2019-10-31 Thu 03:30
チリのピニェラ大統領は、30日、記者会見し、首都サンティアゴで11月16-17日に予定されていたAPEC首脳会議と12月2-13に予定されていた地球温暖化対策の会議、COP25の開催を断念すると発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1993年にチリが発行した“都市交通25周年”の記念切手で、今回のチリの混乱の発端となったサンティアゴ地下鉄が描かれています。 チリの首都、サンティアゴの人口は、1920年には約50万人だったのが1940年には107万人に倍増。このため、渋滞緩和のため、1944年には最初の地下鉄建設計画が立案されましたが、この時は実現に至りませんでした。しかし、その後もサンティアゴの人口は増加し続け、地上の交通は完全に飽和状態となったため、1968年、地下鉄の建設が開始され、ピノチェト政権下の1975年9月15日、最初の区間として、1号線のサン・パブロ= ラ・モネダ間が開通しました。 当初の計画では、地下鉄は5路線が建設される予定でしたが、都市の拡大により計画も拡充され、現在は6路線、全長118キロに118の駅と12の乗換駅が設けられています。現在は7号線の建設も進められており。工事がすべて完成すると総延長169.5キロ、157駅の地下鉄網になる予定です。 さて、サンティアゴでは、今年1月、地下鉄の運賃が20ペソ(約3円)値上げされたのに続き、10月にはピーク時の時間帯の利用で800ペソから830ペソ(日本円で約122円から約127円)に値上げされました。これをきっかけに、貧富の格差に不満を訴える反政府デモが過激化。今月18日には、抗議のデモ隊が複数の地下鉄駅を襲撃したため、地下鉄の運行が停止。同日夜になると暴動は激しさを増し、市の中心部にあるイタリアの電力大手エネルのビルやチリ銀行の店舗が放火されるなどしたほか、バルパライソやイキケなど、国内主要都市にも暴動が波及したため、ピニェラ政権はサンティアゴに非常事態宣言を出したほか、各地に夜間外出禁止令を発出。1990年のピノチェト退陣以来、初めて軍を市街地に治安展開する一方、値上げを撤回し閣僚を入れ替えるなどして沈静化を図りました。 しかし、その後も抗議行動は収まらず、28日、チリ政府はデモ側に妥協していったん非常事態宣言を撤回。それでも、依然として抗議行動は収まらなかったため、ついに、ピニェラ大統領も「大統領として、チリの問題や関心を最優先にしなければいけない」として、APEC首脳会議とCOP25の開催を断念せざるを得なくなりました。ただし、今月24日には、リベラ外相が、必要な場合には軍も動員して警備を強化し、会議の運営に万全を期すとして、両会議を予定通り開催する意思を示していただけに、ピニェラ政権はさらなる窮地に追い込まれるのは必至です。 今回のサンティアゴのAPECでは、米国のトランプ大統領と中国の習近平国家主席が米中貿易協議の“第1段階”の合意文書への署名に向けて調整を進めていたとされていますが、当然、こちらも仕切り直しということになります。なお、ロシアのプーチン大統領は、30日、チリ政府の発表がある直前にAPEC首脳会議欠席を発表。その理由を“国内事情のため”としていましたが…。 いずれにせよ、今回の開催断念の決定は、なにぶんにも会期が差し迫っていつことから、代替地の確保も困難です。このため、1993年の米国での初開催以来、毎年行われてきたAPEC首脳会議も2019年は開催なしで終わりそうです。 * 昨日(30日)、アクセスカウンターが211万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 増補改訂版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 * アマゾンでの予約ページができました!こちらをクリックしてください。 |
2019-10-30 Wed 00:37
現生人類は20万年前、アフリカ南部、ボツワナのマカディカディ(マカリカリとも)・オカヴァンゴ地域で誕生したとする論文が、28日付の科学誌『ネイチャー』に発表されたそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1975年、ボツワナが発行した“ベチュアナランド保護領成立90年”の記念切手で、現在のボツワナ国家の原型となった同保護領の地図が取り上げられています。今回の論文で取り上げられているマカディカディ・オカヴァンゴ地域は、同国北部に位置しており、今回ご紹介の切手の地図でも、マカディカディ塩湖の位置がしっかり示されています。 世界最大の内陸デルタとして知られるオカヴァンゴ・デルタは、ボツワナ北部のカラハリ砂漠に、アンゴラから流れてくるオカヴァンゴ川が流れ込んで生じたデルタです。面積は季節によって変化し、真夏の1月に最小となりますが、この時期、オカヴァンゴ川の源流域は雨季となっており、膨大な量の雨水は4月にデルタ入口のパンハンドル地帯に到達。5-8月まで、4ヶ月にわたり一帯に水がいきわたります。また、カラハリ砂漠の中では広大なオアシスとして、アフリカゾウやサイ、カバやライオンなどの大型動物を含む様々な野生動物が生息しており、1996年にはラムサール条約に登録されました。 一方、マカディカディ塩湖は、スア・パン、ントウェトウェ・パン、ンサイ・パンの3つに別れており、1年の大半は塩に覆われた乾燥した白い平原となっていますが、雨季にはジンバブエのブラワヨ周辺から流れてくるナタ川やオカヴァンゴ・デルタから流れてくるボテティ川から水が注ぎこみます。 かつてのマカディカディ湖は、現在の4倍、6万平方キロに及ぶ巨大なモノでしたが、気候の乾燥化とともに縮小し、現在の塩湖の部分を残して消滅。ただし、塩湖の周辺からは石器が豊富に出土することから、完新世初期にはすでに人間が居住していたと考えられてきました。 さて、現生人類のホモ・サピエンス・サピエンスがアフリカで誕生したことは以前から知られていましたが、その正確な場所は、これまで特定されていませんでした。 そこで、今回の論文を発表した国際研究チームは、現在、南アフリカとナミビアで生活しているコイサン人200人からDNAサンプルを採取し、地理的分布や考古学、気候変動のデータと合わせ、ゲノム年表を作製。年表から人類の起源が20万年前のマカディカディ・オカヴァンゴ地域であると推測。研究チームによると、人類はこの地域に約7万年の間住んでいたものの、約13万年前に起きた気候変動により世界各地に広がっていったそうです。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『(改訂増補版)アウシュヴィッツの手紙』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 2015年の拙著『アウシュヴィッツの手紙』の内容を大幅に充実させた改訂増補版です。近日中にウェブ上に特設ページも解説しますが、当面、詳細につきましては出版元のえにし書房にお問い合わせください。 |
2019-10-29 Tue 03:09
アルゼンチンで、27日(現地時間)、任期満了に伴う大統領選が行われ、野党・正義党(ペロニスタ)のアルベルト・フェルナンデス元首相が、現職のマウリシオ・マクリ大統領を破って当選しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1955年にアルゼンチンで準備されたものの、大統領のフアン・ペロンが失脚したため、不発行に終わった彼の肖像切手です。今回当選したアルベルト・フェルナンデスの正義党は、フアン・ペロンが創設したため、ペロン主義の支持者・後継者という意味で、ペロニスタと呼ばれています。 フアン・ドミンゴ・ペロンは、1895年、ブエノスアイレス郊外のロボスで生まれました。地元の小学校を卒業後、16歳でアルゼンチン陸軍士官学校へ進学。1913年12月に士官学校を卒業し、第12歩兵師団に少尉として配属されました。 1926-29年に陸軍大学校で軍事史を研究して頭角を現し、1930年には士官学校の軍事史の教授に就任。軍事理論や日露戦争の研究に基づき、ドイツ軍の総力戦思想に倣い、国家の工業化と国民統合の必要性を訴えます。 1939年に第二次欧州大戦が勃発すると、ペロンは1941年まで駐在武官としてイタリアに赴任しましたが、1943年5月に帰国して陸軍次官に昇進し、同年10月、国家労働局次長に就任。労働局が労働福祉庁に改組されるとペロンは同庁初代長官に任命され、労働法の制定や国家主導の労使協調政策を進める一方、共産党系の労働運動は厳しく弾圧するなど、労働政策に辣腕をふるいました。 1944年、軍事クーデターでエデルミロ・ファーレルが大統領に就任すると、ペロンは陸軍大臣と副大統領に就任します。 第二次大戦中のアルゼンチンは枢軸国寄りの中立の立場を取っており、その中心人物だったのがペロンでした。このため、米国は大使召還や経済制裁の発動などで揺さぶりをかけましたが、ペロンは屈せず、ドイツの敗戦が確実になった1945年3月27日、ようやく、アルゼンチンは枢軸国に宣戦を布告。ただし、これは、戦後、“連合国”としての立場を確保し、新たに発足する国際連合に原加盟国として参加するための方便でした。 この結果、ペロンは外圧に抵抗する国家主義者として国民の人気を集め、彼の主義主張は“ペロン主義”と呼ばれ、“ペロニスタ(ペロン主義者)”と呼ばれる熱心な支持者を集めるようになります。 大戦の終結後まもない1945年10月、米国の支援を受けたエドゥアルド・アバロスによる軍事クーデターが発生。ペロンはラ・プラタ島の監獄に拘束されましたが、ペロン支持の労働組合はこれに抗議してゼネストを決行。さらに、大統領府前の五月広場にはペロンの釈放を求めて労働者が大挙押し寄せ、ペロンと恋愛関係にあったマリア・エバ・ドゥアルテ(エビータ)はペロンの釈放のために奔走し、ラジオで国民に向かってペロンの釈放を呼びかけました。 こうしたこともあって、国民世論の前にクーデターは失敗。10月17日、ペロンは釈放され、同月21日、アバロス政権は退陣に追い込まれました。そして、同月26日、ペロンはエビータと正式に結婚。1946年3月の選挙でペロンはアルゼンチン大統領に就任します。 政権を掌握したペロンは、翌1947年、政権与党として正義党を結成し、支持者の組織化に着手。以後、ペロニスタは正義党(員)とほぼ同義語になります。 ペロン政権は、大戦中に蓄積された膨大な外貨を原資として、労働組合の保護や労働者の待遇改善(週48時間制と年間13ヵ月分の給与支給など)、外資系企業(英国資本の鉄道会社や米国資本の電話事業など)の国営化、貿易の国家統制などの政策を推進する一方、批判勢力に対しては厳しい言論統制を行いました。 また、大統領夫人となったエビータは、夫の指示を受けて、与党・正義党への支持を拡大すべく、党の婦人部門を組織したうえで女性参政権の導入に尽力したほか、慈善団体エバ・ペロン財団を設立し、ミシン、毛布、食糧の配布など、貧困者の優遇政策に務め、労働者階級の絶大な支持を受けました。 さらに、ペロン本人はナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を強く非難する一方、旧ドイツ軍やナチス親衛隊の戦犯を多数匿い、アルゼンチンの軍や治安機関の育成に当たらせていました。こうしたことから、ペロン政権は“左翼ファシスト”ないしは“ムッソリーニ的ナショナリズム”とされることもあります。 しかし、選挙を経ず、また、正規の閣僚にも任命されたわけでもない“大統領夫人”が政治に関与していたことや、富裕層への課税を強化して貧困層へのばらまくスタイルの経済政策に対しては、批判的な国民が少なからずあり、1952年7月、国民に人気のあった妻のエビータが亡くなると、ペロン本人の人気も低迷。さらに、離婚を認める離婚法を制定したことで、支持基盤の一つであったカトリック教会も離反するなかで、1955年9月16日、反ペロン派の陸海軍人によるクーデターが発生し、ペロンはパラグアイ経由でフランコ政権下のスペインに亡命しました。 ペロンの亡命後、1955-73年の軍事政権下で、ペロンの正義党は非合法化されましたが、アルゼンチンの政情は不安定な状態が続いたため、国民の間ではペロンの復権を望む声は根強く、ペロン不在にもかかわらず、ペロンを支持する“ペロニスタ”は(表向きは非合法であるにもかかわらず)国内で一定の影響力を維持し続けました。 その後、1973年3月11日の大統領選挙では、ペロニスタのエクトール・カンポラが大統領に当選したものの、このことは、かえって、ペロニスタ内部での左右対立を招いたため、同年7月、カンポラは辞職。9月にはペロン本人が帰国して大統領選挙に出馬し、大統領に返り咲いています。ただし、当時のペロンはすでに78歳の高齢であったこともあり、かつてのような指導力を発揮することはないまま、わずか1年後の1974年7月に病死しました。 ペロンの系譜を継ぐ正義党の政策には、必ずしも確たるイデオロギーがあるわけではなく、基本的には労働者・貧困層に対するバラマキと、対米自立路線が政策的な柱となっています。 さて、2007-15年のクリスティナ・フェルナンデス正義党政権では、バラマキ政策により財政赤字が拡大。その欠を補うために経済的に中露に傾斜するとともに、南米の左派政権の反米意識に同調するのが基本姿勢でした。 このため、2015年の大統領選挙を経て成立したマクリ“共和国提案”政権は中道右派の立場から、クリスティナ政権の政策を全面的に見直し、市場重視型の自由開放経済を進めた親米路線を採択。中国人民解放軍に貸与することになっていたネウケン州にある人工衛星追跡基地の深宇宙ステーションを民間利用目的に限定するよう協定を修正したり、アルゼンチンの排他的経済水域で違法操業を行う中国漁船を沿岸警備隊に撃沈させるなど、安全保障で中国に妥協しない姿勢を見せました。しかし、その結果、中国からの経済支援が減少。それを補うために緊縮政策を展開しましたが、米金利上昇の影響を受けてペソの通貨安は止まらず、物価が上昇して市民生活を直撃し、貧困率が35%超にまで上昇したことで国民の反発を招き、今回の選挙でのペロニスタの勝利となりました。 今後、新政権は緊縮政策を見直すことになるのでしょうが、資金不足により、デフォルト(債務不履行)の危機が高まるのではないかと懸念されています。また、クリスティナ政権時代の親中路線に復帰すると、ラテンアメリカで中国が存在感を増している近年の傾向がさらに加速する可能性もあり、こちらも、今後の火種となりかねません。 なお、ペロニスタのもとになったフアン・ペロンとその時代については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『(改訂増補版)アウシュヴィッツの手紙』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 2015年の拙著『アウシュヴィッツの手紙』の内容を大幅に充実させた改訂増補版です。近日中にウェブ上に特設ページも解説しますが、当面、詳細につきましては出版元のえにし書房にお問い合わせください。 |
2019-10-28 Mon 01:22
キューバ革命の“聖者”と呼ばれたカミーロ・シエンフエーゴスが1959年10月28日に亡くなってから、ちょうど60周年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1960年にキューバで発行された“カミーロ・シエンフエーゴス逝去1周年”の切手です。 カミーロは、1932年、ハバナで生まれました。初めは画家を志していましたが、学生デモに参加して負傷した経験があり、1953年のモンカダ兵営襲撃に参加した後、米国に亡命していました。しかし、「メキシコでなにか大きなものが料理されている」とのうわさを聞きつけて、メキシコで活動していた革命組織、M26に馳せ参じ、軍事訓練を受けました。 1956年12月、グランマ号でキューバ島に上陸すると、シエラ・マエストラ山中のゲリラ戦では、チェ・ゲバラとともに“ヒット・エンド・ラン”戦術を駆使してバティスタ政府軍を翻弄。1958年8月には、ゲバラの率いるシロ・レドンド第8部隊とともに、アントニオ・マセオ第2部隊を率いて、キューバ島中央部、ラス・ビジャス州の攻略作戦を開始し、中央国道を完全に封鎖して、キューバ島の東西分断に成功するなど革命軍の勝利に貢献し、1959年1月2日、ゲバラとともにキューバに入城しました。 革命後1959年3月、農地改革を推進するための組織として農業改革局(INRA)が設立され、「INRAは(旧)叛乱軍と協力してその機能を果たす」として“農村軍”が組織されることになると、参謀本部長の職にあったカミーロは、自分たちとは別の軍事組織が政府によって創設されることに対する不満と(自分たちが“用済み”として排除されるのではないかとの)不安を感じる(旧)叛乱軍の兵士たちと革命を推進しようとするフィデル・カストロとの板挟みになります。 こうした中で、1959年8月、カミーロはカストロに対して「“解雇された”(旧)叛乱軍の兵士たちがしかるべき保証を得られなければ、参謀本部長の職を辞する」と迫り、兵士たちへの年金の支給を訴えます。これに対して、カストロは(旧)叛乱軍兵士への“配慮”を約束する一方、「米国の侵攻に逆襲する準備をしなければならない。そのために必要なのは、素人のゲリラではなく、規律正しい実効性のある兵士だ」と応え、じっさい、その数日後、(旧)叛乱軍の兵士に無償の鉄道切符3000枚を支給し、彼らを除隊させてしまいました。 この結果、ゲリラ戦の勇者たちの間からも、INRAに対する抵抗感から、農業改革そのものに異議を唱える者が現れるようになります。その筆頭格だったのが、ゲリラ戦の英雄で、カマグエイ州知事として人望が高かったウベール・マトスでした。 1959年10月17日、フィデル・カストロの弟でINRA推進派だったラウルが国防大臣に就任すると、同20日、マトスはカマグエイの駐屯地からフィデルに辞表を送付。マトス本人はフィデルに対して武装蜂起を起こす意図はなかったとされていますが、彼の辞職は反INRA派を勢いづかせ、軍の離反を招きかねない状況となりました。 このため、カストロはラジオを通じて「カマグエイの裏切者たちが革命に対する謀反を企てている」と批難。マトスとその部下を武装解除し、マトスを逮捕するため、カミーロがカマグエイに派遣されました。ただし、実際にはマトスとその部下が武装蜂起したわけではなく、カミーロとマトスの部隊が刃を交えることもありませんでしたが、最終的に、マトスは政府転覆を企てたとして、12月15日、禁錮20年の刑を宣告され、服役しています。 一方、マトスの逮捕を受けて、10月26日、カストロが革命市民軍の創設(このことは、事実上、旧叛乱軍の解体を意味していました)を発表すると、後悔にさいなまされたカミーロは、10月28日、あらためてカマグエイを訪れて事件の関係者から事情を聴き、同日午後6時、ハバナに戻るべくカマグエイを出発します。しかし、カミーロを乗せたセスナ310は、離陸直後にレーダーから姿を消し、カミーロは行方不明となりました。 その後、約20日間、国を挙げての大捜索が行われたものの、結局、機体の残骸や遺体等は発見されず、カミーロは亡くなったものとされました。 現在のキューバ政府の公式見解では、カミーロのセスナは、嵐を避けるために進路を変えて海の方向に向かい、遭難したと結論付けています。その一方で、カミーロのセスナは、予定の航路を外れた飛行機の救出に向かうよう偽の指示を受けて進路を変更したところ、海上で空軍機(マイアミ方向から飛来した小型機がサトウキビ畑に放火しているから撃墜せよとの命令を受けていたという)に撃墜されたとする証言もあります。 ただし、カミーロの死は、その真相がいかなるものであったにせよ、彼とマトスに象徴される(旧)叛乱軍による革命のロマンが終焉したことにほかなりませんでした。 カミーロの遭難を受けて、カストロはカメラの前で涙を流し、絶望に身をゆだねてはならないと国民を督励し、歴史はカミーロを忘れないであろうと演説。また、カミーロの親友でもあったゲバラ(彼は息子の一人にカミーロと名付けています)は、次のような追悼演説をししました。 敵が殺したのだ。彼の死を望んだがために殺したのだ。安全な飛行機がなかったために殺されたのだ。パイロットに必要とされる経験をすべて持っていなかったために、仕事が多すぎてハバナにすぐに戻らなければならなかったがために、(中略)彼の性格のゆえに殺されたのだ。カミーロは危険を顧みない。危険を楽しんでいた。それを弄び、あしらい、操っていた。彼のゲリラ戦士のメンタリティにおいては、雲があるからと言って決まった路線を取りやめたり、回避したりすることはできないのだ。 こうして、カミーロは、その独特の風貌も相まって、シエラ・マエストラ山中のゲリラ戦の時代を象徴するイコンの一つとして、ゲバラとともに、革命の聖人に祀り上げられることになります。 ちなみに、今回ご紹介の切手では、カミーロの“逝去1周年”となっていますが、その後、カミーロの死から節目の年に発行される切手では“失踪XX周年”とされています。おそらく、「カミーロは死んでいない。彼は全ての愛国者の胸の中に生きている。彼は革命青年の永遠の象徴だ。彼は永遠に生き続けるだろう」という、ゲバラの追悼演説の一節を踏まえたものと思われますが、1967年にゲバラが亡くなり、その神格化が進められていく中で“神の言葉”と矛盾しないような配慮がなされたということなのかもしれません。 なお、カミーロについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明していますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『(改訂増補版)アウシュヴィッツの手紙』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 2015年の拙著『アウシュヴィッツの手紙』の内容を大幅に充実させた改訂増補版です。近日中にウェブ上に特設ページも解説しますが、当面、詳細につきましては出版元のえにし書房にお問い合わせください。 |
2019-10-27 Sun 02:51
昨日23時過ぎに、無事、ドバイ経由でマルタから帰国しました。おかげさまで、短い期間ではありましたが、いろいろと実りの多い滞在となりました。その成果につきましては、追々、皆様にもご報告して参りますが、まずは、現地滞在中、お世話になった全ての方々に、この場をお借りしてお礼申し上げます。 冒頭の写真は、今回のマルタ取材の目的の一つである、1989年12月2日、ブッシュ(父)とゴルバチョフの米ソ首脳会談(マルタ会談)が行われたことを記念してマルタ島南部の漁港、マルサシュロック近くに建てられた記念碑の前で撮影したものです。なお、東西冷戦の終結を宣言したマルタ会談については、今回の現地取材の成果も含めて、年末の会談30周年をめどに、簡単ではありますが、どこかで報告する予定です。 さて、今回のマルタ滞在では、切手展への参加が目的ではなかったのですが、ヴァレッタ市内を歩いていたら、偶然、地元のローカル切手展が開催されているのに出くわしました。(下の画像は、会場前に出ていた看板) 展示内容は、最近の切手を中心とした非競争の小規模なものでしたが、ことしは第20回の節目の年ということで、会場では小型印つきの記念カバーも売られていました。 記念カバーに貼られている切手は、2012年に発行された“パーソナライズド・スタンプ(切手と連刷状態になるタブの部分に、利用者が好みの写真・イラストなどを入れられるタイプの切手)”用の切手で、タブの部分には切手展の第20回の記念ロゴが入っています。切手部分には、景勝地として知られるコミノ島の断崖と聖マリア塔を海から見た風景が取り上げられています。 なお、カシェには、マルタのランドマークであるカーマライト教会のドームがデザインされています。隣の尖塔はアングリカン教会のもので、これと、カーマライト教会のドームとで、ヴァレッタを西から見たときの輪郭を特徴づけるものとなっています。(坂田真さんにご教示いただきました。ありがとうございます!) コミノ島はゴゾ島とマルタ島の間の小島(面積3.5平方キロ)で、険しい石灰岩の断崖が侵食されてできた洞窟が点在することで知られています。聖マリア塔は、1618年、マルタを支配していたマルタ騎士団の総長、アロフ・ド・ウィニャクールが島南岸の中央部に監視塔として建てたもので、海面からおよそ80メートルの場所にあります。塔本体の高さはおよそ12メートルで、かつてはスパイ容疑者の収容所や隔離病院、家畜の檻などに使われていましたが、両大戦期には本来の監視塔としての機能を復活。1982年にはマルタ軍の所有となり、密輸・密猟を監視するための拠点となっています。 ちなみに、今回はコミノ島へは行かなかったのですが、船でゴゾ島に渡る途中で、切手とは別の角度から、コミノ島の洞窟と聖マリア塔を見ることができましたので、その写真も貼っておきます。 マルタを訪れたのは今回が最初だったのですが、実に、奥の深い場所であることを実感しました。そう遠からず再訪してたうえで、みっちりと取材して、ぜひ“漫郵記”のようなかたちでまとめてみたいですね。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『(改訂増補版)アウシュヴィッツの手紙』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 2015年の拙著『アウシュヴィッツの手紙』の内容を大幅に充実させた改訂増補版です。近日中にウェブ上に特設ページも解説しますが、当面、詳細につきましては出版元のえにし書房にお問い合わせください。 |
2019-10-26 Sat 06:45
早いもので、今回のマルタ滞在も無事に終了し、現地時間の25日夕方の飛行機でマルタを出国し、現在、経由地のドバイ国際空港で乗り継ぎのフライトを待っています。というわけで、無事に羽田に到着できるよう、マルタの女神のご加護を祈って、こんな切手を持ってきました。
これは、1899年にマルタで発行された2シリング6ペンスの普通切手で、マルタ島を擬人化した女神メリータが描かれています。 メリータは元々、ローマ時代のマルタ島の中心都市の名前で、紀元前4000年以前から人々が定住していたとみられています。島の最高点にあることから、紀元前700年頃にはフェニキア人が要塞化し、ローマ帝国の支配下では知事の公邸が置かれていました。 870年以降のムスリム王朝、アグラブ朝の支配下で、メリータの地名はアラビア語で“都市”を示すマディーナと発音の近いメディーナに転訛。そこからさらに、現在の地名であるイムディーナに転訛しました。 16世紀以降、マルタ島はマルタ騎士団の支配下にありましたが、ナポレオン戦争の時代はフランス領となり、ナポレオンの失脚後は英領となりました。これに伴い、英国を象徴する女神のブリタニアに似せて、マルタ島の象徴として作られたのが、今回ご紹介の切手にも描かれた槍を持つメリータのイメージです。なお、メリータは、1964年のマルタ独立後も、同国のシンボルとなっていますが、英国時代とは異なる姿で表現されることも多いようです。 たとえば、マルタの首都、ヴァレッタのフロリアーナ庭園には、1989年、マルタ独立25周年を記念して8.5メートルのメリータ像(ボニッチ作)が建立されましたが、その像は下の画像のような感じで、今回ご紹介の切手とは大きく異なっています。 さて、羽田到着は本日深夜の予定です。不在の間、いろいろとご不便・ご面倒をおかけした皆様には、いましばらくの御猶予をいただきますよう、よろしくお願いします。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『(改訂増補版)アウシュヴィッツの手紙』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 2015年の拙著『アウシュヴィッツの手紙』の内容を大幅に充実させた改訂増補版です。近日中にウェブ上に特設ページも解説しますが、当面、詳細につきましては出版元のえにし書房にお問い合わせください。 |
2019-10-25 Fri 04:48
韓国を訪問中のスペイン国王フェリペ6世ご夫妻に対して、ソウル市が、きのう(24日)、“名誉市民証”を授与したそうです。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1931年4月14日の革命でスペイン国王のアルフォンソ13世が退位に追い込まれ、第2共和政が発足した後、元国王の肖像を描く王制時代の普通切手に“Republica Espana”の文字を暫定的に加刷した切手です。 まぁ、ソウル市側に悪意はなかったんでしょうが、国王が“市民”になるのは“格下げ”のイメージですからねぇ。そもそも、そうした事例は、一般的には革命などで王制が崩壊したり、その国王に個人的な問題があったりして、退位(廃位)を余儀なくされるケースしかないでしょうから…。今回の切手は、スペインの場合のそうした先例を示す一例として、取り上げてみました。 さて、アルフォンソ13世は、1886年5月17日、アルフォンソ12世の嫡男として生まれました。出生時には父王はすでに崩御していたため、出生と同時にスペイン国王となりましたが、国王としての職務は、母親のマリア・クリスティーナ王太后が摂政を務め、16歳になった1902年から親政を開始しました。 アルフォンソ13世本人は、幼少時から外国を頻繁に訪れていたこともあって開明的な性格で、第一次大戦中は“絶対中立”を宣言したため、スペインは大戦特需で“16世紀以来の大型景気”となりました。ただし、その恩恵を受けたのは一部の資本家のみで、大半の国民は物価の高騰によって生活が悪化しました。 そうした中で、1923年、アルフォンソ13世はバルセロナ総督だったプリモ・デ・リベーラ将軍を登用。プリモ・デ・リベーラは議会を解散して憲法を停止し、言論統制を行うなど、自らの権威主義体制を強化することで、王権維持を目指しました。その一環として、低金利政策を採用して中産階級の生活水準の向上を計り、公共工事を行ってインフラを整備したほか、貴族の特権の制限や、軍の改革などに取り組んだものの、放漫財政によって国の財政は事実上の破綻に陥ります。 このため、1926年、プリモ・デ・リベーラは議会を復活させ、地方の知事に文官を任命する一方、1927年にはイタリアのファシスト体制に倣った支配政党、“愛国同盟”を結成。ところが、1929年の世界恐慌で通貨ペセタが暴落したことで国王の信認を失い、1930年に“健康の悪化”を理由に失脚。パリへの亡命を余儀なくされました。 プリモ・デ・リベーラの失脚を受けて、1931年4月12日、スペインでは自治体選挙が行われましたが、その結果、王制打倒を目指す共和派や共産党などが多数派を占めることがほぼ確実になったため、4月14日、アルフォンソ13世は選挙結果が確定する前にローマに亡命し、スペイン第2共和政が誕生しました。 しかし、自ら政権を奪取したわけではない共和派の基盤は脆弱で、1933年の総選挙では右派政権が成立し、左翼的な政策の軌道修正が図られます。ところが、これを不服とする労働者たちは、1934年10月5日、アストリアス地方で反乱を起こしましたが、フランコにより鎮圧されました。 さらに、1936年2月16日の総選挙で左翼勢力を中心とする人民戦線内閣が誕生すると、右派の大物であったフランコは危険人物として参謀総長を解任され、カナリア諸島方面警備司令官に左遷。これを不服とするフランコは同年7月に反乱を起こし、スペインは内戦の時代に突入していくことになります。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『(改訂増補版)アウシュヴィッツの手紙』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 2015年の拙著『アウシュヴィッツの手紙』の内容を大幅に充実させた改訂増補版です。近日中にウェブ上に特設ページも解説しますが、当面、詳細につきましては出版元のえにし書房にお問い合わせください。 |
2019-10-24 Thu 05:04
プロ野球の日本シリーズは、福岡ソフトバンクホークスが読売ジャイアンツを4連勝で下して3年連続10度目の日本一となりました。というわけで、マルタ滞在中でもありますし、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1987年にマルタが発行した“マルタ鳥類学会25周年”の切手のうち、ハヤブサを描いた1枚です。 1930年に刊行されたダシール・ハメットの探偵小説で、映画化もされた『マルタの鷹』の原題はThe Maltese Falconですから、辞書的に直訳すると『マルタの隼』とすべきなのでしょうが、結果的に、『マルタの鷹』という邦題が定着していますので、“マルタの鷹”としてマルタが発行したハヤブサの切手を持ってきました。 ちなみに、先ほど、現在宿泊中のホテルの近くのコンビニで買ってきたワインの封印には、マルタ十字と“マルタの鷹”がデザインされていました。宿に帰るまでは、日本シリーズのこともすっかり忘れていたのですが、このタイミングでこういうウェア印を買ってきたのも何かのご縁でしょうから、下に画像を貼っておきます。(とりあえず、スマホで撮影した仮の画像ですが、帰国後、きちんとスキャンしたものをアップしなおします) さて、鷹と隼の関係ですが、もともと、日本語ではタカ目の鳥については明確な区別はなく、大きさの順に、鷲→鳶→鷹→隼と使い分けていました。したがって、The Maltese Falconを“マルタの鷹”と訳すのも、完全な誤りと切り捨てることは酷なのかもしれません。 ところで、昼行性猛禽類のハヤブサ科・タカ類(タカ科など)・コンドル科は長らく同じタカ目に分類されてきましたが、近年の研究により、形態・分子双方から疑問が呈されたことから、2012年、日本鳥類学会は旧タカ目をハヤブサ目(ハヤブサ科のみ)とタカ目(タカ類とコンドル科)に分離しました。その理由は、ハヤブサ目はタカ目と異なり、鉤爪が小さく比較的大きさがそろっており、この比率は生態が大きく異なるスズメ目とほぼ同じで、隼は、鷹よりもより雀やインコに近いのだとか。 もちろん、鳥に関しては素人の僕が学問的な分類に文句を言う資格などあろうはずはないのですが、そうはいっても、やはり、The Maltese Falcon は“マルタの雀”じゃなくて“マルタの鷹”であってほしいなぁ…と個人的には思ってしまいますね。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『(改訂増補版)アウシュヴィッツの手紙』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 2015年の拙著『アウシュヴィッツの手紙』の内容を大幅に充実させた改訂増補版です。近日中にウェブ上に特設ページも解説しますが、当面、詳細につきましては出版元のえにし書房にお問い合わせください。 |
2019-10-23 Wed 04:22
ラグビーのW杯・南ア戦や陛下の即位礼正殿の儀などもあって、記事としてのご報告が遅くなりましたが、私事ながら、20日に出国し、21日から地中海のマルタ島にいます。
というわけで、せっかくのマルタ滞在中なので、ストレートにこんな切手を持ってきました。 これは、1860年に発行されたマルタ最初の切手です。 マルタ島発着の郵便物は、1530年に同島がマルタ騎士団(旧聖ヨハネ騎士団)の所領となってから間もない1532年6月14日、当時の騎士団長フィリップ・ヴィリエ・ド・リラダンがフランス・オーセールの司教宛に差し出したものが最古の例とされています。騎士団による制度化された郵便は、1708年、首府のヴァレッタで始まりました。 ナポレオン戦争中の1897年6月18日、マルタがフランスに占領されると、郵便制度も再編され、“Malte”表示の印が使用されましたが、ほどなくして、マルタは英国に占領され、1799年10月7日、英国人のアレクサンダー・ボールが、サン・アントン宮殿の一部を郵便局として、マルタ発着の定期便を開始しました。 1814-15年のウィーン会議を経て、マルタは正式に英領となり、1857年8月以降、英本国の切手が持ち込まれて使用されました。翌1858年2月1日以降は、郵便料金の前納が義務化され、当初は“M”、次いで“A25”の文字が入った抹消印が導入されます。 こうした経緯を経て、1860年12月1日、今回ご紹介の“ハーフペニー・イエロー”と呼ばれるマルタ最初の切手が発行されました。ただし、この切手はマルタ域内でのみ有効で、マルタ島外宛の郵便に関しては、1875年にマルタが英領として初めて一般郵便連合(現・万国郵便連合)に加盟するまで、英本国の切手と混貼が必要でした。 さて、今回のマルタ滞在は現地時間の25日までで、週末の26日には帰国の予定です。この間、いろいろとご不便・ご面倒を描けするかと思いますが、悪しからずご了承ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-22 Tue 01:03
ことし5月に皇位を継承された今上陛下の御即位を公に宣明され、その御即位を内外の代表がお祝いする儀式として“即位礼正殿の儀”が、きょう(22日)、行われます。というわけで、きょうはストレートにこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、今回の即位礼に先立ち、今月18日に発行された“天皇陛下御即位記念”の切手シートです。 新天皇の即位を祝う公式の行事としては、古来、即位礼と大嘗祭をあわせた大礼がありますが、近代国家としては、1909年に制定された旧登極令によって制度として整えられました。 第二次大戦後の皇室行事は、政教分離を定めた日本国憲法の規定に抵触せず、なおかつ、儀式としての伝統的な格式を損なわないということが最大の課題となったため、1990年の平成の大礼に関しては、①天皇の国事行為としての“即位の礼”の範囲を、“即位礼正殿の儀(天皇が即位を公に宣明し、その即位を内外の代表が祝う)”、“祝賀御列の儀(即位礼正殿の儀の後、国民からの祝福を受けるための列)”、“饗宴の儀(即位を披露するための祝宴)”とする、②”即位礼正殿の儀”と“饗宴の儀”は皇居の宮殿で行い、“祝賀御列の儀”のパレードは、皇居=赤坂御所間で行う、③所掌は内閣府(1990年当時は総理府)とする、ということが決定されました。 18日に発行された切手シートは、1888年に竣工した明治宮殿(1945年5月の空襲で焼失)の正殿内の装飾から題材をとったもので、鳳凰の切手は、正殿の緞帳に使用されていた“鳳凰唐草文様緞帳裂”から描き起こされたもの、円形状の文様は、天井の装飾文様から描き起こされた宝相華(唐草に5弁花の植物を組み合わせた空想的な花文)です。また、シート右側の余白には、緞帳の柱隠のための菊花紋章と菊唐草文様を取り上げたものとなっています。 明治宮殿正殿の造営に際して、宮殿が西洋建築で、その調度も輸入品が中心になるとの情報を得た川島織物(京都・西陣)の2代川島甚兵衞は、日本を代表する建物の内装は西陣で製織すべきと強く主張。1886年の西欧視察での見聞をもとに、室内装飾織物の研究を重ね、明治宮殿の室内装飾織物の製織を請け負うことに成功しました。今回ご紹介の切手シートに取り上げられている緞帳も川島が制作したもので、川島は明治宮殿での仕事が認められ、1891年、宮内省御用達国内第一号に任命されています。 なお、今回の“即位の礼”では、当初、きょうの午後3時から“祝賀御列の儀”のパレードも行われる予定でしたが、10月12日の台風19号で甚大な被害が出た台ことを考慮して、11月10日に延期になりました。また、大嘗祭は、11月14・15日に行われる予定です。これらについては、それぞれ当日の記事で話題にしたいと思います。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『(改訂増補版)アウシュヴィッツの手紙』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 2015年の拙著『アウシュヴィッツの手紙』の内容を大幅に充実させた改訂増補版です。近日中にウェブ上に特設ページも解説しますが、当面、詳細につきましては出版元のえにし書房にお問い合わせください。 |
2019-10-21 Mon 00:03
現在開催中のラグビーW杯は、きのう(20日)、準々決勝の試合が行われ、残念ながら、日本は南アフリカ共和国に3-26と完敗しました。やはり南アは強いですね。というわけで、南ア代表に敬意を表してこの切手です。
これは、1964年に南アが発行した南ア・ラグビー評議会75周年の記念切手で、ラグビーボールの上に乗ったスプリングボックを描く同評議会のエンブレムが描かれています。 スプリングボックは、南アを含むアフリカ南部の乾燥した草原や砂漠に生息する偶蹄類で、肩高75-90㎝、体重32-36㎏。角は長さ35㎝ほどで、竪琴形です。体上面は赤茶色で体側に黒帯があり、下面と臀部から背中線沿いに背の中央部まで白色となっています。低木の葉や地下茎なども食べ、水なしで長期間生存可能です。警戒したり、逃走するときに、四肢をそろえて3m以上も高く飛ぶのが特徴で、速力も時速80㎞と俊敏な動物です。 南ア地域を代表する野生動物にして、力強さとしなやかさを象徴するものとして、ラグビー南ア代表のユニフォームにはスプリングボックがデザインされており、“スプリングボックス”はラグビー南ア代表の愛称としても親しまれています。 なお、かつての南アの国章に描かれているのは、スプリングボックと似ていますが、雌雄のトムソンガゼルで、スプリングボックではありません。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『(改訂増補版)アウシュヴィッツの手紙』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 2015年の拙著『アウシュヴィッツの手紙』の内容を大幅に充実させた改訂増補版です。近日中にウェブ上に特設ページも解説しますが、当面、詳細につきましては出版元のえにし書房にお問い合わせください。 |
2019-10-20 Sun 00:29
チリのセバスティアン・ピニェラ大統領は、18日夜(現地時間)、地下鉄の運賃値上げに対する抗議行動jに端を発した暴動が過激化したことから、首都サンティアゴ・デ・チレ(以下、サンティアゴ)に非常事態宣言を発令しました。というわけで、サンティアゴに関連して、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2005年にチリが発行した“サンティアゴ中央郵便局”の切手です。 チリ郵政の本拠地があるサンティアゴ中央郵便局は、サンティアゴ市内の中心、プラザ・デ・アルマスの北側の一角にあります。 現在の中央郵便局の場所には、1818年の独立時、大統領官邸が建っていました。1846年、大統領官邸がモネダ宮殿に移った後、旧大統領官邸はサンティアゴ知事の公邸として使用されていましたが、1881年に焼失。このため、翌1882年、リカルド・ブラウンの設計による新公邸が建てられ、1908年、ラモン・ファーマンの設計による改築を経て現在の外観になりました。 その後、建物は中央郵便局に転用され、1976年には国の文化財に指定。2004年には1階に逓信博物館が開館しましたが、現在でも郵便局として利用されています。 さて、サンティアゴでは、今年1月、地下鉄の運賃が20ペソ(約3円)値上げされたのに続き、今回はピーク時の利用で800ペソから830ペソ(日本円で約122円から約127円)に値上げされています。18日には、抗議のデモ隊が複数の地下鉄駅を襲撃したため、地下鉄の運行が停止。同日夜になると暴動は激しさを増し、市の中心部にあるイタリアの電力大手エネルのビルやチリ銀行の店舗が放火されるなどしたため、非常事態宣言が発せられたというわけです。 サンティアゴでは、来月中旬のAPEC首脳会議を皮切りに、国際会議が相次いで予定されていますので、一刻も早く事態が鎮静化してほしいものです。少なくとも、文化財としても有名な中央郵便局は無事であってほしいなぁ。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『(改訂増補版)アウシュヴィッツの手紙』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 2015年の拙著『アウシュヴィッツの手紙』の内容を大幅に充実させた改訂増補版です。近日中にウェブ上に特設ページも解説しますが、当面、詳細につきましては出版元のえにし書房にお問い合わせください。 |
2019-10-19 Sat 02:50
2017年、カタルーニャ州独立をめぐる投票と独立宣言が強行された件で、今月14日、当時の州の幹部ら12人に対してスペイン最高裁が実刑判決を下して以来、州都バルセロナでは、連日、激しい抗議デモが続いています。5日目となる昨日(18日)は、世界遺産のサグラダ・ファミリア教会の入口がデモ隊によってふさがれ、観光客等の入場が不可能となったため、拝観も停止されたそうです。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1960年3月27日から4月1日まで、スペイン・バルセロナで開催された第1回郵趣コングレスに際して発行された記念切手のうち、開催地バルセロナのシンボルとして、サグラダ・ファミリア教会を取り上げた1枚です。 サグラダ・ファミリア教会(聖家族贖罪教会:El Temple Expiatori de la Sagrada Familia)は、バルセロナ旧市街のアシャンプラ地区にある建築家アントニオ・ガウディの作品群の一つで、ガウディの没後100周年にあたる1926年の完成を目指して、現在なお、建築が進められています。 もともと、この教会は民間カトリック団体のサンホセ協会が、貧しい人々のための教会として建設を計画したもので、建築家フランシスコ・ビリャールが無償で設計を引き受け、1882年3月19日に着工しました。しかし、翌1883年、ビリャールは意見の対立から設計者を辞任し、当時はまだ無名だったガウディがその後任として設計を引き継ぎます。ガウディは設計を根本から練り直し、1926年に亡くなるまで、その建設に力を注ぎました。 ちなみに、ガウディの存命中に完成したのは、地下聖堂と東側の“キリストの生誕”のファサードなど、全体の4分の1未満でした。また、ガウディの設計じたいが壮大な規模であったことに加え、贖罪教会という性質上、資金調達を信者の喜捨に頼ってきたことから資金不足が続いたことも工事がなかなか進まない要因となっていましたが、1990年代以降、拝観料収入が増えて資金状況が好転。さらに、建築技術の進歩もあって、1980年代には完成までに約300年かかるとみられていた工期は大幅に短縮され、2026年の完成が現実の目標とされるようになりました。 さて、現在のカタルーニャ自治州に相当する地域は、987年、バルセロナ伯ボレイ2世がユーグ・カペーを(西)フランク王として承認するのを拒否して自立して以来、1492年のレコンキスタ後も、スペイン帝国の一部として自治を認められていました。しかし、1714年9月11日、スペイン継承戦争でスペイン・ブルボン軍に包囲され降伏すると、1716年に布告された新国家基本法により、自治権を剥奪され単なる州の地位に転落してしまいます。 スペイン第二共和政時代の1932年、カタルーニャでは自治政府(ジャナラリター)が復活しますが、1933年末のスペイン総選挙で右派が勝利すると、翌1934年、これに反発したカタルーニャ自治政府は“カタルーニャ共和国”の成立を宣言しました。 さらに、1936年、バルセロナで人民オリンピックが開催される数時間前にフランコが叛乱を起こし、スペイン内戦が勃発。3年に及ぶ内戦の期間中、カタルーニャは反フランコ陣営の拠点となりましたが、このため、内戦に勝利を収めたフランコ側は、カタルーニャの自治を認めず、政府機関やマスメディアでのカタルーニャ語の使用も禁止され、自治政府は海外への亡命を余儀なくされました。 1975年にフランコが亡くなると、1977年9月、自治政府がバルセロナに復帰。翌1978年に制定されたスペインの新憲法によって、自治政府の自治権が認められます。これを受けて、カタルーニャにおける国民投票での承認とスペイン国会での可決を得て、1979年にカタルーニャ自治憲章が成立。その後、カタルーニャ自治憲章は、2006年6月18日に改定され、税、司法、行政の分野で州の自治権が大幅に拡大されました。 ところが、2010年、スペインの憲法裁判所は自治憲章を違憲と判断。さらに、スペインでは財政力の強い地域が弱い地域を支援する税制が採用されていることから、バルセロナを擁し、財政の豊かなカタルーニャ州では、ソブリン危機からスペイン経済が急速に悪化する中で、税制への不公平感が鬱積し、2010年までに独立派が急増します。 こうした状況の下で、2010年7月、“2010年カタルーニャ自治抗議”と銘打った大規模デモに約110万人が参加。その後も、毎年のように大規模デモが開催され、2015年のカタルーニャ自治州議会選挙では、独立賛成派が過半数の135議席中72議席を獲得し、州議会が独立手続きの開始を宣言しています。2017年の住民投票は、こうした経緯を踏まえて実施されたもので、投票率は4割でしたが、賛成が9割に達し、同年10月10日、カタルーニャ独立宣言が署名されます。 その後、カタルーニャ側は、中央政府との対話を求める一方、独立宣言そのものは撤回しなかったため、10月21日に中央政府は自治政府の権限を一時停止。これに対して、10月27日、州議会が独立宣言を賛成多数で承認したたため、中央政府は州首相のプッチデモンら幹部らを更迭し、カタルーニャ州の直接統治を開始しましたが、12月21日の州議会選挙では独立派政党が過半数を獲得し、独立派のトレントが議長に就任。州政府首相としてプッチデモン元首相が指名され、2018年1月30日に信任投票が行われる予定でしたが、憲法裁判所が投票の中止を命じたため、信任投票は延期され、プッチダモンは亡命していました。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『(改訂増補版)アウシュヴィッツの手紙』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 2015年の拙著『アウシュヴィッツの手紙』の内容を大幅に充実させた改訂増補版です。近日中にウェブ上に特設ページも解説しますが、当面、詳細につきましては出版元のえにし書房にお問い合わせください。 |
2019-10-18 Fri 02:35
1869年10月18日(明治2年9月14日)に、日本とオーストリア=ハンガリー帝国(以下、ハプスブルク帝国)の間で日墺修好通商航海条約が結ばれ、日本とオーストリアおよびハンガリーとの外交関係が樹立されてから、ちょうど150周年です。というわけで、ハプスブルク関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1879年7月28日、ハプスブルク支配下のオシフィェンチム(ドイツ語名 アウシュヴィッツ)で使用されたフランツ・ヨーゼフの10クロイツァー切手です。 第二次大戦中、ナチス・ドイツ最大の収容所があった場所として知られるアウシュヴィッツは、14世紀以来、オシフィェンチム公国の支配下に置かれていましたが、1564年、ポーランド王ジグムント2世によりクラクフ県シロンスク郡に併合され、オシフィェンチム公国は名実ともに消滅しました。 1772年、プロイセン、ハプスブルク、ロシアの3国は第1回ポーランド分割を行い、3国はそれぞれ国境に隣接する地域を獲得。これにより、旧オシフィェンチム公国の領域は、ハプスブルク家の支配下に組み込まれ、“ガリツィア・ロドメリア王国(ウクライナ語でハリーツィヤ・ヴォロディームィリヤ王国)およびクラカウ大公国・アウシュヴィッツ公国・ザトル公国(ポーランド語でクラクフ大公国・オシフィエンチム公国・ザトル公国)”の一部となりました。以後、オシフィェンチムはハプスブルク体制の支配下に置かれ、1804年までは神聖ローマ皇帝が、1806年から第一次大戦終結の1918年まではオーストリア皇帝がアウシュヴィッツ公(オシフィエンチム公のドイツ語読み)の称号を継承します。 1795年、第3次ポーランド分割によってポーランド国家が消滅すると、ハプスブルク支配下のオシフィエンチムは事実上、プロイセンとの国境の町となり、人口こそ多くなかったものの(1792年の時点で2118人)、域内における物流の中継地点として定期市も開かれるようになりました。 なお、1850年にオーストリアで最初の切手が発行されると、今回ご紹介のマテリアルのように、オシフィェンチムにもオーストリア切手が持ち込まれ、ハプスブルク帝国の崩壊まで使用されています。 さて、2015年に刊行した拙著『アウシュヴィッツの手紙』ですが、おかげさまで在庫がほぼなくなりつつあります。また、同書の刊行以降、 Postal History of Auschwitz 1939-1945 と題するコレクションを、2017年のブラジリア、2018年のエルサレムと2度の世界切手展に出品し、マテリアルもかなり充実してきました。 そこで、このたび、2015年の拙著の増補改訂版を出版することになりました。すでに初校の作業は終了しており、現在、最後の編集作業を進めているところです。正式な発売日や定価など、詳細が決まりましたら、このブログでもご案内していきますので、よろしくお願いいたします。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-17 Thu 02:16
ご報告がすっかり遅くなりましたが、大手製菓メーカー(株)ロッテの広報誌『Shall we Lotte(シャル ウィ ロッテ)』での僕の連載記事、「お菓子の切手」の最新版がアップされました。今回は、こんな切手を取り上げています。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2018年7月16日、ポルトガルが発行した“チョコレートの歴史”の切手シートです。 ヨーロッパにカカオの実を初めて持ち込んだのはクリストファー・コロンブスですが、食品化されたチョコレートをヨーロッパにもたらしたのは、1544年、ユカタン半島の先住民、ケクチ・マヤ族の使節がスペインのフェリペ皇太子(1556年に国王フェリペ2世として即位)を訪問した際、容器に入れた飲料のチョコレートを献上したのが最初とされています。 ちなみに、1521年にアステカを征服した、スペインの探検家エルナン・コルテス(1547年没)の一行は、すでに現地でカカオ豆にとうもろこしの粉やスパイスを加えたチョコレートを飲んでおり、スペインでも“珍奇な新大陸の飲み物”の存在は知られていたようです。なお、固形のチョコレートが発明されたのは1847年の英国で、それ以前のチョコレートは原則として飲み物でした。 さて、チョコレートはフェリペ皇太子に大いに気にいられ、スペインの宮廷ではチョコレート飲料が急速に広まります。そして、ほどなくして、アメリカ大陸の植民地ではカカオのプランテーション栽培も始まります。 当初、スペインでのチョコレートのレシピはケクチ・マヤ族のものと同じでしたが、次第に、ヨーロッパ人の好みに合わせたものになっていきます。砂糖や牛乳を加え、コショウやシナモン、ローズオイル、麝香(じゃこう)などの香料が入れられるようになりました。ただし、そうしたレシピは17世紀にいたるまで、スペイン王室が門外不出の秘中の秘として厳重に保管していました。 ところで、1580年、スペインの隣国、ポルトガルでは国王エンリケ1世が亡くなりましたが、後継者は決まっていませんでした。そのころ絶頂期を迎えていたスペインのフェリペ2世は自分がエンリケ1世の甥(おい・姉の子)であることを理由にポルトガル王位を要求。リスボンを陥落させ、ポルトガルとスペインが合同しないという条件の下、フェリペはポルトガル王(ポルトガル王としてはフィリペ1世)に即位します。 ポルトガル王を兼ねることになったフェリペは、ポルトガルの宮廷に宮廷ココア担当官“チョコラティロ”を設け、これにより、ポルトガルはヨーロッパで2番目にチョコレートを飲用する国となり、植民地のブラジルでもアマゾンを中心にカカオの実が収穫され、大西洋岸の港町、サルバドール(バイーア)から本国向けに盛んに輸出されました。 なお、ポルトガルは1640年、ブラガンサ家のジョアン4世がポルトガル王として即位し、スペインとの同君連合を解消しますが、チョコレートを愛飲する習慣はその後も引き継がれます。 今回ご紹介の切手シートには、左半分に、大西洋を挟んでブラジルとポルトガル本国の地図と現在の板チョコを背景に、アステカ時代の遺跡から出土したカカオの実を手にした先住民をかたどった土器を、右半分には廷臣に囲まれながらチョコレートが注がれるのを待つ国王ジョアン5世(在位1706-50年)を描いた油絵を、それぞれ取り上げた切手が収められています。この1枚で、ブラジルから海を越えてやってきたカカオがリスボンの宮廷で国王も愛飲したチョコレートになるというイメージが表現されているわけです。 なお、シートの余白には色鮮やかなカカオの実が描かれていますが、こちらは、フランスの植物学者エティエンヌ・デニス(1785-1861年)の手になるもので、ポルトガルとは直接の関係はありません。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-16 Wed 11:47
きょう(16日)は、1945年10月16日に国連食糧農業機関(FAO)が創立されたことにちなむ“世界食糧デー”です。というわけで、“食糧”にちなんで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1944年7月、アウシュヴィッツ収容所から、ポーランド南部、カトヴィツェの南30キロの地点にあるプレス(ポーランド語名プシュチナ)宛の郵便物で、受取人に対して、収容者への差し入れの食糧についての注意書を印刷したラベルが貼られています。 ちなみに、使用されている用紙は、収容所から収容者に対して支給されたレターシートには、宛名面に印刷されている注意書が7ヶ条のモノと6ヶ条のモノがありますが、今回ご紹介のものは6ヶ条のタイプです。 さて、アウシュヴィッツの収容者に対しては、外部から食糧などの差し入れが可能で、そのため、収容者が家族・関係者に送る手紙の多くは、自分への差し入れがきちんと届いていることを報告してます。ただし、食品の場合には、収容者の手元に届くまでに傷んでしまうなどのトラブルも多かったようで、そうしたことを防ぐため、収容者からの発信に、今回ご紹介のようなラベルを貼って、収容者へ郵便物を送る人への注意を呼び掛けることも行われました。 その文面は、以下の通りです。 夏半期の小包に関する注意 生の果物、キュウリ、トマト、桃、プルーンなど、さらに、焼き立てのパンなどの腐りやすい食品は気温の高い時期には送ることができない。フレッシュジュース、ガラス容器や瓶に入った液体は破損により同封の荷物や他の荷物を汚損する可能性があるので、送ることができない。 きちんとした包装をすること。 書留書状、書留小包、保険付き書状、速達小包は送ってはならない。普通郵便と(特殊扱いにしていない)小包のみを受け付ける。それ以外のものは差出人に返戻される。 郵便検閲所 さて、2015年に刊行した拙著『アウシュヴィッツの手紙』ですが、おかげさまで在庫がほぼなくなりつつあります。また、同書の刊行以降、 Postal History of Auschwitz 1939-1945 と題するコレクションを、2017年のブラジリア、2018年のエルサレムと2度の世界切手展に出品し、マテリアルもかなり充実してきました。 そこで、このたび、2015年の拙著の増補改訂版を出版することになりました。すでに初校の作業は終了しており、現在、最後の編集作業を進めているところです。正式な発売日や定価など、詳細が決まりましたら、このブログでもご案内していきますので、よろしくお願いいたします。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-15 Tue 02:11
13日に投票が行われたテュニジア大統領選挙の決選投票で、憲法学者でテュニス大学教授のカイス・サイード氏が得票率7割を超えて初当選しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2014年、テュニジアの現行憲法採択に際して発行された記念切手です。 テュニジアでは、2011年1月14日、“ジャスミン革命”でベンアリ政権が崩壊した後、下院議長だったフアド・メバザが暫定大統領に就任。彼の下で、同年10月23日に制憲議会選挙(定数217)が実施され、アンナハダ(イスラム政党・90議席)、共和国のための会議(中道左派・30議席)、エタカトル(社会民主主義・21議席)の3党による連立政権が成立し、12月13日、共和国のための会議のムンセフ・マルズーキーが暫定大統領に就任しました。 しかし、その後の政権運営をめぐって、イスラム系政党による暫定政権と世俗政党を含む野党側との対立が激化し、議会が機能不全に陥ったため、2013年、対立する与野党の仲介役として、最大労組のテュニジア労働総連盟(UGTT)や経営者団体の産業商業手工業連合、人権擁護連盟、全国弁護士会の4者によりテュニジア国民対話カルテットが結成され、その仲介により、制憲議会再開の道筋が整えられました。 その後、2014年1月26日、制憲議会は新憲法案を承認。マルズーキ暫定大統領の署名を経て施行され、現在に至っています。 2014年の新憲法は、イスラムを国教として規定する一方、法源とは明記せず、世俗国家として人権尊重や男女平等、信教の自由などを規定。また、大統領が国防と外交、首相が主な行政権を握るなど権力を分散しているのが特徴です。ちなみに、サイード新大統領は、憲法制定委員会の専門員として、新憲法草案の作成にも関わっています。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-14 Mon 02:35
現在開催中のラグビーW杯は、きのう(13日)、1次リーグA組の日本が28-21でスコットランドを破り、4連勝で初の決勝トーナメント進出を決めました。というわけで、きょうはこんなものを持ってきました。。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2007年に英国が発行したスコットランド地方切手(シール式)で、スコットランドの紋章にも取り上げられている“赤いランパント(左後足で立ち上がり右後足を前に出しているライオン)”が大きく描かれています。 英国の地方切手は、もともと、第二次大戦後、ドイツによる占領から解放されたチャンネル諸島の観光宣伝のため、1940年代後半に提案された企画でしたが、その時点では実現せず、1958年以降、同諸島の他、マン島、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの各地で、エリザベス女王の肖像に各地の紋章やシンボルマークなどを入れた、その地域専用の切手として実現しました。 今回ご紹介の切手に取り上げられた赤いランパントは、“獅子王”と呼ばれたスコットランド王ウィリアム1世(1143-1214)が制定しました。なお、ランパントの紋章は、スコットランド王のほか、ベルギー王、ノルウェー王、フィンランド王など、欧州の王家では広く用いられています。 そういえば、プロ野球でも、パリーグのクライマックスシリーズ(CS)ファイナルステージで、リーグ優勝の埼玉西武ライオンズがリーグ戦2位の福岡ソフトバンクホークスに4連敗し、日本シリーズ進出を逃しましたね。どうやら、日本では、きのうは“眠れる獅子”の日だったようです。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-13 Sun 02:10
大型で強い台風19号の影響で、神奈川県足柄下郡箱根町では、きのう(12日)、1日の雨量が942.5mmとなり(降り始めからだと1000ミリを超えています)、1日の雨量としては全国の観測史上最大の大雨となりました。これまでの記録は、2011年の台風6号での高知県馬路村魚梁瀬の851.5mmで、箱根の10月の降水量の平年値330mmの3倍以上の雨が1日で降ったことになります。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1961年10月8日に発行された“国際文通週間”の切手で、歌川広重の『東海道五十三次』保永堂版の「箱根」が取り上げられています。 箱根宿は東海道五十三次の10番目の宿場で、1618年、箱根山にかかる箱根峠と箱根関所の間の狭い地域に設置されました。広重の作品は、岩肌をあらわにした険しい山の細道を大名行列が進んでいくさまを描いたもので、背景の芦ノ湖と、遠くにはかすかに白い富士山も見えます。 カラフルな彩色でモザイク状に構成された山肌の描写はフランスの印象派にも大きな影響を与えたといわれており、広重の作品の中でも傑作のひとつとされています。なお、絵面の中央に描かれている山は、駒ヶ岳とも二子山とも推測されていますが、実際には、それらを合わせて印象的に描いたものと考えるのが妥当なようです。 ちなみに、この切手が発行された1961年は10月1日に郵便料金の改正があり、外国宛船便書状の基本料金は30円から40円に値上げされています。ところが、新料金が正式に決定されたのは、この切手の印刷が校了となった7月28日のことであったため、郵政省としては、旧料金のままで切手を発行せざるをえなかったという事情があります。 さて、今回の台風19号に関しては、その規模に比べて人的な被害は比較的少なかったとみられていますが、その反面、この記事を書いている時点でも、今回ご紹介の切手にも取り上げた箱根町内で複数の場所で崖崩れが発生したほか、荒川や多摩川をはじめ各地で河川の氾濫や浸水被害が相次ぎ、東京電力管内の約3万1900戸を筆頭に全国で約6万4010戸が停電するなど、東日本を中心に各地の被害は決して小さくはありません。被害の具体的な状況については、今後、明らかになっていくのでしょうが、なにより、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災地の一日も早い復旧・復興を心よりお祈りしております。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-12 Sat 02:24
明日(13日)、都内での開催を予定しておりました武蔵野大学生涯学習秋講座「飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年―」は、大型で非常に強い勢力の台風19号の接近に備えて、12月15日に延期となりました。あしからずご了承ください。
というわけで、告知のみでは愛想がなさすぎるので、“熱帯低気圧に伴う延期”に関するマテリアルの中から、こんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1979年、ハリケーン“デイヴィッド”で深刻な打撃を受けたドミニカ国を救援するため、帰国を延期して同国で活動していた英巡洋艦ファイフから差し出されたカバーです。 1978年11月3日、英領ドミニカは英連邦の1国、ドミニカ国(イスパニョーラ島のドミニカ共和国とは別の国)として独立し、初代首相には、独立以前の自治政府の首相でドミニカ労働党のパトリック・ジョンが横滑りで就任しましたが、1979年6月、首都ロゾーでの暴動発生を機に、ジョン政権は退陣に追い込まれました。 これを受けて、ジョン政権の有力閣僚だったオリヴァー・セラフィンが暫定首相となりましたが、就任早々の1979年8月、ドミニカ国をハリケーン・デイヴィッドが襲います。 ハリケーン・デイヴィッドは、1979年8月25日、大西洋のカーボヴェルデ沖で発生。西進してカリブ海から北米大陸東岸を北上して、9月10日、北大西洋上で消滅しましたが、この間、各地に大きな被害をもたらし、死者総数は2068名にも及びました。このうちドミニカ国の人的被害は56名・負傷者180名でしたが、首都ロゾーは壊滅的な打撃を受け、人口の80%が住居を失い、電力と水道機能は完全に麻痺。主要産品であるバナナ農場も全滅するなど、経済被害は算出不能とされるほど甚大でした。 ハリケーンの発生時、英海軍の巡洋艦“ファイフ”はたまたまカリブ海域での演習を終えて本国に帰還途中でしたが、ドミニカ島が壊滅的な打撃を受けたとの報を受けて、急遽、帰国を延期して救援のためにカリブ海に戻り、ロゾーのマーガレット王女病院の修復、市内中心部から空港までの道路の復旧、死者の埋葬などを行ったほか、バルバドスで米・仏・ベネズエラの救援物資を受け取り、ドミニカへと輸送しています。今回ご紹介のカバーは、こうしたドミニカ島救援時にファイフから差し出されたもので、英国船からの差出のため、英国切手が貼られています。 ちなみに、発足間もないセラフィー政権はハリケーン被害への対応が不十分だったため、労働党政権に対する国民の支持は急落。翌1980年の総選挙では、ユージェニア・チャールズ率いるドミニカ自由党が勝利し、チャールズはカリブ海初の女性首相に就任しました。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-11 Fri 03:57
今年のノーベル文学賞は、オーストリア・ケルンテン州出身の現代作家、ペーター・ハントケが受賞しました。ハントケは、小説、戯曲、詩から放送劇、フランス文学の翻訳まで幅広く活動していますが、やはり、一番有名なのは『ベルリン・天使の詩』(映画脚本、1987年)でしょうか。というわけで、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1950年10月29日、1944年1月30日の空襲で消失したベルリン・フィルハーモニー(コンサートホール)再建の資金を集めるため、東ドイツに囲まれた飛び地の西ベルリンで発行された寄付金付き切手のうち、ファン・エイク兄弟による「ヘントの祭壇画」左上の天使部分を取り上げた30ペニヒ(+5ペニヒの寄付金付き)切手です。寄付金付き切手は、10月29・30日の両日、ベルリン・フィルハーモニーのコンサート会場で発売された後、11月1日から西ベルリンの郵便局で一般発売されました。 切手に取り上げられた「ヘントの祭壇画」は、ヘント(ベルギー)のシント・バーフ大聖堂にある祭壇画で1432年に完成しました。銘文には「誰1人としてしのぐ者のない偉大な画家フーベルト・ファン・エイクが着手し、技術においても彼に続く弟ヤンが、ヨース・フェイトの要請のもとに仕上げた」とあるため、一般には、1426年に亡くなった兄のフーベルトが全体のデザインと構成を担当し、兄の死後、弟のヤンが個々のパネルを絵画として完成させたものと考えられています。 祭壇画は、12枚のパネルで構成されており、そのうち両端の8枚のパネル(翼)が畳んだときに内装を覆い隠すように設計されており、8枚のパネルには表裏で別の絵が描かれています。 切手に取り上げられているのは、内装上段、マリア像の隣、回転式の木製楽譜台の後ろで歌う天使たちを描いた部分で、オリジナルのパネルの大きさは161x 69.3 cm。オリジナルでは、天使たちは全身像ですが、切手では上半身の部分のみがトリミングされています。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 10/1、11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年10月13日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-10 Thu 00:47
スウェーデン王立科学アカデミーは、きのう(9日)、今年のノーベル化学賞を、リチウムイオン電池の開発で、旭化成名誉フェローの吉野彰氏や英オックスフォード大教授だったジョン・グッドイナフ氏らに贈ると発表しました。日本人のノーベル賞は昨年の医学生理学賞を受賞した本庶佑・京都大特別教授に続き2年連続で、化学賞は2010年の鈴木章北海道大名誉教授と根岸英一・米パデュー大特別教授以来9年ぶりです。
これは、2017年にニュージーランドで発行された“マオリ語”の切手シートで、コンピューターや電気自動車など、現在文明の利器を取り上げて、それぞれ、英語とマオリ語で説明する構成になっています。 切手シートの上部には、ノートパソコンに接続して充電しているスマートフォンが描かれていますが、今回、ノーベル化学賞の受賞対象となった業績のリチウムイオン電池は、ほぼすべてのスマートフォンや携帯電話で使われています。 今回、ノーベル賞を受賞した旭化成工業の吉野氏らは、白川英樹氏(2000年ノーベル化学賞)が1977年に発見した電気を通すプラスチックの“でポリアセチレン”に注目。1983年にコバルト酸リチウムを正極、ポリアセチレンを負極に使ったリチウムイオン電池を試作し、さらに、1985年には熱に強く、小型化できる炭素材料を負極に使い、リチウムイオン電池の基本形を完成させました。 その後、1991年、ソニー・エナジー・テックが世界で初めてリチウムイオン電池を商品化。さらに、1993年、旭化成工業と東芝との合弁会社であるエイ・ティーバッテリーが商品化、1994年には三洋電機により黒鉛炭素質を負極材料とするリチウムイオン電池が商品化されています。 ちなみに、今回ご紹介の切手に取り上げられている品物は、マオリ語では以下のような単語に訳されています。 ・携帯電話 Waea Pūkoro': waea は19世紀に英国が電信を敷設した際の“wire”から転訛した語で“電話”の意。 pūkoro は伝統的なマオリ語で“柔らかい容器”や“ポケット”などを意味する語です。 ・テキスト Pātuhi: pā は“触る”、tuhi は“書く”ないしは“指し示す”を意味する語です。 ・コンピューター Rorohiko: “脳”を意味する roro と、もともとは“明かり”を意味し、近代以降は“電気”の意味も持つようになった hikoとの合成語です。 ・フラッシュ・ドライブ(USBメモリー) Pūmahara: pū は“機械”ないしは“装置”を意味する pūrere に由来する語、mahara は“記憶”を意味する語で、合成語としては、直訳すると“記憶装置”になります。 ・Wi-Fi Ahokore: aho は“コード、線、紐”などを意味する語、kore は“無”を意味しますので、直訳すると“無線”の意味です。 ・パスポート Uruwhenua:“入る”を意味する uru と“土地、国家”を意味する whenua の合成語です。ニュージーランドでは、1993年以降、英語版のみならず、全編マオリ語のパスポートも発行されています。 ・空港 Taunga Rererangi: . taunga は“港”、rererangiは“飛ぶ”を意味する rere+“空”を意味するrangi の合成語で、あわせて空港の意味となります。 ・GPSシステム Pūnaha Kimi Ahunga: pūnaha は“(あらゆる種類の)システム”、kimi は”見つける”ないしは“探す”、ahunga は“居場所”ないしは“目的地”の意味で、GPSはマオリ語での略語では PKA になります。 ・摩天楼 Whare Tīkoke: whare は“建物”、tīkoke は“至高の天”を意味する語です。 ・電気自動車 Waka hiko: waka は“乗り物”、hiko は“電気”を意味します。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 10/1、11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年10月13日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-09 Wed 02:25
きょう(9日)は、1967年10月9日に亡くなったチェ・ゲバラの命日です。というわけで、この1年以内にキューバが発行したゲバラ切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2019年4月9日にキューバで発行された“『ベルデ・オリーボ』誌60周年”の記念切手で、同紙のカミーロ・シエンフエゴスを表紙にした号と、ゲバラの横顔を表紙にした号、それに軍の機関誌として銃を並べて構成したデザインになっています。 『ベルデ・オリーボ』誌は、キューバ革命軍の機関誌として、キューバ革命直後の1959年4月10日に創刊されました。誌名は革命軍の軍服の色(オリーブ・グリーン)にちなむもので、創刊当初はタブロイド判8頁でしたが、その後16頁になり、1959年末には週刊となりました。その後、1988年から1990年11月までは月刊誌となり、現在は隔月刊となっています。 ゲバラは“狙撃兵”のペンネームで『ベルデ・オリーボ』に精力的に寄稿しており、彼の主著の一つで、ゲリラ時代の体験をもとに書かれた『ゲリラ戦争』も、『ベルデ・オリーボ』に寄稿した論説がもとになっています。 『ゲリラ戦争』は、冒頭、「人民の勢力は政府軍に対する戦闘に勝利できる。革命の条件が熟すまで待ってはならない。蜂起の核(フォコ)がその条件を作り出す。そしてラテンアメリカにおいて武装闘争の場は基本的には農村でなければならない」と述べて、革命の初期段階においては、まず何よりも行動を起こして“核”を作ることが重要だとする“フォコ理論”を展開していますが、『ゲリラ戦争』の出版後も、『ベルデ・オリーボ』はフォコ理論を宣伝するための重要な媒体でした。 ちなみに、ゲバラと彼のフォコ理論については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年10月13日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-08 Tue 15:05
スリランカ選管は、きのう(7日)、11月16日に予定されている大統領選挙に、マヒンダ・ラージャパクサ前大統領の弟、ゴタバヤの出馬を認める決定を下しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ラージャパクサ政権による権力の腐敗・私物化と対中傾斜の象徴とされるマッタラ・ラージャパクサ国際空港の開港を記念して発行された切手です。 同空港は、中国政府から1億9080万ドルの融資を受け、2013年、ハンバントータ港近くのマッタラで開港しましたが、最盛期でも、利用者が1日10人程度で“世界で最も空いている空港”と揶揄されていました。当然のことながら、経営不振は深刻で、2015年の政権交代後、スリランカ航空は全線撤退。一時はコメの備蓄倉庫にも利用されていました。負債総額は1億ドルにも及んでおり、中国が権益の獲得を企図していると目されています。 今回、出馬資格が認められたゴタバヤは、セイロン独立後間もない1949年6月20日、ハンバントータ郊外でシンハラ人仏教徒の家庭に生まれました。父のドン・アルウィンは独立運動家で、1948年の独立後は国会議員も務めた政界の重鎮で、兄のマヒンダは1967年に亡くなった父の威光を背景に、1970年にスリランカ史上最年少の25歳で国会議員に初当選して政界入りし、以後、スリランカ自由党(SFLP)政権下で、労働・職業訓練大臣や漁業・水産資源開発大臣を歴任。2004年、SLFPのオーナー一族ともいうべきバンダラナイケ家のチャンドリカ・クマーラトゥンガ大統領の下、首相に就任しました。 ゴタバヤは、1972年に国軍に入隊。1983年7月23日、“タミル・イーラム解放のトラ (LTTE)”との内戦が勃発すると、セイロン島北部のヴァダマラッチの解放作戦に従軍したほか、LTTE掃討戦に活躍し、1992年、ジョン・コタラワラ防衛大学校副校長を最後に退役し、米国に移住しました。 2005年の大統領選挙で兄のマヒンダが当選すると、ゴタバヤは帰国し、米国の市民権を維持したまま、国防次官(国防大臣は兄のマヒンダが大統領と兼任)に指名され、内戦の終結に力を注ぎました。 ところで、スリランカの内戦には、1980年代、LTTEと同じタミル人を国内に抱えるインドが介入し、インド軍がスリランカ国内に駐留していたこともあり、マヒンダは、インドの影響力拡大を防ぐため、インドの敵国である中国とパキスタンの支援を積極的に仰ぐことを決断。この戦略は、2004年以降、南アジアへの本格的な投資を開始した中国の政策とも合致することになります。 一方、国内政治においては、マヒンダは、議会の多数派工作として、2007年1月に内閣改造を実施し、54人もの大臣を任命。その中には、教育相や農相がいるにもかかわらず、“高等教育相”や“家畜相”など屋上屋を架すポストも新設され、副大臣も含めると、与党の国会議員114人のうち、9人を除き、何らかのポストが就任。こうした露骨な利益誘導により議員を懐柔し、権力基盤を固めていきました。 2009年、スリランカ政府軍はLTTEを滅ぼして全土の実効支配を回復。その実績をもって2010年の大統領選挙で再選されたマヒンダは、同年10月、憲法を修整して大統領の三選禁止などを撤廃して独裁的な傾向を強め、親族の不正な登用や大統領への権力集中をはかるとともに、不正蓄財に精を出すようになりました。 ところで、中国の胡錦濤政権は、2008年以降、“真珠の首飾り戦略”としてインド洋侵出を加速しましたが、マヒンダは積極的にそれに加担することで、港湾整備や道路建設事業への“支援”名目で巨額の借款を獲得しました。 その典型とされる、セイロン島南部のハンバントータ港の建設は2008年から始まり、2010年までの第一期工事は中国が費用の85%を借款で支援し、中国の国有企業、中国港湾工程公司が担当して行われました。西部のコロンボ、東部のトリンコマリーなど、他の主要港と比べると、都市部からのアクセス整備は遅れており、港湾の稼働率は低迷していますが、“真珠の首飾り戦略”においては重要な拠点であるため、2014年には中国海軍の宋級潜水艦など複数の中国艦船が寄港しています。 こうした状況の下で、2015年1月に行われた大統領選挙では、マイトリパラ・シリセーナ前保健相がいったんSLFPを離党したうえで野党統一候補となり、ラージャパクサを下して当選しました。 シリセーナは、ラージャパクサ政権による文字通り“売国”的な対中依存とそれに付随する不正蓄財を批難。「スリランカは浅はかな外交政策、戦略によってイメージが破壊され、急速に国際社会からの孤立を深めていた」との認識の下、今後は「アジアの主要国であるインド、中国、パキスタン、日本との友好関係を強化し、新興国との関係も区別せず促進する」と宣言します。 シリセーナ政権は、UNPのウィクラマシンハ元首相を首班とする挙国一致内閣を組織し、大統領の権限を縮小して民主化を進めるとともに、対中依存路線の修正を試みましたが、政府の絶対的な資金難はいかんともしがたく、ハンバントータ港建設の借款免除と引換に、2017年8月、向こう99年間の港湾運営権を11億ドルで中国企業に貸し出す契約が締結されました。 中国企業との屈辱的な契約を結局は阻止できなかったことで、スリランカの政局は、国内産業の保護を重視する大統領と、インドとの経済関係強化を目指す首相が対立。議会は首相派が多数を占めているため、政府提出の法案はことごとく否決され、政治は機能不全に陥ります。 これにいらだったシリセーナ大統領は、2018年10月 ウィクラマシンハを首相から解任。内戦を終結させた剛腕に期待し、政権の安定化を目指すとして、マヒンダを後継首相に指名したことから、ウィクラマシンハは自らの解任の無効を訴えてポストに居座り、大統領派と(前)首相派がそれぞれ議会の多数派工作を展開する事態となりました。 このため、11月9日、シリセーナは議会を解散し、来年1月5日に総選挙を行うとしましたが、反大統領派は解散を憲法違反だとして提訴。これに対して、11月13日、最高裁は大統領が宣言した議会解散の効力を差し止めたことから議会が招集され、翌14日、ラージャパクサ首相に対する不信任決議が賛成多数で可決されました。これを受けて、12月3日、裁判所はラージャパクサ首相の権限を差し止める命令を出したことに加え、13日には最高裁が大統領による議会の解散を違法と判断。追い詰められたラージャパクサは15日に辞任し、翌16日にウィクラマシンハがシリセーナ大統領より再び首相に任命されたことで、とりあえずの混乱は収束されました。 11月の大統領選挙は、5年の任期満了を前倒しして行われるもので、今月6日、現職のシリセーナが再選断念を表明したこともあり、現状では、ゴタバヤが最有力候補です。ゴタバヤが当選した場合、兄のマヒンダが首相に指名されることが確実視されており、スリランカが再び過剰な中国傾斜に走る可能性は大いにあります。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年10月13日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-07 Mon 01:57
1949年10月7日、今はなき“ドイツ民主共和国(東ドイツ)”が建国されてから、70周年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1957年、東ドイツが発行したスターリン・アレー(現カールマルクス・アレー)の風景を描く20ペニヒ切手です。 第二次大戦に敗れたドイツは、オーデル川とその支流のナイセ川を結ぶオーデル=ナイセ線以東の領土を失い、米英仏ソが分割占領します。占領区域は、オーデル=ナイセ線以西を東西に2分したうえで、東半部をソ連が、西半部の北部をフランスが、中部を英国が、南部を米国が担当。首都ベルリンに関しては、東ベルリンはソ連、西ベルリンは米英仏の3国の統治下におかれ、西ベルリンはソ連占領地に囲まれた飛び地となります。 ただし、占領初期の段階では、一般市民による東西ベルリンの往来は自由で、西ベルリンにはソ連占領地区から電気・ガス・水道が供給されていました。 第二次大戦後、ソ連占領下の中東欧で共産政権が次々と成立すると、米国は対ソ封じ込めに乗り出し、その具体策として1947年6月、全ヨーロッパ諸国への経済援助計画(マーシャル・プラン)を発表します。 この時点では、戦前からのライヒスマルクが占領下のドイツの共通通貨としてそのまま使われていましたが、昂進するインフレ対策として、1948年5月、米英仏の3国占領地区では通貨の切り下げを計画。6月18日、ベルリンを除く西側占領地区で、同20日以降、戦前から使用されていたライヒスマルクとさらにそれ以前のレンテンマルクを新規のドイツマルクへと強制的に切り替えることが発表されると、ソ連占領地区へは使用禁止となった旧マルクが大量に流入。インフレのさらなる悪化は避けられなくなりました。 そこで、ソ連は東西ベルリンの往来を禁止し、橋の破壊や国境の封鎖などにより、西ベルリンと外部の交通も遮断。さらに、新マルクが実際に発行されると、23日、ソ連は、対抗措置として、自らの占領地区と全ベルリン地区の通貨改革を発表します。そして、26日以降、ソ連占領地区と全ベルリンで旧マルクと西側の発行したドイツマルクを無効にし、ソ連側が用意した証紙付き紙幣を流通させようとしました。 これに対して、米英仏は、ソ連の措置はベルリンの共同管理に違反すると抗議しましたが、ソ連はこれを無視し、西ベルリンへの送電を停止し、物資の流通も禁止。西ベルリンの住民数十万を人質として、米英仏に譲歩を迫りました。 これが、いわゆる(第1次)ベルリン危機です。 ベルリン危機が発生すると、米英仏は、それまで西ベルリンには適用しないとしていた通貨改革を西ベルリンでも実施。ソ連に対して徹底的に抵抗する姿勢を示すとともに、米国を中心とする西側占領軍当局は、西ベルリン地区住民を救済するため、ただちに食糧・物資の空輸を開始しました。 こうした西側の強硬姿勢の前に、最終的にソ連も妥協を余儀なくされ、1949年5月、西ベルリンの封鎖は解除されましたが、ソ連と西側諸国との対立は決定的なものとなります。 その結果、1949年5月8日、西側占領地区の憲法制定会議が「ドイツ連邦共和国基本法」を可決し、同月23日、米英仏の西側統治諸州にボンを首府とする連邦共和国臨時政府が成立。9月7日の連邦議会開会、9月13日のテオドール・ホイス大統領就任、9月15日のコンラート・アデナウアー首相就任を経て、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が正式に発足します。 これに対抗して、ソ連占領地域では、同年10月7日、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の成立が宣言され、1990年のドイツ統一にいたるまで、ドイツには東西の2政府が併存する状況が続くことになりました。 今回ご紹介の切手に取り上げられたスターリン・アレーは、上述のような経緯で東ドイツが形成されていく過程で、ソ連占領下の東ベルリンの戦後復興の目玉として造成されました。アレクサンダー広場からフランクフルト門まで全長約2.5km、道幅90mの並木大通りとなっており、門外では、フランクフルト方面へ延びるフランクフルト・アレーに接続しています。 この並木大通りは、東ドイツ国家発足後、スターリン生誕70周年記念日の1949年12月21日(スターリンの実際の生年月日は1878年12月18日ですが、1922年に権力を掌握した後、彼は自身の誕生日を“1879年12月21日(ユリウス暦:12月9日)”とし、以後、この日が“スターリン誕生日”として祝われていました)にあわせて開通式典が行われ、スターリンへの忠誠を示すため、スターリン・アレーと命名されました。 その後、1952年から1960年にかけて、沿道にはスターリン様式の建造物が建立されましたが、その過程で、1953年6月16日、政府のノルマ引き上げに反対するストライキが発生し、そこから東ベルリン暴動へと発展しました。今回ご紹介の切手は、暴動後の1957年に発行されたもので、左側にはスターリン像も見えます。 その後、スターリン批判を受けて、1961年、スターリン・アレーは現在のカール・マルクス・アレーに改称され、東ドイツ消滅までメーデーや建国記念日(10月7日)にはパレードが行われていました。現在でも、通りの両側には東ドイツ時代の建造物が多く残されており、“東ドイツ”とその時代を体感できる空間となっています。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年10月13日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-06 Sun 01:00
現在開催中のラグビーW杯は、きのう(5日)、1次リーグA組の日本が38-19でサモアを破り、3連勝しました。というわけで、きょうはサモアの切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1900年に発行されたドイツ領サモアの加刷切手です。 サモア諸島は1722年にオランダ人の探検家ヤーコプ・ロッヘフェーンが“発見”した後、1830年、英国人宣教師が布教活動を開始し、西洋人の往来が本格化します。 1857年、ハンブルクのゴーデフフロイ商会はサモアを拠点に、南洋各地との貿易を開始。これに続いて、米英もサモアに拠点を置くようになり、1878年には米国が海軍の石炭供給基地として東サモアのパゴパゴを併合します。さらに、1888年、サモアで大規模な部族間抗争が発生すると、英米独の各国はこれに介入。最終的に、1899年、ドイツが西経171度以西の西サモアを、米国が子午線以東の東サモアを領有し、英国はサモア諸島の権益を放棄する代わりにトンガ諸島とソロモン諸島を領有することが決められました。 これを受けて、1900年3月1日、ドイツはアピアにドイツ国旗を掲揚して、西サモアの統治を開始しました。今回ご紹介の切手は、これに伴い、ドイツ切手にサモアの地名を加刷して発行したものです。 その後、第一次大戦でドイツが敗れると、西サモアはニュージーランドの委任統治領となり、1962年に立憲君主国(4つの大首長家から国家元首の大首長を選挙で選ぶ選挙王制)として独立しました。当初の国名は“西サモア”でしたが、1997年、“サモア独立国”に改称され、現在に至っています。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 10/1、11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年10月13日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-05 Sat 08:06
香港の林鄭月娥行政長官は、きのう(4日)、諮問機関、行政会議の臨時会合を開き、「緊急状況規則条例」(緊急条例)を発動し、デモ参加者のマスク着用を禁止する“禁蒙面法(覆面禁止法)”を緊急立法で制定。本日0時から施行しています。というわけで、香港の蒙面(覆面)に関するマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2004年に香港で開催されたアジア国際切手展<HONG KONG 2004>を記念して発行された切手シートの1点で、春節のパレードが取り上げられています。切手部分には、鯉のお面をかぶって練り歩く人々が取り上げられています。 中国語では、“魚”と“餘(余)”が同じ発音になるので、「毎年いい収穫がある」ないしは「毎年お金や食べ物に余裕がある」を意味する「年年有餘(余)」=「年年有魚」は縁起の良いフレーズとされ、縁起物にもしばしば“魚”が登場します。今回の切手シートに取り上げられたお面のパレードも、このことを踏まえたものです。 さて、昨日の会見で、長官は、デモ参加者は身元を隠すためにマスクなどを着用しているが、そのことが、彼らの行動をエスカレートさせているとして、マスクの着用を禁止しした理由を説明しています。 2003年の重症急性呼吸器症候群(SARS)流行をきっかけに、香港市民の中には、デモとは無関係に、感染予防のためマスクをしている人も多くいるため、今回の禁止法でも、宗教(ムスリムの女性のヒジャーブなどを意味していると思われます)および健康上の理由でのマスク着用は例外として(条文の上では)認められています。とはいえ、8月末には、警察官が地下鉄に乗り込んで無差別に一般市民を暴行する事件も発生しており、純粋に風邪をひいてマスクをしているのに逮捕されるおそれもぬぐえないため、香港教育庁では、生徒・学生に対して「とにかく、病気になったら家から出ないように」とのメッセージを出しています。 また、緊急条例が発動されたことで、今後、行政長官は夜間外出禁止令やメディアの検閲、港湾や輸送の管理も実施できることになるため、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)の報道官も、4日の会見で、「デモに対処するための新たな措置は法に基づき、集会の自由が守られるべき」と指摘したうえで、「いかなる武力の行使も例外的措置であるべきで、必要性・均衡性の原則などの国際法に則ったものでなくてはならない」と警鐘を鳴らしています、 ちなみに、 香港で前回の緊急法が発動されたのは、中国大陸の文化大革命の影響で左派騒乱(67暴動)が発生した1967年5月23日のことでした。当時の状況については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年10月13日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-04 Fri 03:27
1976年にウガンダのエンテベ国際空港で起きたエンテベ空港奇襲作戦を題材にした映画『エンテベ空港の7日間』が、きょう(4日)から公開されます。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1994年、ウガンダが発行した“国際民間航空機関50周年”の記念切手で、エンテベ国際空港の管制塔(当時)が描かれています。 1971年の軍事クーデターでウガンダの政権を掌握したイディ・アミンは、当初、穏健な国家運営を行っていましたが、1972年2月、突如、ユダヤ系の国外退去を命じ、イスラエルと国交を断絶。さらに、同年8月には、英保護領時代に入植したインド系住民を国外に追放します。当時、ウガンダの卸小売業や医療関係はインド系が中軸を担っていたため、国内の流通は麻痺状態に陥り、医療関係も大きな打撃を受けました。この他にも、前大統領のオボテ支持者と疑われた国民に対する弾圧も苛烈をきわめ、1979年までに約30万人(40万人説もあり)が虐殺され、農業生産も激減し、国民生活は困窮しました。 こうした状況の下、1976年6月27日、ギリシャのアテネ国際空港を離陸したパリ=シャルル・ド・ゴール空港行きのエールフランス139便が、パレスチナ解放人民戦線・外部司令部(PFLP-EO)および西ドイツのテロリストグループ“革命細胞”のメンバーによりハイジャックされ、248人の乗客とミケル・バーコス機長以下12人の乗員が、リビア・ベンガジのベニナ空港を経てウガンダのエンテベ国際空港に強行着陸させられました。 エンテベ国際空港に到着後、さらに4人のテロリストがウガンダ政府の支援を受けてハイジャック機に合流。256人の乗客はイスラエル人およびユダヤ人を残し解放されましたが、残された乗客はエンテベ国際空港のターミナルビルのトランジット・ホールで人質となります。犯人グループはイスラエルで服役中のテロリスト40名に加えてドイツ・フランス・スイスなどで服役中のテロリストの釈放を要求し「要求が応じられない場合人質を殺害する」として脅迫。これに対して、ウガンダ大統領のアミンは自ら空港に出向いて人質と会見し「人質の解放に向けてイスラエル政府と交渉を行う」とTVカメラの前で語り、中立の立場を装っていました。 これに対して、イスラエルのイツハク・ラビン首相は、人質の解放に向けてアミンと直接交渉を行うのみならず、米ソ両国通じてアミン大統領に交渉を働きかけるなど多数の政治的手段を試みましたが、交渉は難航。ラビンも一時はパレスチナ人テロリストの釈放を検討しています。 これと並行して、イスラエル国防相のシモン・ペレスは、イスラエル国防軍に対して解放作戦の検討を指示。イスラエル国防軍は後述のようにエンテベ国際空港の構造やウガンダ軍の配置状況、解放された人質からテロリストの配置状況について情報を収集し、綿密な計画を立てて、「軍事的手段の行使による人質の解放は可能」との報告書をぺレスに提出します。このため、 ラビンは軍事的手段による人質解放作戦「オペレーション・サンダーボール(サンダーボルト作戦)」 の実施を決断しました。 4機のイスラエル国防軍のロッキードC-130輸送機と100名以上のイスラエル兵は、サウジアラビアなどのアラブ諸国(=イスラエルにとっての敵国)上空を避けながら紅海沿岸を飛行し、アフリカ大陸を南下して、7月3日、エンテベ国際空港に到着。ウガンダ軍の護衛車両を装ったランドローバーを伴った黒いメルセデス・ベンツ600がターミナルに向かったところ、ウガンダ兵が確認と敬礼のためにメルセデスに近づいた時にイスラエル兵が発砲しことから、イスラエル兵とウガンダ兵との戦闘が始まりました。 戦闘そのものは約3分間で終了し、6名のテロリストが死亡。人質105名のうち3名がイスラエル国防軍による誤射で死亡しましたが、イスラエル国防軍は空港全域を制圧し、救出された人質は、ナイロビのジョモ・ケニヤッタ国際空港経由でテルアビブのベン・グリオン国際空港に移送されました。 なお、事件の舞台となったエンテベ国際空港は、1951年の開港以来、老朽化が進んだため、2015年から中国の資金援助を得て、韓国企業により改修工事が進められています。これに伴い、事件の舞台となった旧ターミナルは、切手に取り上げられた管制塔を残して取り壊されましたが、管制塔には、現在なお、事件当時の生々しい銃痕が残されているそうです。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年10月13日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-03 Thu 02:24
きょう(3日)は、韓国では、建国神話で朝鮮族の祖とされる檀君王倹(以下、檀君)が即位して檀君朝鮮を建国したことを記念する“開天節”です。というわけで、この切手をもってきてみました。((画像はクリックで拡大されます)
これは、1948年8月1日、米軍政下の南朝鮮で発行された“憲法公布”の記念切手のうち、太極旗を取り上げた10ウォン切手のコーナー田型で、上部には檀君の即位を紀元とする檀紀年号(この切手の場合は4281年)がしっかり入っています。ちなみに、この切手は檀紀が入れられた最初の切手でもあります。 檀君は天神桓因の子桓雄と熊女との間に生まれたと伝えられる伝説上の人物で、西暦13世紀末に書かれた『三國遺事』によると「堯(中国の伝説上の皇帝)の即位から50年目」に即位したとされています。このほか、『東國通鑑』の記述などを根拠に、檀紀は西暦の紀元前2333年を元年と設定しています。 大韓民国政府の成立に先立ち、1948年7月17日に公布された大韓民国憲法(1948年憲法)の前文は、「我々の正当かつ自由に選挙された代表により構成された国会で檀紀4281年7月12日この憲法を制定する」と結ばれていますが、この時点では、米軍政下の南朝鮮での正式な年号表記は西暦で行われていました。ただし、今回ご紹介の切手に関しては、憲法公布という題材で、その憲法には壇紀が記されているので、切手にも檀紀の表示が入れられたものと考えられます。ちなみに、この切手の国名表示は“大韓民国郵票”となっていますが、切手が発行された1948年8月1日の時点では、“大韓民国”もまだ(正式には)存在していません。 大韓民国成立後の公文書での檀紀の使用に関しては、1948年9月25日、「年号に関する法律」(法律第4号)が制定されたことで法的な根拠が与えられました。ただし、現代韓国の檀紀は、西暦の紀元前2333年を紀元としてはいるものの、暦法としては太陽暦を採用しており、その意味では、太陰暦に依拠していたはずの古代朝鮮の暦との連続性はありません。 以後、1961年末に朴正煕政権下で年号廃止の法令が制定され、西暦に一本化されるまで、韓国の公文書には壇紀での日附が使用されており、国内向け郵便物の消印にも檀紀年号(の下2桁)が使用されていました。 なお、このあたりの事情については、拙著『朝鮮戦争』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 * 昨晩(2日)、アクセスカウンターが210万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年10月13日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-02 Wed 01:08
昨日(1日)、香港では、中国の国慶節に合わせて中国と香港の両政府に対する大規模な抗議デモが10カ所以上で行われ、デモ隊と警察が激しく衝突。新界地区の荃灣では、警察官が実弾を発砲し、18歳の男子高校生が左肩を撃たれて重体となりました。一連の抗議デモで参加者が実弾で撃たれたのは初めてです。というわけで、きょうは事件現場の荃灣にちなんで、こんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、英領時代の1995年5月24日に香港で発行された“香港郊區傳統建築物”の切手のうち、荃灣の三棟屋を取り上げた切手の校正刷シートで、切手を製造したオランダのエンスケーデ社内で回校するため台紙に貼られ、余白には、担当者のサインと日付が入っています。 切手に取り上げられた三棟屋は、18世紀中ごろ、廣東から新界地区西部の荃灣に移住してきた客家の陳氏が1786年に建立した客家圍村です。圍村は外敵の攻撃から一族を守ることを想定して、一族の住む集合家屋ないしは村を城壁で囲んだもので、三棟屋は、香港に残る客家圍村の中では最古のもののひとつとされています。 1970年代までは実際に住居として利用されていましたが、荃灣地区の再開発および鉄道建設のために住民は立ち退き、残された一部の建物が1981年に法律に基づいて古蹟に指定されました。その後、改修工事を経て、1987年以降は“三棟屋博物館”として公開されています。 敷地面積は約2000平米で、南側中央の正門には“陳氏家祠”の文字が掲げられています。敷地内には、建物が碁盤目状・左右対称に配置され、北側の奥には先祖を祀る祠堂が置かれています。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年10月13日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-01 Tue 01:17
1869年10月1日、オーストリアで世界最初の郵便葉書が発行されてから、きょうで150周年です。というわけで、きょうはこんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1869年10月1日に発行された世界最初の葉書の使用例です。 近代以前の郵便では、洋の東西を問わず、通信文は途中で他人に読まれないよう、封筒に入れたり、別の紙に包んだり、あるいは、折りたたむなどして裏側に宛名を書いたりする(時代劇に登場する巻紙もその一種です)のなどするのが常識でした。 したがって、1840年に英国で世界最初の切手が発行された際にも、郵便料金込みの封筒(その封筒に通信文を入れれば、切手を貼らなくても郵便物として差し出すことができるモノ)としてマルレディ・カバーは発行されましたが、葉書に相当するものを発行しようという発想はありませんでした。 その後、切手を使った近代郵便制度は英国から世界に拡大していきましたが、1865年、南ドイツのカールスルーエで開催された第5回郵便会議で、ハインリッヒ・フォン・シュテファンが新たな通信手段として“ポストブラット”(官製はがきの前身ですが、印面は印刷されていないもの)を提案します。 フォン・シュテファンは、1831年、プロイセンの支配下にあったシュトルプ(現在のポーランド領スウプスク)生まれ。1849年、18歳でプロイセンの郵便事業に関わり、ハプスブルク帝国の庇護を受けて中欧の郵便事業を担っていたトゥルン・ウント・タクシス家の郵便事業をプロイセンが接収する際の交渉に辣腕をふるったほか、1874年に国際的な郵便交換の組織として一般郵便連合(現在の万国郵便連合の前身)を設立する立役者となった人物です。 フォン・シュテファンの提案は通信文が見えるような形で配達するなど“不道徳”であるとして一蹴されてしまいましたが、4年後の1869年、オーストリアの経済学者エマヌエル・ヘルマンは『ノイエ・フライエ・プレッセ』紙に「郵便による新しい通信手段について」という論文を投稿。“ポスト・テレグラム”という名で、20語以内の通信文が書かれたカードを低料金で配達するシステムを提案。これに対して、ハプスブルク帝国の商務大臣が賛意を示し、1869年10月1日、ハプスブルク帝国は世界で最初の官製はがきを発行します。 このときの葉書は、すでに現在の葉書とほぼ同じ形式で、印面の印刷されている面に宛名を書き、裏面に通信文を書くようになっていました。なお、ヘルマンの提案では通信文は20語以内という制約がありましたが、実際の葉書では語数の制限は撤廃されています。その一方で、フォン・シュテファンの提案に対する“不道徳”という批判に考慮して、下の画像に示すように、通信スペースの下には「(逓送途中で誰かに読まれたり、汚損・改ざんされたりしても)郵便局は通信文の内容に責任を負わない」との注意書きが印刷されました。 なお、その後、葉書の制度は各国でも導入され、1871年に近代郵便を創業したわが国でも、1873年に最初の葉書として、半銭(市内用)と1銭(市外用)の2種類が発行されました。消費増税によって本日から改定される新料金では、葉書は63円ですので、市外用との比較で単純計算すると6300倍になった計算です。ただし、当時は蕎麦1杯の値段が5厘から1銭でしたから、その対比で考えると、現在の感覚に直すと葉書1枚の料金は数百円という感じになりますかね。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 10/1、11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年10月13日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
|