fc2ブログ
内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
<!-【↓2カラムテーブルここから↓】-->
 オウムとインコの日
2021-06-15 Tue 09:06
 きょう(15日)は、 06(オウム)と15(インコ)の語呂合わせで“オウムとインコの日”です。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キフジンインコ・英領ソロモン諸島

 これは、1975年4月7日に英領ソロモン諸島で発行された2ドル(当時の英領ソロモン諸島の通貨は豪ドル)の普通切手で、パプアニューギニアのブーゲンヴィル島とソロモン諸島で見られるキフジンインコが取り上げられています。

 1968年、英本国の労働党政権は1971年末をもってスエズ以東から軍事的に撤退することを発表。これを受けて、ソロモン諸島も自立の道を模索せざるを得なくなり、それに対応して、1970年に新憲法が公布されます。

 1970年憲法では、立法評議会と行政評議会を統合した管理評議会が新設されました。管理評議会は、高等弁務官を長とし、9名の官選議員(公務員経験者3名以上と現職公務員6名以下で構成)に対して、選挙区選出の民間議員が14名から17名に増員され、初めて、評議会の過半数となります。なお、17名の議員を選出する選挙区の内訳は、マライタ選挙区6、中央選挙区(首府ホニアラを含む)6、西部選挙区3、東部選挙区2でした。その後、1973年には、公務員(経験者)の官選議員制度も廃止され、代わりに、選挙区議員の定数も24名に増員されています。

 この体制の下、自治政府発足に向けての新憲法が審議され、今回ご紹介の切手の主題となっている1974年憲法の草案が評議会で可決されました。新憲法では、管理評議会は廃止され、高等弁務官ではなく、議長が統括する立法議会と、(自治政府)首相以下の内閣が組織されることが規定されており、この内容が英本国の承認を得て1974年憲法として施行されたことで、1976年1月1日、英領ソロモン諸島は“自治領”に昇格することになりました。

 さらに、この間、今回ご紹介の切手が発行された翌月の1975年5月には、1976年の自治政府の成立後、12-18カ月後をめどにソロモン諸島を独立させる計画が浮上し、独立後の憲法制定作業も含め、実務的な準備が開始されます。

 ところで、今回ご紹介の切手では国名表示はBritish Solomon Islands”となっていますが、上記のような事態の推移を受け、この切手は回収されて、1975年11月12日、英領を意味する“BRITISH”の文字を塗りつぶしたものが再発売されます。(下の画像)

      キフジンインコ・英領抹消

 その後、自治領昇格を受けて、1976年3月8日にはあらためて同図案で“BRITISH”の文字がない切手が発行されました。

      キフジンインコ・ソロモン諸島

 なお、第二次大戦中の激戦地・ガダルカナル島を含む英領ソロモン諸島が1978年に独立するまでの経緯については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。

 * 昨日(14日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。次回は来週月曜日・21日に登場の予定です。引き続きよろしくお付き合いください。


★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 昨年(2020年)はコロナ禍で中止のやむなきに至った全日本切手展(全日展)ですが、本年は、6月25-27日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で開催されます。詳細は切手展の公式HPをご覧ください。

      全日展2021・アイキャッチ


★ 放送出演・講演・講座などのご案内★

 6月21日(月) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。

 7月3日(土)~ 武蔵野大学の生涯学習講座
 7月3日・10日・17日・24日・31日、8月7日の6回、下記のふたつの講座でお話しします。 

 13:00~14:30 「日本の郵便150年の歴史 その1 ―“大日本帝国”時代の郵便事情―」
 15:15~16:45 「東京五輪と切手ブームの時代 ―戦後昭和社会史の一断面―」
 対面授業、オンラインのライブ配信、タイム・フリーのウェブ配信の3通りの形式での受講が可能です。お申し込みを含め、詳細については、こちらをクリックしてご覧ください。


★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★

      誰もが知りたいQアノンの正体 1650円(本体1500円+税)

 出版社からのコメント
 なぜQアノンにみんなハマったのか?
 ネットならではの引き寄せ構造と、現代格差社会の生んだ分かりやすい解釈。
 これは米国だけじゃない!
 人はみんなQを求めている!? (笑)

 * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。

 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | 英領ソロモン諸島:戦後 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 憲法記念日
2021-05-03 Mon 01:08
 きょう(3日)は憲法記念日です。というわけで、毎年恒例、世界の憲法関連切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・1974年憲法

 これは、1974年12月16日に英領ソロモン諸島が発行した“新憲法公布”の記念切手で、“1960年憲法公布”の記念切手が取り上げられています。

 英領ソロモン諸島では、1960年10月18日、事実上の憲法に相当するものとして、英領ソロモン諸島憲章(いわゆる1960年憲法)が公布され、立法評議会と行政評議会(長は高等弁務官)が初めて設置されました。

 発足当初の両評議会の議員は、全て高等弁務官による任命で、住民による選挙は行われませんでした。両評議会とも定員は21名で、議員の構成は、3名以上の公務員経験者、8名以下の現職公務員、10名の民間人となっていましたが、民間人議員の中には、6名のメラネシア系住民(いずれも地区の指導者)が含まれていました。また、立法評議会を通過した法案はそのまま法律となるとされていましたが、高等弁務官には立法評議会に諮ることなく法令を制定する権限が与えられていたほか、英国王の承認を得るという名目で法案を留保することも認められていました。

 1960年憲法はソロモン諸島の歴史においては画期的なものでしたが、住民の選挙権・被選挙権も想定されておらず、アジア・アフリカ諸国の独立が相次いでいた当時の世界の趨勢からすると、公布時にはすでにその内容は時代遅れの感が否めませんでした。
 
 そこで、1964年9月25日、選挙規定を盛り込んだ新憲法が立法評議会を通過し、1965年2月1日に公布されます。

 1964年憲法では、立法評議会の民間人議員10名のうち8名が住民の選挙によって選ばれることを規定。8名の内訳は、人口に応じて、マライタ選挙区が3名、中央選挙区が2名、東部選挙区、西部選挙区、首都のホニアラ選挙区が各1名でした。なお、ホニアラ選挙区では成人男女が直接投票を行う普通選挙が行われましたが、他の選挙区に関しては、当時のソロモン諸島の交通・通信のインフラ事情では選挙実務を行うことが困難だったため、選挙区ごとに選挙人を選び、選挙人の投票によって議員を選出する間接投票が採用されています。

 また、行政評議会の構成は、3名の公務員経験者、2名の高級官僚、5名の民間人となっていましたが、民間人議員の中には、立法評議会の議員を兼ねる3人のソロモン人が入っており、より民意が反映される制度改正となりました。

 さらに、人口動態の変化なども踏まえて、1966年2月23日には憲法の一部改正が行われ、立法評議会の議員構成は、3名以上の公務員経験者、12名以下の現職公務員(任命制)、14名の民間人(選挙で選出)と変更されています。

 ところで、1968年、英本国の労働党政権は1971年末をもってスエズ以東から軍事的に撤退することを発表。これを受けて、ソロモン諸島も自立の道を模索せざるを得なくなり、それに対応して、1970年に新憲法が公布されます。

 1970年憲法では、立法評議会と行政評議会を統合した管理評議会が新設されました。管理評議会は、高等弁務官を長とし、9名の官選議員(公務員経験者3名以上と現職公務員6名以下で構成)に対して、選挙区選出の民間議員が14名から17名に増員され、初めて、評議会の過半数となります。なお、17名の議員を選出する選挙区の内訳は、マライタ選挙区6、中央選挙区(首府ホニアラを含む)6、西部選挙区3、東部選挙区2でした。その後、1973年には、公務員(経験者)の官選議員制度も廃止され、代わりに、選挙区議員の定数も24名に増員されています。

 この体制の下、自治政府発足に向けての新憲法が審議され、今回ご紹介の切手の主題となっている1974年憲法の草案が評議会で可決されました。新憲法では、管理評議会は廃止され、高等弁務官ではなく、議長が統括する立法議会と、(自治政府)首相以下の内閣が組織されることが規定されており、この内容が英本国の承認を得たことで、1976年1月1日、英領ソロモン諸島は“自治領”に昇格することになりました。

 ちなみに、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』では、英領ソロモン諸島が1978年に独立するまでの経緯についてもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内★

 5月3日(月) 05:00~  
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。

 5月15日(土)~ 武蔵野大学の生涯学習講座
 5月15日、22日、6月5日、19日、7月3日、17日の6回、下記のふたつの講座でお話しします。 
 13:00~14:30 「日本の郵便150年の歴史 その1 ―“大日本帝国”時代の郵便事情―」
 15:15~16:45 「東京五輪と切手ブームの時代 ―戦後昭和社会史の一断面―」
 対面授業、オンラインのライブ配信、タイム・フリーのウェブ配信の3通りの形式での受講が可能です。お申し込みを含め、詳細については、こちらをクリックしてご覧ください。

★ 『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.1 戦前編』 好評発売中! ★

      郵便創業150年の歴史ー1表紙 2530円(本体2300円+税)

 明治4年3月1日(1871年4月20日)にわが国の近代郵便が創業され、日本最初の切手が発行されて以来、150年間の歴史を豊富な図版とともにたどる3巻シリーズの第1巻。まずは、1945年の第二次大戦終戦までの時代を扱いました。今後、2021年11月刊行予定の第2巻では昭和時代(戦後)を、2022年3月刊行予定の第3巻では平成以降の時代を取り扱う予定です。

 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | 英領ソロモン諸島:戦後 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 TAX
2021-04-15 Thu 01:37
 所得税の確定申告は今日(15日)までですが、皆さんは無事に済まされましたか?今年は、昨年に続き、新型コロナウイルス禍のため、〆切が一月延期されたのですが、僕はようやく先ほど書類を仕上げて、今年もまた〆切ギリギリの提出となりました。というわけで、毎年恒例“TAX”ネタとして、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・TAX印

 これは、1962年2月16日、英領ソロモン諸島の首府、ホニアラから英国の商船“チュンキン(重慶)号”によってロンドンまで運ばれたカバーですが、当時のソロモン諸島から英本国宛の基本料金が3ペンスだったにもかかわらず、1ペンス分の切手しか貼られていなかったため、郵便料金(=郵税)を意味する“TAX”の文字の入った円形の不足印を押し、2ペンスが不足していることが書きこまれています。

 ソロモン諸島の郵便史の基本文献であるプラウドの The Postal History of the British Solomon Islands and Tonga によると、このカバーに押されている不足印は、1950年4月27日から1961年11月3日までの使用例が確認されているとのことですが、この印の次に使用された角型の不足印の最初期使用例は1963年7月24日とされていますので、この間、1年9ヵ月弱の空白期間があります。今回ご紹介のカバーは、その空白期間の1962年2月の使用例ですから、プラウドのデータを更新するものとなりました。

 このカバーを運んだチュンキン号は、1950年、香港を拠点とするスワイヤー・グループ(太古集團)のチャイナ・ナヴィゲーション社の発注により、スコットランドで建造されました。もともとは、香港-インドネシア間の商船として使用することが計画されていましたが、インドネシア独立戦争のため香港-インドネシア間の航海には使用できず、1950ー52年の間は、マルセイユからパナマを経て南太平洋を結ぶ路線に用いられました。極東地域での初航海は1952年のことです。その後、貨客船として各地の航海に用いられていましたが、老朽化のため、1980年、バルセロナで解体されました。

 一方、カバーに貼られている切手は、エリザベス2世の即位を受けて、1956年3月1日から発行が開始された女王の肖像入りの風景図案切手の1枚で、ソロモン諸島北部、サンタイサベル島周辺の伝統的なカヌーが描かれています。

 なお、この切手が発行された1950年代から1978年の独立を経て現在にいたるまでのソロモン諸島とその歴史については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内★

 4月19日(月) 05:00~  
 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。

 4月23日(金) 15:00~ 
 東京・浅草の東京都立産業貿易センター台東館で開催のスタンプショウ会場にて、拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.1 戦前編』の刊行記念トークを行います。入場無料・事前予約不要ですので、お気軽にご参加ください。なお、スタンプショウの詳細はこちらをご覧ください

 4月24日(土)  倉山塾東京支部特別講演
 靖国神社参拝と講演がセットになった有料イベント(参加費は3000円、高校生以下1000円)で、スケジュールは以下の通りです。
 14:15 集合 靖国神社 大村益次郎像前 → 参拝(昇殿参拝ではありません)後、講演会場へ移動
 15:00 講演会の受付開始
 15:30-17:00 内藤の講演(拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.1 戦前編』の内容が中心ですが、前日のスタンプショウとは内容が異なるので、両方ご参加いただいても問題ありません)
 * 終了後、懇親会の予定あり(別途予約が必要です)
 お申し込みなどの詳細はこちらへ。一人でも多くの方のご参加をお待ちしております。

 5月15日(土)~ 武蔵野大学の生涯学習講座
 5月15日、22日、6月5日、19日、7月3日、17日の6回、下記のふたつの講座でお話しします。 
 13:00~14:30 「日本の郵便150年の歴史 その1 ―“大日本帝国”時代の郵便事情―」
 15:15~16:45 「東京五輪と切手ブームの時代 ―戦後昭和社会史の一断面―」
 対面授業、オンラインのライブ配信、タイム・フリーのウェブ配信の3通りの形式での受講が可能です。詳細については、武蔵野大学地域交流推進室宛にメール(lifelong★musashino-u.ac.jp スパム防止のため、アドレスの@は★に変えています)にてお問い合わせください。

★ 『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.1 戦前編』4月20日刊行! ★

      郵便創業150年の歴史ー1表紙 2530円(本体2300円+税)

 明治4年3月1日(1871年4月20日)にわが国の近代郵便が創業され、日本最初の切手が発行されて以来、150年間の歴史を豊富な図版とともにたどる3巻シリーズの第1巻。まずは、1945年の第二次大戦終戦までの時代を扱いました。今後、2021年11月刊行予定の第2巻では昭和時代(戦後)を、2022年3月刊行予定の第3巻では平成以降の時代を取り扱う予定です。

 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 


★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★

      世界はいつでも不安定・表紙カバー 本体1400円+税

 出版社からのコメント
 教えて内藤先生。
 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説!
 チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化!

 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | 英領ソロモン諸島:戦後 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 日米豪印仏の共同訓練“ラ・ペルーズ”はじまる
2021-04-06 Tue 03:05
 インド東方のベンガル湾で、きのう(5日)、わが国の海上自衛隊と米豪印仏の海軍による共同訓練“ラ・ペルーズ”が始まりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・ラペルーズ(1971)

 これは、1971年1月28日に英領ソロモン諸島が発行した“航海者とその船”の切手のうち、今回の共同訓練の名前の由来となったラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー(以下、ラ・ペルーズ)と彼の船“ブッソール”を描く1枚です。

 ロシアのクルーゼンシュテルン、英国のブロートンとともに世界三大航海士の一人とされるラ・ペルーズは、1741年8月23日、フランス南部のアルビ近郊で生まれました。1754-63年の七年戦争に従軍してイングランドと戦い、西インド諸島でイングランドのフリゲート艦エアリアルを撃破して、若くして准将に昇進しました。

 その後も北米でイングランドとの海戦に参加していましたが、1785年、国王ルイ16世から太平洋探検を命じられ、ブッソール号とアストロラブ号を率いて、同年8月1日、ブレストを出航。ホーン岬からスペイン領チリへ入り、イースター島、ハワイ諸島を経て、1786年6月、アラスカに上陸し、セント・イライアス山の周囲を探検しました。

 その後、南下して北カリフォルニア沿岸から太平洋を横断してマカオに到達。さらに、1787年4月9日、マニラで補給を行った後、台湾島沖から日本海に達し、ヨーロッパ人として初めて宗谷海峡を通過します。このため、ヨーロッパでは、宗谷海峡はラ・ペルーズが発見したとして、“ラ・ペルーズ海峡”と命名されました。

 宗谷海峡を抜けた後は、樺太からカムチャッカやアラスカの沿岸を経て南太平洋へ向い、1787年12月にサモア諸島に到達。そこから、オーストラリアのボタニー湾に至ったものの、すでに同地には英国艦隊が到達していたため、1788年3月10日、ニューカレドニア島、サンタクルーズ諸島、ソロモン諸島、ルイジアード諸島、そしてオーストラリア西岸と南岸を目指して出航しましたが、その途中で消息を絶ちました。

 ちなみに、16世紀以降、ソロモン諸島を含む南太平洋での西洋諸国の探検活動については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。
 
 * 昨日(5日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。次回は来週月曜日・12日に登場の予定です。引き続きよろしくお付き合いください。

★ 文化放送「おはよう寺ちゃん」 出演します!★

 4月12日(月)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。


★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★

      世界はいつでも不安定・表紙カバー 本体1400円+税

 出版社からのコメント
 教えて内藤先生。
 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説!
 チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化!

 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | 英領ソロモン諸島:戦後 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 オーストラリア空軍100年
2021-03-31 Wed 02:20
 1921年3月31日にオーストラリア空軍が設置されて、ちょうど100年になりました。というわけで、オーストラリア空軍に関する切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

       ソロモン諸島・航空50年(豪空軍飛行艇)

 これは、1976年に英領ソロモン諸島が発行した“ソロモン諸島への初飛行50周年”の記念切手のうち、オーストラリア空軍のウィリアム大佐の操縦により、ソロモン諸島に初めて飛来した飛行艇デ・ハヴィランドDH50Aが描かれています。

 オーストラリア空軍のルーツは、第一次大戦直前の1914年3月、オーストラリア陸軍の航空部門として設立された“オーストラリア飛行軍団(AFC)”に求められます。

 第一次大戦が勃発すると、AFCも大英帝国の一員として参戦し、ドイツ領ニューギニアの攻略戦中東戦線、西部戦線にも投入されました。

 大戦が終結すると、AFCはいったん解散し、飛行学校のみが残されましたが、1920年にはオーストラリア航空軍団として再編。そして、これが1921年3月31日にオーストラリア空軍として独立します。なお、現在の正式名称である“王立オーストラリア空軍(英語: Royal Australian Air Force、 RAAF)”となったのは、同年6月21日、英国王ジョージ5世から王立(Royal)の称号が下賜され、8月31日付で正式に改称が行われてからのことです。

 さて、1926年10月、創立まもないオーストラリア空軍のウィリアム大佐は、今回ご紹介の切手に描かれたデ・ハヴィランドDH50A飛行艇を操縦して、オーストラリアからニューギニア、ソロモン諸島、ニューヘブリデス(現ヴァヌアツ)、ニューカレドニア、フィジー、サモアをめぐる周遊飛行に出発。同31日には英領ソロモン諸島北西端のショートランド島に寄港しました。これが、現在のソロモン諸島国家の領域に飛行機が飛来した最初の事例で、今回ご紹介の切手は、ここから50周年になるのを記念して発行されたものです。その後、ウィリアム大佐は、ギゾ、ツラギに停泊。ツラギでは部品交換を行い、11月23日、次の目的地であるニューヘブリデスに向かっています。

 なお、南太平洋の交通の要衝としてのソロモン諸島とオーストラリアとの関わりについては、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★ 文化放送「おはよう寺ちゃん」 出演します!★

 4月5日(月)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。


★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★

      世界はいつでも不安定・表紙カバー 本体1400円+税

 出版社からのコメント
 教えて内藤先生。
 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説!
 チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化!

 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | 英領ソロモン諸島:戦後 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 世界の鬼:ソロモン諸島のアダロ
2021-02-02 Tue 00:38
 きょう(2日)は節分です。というわけで、例年どおり、“(広義の)鬼”に関連する切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・アダロ

 これは、1977年5月9日にソロモン諸島が発行した“民芸品”の切手のうち、木彫のアダロを取り上げた1枚です。
 
 アダロは、もともとは人間の魂を構成する善悪二つの部分のうちの悪の部分で、人間の死後、元の肉体を離れ、悪霊として現世に留まります。アダロは海の中で人が落ちてくるのを待ち構えていますが、落ちてきた人間が罪深い者であれば、その人間の善の部分をすべて吸い取ってしまい、人間性の最も暗い部分だけが残り、次のアダロが生まれることになります。

 その姿は、髪の毛のない頭に鮫の背びれのような角があり、水中でも呼吸ができるよう耳の後ろにエラがついており、足に水かきのあるヒレがあると考えられています。

 毒をもったトビウオを従え、虹を渡って空に浮かび、縄張りに侵入してきた人間を毒の角で殺すとして恐れられています。また、親の言うことを聞かない子供がふいに波間から消えたりすると、それはアダロの仕業とされてきました。こうしたこともあって、19世紀以降、ソロモン諸島にキリスト教が伝来・浸透していくと、アダロは堕天使ないしは悪魔とみなされるようになります。

 なお、ソロモン諸島では、現在でも土着の信仰が社会的に重要な意味を持っていますが、そのあたりについては、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。
 
 
★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 2月5日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。


★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★

      日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史カバー 本体1600円+税

 出版社からのコメント
 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】
 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は
 いかなる歴史をたどり、
 中国はどのように浸透していったのか

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | 英領ソロモン諸島:戦後 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 ウーメラを飛んでいた飛行機
2020-12-07 Mon 10:46
 宇宙航空研究開発機構(JAXA)の探査機「はやぶさ2」が投下した小惑星“りゅうぐう”の石が入るとみられるカプセルが、打ち上げから約6年間、2195日で52億4000万キロを飛行した探査を終え、きのう(6日)未明、オーストラリア南部のウーメラ立入制限(WPA)に着地、回収されました。というわけで、ウーメラに関する切手ということで、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・メガポード航空

 これは、1968年に英領ソロモン諸島が発行した普通切手のうち、当時のソロモン諸島域内の航空路線と、WPAで使われていたデ・ハヴィランドDH.104ダヴ機を描く2ドル切手です。

 WPAは、アデレードの北北西約450キロの地点に位置する地上軍実験・演習施設および航空宇宙施設で、その面積は九州の役4倍に相当する12万7000平方キロで世界最大です。敷地内には、若干の塩水湖、砂丘およびメサ丘がありますが、大部分は不毛な砂漠で、1947年、英軍がドイツから接収したV1飛行爆弾とV2ロケットの試験や独自のロケットや核兵器の研究を行うために創設されました。これを受けて、オーストラリアは、近隣にウーメラ村を作り、施設内を横切る長距離の道路が建設されています。
 
 さて、英領ソロモン諸島と域外の航空路線は、1949年にカンタス航空が定期チャーター便を開始したのに続き、1952年にはTAAとフィジー航空が定期便の運航を開始していましたが、ソロモン諸島として域内の島々を結ぶ自前の民間航空はありませんでした。このため、1961年10月には、M.ルイスとP.ベネットにより、域内航空実施のための調査が開始されています。

 1962年、ローリー・クロウリーは、4-6人乗りの双発軽飛行機、パイパー・アズテックを用いてパプアニューギニアとホニアラの間のチャーター便を開始。翌1963年、クローリーは、WPAでVIP用に使用されていたデ・ハヴィランドDH.104ダヴ、6機の払い下げを受け、クローリー航空会社の営業を開始。あわせて、同社は“メガポード航空”の名前でソロモン諸島域内の運航を開始しました。

 クローリー航空は、1968年、パプアニューギニアのマックエアーに買収され、本体が(新)メガポード航空に、ソロモン諸島域内で運航していた(旧)メガポード航空は“ソロモン諸島航空(SOLAIR:Solomon Islands Airways)”に改称されます。以後、パプアニューギニアのブーゲンビル島からソロモン諸島へ国際線定期便が運航されるようになります。

 今回ご紹介の切手は1968年5月20日に発行されていますので、デザインが制作されたのは、おそらく、(旧)メガポード航空時代の末期のことだと思いますが、かつてWPAで使用されていたデ・ハヴィランドDH.104ダヴはソロモン諸島航空にそのまま引き継がれています。ちなみに、SOKAIRが保有していたのは、切手に描かれた機体のほか、デ・ハヴィランドDH.104ダヴがもう1機、ビーチクラフト・バロンが2機の計4機です。

 1975年、マックエアとSOLAIRはタルエアーに買収されました。その際、ソロモン諸島政府は株式の49%を取得しましたが、1978年の独立を経て、1984年に全ての株式を取得し、国営化を完了。1997年に社名を“ソロモン航空(Solomons airlines)”に変更し、現在にいたっています。

 なお、ソロモン諸島の航空事業については、先の大戦中の激戦地となったヘンダーソン飛行場(現ホニアラ国際航空)のエピソードをはじめ、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 12月11日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。


★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★

      日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史カバー 本体1600円+税

 出版社からのコメント
 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】
 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は
 いかなる歴史をたどり、
 中国はどのように浸透していったのか

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | 英領ソロモン諸島:戦後 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 カンタス航空100周年
2020-11-16 Mon 02:27
 南半球最大の航空会社、カンタス航空が1920年11月16日に設立されてから、ちょうど100周年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・カンタス。コロネーションカバー

 これは、1953年6月2日、英国王エリザベス2世(エリザベス女王)の戴冠式を記念して、カンタス航空の前身、カンタス・エンパイア・エアウェイズが行った”コロネーション・フライト”により、英領ソロモン諸島の首府、ホニアラからロンドン宛に運ばれたエアメールで、同社の記念ロゴが入った航空書簡が使われています。

 カンタス航空は、1920年11月16日、オーストラリアのクイーンズランド州西部のロングリーチで設立されたカンタス社がそのルーツで、当初は、地元の観光飛行や州政府の助成を受けての郵便飛行などを行っていました。

 1934年、カンタスは英本国のインペリアル・エアウェイズと合弁企業“カンタス・エンパイア・エアウェイズ”を設立。ブリスベン=シンガポール間の運航を開始します。すでに、前年の1933年にインペリアル・エアウェイズはロンドン=シンガポール間の定期便を開設していたため、カンタス・エンパイア・エアウェイズとインペリアル・エアウェイズを乗り継いで英豪間の飛行機での移動することが可能になりました。

 第二次世界大戦中、カンタス・エンパイア・エアウェイズの機材の多くはオーストラリア軍に徴用されましたが、1943ー1944年にはパース (西オーストラリア州)=セイロン間の直航便を運航。セイロンで英国海外航空(ブリティッシュ・エアウェイズの前身)と連絡し、英豪間の航空路を確保していました。

 第二次大戦後は、ベン・チフリー首相率いるオーストラリア労働党政権がカンタス・エンパイア・エアウェイズを接収。親会社のカンタスは解散し、航空事業は連邦政府が株式の100%を保有する非上場の公営企業として存続し、英国海外航空と共同でシドニー=ロンドン間の運航が開始されます。なお、現在のカンタス航空(カンタス・エアウェイズ)に社名が変更されたのは、1967年のことでした。

 ソロモン諸島へは、1949年6月、シドニー=ツラギ間の定期チャーター便が就航したほか、シドニーからラエ(パプアニューギニア)経由でホニアラ、さらにバラコマ(ヴェラ・ラヴェラ島)を結ぶ路線が開設されています。

 カンタス航空によるコロネーションフライトは、1953年6月2日の戴冠式当日、ロンドンとシドニー、シンガポール、カラチ、コロンボ、オークランド、スヴァ(フィジー)、クック諸島、モーリシャス、ポート・モレスビー、ホニアラ、ノーフォーク、ヴィラ(ニューヘブリデス)を結ぶ12の路線で実施され、それぞれのフライトで運ばれた郵便物には、王冠とエリザベス女王の統治を示す“ER”の文字の入ったカシェが押されました。

 ちなみに、ホニアラの国際空港として利用されたヘンダーソン飛行場は、第二次大戦中、日本軍がルンガ飛行場として建設したのが前身で、ここをめぐって日米が激突したのがガダルカナルの戦いです。この辺りの事情については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★ 11月19日(木) InterFM 897:The Road 出演します ★

 11月19日(木) 17:30 InterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!に内藤が出演し、“知られざる切手の世界”についてお話します。前編にあたる12日の放送分のradikoでのタイムシフト視聴を含め、詳細はこちらをご覧ください。皆様よろしくお願いします。


★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★

      日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史カバー 本体1600円+税

 出版社からのコメント
 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】
 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は
 いかなる歴史をたどり、
 中国はどのように浸透していったのか

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | 英領ソロモン諸島:戦後 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 二の酉
2020-11-14 Sat 00:16
 きょう(14日)は二の酉です。というわけで、というわけで、一の酉の時と同様、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』の重版を祈念して、同書で取り上げた“鳥”の切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・1970年憲法(紋章)

 これは、1970年6月15日に英領ソロモン諸島が発行した”1970年憲法公布”の記念切手です。図案は、当時の英領ソロモン諸島の国章で、英国を象徴する獅子の下、4分割された縦の左上にマライタ島のシンボルである鷲が、右下にソロモン諸島東部のシンボルであるグンカンドリが、それぞれ配されています。

 英領ソロモン諸島としての最初の憲法は1960年に公布されましたが、この1960年憲法では、立法評議会の議員は任命制で、住民の選挙権・被選挙権も想定されていませんでした。
 
 そこで、1964年9月25日、選挙規定を盛り込んだ新憲法が立法評議会を通過し、1965年2月1日に公布されました。

 1964年憲法では、立法評議会の民間人議員10名のうち8名が住民の選挙によって選ばれることを規定。8名の内訳は、人口に応じて、マライタ選挙区が3名、中央選挙区が2名、東部選挙区、西部選挙区、首都のホニアラ選挙区が各1名でした。なお、ホニアラ選挙区では成人男女が直接投票を行う普通選挙が行われましたが、他の選挙区に関しては、当時のソロモン諸島の交通・通信のインフラ事情では選挙実務を行うことが困難だったため、選挙区ごとに選挙人を選び、選挙人の投票によって議員を選出する間接投票が採用されています。

 また、行政評議会の構成は、3名の公務員経験者、2名の高級官僚、5名の民間人となっていましたが、民間人議員の中には、立法評議会の議員を兼ねる3人のソロモン人が入っており、より民意が反映される制度改正となりました。

 さらに、人口動態の変化なども踏まえて、1966年2月23日には憲法の一部改正が行われ、立法評議会の議員構成は、3名以上の公務員経験者、12名以下の現職公務員(任命制)、14名の民間人(選挙で選出)と変更されています。

 今回ご紹介の切手の題材となっている1970年憲法は、こうした経緯を経て公布されたもので、立法評議会と行政評議会を統合した管理評議会を新設。管理評議会は、高等弁務官を長とし、9名の官選議員(公務員経験者3名以上と現職公務員6名以下で構成)に対して、選挙区選出の民間議員が14名から17名に増員され、初めて、評議会の過半数となりました。なお、17名の議員を選出する選挙区の内訳は、マライタ選挙区6、中央選挙区(首府ホニアラを含む)6、西部選挙区3、東部選挙区2でした。その後、1973年には、公務員(経験者)の官選議員制度も廃止され、代わりに、選挙区議員の定数も24名に増員されています。

 ちなみに、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』では、英領ソロモン諸島が1978年に独立するまでの経緯についてもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。

 * 昨日(13日)、アクセスカウンターが227万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。

★ 11月19日(木) InterFM 897:The Road 出演します ★

 11月19日(木) 17:30 InterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!に内藤が出演し、“知られざる切手の世界”についてお話します。前編にあたる12日の放送分のradikoでのタイムシフト視聴を含め、詳細はこちらをご覧ください。皆様よろしくお願いします。


★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★

      日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史カバー 本体1600円+税

 出版社からのコメント
 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】
 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は
 いかなる歴史をたどり、
 中国はどのように浸透していったのか

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | 英領ソロモン諸島:戦後 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 一の酉
2020-11-02 Mon 01:36
 きょう(2日)は“一の酉”です。というわけで、最新の拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』の重版を祈念して、同書で取り上げた“鳥”のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・1960年憲法公布

 これは、1961年1月19日に英領ソロモン諸島が発行した“1960年憲法公布”の記念切手です。切手の鳥は、ソロモン諸島東部を象徴として、国章にも描かれているグンカンドリです。

 英領ソロモン諸島では、1921年4月25日、高等弁務官(植民地行政の責任者)のセシル・ロッドウェルが、地区担当官が必要に応じて住民から地域の実情等や意見を聴取したり、植民地政府の方針を住民に伝達したりするための組織として、“諮問委員会”を設置しましたが、基本的に、住民が自らの意思を行政に主体的に反映させるための制度は存在しておらず、住民の人権も事実上無視されていました。
 
 第二次大戦中、ガダルカナル島を中心にソロモン諸島に米軍が進駐すると、メラネシア系住民の側も、米軍では黒人兵が“人間”として扱われ、白人と同じ軍服を着て食事の席も同じくしていることに衝撃を受けます。一方、米軍も、英植民地当局がメラネシア系住民を家畜同然に扱っていることに憤慨し、彼らの労働に対しては正規の給料を支払うなどの処遇を行ったため、メラネシア系住民の権利意識や政治意識が覚醒。戦後の1946-47年、マライタ島出身者を中心に自治権拡大運動としてマアシナ・ルール運動が展開されました。

 この運動は、最終的に植民地当局によって弾圧されましたが、その一方で、1947年のインド・パキスタンの分離独立を機に、英国は、植民地をある程度自立させることで植民地経営のコストを削減させる方向へと政策を転換。ソロモン諸島でも、1953年以降、メラネシア系住民の意見を植民地行政に反映させるための地区評議会の創設に向けた準備が各地で始まります。

 こうして、1960年10月18日、事実上の憲法に相当するものとして、英領ソロモン諸島憲章(いわゆる1960年憲法)が公布。ソロモン諸島においても初めて立法評議会と行政評議会(長は高等弁務官)が設置され、それまでの諮問会議は廃止されました。

 発足当初の両評議会の議員は、全て高等弁務官による任命で、住民による選挙は行われませんでした。両評議会とも定員は21名で、議員の構成は、3名以上の公務員経験者、8名以下の現職公務員、10名の民間人となっていましたが、民間人議員の中には、6名のメラネシア系住民(いずれも地区の指導者)が含まれていました。また、立法評議会を通過した法案はそのまま法律となるとされていましたが、高等弁務官には立法評議会に諮ることなく法令を制定する権限が与えられていたほか、英国王の承認を得るという名目で法案を留保することも認められていました。

 なお、1960年憲法は、ソロモン諸島最初の憲法としては画期的なもので、以後、数次にわたる憲法改正によってソロモン諸島の自治権が拡大され、最終的に、1978年の独立につながっていくことになります。

 この辺りの事情については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 11月6日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。


★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★

      日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史カバー 本体1600円+税

 出版社からのコメント
 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】
 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は
 いかなる歴史をたどり、
 中国はどのように浸透していったのか

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | 英領ソロモン諸島:戦後 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 ジャイアンツが連覇
2020-10-31 Sat 02:11
 プロ野球のセントラル・リーグは、読売ジャイアンツが昨年に続き、2年連続で優勝しました。というわけで、パ・リーグでのホークス優勝の時と平仄を合わせて、ソロモン諸島の切手の中から“巨人”ネタの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・UPU100年(郵便配達夫)

 これは、1974年8月29日に英領ソロモン諸島が発行した“万国郵便連合(UPU)創立100年”の記念切手のうち、ガダルカナル島の東端からマライタ島、サンクリストバル島(マキラ島)、ウラワ島など東部地区の地図を背景に、折り紙で作った郵便配達員(地図の大きさに比して“巨人”ですな)が描かれています。

 1840年に英国が世界最初の切手を発行して以来、切手を用いる近代郵便制度は急速に全世界へと拡大。当初、国境を越えた郵便物のやり取りに関しては、それぞれの国がさまざまな国との間で二国間条約を結んで処理していましたが、各国ごとに郵便物の重量についての制限や段階などが異なっていたほか、条約ごとに料金体系もさまざまでした。このため、一口に外国郵便といっても、宛先によって料金や手続きがまちまちで、利用者や郵政の現場では、さまざまな不便・不都合がありました。

 こうした不便を解決すべく、1862年、米国の郵政長官・ブレアは、世界共通の国際郵便条約締結を目指し、国際会議の開催を提案。これを受けて、1863年、英仏をはじめ14ヶ国の代表がパリに集まり、重量や料金の統一などについて討議し、31ヶ条からなる一般原則を採択しました。

 こうした流れを受けて、1868年、北ドイツ連邦の郵政長官・シュテファンが国際郵便条約の草案を発表します。

 19世紀初頭のナポレオン戦争以降、いわゆるウィーン体制下のドイツ圏では、オーストリア主導の下、35の領邦(地方君主国)と4の自由都市の緩やかな連合としてドイツ連邦が構成されていました。その後、このドイツ連邦内の主導権をめぐり、プロイセンとオーストリアが対立し、1866年6月、プロイセンはドイツ連邦からの離脱を宣言し、オーストリアに対して宣戦を布告しました。これが、いわゆる普墺戦争です。

 この戦争に勝利を収めたプロイセンは、ドイツ連邦を解散し、マイン川以北の領邦との間で新連邦を形成。シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国、ハノーファー王国、ヘッセン選帝侯国、自由都市フランクフルト・アム・マインはプロイセン領とされました。こうして、1867年、プロイセンを盟主として、22の領邦の連合体による北ドイツ連邦が成立。これを母体に、1871年に誕生したのがドイツ帝国です。

 ドイツ統一以前の領邦国家の中には独自の切手を発行している国も多く、領邦間の郵便交換の調整は深刻な問題で、シュテファンが外国郵便の簡素化を各国に提唱したのも、多数の領邦国家を抱えるドイツとして、大いに不便を感じていたという事情もありました。

 さて、シュテファンの提案は、ドイツ統一後の1874年、スイスの召集により開催された郵便大会議において討議され、会議最終日の10月9日、「一般郵便連合の創立に関する条約」が調印されます。この条約は1875年7月1日から施行され、以後、一般郵便連合加盟国の間で交換される郵便物は均一料金となり、現在の国際郵便網の原型ができあがりました。その後、一般郵便連合は1878年に万国郵便連合と改称され、英領ソロモン諸島は1908年に加盟しています。

 ところで、この切手が発行された1970年代半ばのソロモン諸島では、日本の大洋漁業との合弁企業であるソロモンタイヨー社のプレゼンスが増大していました。

 すなわち、英領ソロモン諸島政府は、1971年、大洋漁業との間で、大洋漁業が75パーセント、英領ソロモン諸島政府が25パーセントの比率で合弁企業設立の合意を締結。大洋漁業は、同年6-9月にガダルカナルを基地に行った試験操業の結果(水揚げは総計1215トン、17万ドル相当でした)を踏まえ、同年中に小さな缶詰工場と燻製工場からなる海岸拠点をツラギに建設。この海岸拠点はソロモン諸島における大洋漁業の支店本部の役割も担い、翌1972年、ソロモンタイヨー社としての営業が正式に開始されました。

 ソロモンタイヨー社は、主として沖縄・宮古諸島の伊良部島出身の漁師を中心に操業し、日本本土から大洋漁業のスタッフが業務監督者としてツラギに常駐するという体制で、水揚げされた魚は、冷凍の後、米領サモア、プエルトリコ、米本土の缶詰業者に輸出されたほか、ツラギとノロの缶詰工場に送られて加工されていました。

 今回ご紹介の切手が発行された1974年5月には日本向けの鰹節の製造が始まったほか、136名の漁業者と306名の地上スタッフを現地雇用し、250トンの鮮魚をホニアラ市場に提供するなど、ソロモン諸島の経済にとって重要な地位を占めるようになりました。

 ちなみに、この辺りの事情については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 11月6日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。


★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★

      日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史カバー 本体1600円+税

 出版社からのコメント
 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】
 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は
 いかなる歴史をたどり、
 中国はどのように浸透していったのか

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | 英領ソロモン諸島:戦後 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 ニュージーランド、きょう総選挙
2020-10-17 Sat 11:21
 議会(1院制、定数120)解散に伴うニュージーランド総選挙の投開票が、きょう(17日)、行われます。というわけで、ニュージーランドがらみで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・反マラリア標語

 これは、1962年11月3日、英領ソロモン諸島の首府、ホニアラからニュージーランドのオークランド宛に差し出されたカバーで、マラリア撲滅キャンペーンのスローガン“WORLD UNITED AGAINST MALARIA”の文言の入った標語印が押されています。“MALARIA”を“COVID-19(新型コロナウイルス感染症)”に置き換えれば、そのまま現在にも通用しそうな印ですな。

 1948年に発足した世界保健機構(WHO)は、1955年から、世界各地でDDT散布を行うなど、大規模な“マラリア撲滅キャンペーン”を行っていました。それが一定の成果を上げたことから、WHOはさらなる啓発活動の一環として、加盟各国に対して、1962年4月7日(WHOの創立記念日)にキャンペーン切手を発行することを提唱。これを受けて、主として、熱帯・亜熱帯のマラリア被害の深刻な国地域でマラリア関係の切手が一斉に発行されました。

 英領ソロモン諸島もマラリア罹患者の多い地域でしたが、キャンペーン切手の発行はなく、代わりに、今回ご紹介のカバーに押されているような標語印が、首府ホニアラの中央郵便局のほか、アウキ、ギゾ、ムンダ、ヤンディナの各局で使用されました。このうち、ホニアラでの標語印の使用期間は、1962年6月12日から11月27日まででした。

 なお、英領時代を含むソロモン諸島とその社会については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。

 * 昨日(16日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は11月6日(金)の予定ですので、引き続き、よろしくお願いします。  


★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★

      日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史カバー 本体1600円+税

 出版社からのコメント
 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】
 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は
 いかなる歴史をたどり、
 中国はどのように浸透していったのか

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | 英領ソロモン諸島:戦後 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 山の日
2020-08-10 Mon 01:09
 きょう(10日)は“山の日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・ティナクラ

 これは、1939年2月1日に英領ソロモン諸島で発行された“ティナクラ”の切手です。

 ティナクラはソロモン諸島の南東の成層火山島で幅3.5キロ、海面からの高さは851メートルです。

 1557年、ペルーに渡ったコンキスタドールの1人、ペドロ・サルミエント・デ・ガンボアは、「船乗り“パウジ・トゥパク・ユバンギ”が9ヶ月におよぶ南方航海の末、”テラ・アゥストラリス”の地から莫大な富を持ち帰った」とする先住民の伝承を耳にし、その真偽を確認すべく、1567年、当時のペルー副王、ローベ・ガルシア・デ・カストロの甥で、当時25歳の若者だったアルバロ・ド・メンダーニャ・ド・ネイラを誘って探検隊を組織します。

 司令官メンダーニャの下、総勢150名の探検隊は、1567年11月19日、2隻の艦隊でリマ近郷のカヤオ港を出帆。太平洋を西に進み、1568年2月1日、ソロモン諸島北部のオントン・ジャワ環礁に停泊。さらに南下して、同7日、サンタ・イサベル島に到達したのを皮切りに、島伝いに、ラモス島(現マライタ島)、サン・ホルヘ島(現アル・シュ・デ・イザベル島)、フィレンツェ諸島、ガレラ島、ブエナビスタ島、サン・ディマスおよびグアダルーペ島(現・フロリダ諸島)と進み、先住民から“サブ”と呼ばれていた火山島の隣にある大きな島に上陸しました。この島は、隊員のペドロ・デ・オルテガの故郷で、アンダルシアのグァダルカナルにちなんで、ガダルカナルと命名されます。

 ガダルカナルを探索した一行は砂金を発見。ここが目的のテラ・アゥストラリスかと色めき立ったものの、いかんせん、あまりの過酷な自然条件と先住民の攻撃の前に長期間の滞在はかなわず、周辺の塩間島を探検した後、5月11日に帰途に就き、翌1569年7月22日、カヤオ港に帰着しました。

 この間、彼らが探査した島々は、「ガダルカナルの砂金は“ソロモン王の財宝(の一部)”である」との思い込みから、“ソロモン諸島”と命名されます。

 ペルーに帰国後もソロモン王の財宝に未練があったメンダーニャは、再遠征を行い、ソロモン諸島を植民地化したいと考えていましたが、1570年以降、英国のフランシス・ドレークの私掠船が西インド諸島のスペイン船や町を襲う海賊活動を展開し、スペインはその対策に追われたことに加え、1585年には英国とスペインの戦争が始まったこともあり、ソロモン諸島への第二次航海が実現したのは1595年のことでした。

 第2次航海は、1595年4月9日、4隻の艦隊でカヤオを出港。ソロモン諸島南東部のサンタ・クルス諸島にはたどり着いたものの、原住民の反発や乗組員の離反などに加え、10月半ば、メンダーニャが現地で亡くなったこともあり、スペインによるソロモン諸島探検は中断されました。この第2次航海の過程で、1595年9月7日、メンダーニャの探検隊が“発見”したのが、今回ご紹介の切手に描かれているティナクラです。

 火山島のティナクラには19世紀の時点で少数の人々が生活していたものの、1840年11月10日の噴火で全島民が避難して無人島となりました。また、1868年には福州からメルボルンへ向かっていた茶の運搬船がティナクラが噴煙を上げていたことを報告しています。

 第二次大戦後の1951年には英領ソロモン諸島内のヌカプ島およびヌパニ島から130人のポリネシア人がティナクラに入植したものの、1971年の噴火で島民は避難。1980年代後半にはヌパニ島から2家族が移住したとの記録があります。また、近年では、2017年10月と2020年1月に大規模な噴火が記録されています。

  さて、現在、第二次大戦中の激戦地として知られる“ガダルカナル”にフォーカスを当てた本を作っています。内容は、戦史よりも、戦後のガダルカナルが中心で、すでに、本文の原稿は書き終え、現在、書籍としてまとめる作業を進めているところです。正式な書名や発売日などが決まりましたら、またこのブログでもご案内していきたいと思っておりますので、よろしくお願いします。
 

★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★

      みんな大好き陰謀論(帯なし表紙) 本体1500円+税

 出版社からのコメント
 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】
 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる!
 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう
 まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! !

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | 英領ソロモン諸島:戦後 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 豪、ソロモン諸島に188億円支援 
2019-06-04 Tue 03:15
 オーストラリアのモリソン首相は、きのう(3日)、訪問先の南太平洋のソロモン諸島でソガバレ首相と会談し、「太平洋島嶼国の平和的な独立と主権のための支援」を表明。今後10年間で2億5000万豪ドル(約188億円)の経済支援やソロモン諸島首相府の建築補助などを約束しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・郵便史

 これは、1970年、英領時代のソロモン諸島が発行した“(ガダルカナル島ホニアラの)中央郵便局新庁舎完成”の記念切手で、ソロモン諸島初期の郵便印と現地で使用されていたニュー・サウス・ウェールズの切手が描かれています。

 1893年に英領となったソロモン諸島には、1896年に弁務官としてチャールズ・モリス・ウッドフォードがツラギに派遣されましたが、当初、この地域では近代郵便は実施されておらず、外部との通信は幸便に託され、オーストラリアに持ち込まれた後に、持ち込んだ人が差出人から預かったお金で切手を購入して投函するという形式が取られていました。
 
 このため、ウッドフォードはニューサウスウェールズ切手を持ち込んで欧米系の住民に販売。ニューサウスウェールズ切手を貼った郵便物はツラギに集められた後、一括してシドニー郵便局長宛に送られ、シドニーで消印された後宛先地に届けるという方式が採用されます。

 ウッドフォードは、ソロモン諸島独自の切手発行を目指して、1903年、フィジー駐在のイギリス太平洋地域の高等弁務官ヘンリー・ジャクソンに対して、ニュー・ヘブリデスギルバート&エリスの先例に倣い、フィジー切手に“Solomon Islands”と加刷した切手をソロモン諸島でも使用したいと申し出ましたが、却下されてしまいました。ただし、1906年になると、ツラギでのニューサウスウェールズ切手の販売は停止され(今回ご紹介の切手で、ニューサウスウェールズ切手の下に1896-1906の年号が入っているのはこのためです)、代わりに、切手の左側に描かれているような“BRITISH SOLOMON ISLANDS PAID”の印が使用されるようになります。この印が押された郵便物は、シドニー以遠の料金相当の小切手とともに一括してシドニーに送られ、シドニーでニューサウスウェールズ切手を貼り、宛先地へ届けられるようになりました。

 こうした経緯を経て、翌1907年2月、ウッドフォードはシドニーのW.E.スミス社に切手の製造を委託し、地元のカヌーを描くソロモン諸島最初の切手が発行されています。

 ところで、ソロモン諸島は、1978年の独立後、1983年に中華民国(以下、台湾)と国交を樹立。台湾が外交関係を有する太平洋の国6カ国のうち、同国は面積(2万8450平方キロ)、人口(約60万人)ともに最大の国となってきました。

 ところが、近年、中国が台湾を外交的に追い詰めるべく、ソロモン諸島への進出を急速に拡大。この結果、中国はソロモン諸島の輸出額の6割超を占め、貿易相手国として第1位となりました。こうした背景の下、台湾と断交して中国との国交樹立を求める勢力も伸長し、4月に発足した現在の連立政権の与党議員中にも、半年以内に中国と国交を樹立しなければ不信任案を提出すると圧力をかけている者もあるほどで、ソロモン諸島が外交関係を台湾から中国に切り替えれば、地域でドミノ現象が起きることが懸念されています。

 このため、歴史的に太平洋島嶼国を“縄張り”としてきたオーストラリアは近年の中国の動きに対して敏感になっており、2017年、中国の通信機器大手、華為技術(ファーウェイ)がソロモン諸島に高速インターネットの敷設を提案した際は、直ちに対抗策を提案。1億3700万豪ドル(約103億円)を投じ、パプアニューギニアを含む海底インターネットケーブルを建設しました。今回の経済支援も、こうした過去の経緯を踏まえてのことです。

 さて、ソロモン諸島といえば、日本人にとっては先の大戦中のガダルカナルの戦いのイメージが強いのですが、1568年にスペイン人が上陸して以来の歴史をひも解いてみると、いろいろと興味深いエピソードがあります。いずれそれらをまとめて、いままでとはちょっと違った視点から、複合的に“ガダルカナル”の過去と現在を考える物語を書いてみたいと思っているのですが…。


★★ 本荘法人会講演会 「切手で読み解く国際政治」 ★★

 2019年 6月4日(火) 14:00-15:30
 会場:安楽温泉

 主催は本荘法人会で、入場は無料ですが、事前のお申し込みが必要になります。お問い合わせは、本荘法人会(TEL0184-24-3050)までお願いします。


★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

別窓 | 英領ソロモン諸島:戦後 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 ガダルカナルの戦い75年
2017-08-07 Mon 08:13
 1942年8月7日、、米海兵隊第1海兵師団がソロモン諸島のガダルカナル島に上陸し、いわゆるガダルカナル島の戦いが始まってから、きょうで75周年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・ガダルカナルの戦い25周年

 これは、1967年に英領ソロモン諸島が発行した“ガダルカナル島の戦い25周年”の記念切手のうち、米海兵隊のレッド・ビーチ上陸場面を描いた切手です。

 第二次大戦中の1942年5月3日、日本軍は英領ソロモン諸島のツラギ島に進出。その後、この地域の制空権を確保するため、7月から隣接するガダルカナル島のルンガ地区に建設工事を開始して、8月5日には滑走路の第1期工事が完了しました。日本軍はこの飛行場をルンガ飛行場と命名します。

 これに対して、8月7日午前4時、米軍の第1海兵師団1万900名が、オーストラリア軍の支援の下、ガダルカナル島テナル川東岸付近の通称“レッド・ビーチ”に上陸を開始しました。同時にツラギ島方面にも4個大隊1500名が上陸。ガダルカナル島の日本軍は完全に寝込みを襲われた格好で、連合軍の奇襲攻撃は成功します。そして、同12日、米軍は飛行場を占領し、これをヘンダーソン飛行場と改称。この名前は、2ヶ月前のミッドウェー海戦で戦死した海兵隊の航空指揮官、ロフトン・R・ヘンダーソン少佐にちなんだものでした。

 その後、約2週間で1100mの滑走路1本が完成し、ヘンダーソン飛行場は米軍の一大反攻基地となりますが、日本軍も飛行場奪回を目指して猛攻を加え、この飛行場をめぐって激戦が展開されます。最終的に、1943年2月、日本軍は“転進(=撤退)”を余儀なくされましたが、ガダルカナル島に上陸した約3万名の日本軍将兵のうち、撤退できたのは1万名余しかおらず、戦死者2万1000名のうち、1万5000名は病死または餓死だったといわれています。このことから、ガダルカナル島、略してガ島は“餓島”とさえいわれました。

 一方、一連の戦闘を通じての連合国側の戦死傷者は 6842名でした。激戦地となったヘンダーソン飛行場は、現在、ホニアラ国際空港として、ソロモン諸島の空の玄関口となっていますが、その近くには、戦いの火ぶたを切った米第1海兵師団の戦死者を追悼する慰霊碑も建てられています。(下の画像)

      ホニアラ空港近く・米海兵隊慰霊碑

 さて、ガダルカナルというと、どうしても、第二次大戦の激戦地というイメージが強いのですが、1568年にスペイン人が上陸して以来の歴史をひも解いてみると、いろいろと興味深いエピソードがあります。今年4月の同島訪問の体験も踏まえ、いずれそれらをまとめて、いままでとはちょっと違った視点から、複合的に“ガダルカナル”の過去と現在を考える物語をまとめてみたいですね。


 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

別窓 | 英領ソロモン諸島:戦後 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 ガダルカナルに来ています。
2017-04-04 Tue 01:22
 きのう(3日)の記事にも少し書きましたが、現在、ソロモン諸島ガダルカナル島に来ています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・ヘンダーソン飛行場

 これは、1956年、英領時代のソロモン諸島で発行されたヘンダーソン飛行場(現在のホニアラ国際空港の前身)の切手です。ちなみに、現在のホニアラ国際空港はこんな感じでした。

      ホニアラ国際空港(建物)  
      ホニアラ国際空港(飛行機)

 第二次大戦中の1942年5月3日、日本軍は英領ソロモン諸島のツラギ島に進出。その後、この地域の制空権を確保するため、7月から隣接するガダルカナル島のルンガ地区に建設工事を開始して、8月5日には滑走路の第1期工事が完了しました。日本軍はこの飛行場をルンガ飛行場と命名します。

 これに対して、8月7日、米軍の第1海兵師団がガダルカナル島に上陸し、飛行場を占領。同12日、米軍は飛行場をヘンダーソン飛行場と改称します。この名前は、2ヶ月前のミッドウェー海戦で戦死した海兵隊の航空指揮官、ロフトン・R・ヘンダーソン少佐にちなんだものでした。

 その後、約2週間で1100mの滑走路1本が完成し、ヘンダーソン飛行場は米軍の一大反攻基地となりますが、日本軍も飛行場奪回を目指して猛攻を加え、この飛行場をめぐって激戦が展開されます。最終的に、1943年2月、日本軍は“転進(=撤退)”を余儀なくされましたが、ガダルカナル島に上陸した約3万名の日本軍将兵のうち、撤退できたのは1万名余しかおらず、戦死者2万1000名のうち、1万5000名は病死または餓死だったといわれています。このことから、ガダルカナル島、略してガ島は“餓島”とさえいわれました。

 日本軍の撤退後、米軍はヘンダーソン飛行場を増強し、飛行場は“ヘンダーソン複合飛行場施設”として、ソロモン周辺の事実上のハブ空港として運用されていました。さらに、第二次大戦後、飛行場は“ヘンダーソン国際空港”と改称され、1997年には、日本の政府開発援助として約18億円が投じられて新ターミナルが建設されました。現在のホニアラ国際空港と改称されたのは、2000年のことです。(下の画像は日本の援助に対する感謝の碑)

      ホニアラ国際空港・記念碑

 ガダルカナルというと、どうしても、第二次大戦中の激戦地というイメージが強いのですが、1568年にスペイン人が上陸して以来の歴史をひも解いてみると、いろいろと興味深いエピソードがあります。今回の滞在経験も踏まえ、いずれそれらをまとめて、いままでとはちょっと違った視点から、ガダルカナルの過去と現在を考える物語(『アウシュヴィッツの手紙』の姉妹篇のようなかたちにできれば…と思っています)をまとめてみたいですね。


★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』  ★★★ 

       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

 【出版元より】
 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介
 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行!
 発売元の特設サイトはこちらです。


 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。

別窓 | 英領ソロモン諸島:戦後 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 ガダルカナル今昔
2006-04-25 Tue 23:58
 ソロモン諸島では18日、先に行われた首相選の結果に不満を持つ住民ら数百人が国会周辺で行ったデモが過熱し、首都ホニアラでは商店街などでの放火や略奪などに発展。中華街の住民らが被害を受け、中華系の住民など249人が避難する事件があったそうです。

 ソロモン諸島というと太平洋の島々“その他大勢”という感じがしてしまいますが、首都のホニアラがあるのはガダルカナル島と聞くと、僕なんかは途端に、太平洋戦争の激戦地ということでイメージが浮かんできます。というわけで、今日はこの1枚です。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      ガダルカナル島

 この切手は、英領時代のソロモン諸島が1976年にアメリカの独立200年を記念して発行した切手の1枚で、ソロモン諸島にとってアメリカとつながりが最も深い事件としてガダルカナル島の戦いが取り上げられています。

 切手は、島の地図を描いて戦闘の模様を表現したものですが、結構、細かい地名なんかも書いてありますが、ホニアラの地名はありません。そこで、国際機関・太平洋諸島センターのサイトの中からソロモン諸島のページにアクセスして、現在のガダルカナル島の地図を見つけてきました。(↓)

      ガダルカナル島地図

 
 ガダルカナル島というと以前の記事でも少し書いたことがありますが、僕なんかは、どうしても“激戦地”のイメージが強すぎて、現在の人々の生活を想像しにくいところがあります。それだけに、今回の暴動のニュースで初めてこの島にも中華街があることを知ったという体たらくですが、まぁ、これを機会にいろいろわかったので、それはそれでよしとすることにしましょうか。

*イベントの御案内
 4月29日(土)14:30から、東京・浅草の都立産業貿易センターで開催のスタンプショウ6階会場にて、『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』の刊行を記念して、ミニ講演と即売サイン会をやります。スタンプショウは入場無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。

別窓 | 英領ソロモン諸島:戦後 | コメント:0 | トラックバック:1 | top↑
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
<!-【↑2カラムテーブルここまで↑】-->
copyright © 2006 郵便学者・内藤陽介のブログ all rights reserved. template by [ALT-DESIGN@clip].
/