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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 インドネシア独立記念日
2024-08-17 Sat 10:11
 きょう(17日)は、インドネシアの独立記念日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ジャワ49(ジョグジャカルタ印刷・仏塔)

 これは、1946年、インドネシア独立戦争当時のインドネシア共和国の臨時首都、ジョグジャカルタ(ヨグヤカルタ)で製造された暫定切手で、ボロブドゥール寺院のものと思しきストゥーパ(仏塔)が描かれています。

 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。また、拙著『蘭印戦跡紀行』も併せてご覧いただけると幸いです。


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 8月21日(水) 10:00~ ニッポンジャーナル
 インターネット番組「ニッポンジャーナル」に内藤藤がコメンテーターとして出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。

 8月23日(金) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。

 よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00
 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。

 謀略の世界史 原則毎月第1土曜日 13:00~14:30
 MI6、CIA、モサドなど各国の情報機関のあらましや、現代史の中で彼らが実際に関与した事件などを幅広くご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。

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      切手もの知り図鑑 一番切手50のエピソード

 「動物と植物」「科学技術」「社会と文化」「神話/伝説と宗教」の4章立てで、犬、猫、宇宙開発、飛行機、クリスマスといったテーマで、初めて描かれた切手図案にまつわる秘話、思いがけない発行に至る背景に加え、シーラカンスやテレビ、警察官、タトゥー、髑髏といった、あっと驚く意外なテーマの一番切手も登場します!

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 切手から見る世界と歴史:インドネシア独立の日付
2023-08-17 Thu 07:48
 潮流社の雑誌『カレント』の2023年8月号が発行されました。僕の連載「切手から見る世界と歴史」は、今回は、8月17日(本日)のインドネシア独立記念日にちなんで、この1枚をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)

      インドネシア・独立半年

 これは、インドネシア独立戦争中の1946年、独立宣言から半年が経過したことを記念してスカルノのインドネシア共和国が発行した切手で、独立宣言が発せられた“1945年8月17日”の日付が入っています。

 1945年8月17日に発せられたインドネシア共和国独立宣言の日付は皇紀を採用した“05年8月17日”となっていましたが、この点について、一部に「ムスリムであるスカルノが日本への感謝の意を示すとともに、キリスト教に由来する西暦を嫌ったため」という類の説明が散見されますが、これは全くの出鱈目です。

 スカルノらが独立を宣言した1945年8月17日の時点では、対日降伏文書調印(9月2日)とそれに伴う日本軍の武装解除と占領行政の接収はまだ行われておらず、スカルノらが“インドネシア共和国”の領土とした地域では、日本の占領状態が継続中というのが建前でした。したがって、この時点で、彼らが独立宣言に公文書としての体裁を整えるなら、日本占領時代の書式に沿って皇紀を使うことになりますが、それは、純粋に事務的な形式上の問題にすぎません。

 じっさい、連合国軍が上陸して日本軍を武装解除すると、スカルノのインドネシア共和国は西暦の使用を再開し、郵便物に押される消印の年号表示も西暦に戻されています。今回ご紹介の切手が、西暦表示になっているのも、また同様です。

 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。また、拙著『蘭印戦跡紀行』も併せてご覧いただけると幸いです。


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 8月25日(金) 05:00~  おはよう寺ちゃん
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 <INDONESEA 2022>終了
2022-08-10 Wed 06:58
 早いもので、4日からインドネシア・ジャカルタで開催されていた世界切手展<Indonesia 2022>は、昨日(9日)、無事にすべての日程を終了しました。すでに、日本からの出品作品の撤去も完了しており、この後、現地時間06:35発の飛行機で成田に向かいます。というわけで、無事の帰国を願って、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      インドネシア・JAL-FFC(1962)

 これは、1962年7月16日、ジャカルタから東京(羽田)宛に差し出された日本航空の初飛行カバー(FFC)で、カシェにはインドネシアをイメージした舞姿の女性が描かれています。2017年に同じくインドネシアのバンドン展が終わって帰国する際にご紹介した東京からジャカルタ宛のFFCのペアになるものです。

 さて、今回の切手展では、審査員の佐藤浩一さん、正田幸弘さん、同アプレンティスの榎澤祐一さん、出品者の井上和幸さんをはじめ、多くの方々にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、いろいろと実りの多い滞在となりました。その成果につきましては、追々、皆様にもご報告して参りますが、まずは、現地滞在中、お世話になった全ての方々に、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 なお、成田到着は本日夕方の予定です。内藤の不在によりご不便・ご迷惑をおかけしている皆様におかれましては、今しばらくお待ちくださいますよう、伏してお願い申し上げます。

 また、今回FFCに貼られている1962年にインドネシアのジャカルタで開催された第4回アジア競技大会の記念切手については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。


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 8月12日(金) 05:00~  おはよう寺ちゃん
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 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 


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 怨霊、ゾンビ、鬼、そして人間の闇 …… 古今東西の奇妙な切手を集めた一冊。
 それぞれの切手には、いずれも世に出るだけの理由が必ずある。
 その理由を求めて、描かれた題材の歴史的・文化的・社会的背景を探っていくと、
 そこからさまざまなドラマが浮かび上がってくる。

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 インドネシア軍、不明潜水艦の乗組員全員死亡を発表
2021-04-26 Mon 04:32
 インドネシア海軍の潜水艦、ナンガラがバリ島北方沖で消息を絶った事故で、同国軍のハディ司令官は、きのう(25日)、53人の乗組員全員が死亡したことを発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      インドネシア・潜水艦(1964)

 これは、1964年10月5日にインドネシアが発行した“艦隊の日”の切手のうち、当時のインドネシア海軍の潜水艦を取り上げた1枚です。

 インドネシア海軍の潜水艦は、1959年、ポーランドから購入した2隻の613型潜水艦(ウィスキー型)が最初です。その後も、インドネシアをめぐる国際環境が緊張したことから、スカルノ政権は東側諸国から潜水艦を追加購入し、最終的には予備部品用を含めて14隻を取得します。今回ご紹介の切手に取り上げられているのは、この時期の潜水艦です。

 しかし、1965年の9・30事件でスカルノが失脚し、後継のスハルト政権が西側へ接近したことに加え、それまでに購入していた潜水艦が陳腐化したこともあり、1972年、ポーランドから購入した最初の2隻は除籍されました。

 1977年4月2日、スハルト政権は、西ドイツのフェロスタール社を代理店として、ホヴァルツヴェルケ=ドイツ造船(HDW)の潜水艦2隻を購入する契約を締結。1981年3月18日に“カクラ”が、同年7月6日に“ナンガラ”が就役しました。

 その後、カクラは1987年、ナンガラは1989年に大規模修理を完了しましたが、その費用が予想以上にかさんだため、西ドイツからの追加建造は断念され、カクラは1993ー97年に、ナンガラは1997-99年にインドネシア国内で近代化改装が行われました。

 ところで、HDWの潜水艦としては、1993年6月2日に就役した韓国の“張保皐”がありますが、韓国海軍は同艦を完成品として輸入した後、大宇造船海洋が、1994年4月30日に就役した2番艦“李阡”と、1995年2月27日に就した役3番艦の“崔茂宣”をノックダウン生産。1996年2月3日に就役した4番艦の“朴葳”以降は大宇造船海洋によるライセンス生産が行われていました。

 この実績をもとに、2000年代以降、大宇造船海洋はカクラとナンガラの大規模な近代化改装を受注。さらに、2017年8月2日に就役の“ナーガパーシャ”、2018年4月25日に就役の“アルデダリ”の新造を受注しました。ただし、大宇造船海洋の技術力については不安視する声もあり、2015年のジェーン海軍年鑑には、今回の事故を起こしたナンガラおよび同型のカクラについて「運用状態は疑問である」と記載されています。

 さて、今回事故を起こしたナンガラは、2021年4月21日、バリ海での魚雷実弾発射訓練で失敗の報告をした後に消息を絶ったため、インドネシア政府は、シンガポールおよびオーストラリアの支援を得て、捜索活動を行っていましたが、艦内の酸素が切れる24日には付近の海域から潜水艦の一部分とみられる物体を発見。さらに、25日になって、潜水艦が3つに分裂した状態で海底に沈没しているのが確認されたことから、ハディ司令官の発表となりました。

 謹んで、亡くなられた方々の御冥福をお祈りします。


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 4月26日(月) 05:00~  
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。

 5月15日(土)~ 武蔵野大学の生涯学習講座
 5月15日、22日、6月5日、19日、7月3日、17日の6回、下記のふたつの講座でお話しします。 
 13:00~14:30 「日本の郵便150年の歴史 その1 ―“大日本帝国”時代の郵便事情―」
 15:15~16:45 「東京五輪と切手ブームの時代 ―戦後昭和社会史の一断面―」
 対面授業、オンラインのライブ配信、タイム・フリーのウェブ配信の3通りの形式での受講が可能です。詳細については、武蔵野大学地域交流推進室宛にメール(lifelong★musashino-u.ac.jp スパム防止のため、アドレスの@は★に変えています)にてお問い合わせください。

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      郵便創業150年の歴史ー1表紙 2530円(本体2300円+税)

 明治4年3月1日(1871年4月20日)にわが国の近代郵便が創業され、日本最初の切手が発行されて以来、150年間の歴史を豊富な図版とともにたどる3巻シリーズの第1巻。まずは、1945年の第二次大戦終戦までの時代を扱いました。今後、2021年11月刊行予定の第2巻では昭和時代(戦後)を、2022年3月刊行予定の第3巻では平成以降の時代を取り扱う予定です。

 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

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 インドネシア独立記念日
2020-08-17 Mon 00:31
 きょう(17日)は、インドネシアの独立記念日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      インドネシア・独立10周年

 これは、1955年にインドネシアが発行した独立10周年の記念切手で、左上から時計回りに、独立宣言を読み上げるスカルノとハッタ、独立宣言が読み上げられたスカルノ邸の外観、独立宣言の手稿、インドネシア国旗の掲揚風景、を組み合わせた図案となっています。

 第二次大戦中、現在のインドネシアに相当するオランダ領東インド(以下、蘭印)を占領した日本軍は、政治犯として捕らえられていたスカルノやハッタらインドネシア民族主義指導者を解放する一方、石油資源の安定確保のため(そもそも、これこそが戦争の目的でしたから)、蘭印を直轄の軍政地域としました。しかし、戦局が悪化してきた1945年3月、インドネシアを親日国家として独立させるよう方針を転換。独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させています。

 こうして、終戦間際の8月7日、スカルノらは独立準備委員会を設立。その第1回会議は18日に開催される予定でしたが、8月15日、日本の降伏が発表されたことで、日本の軍政当局の主導による独立準備は中止されてしまいます。そこで、2日後の8月17日、スカルノらインドネシアの民族主義者たちは、オランダ軍が再上陸してくる前に、機先を制してインドネシア共和国の独立を宣言しました。場所は、今回ご紹介の切手にも描かれているジャカルタのスカルノ邸で、約1000名が立会ったそうです。

 ちなみに、1945年8月17日に発せられたインドネシア共和国独立宣言の書面上の日付が皇紀を採用した“05年8月17日”となっているのは有名な話です。この点については、「ムスリムであるスカルノが日本への感謝の意を示すとともに、(オランダの宗教である)キリスト教に由来する西暦を嫌ったため」という類の説明が散見されますが、これは事実と異なります。

 日本占領時代のジャワ島では公文書に皇紀が採用されていました。このため、日本の占領行政が続いている限り、公文書の日付も皇紀で記すのが正式なスタイルとなります。

 上述のように、スカルノらは、1945年8月17日に独立宣言を行いましたが、これは、同年9月2日の対日降伏文書調印以前のことであり、したがって、連合国による日本軍の武装解除と占領行政の接収も行われていませんから、スカルノらが“インドネシア共和国”の領土とした地域では、日本の占領状態が続いているというのが建前です。このため、公文書としての書式を整えようとすれば、今回ご紹介の切手に取り上げられている手稿のように、日本占領時代の書式に従い、皇紀を使うのが自然です。これは、彼らの対日感情とは全く別の次元の話で、純粋に事務的な形式上の問題です。

 じっさい、連合国軍の上陸により日本軍の武装解除が行われると、スカルノのインドネシア共和国はすぐに西暦の使用を再開しており、郵便物に押される消印の年号表示も西暦に戻っています。また、現在のインドネシアでは、独立宣言というと1955年にスカルノが録音した音源が広く知られていますが、ここでの年号は皇紀の“(26)05年”ではなく、西暦の“1945年”となっていることも見逃してはなりません。

 さて、8月17日の独立宣言を受けて、9月4日にはスカルノを首班とするインドネシア共和国が成立。この間、8月22日には人民治安団が政府布告によって結成され、政府は日本軍政下で結成された旧PETA(郷土防衛義勇軍)系の将兵、兵補らに参加を呼びかけます。さらに、10月になって日本軍の武装解除のため英連邦軍オランダ軍が本格的に進駐してくると、スカルノらはこれに対抗すべく人民治安軍を組織し、インドネシア独立戦争に投入していきました。

 一方、戦争に敗れた日本軍は、連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま、上陸する連合軍部隊に引き渡すことになり、インドネシア独立派への武器引渡しは禁止されていました。しかし、一部の地域では、独立派の要請に対して武器庫を開放することもあったほか、旧日本軍の将兵の中には、“東亜解放”の理念を奉じて独立派に身を投じた人が約1000人いたそうです。そのうち、半数が戦死・行方不明となり、生き残った後も、日本に帰らず、インドネシアで生涯を終えた人も少なくありません

 現在、インドネシア政府は、独立戦争を生き抜いた旧日本軍の将兵にはゲリラ勲章を授与しているほか、独立戦争中の戦死者・陣没者や独立戦争に参加した戦績のある元将兵については、没後、本人や遺族が希望しない場合を除き、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ国内各地の英雄墓地に埋葬されることになっています。独立の英雄として英雄墓地に埋葬されることはインドネシアでは最高の栄誉とされており、その葬儀にはインドネシアの国防省代表、インドネシア国軍の葬儀委員、儀仗兵、軍楽隊が参加して、厳粛に執り行われます。

 なお、これまでも散々書いてきたことの繰り返しになりますが、1949年末にインドネシア共和国が最終的に独立を達成したのは、当然のことながら、第一義的には、インドネシア国民(になった人々)がみずから血を流し、熾烈な独立戦争を戦った結果です。そのことは大前提として絶対に忘れてはなりません。

 その意味において、僕は、彼らの尊い犠牲を無視して「日本がインドネシアを独立させてやった」という類の議論をする人たちには絶対に与しません。ちなみに、インドネシア独立戦争に参加した旧日本軍の将兵は、制度上は“脱走兵”の扱いとされており、インドネシア独立戦争中の戦死者に対しては遺族年金が支給されていないばかりでなく、彼らが“英霊”として靖国神社に祀られることもありません。「大東亜戦争が東亜解放の聖戦だった」と主張するのなら、その大義に殉じてインドネシア独立戦争で亡くなった旧日本兵こそ、(カリバタ英雄墓地と同様、ご本人や遺族が希望しない場合を除いて)靖国神社にお祀りするのが筋というものでしょうし、そうしたことを実現すべく運動を起こすべきでしょう。

 一方、“脱走兵”以外の旧日本軍は、正規の手続きに則って、オランダ軍とともに独立派と戦い、多くの戦死者を出しましたが、彼らは靖国に祀られています。

 この厳然たる事実をしっかりと受け止めていれば、それだけで、「日本がインドネシアを独立させてやった」などという発言が、いかに、インドネシア国民のみならず、彼らの独立のために戦った旧日本軍将兵を愚弄するものであるのか、お分かりいただけるでしょう。

 ただ、その一方で、日本による占領の体験が彼らの糧となったこと、あるいは、独立戦争での旧日本軍将兵の活動が、結果的にインドネシアの独立を導くことになったということを、インドネシアの人たちが自らポジティヴに語ってくれるのであれば、その気持ちは素直に、ありがたく受け入れるべきだと思います。

 そうした彼らの友情を無視して、自分は「一般の日本人とは違う」という醜悪な思い込みから、ひたすら日本と日本人を貶めるために“日本軍によるアジア侵略”を嬉々として糾弾する日本人も少なからずいますが、そうした連中に対しては、心の底から軽蔑する以外の感情は沸いてきません。

 たとえて言うなら、オリンピックのメダリストが「私が今日あるのは、中学時代の恩師、XX先生のおかげです」と発言した場合、XX先生は「いやいや、なんといっても、メダル獲得はあなたの努力の賜物です。ただ、私の指導がわずかでも役に立ったというのであれば、それは光栄なことでとても嬉しい」と応じるのが常識的な対応であって、選手自身が言及してもいないのに「あの選手は自分の教え子で、自分の指導でメダルをとれたのだ」となど吹聴してまわる教員はみっともないだけです。一方、恩師に謝辞を述べた選手に対して、「XX先生は自分の私利私欲で部活の顧問を引き受けただけで、生徒のことなどみじんも考えていなかった。だからXX先生に感謝するのはおかしい」などとする誹謗中傷する人があれば、その人は軽蔑されるだけです。

 2013年に上梓した拙著『蘭印戦跡紀行』では、そんな思いから、僕がインドネシア各地で実際に見聞した“日本”の痕跡について、切手や郵便物、絵葉書などを交えながらまとめてみたものです。機会がありましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 スカルノ没後50年
2020-06-21 Sun 01:17
 インドネシア建国の父、スカルノが1970年6月21日に亡くなってから、ちょうど50周年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      インドネシア・スカルノ1ルピー(1966)

 これは、1966年にインドネシアで発行されたスカルノを描く1ルピーの普通切手です。

 スカルノは、1901年6月6日、オランダ領東インド(以下、蘭印)時代のジャワ島東部のスラバヤで生まれました。1926年、オランダがバンドンに創設した高等工業学校(現バンドン工科大学)を卒業後、独立運動を開始。1927年7月4日には、オランダ留学から帰国した同志らとともにインドネシア国民党を結成しました。

 1929年12月、蘭印当局に逮捕されて禁固刑を受けたが、1931年2月に恩赦をあたえられて出獄。しかし、1933年8月にはふたたび逮捕され、フローレス島のエンデに、続いて1938年2月スマトラ島のベンクールに流刑となりました。

 1939年に第二次大戦が勃発すると、オランダは中立を宣言しましたが、1940年5月、ナチス・ドイツはこれを無視してオランダ領内に侵攻し、オランダ全土を占領してしまいます。これに伴い、ウィルヘルミナ女王はロンドンに亡命し、かの地に亡命政権を樹立しました。しかし、その後も蘭印におけるオランダの支配はそのまま継続し、スカルノも拘禁されたままでした。

 1941年12月の日蘭開戦後、1942年3月20日までに蘭印全域を占領した日本軍は、政治犯としてオランダに捕らえられていたスカルノやハッタらインドネシア民族主義指導者を解放する一方、石油資源の安定確保のため(そもそも、これこそが戦争の目的でしたから)、蘭印を直轄の軍政地域としました。しかし、戦局が悪化してきた1945年3月、インドネシアを親日国家として独立させるよう方針を転換。独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させています。

 こうして、終戦間際の8月7日、スカルノらは独立準備委員会を設立。その第1回会議は18日に開催される予定でしたが、8月15日、日本の降伏が発表されたことで、日本の軍政当局の主導による独立準備は中止されてしまいます。そこで、2日後の8月17日、スカルノらインドネシアの民族主義者たちは、オランダ軍が再上陸してくる前に、機先を制してインドネシア共和国の独立を宣言しました。場所はジャカルタのスカルノ私邸で、約1000名が立会ったそうです。

 独立宣言を受けて、9月4日にはスカルノを首班とするインドネシア共和国が成立。この間、8月22日には人民治安団が政府布告によって結成され、政府は日本軍政下で結成された旧PETA(郷土防衛義勇軍)系の将兵、兵補らに参加を呼びかけます。さらに、10月になって日本軍の武装解除のため英連邦軍やオランダ軍が本格的に進駐してくると、スカルノらはこれに対抗すべく人民治安軍を組織し、インドネシア独立戦争が勃発しました。

 1946年11月12日、オランダはジャワ島、スマトラ島、マドゥラ島をインドネシア共和国の勢力下にあると認め、双方は連邦国家樹立に向けて努力するという停戦協定(リンガジャティ協定)が成立。これを受けて、11月中に英軍はインドネシアから撤退すると、1947年1月、オランダ軍は停戦協定を破って攻撃を再開します。このため、国連が介入し、同年8月、国連安保理は、即時停戦と仲裁による和平解決をもとめる安保理決議27を採択し、1948年1月17日には、あらためて、ジャカルタ沖に停泊する米国軍艦レンヴィル上で停戦協定(レンヴィル協定)が締結されます。同協定では、インドネシア共和国の領土はジャワ島の中部と西端部、マドゥラ島のみに限られており、共和国にとっては屈辱的な内容でしたが、戦況が圧倒的にオランダ優位で進んでいたこともあって、ともかくも“独立”を確保するためには、共和国側もこれを飲まざるを得ないというのが実情でした。

 しかし、当然のことながら、協定の内容に対するインドネシア内の不満も根強く、特に、インドネシア共産党(PKI)をはじめとする左派勢力は徹底抗戦を唱えて、1948年9月18日、ジャワ島東部のマディウンで政府機関を襲撃し、革命政府樹立を宣言します。この反乱は1ヶ月ほどで鎮圧されたものの、混乱に乗じて一挙に共和国を壊滅に追い込もうと考えたオランダは、同年12月11日、和平会談の決裂を宣言。12月19日、“(第二次)警察行動”と称して、共和国領内への全面攻勢を開始しました。

 共和国臨時首都のジョグジャカルタでは、マグオ空港がオランダ空軍による空襲を受けて破壊され、12月23日には首都中枢部が陥落。スカルノ以下共和国政府要人が逮捕されます。このため、共和国側はスマトラに臨時政府を樹立し、各地でゲリラ戦を展開。1949年3月1日にはスハルト(後の大統領)指揮下の共和国軍がジョグジャカルタ奪還作戦を敢行しました。

 この作戦は、結果的に成功しませんでしたが、この頃になると、オランダの“汚い戦争”に対する国際社会の批判と和平圧力が強まり、米国もオランダへの経済援助の停止を通告したため、1949年7月6日、スカルノらはジョグジャカルタに帰還1949年12月のハーグ協定により、インドネシア連邦共和国の独立が正式に認められました

 連邦共和国は、16の国・自治政府から構成されていましたが、その後、順次、最大の構成国であるインドネシア共和国に合流し、1950年8月15日、単一国家としてのインドネシア共和国に統合されました。

 これに伴い公布されたインドネシア共和国暫定憲法(1950年憲法)では、単一国家制への移行を受けて、全インドネシア国民の宥和を図るため、国民の権利を大幅に拡大し、議院内閣制を規定して大統領(=スカルノ)の権限を制限していました。

 しかし、インドネシア国家の母体となった蘭印の枠組は、英蘭の事情で、現地の民族、言語、宗教などの分布とは全く無関係に設定されたため、独立後の“インドネシア”では国家としての統一的なアイデンティティを形成することが困難でした。

 このため、1955年9月29日に行われた第1回インドネシア国民議会の総選挙では、インドネシア国民党(大統領スカルノの与党)、マシュミ(イスラム政党)、ナフダトゥル・ウラマー(マシュミから分裂した別のイスラム政党)、インドネシア共産党(中国からの支援で勢力を拡大していた)の4大政党が票を分け合う結果となり、各党の対立から議会は空転し、短命内閣が続いて政情は不安定化。議会制民主主義の機能不全と並行して、政党政治家たちの腐敗も目に余るものがありました。

 また、中央での政治的混乱が続けば、当然、地方に対する統制も不十分にならざるを得ず、イスラム国家の樹立を主張するアチェをはじめ、西ジャワ、南スラウェシ、西スマトラなどでは反ジャカルタの叛乱が発生します。

 こうした状況だったため、1955年のバンドン会議の主宰者として、国際舞台で華々しく脚光を浴びていたのとは裏腹に、憲法上の制約もあって、インドネシア国内政治におけるスカルノの権力基盤は盤石とはいいがたい状況にありました。

 そこで、1959年7月5日、スカルノは大統領布告によって1950年憲法を停止し、大統領に大きな権限を与えた1945年憲法への復帰を宣言。また、国会もほぼ同時期に解散され、以後、議員は任命制となり、政党の活動も大きく制限されました。いわゆる“指導される民主主義”体制の発足です。

 “指導される民主主義”の下で、スカルノは、民族主義 (Nasionalisme)、宗教 (Agama)、共産主義 (Komunisme) の各勢力の挙国一致で国難を乗り切ろうという“ナサコム(NASAKOM)”のスローガンを強調。国軍と共産党の対立を利用し、両者の調停役としてふるまうことによって、みずからのリーダーシップを維持しようとしました。

 また、これと並行して、国内の求心力を維持するため、徐々に非同盟路線を強調するようになり、その一環として、1961年にはインドネシア共産党書記長のディパ・ヌサンタラ・アイディットを閣内に招き入れて中国との関係強化を強化。“反帝国主義”を強調して、米英や台湾など西側諸国との対立を深めていきます。

 さらに、1963年、マラヤ連邦が英領ノース・ボルネオやサラワクを編入してマレーシアが建国されると、スカルノはこれを英国による新植民地主義として非難。インドネシアはボルネオ島全域の領有を主張して、マレーシア領へ侵入するなど、一触即発の事態となりました。

 さらに、1965年1月7日、マレーシアが国連非常任理事国入りすると、スカルノはこれに抗議して国連脱退を宣言。共産中国と“北京=ジャカルタ枢軸”を形成して、同じく国連非加盟国の北朝鮮や北ヴェトナムなども加えた“第二国連”をつくるとして新興勢力会議(CONEFO)を結成します。
 
 こうした状況の中で、1965年9月30日深夜、首都ジャカルタで大統領親衛隊第一大隊長のウントゥン・ビン・シャムスリ中佐がクーデターを起こし、アフマド・ヤニ陸軍司令官を含む陸軍の高級将校6名を殺害し、国営ラジオ局を占拠。“9月30日運動司令部”と名乗ってインドネシア革命評議会の設置を宣言しました。

 これが、インドネシア現代史の転機として知られる“9月30日事件”の発端です。

 さ革命評議会は、ヤニらはスカルノ政権転覆のクーデターを計画しており、それを未然に防ぐために蹶起したと説明しましたが、戦略予備軍司令官だったスハルト(当時の階級は少将)が直ちに部隊を展開して首都の要所を制圧。ウントゥンらのクーデターは失敗に終わります。

 事件への関与を疑われたスカルノは、スハルトに対して、治安秩序の回復に必要なすべての権限をスハルトに委譲せざるを得なくなり、スハルトは事件に関与したとされる共産主義者や華人の大規模な虐殺(少なく見積もっても50万人、最大で300万人が犠牲になったといわれています)を行いました。そのうえで、1966年3月11日、政府の実権を掌握したスハルトはスカルノにも大統領権限を委譲する命令書に署名させ、さらに1年間の冷却期間の後、1967年3月12日に大統領に就任。以後1998年まで30年余に及ぶ長期独裁政権がスタートすることになります。

 こうしてスカルノは事実上失脚し、全ての役職をはく奪され事実上の軟禁状態におかれ、失意のうちに、1970年6月21日にジャカルタで亡くなりました。ただし、“建国の父”への配慮から、彼の肖像切手は失脚後もすぐには廃止されず、1966年1月、今回ご紹介の切手のように “1966”の年号を入れたものがあらためて発行され、同年3月11日、スハルトに大統領権限が委譲された後も使用されています。

 なお、スカルノを軸にしたインドネシア現代史については、拙著『蘭印戦跡紀行』でもいろいろ触れておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。

 * 2005年6月からスタートしたこのブログですが、毎日1回ずつ更新していたら、今日の記事でちょうど5500回目になりました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、この場をお借りしてお礼申し上げます。


★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 6月26日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。


★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★

 7月4日付で、ビジネス社より、新作『みんな大好き陰謀論』が刊行の予定です。表紙デザインは現在制作中ですが、すでに、版元ドットコムのページもできているほか、アマゾンでの予約も始まりましたので、よろしくお願いします。


★★  内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★

      日韓基本条約・表紙 本体2000円+税

 出版社からのコメント
 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す!
 丁寧に読むといろいろ々発見があります。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

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 世界切手展(WSC)< INDONESIA 2020>のご案内
2019-12-13 Fri 05:01
      インドネシア・独立5周年

 明年(2020年)8月6日から11日まで、インドネシア独立75周年を記念して、ジャカルタの議会ビル(グドゥン MPR/DPR)で、FIP後援の世界切手展(WSC)<INDONESIA 2020>が開催されます。同展の日本コミッショナーは、不肖・内藤がお引き受けすることになりましたので、本ブログにて、同展の特別規則のうち、出品に関する事項を抜粋し、その概要をお知らせいたします。

 正式な規則の文言ならびに出品に必要な書類の用紙や規則の正式な文言などは、必ず、同展ウェブサイトのフロントページ上部のEXHIBITORSから、Regulations IREXをクリックしてご確認ください。なお、出品の申込書等は、Regulations IREXの下のApplication Formsからダウンロード可能です。

 なお、今後の同展に関する連絡は、原則として全て電子メールにて行います。コミッショナーの内藤陽介(ないとう・ようすけ)へのご連絡は、本ブログ右側、プロフィール下のメールフォームをご利用ください。また、電子メールをお使いになれない方で関係書類をご希望の方は、データをプリントアウトしてお送りいたしますので、実費として500円(送料込・切手代用不可)をコミッショナー宛、ご送金ください。

 <国内出品申込締切>
2019年12月30日(月)(必着)までにコミッショナー(内藤陽介)宛に出品申込書とイントロダクトリーページ(タイトルページ)を送付してください。電子メールもしくは郵送でのご送付を受け付けます。なお、以前の出品作品のタイトルを変更して出品する場合は、必ず、以前のタイトルを出品申込書に記載してください。 また、申込書のご送付は、なるべく、12月27日以降にしていただけると助かります。

・組織委員会からの出品可否の通知は2020年3月15日頃を予定
 *当初の締切日から延長されていますので、この日程については、展覧会ウェブサイトの記載と異なっています。ご注意ください。

<出品料>
・すべての出品料は以下の通りです。
・ユース、文献、ワン・フレームを除く部門:1フレームにつき75米ドル
・ユースは無料
・文献は1件につき85米ドル
・ワンフレは1作品95米ドル 

<搬入の方法>
・フレーム出品:コミッショナーが全ての作品を手荷物で搬入するよう要求されておりますので、原則として、コミッショナーによる所定の運搬手数料[1フレーム当たり4,000円]を申し受けるほか、航空会社から超過料金等を請求された場合には、別途、応分のご負担をお願いいたします。
文献作品:2020年5月15日必着で、各2部ずつ、下記宛先にお送りください。
 Fadli Zon Library
Jalan Danau Limboto No. C2/96
Jakarta 10210, INDONESIA
電話: +62 21 573 4382

<出品クラス>
 競争出品
― Class 1:ワールド・スタンプ・チャンピオンシップ・クラス (過去のFIP展で1回でも大金賞を受賞、または、FIPグランプリ受賞)
― Class 2:伝統郵趣
 A)ナショナル
 B)アジア、オセアニア、アフリカ
 C)欧州
 D)南北アメリカ
― Class 3:郵便史
 A)ナショナル
 B)アジア、オセアニア、アフリカ
 C)欧州
 D)南北アメリカ
― Class 4:ステーショナリー
― Class 5:航空郵趣
― Class 6:テーマティク
 A)自然 B)文化 C)科学技術
 *出品申込書には作品がA-Cのどのサブクラスに該当するかを記入してください。
― Class 7:収入印紙
― Class 8:現代郵趣(1980年以降)
 (A)国別伝統、(B)郵便史、(C)ステーショナリーの各分野。
*国内展での受賞歴に関わらず、コミッショナーの推薦があれば出品可能。他部門への出品と重複しての出品も可能です。
― Class 9:オープン郵趣
― Class 10:絵葉書クラス(実験クラス)
― Class 11:ワン・フレーム(1フレーム出品)
  出品申込書には、以下のA-Hのどのサブクラスに該当するか、ご記入ください。
  A)国別伝統 B)郵便史 C)ポスタル・ステーショナリー D)航空郵趣 E)テーマティク F)印紙
 *ワン・フレーム出品には賞状のみでメダルは授与されません。また、マルチ・フレームの作品からの抜粋展示は認められません。
― Class 12:郵趣文献
 A) 2015年1月1日以降に出版された書籍、研究書
 B) 2018年1月1日以降発行の雑誌、定期刊行物
 C) 2018年1月1日以降に出版されたカタログ
*通常の出品申込書に加え、文献用の情報フォームを記入すること。
― Class 13:ユース 
  A)2020年1月1日時点で、A)10歳から15歳 B)同16歳から18歳 C)同19歳から21歳

<フレームおよびリーフの大きさ>
 フレームは97×120cmとなる予定です。したがって、保護ラップ込の1リーフの大きさは、1フレーム16リーフで構成の場合は23×29cm、8リーフで構成の場合はA3判または46×29cm、12リーフで構成の場合は31×29cmを上限としてください。

 1人でも多くの皆様のお申込み・お問い合わせを心よりお待ちしております。

 ちなみに、今回の記事の冒頭に掲げたのは、1950年にインドネシアが発行した“独立5周年”の記念切手で、ガルーダを描く国章が取り上げられています。

 インド古典文学『マハーバーラタ』に登場するガルーダは、頭・翼・爪・口はワシ、胴・腕・脚は人間の半鳥半人の半神で、仏教・イスラム伝来以前よりヒンドゥー教圏であった東南アジア諸国で、他のヒンドゥー諸神と併せて祀られています。タイの国章や航空切手などには、これを忠実に再現したデザインが用いられています。これに対して、今回ご紹介のインドネシアの国章では、半鳥半人の姿ではなく、ジャワクマタカをモデルにした金色の神鳥としてガルーダが表現されています。

 国章のデザインとしては、ガルーダは胸に盾を抱え、足で巻物を持った姿となっており、盾(エスカッシャン)にある5つのエンブレムは、インドネシアの建国5原則であるパンチャシラを表現しています。カリマンタン島ポンティアナックのスルタン、ハーミド2世がデザインし、1950年2月1日にインドネシアの国章として制定されました。


 *昨日(12日)の東アジア歴史文化研究会は無事、盛況のうちに終了いたしました。お集まりいただいた皆様、スタッフ関係者の方々には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。

★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 12月13日(金)05:00~  文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★ 講座のご案内 ★★

 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。

日本史検定講座(全8講)
 12月13日(金)スタート!
 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。

・武蔵野大学生涯学習秋講座 
 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年―
 2019年12月15日(日) 
 (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 )

・よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治
 毎月第1火曜日 15:30~17:00
 1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可)


★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★

       (増補改訂版)アウシュヴィッツの手紙・表紙  本体2500円+税(予定)
 
 出版社からのコメント
初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


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 インドネシア独立記念日
2019-08-17 Sat 00:28
 きょう(17日)は、インドネシアの独立記念日です。というわけで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      パレンバン・インドネシア加刷

 これは、インドネシア独立戦争中、インドネシア共和国側が日本占領時代の切手を接収し、“インドネシア共和国(Repoeblik Indonesia)”と加刷した切手です。戦前のオランダ領東インド(蘭印)切手に、日本占領下のパレンバンで、中央郵便局のI・P・レンコン局長のイニシャル“IPL”を加刷した切手に、さらに、インドネシア共和国の文字と新額面を加刷したもので、第二次大戦をはさんでの蘭印/インドネシアの激動の歴史が凝縮されたような1枚となっています。

 第二次大戦中、蘭印を占領した日本軍は、政治犯としてオランダに捕らえられていたスカルノやハッタらインドネシア民族主義指導者を解放する一方、石油資源の安定確保のため(そもそも、これこそが戦争の目的でしたから)、蘭印を直轄の軍政地域としました。しかし、戦局が悪化してきた1945年3月、インドネシアを親日国家として独立させるよう方針を転換。独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させています。

 こうして、終戦間際の8月7日、スカルノらは独立準備委員会を設立。その第1回会議は18日に開催される予定でしたが、8月15日、日本の降伏が発表されたことで、日本の軍政当局の主導による独立準備は中止されてしまいます。そこで、2日後の8月17日、スカルノらインドネシアの民族主義者たちは、オランダ軍が再上陸してくる前に、機先を制してインドネシア共和国の独立を宣言しました。場所はジャカルタのスカルノ私邸で、約1000名が立会ったそうです。

 ちなみに、1945年8月17日に発せられたインドネシア共和国独立宣言の書面上の日付が皇紀を採用した“05年8月17日”となっているのは有名な話です。この点については、「ムスリムであるスカルノが日本への感謝の意を示すとともに、(オランダの宗教である)キリスト教に由来する西暦を嫌ったため」という類の説明が散見されますが、これは事実と異なります。

 日本占領時代のジャワ島では公文書に皇紀が採用されていました。このため、日本の占領が続いている限り、公文書の日付も皇紀で記すのが正式なスタイルとなります。

 上述のように、スカルノらは、1945年8月17日に独立宣言を行いましたが、この時点では、対日降伏文書は調印されておらず、したがって、連合国による日本軍の武装解除と占領行政の接収も行われていませんから、スカルノらが“インドネシア共和国”の領土とした地域では、日本の占領状態が続いているというのが建前です。このため、公文書としての書式を整えようとすれば、日本占領時代の書式に従い、皇紀を使うというのが自然なスタイルです。これは、彼らの対日感情とは全く別の次元の話で、純粋に事務的な形式上の問題です。

 じっさい、連合国軍の上陸により日本軍の武装解除が行われると、スカルノのインドネシア共和国はすぐに西暦の使用を再開しており、郵便物に押される消印の年号表示も西暦に戻っています。また、現在のインドネシアでは、独立宣言というと1955年にスカルノが録音した音源が広く知られていますが、ここでの年号は皇紀の“(26)05年”ではなく、西暦の“1945年”となっていることも見逃してはなりません。

 さて、独立宣言を受けて、9月4日にはスカルノを首班とするインドネシア共和国が成立。この間、8月22日には人民治安団が政府布告によって結成され、政府は日本軍政下で結成された旧PETA(郷土防衛義勇軍)系の将兵、兵補らに参加を呼びかけます。さらに、10月になって日本軍の武装解除のため英連邦軍やオランダ軍が本格的に進駐してくると、スカルノらはこれに対抗すべく人民治安軍を組織し、インドネシア独立戦争に投入していきました。

 一方、戦争に敗れた日本軍は、連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま、上陸する連合軍部隊に引き渡すことになり、インドネシア独立派への武器引渡しは禁止されていました。しかし、一部の地域では、独立派の要請に対して武器庫を開放することもあったほか、旧日本軍の将兵の中には、“東亜解放”の理念を奉じて独立派に身を投じた人が約1000人いたそうです。そのうち、半数が戦死・行方不明となり、生き残った後も、日本に帰らず、インドネシアで生涯を終えた人も少なくありません。

 現在、インドネシア政府は、独立戦争を生き抜いた旧日本軍の将兵にはゲリラ勲章を授与しているほか、独立戦争中の戦死者・陣没者や独立戦争に参加した戦績のある元将兵については、没後、本人や遺族が希望しない場合を除き、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ国内各地の英雄墓地に埋葬されることになっています。独立の英雄として英雄墓地に埋葬されることはインドネシアでは最高の栄誉とされており、その葬儀にはインドネシアの国防省代表、インドネシア国軍の葬儀委員、儀仗兵、軍楽隊が参加して、厳粛に執り行われます。

 なお、これまでも散々書いてきたことの繰り返しになりますが、1949年末にインドネシア共和国が最終的に独立を達成したのは、当然のことながら、第一義的には、インドネシア国民(になった人々)がみずから血を流し、熾烈な独立戦争を戦った結果です。そのことは大前提として絶対に忘れてはなりません。

 その意味において、僕は、彼らの尊い犠牲を無視して「日本がインドネシアを独立させてやった」という類の議論をする人たちには絶対に与しません。ちなみに、インドネシア独立戦争に参加した旧日本軍の将兵は、制度上は“脱走兵”の扱いとされており、インドネシア独立戦争中の戦死者に対しては遺族年金が支給されていないばかりでなく、彼らが“英霊”として靖国神社に祀られることもありません。「大東亜戦争が東亜解放の聖戦だった」と主張するのなら、その大義に殉じてインドネシア独立戦争で亡くなった旧日本兵こそ、(カリバタ英雄墓地と同様、ご本人や遺族が希望しない場合を除いて)靖国神社にお祀りするのが筋というものでしょうし、そうしたことを実現すべく運動を起こすべきでしょう。

 一方、“脱走兵”以外の旧日本軍は、正規の手続きに則って、オランダ軍とともに独立派と戦い、多くの戦死者を出しましたが、彼らは靖国に祀られています。

 この厳然たる事実をしっかりと受け止めていれば、それだけで、「日本がインドネシアを独立させてやった」などという発言が、いかに、インドネシア国民のみならず、彼らの独立のために戦った旧日本軍将兵を愚弄するものであるのか、お分かりいただけるでしょう。

 ただ、その一方で、日本による占領の体験が彼らの糧となったこと、あるいは、独立戦争での旧日本軍将兵の活動が、結果的にインドネシアの独立を導くことになったということを、インドネシアの人たちが自らポジティヴに語ってくれるのであれば、その気持ちは素直に、ありがたく受け入れるべきだと思います。

 そうした彼らの友情を無視して、自分は「一般の日本人とは違う」という醜悪な思い込みから、ひたすら日本と日本人を貶めるために“日本軍によるアジア侵略”を嬉々として糾弾する日本人が少なからずいますが、そうした連中に対しては、心の底から軽蔑するという以外の感情しか沸いてきません。

 拙著『蘭印戦跡紀行』では、そんな思いから、僕がインドネシア各地で実際に見聞した“日本”の痕跡について、切手や郵便物、絵葉書などを交えながらまとめてみたものです。機会がありましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。


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      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 スプートニクとガガーリンの闇(16)
2019-03-24 Sun 01:42
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、2月25日、『本のメルマガ』第709号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、国際地球観測年の期間中に各国が発行した切手のうち、インドネシアの切手について取り上げました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      インドネシア・国際地球観測年FDC

 これは、1958年10月15日、インドネシアが発行した国際地球観測年の記念切手のオランダ宛初日カバーです。

 現在のインドネシアに相当する地域は、第二次大戦以前はオランダの植民地支配下にありましたが(オランダ領東インド)、大戦中は日本軍の占領下に置かれました。日本の敗戦を受けて、1945年8月17日、独立運動の指導者だったスカルノとムハンマド・ハッタは、オランダ植民地政府が戻ってくるまでの間隙を縫って、インドネシア共和国の独立を宣言します。

 これに対して、戦後の蘭印支配の復活をもくろむオランダは、周辺に植民地を持つ英国やオーストラリアなどの支援を受けて軍を派遣。この結果、スカルノらインドネシア共和国との間でインドネシア独立戦争が勃発しました。

 4年以上にも及ぶ独立戦争の結果、1949年12月、ハーグ協定の締結によって、16の国・自治政府から構成されるインドネシア連邦共和国の独立が正式に承認されます。

 その後、連邦構成国は順次、最大の構成国であるインドネシア共和国(ジャワの約半分とスマトラの大部分を有し、連邦共和国4600万のうち3100万の人口を占めていた)に合流し、1950年8月15日、単一国家としてのインドネシア共和国に統合されました。

 これに伴い公布されたインドネシア共和国暫定憲法(1950年憲法)では、単一国家制への移行を受けて、全インドネシア国民の宥和を図るため、国民の権利を大幅に拡大し、議院内閣制を規定して大統領の権限を制限していましたが、もともと、“オランダ領インドネシア”という枠組は、英蘭の事情で、現地の民族、言語、宗教などの分布とは全く無関係に設定されたため、独立後の“インドネシア”では国家としての統一的なアイデンティティを形成することが困難でした。

 そこで、スカルノは、インドネシア国家の国際的な地位を向上させることで、統一国家とその大統領である自らへの求心力を高めるべく、積極的な外交攻勢を展開。1954年、ネルーと周恩来が平和五原則を発表すると、これに呼応して同年4月28日から5月2日まで、セイロン(現スリランカ)のコロンボで開催されたコロンボ会議に首相のアリ・サストロアミジョヨを派遣。アジア・アフリカ各国間の協力、相互利益、友好の推進などを目的とするアジア・アフリカ会議の必要性を提案させました。この提案は、翌1955年4月、ジャワ島西部、バンドンに30国を招いてのアジア・アフリカ会議の開催として結実します。

 アジア・アフリカ会議は、反帝国主義、反植民主義、民族自決の精神を称揚し、東西両陣営のいずれにも属さない“第三世界(ただし、英仏等の植民地支配から独立したという経緯もあって、その実態は東寄りの中立でしたが…)”を確立し、会議を主催したスカルノの国際的な権威と発言力はいやがおうにも高まりました。

 ところが、そのことは直ちに彼のインドネシア国内における政治基盤を強化することにはつながりませんでした。

 すなわち、会議から半年弱、1955年9月29日に行われた第1回インドネシア国民議会の総選挙では、定数257のうち、インドネシア国民党(大統領スカルノの与党)57、マシュミ(イスラム政党)57、ナフダトゥル・ウラマー(マシュミから分裂した別のイスラム政党)45、インドネシア共産党(中国からの支援で勢力を拡大していた)39、と4大政党が票を分け合う結果となり、インドネシア国民党は主導権を握ることができなかったのです。

 この結果、各党の対立から議会は空転し、短命内閣が続いて政情は不安定化しただけでなく、これと並行して、政党政治家たちの腐敗も目に余るものがありました。

 中央での政治的混乱が続けば、当然、地方に対する統制も不十分にならざるを得ず、イスラム国家の樹立を主張するアチェをはじめ、西ジャワ、南スラウェシ、西スマトラなどでは反ジャカルタの叛乱が発生したものの、憲法上の制約もあり、スカルノは強権をもってこれを抑え込むことができない状況が続きます。

 こうした状況の中で国際地球観測年を迎えたインドネシアは、1958年10月15日、地球と周回する人工衛星を描く記念切手を発行しました。

 この時期、東欧諸国が発行した国際地球観測年の記念切手には、ソ連が打ち上げた複数の人工衛星を描くものがある一方、西側諸国の切手では人工衛星は無視されていることが多いので、人工衛星を1基のみ描いたインドネシアの切手は“第三世界”として、両者の折衷的な立場を取ったということなのかもしれません。

 さて、混迷する国内情勢に業を煮やしたスカルノは、1959年7月5日、大統領布告によって1950年憲法を停止し、大統領に大きな権限を与えた1945年憲法(独立宣言翌日の1945年8月18日に公布)への復帰を宣言。また、国会もほぼ同時期に解散され、以後、議員は任命制となり、政党の活動も大きく制限されました。いわゆる“指導される民主主義”体制の発足です。

 “指導される民主主義”の下で、スカルノが強調したのが、民族主義 (Nasionalisme)、宗教 (Agama)、共産主義 (Komunisme) の各勢力の挙国一致で国難を乗り切ろうという“ナサコム(NASAKOM)”のスローガンで、以後、スカルノは国軍と共産党の対立を利用し、両者の調停役としてふるまうことによって、みずからのリーダーシップを維持しようとします。その過程で、彼は民族主義を鼓舞するとともに、1961年にはインドネシア共産党書記長のディパ・ヌサンタラ・アイディットを閣内に招き入れて中国との関係強化を強化。“反帝国主義”を強調して、米英や台湾など西側諸国との対立姿勢を強めると同時に、西側諸国との関係が深い近隣諸国との対立を深めていくことになるのです。
 
      
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      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


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 インドネシア独立記念日
2018-08-17 Fri 01:14
 きょう(17日)は、インドネシアの独立記念日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ジャワ占領切手・戦後使用

 これは、インドネシア独立戦争中の1946年1月12日、ジャワ島中部のテガルから、同島西部北岸のチルボン宛に差し出された葉書で、日本占領時代の切手が無加刷で使われています。1945年8月17日のインドネシア共和国の独立宣言後、共和国側の支配地域では、日本占領時代の切手に“インドネシア共和国”を意味する加刷を施した暫定切手を使用しましたが、一部、無加刷の切手・葉書が使用された例もあります。今回ご紹介の葉書は、年が明けて1946年になってからの使用例ですから、占領時代の切手の戦後使用としては、かなり遅い時期のものと言ってよいかと思います。

 第二次大戦中、オランダ領東インド(蘭印)を占領した日本軍は、政治犯としてオランダに捕らえられていたスカルノやハッタらインドネシア民族主義指導者を解放。日本側は、石油資源の安定確保のため(そもそも、これこそが戦争の目的でしたから)、蘭印を直轄の軍政地域としました。しかし、戦局が悪化してきた1945年3月、インドネシアを親日国家として独立させるよう方針を転換。独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させています。

 こうして、終戦間際の8月7日、スカルノらは独立準備委員会を設立。その第1回会議は18日に開催される予定でしたが、8月15日、日本の降伏が発表されたことで、日本の軍政当局の主導による独立準備は中止されてしまいます。そこで、2日後の8月17日、スカルノらインドネシアの民族主義者たちは、オランダ軍が再上陸してくる前に、機先を制してインドネシア共和国の独立を宣言しました。場所はスカルノの私邸、約1000名が立会ったそうです。

 ちなみに、1945年8月17日に発せられたインドネシア共和国独立宣言の書面上の日付が皇紀を採用した“05年8月17日”となっているのは有名な話です。この点については、「ムスリムであるスカルノが日本への感謝の意を示すとともに、(オランダの宗教である)キリスト教に由来する西暦を嫌ったため」という類の説明が散見されますが、これは正しくありません。

 日本占領時代のジャワ島では公文書に皇紀が採用されていました。このため、日本の占領が続いている限り、公文書の日付も皇紀で記すのが正式なスタイルとなります。

 ところで、上述のように、スカルノらは、1945年8月17日に独立宣言を行いましたが、この時点では、対日降伏文書は調印されておらず、したがって、連合国による日本軍の武装解除と占領行政の接収も行われていませんから、スカルノらが“インドネシア共和国”の領土とした地域では、日本の占領状態が続いているというのが建前です。このため、公文書としての書式を整えようとすれば、日本占領時代の書式に従い、皇紀を使うというのが自然なスタイルです。これは、彼らの対日感情とは全く別の次元の話で、純粋に事務的な形式上の問題です。

 じっさい、日本軍の占領が正式に終了すると、スカルノのインドネシア共和国はすぐに西暦の使用を再開しており、今回ご紹介の葉書に押されている消印も西暦(19)46年と表示されています。

 さて、独立宣言を受けて、9月4日にはスカルノを首班とするインドネシア共和国が成立。この間、8月22日には人民治安団が政府布告によって結成され、政府は日本軍政下で結成された旧PETA(郷土防衛義勇軍)系の将兵、兵補らに参加を呼びかけます。さらに、10月になって日本軍の武装解除のため英連邦軍オランダ軍が本格的に進駐してくると、スカルノらはこれに対抗すべく人民治安軍を組織し、インドネシア独立戦争に投入していきました。

 一方、戦争に敗れた日本軍は、連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま、上陸する連合軍部隊に引き渡すことになり、インドネシア独立派への武器引渡しは禁止されていました。しかし、一部の地域では、独立派の要請に対して武器庫を開放することもあったほか、旧日本軍の将兵の中には、“東亜解放”の理念を奉じて独立派に身を投じた人が約1000人いたそうです。そのうち、半数が戦死・行方不明となり、生き残った後も、日本に帰らず、インドネシアで生涯を終えた人も少なくありません。

 現在、インドネシア政府は、独立戦争を生き抜いた旧日本軍の将兵にはゲリラ勲章を授与しているほか、独立戦争中の戦死者・陣没者や独立戦争に参加した戦績のある元将兵については、没後、本人や遺族が希望しない場合を除き、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ国内各地の英雄墓地に埋葬されることになっています。独立の英雄として英雄墓地に埋葬されることはインドネシアでは最高の栄誉とされており、その葬儀にはインドネシアの国防省代表、インドネシア国軍の葬儀委員、儀仗兵、軍楽隊が参加して、厳粛に執り行われます。

 なお、これまでも散々書いてきたことの繰り返しになりますが、1949年末にインドネシア共和国が最終的に独立を達成したのは、当然のことながら、第一義的には、インドネシア国民(になった人々)がみずから血を流し、熾烈な対蘭独立戦争を戦った結果です。そのことは大前提として絶対に忘れてはなりません。

 その意味において、僕は、彼らの尊い犠牲を無視して「日本がインドネシアを独立させてやった」という類の議論をする人たちには絶対に与しません。ちなみに、インドネシア独立戦争に参加した旧日本軍の将兵は、制度上は“脱走兵”の扱いとされており、インドネシア独立戦争中の戦死者に対しては遺族年金が支給されていないばかりでなく、彼らが“英霊”として靖国に祀られることもありません。これに対して、“脱走兵”以外の旧日本軍は、正規の手続きに則って、オランダ軍とともに独立派と戦い、多くの戦死者を出しましたが、彼らは靖国に祀られています。この厳然たる事実をしっかりと受け止めていれば、それだけで、「日本がインドネシアを独立させてやった」などという発言が、いかに、インドネシア国民のみならず、彼らの独立のために戦った旧日本軍将兵を愚弄するものであるのか、お分かりいただけるでしょう。

 ただ、その一方で、日本による占領の体験が糧となって、あるいは、独立戦争での旧日本軍将兵の活動が、結果的にインドネシアの独立を導くことになったということを、インドネシアの人たちが自らポジティヴに語ってくれるのであれば、その気持ちは素直に、ありがたく受け入れるべきだと思います。

 そうした彼らの友情を無視して、自分は「一般の日本人とは違う」という醜悪な思い込みから、ひたすら日本と日本人を貶めるために“日本軍によるアジア侵略”を嬉々として糾弾する日本人が少なからずいますが、そうした連中に対しては、心の底から軽蔑するという以外の感情しか沸いてきません。

 いまから5年前の2013年に刊行の拙著『蘭印戦跡紀行』は、そんな思いから、僕がインドネシア各地で実際に見聞した“日本”の痕跡について、切手や郵便物、絵葉書などを交えながらまとめてみたものです。機会がありましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。
 

★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

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 バリ島アグン山の噴火
2017-11-27 Mon 09:12
 今月21日、インドネシア・バリ島のアグン山が、1963年以来、54年ぶりに噴火。当初の噴火は小規模でしたが、25日から26日にかけて断続的な噴火が発生し、26日早朝の噴火では山頂から3000-4000mの高さまで噴煙が立ち上がり、その影響で、同日午後、ロンボク島の空港が閉鎖されたほか、バリ島南部、デンパサールの国際空港も、きょう(27日)、閉鎖されました。きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      インドネシア・アグン山噴火(1963)

 これは、1963年6月29日、前回のアグン山噴火に際して、被災者救援のために発行された寄附金つき切手で、噴火するアグン山が描かれています。

 アグン山はバリ島北東部に位置する成層火山で、標高は3014メートル。バリ島では古くから聖なる山とされており、バリ・ヒンドゥーの総本山とされるブサキ寺院が同山の中腹にあるほか、周囲には多くのバリ・ヒンドゥーの寺院があります。

 1800年以降の噴火は、1808年、1821年、1843年、1963年、2017年の5回ありますが、このうち、1963年の噴火は20世紀の世界最大規模の噴火の一つとされています。すなわち、同年2月18日に最初の噴火が発生してから26日間にわたり、塊状溶岩が7.5kmにわたって流下。3月17日の爆発では推定海抜19-26kmの高さの噴煙柱が発生したほか、5月16日の爆発でも20kmの高さの噴煙柱が発生しています。以後、1964年1月27日まで断続的な噴火が発生し、火砕流とラハールにより、死者1148名、負傷者296名が出たほか、噴煙と火山灰の影響で北半球の平均気温を0.5度近くも低下させました。

 アグン山では、今年8月以降、火山活動が活発化していたことから、9月22日、インドネシア当局は警戒レベルを最高位に引き上げ、半径6~7・5キロkmの住民約2万5000人が退避勧告に基づき避難していました。

 僕にとっては、バリ島は新婚旅行で訪ねた場所ですし、ロンボク島も日本占領時代の太陽加刷切手の故地として現地を訪ね、そのいきさつを拙著『蘭印戦跡紀行』の一章としてまとめたことがあり、どちらも、思い出深い場所です。それだけに、ともかくも、今後、噴火が無事に収束していくことを望むばかりです。
 

★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は30日!★★

 11月30日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第12回が放送予定です。今回は、12月1日に予定されているパレスチナの西岸地区とガザ地区の統治一元化にちなんで、ガザ地区の歴史についてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

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 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
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 インドネシア独立記念日
2017-08-17 Thu 10:40
 きょう(17日)は、インドネシアの独立記念日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      スマトラ・独立加刷

 これは、インドネシア独立戦争中の1946年、インドネシア共和国側が日本占領時代の切手を接収し、“インドネシア共和国(Repoeblik Indonesia)”と加刷した切手です。オランダのウィルヘルミナ女王を描く1941年発行の蘭印10セント切手に、日本占領下の1944年、女王の肖像と国名表示を抹消するために“、“大日本帝國郵便/〒/スマトラ”と加刷した切手に、さらに、“大日本帝國郵便”の文字を抹消して、インドネシア共和国の文字と新額面を加刷したもので、第二次大戦をはさんでの蘭印/インドネシアの激動の歴史が凝縮されたような1枚となっています。

  第2次大戦中、オランダ領東インド(蘭印)を占領した日本軍は、政治犯としてオランダに捕らえられていたスカルノやハッタらインドネシア民族主義指導者を解放。日本側は、石油資源の安定確保のため(そもそも、これこそが戦争の目的でしたから)、蘭印を直轄の軍政地域としました。しかし、戦局が悪化してきた1945年3月、インドネシアを親日国家として独立させるよう方針を転換。独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させています。

 こうして、終戦間際の8月7日、スカルノらは独立準備委員会を設立。その第1回会議は18日に開催される予定でしたが、8月15日、日本の降伏が発表されたことで、日本の軍政当局の主導による独立準備は中止されてしまいます。そこで、2日後の8月17日、スカルノらインドネシアの民族主義者たちは、オランダ軍が再上陸してくる前に、機先を制してインドネシア共和国の独立を宣言しました。場所はスカルノの私邸、約1000名が立会ったそうです。

 ちなみに、1945年8月17日に発せられたインドネシア共和国独立宣言の書面上の日付が皇紀を採用した“05年8月17日”となっているのは有名な話です。この点については、「ムスリムであるスカルノが日本への感謝の意を示すとともに、(オランダの宗教である)キリスト教に由来する西暦を嫌ったため」という説明が散見されますが、日本の占領時代には公文書では皇紀が採用されていたため、ただ単にそれを踏襲しただけというのが実情だったようです。その証拠に、連合国軍の上陸により日本軍の武装解除が行われると、消印の年号表示も西暦に戻っています。また、現在のインドネシアでは、独立宣言というと1955年にスカルノが録音した音源が広く知られていますが、ここでの年号は皇紀の“(26)05年”ではなく、西暦の“1945年”となっていることも記憶にとどめておいてよいでしょう。

 独立宣言を受けて、9月4日にはスカルノを首班とするインドネシア共和国が成立。この間、8月22日には人民治安団が政府布告によって結成され、政府は日本軍政下で結成された旧ペタ(郷土防衛義勇軍)系の将兵、兵補らに参加を呼びかけます。さらに、10月になって日本軍の武装解除のため英軍やオランダ軍が本格的に進駐してくると、スカルノらはこれに対抗すべく人民治安軍を組織し、インドネシア独立戦争に投入していきました。

 一方、戦争に敗れた日本軍は、連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま、上陸する連合軍部隊に引き渡すことになり、インドネシア独立派への武器引渡しは禁止されていました。しかし、一部の地域では、独立派の要請に対して武器庫を開放することもあったほか、旧日本軍の将兵の中には、“東亜解放”の理念を奉じて独立派に身を投じた人が約1000人いたそうです。そのうち、半数が戦死・行方不明となり、生き残った後も、日本に帰らず、インドネシアで生涯を終えた人も少なくありません。

 現在、インドネシア政府は、独立戦争を生き抜いた旧日本軍の将兵にはゲリラ勲章を授与しているほか、独立戦争中の戦死者・陣没者や独立戦争に参加した戦績のある元将兵については、没後、本人や遺族が希望しない場合を除き、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ国内各地の英雄墓地に埋葬されることになっています。独立の英雄として英雄墓地に埋葬されることはインドネシアでは最高の栄誉とされており、その葬儀にはインドネシアの国防省代表、インドネシア国軍の葬儀委員、儀仗兵、軍楽隊が参加して、厳粛に執り行われます。

 なお、これまでも散々書いてきたことの繰り返しになりますが、インドネシア共和国が最終的に独立を達成したのは、当然のことながら、第一義的には、インドネシア国民(になった人々)がみずから血を流し、熾烈な対蘭独立戦争を戦った結果です。そのことは大前提として絶対に忘れてはなりません。

 その意味において、僕は、彼らの尊い犠牲を無視して「日本がインドネシアを独立させてやった」という類の議論をする人たちには絶対に与しません。ちなみに、インドネシア独立戦争に参加した旧日本軍の将兵は、制度上は“脱走兵”の扱いとされており、インドネシア独立戦争中の戦死者に対しては遺族年金が支給されていないばかりでなく、彼らが“英霊”として靖国に祀られることもありません。むしろ、“脱走兵”以外の旧日本軍は、正規の手続きに則って、オランダ軍とともに独立派と戦い、多くの戦死者を出しましたが、彼らは靖国に祀られています。この厳然たる事実をしっかりと受け止めていれば、それだけで、「日本がインドネシアを独立させてやった」などという発言が、いかに、インドネシア国民のみならず、彼らの独立のために戦った旧日本軍将兵を愚弄するものであるのか、お分かりいただけるでしょう。

 ただ、その一方で、日本による占領という体験が触媒となって、あるいは、独立戦争での旧日本軍将兵の活動が、結果的にインドネシアの独立を導くことになったということを、インドネシアの人たちが自らポジティヴに語ってくれるのであれば、その気持ちは素直に、ありがたく受け入れるべきだと思います。そうした彼らの友情を無視して、自分は「一般の日本人とは違う」という醜悪な思い込みから、ひたすら日本と日本人を貶めるために“日本軍によるアジア侵略”を嬉々として糾弾する日本人が少なからずいますが、そうした連中に対しては、心の底から軽蔑するという以外の感情しか沸いてきません。

 以前刊行した拙著『蘭印戦跡紀行』は、そんな思いから、僕がインドネシア各地で実際に見聞した“日本”の痕跡について、切手や郵便物、絵葉書などを交えながらまとめてみたものです。機会がありましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は24日?★★★ 

 8月24日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第7回が放送予定です。今回は、放送日が独立記念日のウクライナにスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、高校野球の順延などにより、24日の放送が亡くなる可能性もありますが、その場合はあしからずご容赦ください。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


 ★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

      タウンミーティング in 福山

  2017年9月17日(日) 14:00~、広島県立ふくやま産業交流館で開催の「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」に憲政史家の倉山満さんとトークイベントをやります。お近くの方は、ぜひ、ご参加ください。なお、イベントそのものの詳細は、こちらをご覧ください。
      
 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 <Bandung 2017>受賞速報
2017-08-06 Sun 03:20
      インドネシア・勲章授与(1949)

 3日からインドネシア・バンドン市のトランス・ステュディオ・コンヴェンション・センターで開催中のアジア世界切手展<Bandung 2017>は、昨日(5日)までにすべての作品の審査が終了し、受賞結果が下記の通り発表されましたので、速報としてお伝えいたします。リストのうち、出品者名は日本語表記、文献を除く作品名は英文でリスト記載のとおり、カッコ内は点数です。ただし、速報値ゆえ、誤りなどがありましたら、後日訂正いたしますので、ご容赦ください。

 ・増山三郎 Japanese Occupation in Java 1942-1945 LV(88)
 ・丹羽昭夫 Japan: Tazawa Series "Taisho" Watermarked Granite Paper, Old Die LV(88)
 ・鏑木顕 Japanese Occupation of the Philippines 1942-1945 V(81)
 ・村山廣佑 Japan Chrysanthemum Series 1899-1908 V(83)
 ・伊藤純英 JAPAN: Showa Series 1937-46 LV(88)
 ・和田輝洋 Japan Showa Issue 1937-1947 V(83) 
 ・石澤司 Ryukyus Air Mail Stamps 1950-60 LS(77)
 ・山田祐司 Japan 1871-1876 Hand Engraved Issues G(93) +SP(treatment)
 ・有吉伸人 Napoléon non Lauré-FRANCE1852-1862 G(90)
 ・吉田敬 Kingdom of Prussia: 1850-1867 LV(87)
 ・佐藤浩一 Republica Argentina: Sitting Liberty Series 1899-1903 LV(88)
 ・池田健三郎 Postal History of the Cape of Good Hope LV(85)
 ・伊藤純英 Foreign Mail in Nagasaki, Japan 1865-1905 LV(88)  
 ・山崎好是 Japane Courier Mail LV(88)
 ・伊藤文久 Hungarian Inflation 1945-1946 LV(87) 
 ・和田文明 U.S. Return Receipt Requested & Avis de Receipt 1866 - 1945 V(81) 
 ・村山良二 Czslaw Slania - The great work of his engraving stamps LS(78)
 ・内藤陽介 A History of Hong Kong G(90)
 ・榎沢祐一 Trams – The Origin of Public Transport G(90)
 (以下、文献)
 ・鳴美 『手彫切手』(祖父江義信コレクション) LV(86)
 ・鳴美 『飛脚と郵便』 LV(88)
 ・切手文化博物館 『金井宏之コレクション 日本手彫切手』 LG(95)
 ・スタンペディア 『Stampedia Philatelic Journal』 LV(85)
 ・全日本郵趣連合 『全日本郵趣』 LS(75)
 ・日本郵趣協会 『ビジュアル日本切手カタログVol.1-5』 V(81)
 ・日本郵趣協会 『日本普通切手専門カタログvol.1 戦前編』 V(80) 
 ・日本郵趣協会 『風景印大百科 1931-2017』 S(70)
 ・鳴美 『昭和切手専門カタログ 改訂第3版』 LV(85)

 あらためて、受賞された皆様には、心よりお祝いを申し上げます。

 なお、冒頭に掲げた画像は、インドネシア独立戦争中の1949年、独立側が発行した公用切手のうち、兵士に勲章を授与している場面を描いた1枚です。授賞(授章)のイメージとして持ってきてみました。


 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 インドネシア独立記念日
2015-08-17 Mon 11:41
 きょう(17日)は、インドネシアの独立記念日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ジャワ・ワヤン(インドネシア加刷)

 これは、インドネシア独立戦争時、日本占領時代のジャワで発行されたワヤンの人形を描く5セン切手の日本語部分を抹消して“インドネシア共和国(REPOEBLIK INDONESIA)”と加刷した切手です。

 第2次大戦中、オランダ領東インド(蘭印)を占領した日本軍は、政治犯としてオランダに捕らえられていたスカルノやハッタらインドネシア民族主義指導者を解放。日本側は、石油資源の安定確保のため(そもそも、これこそが戦争の目的でしたから)、蘭印を直轄の軍政地域としました。しかし、戦局が悪化してきた1945年3月、インドネシアを親日国家として独立させるよう方針を転換。独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させています。

 こうして、終戦間際の8月7日、スカルノらは独立準備委員会を設立。その第1回会議は18日に開催される予定でしたが、8月15日、日本の降伏が発表されたことで、日本の軍政当局の主導による独立準備は中止されてしまいます。そこで、2日後の8月17日、スカルノらインドネシアの民族主義者たちは、オランダ軍が再上陸してくる前に、機先を制してインドネシア共和国の独立を宣言しました。場所はスカルノの私邸、約1000名が立会ったそうです。

 その後、9月4日にスカルノを首班とするインドネシア共和国が成立。また、独立宣言後の8月22日には人民治安団が政府布告によって結成され、政府は日本軍政下で結成された旧ペタ(郷土防衛義勇軍)系の将兵、兵補らに参加を呼びかけます。さらに、10月になって日本軍の武装解除のため英軍やオランダ軍が本格的に進駐してくると、スカルノらはこれに対抗すべく人民治安軍を組織し、インドネシア独立戦争に投入していきました。

 一方、戦争に敗れた日本軍は、連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま、上陸する連合軍部隊に引き渡すことになり、インドネシア独立派への武器引渡しは禁止されていました。しかし、一部の地域では、独立派の要請に対して武器庫を開放することもあったほか、旧日本軍の将兵の中には、“東亜解放”の理念を奉じて独立派に身を投じた人が約1000人いたそうです。そのうち、半数が戦死・行方不明となり、生き残った後も、日本に帰らず、インドネシアで生涯を終えた人も少なくありません。

 現在、インドネシア政府は、独立戦争を生き抜いた旧日本軍の将兵にはゲリラ勲章を授与しているほか、独立戦争中の戦死者・陣没者や独立戦争に参加した戦績のある元将兵については、没後、本人や遺族が希望しない場合を除き、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ国内各地の英雄墓地に埋葬されることになっています。独立の英雄として英雄墓地に埋葬されることはインドネシアでは最高の栄誉とされており、その葬儀にはインドネシアの国防省代表、インドネシア国軍の葬儀委員、儀仗兵、軍楽隊が参加して、厳粛に執り行われます。

 なお、これまでも散々書いてきたことの繰り返しになりますが、インドネシア共和国が最終的に独立を達成したのは、当然のことながら、第一義的には、インドネシア国民(になった人々)がみずから血を流し、熾烈な対蘭独立戦争を戦った結果です。そのことは大前提として絶対に忘れてはなりません。

 その意味において、僕は、彼らの尊い犠牲を無視して「日本がインドネシアを独立させてやった」という類の議論をする人たちには絶対に与しません。ちなみに、インドネシア独立戦争に参加した旧日本軍の将兵は、制度上は“脱走兵”の扱いとされており、インドネシア独立戦争中の戦死者に対しては遺族年金が支給されていないばかりでなく、彼らが“英霊”として靖国に祀られることもありません。それどころか、“脱走兵”以外の旧日本軍は、正規の手続きに則って、オランダ軍とともに独立派と戦い、多くの戦死者を出しましたが、彼らは靖国に祀られています。この厳然たる事実をしっかりと受け止めていれば、それだけで、「日本がインドネシアを独立させてやった」などという発言が、いかに、インドネシア国民のみならず、彼らの独立のために戦った旧日本軍将兵を愚弄するものであるのか、お分かりいただけるでしょう。

 ただ、その一方で、日本による占領という体験が触媒となって、あるいは、独立戦争での旧日本軍将兵の活動が、結果的にインドネシアの独立を導くことになったということを、インドネシアの人たちが自らポジティヴに語ってくれるのであれば、その気持ちは素直に、ありがたく受け入れるべきだと思います。そうした彼らの友情を無視して、自分は「一般の日本人とは違う」という醜悪な思い込みから、ひたすら日本と日本人を貶めるために“日本軍によるアジア侵略”を嬉々として糾弾する日本人が少なからずいますが、そうした連中に対しては、心の底から軽蔑するという以外の感情しか沸いてきませんな。

 以前刊行した拙著『蘭印戦跡紀行』は、そんな思いから、僕がインドネシア各地で実際に見聞した“日本”の痕跡について、切手や郵便物、絵葉書などを交えながらまとめてみたものです。機会がありましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。

 
 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『日の本切手 美女かるた』  好評発売中! ★★★ 

        税込2160円

 4月8日付の『夕刊フジ』に書評が掲載されました!

 【出版元より】
 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾンboox storee-honhontoYASASIA紀伊國屋書店セブンネットブックサービス丸善&ジュンク堂ヨドバシcom.楽天ブックスをご利用ください。


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 ジャカルタ駅伝の通りの名前
2015-05-31 Sun 21:28
 インドネシアと日本の友好を目的とした「ジャカルタ『絆』駅伝2015」が、きょう(31日)、ジャカルタ市中心部のスディルマン通りで行われました。というわけで、きょうは通りの名前にちなんで、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      インドネシア・スディルマン(1961)

 これは、1961年にインドネシアが発行した“独立の英雄”の切手のうち、スディルマンを取り上げた1枚です。

 スディルマンは、1916年(1915年説もあり)、中部ジャワのプルバリンガ生まれ。オランダ語教育を受けたのち、1935年にチラチャプのムハマディヤ系小学校教師となりました。

 教員のかたわら協同組合設立にも参加し、住民の生活改善のために尽力。日本軍占領時代には州参議会議員やジャワ奉公会の役員としても活躍しました。また、1944年には日本軍による軍隊教育を受けて、日本が創設したペタのバニューマス大団長(大団長は大隊長に相当)に任命されています。

 こうした経歴を買われ、独立宣言後の1945年12月、スカルノから初代国軍司令官に任命され、独立戦争の陣頭指揮を取っています。特に、1948年12月19日、ジョクジャカルタが陥落し、大統領のスカルノ以下の共和国政府の閣僚たちが逮捕された際には、結核に侵されながらも、スカルノの投降命令を無視してジャングルに退却して大規模なゲリラ戦を指揮しました。この点について、スディルマンは、国軍は自らを“政府の道具”ではなく“国家の道具”だと弁明し、文民政府の命令によって国家の主権や統一が危うくなる場合には、国軍は政府を無視して国家を守ることこそが義務であると主張しています。

 担架に乗せられ、喀血しながら最前線でゲリラ戦を指揮したスディルマンの活躍もあり、1949年12月27日、インドネシア共和国は完全独立を達成しましたが、スディルマンの病状は、すでにその時、末期的な症状を来していました。そして、完全独立からほぼ1ヶ月後の1950年1月29日、独立戦争最大の英雄は34歳の若さでこの世を亡くなります。

 インドネシア国民の間では、現在なおスディルマンに対する人気が高く、ジャカルタには日本大使館などがあるタムリン通りから議事堂などがあるスナヤン地区に連なる目抜き通りは、彼にちなんでスディルマン通りと命名されました。

 なお、2011年に訪日したインドネシアのプルノモ国防相は、ジョグジャカルタの歴史博物館にあるのと同じ銅像を日本に寄贈しました。ちなみに、下の画像はジョグジャカルタで撮影したスディルマンの銅像です。

       スディルマン像

 銅像の寄贈は、日本占領時代のペタから巣だってインドネシア国軍を指揮したスディルマンの生涯が、両国の友好親善と防衛協力交流のシンボルとしてふさわしいという判断によるもので、寄贈された銅像は東京・市ヶ谷の防衛省敷地内に建立されています。今回の駅伝がスディルマン通りをコースとして行われたのも、こうした経緯を踏まえてのことと思われますが、日本国内で、その点について触れた報道がほとんどなかった(ように見受けられる)のは、ちょっと残念ですな。

 なお、スディルマンほかインドネシア独立の英雄については、拙著『蘭印戦跡紀行』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 最後の残留日本兵、亡くなる
2014-08-25 Mon 16:25
 第2次大戦後、インドネシアに残りオランダからの独立戦争に参加した元残留日本兵の最後の生き残りとなっていた小野盛さん(インドネシア名・ラフマット)が、けさ、東ジャワ州マランの病院で亡くなりました。享年94歳。謹んでご冥福をお祈りします。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ジャワ・軍事郵便用はがき用紙使用

 これは、インドネシア独立戦争期の1946年2月8日、ジャワ島のマランから島内のマゲラン宛に差し出された葉書で、日本時代に発行された水牛農耕図案の5セント葉書がそのまま使用されています。

 日本占領時代のジャワ島では、1945年1月20日以降、水牛農耕図案の切手とほぼ同じデザインの印面の葉書が使用されていました。当初の額面は3.5センでしたが、終戦間際の1945年7月1日には郵便料金の改正があり、葉書料金が5センに値上げされたため、同日付でデザインはそのままに、額面を5センに改めた葉書も発行されています。
 
 ところで、日本占領下のジャワ島の切手と葉書は、バタヴィヤ(現ジャカルタ)のコルフ印刷会社で製造されましたが、同社は、日本軍の軍事郵便用の葉書の印刷も請け負っていたため、同社に残っていた大量の軍事郵便用はがきの用紙に水牛農耕図案の印面を印刷したモノもあります。今回ご紹介の葉書はその一例で、印面の下に”軍事郵便”との印刷が見えます。なお、水牛農耕図案の5セン葉書は、発行後まもなく、日本が降伏し、オランダ領東インドから撤退することになったため、今回ご紹介のモノを含め、その大半が戦後の使用例です。

 日本の敗戦直後の1945年8月17日、スカルノらはインドネシアの独立を宣言しましたが、オランダはこれを認めず、なし崩し的にインドネシア独立戦争が始まります。

 現地に残っていた日本軍は、連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま、上陸する連合軍部隊に引き渡すことになり、インドネシア独立派への武器引渡しは禁止されていました。しかし、一部の地域では、独立派の要請に対して武器庫を開放することもあったほか、旧日本軍の将兵の中には、“東亜解放”の理念を奉じて独立派に身を投じた人が約1000人いたそうです。そのうち、半数が戦死・行方不明となり、生き残った後も、今回亡くなった小野さんのように、日本に帰らず、インドネシアで生涯を終えた人も少なくありません。

 今回亡くなった小野さんは、終戦時の日本軍での階級は軍曹で、1945年12月29日、辞世の句と写真、髪の毛を封筒に入れて日本に帰る戦友に渡し、親友2人とともに日本軍を離脱。翌30日、インドネシア共和国軍に参加し、インドネシア名“ラフマット”を名乗ることになります。

 その後、独立戦争で軍功を挙げたラフマットこと小野さんは、1948年7月24日、インドネシア側の要請を受けて、総員29名の日本人部隊が結成。当時は、いわゆるレンヴィル協定による一時的な停戦期間中であったため、部隊の活動は極秘とされ、7月30日には“幻の外人部隊”としてオランダ軍を襲撃し、オランダ側の10名を死傷させています。さらに、停戦協定が破棄され、オランダ軍による第2次侵攻が開始されると、小野さんの部隊はゲリラ戦を展開し、オランダ側からは“日本の虎”として大いに恐れられ、小野さんら残留日本兵は高額の懸賞首となりました。特に、1949年2月27日の東部ジャワ州での戦闘に際しては、小野さんは作戦参謀としてインドネシア共和国軍に大きな勝利をもたらしています。

 最終的に、小野さんは独立戦争参加勲章ほか7個の勲章と傷痍軍人章を受け(戦闘により、小野さんは左腕の肘から先を失っています)、予備役インドネシア陸軍少佐として、インドネシア政府から恩給も支給されていました。しかし、その金額はわずかなもので、結局、小野さん自身は現地女性と結婚し、農業で生計を立てていました。

 現在、インドネシア政府は、独立戦争を生き抜いた旧日本軍の将兵にはゲリラ勲章を授与しているほか、独立戦争中の戦死者・陣没者や独立戦争に参加した戦績のある元将兵については、没後、本人や遺族が希望しない場合を除き、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ国内各地の英雄墓地に埋葬されることになっています。独立の英雄として英雄墓地に埋葬されることはインドネシアでは最高の栄誉とされており、その葬儀にはインドネシアの国防省代表、インドネシア国軍の葬儀委員、儀仗兵、軍楽隊が参加して、厳粛に執り行われます。今回亡くなった小野さんに関しては、ご本人の希望で、彼が長らく生活していた東ジャワ州バトゥの英雄墓地に埋葬される予定だそうです。

 一方、日本国内では、インドネシア独立戦争に参加した旧日本軍の将兵は、制度上は“脱走兵”の扱いとされており、インドネシア独立戦争中の戦死者に対しては遺族年金が支給されていないばかりでなく、彼らが“英霊”として靖国に祀られることもありません。インドネシア独立戦争におけるインドネシアの人の犠牲を過小評価し、大東亜戦争がアジア解放の戦いであり、インドネシアの独立も日本軍のおかげだという人は、小野さんたち、インドネシア独立の英雄に対する日本の冷淡な態度をどう考えているのか、ぜひとも、きちんとご説明いただきたいものですな。

 なお、インドネシア独立戦争については、拙著『蘭印戦跡紀行』でもいろいろと取り上げていますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

     
 ★★★ 講演会のご案内 ★★★ 

 ~韓国文化院 講演会シリーズ2014 『韓日交流史』~
 第9回は内藤陽介「韓国の切手でひも解く韓国近現代史」 です!

 ◇日時:2014年9月5日(金) 開場 18:30 開演 19:00
 ◇会場:韓国文化院 ハンマダンホール
 ◇募集人員:300名様(お申し込みはお一人様2名まで)
 ◇入場無料(事前のお申込みが必要です)
 ◇主催・お問い合わせ先:駐日韓国大使館韓国文化院 03-3357-5970

 ■ 韓国文化院のホームページ・トップの 「イベント応募コーナー」欄(こちらをクリックしてください)からお申し込みいただけます。たくさんの皆様のお申し込みを心よりお待ち申しております。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ 

 お待たせしました。約1年ぶりの新作です!

        朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

 *8月24日付『讀賣新聞』読書欄、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました!


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 ムルデカ!
2014-08-17 Sun 10:18
 今日(17日)は、インドネシアの独立記念日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ジャワ・ムルデカ葉書

 これは、日本占領時代のジャワで発行された水牛農耕図案の5セン葉書で、インドネシア独立戦争中の1945年11月27日、ソロ(スラカルタ)からジョグジャカルタ宛に差し出されたものですが、独立を意味する“MERDEKA(ムルデカ)”のスローガン印が押されているのがミソです。

 第2次大戦中、オランダ領東インド(蘭印)を占領した日本軍は、政治犯としてオランダに捕らえられていたスカルノやハッタらインドネシア民族主義指導者を解放します。日本側は、石油資源の安定確保のため(そもそも、これこそが戦争の目的でしたから)、蘭印を直轄の軍政地域としました。しかし、戦局が悪化してきた1945年3月、インドネシアを親日国家として独立させるよう方針を転換。独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させています。

 こうして、終戦間際の8月7日、スカルノらは独立準備委員会を設立。その第1回会議は18日に開催される予定でしたが、8月15日、日本が降伏したことで、日本の軍政当局の主導による独立準備は中止されてしまいます。そこで、2日後の8月17日、スカルノらインドネシアの民族主義者たちは、オランダ軍が再上陸してくる前に、機先を制してインドネシア共和国の独立を宣言しました。場所はスカルノの私邸、約1000名が立会ったそうです。

 その後、9月4日にスカルノを首班とするインドネシア共和国が成立。また、独立宣言後の8月22日には人民治安団が政府布告によって結成され、政府は日本軍政下で結成された旧ペタ(郷土防衛義勇軍)系の将兵、兵補らに参加を呼びかけます。さらに、10月になって日本軍の武装解除のため、イギリス軍やオランダ軍が本格的に進駐してくると、スカルノらはこれに対抗すべく人民治安軍を組織しました。

 戦争に敗れた日本軍は、連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま、上陸する連合軍部隊に引き渡すことになり、インドネシア独立派への武器引渡しは禁止されていました。しかし、一部の地域では、独立派の要請に対して武器庫を開放することもあったほか、旧日本軍の将兵の中には、“東亜解放”の理念を奉じて独立派に身を投じ、そのまま日本に帰らなかった者もいるなど、終戦から正規の国交樹立までの間も、日本とインドネシアとは浅からぬ関係が続くことになるのです。

 ところで、日本の敗戦間際の1945年7月1日、日本占領下のジャワでは郵便料金の改正があり、葉書料金は3.5センから5センに値上げされました。このため、同日付でデザインはそのままに、額面を5センに改めた葉書も発行されましたが、発行後まもなく日本軍が降伏してしまったため、そのほとんどは、今回ご紹介の葉書のように、戦後になってからの使用となりました。
 
 日本軍の撤退後、インドネシア共和国の独立を宣言したスカルノら民族主義者に対して、旧宗主国のオランダはこれを認めず、インドネシアに進駐したオランダ軍部隊は、独立を妨害するために、インドネシア人の誘拐や殺害、放火など多くの事件を起こし、両者の対立は、なし崩し的に独立戦争へと転化していくことになります。その過程で、スカルノら共和国側が日本占領時代のムラピ山の葉書の日本語部分を抹消し、“REPOEBLIK INDONESIA”と加刷して使用された例もあります。

 なお、インドネシア共和国が最終的に独立を達成したのは、当然のことながら、第一義的には、インドネシア国民(になった人々)がみずから血を流し、熾烈な対蘭独立戦争を戦った結果です。そのことは大前提として絶対に忘れてはなりません。

 その意味において、僕は、彼らの尊い犠牲を無視して「日本がインドネシアを独立させてやった」という類の議論をする人たちには絶対に与しません。ちなみに、インドネシア独立戦争に参加した旧日本軍の将兵は、制度上は“脱走兵”の扱いとされており、インドネシア独立戦争中の戦死者に対しては遺族年金が支給されていないばかりでなく、彼らが“英霊”として靖国に祀られることもありません。それどころか、“脱走兵”以外の旧日本軍は、正規の手続きに則って、オランダ軍とともに独立派と戦い、多くの戦死者(こちらは靖国に祀られています)を出しています。この厳然たる事実をしっかりと受け止めていれば、それだけで、「日本がインドネシアを独立させてやった」などという発言が、いかに、インドネシア国民のみならず、彼らの独立のために戦った旧日本軍将兵を愚弄するものであるのか、お分かりいただけるでしょう。

 ただ、その一方で、日本による占領という体験が触媒となって、あるいは、独立戦争での旧日本軍将兵の活動が、結果的にインドネシアの独立を導くことになったということを、インドネシアの人たちが自らポジティヴに語ってくれるのであれば、その気持ちは素直に、ありがたく受け入れるべきだと思います。そうした彼らの友情を無視して“日本軍によるアジア侵略”を嬉々として糾弾する日本人が少なからずいますが、そうした連中に対しては、心の底から軽蔑するという以外の感情しか沸いてきませんな。

 いまから1年ほど前に刊行した拙著『蘭印戦跡紀行』は、そんな思いから、僕がインドネシア各地で実際に見聞した“日本”の痕跡について、切手や郵便物、絵葉書などを交えながらまとめてみたものです。機会がありましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 第9回は内藤陽介「韓国の切手でひも解く韓国近現代史」 です!

 ◇日時:2014年9月5日(金) 開場 18:30 開演 19:00
 ◇会場:韓国文化院 ハンマダンホール
 ◇募集人員:300名様(お申し込みはお一人様2名まで)
 ◇入場無料(事前のお申込みが必要です)
 ◇主催・お問い合わせ先:駐日韓国大使館韓国文化院 03-3357-5970

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 昭和の日
2014-04-29 Tue 10:36
 今日(29日)は“昭和の日”です。というわけで、昭和切手がらみでこんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       鵞鑾鼻燈台(インドネシア加刷)

 これは、第二次大戦直後のインドネシア独立戦争時、日本占領時代に使われていた鵞鑾鼻燈台の6銭切手に“INDONESIA/PTT”の文字を加捺した暫定切手です。本来、円形の印は1枚の切手に1つずつ押すはずなのですが、押捺がずれて2枚にまたがるかたちになっています。

 第二次大戦中、現在のインドネシアに相当する地域は日本軍の占領下に置かれていましたが、このうち、ジャワ島では日本切手は配給されなかったと考えられていますが、それ以外の地域では日本切手が持ち込まれ、オランダ領東インド時代(蘭印)の切手やそれに加刷した切手、占領下で新たに発行された正刷切手などとともに使用されていました。

 ところで、第2次大戦中、蘭印を占領した日本軍は、政治犯としてオランダに捕らえられていたスカルノやハッタらインドネシア民族主義指導者を解放。日本側は、石油資源の安定確保のため(そもそも、これこそが戦争の目的でしたから)、蘭印を直轄の軍政地域としました。しかし、戦局が悪化してきた1945年3月、インドネシアを親日国家として独立させるよう方針を転換。独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させています。

 こうして、終戦間際の8月7日、スカルノらは独立準備委員会を設立。その第1回会議は18日に開催される予定でしたが、8月15日、日本が降伏したことで、日本の軍政当局の主導による独立準備は中止されてしまいます。そこで、2日後の8月17日、スカルノらインドネシアの民族主義者たちは、オランダ軍が再上陸してくる前に、機先を制してインドネシア共和国の独立を宣言しました。

 これに対応して、スカルノらの支配地域では、郵便局に残っていた切手にその地域が“インドネシア共和国”の支配下にあることを示す加刷を施した暫定切手が発行・使用されています。今回ご紹介の切手は、そのうちの、スマトラ島でつくられた加刷切手です。

 なお、日本占領時代からインドネシア独立戦争にかけての切手や郵便については、拙著『蘭印戦跡紀行』でも、現在の現地の写真とともにいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ 切手が語る台湾の歴史 ★★★

 5月15日13:00から、よみうりカルチャー北千住にて、よみうりカルチャーと台湾文化部の共催による“台湾文化を学ぶ講座”の一コマとして、「切手が語る台湾の歴史」という講演をやります。

 切手と郵便はその地域の実効支配者を示すシンボルでした。この点において、台湾は非常に興味深い対象です。それは、最初に近代郵便制度が導入された清末から現在に至るまで、台湾では一貫して、中国本土とは別の切手が用いられてきたからです。今回の講演では、こうした視点から、“中国”の外に置かれてきた台湾(史)の視点について、切手や郵便物を題材にお話しする予定です。

 参加費は無料ですが、事前に、北千住センター(03-3870-2061)まで、電話でのご予約が必要となります。よろしかったら、ぜひ、1人でも多くの方にご来駕いただけると幸いです。


 ★★★ 講座「世界紀行~月一回の諸国漫郵」のご案内 ★★★ 

亀戸講座(2014前期)・広告

 東京・江東区亀戸文化センターで、5月から毎月1回、世界旅行の気分で楽しく受講できる紀行講座がスタートします。美しい風景写真とともに、郵便資料や切手から歴史・政治背景を簡単に解説します。受講のお楽しみに、毎回、おすすめの写真からお好きなものを絵葉書にしてプレゼントします!

 詳細は、こちらをご覧ください。


 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★

 『蘭印戦跡紀行』広告

 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。
 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。
 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。


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 勤労感謝の日
2013-11-23 Sat 09:34
 きょう(23日)は勤労感謝の日です。という訳で、きょうは“働く人”を取り上げた切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      スカルノ帰還加刷     
      バティック実演

 これは、1949年、独立戦争時のインドネシア共和国が臨時政府のジョグジャカルタ帰還を記念して発行されたローカル加刷切手です。加刷の台切手にはジョグジャカルタを象徴するものとしてバティックの制作作業にいそしむ女性が取り上げられています。右の画像は、ジョグジャカルタの空港到着ロビーで行われていたバティック制作の実演風景です。

 日本軍の撤退後、インドネシア共和国の独立を宣言したスカルノら民族主義者に対して、旧宗主国のオランダはこれを認めず、インドネシアに進駐したオランダ軍部隊は、独立を妨害するために、インドネシア人の誘拐や殺害、放火など多くの事件を起こし、両者の対立は、なし崩し的に独立戦争へと転化していきました。

 首都ジャカルタの治安が極端に悪化したことから、1946年1月4日、インドネシア共和国政府はジョグジャカルタを臨時首都としてジャカルタから遷都。大統領スカルノ、副大統領ハッタら政権中枢はジョグジャカルタに退避し、首相兼外相のシャフリルがジャカルタに残って英蘭(日本軍の武装解除を担当するため各地に進駐したのは英連邦軍でした)と交渉を進めます。

 さて、インドネシア独立戦争は、1948年1月17日には、いったん、ジャカルタ沖に停泊する米国軍艦レンヴィル上で停戦協定(レンヴィル協定)が締結。同協定では、インドネシア共和国の領土はジャワ島の中部と西端部、マドゥラ島のみに限られており、共和国にとっては屈辱的な内容でしたが、戦況が圧倒的にオランダ優位で進んでいたこともあって、ともかくも“独立”を確保するためには、共和国側もこれを飲まざるを得ないというのが実情でした。

 しかし、当然のことながら、協定の内容に対するインドネシア内の不満も根強く、特に、インドネシア共産党(PKI)をはじめとする左派勢力は徹底抗戦を唱えて、1948年9月18日、ジャワ島東部のマディウンで政府機関を襲撃し、革命政府樹立を宣言します。この反乱は1ヶ月ほどで鎮圧されたものの、混乱に乗じて一挙に共和国を壊滅に追い込もうと考えたオランダは、同年12月11日、和平会談の決裂を宣言。12月19日、“(第二次)警察行動”と称して、共和国領内への全面攻勢を開始しました。

 共和国臨時首都のジョグジャカルタでは、マグオ空港がオランダ空軍による空襲を受けて破壊され、12月23日には首都中枢部が陥落。スカルノ以下共和国政府要人が逮捕されます。このため、共和国側はスマトラに臨時政府を樹立し、各地でゲリラ戦を展開。1949年3月1日にはスハルト(後の大統領)指揮下の共和国軍がジョグジャカルタ奪還作戦を敢行しました。

 この作戦は、結果的に成功しませんでしたが、この頃になると、オランダの“汚い戦争”に対する国際社会の批判と和平圧力が強まりました。かくして、1949年7月6日、スカルノらはジョグジャカルタに帰還し、7月13日にはスマトラの臨時政府を解消して、政府機能を復活。ちなみに、今回ご紹介の切手は、これを記念して発行されたものです。

 その後、8月23日から11月2日まで開催されたハーグ円卓会議により、オランダはインドネシア共和国を正式に承認し、独立戦争はようやく終結しました。

 さて、拙著『蘭印戦跡紀行』では、独立戦争時の臨時首都であり、ジャワ島の古都でもあるジョグジャカルタについても1章を設けて解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★  絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩  ★★★

 2014年1月11日・18日・2月8日のそれぞれ13:00-15:00、文京学院大学生涯学習センター(東京都文京区)で、「絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩」と題する講座をやります。(1月18日は、切手の博物館で開催のミニペックスの解説)

 新たに富士山が登録されて注目を集めるユネスコの世界遺産。 いずれも一度は訪れたい魅力的な場所ばかりですが、実際に旅するのは容易ではありません。そこで、「小さな外交官」とも呼ばれる切手や絵葉書に取り上げられた風景や文化遺産の100年前、50年前の姿と、講師自身が撮影した最近の様子を見比べながら、ちょっと変わった歴史散歩を楽しんでみませんか? 講座を受けるだけで、世界旅行の気分を満喫できることをお約束します。

 詳細はこちら。皆様の御参加を、心よりお待ちしております。


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 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は12月3日(原則第1火曜日)で、以後、1月7日、2月4日、3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。


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 マラソンはモナスからスタート
2013-10-28 Mon 11:47
 きのう(27日)、ジャカルタで初めての国際マラソン大会が開催されました。高温多湿なジャカルタの気候を配慮して、日の出より約30分早い午前5時、日本を含む世界50カ国1万人の参加者が、ピンクにライトアップされた独立記念塔(モナス)前からスタートしたそうです。というわけで、きょうは、マラソンの出発地点、モナスを描いたこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      モナス・寄附金つき切手     
      モナス(実物)

 これは、モナス建設中の1962年5月20日、建設費用調達のために発行された寄附金つき切手で、モナスの完成予想図が描かれています。右側には、実際のモナスの写真を貼っておきました。塔の下を歩く人々や背後の建物などと比べると、塔の巨大さがお分かりいただけるかと思います。切手の完成予想図と実物の塔の形状が若干違うのは、まぁ、ご愛嬌でしょう。

 ジャカルタの中心部、ムルデカ(独立)広場の中心部にそびえたつモナスは、スカルノ直々の提案により建設されました。設計は、建築家のスダルソノとフレデリッヒ・シラバンがデザインを担当し、ローセノが構造を担当しました。定礎式は1961年8月17日に行われましたが、完成したのは、スカルノ失脚後の1975年のことです。

 塔の外装は白い大理石で、高さは137メートル。頂上部には高さ14メートル、直径6メートル、重さ14.5トン(35キロの純金メッキを含む)の青銅製の炎をかたどったレリーフがあり、独立戦争中のインドネシア国民の闘志を象徴しているそうです。

 モナスを最初に見た時に、僕は、平壌の主体思想塔を思い出したのですが、よくよく考えると、モナスの完成は1975年で、主体思想塔は1982年のことですから、主体思想塔の方がモナスをモデルにしたということはありそうです。ちなみに、北朝鮮の国家イデオロギーとなっている主体思想は、じつは、インドネシアとも浅からぬ因縁があります。

 主体思想は、1950年代末、いわゆる中ソ対立が本格化し、北朝鮮が中ソ両国から等距離を取り、自らの独自路線を採らざるを得なくなったことで生まれてきたわけですが(彼らの言う“主体”とは、“客体”の対義語ではなく、大国におもねる“事大”の対義語です)、1965年4月、バンドン会議10周年記念会議に参加した金日成は、インドネシアのアリ・アルハム社会科学院で講演を行い、「思想における主体、政治における自主、経済における自立、国防における自衛――これが、わが党が堅持している立場」であると語り、これが主体思想であると初めて公言しました。金日成が、モスクワや北京ではなく、第三世界のインドネシアで主体思想を公式に宣言したことは、この「思想」の性格を考える上できわめて象徴的であったといえましょう。

 ちなみに、この時の金日成の外遊には、金正日も同行していますので、モナスの建設中に現地を訪問した体験が、後の主体思想塔建設のヒントにつながったという可能性もあるのではないかと僕は考えています。このあたりの事情については、拙著『蘭印戦跡紀行』の続編として、ジャカルタについての本を作る機会があれば、ぜひまとめてみたいですね。まぁ、そのためには、まずは『蘭印戦跡紀行』がそれなりの営業成績を残さないといけないので、皆様、なにとぞよろしくお願いいたします。


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