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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ブレイキンの湯浅亜実、レスリングの樋口黎、桜井つぐみが金メダル、スポーツクライミングの安楽宙斗が銀
2024-08-10 Sat 10:47
 現在開催中のパリ五輪は、現地時間9日、ブレイキン女子の湯浅亜実、レスリング男子フリースタイル57キロ級の樋口黎、同女子57キロ級の桜井つぐみが金メダル、スポーツクライミング男子の安楽宙斗が銀メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      米国・20世紀シリーズ(ヒップホップカルチャー)

 これは、2000年1月13日、米国で発行された20世紀シリーズ第9集(1980年代)のうち、ヒップホップカルチャーを取り上げた1枚で、ラジカセの音楽をバックに、ブレイクダンスを踊るアフリカ系の若者が描かれています。

 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。

 * 昨日(9日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。次回は8月23日に登場予定です。引き続きよろしくお付き合いください。

★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★

 8月10日(土) 13:30~  本当は恐ろしい!こわい切手
 よみうりカルチャー荻窪にて、拙著『本当は恐ろしい!こわい切手』からの選りすぐりのエピソードを中心にお話しします。詳細はこちらをご覧ください。

 8月13日(火) 10:00~ ニッポンジャーナル
 インターネット番組「ニッポンジャーナル」に内藤藤がコメンテーターとして出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。

 8月23日(金) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。

 よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00
 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。

 謀略の世界史 原則毎月第1土曜日 13:00~14:30
 MI6、CIA、モサドなど各国の情報機関のあらましや、現代史の中で彼らが実際に関与した事件などを幅広くご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。

 武蔵野大学のWeb講座 
 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 

 「龍の文化史」、絶賛配信中です。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。

 ★ 『切手もの知り図鑑 一番切手50のエピソード』 好評発売中!★

      切手もの知り図鑑 一番切手50のエピソード

 「動物と植物」「科学技術」「社会と文化」「神話/伝説と宗教」の4章立てで、犬、猫、宇宙開発、飛行機、クリスマスといったテーマで、初めて描かれた切手図案にまつわる秘話、思いがけない発行に至る背景に加え、シーラカンスやテレビ、警察官、タトゥー、髑髏といった、あっと驚く意外なテーマの一番切手も登場します!

 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 トルーマン没後50年
2022-12-26 Mon 03:59
 1972年12月26日に米国のハリー・トルーマン元大統領が亡くなってから、ちょうど50年になりました。というわけで、トルーマン関連の切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      米国・トルーマンの勝利宣言(1995)

 これは、1995年9月2日、米国が発行した第二次大戦50周年シリーズのうち、「トルーマン、日本の降伏を発表」の切手です。

 米国の第二次大戦50周年シリーズは、1941年から毎年、50年前の重要な出来事10件を表現する切手を組み合わせたシートの形式で発行されました。その1945年の分の1枚として、原爆のきのこ雲を描き“原爆が戦争の終結を早めた”との説明文をつけた切手の発行が計画されていることが1994年末に明らかになったことで、この問題が日米間で政治問題化。結局、米国側は、“原爆が戦争の終結を早めた”との政府見解は撤回しないものの、対日関係を配慮して“原爆切手”の発行は撤回し、代わりに、1995年の切手には、今回ご紹介の1枚を組み込んで発行されています。

 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 

 また、“戦後50年”の切手とわが国の対応については、拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.3 平成・令和編』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★

 12月29日(木) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。

 よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00
 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。

 よみうりカルチャー 北千住
 エリザベス女王の現代史 毎月第4土曜日 13:00~14:30
 エリザベス女王の描かれた切手を手掛かりに、現代史を読み解く講座です。詳細はこちらをご覧ください。 

 武蔵野大学のWeb講座 
 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 


★ 『現代日中関係史 第1部 1945-1972』 好評発売中! ★

      現代日中関係史表_第1部

 日本郵趣出版の新レーベル「郵便×歴史シリーズ」の第一弾の企画として、切手という切り口から第二次大戦後の日中関係を読み解く『現代日中関係史』。その第1巻となる本書は、第二次大戦後、わが国が中華人民共和国と国交を樹立(いわゆる国交正常化)する1972年9月以前を取り扱っています。なお、1972年の国交”正常化”以降については、2023年3月に刊行予定の第2巻でまとめる予定です。

 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページのリンクがあるほか、主要書店の店頭在庫も確認できます。また、販売元の郵趣サービス社のサイト、スタマガネットの特設サイトサイトでは、本書の内容見本をご覧いただけます。 

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 こわい切手:ドラキュラとブラン城
2021-09-10 Fri 01:29
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、雑誌『ザ・フナイ』2021年9月号ができあがりました。僕の連載「こわい切手」は、今回はドラキュラとブラン城について取り上げましたが、その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      米国・魔人ドラキュラ(1997)

 これは、1997年に米国が発行した“映画『魔人ドラキュラ』”の切手で、ベラ・ルゴシ演じるドラキュラが取り上げられています。

 吸血鬼ドラキュラといえば、長身痩躯で髪型はオールバック、夜会服とマントを身に着けており、日中は棺桶の中で眠っているというイメージを持つ人も多いかと思われますが、このイメージを定着させることになったのが、今回ご紹介の切手に取り上げられた映画『魔人ドラキュラ』でした。

 映画の原作は、1897年、アイルランド系の作家、ブラム・ストーカーが発表した小説『ドラキュラ』ですが、同書では、ドラキュラの容姿については「鷲を思わせる精悍な顔つきで、ピンと尖った口ひげを蓄え、青白い肌とは不釣り合いに赤い唇に尖った犬歯が覗いている」、「手は一見するときめ細かいがよく見たらゴツゴツしていて、手のひらの中央に毛が生えており、爪を尖った形に切りそろえている」などと記述されてはいるものの、服装については“黒ずくめ”としか説明されていません。

 小説の作者、ストーカーは1912年に亡くなりましたが、1920年代、著作権者でストーカー未亡人のフローレンスの許諾を得て上演されたハミルトン・ディーンの戯曲では、舞台装置の制約から、ドラキュラと戦うセワード博士の病院とカーファックス修道院の納骨堂の二場のみでの上演となり、ドラキュラの服装も上流家庭に招かれるという設定から、ドレスコードとして黒の夜会服を着て舞台に登場するという設定になっています。

 ちなみに、マントは襟を立てずに寝かせて着るのが一般的な着用方法ですが、ディーンの戯曲では、劇中、ドラキュラが観客に背を向けて一瞬で姿を消す演出を組み込んだため、観客に背中を向けたドラキュラの後頭部を隠さなければならなくなり、ドラキュラはマントの襟を立てて演じられました。しかし、その特異な姿は、かえってドラキュラの異常性を象徴するものとして人々に強い印象を与えました。

 ディーンの戯曲が興行的に成功したことから、1922年には、ドイツの映画監督、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウがブルーナ・フィルム社の配給で映画『吸血鬼ノスフェラトゥ』を制作。この映画は、パターン化されたセットでの撮影が一般的だった時代にあって、ロケーション撮影を行い、ネガ反転やコマ落としなどの技法を使うなど画期的な作品でした。また、ムルナウはドラキュラ伯爵をオルロック伯爵に変更するなど、設定をかなり変更していたため、著作権侵害には当たらないと考えていましたが、フローレンスは『ドラキュラ』が無断で映画化されたと判断してムルナウを訴え、1925年には映画のネガとプリントを破棄すべしとの判決が下されます。

 一方、1927年にはディーンの戯曲を元にしたミュージカルがニューヨークのブロードウェイでも上演されて大ヒット。すると、この人気に目を付けたユニヴァーサル映画は、フローレンスの許諾を得たうえで、『吸血鬼ノスフェラトゥ』も参考にしながら、1931年に『魔人ドラキュラ』を公開します。『魔人ドラキュラ』は、ドラキュラの服装についてはディーンの戯曲をほぼそのまま踏襲していましたが、この映画が世界的に大ヒットしたため、ルゴシの演じた姿がその後の“ドラキュラ伯爵”の基本形になりました。

 なお、『魔人ドラキュラ』の時点では、ドラキュラ役のルゴシは牙をつけずに演じていましたが、1958年、英国のハマーフィルムが『魔人ドラキュラ』のリメイクとして制作した『吸血鬼ドラキュラ』において、主演のクリストファー・リーが牙をつけてドラキュラを演じた結果、現在では牙をつけた姿が一般的なイメージになっています。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内★

 9月11日(土) 17:00~  日本ウイグル協会・緊急特別講演会
 東京・四谷のワイム貸会議室にて、日本ウイグル協会主催の緊急特別講演会にて、「タリバン政権と急接近した中共の思惑ーーテロとの口実で弾圧されてきたウイグル人」と題して、内藤がお話します。資料代1000円。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。

 9月13日(月) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。

 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です!
 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。


★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★

      世界はいつでも不安定Audible

 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。

★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★

      誰もが知りたいQアノンの正体 1650円(本体1500円+税)

 * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。

 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

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 南軍旗、米軍基地で掲揚禁止へ
2020-07-18 Sat 13:49
 米国防総省は、17日(現地時間)、南北戦争期の南軍旗について、米軍基地や関連施設などでの掲揚を事実上、全面禁止する方針を示しました。というわけで、きょうは南軍旗の描かれた切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      米・南北戦争(1995・ゲティスバーグ)

 これは、1995年に米国で発行された“南北戦争”の切手シートのうち、ゲティスバーグの戦いを取り上げた1枚で、右側に南軍旗を掲げて戦う南軍兵士が見られます。

 南軍期は、南北戦争期のアメリカ連合国(南部連合)陸軍の軍旗で、赤地にX型十字の青を配し、十字の中に13の星(独立時の米国の州の数。また、南部連合の11州に、南軍と連邦の両方の統治機関を持っていたミズーリ州とケンタッキー州を合わると13州)を配したデザインになっています。

 南北戦争の勃発後、南部連合では星条旗に替わる国旗を制定することになり、国旗・国章制定委員会の委員長だったウィリアム・ポーチャー・マイルズは、南軍旗の元になった赤字に青のX型十字のデザイン案を提出しました。しかし、独立戦争以来の星条旗を捨てることへの反対が強かったため、星条旗に似せた“スターズ・アンド・バーズ(赤白赤の3本のストライプと、左上のカントンの部分に紺地に星を円形に配したもの)”が“国旗”として採用されました。

 しかし、実際の戦場では、南部連合の国旗は、尾硝煙と土煙の中では星条旗と見分けづらく、友軍への誤射などもあいついだため、1861年11月以降、マイルズのデザインした赤字に青のX型十字のデザインが南軍旗として採用され、終戦まで使われました。その後、南軍旗が南部連合のイメージとして定着したこともあり、1863年5月1日には、南部連合の国旗も、白地の左上に南軍旗のデザインを配した“ステインレス・バナー(染みのない旗)”と呼ばれるデザインに変更されています。

 南北戦争後、南部諸州には合衆国軍(旧北軍)が進駐し、南部諸州は“敗戦国”として、南部連合は徹底的に否定されました。このため、南軍期を公の場で掲示することも違法とされていましたが、1877年までに南部諸州の自治が回復。これに伴い、南部諸州では相次いで有色人種に対する隔離政策(ジム・クロウ法)が始まり、差別政策が修正第13条・14条・15条に違反するとの連邦裁判所への訴訟においても「隔離すれども平等」である限りは合憲であるとの司法判断が示されるようになります。こうした背景の下、南軍旗も復権。1894年にはミシシッピ州の州旗が、カントンに南軍旗を配したデザインに変更されました。

 さらに、20世紀初頭から中頃にかけて、南軍旗の人気が上昇。第二次世界大戦中、南部出身の米兵で構成された部隊の中には南軍旗を非公式のエンブレムする例もあったほか南軍旗などを戦場に持ち込む兵士もいました。じっさい、沖縄戦後、首里城には、一時的に、南軍旗が掲げられたこともあります。ただし、奴隷制の象徴ともみられていた南軍旗には、黒人兵士の反発も強く、首里城の南軍旗はすぐに下ろされ、南軍旗を使用した兵士は調査対象となっています。

 現在、一般的な米国人の理解では、南北戦争は“奴隷解放のための戦争”と認識されていますが、実際には、奴隷解放は南北の対立の重要な争点ではあったものの、それだけが戦争の原因ではなかったことは言うまでもありません。このため、南部では、「南軍は奴隷制維持のために戦ったのではなく、“州の権利”を守り、連邦の介入に反対するための戦争だった」との認識から、南軍旗のシンボルは、南部の歴史と文化を記念するものとして尊重されるべきと主張する人も少なくありません。

 しかし、2015年、南北戦争の終戦150周年記念イベントの数日後、サウスカロライナ州の黒人教会で白人男性が信者9人を殺害する事件が発生。犯人が南部連合旗の前でポーズを取った写真を公開したことで、南部連合旗のイメージが極端に悪化し、サウスカロライナ州政府が州議会議事堂から南部連合旗の撤去を決定したのを皮切りに、多くの地方自治体が、地元にある南部のシンボルを撤去する流れが生まれます。

 これに対して、“南部差別”に対する鬱屈した疎外感から、さらに人種差別的な傾向を強め、そのシンボルとして“南部”を持ち出す勢力が台頭。事態をますますこじらせる状況が続いていました。

 ことし(2020年)5月、ミネソタ州ミネアポリスで、詐欺容疑で拘束された黒人男性が、拘束時に警官に膝で首を押さえつけられたことが原因で死亡した事件を巡り、、全米に抗議行動が拡大して暴動にエスカレートし、全米各地で、南北戦争時の南軍指導者や奴隷を所有していたことのある歴史上の人物を“差別主義者”などとして、その銅像等を損壊・汚損する事件が相次ぐ中で、トランプ大統領は、過激派集団の乱暴狼藉に対して“法と秩序”を維持するため、6月26日には、抗議活動の一環として記念碑や像を「損壊、汚損、撤去」する行為に禁錮刑を科す大統領令に署名していますが、現実の暴力の前に、“自主的に”銅像等の撤去に追い込まれるケースも少なくありません。

 今回、国防総省が公表した旗の掲揚に関する指針では“統合や団結心を推進する旗”の掲揚を認めるとして国旗や州旗などを挙げる一方、南軍旗を除外。エスパー国防長官も、旗の掲揚については「分断の象徴となることを拒否する」よう求めるなど、事実上、南軍旗の掲揚を禁止する方針を明らかにしました。ただし、トランプ大統領自身は“表現の自由”だとして南軍旗の使用を擁護する姿勢を示しているそうです。

 * 昨日(17日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は8月7日(金)の予定ですので、引き続き、よろしくお願いします。

 
★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★

      みんな大好き陰謀論(帯なし表紙) 本体1500円+税

 出版社からのコメント
 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】
 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる!
 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう
 まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! !

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

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 禁酒法100年
2020-01-16 Thu 07:35
 1920年1月20日に、いわゆる米国の禁酒法(米国憲法修正第18条と国家禁酒法=ボルステッド法)が施行されてから、ちょうど100年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米国・禁酒法(20世紀シリーズ)

 これは、1998年に米国で発行された20世紀シリーズのうち、禁酒法を取り上げた1枚で、酒樽の酒を廃棄する場面が描かれています。

 いわゆる禁酒法は、正確には、「酒類の製造・販売・運搬等を禁止する法律」と訳すべき内容のもので、 飲酒そのものを禁じた法律ではありません。

 植民地時代から独立初期の米国では、酒は嗜好品というよりも非衛生的な飲料水や高価な茶などに代わる飲物で、特に、ケンタッキーで作られたバーボンは、独立当初、合衆国政府が濫発した紙くず同然の大陸紙幣に代わって、実質的な通貨の役割を果たすものでさえありました。

 このように、米国社会では酒が生活必需品であったわけですが、その反面、過度の飲酒によるトラブルが頻発し、その結果、教会を中心とした節酒運動が開始されることになります。なお、19世紀初期までは、節酒の対象となる酒は、アルコール度数の高い蒸留酒に限定されており、ワインやビールなどの醸造酒は含まれていませんでした。

 ところが、19世紀半ば以降、アイルランドやドイツからのカトリック系移民が急増すると、彼らの生活態度に眉をひそめる禁欲的なWASPたちが急増します。すなわち、安息日を無視して居酒屋に集まり、英語ではない母国語で高歌放吟し、深夜の町中を徘徊する移民たちの姿は、WASPの考える“プロテスタント的倫理観”に反するものとみなされたのです。

 この結果、それまで道徳の範疇で語られていた節酒を、強制力を持った禁酒へと改めるべきという主張が登場するようになり、1851年、「いかなる者も、その雇人や代理人を含め、医療と産業目的以外で、全部もしくは一部がアルコール性飲料を、直接的または間接的に製造及び販売してはならない」とする最初の禁酒法(正式名称は「1851年居酒屋・酒場禁圧法」)がメイン州で成立。同様の州法が10州と2準州でも成立しました。

 南北戦争中、禁酒運動は下火になりましたが、20世紀に入ると、禁酒運動は女性(男性が酒におぼれたり、不健全な酒場に入り浸ったりするのは家庭生活に支障をきたすという感覚を持つ人も多かった)を巻き込んで州レベルから連邦レベルへと拡大。さらに、第一次世界大戦が勃発し、戦時の穀物不足を予防する必要が生じると、ドイツ系が酒造・酒販業界を牛耳っていたこともあって、禁酒を求める世論が一挙に高潮します。

 この結果、1917年、ウッドロー・ウィルソン政権は、ドイツに対する宣戦布告の議会承認を得るため、議会に提出されていた合衆国憲法修正第18条案(その第1節は「本条の承認から1年を経た後は、合衆国及びその管轄権に従属するすべての領土において、飲用の目的で酒精飲料を醸造、販売若しくは運搬し、又はその輸入若しくは輸出を行うことを禁止する」となっています)の審議に強く反対することができず、同修正案は12月18日に議会を通過。そして、禁酒法導入の大義名分のひとつであった第一次大戦が終結した後の1919年1月16日、4分の3の州による批准が完了し、禁酒法を実施するためのボルステッド法が制定され、翌1920年1月16日から全米で“禁酒法”が施行されることになりました。

 しかし、禁酒法は飲酒そのものを禁止していたわけではなかったので、富裕層は法の施行前に大量の酒を買いだめすることで適用を逃れることがかのうでした。また、カナダから酒類の輸送が取り締まられなかったことや、医療用のウイスキーの販売も認められていたため、実効性はほとんどないザル法にしかなりませんでした。さらに、非合法な酒造・酒販が横行したことで、マフィアなどの犯罪者集団の跋扈を招くなど、禁酒法は“社会実験”として惨憺たる失敗に終わりました。

 このため、1932年の大統領選挙では禁酒法が中心的争点となり、禁酒法の改正を公約の一つとして当選したフランクリン・デラノ・ルーズベルトは、1933年3月23日、ボルステッド法のカレン=ハリソン修正案に署名。重量にして3.2%、容積にして4%のアルコールを含むビールと軽いワインの製造・販売が許可され、さらに、同年12月5日、禁酒法の根拠となった憲法修正第18条も修正第21条(合衆国憲法修正第18条は、ここにこれを廃止する)によって廃止され、禁酒法の時代は完全に終了しました。

 なお、禁酒法時代の米国については、拙著『大統領になりそこなった男たち』でも解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 1月17日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★  内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★

      日韓基本条約・表紙 本体2000円+税

 出版社からのコメント
 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す!
 丁寧に読むといろいろ々発見があります。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


★ 2020年はアウシュヴィッツ収容所解放75周年!★

       (増補改訂版)アウシュヴィッツの手紙・表紙 本体2500円+税
 
 出版社からのコメント
 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


★★ イベント等のご案内 ★★

 今後の各種イベント・講座等のご案内です。詳細については、イベント名をクリックしてご覧ください。

・よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治
 毎月第1火曜日 15:30~17:00
 2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可)

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 お菓子の切手:アイスクリーム・コーンはアメリカの偉大な発明
2019-06-29 Sat 10:56
 大手製菓メーカー(株)ロッテの広報誌『Shall we Lotte(シャル ウィ ロッテ)』が、紙媒体からデジタルに切り替わり、きのう(28日)からこちらで公開が始まりました。これに伴い、僕の連載「小さな世界のお菓子たち」もデジタル版に移動して「お菓子の切手」と改題して再スタートとなりました。その最初の記事では、こんな切手を取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      米国・20世紀(アイス)

 これは、1998年に米国が発行した20世紀シリーズ第1集(1900年代)のうち、“セントルイス万博”を取り上げた1枚で、コーンに入ったアイスクリームを食べる子供が描かれています。

 米国は東部13州が英国から独立して誕生した国ですが、その後、西方へ領土を拡大していく過程で、1803年、財政難に陥っていたフランス政府から“ルイジアナ”の広大な地域を買収します。

 この“ルイジアナ”は、現在のルイジアナ州の地域のみならず、ミシシッピ川流域の広大な地域を占めており、その地名は、この地に最初に入植したフランス人がフランス国王ルイ14世にちなんで命名したものです。また、フランス領ルイジアナの首府とされたのがヌーベル・オルレアン、すなわち、現在のニューオーリンズ(フランス語の“ヌーベル・オルレアン”を英語風に読むとこうなります)です。

 ここから起算して100周年になるのを記念して、1904年、ミズーリ州セントルイスでは、4月30日から12月1日まで万国博覧会が、7月1日から11月23日までセントルイスオリンピックが開催されました。

 さて、万博の会場には、地元で乳製品を販売していたバナー・バター製造所も出店しており、アイスクリームを販売していました。オリンピックの開催期間と重なった夏には、同社のアイスクリームは飛ぶように売れたそうですが、ある日、アイスクリームはまだ残っているのに、それを入れるカップが先になくなってしまったことがありました。そこで、店員のアーネスト・ハムウィは、とっさに、ワッフルを巻いて、その上にアイスクリームをのせて提供しました。

 今でこそ、コーン上にアイスクリームをのせて食べるのはごく普通のことになっていますが、当時としては、香ばしい焼き菓子としっとりしたアイスクリームの組み合わせは画期的で、これを機に、コーンとアイスクリームの組み合わせは急速に普及します。

 ところで、米国では、1998年から、20世紀の歴史的に重要な事件を10年ごとに振り返る切手を組み合わせたシート形式で“20世紀シリーズ”を発行しましたが、そのうち1900年代を取り上げたシート(下の画像)に取り上げられているのが、今回ご紹介の1枚です。

      米国・20世紀シリーズ(1900年代)

 同じシートには、自動車のT型フォードやライト兄弟の飛行機なども収められていますから、アイスクリーム・コーンは、それらに匹敵するほど、後世の我々に多大な影響を与えた偉大な“発明”と米国では理解されているわけです。

 ちなみに、1912年、オレゴン州ポートランドの発明家、フレデリック・ブラックマンがアイスクリーム・コーンを巻くための機械を発明する以前、初期の時代のアイスクリーム用のコーンは、熱く薄いウエハースを手で巻いて作られていたそうです。熱いさなか、汗だくになりながらコーンを作っていた当時の職人さんたちも、仕事終わりには、冷たいアイスクリームで一日の疲れをいやしていたんでしょうね。

 さて、ウェブ版の『Shall we Lotte(シャル ウィ ロッテ)』では、新しい書下ろしの記事と併せて、随時、紙版時代の記事(今回はこちら)も再掲しています。今後も、コンテンツの充実を図っていきたいと思いますので、よろしくお付き合いください。

 * 昨日(28日)の文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は8月2日の予定(仮)です。放送日が近づきましたら、また、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いします。


★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 “勝利のキス”の水兵、亡くなる
2019-02-19 Tue 11:37
 米国の対日勝利を祝うニューヨークのタイムズスクエアで、女性にキスをする姿が写真に収められ有名になった元水兵のジョージ・メンドンサさんが、17日(現地時間)、ロードアイランド州ミドルタウンの養護施設で亡くなりました。95歳。というわけで、謹んで御冥福をお祈りしつつ、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      米国・勝利のキス

 これは、1995年に米国が発行した“第二次大戦50周年シリーズ”のうち、“勝利のキス”を取り上げた1枚です。

 米国の第二次大戦50周年シリーズは、1941年から毎年、50年前の重要な出来事10件を表現する切手を組み合わせたシートの形式で発行されました。その1945年の分の1枚として、原爆のきのこ雲を描き“原爆が戦争の終結を早めた”との説明文をつけた切手の発行が計画されていることが1994年末に明らかになったことで、この問題が日米間で政治問題化。結局、米国側は、“原爆が戦争の終結を早めた”との政府見解は撤回しないものの、対日関係を配慮して“原爆切手”の発行は撤回し、代わりに、日本降伏を発表するトルーマンを描く1枚をセットに組み込んで、切手を発行したことでも話題となりました。

 さて、切手に取り上げられた“勝利のキス”のもとになった写真は、『ライフ』のカメラマンだったアルフレッド・アイゼンスタットが1945年8月14日に撮影したもので、原題は“V-J Day in Times Square (タイムズスクエアの対日戦勝記念日)”、 『ライフ』1945年8月27日号で発表されました。なお、対日戦の勝利を記念する“V-J Day”は、現在では、降伏文書の調印が行われた(1945年)9月2日とされていますが、この写真が発表された時点(=降伏文書の調印前)では、玉音放送で日本の降伏が発表された8月14日(米国時間)を“V-J Day”と呼んでいたようです。

 もともとの写真は縦型で、水平と女性の全身像が撮影されていますが、切手では、シリーズのフォーアットの横型にあわせて2人の上半身の身にトリミングされています。また、背後の人物の位置関係なども修正されています。

 なお、アイゼンスタットの写真とは別に、米海軍の報道班員だったヴィクター・ヨルゲンセンも全く同じ場面をとらえた写真“Kissing the War Goodbye”を発表しています。この写真は米国政府の著作物であるためパブリックドメインとなっており、8月15日付の『ニューヨーク・タイムズ』では、こちらを掲載しています。

 写真の水兵、メンドンサさんは、戦時中、太平洋地域での任務に就いていましたが、非番で一時帰国中、タイムズスクエアで対日戦勝利の報に接し、おもわず、近くにいた見ず知らずの女性にキスをしてしまったそうです。一方、キスされている女性のグレタ・ジマー・フリードマンさんは、当時、看護婦で、終戦の知らせを聞いて友人らとともにタイムズスクエアへ行き、地下鉄から通りへ出たところで、いきなり水兵にキスされたところを写真に撮られましたが、「水兵は自分たちのために戦ってくれたのだからキスさせてあげようと思った」と思って、されるがままになっていたそうです。また、メンドンサさんは、自分たちが写真に取られていることを自覚しており、写真を撮りやすいようにキスの時間を長くしていたのだとか。ちなみに、フリードマンさんは、2016年、92歳で亡くなっています。

 なお、米国の第二次大戦50周年シリーズについては、拙著『外国切手に描かれた日本』でも1章を設けてご説明しておりますので、 機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


★★ 2月22日、文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★★

 2月22日(金)05:00~  文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がゲスト・コメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 2月25日発売!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 ボストン・マラソンで川内が優勝
2018-04-17 Tue 02:43
 16日(現地時間)に行われたボストン・マラソンで、日本の川内優輝(埼玉県庁)が2時間15分54秒(速報値)で初優勝を果たしました。ボストン・マラソンでの日本勢の優勝は、1987年大会での瀬古利彦以来31年ぶりの快挙です。というわ毛で、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      米国・マラソン(1996)

 これは、1996年4月11日に米国で発行された“マラソン”の切手です。切手上には表示はありませんが、1996年4月は、15日にボストン・マラソンの第100回大会が行われており、今回ご紹介の切手も、その記念の意味を込めて発行されたものとみてよいでしょう。

 米国のマサチューセッツ州、メイン州、ウィスコンシン州の3州では、独立戦争の緒戦となるレキシントン・コンコードの戦いが1775年4月19日に行われたことを記念し、毎年、4月の第3月曜日が“愛国者の日”に指定されています。

 ボストン・マラソンは、これにあわせて、1897年以来毎年開催されており、マサチューセッツ州の8つの市や町を通り抜けるかたちでスタート地点とゴール地点を結ぶコースが設定されています。距離は、1897-1923年は39.429km、1924-26年は42.034km、1927-50年は42.195km、1951-56年は41.360km、1957年以降は42.195kmとなっていますが、2004年1月、IAAF(国際陸上競技連盟)がマラソン記録の公認のために設定したコース条件とは異なっているため、同年以降は世界記録を超えても“世界記録”としては認められなくなりました。

 日本人の優勝者は、1951年の田中茂樹が最初で、以後、1953年の山田敬蔵、1955年の浜村秀雄、1965年の重松森雄、1966年の君原健二、1969年の采谷義秋、1981年および1987年の瀬古利彦で、今回の川内で8人目(9度目)となります。なお、1966年以降は序詩のレースも行われていますが、こちらは、日本選手が優勝したことはありません。なお、今回の切手が発行された1996年の第100回大会では、男子はケニアのモーゼス・タヌイが、女子はドイツのウタ・ピッピヒが優勝しました。


★★★ トークイベントのご案内 ★★★

 4月21日(土)12:30より、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場内で、5月刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の事前プロモーションのトークイベントを行います。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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 拳銃は見せないように
2016-08-02 Tue 13:36
 米テキサス州で、きのう(1日)、一定の学生に対して大学の教室への銃の持ち込みを認める新法“キャンパスキャリー法”が施行されました。というわけで、きょうは、テキサスがらみでこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      テキサス州併合150年

 これは、1995年に米国で発行されたテキサス州150年の記念切手で、テキサス州旗を掲げて馬にまたがる男性が描かれています。カウボーイ風に描かれている男性は、フツーに考えれば、腰に拳銃をぶら下げていると思われますが、切手上ではそのことは確認できません。まぁ、今回施行されたキャンパスキャリー法でも、公立大学の教室などに拳銃を持ち込むためには、“拳銃を他人に見えないように所持するためのライセンス”が必要とされていますので、銃社会の米国と言えども、拳銃を見せないように描くというのが一つのポイントということなのかもしれません。

 かつて、スペインは北米にも広大な副王領“ヌエバ・エスパーニャ”を有していました。

 “新スペイン”を意味するヌエバ・エスパーニャは、もともとは、パナマ地峡以北の新大陸のスペイン領全てを指す概念で、大陸部分では、現在のメキシコの領域に加えて米国南西部(カリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、コロラド、ワイオミング、アリゾナ、ニューメキシコ、テキサスの各州)とフロリダ半島にまで広がり、カリブ海諸島や、さらには、フィリピンとマリアナ諸島をも含んでいました。

 1776年、大西洋岸の東部13州で独立を宣言した米国は、1803年にはフランスからルイジアを購入。この結果、米国とヌエバ・エスパーニャとの国境を画定する必要が生じることにります。

 当時のスペイン側の認識では、ルイジアナのうち、ミシシッピ川西岸とニューオーリンズ市はスペイン領となっていましたが、アメリカ合衆国側はロッキー山脈の稜線までが自分たちの購入した土地だと考えていました。このため、東西はカルカシュー川(アロヨ・オンド)とサビーン川の間、南北はメキシコ湾から北緯32度近辺までは、当面、どちらにも属さない中立地帯(ルイジアナ中立地)とすることで決着が図られます。

 また、米国はスペインからフロリダを購入したいと希望していましたが、スペイン側はこれを拒否し続けていました。

 ところが、19世紀初頭のナポレオン戦争と、その余波としてのラテン・アメリカ諸国の独立運動により、スペインは疲弊し、本国から遠く離れたフロリダの維持が困難になります。そこで、1819年、両国間でアダムズ・オニス条約が結ばれ、米国がフロリダとルイジアナを得て、それ以西のテハス(英語名:テキサス)からカリフォルニアまでをスペインの領土とする形で、国境が確定されました。この境界線は、1821年にメキシコが独立すると、基本的には米墨間でも継承されています。

 ところが、1821年のメキシコ独立の前後から、米国からテハスへのアングロサクソンの移民が大量に流入。メキシコ政府は1830年には米国人の新規移住を禁止したものの、その後も米国からの“不法移民”の流入は止まず、1832年の時点では、テハスの人口のうち、独立以前からのメキシコ人住民の人口比率は14%にまで落ち込んでしまいます。

 こうした状況の下で、1835年、メキシコ大統領アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナが1824年憲法を廃止して、中央政府の権限が強い憲法を宣言すると、メキシコ各地でこれに反対する叛乱が発生。テハスでも、米国からの移住者たちがメキシコ中央政府からの分離独立を唱えて叛乱を起こしました。

 叛乱側は、1836年2-3月のアラモ砦の攻防戦で守備隊が全滅する敗北を喫したものの、3月21日のサン・ハシントの戦いでは、大統領を辞しメキシコ軍総司令官となっていたサンタ・アナを捕虜とし、ベラスコ条約を結んで“テキサス共和国”の独立を承認させます。

 ところで、新たに発足したテキサス共和国はリオ・グランデをメキシコとの国境と主張していましたが、メキシコ側はより北側のヌエセス川を国境と主張しており、対立がありました。

 また、テキサス共和国内では独立当初から米国との統合を求める声が強かったものの、米議会では併合慎重派が多数を占めていました。ところが、1844年の米大統領選挙で、テキサス併合を公約に掲げるジェイムズ・ポークが当選。これを受けて1845年2月、米議会は「1846年1月1日までにテキサス共和国が併合を承認すれば、州として連邦への加盟を認める」とする決議を採択します。

 これを受けて、テキサス議会は米国への併合に同意。1845年12月、米大統領ポークはテキサスを合衆国の州として受け入れる法案に署名。こうして、現在の米テキサス州が発足することになりました。


 ★★★ 新作 『リオデジャネイロ歴史紀行』 初売りのご案内 ★★★ 

 ・8月6日(土) 09:00- 切手市場
 於 東京・日本橋富沢町8番地 綿商会館
 詳細は主催者HPをご覧ください。

 新作『リオデジャネイロ歴史紀行』の奥付上の刊行日は8月9日ですが、8月3日頃には現物ができあがってくるとの連絡がありました。そこで、さっそく、同書を中心に拙著を担いで行商に行きます。実物の販売は、この日が初売りとなる予定です。ぜひ遊びに来てください。


 ★★ 内藤陽介の最新刊  『リオデジャネイロ歴史紀行』  8月9日発売! ★★ 

       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

 【出版元より】
 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介
 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行!

 発売元の特設サイトはこちらです。


 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。

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 原爆は米国の“誇り”なのか
2016-05-27 Fri 12:03
 伊勢志摩サミットのため来日中のオバマ米大統領は、サミット終了後のきょう(27日)夕方、現職の米国大統領として初めて被爆地・広島を訪れる予定です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米・原爆ラベル(1995)

 これは、1994年末の米郵便公社(USPS)による“原爆切手”の発行撤回に抗議して、米国内の民間組織が制作した私製ラベルで、1991-95年の第二次大戦50周年シリーズのフォーマットに倣い、原爆のキノコ雲を描き、その脇に「誇りを思い出させるもの」の文言が、印面下部に「原爆が戦争を終わらせ、多くの人命を救った」との文言が入っています。

 米国の第二次大戦50年シリーズは、1991年から毎年、50年前の重要な出来事10件を表現する切手を組み合わせたシートの形式で発行されました。その1945年の分の1枚として、原爆のきのこ雲を描き「原爆が戦争の終結を早めた」との説明文をつけた切手の発行が計画されていることが1994年末に明らかになったことで、この問題が日米間で政治問題化。結局、米側は、“原爆が戦争の終結を早めた”との政府見解は撤回しないものの、対日関係を配慮して“原爆切手”の発行は撤回。代わりに、日本降伏を発表するトルーマンを描く1枚をセットに組み込んで、切手を発行しました。

 これに対して、原爆投下の正当性を主張する米国内のグループは幻に終わった“原爆切手”を模したラベルを独自に作成。政府の弱腰を批判するとともに、あらためて“原爆が戦争を終わらせた”ことをアピールしています。この類のラベルはいくつか種類があるのですが、不発行に終わった切手の文言が「原爆が戦争の終結を早めた」だったのにたいして、今回のラベルの文言は、戦争を終わらせただけでなく、人名も救ったという内容となっていることで、より強硬な姿勢がうかがえます。

 歴史的な事実関係からいえば、米国が原爆を投下したのは、東西冷戦が始まりつつある中で、当時世界唯一の核保有国としてのパワーを見せつけるとともに、戦後の東アジアにおいてソ連に対する優位を確保するためのものでした。したがって、結果として、原爆の投下により戦争終結が早まったということは事実かもしれませんが、米側の主張するように、米軍が日本本土で戦闘を行った場合に予想された数十万の将兵の犠牲を防ぐための止むを得ざる措置であったとするのは、無理があります。そもそも、広島・長崎への原爆投下は、非戦闘員に対する大量虐殺であり、それが、当時の戦時国際法に照らしても明白な違法行為だったわけですから。

 ただ、米国内では、「原爆投下が戦争の終結を早め、結果的に多くの米国人の命を救った」として原爆投下を正当化する論調は拭いがたく定着していることも事実で、そうした彼らに対して、ただ単に“遺憾”“不快”“国民感情を逆なで”など、感情論を爆発させているだけでは、事態は何も変わらないでしょう。やはり、この問題については、原爆が投下されるにいたった歴史的経緯を、事実に基づいてきちんと説明することで、米国(人)の主張に反駁していくことが必要なのではないかと思います。

 なお、1994年末の、いわゆる原爆切手騒動については、拙著『外国切手に描かれた日本』でも1章を設けて詳しく論じておりますので、機会があり間設楽、ぜひご覧いただけると幸いです。

 
 ★★★ アジア国際切手展<CHINA 2016>作品募集中! ★★★

 本年(2016年)12月2-6日、中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市の南寧国際会展中心において、アジア国際切手展<CHINA 2016>(以下、南寧展)が開催されます。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を6月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。

 ★★★ 内藤陽介の新刊  『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 

       ペニーブラック表紙 2350円+税

 【出版元より】
 若く美しい女王の横顔に恋しよう!
 世界最初の切手
 欲しくないですか/知りたくないですか

 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。

 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。


 ★★★ 内藤陽介の新刊  『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 

       アウシュヴィッツの手紙・表紙 2000円+税

 【出版元より】
 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。

 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。

 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。


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 イランでバービー禁止強化
2012-01-17 Tue 22:08
 16日付でロイターが報じたところによると、アメリカの玩具メーカー、マテルの製造するバービー人形について、イラン当局が「イスラム教の価値を脅かす有害な西洋文化」として、販売を取り締まっているそうです。というわけで、まずはバービー人形の切手です。

        バービー人形

 これは、1999年9月17日、アメリカが発行した“20世紀シリーズ・1960年代”のうち、バービー人形を取り上げた1枚です。

 バービー人形は、アメリカのマテル社が製造・販売する着せ替え人形で、1959年3月9日に販売が開始されました。その元になったのは、同社の創業者、ルース・ハンドラーがスイスで娘バーバラへの土産として購入したセクシードールのリリで、リリを真似るところからスタートしたため、胸の大きさとくびれた腰を強調したデザインとなりました。また、初期の人形は人件費が安い日本で製造されています。

 それまでのいかにも子供向けの人形に比べて、バービーは精巧かつファッショナブルであったため、瞬く間に子供たちの人気を集め、現在にいたるまで、全世界で累計10億本ともいわれる人形が販売されました。ただし、1960年代に人形を作っていた日本では、顔つきなどが日本人の子供の好みには合わなかったためか、売り上げは芳しいものではありませんでした。

 さて、イスラム革命後のイランでは、1996年にバービー人形は「文化や社会に対して破壊的影響がある」として、公式には販売が禁止されたといわれています。ただし、この時の禁止令(おそらく、立法措置ではなく、高位のイスラム法学者が発したファトワーの類だと思われますが)は現実にはザル法だったようで、テヘランなどでは半ば公然と“闇バービー”が売られていました。

 まぁ、イスラムでは偶像崇拝を禁じていますので、“イスラム原理主義国家”としてのイランが偶像崇拝につながりかねない人形遊びを禁止するのは、教義の面からは理にかなった判断といえないこともありません。ただし、現実の問題として、子供たち(特に女児)が人形で遊びたいと考えるのは自然なことで、2002年には、当局によるお墨付きの人形として、イスラムの伝統衣装をまとったサラとダラという男女の人形が発売されています。

 もっとも、当局お墨付きというのは、どこの国でもえてしてつまらないもので、サラとダラも子供たちの間では不評で、“闇バービー”の人気が衰えることはありませんでした。

 16日にテヘランの玩具商がロイターの取材に対して語ったところによると、当局によるバービー取締りは3週間ほど前から強化されたとのことですが、イラン政府は、今回の措置について、核開発問題をめぐる欧米の経済制裁などに対する抵抗の一環としているそうです。

 そういうことであれば、この際、いっそ、日本からイランに対して「バービーの代わりにリカちゃん人形を輸入したらどうか」と持ちかけてみてはどうでしょうかねぇ。そして、先方がリカちゃんを輸入するというのであれば、「ついては、イランからの原油の輸入がストップすれば、日本としてもリカちゃん人形を製造できなくなり、輸出できなくなるから、イランも子供たちのために自重してくれないか」と言うだけ言ってみても、悪くはないような気がします。


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 ★ TBSラジオ・ニュース番組森本毅郎・スタンバイ(2011年11月17日放送)、11月27日付『東京新聞』読書欄、『週刊文春』12月1日号、12月1日付『全国書店新聞』『週刊東洋経済』12月3日号、12月6日付『愛媛新聞』地軸、同『秋田魁新報』北斗星、TBSラジオ鈴木おさむ 考えるラジオ(12月10日放送)、12月11日付『京都新聞』読書欄、同『山梨日日新聞』みるじゃん、12月14日付『日本経済新聞』夕刊読書欄、同サイゾー、12月15日付『徳島新聞』鳴潮、エフエム京都・α-Morning Kyoto(12月15日放送)、12月16日付『岐阜新聞』分水嶺、同『京都新聞』凡語、12月18日付『宮崎日日新聞』読書欄、同『信濃毎日新聞』読書欄、12月19日付『山陽新聞』滴一滴、同『日本農業新聞』あぜ道書店、[書評]のメルマガ12月20日号、『サンデー毎日』12月25日号、12月29日付エキレピ!、『郵趣』2012年1月号、『全日本郵趣』1月号、『歴史読本』2月号、『本の雑誌』2月号で紹介されました。

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 スペースシャトル計画終了
2011-07-22 Fri 22:25
 きのう(21日)、スペースシャトル“アトランティス”が最後のフライトを終えてケネディ宇宙センターに帰還。これにより、1981年4月に“コロンビア”が初飛行に成功して以来、30年間のスペースシャトル計画が幕を閉じました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        スペースシャトル

 これは、1995年6月22日にアメリカが発行したスペースシャトル“チャレンジャー”の切手で、1983年6月の任務STS-7の際に撮影された写真が使われています。

 スペースシャトルは、アメリカ航空宇宙局(NASA)が開発した世界初の再利用可能な有翼型有人宇宙船で、機体本体は全長37メートルの最大7人乗りです。1981年4月に打ち上げられた“コロンビア”を皮切りに、5機のシャトルが運用されましたが、1986年1月28日、今回ご紹介の切手に取り上げられた“チャレンジャー”が打ち上げ直後の爆発事故を起こし、2003年には“コロンビア”が帰還時の空中分解事故を起こしており、2011年初の時点では3機のみが残っていました。そのうちの、“ディスカバリー”と“エンデバー”は今年に入ってから退役しており、最後に残った“アトランティス”も今回でお役御免になったというわけです。

 スペースシャトル計画は、30年間で約1137億ドルという巨額の費用がかかり、アメリカ政府の財政圧迫要因の一つとなっていたことは事実ですから、今回の計画終了もやむを得ないことかもしれません。ただ、かつての米ソの宇宙開発競争時代のことを思うと、ロシアが依然として宇宙開発を進めているだけに、ちょっとさびしい気もしますな。

 なお、今年(2011年)はガガーリン50年にしてスペースシャトル計画終了という節目の年なので、これにあわせてなにか宇宙切手の本を作りたいなぁと漠然と考えていたことがあります。現在、雑誌『ハッカージャパン』で連載中の「切手が語る宇宙開発史」も、2009年5月にスタートさせたときは、2011年中にはスペースシャトルまでたどり着けるかと思っていたのですが、実際に書き始めてみると、書きたいことが山のように出てきて、連載開始から2年以上が経過した2011年7月の時点で、まだ1958年の国際地球観測年が終わったところまでしか到達できていません。

 現在のペースだと、スペースシャトルが登場するのは果たしていつのことになるやら…。ひょっとすると、その間に一般人も宇宙旅行に行ける時代が来てしまって、宇宙切手の本を出すよりも、「切手紀行シリーズ」で宇宙ネタをやるのが先になっているかもしれません。


  ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★

    5月29日付『讀賣新聞』に書評掲載
  『週刊文春』 6月30日号「文春図書館」で
  酒井順子さんにご紹介いただきました !

        切手百撰・昭和戦後
         切手百撰 昭和戦後
       平凡社(本体2000円+税)    

  視て読んで楽しむ切手図鑑!
  “あの頃の切手少年たち”には懐かしの、
  平成生まれの若者には昭和レトロがカッコいい、
  そんな切手100点のモノ語りを関連写真などとともに、オールカラーでご紹介

  全国書店・インターネット書店(amazonboox storeconeco.netJBOOKlivedoor BOOKSYahoo!ブックスエキサイトブックス丸善&ジュンク堂楽天など)で好評発売中!
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 小さな世界のお菓子たち:チョコレートの切手
2010-03-30 Tue 10:47
 ご報告が遅くなりましたが、大手製菓会社(株)ロッテの季刊広報誌『Shall we Lotte(シャルウィロッテ)』の第8号(2010年冬号)ができあがりました。僕の連載「小さな世界のお菓子たち」では、今回はハーシーのチョコの話題を取り上げたのですが、キスチョコの切手は以前にもこのブログでご紹介しましたので、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ハーシー肖像

 これは、1995年にアメリカで発行された32セントの通常切手で、アメリカ最大のチョコレート会社、ザ・ハーシー・カンパニーの創業者、ミルトン・ハーシーの肖像が取り上げられています。

 ミルトン・ハーシーは1857年にペンシルバニア州のデリー・チャーチで生まれました。小学校卒業後、印刷工の見習いとなりましたが、印刷業になじめず、菓子職人の見習いに転職。1876年に独立し、フィラデルフィアに菓子店を設立しました。しかし、この菓子店は6年後に倒産。その後、ハーシーはニューヨークに進出しますが、うまくいかず、故郷のペンシルバニアに戻り、ランカスター・キャラメル社を設立し、成功を収めました。

 1894年、ハーシーは博覧会でドイツ製のチョコレート製造機を見て興味を持ち、さっそくこれを購入。チョコレートでコーティングしたキャラメルを売り出します。チョコレートの魅力に取りつかれたハーシーは、1900年、キャラメル会社を売却し、チョコレート会社を設立。1903年には、大規模なチョコレート施設の建設を始め、この施設で製造されたミルクチョコレートバーの大ヒットにより、アメリカを代表する製菓会社としての地位を確立しました。ちなみに、キスチョコの発売開始は1907年のことで、以前にご紹介して切手は、その100周年に発行されたものです。

 さて、「小さな世界のお菓子たち」では、当初、チョコレート→ビスケット→キャンディ→アイスクリームのローテーションで回す予定だったのですが、今回は、編集部からの要望でチョコレートが再登場となりました。次回は、夏号ということもあって、アイスクリームの話題が外せませんので、初年度にはキャンディの切手を登場させられませんでした。もっとも、連載は数年間にわたって続ける予定ですので、いずれ、キャンディも取り上げることもあるでしょうから、ご理解いただけると幸いです。


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 月面着陸40年
2009-07-20 Mon 21:31
 アポロ11号による人類初の月面着陸(1969年7月20日)から、きょうでちょうど40年です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      月面着陸25年

 これは、1994年にアメリカで発行された月面着陸25周年の切手のシートで、余白には、アポロ11号の船長、ニール・アームストロングの有名な言葉「ひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍だ」と1969年7月20日の日付が入っています。

 1961年5月、アメリカ大統領のジョン・F・ケネディは、1960年代のうちに人間を月に到達させると公約します。その直前の4月には、ソ連の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンが、ボストーク1号で史上初の有人宇宙飛行を成功させており、アメリカはソ連との宇宙開発競争において、自分たちがソ連の後塵を拝していることを否応なしに見せつけられたためです。結局、ケネディは1963年11月に暗殺されてしまいますが、彼の公約は1960年代ギリギリの1969年に達せられることになりました。

 まぁ、このあたりの事情は、雑誌『ハッカージャパン』で連載中の「切手が語る宇宙開発史」でも取り上げることになると思いますので、きょうは、僕自身のアポロ11号に関する思い出をいくつか書いてみたいと思います。

 僕は1967年1月の生まれですから、1969年7月の月着陸の時には2歳半です。したがって、リアルタイムでの記憶というのはほとんどありません。むしろ、翌1970年の大阪万博に行った伯母たちが、アポロの月の石の話を興奮気味にしてくれた記憶のほうが残っています。

 時代は流れて、一年浪人して大学を受け直した際、入試問題にアポロ11号の飛行士(たぶん、アームストロングだったと思いますが)のインタビュー記事が出題されていたのは鮮明に覚えています。なお、くだんの文章がどういう基準で問題のネタになったのかはわからないのですが、同じ文章がその年の別の大学でも出題された後で聞きましたので、あるいは、入試業界では有名な文章なのかもしれません。

 問題文の細かい部分は忘れましたが、とにかく、宇宙のロマンを熱く語って質問をぶつける記者に対して、宇宙飛行士の側がとにかく冷静で、無事に任務を終えて地球に帰還することが大事という姿勢を崩さず、話が噛み合わないという内容でした。「月に行けるのなら死んでもかまわない」という記者の気持ちもわからなくもないのですが、現実には「冗談じゃない。万に一つも帰ってこれない可能性があるのなら宇宙になんか行かない」という宇宙飛行士の発言のほうがリアリティがありますな。まぁ、いまもむかしも、マスコミというのはとかく情緒的になりがちで、冷静にモノを考えることは少ないということなのかもしれませんがね。

 
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 ニューヨークのライオン
2008-09-27 Sat 11:00
 プロ野球のパリーグは西武がリーグ優勝しました。というわけで、きょうはライオンの切手をもってきてみました。

      ニューヨーク市立図書館

 これは、2000年にアメリカで発行された10セントのコイル切手で、ニューヨーク市立図書館正面のライオン像が取り上げられています。

 ニューヨーク市立図書館は、1911年、アスター図書館とレノックス図書館という 2つの図書館を統合して設立されました。正面のライオン像は、ベニスのサンマルコ大聖堂前の馬の像からヒントを得て、アメリカの彫刻家エドワード・クラーク・ポッターがデザインし、ビシリーリ兄弟によって彫り上げられました。素材はグランドセントラル駅ロビーの床石と同じピンクテネシー大理石ですが、長年の風雨にさらされて現在ではグレーになっています。

 もともと、2頭のライオンには、図書館の前身にちなんで、アスターとレノックスという名前が付けられていましたが、世界恐慌さなかの1930年、当時のラガーディア市長によってペイシェンス(忍耐)とフォーティチュ―ド(不屈の精神)とのニックネームが付けられ、現在では、こちらのほうが定着しているのだそうです。

 ちなみに、ニューヨーク市立図書館は、建物自体が映画やドラマにちょくちょく登場する名所となっていますが、そのシンボルともいうべきライオン像には、ときどき、シルクハットやニット帽、サンタの帽子などがかぶせられることもあるのだとか。まぁ、日本でも、いろいろな扮装のご当地キティなんてのがありますからね。似たような発想なのかもしれません。

 なお、このライオン像がペイシェンスとフォーティチュードと名付けられた1930年当時の大統領は、共和党のフーバーでしたが、前回1928年の選挙でフーバーに敗れた元ニューヨーク州知事のアル・スミスは、フーバーの経済失政を目の当たりにし、捲土重来を期して1932年の大統領選挙を目指して運動していました。しかし、その彼の前には、後輩のニューヨーク州知事であったフランクリン・ルーズベルトが立ちはだかり、スミスはまたしても涙をのむことになります。

 大統領になる夢破れたスミスは、晩年、ニューヨーク五番街の動物園の向かい側にある高級アパートでひっそりと余勢を過ごし、しばしば動物園を訪れていたといいます。失意の彼の心を慰めたのは、大理石ではなく、ホンモノのライオンだったのかもしれません。

 なお、スミスの生涯については、拙著『大統領になりそこなった男たち』でも1章を設けて解説していますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 
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 祝・イチロー3000安打
2008-07-30 Wed 18:51
 野球のメジャー・リーグ、シアトル・マリナーズのイチロー選手が日米通算3000安打を達成しました。通産3000安打は、大リーグでは過去27人しかいないとのことで、この記録を達成した選手はほぼ確実に野球殿堂入りしているそうです。というわけで、今日はこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      大リーグの名選手

 これは、2000年にアメリカで発行された“野球の伝説”と題する16種セットの切手で、野球殿堂入りすた往年の名選手20人が取り上げられています。その内訳は、以下のとおりです。(参考までに、3000安打以上の選手は名前を太字にしました)

 最上段(左から)
・ジャッキー・ロビンソン(黒人初のメジャー・リーガー)
エディ・コリンズ(20世紀最高の二塁手の1人)
・クリスティ・マシューソン(歴代3位となる通算373勝。シンカーを初めて実戦で投げたとされる)
タイ・カッブ(首位打者12回、メジャー歴代1位の通算打率.366を誇る球聖)
・ジョージ・シスラー(イチローに抜かれるまでの年間最多安打記録保持者)
 2段目(左から)
・ロジャース・ホーンズビー(3冠王を2回獲得)
・ミッキー・カクレーン(1920~30年代の最高の捕手)
・ベーブ・ルース(伝説の本塁打王)
・ウォルター・ジョンソン(通算417勝の剛速球投手)
ロベルト・クレメンテ(ヒスパニック系メジャー・リーガーのさきがけ。首位打者4回)
 3段目(左から)
・レフティ・グローブ(通算300勝。最優秀防御率9回)
トリス・スピーカー(通算二塁打792、通算捕殺450のメジャー記録を持つ外野手)
・サイ・ヤング(歴代最多の通算511勝の大投手)
・ジミー・フォックス(1930年代を代表する右打者。MVP3回。三冠王1回)
・パイ・トレーナー(7559打数でわずか278三振の巧打者)
 最下段(左から)
・サチェル・ペイジ(黒人リーグで約2500試合に登板、2000勝以上をあげたとされる。メジャー・リーグでは42歳の最高齢新人となり、通算28勝31敗。59歳での史上最高齢登板記録を持つ)
ホーナス・ワグナー(史上最高の遊撃手。首位打者8回。打点王・盗塁王各5回など)
・ジョシュ・ギブソン(プエルトリコのウィンター・リーグで1シーズン約200試合で84本、生涯17シーズンの通算で800本以上の本塁打を放ったとされる“黒いベーブルース”。メジャーでのプレイ経験はなし)
・ディズィ・ディーン(1932年から4年連続奪三振王。引退後はスポーツキャスターとしても功績を残す)
・ルー・ゲーリック(2130試合連続出場。首位打者1回。本塁打王3回。打点王5回の強打者)

 イチローの場合、日本での1278安打をどう考えるかで、今回の3000安打についての評価も違ってくるでしょうが、仮に、今後、メジャーだけで3000安打(計4278安打)をクリアするようなことになると、通算4278安打という数字は、ピート・ローズの持つ4256本を上回ります。ちなみに、ローズが3000本安打を達成したのは37歳の時で、彼は46歳までプレイしています。イチローは現在34歳で、このまま年間200本以上を打ち続けるとあと6年強、40歳の時にローズの記録に追いつくことになる計算ですから、決して荒唐無稽な話ではないでしょう。

 彼がメジャー・リーグだけで3000本安打を達成することになれば、50年後くらいには、彼を取り上げた“野球の伝説”の切手がアメリカで発行されることいなるかもしれませんね。

 トーク・イベントのご案内
 8月2・3日(土・日)に東京・大手町のていぱーくで開催のサマーペックス会場内にて、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』の刊行を記念したトーク・イベントを行います。2日は14:00から、いわゆる“竹島切手“についての話題を中心に、3日は14:30から、韓国切手に見る日本時代の“遺産”についての話題を中心に、お話しする予定です。サマーペックスのHPにアクセスしていただくと、無料の招待チケットをプリントアウトしていただくことができます。当日は、会場ならではの特典もご用意しておりますので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

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 原爆が戦争を終わらせた
2007-07-05 Thu 09:11
 第2次大戦中の広島・長崎への原爆投下は“しょうがなかった”と発言したことを責められて防衛大臣が辞任しました。というわけで、今日はこんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      “原爆切手”カバー

 これは、1995年9月、アメリカが発行した第2次大戦50年シリーズのうち、日本降伏を発表するトルーマンの切手が貼られた初日カバーで、切手の脇には、きのこ雲を描き“原爆が第二次大戦を終わらせた”との説明文の入ったラベルが貼られています。

 アメリカの第2次大戦50年シリーズは、1941年から毎年、50年前の重要な出来事10件を表現する切手を組み合わせたシートの形式で発行されました。その1945年の分の1枚として、原爆のきのこ雲を描き“原爆が戦争の終結を早めた”との説明文をつけた切手の発行が計画されていることが1994年末に明らかになったことで、この問題が日米間で政治問題化。結局、アメリカ側は、“原爆が戦争の終結を早めた”との政府見解は撤回しないものの、対日関係を配慮して“原爆切手”の発行は撤回。代わりに、日本降伏を発表するトルーマンを描く1枚をセットに組み込んで、切手を発行しました。

 これに対して、原爆投下の正当性を主張するアメリカ国内のグループは幻に終わった“原爆切手”を模したラベルを独自に作成。政府の弱腰を批判するとともに、あらためて“原爆が戦争の終結を早めた”ことをアピールしています。今回ご紹介のカバーは、そうしたラベルと“原爆切手”の代わりに発行されたトルーマンの切手を並べて貼られています。

 歴史的な事実関係からいえば、アメリカが原爆を投下したのは、東西冷戦が始まりつつある中で、当時世界唯一の核保有国としてのパワーを見せつけるとともに、戦後の東アジアにおいてソ連に対する優位を確保するためのものでした。したがって、結果として、原爆の投下により戦争終結が早まったということは事実かもしれませんが、アメリカ側の主張するように、米軍が日本本土で戦闘を行った場合に予想された数十万の将兵の犠牲を防ぐための止むを得ざる措置であったとするのは、無理があります。もちろん、“しょうがない”の一言で片付けてしまった前防衛大臣の不勉強は非難されてしかるべきでしょう。
 ただ、今回の一件に関して、アメリカ側は改めて原爆投下の正当性を主張していますが、彼らに対して、ただ単に“遺憾”“不快”“国民感情を逆なで”など、感情論を爆発させているだけでは、事態は何も変わらないでしょう。やはり、この問題については、原爆が投下されるにいたった歴史的経緯を、事実に基づいてきちんと説明することで、アメリカの主張に反駁していくことが必要なのではないかと思います。

 なお、1994年末の“原爆切手”騒動に関しては、以前、『外国切手に描かれた日本』の中で、その経緯を含めて詳しくまとめてみましたので、よろしかったら、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 英雄/テロリスト図鑑:マルコムX
2007-03-02 Fri 00:37
 『SAPIO』3月14日号が発売になりました。僕が担当している連載「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、今回は、アメリカのアフロ・アメリカン(以下、慣例に従って黒人と表記)の指導者マルコムXを取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      マルコムX

 マーティン・ルーサー・キングと並ぶ、アメリカの伝説的な黒人指導者、マルコムXことマルコム・アール・リトルは、1925年5月19日、ネブラスカ州に生まれました。

 マルコムが3歳のとき、一家はミシガン州に引っ越しましたが、1931年、父親は市電に轢かれて死んでいるのを発見されました。死体は頭が変形するほど殴られており、殺人の可能性がきわめて高かったにも関わらず、警察と保険会社は自殺と断定。保険会社2社のうち1社しか保険金を支払いませんでした。また、父親の死後、母親は精神を病み、精神病院に送られそこで亡くなります。

 貧困の中、万引などでたびたび補導されていたマルコムは地元の少年鑑別所に入り、そこから地元の中学に通っていました。学校の成績は優秀で将来は弁護士か医者になりたいと思っていましたが、教師から「黒人は黒人らしい夢を見た方がいい」と諭されたことで進学を断念。中学卒業後、15才でボストンへ移り、ナイトクラブで靴磨きの仕事をはじめます。これをきっかけに、酒や煙草、ギャンブルにのめりこみ、白人の女友達と付き合うようになりました。

 マルコムの将来を案じた姉は、彼をボストン=ニューヨーク間の列車の車内販売の仕事に就かせますが、ニューヨークのハーレムに出入りするようになったマルコムはギャングと付き合いはじめ、ギャンブル、麻薬取引、売春、ゆすりなどに手を染め、“デトロイト・レッド”として知られる存在になります。17歳のとき、精神異常を装って徴兵を逃れたものの、この頃からコカインを常用。このため、薬代ほしさに白人のガールフレンドと一緒に強盗を繰り返しましたが、1946年1月、20歳で逮捕され、チャールズタウンの州刑務所に収監されました。

 テレビに登場する評論家の先生たちの中には少年犯罪のことを「大人社会のゆがみがもたらした悲劇」とか「悪いのは子供ではなく社会だ」というような論評をする人が時々います。そうした人たちの言によるなら、若きマルコムの行動はアメリカ社会の人種差別がもたらした結果であり、そうした既存の社会秩序に犯罪というかたちで抵抗したマルコムは“テロリスト”だったという解釈も成り立ちそうです。もっとも、当時のマルコムにそういう自覚的な思想背景があったとは思えませんが…。

 さて、刑務所でのマルコムは、あらゆるものを罵り、神と聖書に対する冒涜を繰り返したため、囚人仲間からはサタンと呼ばれていましたが、獄中で白人を悪魔とみなし、黒人の民族的優越を説く宗教運動、ネイション・オブ・イスラム(NOI)の書物を読んで衝撃を受け、1952年8月の出所後、NOIに入信。ここで、教団から“X”の姓を授かります。NOIは、アメリカ黒人の“姓”は本来の彼らの姓ではなく、奴隷所有者が勝手につけたものにすぎないと考えており、未知数を意味するXは、失われた本来の姓を象徴するということなのだそうです。

 さて、入信後のマルコムは、熱心な活動家として、また説教師として多くの信者を増やすなど、しだいに頭角を現します。

 「白人が黒人に対して、白人を憎んでいるかどうかと尋ねるのは、レイプ犯が被害者に対して私が憎いかと尋ねるようなものだ」、「ケネディ大統領の暗殺は、起こるべくして起こったことだ」、「この国で非暴力を求められているのは黒人だけだが、攻撃されれば、必要ないかなる手段をとっても、われわれ自身を守るべきだと思う」という彼の発言は、彼の過去の経歴もあって、同時代のキングが白人との協調・宥和による黒人の地位向上を目指していたのに対して、過激で暴力的な運動を煽動したものと理解されることが多いようです。この点で、彼はいわゆる宗教的過激派ないしは“テロリスト”予備軍と同一視されがちなのですが、実際には、宗教家としてのマルコムが直接暴力による破壊行動を指示したことはありません。

 その後、教団指導者のイライジャ・ムハンマドが秘書の女性を次々と妊娠させていることから教団に失望したマルコムは、1964年にイスラム教徒としてメッカ巡礼を行い、白人を“悪魔”とみなすわけではない正統派のイスラム教徒に転向してアメリカに帰国。NOIを脱退し、アフロ・アメリカ人統一機構を組織し、アフリカ諸国と強調して、国際世論の支持と圧力を背景に、アメリカ政府に人種差別是正の措置を取らせようとしました。

 しかし、こうした彼の活動は、古巣のNOIからも、またFBIからも危険視されるようになり、1966年2月21日、NOIのメンバーによって暗殺されてしまいます。

 マルコムの切手は、1999年にアメリカで毎年恒例の“黒人の遺産”(Black Heritage)シリーズの1枚として発行されました。これは、映画『マルコムX』のヒットにより生前のマルコムの言動に対する誤解が解けたためというよりも、彼が不良少年・元犯罪者でありながら、更生して社会活動に大きな足跡を残した点が高く評価されたためといわれています。

 現職唯一の黒人上院議員バラック・オバマが民主党の大統領候補指名に名乗りを上げてそれなりに支持を得ているとか、ニューヨークでは黒人に対する蔑称の“ニガー”という言葉を口にしないよう市民に求める決議案が全会一致で採択されるなど、ここのところ、なにかと黒人がらみの話題がニュースをにぎわしています。黒人にまつわる切手や郵便物を集めてきて、いろいろと考えてみるという企画を考えてみるなら、いまがグッド・タイミングということなのかもしれませんね。
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