワーテルローでイギリス・オランダ連合軍と対峙します。 こうして、6月18日、ワーテルローでフランス軍と英蘭連合軍の激戦が始まりましたが、その途中、グルーシーの追撃を振り払ったプロイセン軍が戦場へ到着し、フランス軍の側面を攻撃。これが決定的な打撃となってフランス軍は潰走します。6月22日、ナポレオンは再び退位し、セントヘレナ島へ流されます。なお、第2次パリ条約の締結により、ナポレオン戦争が完全に終結したのは、1815年11月20日のことでした。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『日の本切手 美女かるた』 好評発売中! ★★★ 税込2160円 4月8日付の『夕刊フジ』に書評が掲載されました! 【出版元より】 “日の本”の切手は美女揃い! ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え! <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾン、boox store、e-hon、honto、YASASIA、紀伊國屋書店、セブンネット、ブックサービス、丸善&ジュンク堂、ヨドバシcom.、楽天ブックスをご利用ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2014-07-16 Wed 18:42
ご報告がすっかり遅くなりましたが、『東洋経済日報』6月27日号が発行されました。僕の月1連載「切手に描かれたソウル」では、今回は、掲載日がサッカーのW杯で韓国とベルギーの試合が行われた日だったので、韓国とベルギーの歴史的な関係についてまとめてみました。で、その記事には間に合わなかったのですが、記事の内容に関するものとして、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、朝鮮戦争時に韓国に上陸したベルギー軍の写真絵葉書に、ベルギー切手を貼って消印を押した記念品です。 韓国とベルギーとの関係は、1901年10月17日、両国間の国交が開かれ、総領事としてレオン・ヴァンカールがソウルに着任したところから始まります。その後、大韓帝国は1905年11月に結ばれた第2次日韓協約によって外交権を失いますが、その後も、日本による韓国併合まで、韓国皇室とベルギー王室との関係は事実上維持されていました。 そのことを物語るのが、現在、江南の舎堂駅(地下鉄の駅番号は226、433)近くのソウル市立美術館・南ソウル分館です。 この建物は、もともと、1905年に竣工したベルギー領事館の建物で、当初は、南大門市場に近い会賢洞にありました。地下1階、地上2階建て。外壁は赤レンガと花崗岩で造られた古典主義様式の建物です。 その後、ベルギー大使館が現在の龍山区漢南洞に移転したため、1970年、韓国商業銀行(1998年に韓一銀行と合併して、現在はウリ銀行)が払い下げを受けて保存・管理することになり、1977年には国の指定史跡第254号に選定されました。そして、ソウル都心の再開発事業のため、1983年、現在の場所に移築され、2004年以降、ソウル市に無償で借り受けて、現在は市立美術館南ソウル分館として利用されています。 ところで、1901年以来の韓国・ベルギー関係において、特筆すべきは、やはり、朝鮮戦争に際して、累計3171名のベルギー軍が国連軍の一員として参加し、101名が戦死したことでしょう。 第二次大戦中のベルギーはナチス・ドイツに全土を占領され、政府はロンドンに亡命していましたが、国王レオポルド3世は首都ブリュッセルに残り、ドイツ、オーストリアでの軟禁生活を経て、終戦後はスイスで亡命生活を送っていました。国王は対独協力者ではありませんでしたが、亡命政府に同行しなかったことで反逆罪を問う声が上がり、ベルギーへは帰国できない状況が続きます。 1946年、ベルギー政府の査問委員会は国王を反逆罪に問わないと決定しましたが、異論が続出したため、1950年に国民投票が実施されます。投票はベルギー国内の南部・オランダ語地域のワロン(復帰反対)と北部・フランス語地域のフランデレン(復帰支持)の地域間対立も絡んで、復帰支持は57%にとどまりましたが、ともかくも、国民投票で過半数が復帰を支持したことで、1950年末、国王は帰国します。 ところが、国王の帰国に際して、反対派は抗議のストライキを敢行し、暴徒化したスト参加者と憲兵隊の衝突で死傷者が発生。このため、国家の分裂を避けるため、1951年7月16日、国王は退位し、息子のボードゥアンが新国王となりました。 朝鮮戦争が勃発した1950年6月のベルギーは、このように、国王の処遇をめぐって国内の対立が先鋭化していた時期にあたっていました。当時の首相、ジョゼフ・フォリアンは東西冷戦下での共産主義の台頭に強い警戒感を抱いており(国王復帰反対運動には、ワロン以外からも、少なからぬ共産主義者がかかわっています)、戦後復興のための支援を米国から獲得するためにも、国連軍の派遣が決定されると、直ちにベルギー国連部隊(Belgian United Nations Command)の派遣を表明したのです。 国連部隊には2000人以上の志願者の中から選抜された700人が国内で訓練を受けた後、アントワープから釜山へ向けで出発。1951年1月31日、釜山に到着しています。彼らは、英第29歩兵旅団の指揮下で、1951年4月の臨津江の戦闘に参加し、共産側の攻撃に対して国連軍が撤退する際の退路を確保したほか、“鉄の三角地帯(半島中部の鉄原・金化・平康を結ぶ激戦地域)”で勇敢に戦い、中国人民志願軍に大きな損害を与え、1953年の休戦協定を経て、1955年6月15日、韓国からは完全に撤退しました。 さて、以前のブログでも少し書きましたが、現在、『朝鮮戦争』と題する拙著を今夏に刊行すべく、準備を進めています。すでに、本文の原稿はできあがっており、現在、粛々と編集作業を進めているところで、8月の全日展の前にも見本ができあがってきそうです。正式なタイトルや刊行日などが決まりましたら、随時、このブログでもご案内していきますので、よろしくお願いいたします。 ★★ 講座「切手を通して学ぶ世界史:第一次世界大戦から100年 」のご案内 ★★ 7月18日・8月29日・9月19日の3回、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、第一次大戦100年の企画として、「切手を通して学ぶ世界史」と題する講座を行います。 講座では、ヨーロッパ、中東、日本とアジアの3つの地域に分けて、切手や絵葉書という具体的なモノの手触りを感じながら、フツーとはちょっと違った視点で第一次世界大戦の歴史とその現代における意味を読み解きます。 詳細は、こちらをご覧ください。 * 左の画像は講座のポスター、右は講座の内容を紹介した5月20日付『中日新聞』夕刊の記事です。どちらもクリックで拡大されますので、よろしかったらご覧ください。 ★★★ 『外国切手に描かれた日本』 電子書籍で復活! ★★★ 1枚の切手には 思いがけない 真実とドラマがある 光文社新書 本体720円~ アマゾン・紀伊国屋書店ウェブストアなどで、6月20日から配信が開始されました。よろしくお願いします。(右側の画像は「WEB本の雑誌」で作っていただいた本書のポップです) ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2013-07-22 Mon 14:56
ベルギーで、昨日(21日)国王アルベール2世が高齢を理由に退位し、長男のフィリップ皇太子が新国王として即位しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1963年にベルギーで発行された赤十字100年記念の寄附金つき切手の1枚で、当時のベルギー王室ご一家が取り上げられています。切手に取り上げられているのは、左から国王アルベール2世、当時3歳のフィリップ皇太子、母親のパオラ王妃、そして1962年6月に生まれたばかりのアストリッド王女です。ベルギーのロイヤルファミリーには、このほか、1963年10月に生まれたロラン王子がいるのですが、切手が発行されたのは同年9月28日ですから、まだ王妃のお腹の中ですな。あるいは、切手の元になった写真が撮影された時点では、影も形もなかったのかもしれません。 さて、新国王のフィリップ陛下は、1960年4月15日生まれ。公立学校でベルギーの2大言語であるオランダ語とフランス語の両方の教育を受け、士官学校で戦闘機パイロットの訓練を受けました。 今回の新国王の即位で、特に注目されているのが、1999年に結婚したマティルド王妃です。彼女は、フランデレン(北部オランダ語圏)にルーツのあるデュデケム・ダコ伯爵家の出身ですが、同家の邸宅はワロン地域(南部フランス語圏)にあり、このため、フランス語とオランダ語のバイリンガルとして育ちました。 ベルギーでは、建国以来、フランデレンとワロンの対立が絶えず、しばしば国家分裂の危機に見舞われていることもあり、フランス語とオランダ語を平等に扱うということについて、非常に神経質です。それゆえ、新国王と王妃がともに、オランダ語とフランス語の双方に同じようにアクセスできるようになった(ちなみに、先代のアルベール2世のパオラ王妃は英仏伊の3ヶ国語はできますが、オランダ語はほとんどできません)ことは、同国の国家統合という点で歓迎すべきことであり、今後の国王夫妻の役割に期待が寄せられています。 なお、ベルギーの原語事情と切手については、拙著『事情がある国の切手ほど面白い』でも1章を設けてご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の次回作(予告) ★★★ ★★★ 内藤陽介の最新作 ★★★ 『マリ近現代史』 北アフリカ・マリ共和国の知られざる歴史から混迷の現在まで、 切手・絵葉書等で色鮮やかに再現したオールカラーの本格的通史! amazon、e-hon、hontoネットストア、Honya Club、JBOOK、7ネット・ショッピング、紀伊國屋書店、版元ドットコム、ブックサービス、文教堂、丸善&ジュンク堂書店、楽天ブックスなどで好評発売中! ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★ 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。開催日は7月30日、9月3日(原則第1火曜日)で、時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-03-21 Wed 14:18
日産自動車は、きのう(20日)、1981年に廃止した“ダットサン”ブランドを、新興国向けの低価格車として2014年からインドネシア、インド、ロシアで生産と販売を再開すると発表しました。というわけで、きょうはこんなマテリアルを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ベルギーで発行された“ダットサン”の広告つき葉書です。ベルギーというと、国内の言語対立からフランス語とオランダ語のどちらかに偏るのはまずいというイメージがあるのですが(このあたりの事情については、拙著『事情のある国の切手ほど面白い』をご覧いただけると幸いです)、今回ご紹介の葉書の広告文は全文オランダ語です。別にフランス語バージョンのものがあるのかどうかは、残念ながら、チェックできていませんので、ご存知の方はご教示いただけると幸いです。 さて、日本人による純国産車の開発は、1914年設立の“改進社自動車工場”によって始められました。同社は1924年にダット3/4トントラックを軍用保護自動車として生産していますが、この“ダット”の名称は、同社の創業者に関わった田健治郎のD、青山禄朗のA、竹内明太郎のTの頭文字と、脱兎のごとく早く走ることをかけた命名でした。 改進社自動車工場は1926年に実用自動車製造株式会社と合併してダット自動車製造となり、1930年に試作車を完成させました。翌1931年、同社の自動車は“ダットの息子”を意味する“DATSON(ダットソン)”と名付けられましたが、のちに、ダットソンのソンが損につながるというゲン担ぎから“DATSUN(ダットサン)”と改名されています。これが、“ダットサン”ブランドの直接のルーツとなりました。 その後、ダット自動車製造は石川島自動車製作所に吸収合併され、東京自動車工業株式会社に改称されますが、1933年、日本産業株式会社総帥の鮎川義介が経営する戸畑鋳物株式会社が旧ダット大阪工場を買収して自動車製造株式会社を設立。鮎川は、東京自動車工業株式会社からダットサンの製造権を譲り受け、自動車製造株式会社を日産自動車と改名し、アジア、中南米などに向けてダットサンの輸出が開始されました。 以来、1981年に日産自動車が輸出ブランド名を“NISSAN”に統一するまで、ダットサンは日本車を代表するブランドとして海外で広く認知されてきました。 ところで、私事で恐縮ですが、現在、僕が自家用車として使っているのは、日産のマーチです。もっとも、海外旅行の際に成田空港まで乗っていく以外には、近所の買い物と家族の送り迎えくらいにしか使いませんので、年間走行距離は3000キロに遠く届きません。消耗品以外の部品が壊れるというトラブルもなく、維持コストの面からも全く不満はありませんし、総走行距離もようやく4万キロといったレベルですから、新しい車に買い替える必要性を全く感じず、結果的に、1995年以来、17年間乗り続けています。 まぁ、昨年末に18歳になった娘が近々免許を取るでしょうから、彼女の初心者マークが取れるまでは車を買い替えるということもないでしょうな。この調子だと、2014年にダットサンが海外で復活する頃まで、日産車とのお付き合いも続きそうです。 ★★★ イベントのご案内 ★★★ 国立市〈歴史講座〉“もの”が語る戦争の歴史 3月27日(火) 19:00-21:00 於・国立市公民館3階講座室 *お問い合わせ・お申し込みは、国立市公民館(電話 042-572-5141)までお願いいたします。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 3月下旬から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順) よみうりカルチャー柏 3月23日(金)13:00-15:00(公開講座) 「ご成婚切手の誕生秘話――切手でたどる昭和史」 *柏センター移転、新装オープン記念講座です。 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 ・よみうりカルチャー荻窪 3月27日(火) 13:30~15:30(公開講座) 「ご成婚切手の誕生秘話——切手でたどる昭和史」 4月10日、5月8日、6月12日、7月10日、8月7日、9月11日 (毎月第2火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 ・よみうりカルチャー錦糸町 3月31日(土) 12:30-14:30(公開講座) 皇室切手のモノ語り 4月7日、6月2日、7月7日、8月4日、9月1日 (毎月第1土曜日) 12:30~14:30 郵便学者・切手博士と学ぶ切手のお話 |
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