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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 世界の切手:ブルガリア
2018-07-31 Tue 01:30
 ご紹介がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年7月25日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はブルガリアの特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) 

      ブルガリア・軛の下で

 これは、ブルガリア現代文学の祖とされるイヴァン・ヴァゾフの代表作『軛の下で』を取り上げた1枚です。
 
 イヴァン・ヴァゾフは、1850年、オスマン帝国支配下のソポトの商家に生まれました。幼少期から文学に親しみ、1870年、商業を学ぶため、ワラキアのオルテニツァ(現ルーマニア)の商人である叔父の元へ送られましたが、商業には身が入らず、ブルガリア人亡命コミュニティに参加し、民族活動家に強く感化されました。

 1876年、ブルガリアではオスマン帝国からの自立を目指す4月蜂起が発生するものの失敗。放棄にも関与していたヴァゾフはブカレストに亡命し、偽名を使って『プリャポレツ・イ・グスラ』 、『ブルガリアの悲嘆』等の詩集を刊行。1877-78年の露土戦争の結果、ブルガリアが解放されると、東ルメリ自治州の州都プロブディフやロシア帝国支配下のオデッサなどでの文筆活動を経て、1889年、ブルガリアに帰国し、ソフィアに定住。旺盛な執筆活動のかたわら、1894年に人民党のコンスタンティン・ストイロフ内閣が発足すると、教育大臣にも任命されました。第一次大戦後の1921年没。

 今回ご紹介の切手の題材となっている『軛の下で』は、1888年、オデッサで執筆された作品です。物語は、オスマン帝国の支配下のブルガリアを舞台に、親トルコ派の上流階級と独立派の青年たちの交流や、失敗に終わった1876年の“4月蜂起”について史実を踏まえて描いたもので、ブルガリア帰国後の1894年に発表され、1910年に戯曲化されました。ブルガリアを砕氷する古典的な作品として世界的な評価を得ており、日本語を含む各国語に翻訳されています。
 
 さて、『世界の切手コレクション』7月25日号の「世界の国々」では、第二次大戦中、ブルガリアが枢軸国に参加して戦った歴史的背景についてまとめた長文コラムのほか、女子レスリングのスタンカ・ズラテヴァチョウザメアイスクリーム、の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のブルガリアの次は8月1日に発売予定の8月8日号でのリベリアの特集です。こちらについては、発行日の8月8日以降、このブログでもご紹介する予定です。


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 カンボジアで総選挙
2018-07-30 Mon 03:35
 きのう(29日)、カンボジア総選挙(下院、定数125)の投開票が行われ、与党・カンボジア人民党のソク・イーサン広報官は「投票数の80%を獲得した」と発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      カンボジア・UNTAC(武装解除)

 これは、1993年にカンボジアが発行した“国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)”の切手のうち、UNTACによる武装解除を描いた1枚です。

 1991年10月23日、カンボジア内戦を終結させるための「カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定」(パリ和平協定)が調印されました。同協定にもとづき、国際連合事務総長の下、自由で公正な選挙で選ばれた議会が憲法を制定し政府を設立するまでの間、カンボジアの統治を担う機関として設立されたのがUNTACで、自衛隊にとっては初の国連PKOへの参加となりました。

 すでに、1991年10月、国連はカンボジア先遣隊 (UNAMIC) を設立していましたが、UNTACの任務はこれを拡大し、選挙の組織・管理を初めとして、停戦の監視、治安の維持、武装勢力の武装解除、難民・避難民の帰還促進など、多岐に渡る業務を担当。1992年3月15日から現地に展開し、UNAMICはこれに改編・吸収されました。

 その後、1993年5月、UNTAC監視の下、憲法を制定するための国民議会選挙が行なわれてフンシンペックが第一党となり、9月23日に新憲法が公布され、翌24日にはノロドム・シハヌークが国王に復位してカンボジア王国が再建されたことを受け、UNTACは同日付けで任務を終了。同年末までに撤収されしています。

 さて、今回の選挙は、1993年の制憲議会選挙から数えて通算6回目となります。前回2013年の選挙では、全議席(当時の定数は123)を人民党(68議席)と野党のカンボジア救国党(55議席)の2党が分け合いったほか、昨年(2017年)の地方選挙でも救国党が躍進。1998年以来の長期政権を担ってきたフン・セン首相は、これに危機感を抱き、救国党の党首を逮捕し、最高裁は同党に解散を命じるなど、強引な手法で野党を抑え込みました。さらに、今月27日以降は、政権に批判的な複数のメディアのウェブサイトの閲覧できなくなっていました。

 このため、元救国党幹部らは逃亡先の国外から、国民に投票ボイコットを呼び掛けていましたが、人民党は選挙の“正統性”を示すため、国民に対して投票を行くようさまざまな圧力をかけたため、投票率は前回の69.61%を大きく上回る80%超(選管発表による)を記録。これにより、計算上は、人民党の獲得議席も100議席となる見通しだそうです。

 ただし、上述のような状況のため、米国やEUは選挙支援を停止。わが国も、投票箱提供などの選挙協力を続けるものの、監視員派遣は見送り、最大野党の解体などについて懸念を伝えています。UNTAC監視下の政権選挙から、ことしはちょうど25周年ですが、その節目の年に、“自由で公正な選挙”がカンボジアで行われなくなってしまったのは、何とも残念な話ですね。


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 羽衣伝説はレイプ犯の物語か
2018-07-29 Sun 01:21
 韓国版の羽衣伝説として知られる「仙女と木こり」について、鄭鉉栢・女性家族部長官が、「この物語の主人公は天女を誘拐したレイプ犯だ」と述べ、各方面から批判を受けているそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      韓国・仙女と木こり①

 これは、1970年3月5日、韓国が民話シリーズ第4集として発行した「仙女と木こり」のうち、主人公の木こりが水浴する3人の仙女のうち1人の羽衣を隠す場面が描かれています。1973-75年に発行された日本の昔ばなしシリーズは、3種の組み合わせで物語の序盤・中盤・終盤の各場面を取り上げた構成になっていますが、韓国の民話シリーズでは1話につき4種の構成で物語のあらすじを表現するスタイルになっています。今回ご紹介の「仙女と木こり」の場合は、上に挙げた切手に続いて、羽衣を失い、天に帰れなくなった仙女が木こりと夫婦になり、2人の子供をもうけて暮らす場面が取り上げられています。(下の画像)

      韓国・仙女と木こり②

 こうして、木こりは家族4人で幸せに暮らしていましたが、あるとき、酒に酔って妻に自分が隠した羽衣を見せ、事実を打ち明けてしまいます。すると、彼女は元の仙女に戻り、羽衣を身に着けると2人の子供とともに天に帰って行きました。(下の画像)

      韓国・仙女と木こり③

 最愛の妻を失った木こりは悲しみのあまり、まもなく亡くなりましたが、生前の善行のゆえに天国へ行き、妻子と再会して幸せに暮らすことになりました。なお、物語の結末については、木こりは七夕の日のみ家族との再会が許されたなどのヴァリエーションもあります。(下の画像)

      韓国・仙女と木こり④

 さて、「仙女と木こり」は、上述のように、いわゆる羽衣伝説の1バージョンであり、類似の民話は全世界のいたるところで古くから多くの人に親しまれていますが、一国の現職閣僚が、左派・リベラル的な視点から、それを公の取り上げて批判するケースなど、今回の韓国のケース以外には、寡聞にして聞いたことがありません。

 ところが、鄭長官は、先日、あるセミナーの席上、「仙女と木こり」の木こりが池で水浴びをしていた天女の衣を取り上げてしまう点を問題にし、「天女や、木こりとの間にできた2人の子どもたち、そして天女の両親の側からすると、この木こりは誘拐犯であり、レイプ犯だという見方もできる」、「この点は、男女平等を実現するという文脈では変更されるべきだろう」と主張。これに一部のフェミニスト活動家たちが同調したことから、過激なフェミニズムが猖獗を極めている現状を苦々しく思っていた多くの国民が反発を示したというわけです。

 ちなみに、元判事で弁護士のファン・ジュミョン氏は、「昔話の登場人物をそのような凶悪犯罪で非難するのは、ばかげている」としたうえで、「法律に照らし合わせて言えば、木こりが天女に性行為や同居を強要したことを示す証拠をこの物語から見つけることは困難だ」と結論付け、長官のような立場に立つなら、彼女こそ、木こりから名誉棄損で訴えられてもおかしくないと述べています。

 まぁ、鄭長官の「仙女と木こり」批判はとても正気の沙汰とは思えない内容なのですが、こういう極端な思考回路の持ち主が、現職の韓国政府閣僚として、いわゆる慰安婦問題を担当しているというのは、何とも頭の痛い話ですな。


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 北朝鮮、米兵遺骨55柱を返還
2018-07-28 Sat 04:38
 北朝鮮は、昨日(27日)、朝鮮戦争の休戦協定締結から65周年の記念日にあわせて、朝鮮戦争で戦死した米兵の遺骨55柱を米側に返還しました。というわけで、朝鮮戦争に参加した米兵関係のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米軍・12月の撤退  
      米軍・12月の撤退(裏面)

 これは、1950年12月1日、米ヴァージニア州のスタントンから朝鮮に派遣されていた米兵宛に送られたカバーです。当初の宛先は、釜山に置かれていた第59野戦郵便局気付となっていますが、名宛人の所属部隊が38度線を越えて北上したことに伴い、郵便物の宛先も平安南道の黄海に面した粛川(第24野戦郵便局)に変更されています。ちなみに、粛川は、隣接する順川とともに、国連軍が38度線を越えて北上していた1950年10月20日から23日まで、北朝鮮政権首脳と北朝鮮軍主力の退路遮断、平壌付近に拘置されている国連軍捕虜の救出を目的として、大規模な空挺作戦が展開された場所でした。

 しかし、郵便物が朝鮮半島に到達したときには、いわゆる“12月の撤退”が始まっていたため、名宛人と彼の部隊は38度線以北から退避。その際、おそらく名宛人も負傷したらしく、郵便物は各地を転々とした後、最終的に、朝霞(第613野戦郵便局)を経て、名宛人が収容されていた第361野戦病院に送られています。

 1950年6月25日、朝鮮人民軍の奇襲攻撃によって朝鮮戦争が勃発すると、国連安保理は北朝鮮の南侵を侵略行為と規定し、北朝鮮に対して38度線以北への撤兵を要求。しかし、朝鮮人民軍はこの安保理決議を無視してさらに南侵を続け、6月28日にはソウルを占領しました。

 このため、米国大統領・トルーマンは、極東海・空軍に対して、38度線以南の朝鮮人民軍への攻撃を指令。国連安保理も、「北朝鮮の侵攻を撃退するため、加盟国は韓国が必要とする軍事援助を与える」との決議を採択して、米国の軍事介入を追認します。

 この時点では、トルーマンは、地上軍を本格的に投入して、朝鮮戦争に全面的に介入すれば、ソ連の介入を招きかねないとして慎重な姿勢を取っていました。

 これに対して、日本占領の総司令官として東京にいたマッカーサーは、6月29日、陥落直後のソウルを漢江南岸から視察。本国政府に地上軍の本格的な投入を主張し、このマッカーサー報告を受けて、翌30日、トルーマンも地上軍の投入を決断します。

 もっとも、急遽、朝鮮半島に派遣された米国軍第24師団(開戦当時は九州に駐留していました)は準備不足のためもあって、7月5日に行われた烏山の戦闘で北朝鮮側にまさかの敗北を喫してしまいました。こうした状況の中で、7月7日、国連安保理は国連軍の創設を決議し、その司令官の任命をトルーマンに委任。これを受けて、翌8日、マッカーサーが国連軍司令官に就任します。

 一方、首都・ソウルを陥落させた朝鮮人民軍は、その後も破竹の勢いで南侵を続け、7月4日には水原(京畿道)を、同20日には大田(当時は忠清南道)を、それぞれ占領。この間、国連軍の創設を受けて、7月13日には米第8軍司令部が横浜から大邱(慶尚北道)に進出したものの、朝鮮人民軍の南侵は止まず、16日に大邱に撤退した韓国政府は、早くも翌17日にはさらに釜山への移転を余儀なくされました。

 その後も、朝鮮人民軍は南侵を続け、7月27日には河東・咸陽・安義、30日には晋州(いずれも慶尚南道)を占領。こうした事態を受けて、8月1日、米第8軍司令官のウォルトン・ハリス・ウォーカー中将は、洛東江陣地線への後退を指令。以後、いわゆる釜山橋頭堡(朝鮮半島南東部の馬山=洛井里=盈徳を結ぶ南北153キロ、東西90キロの防御線)の攻防をめぐり、激戦が展開されることになります。

 さて、1950年8月初の時点では、戦局は全体として北朝鮮側が圧倒的に有利ではあったものの、すでに北朝鮮の補給能力は限界を超えており、朝鮮人民軍は2度にわたって猛攻をかけたものの、結局、釜山橋頭堡を制圧できませんでした。

 一方、国連軍側は緒戦段階から制空権・制海権を掌握していましたが、8月以降、釜山には兵員・物資が続々と陸揚げされていったことで、国連軍は徐々に戦力を回復。こうした状況の中で、国連軍総司令官のマッカーサーは朝鮮人民軍の後背地にあたる仁川への上陸作戦を敢行します。

 1950年9月上旬の時点で、北朝鮮の主力は洛東江戦線に集中しており、仁川の防御は手薄になっていたこともあって、マッカーサーの奇襲作戦は見事に成功。1950年9月15日、米国第1海兵師団の1個大隊が仁川市対岸の月尾島に上陸を開始し、国連軍は翌16日までに仁川を奪還してソウルに向けて進撃し、17日には国連軍が金浦空港を奪還しました。

 一方、釜山橋頭堡をめぐる洛東江戦線では、米第8軍が仁川上陸に呼応して攻勢に転じ、大邱=金泉=大田=水原のラインに沿って朝鮮人民軍を撃滅する作戦を開始。9月21日以降、退路を絶たれた朝鮮人民軍は総崩れとなりました。

 仁川に上陸した米国海兵師団は、ただちにソウルへの進撃を開始し、9月20日には漢江の渡河に成功。激しい攻防戦の後、25日、米軍はようやくソウル西側の高地帯と南山を占領。9月28日にはソウルの奪還に成功し、中央政庁には、ふたたび、太極旗が掲げられました。

 国連軍のソウル奪還後、米国政府の内部では38度線を突破するか否か、意見が分かれましたが、最終的に、この問題はマッカーサーの判断に委ねられます。その結果、10月1日、韓国第1軍団が東海岸で38度線を突破すると、マッカーサーは北朝鮮に降伏を勧告。翌2日には国連軍に38度線を越えて北進することを命じました。さらに、7日には国連安保理が国連軍の北進を追認。9日には西部の開城付近で米第1軍団が38度線を突破し、翌10日には韓国第1軍団が東海岸の元山を占領します。

 その後も韓国・国連軍は北上を進め、10月17日には韓国第1軍が咸興・興南を、米第1軍団が沙里院を、それぞれ占領。19日には韓国第1軍団が平壌市内に突入し、翌20日までに国連軍が平壌占領を完了しました。その後も韓国・国連軍は北進を続け、10月26日、韓国第6師団の第7連隊が、ついに楚山で鴨緑江に到達しました。

 これに対して、北朝鮮国家が潰滅する可能性が出てきたことで、10月8日、中国は「唇滅べば歯寒し」として、朝鮮戦争への参戦を決定。「抗美援朝 保家衛國」をスローガンに中国人民志願軍を派遣します。

 国共内戦の経験からゲリラ戦に秀でていた中国側は人海戦術を展開し、銅鑼を鳴らし、ラッパを吹いて、歓声を上げながら波状攻撃を繰り返して国連軍を包囲分断。これにより、国連軍は総崩れとなり、2週間ほどの間に、38度線以南まで後退し、計3万6000名もの損害が発生しました。

 これが、いわゆる“12月の撤退”です。

 さらに、12月31日、中国側は正月攻勢を発動。このため、韓国・国連軍は再び後退を余儀なくされ、翌1951年1月4日にはソウルを放棄し、平沢=丹陽=三陟を結ぶラインまで撤退しました。

 その後、韓国・国連軍はそれまでの正面対決方式を止め、中国側の攻勢が始まってから1週間は緩やかに後退して中国側の食糧・弾薬が尽きるのを待ち、攻勢が弱まった後、相手に補給と休養の隙を与えず、戦車を集中的に用いて反撃する作戦に変更。1951年2月には中国側の攻勢を撃退し、2月20日からは北進に転じ、3月15日にはソウルの再奪還に成功し、月末までに38度線以南の要地を確保しました。

 以後、韓国・国連軍は1953年7月の休戦までソウルを確保し続けるものの、戦況は北緯38度線付近で一進一退の膠着状態が続くことになります。

 なお、朝鮮戦争と切手・郵便については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。
      

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 北京の米大使館前で爆発
2018-07-27 Fri 01:58
 きのう(26日)午後、北京の米国大使館前で爆発がありました。北京の公安当局によると、26歳の内モンゴル自治区の男が爆発物に火を付けて爆発させたとして拘束されました。北京の米国大使館前は、強制立ち退きなど当局による人権侵害の救済を求めて全国から陳情者が集まっており、きのうは午前中にも自らガソリンをかけて焼身自殺しようとした女性が警察官に連行されています。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました、(画像はクリックで拡大されます)

      中国・米国大使館はがき

 これは、1937年7月31日、北平(現北京)の米国大使館から差し出された葉書です。公用便ではなく、関係者がプライベートで差し出したもののため、料金は中国切手で納付されており、米国大使館付の海兵隊の郵便局(一部が欠けていますが、左側の印には“MAR. DTCH. AMER. EMBASSY PEIPING CHINA”の表示があります)で引き受けられた後、同年8月2日、中華郵政の北平郵便局を経由して米国宛に逓送されています。

 米中間の外交関係は、アヘン戦争後の1844年に望厦条約が結ばれたのが始まりです。その後、1858年、アロー戦争の結果、天津条約によって英仏米露の4国の外交官の北京常駐が認められたことを受け、1862年、北京に米国公使館が開設されます。1935年には公使館が大使館に格上げとなりますが、1949年、中華人民共和国の成立国民政府の台湾遷移に伴い、国民政府を中国の正統政権としていた米国の大使館も台北に移ります。その後、1979年1月1日付で米中間の国交が樹立されたことに伴い、同年3月1日、北京の米国大使館も復活しました。

 ちなみに、今回ご紹介の葉書に押されている郵便印の地名表記は北平(Peiping)になっていますが、これは、蔣介石の国民政府が1928年に北伐を完了した後、首都は南京であるとの建前の下、同年6月15日付で、“政府直轄地域”を意味する直隷省を河北省へ、北の首都を意味する北京を北平へと改称したことによるものです。ただし、今回ご紹介の葉書が差し出された直前の1937年7月7日には支那事変が勃発し、7月31日には日本軍が北平を制圧。日本軍の占領下で北平は“北京”と呼ばれるようになりました。その後、1945年の日本の敗戦により、国民政府は北京を再び北平に改称したものの、1949年に成立した中華人民共和国は北京の名称に戻して現在に至っています。


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 キューバ革命記念日
2018-07-26 Thu 11:23
 きょう(26日)は、1953年7月26日にフィデル・カストロらがモンカダ兵営を襲撃し、キューバ革命の狼煙を上げたことにちなみ、キューバの革命記念日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・7月26日運動(1961)

 これは、1961年にキューバが発行した“モンカダ兵営襲撃事件8周年”の記念切手で、「7月26日 平和と社会主義のために」の文言と、黒と赤の“7月26日運動(M26)”の旗を背景に、鳩を手にした人物が描かれています。

 1952年、キューバの大統領選挙に立候補したフルヘンシオ・バティスタ・イ・サルディバルは、オルトドクソ党のロベルト・アグラモンテ候補を相手に苦戦を続けていました。このため、同年3月10日、バティスタは軍事クーデターを決行し、力ずくで大統領に就任。親米派の政権復帰を歓迎した米国は、直ちに、バティスタ政権を承認します。

 当然のことながら、クーデターによる政権奪取に対しては国民の批判も強かったのですが、バティスタは、米国政府・企業、カジノ経営時代に関係を築いたマフィアと結託し、キューバ国内における彼らの利権を保護する代償として、米国から巨額の支援を引き出し、それらを私物化。この結果、キューバの農業や工業には、従来以上に米国資本が流れ込み、国民の貧困は放置されたまま、キューバ経済は米国に対する隷属の度合いを一層強めることになりました。

 これに対して、アウランティコをはじめとする既成政党はバティスタに対して話し合いでの政権交代を要求するなかりでした。翌1953年1月にはオルトドクソ党の党大会が開かれ、政権奪取のための具体的な活動計画が討議されるはずでしたが、党内対立から、反バティスタで党がまとまることもありませんでした。

 こうして、キューバ国民の間に政治に対する閉塞感が蔓延していくなかで、1952年の議会選挙にオルトドクソ党から立候補した青年弁護士のフィデル・カストロは、バティスタのクーデターによる選挙の無効化に憤慨、バティスタを憲法裁判所に告発しましたが、裁判所はこれを握り潰してしまいます。

 そこで、フィデルは、アベル・サンタマリーア、ニコ・ロペス、ヘスス・モンタネら同志とともに、バティスタ打倒のためには、既成政党とのしがらみのない若者を動員することが重要と考え、地下放送を通じて同志を募り、クレー射撃の練習を装い、ハバナ大学の施設を利用して、約1200名の反バティスタの活動家を訓練しました。

 彼らが極秘裏に標的と定めたのは、キューバ第2の都市、サンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営でした。

 当時のフィデルらにはバティスタ政権を一挙に打倒できるだけの実力はなかったため、彼らは、兵営を占拠して政権に不満を持つ一般国民に民衆蜂起を呼びかけ、あわせて、兵営の一般兵士からも同調者を集め、地方に拠点を築くというのが現実的なプランでした。このため、首都ハバナにあるキューバ最大の兵営、コルンビア兵営を襲撃して政権を打倒するというプランは採用されず、ハバナから遠く離れたモンカダ兵営を革命派の拠点として確保することが目標とされました。

 また、サンティアゴ・デ・クーバでは、毎年7月下旬の一週間、カーニヴァルが開催されていますが、1953年は7月25-26日がその期間に含まれていました。カーニヴァルの期間中の市内の混雑は、フィデルらにとって、官憲の目をかいくぐって騒擾を起こすのに格好の機会でした。

 かくして、7月26日未明、シボネイ農場に集まった若者たちに、襲撃の目標(兵営の武器確保、軍通信機器の利用による情報の撹乱)が伝達され、フィデルが指揮する90人がモンカダ兵営の襲撃を、アベル・サンタマリーア率いる21人が兵営に隣接するサトゥリーノ・ローラ市民病院を、フィデルの弟、ラウルが指揮する10人が裁判所広場を襲撃すべく出発しました。また、ニコ・ペロス率いる22人(5人不参加)の別動隊は、サンティアゴ・デ・クーバサンチャゴから80キロ離れたバヤモのカルロス・マヌエル・デ・セスペデス要塞を襲撃して通信網を破壊し、政府軍とモンカダとの連絡を途絶させる計画でした。

 一方、フィデルらを迎え撃つモンカダ兵営には、事件当時、将校88人、兵士288人、農村警備隊26人、計402人が勤務していました。これは、叛乱側の3倍弱にあたります。

 午前4時45分、若者たちは政府軍を偽装した軍服に着替え、16台の車に分乗してサンティアゴ市内に向かいましたが、車を運転していたスタッフの中にはサンティアゴ市内の地理に不案内な者もおり、市内に入ったところでほぼ半数がはぐれてしまいました。

 こうした中で、レナド・ギタルら3人の先遣隊がモンカダ兵営の第3検問所に到達し、軍服姿で敷地内に侵入することに成功しましたが、歩哨の一人が不審に思って警報ボタンを押しため、警備車両が兵営周辺を巡回を開始。そこへ、フィデルら主軸部隊を乗せた車が検問所に向かう脇道に入ってきたため、警備兵との間でいきなり戦闘が始まりました。

 フィデルの計画では、武力で圧倒的に劣る彼らは兵営を急襲し、10分以内に制圧することになっていたが、兵営側からの攻撃は15分以上続きました。この間、叛乱側の弾薬が尽きてしまったため、これ以上の襲撃が不可能になったと判断したフィデルは退却命令を出しましたが、戦闘で5人が犠牲になり、さらに、政府軍に捕えられた約56人が虐殺され、シボネイ農場にまで帰着したときには、叛乱側は60人ほどに減っていました。

 その後、あくまでも戦闘継続を主張して山へ向かったのは、フィデルら19人。彼らは政府軍の追及を逃れるべく、いくつかのグループに分かれて山中を彷徨していましたが、8月1日、ついに捕えられ、サンティアゴ・デ・クーバの駐屯地に連行され、ボニアート監獄に収監されました。ちなみに、駐屯地ではなく、兵営に連行された者たちは、その場で虐殺されています。

 バティスタ政権はフィデルらによるモンカダ兵営襲撃事件を闇に葬り去るべく、当初は裁判も行わなかった。ところが、襲撃事件に参加し、政府軍に虐殺された若者の多くは、家族に襲撃計画を全く話していなかったため、“行方不明”となった息子を探す親たちが続出したことから、。急遽、緊急法廷第37号事件の名目で、1953年9月21日、サンティアゴ裁判所でモンカディスタ(モンカダ襲撃事件に加わり、生き残った人々)に対する裁判が始まりました。

 裁判の結果、10月6日、ラウルら26人のモンカディスタは禁錮3年から13年の有罪判決を受け、ハバナ州南方、ピノス島のモデーロ監獄に収監されました。

 一方、事件の首謀者としてのフィデルの裁判は、10月16日、事件現場の一つ、サトゥリーノ・ローラ市民病院付属の看護学校の一室で、100人の兵士が包囲する中で行われます。フィデルの担当弁護士は入廷を拒否されたため、弁護士資格を持つフィデルは自らの弁護を担当し、事件後の軍による虐殺の実態を明らかにしました。

 そのうえで、クーデターで誕生したバティスタ政権は非合法であり、立憲主義に反していること、1933年のマチャド独裁政権崩壊以来、バティスタが米国政府・資本の走狗として国家を私物化してきたことを激しく非難。1940年憲法に加え、トマス・アクィナス、マルティン・ルター等の宗教思想やロック、ルソー、モンテスキュー以来の近代政治思想史をも引用し、兵営の襲撃は人民の抵抗権によるものであるとして、その目的は兵士との戦闘にあるのではなく、兵営の選挙によって国民に蜂起を呼びかけることにあったと主張します。

 さらに、革命達成の暁に実施すべき政策として、①1940年憲法の復活、②土地改革(小作人下の土地分与、有償による土地接収)、③労働者の企業利益への参加、④小作人の収益参加率の50パーセントへの引き上げ、⑤不正取得資産の返還、の5項目を掲げ、「歴史は私に無罪を宣告するであろう」との一文で、最終弁論を締めくくりました。

 結局、フィデルは禁錮15年の有罪判決を受け、1953年10月17日、ピノス島のモデーロ監獄に収監されます。

 しかし、モデーロ監獄には、すでに26人のモンカディスタが収監されており、フィデルは裁判の弁論を再構成した“モンカダ綱領”を食事の際に供されるライムの汁で紙に記し、獄中の秘密ルートを通じて外部の協力者に渡した。一足先に釈放されていたメルバ・エルナンデスは、1954年10月頃、カストロからの秘密書簡を、アイロンを使った“あぶり出し”の手法で解読し、それを印刷して『歴史は私に無罪を宣告するであろう』の書名で地下出版します。その数は1万部にも達し、独立運動発祥の地であるキューバ島東部ではフィデルの声望が高まりました。

 一方、バティスタは、政権の正統性に疑問を呈するフィデルらの主張を打ち消すために、1954年11月1日に大統領選挙を実施。露骨な不正選挙により再選を果たすと、自らの独裁体制維持への絶対の自信から、寛大なる為政者のポーズを示すべく、モンカディスタを除く政治犯の恩赦を決定します。これに対して、選挙区民を通じてフィデルの国民的な人気を肌で感じていた議員で構成される上下両院は、バティスタ退陣後の選挙のことも考えて、バティスタの反対を押し切って恩赦法を採択し、これにより、1955年5月16日、フィデルをはじめとするモンカディスタはモデーロ監獄から釈放されました。

 ピノス島からハバナへ向かう船中、モンカディスタは革命運動組織として“7月26日運動(M26)”の結成で合意。その後、M26のメンバーはメキシコに亡命し、反バティスタの革命運動を本格的に開始することになります。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、タイトル通り、1959年のキューバ革命について、いろいろな角度からまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。

 * 昨日、アクセスカウンターが194万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。  


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 スプートニクとガガーリンの闇(9)
2018-07-25 Wed 00:55
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、6月25日、『本のメルマガ』第685号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、国際地球観測年の期間中の米国の動向にについて取り上げました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      米・エクスプローラー3号

 これは、1958年3月26日、エクスプローラー3号の打ち上げに際して作られた記念カバーです。

 1955年7月29日、ホワイトハウスは「(国際地球観測年=IGY期間中の)1958年春までに人工衛星を打ち上げる」と発表しました。いわゆるヴァンガード計画です。

 ただし、この時点では、具体的にどのロケットを使用して“世界初”の人工衛星(当時、米国はソ連が先にスプートニク1号を打ち上げるとは夢想だにしていなかった)を打ち上げるかは確定しておらず、空軍のSM-65アトラス、陸軍のSSM-A-14レッドストーンの派生型、海軍のRTV-N-12aヴァイキング観測ロケットを元にした3段式ロケットの3候補がありました。このうち、最終的に海軍案が選択されたことで、ヴァンガード計画が本格的にスタートします。

 1957年10月4日、ソ連がスプートニク1号の打ち上げに成功すると、同月9日、米大統領のアイゼンハワーは、12月に米国も、既に進行中のヴァンガード計画に基づいて人工衛星を打ち上げる予定だと発言。しかし、この時点では、ヴァンガードロケットは1段目の試射実験が行われた段階でしかなく、2段目と3段目を結合した状態での試験は行われておらず、12月の打ち上げは技術的に困難でした。

 はたして、1957年12月6日、ケープカナベラル空軍基地第18発射施設(LC-18)で、米国発の人工衛星となるべくヴァンガードTV3が打ち上げられましたが、発射2秒後に爆発し、惨憺たる失敗に終わっっています。しかも、その一部始終は生中継で放映され、米国の面目は丸つぶれとなりました。

 一方、ヴァンガード計画の進捗状況に不安を感じていた国防省は、1957年11月の時点で、陸軍にも人工衛星の準備を命じていました。そこで、レッドストーン短距離弾道ミサイルとして開発が進められてきたものを“ジュノー1ロケット”として、陸軍ジェット推進研究所が衛星“エクスプローラー1号”を製造し、同弾道ミサイル局がそれを打ち上げるプランが動き出します。

 エクスプローラー1号の衛星本体は、ジェット推進研究所のウイリアム・ヘイワード・ピカリングの指揮により、84日間で組み立てられました。なお、ジュノー1の性能上の制約から、本体の重量はわずか18ポンド(約8.16キロ)に抑えられています。また、人工衛星の打ち上げは、あくまでもIGYの一環として行われるというのが建前でしたから、ジェームズ・ヴァン・アレン指揮の下で組み立てられた宇宙線計測用のガイガーカウンターなどの計測機器も搭載されました。

 1958年1月31日に行われたジュノーIの打ち上げは成功し、エクスプローラー1号は地球を周回する長楕円軌道に投入。エクスプローラー1号のガイガーカウンターは高度により、宇宙線計測数に大きな差異があることを報告し、これは後のエクスプローラー3号の観測結果と合わせてヴァン・アレン帯の発見につながりました。

 ついで、2月5日に行われたエクスプローラー2号は発射57秒後に爆発して失敗したものの、3月17日に行われたヴァンガード1号の打ち上げは成功。衛生は無事に軌道に投入されています。この時点で、地球周回軌道上に投入された人工物は米ソそれぞれ2個ずつとなり、米国はソ連に追いつきました。また、ヴァンガード1号は太陽電池パネルを利用した最初の衛星という点でも、重要なものでした。

 さらに、3月26日にはエクスプローラー3号が、7月26日にはエクスプローラー4号が、それぞれ軌道投入に成功するなど、米国は着実に宇宙開発の実績を積み重ね、ソ連に遜色のない技術力を有していることを証明しています。

 しかし、米国の衛星は専門的な実績を積み上げていった一方で、プロパガンダを主目的としたソ連の衛星に比べると地味な印象はぬぐえず、打ち上げ当時は記念切手も発行されませんでした。

 このため、1957年10月のスプートニク1号の打ち上げ以来、ミサイル防衛力において米国はソ連の後塵を拝しているのではないかという“スプートニク・ショック”の感覚を、一般庶民が払拭するにはしばらく時間が必要となるのです。


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 ドッグレース場閉鎖の余波
2018-07-24 Tue 00:24
 長年にわたり、マカオの庶民のギャンブルとして親しまれてきたドッグレース場が今月20日に閉鎖されましたが、その後も、約530頭の犬が場内に放置されたままになっており、問題になっています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      マカオ・ドッグレース

 これは、1990年にポルトガル領時代のマカオで発行された“ドッグレース”の切手です。

 マカオで最初にドッグレース場が設置されたのは1931年8月のことでした。ドッグレースは庶民向けのギャンブルとして人気を博し、施設も拡充されましたが、1937年以降、高可寧と傅老榕の泰興娛樂總公司(泰興公司)がカジノ経営を拡大したことで顧客の奪い合いになったことに加え、日中戦争などの影響もあり、1938年にいったん閉鎖に追い込まれます。

 第二次大戦が勃発すると、マカオは中立国となりましたが、それゆえ、大陸や香港から大量の難民が流入。さらに、大戦後の国共内戦もあって、難民の数はますます増加し、放置されたままのドッグレース場には難民が住みつくようになります。

 こうした状況の中で、1960年、長年にわたって泰興公司の経営を取り仕切ってきた傅老榕が亡くなると、1961年、何鴻燊らは、マカオのカジノ経営権独占を実現すべく、澳門旅游娯樂有限公司(以下、娯楽公司)を設立。ポルトガル人の妻を持つ何はポルトガルに渡り、植民地を監督・経営する海外省などをまわって泰興公司とマカオ政府の癒着を告発するとともに、次期マカオ総督(任期は1962年4月から)に内定していたロペスとも面会し、カジノの収益をマカオのために使い、大戦後、香港の復興とともに経済が停滞していたマカオを再建してほしいと訴えました。

 はたして、1961年10月に行われた入札では娯楽公司が年316万7000パタカでカジノの経営権を獲得。政府はこの金額の10%をマカオの慈善事業に使い、残りの使途は娯楽公司との協議のうえで決めるということになります。このとき、娯楽公司はマカオ政府に対して、①カジノを世界的な水準のものとする、②一流のホテルを3件建てる、③新しい船着場を得建設する、④マカオ=香港間に水中翼船を就航させる、⑤港湾を含めマカオの交通事情を改善する、⑥毎年、港の底の100立方メートルの土砂を浚渫する、ことなどを約束しました。

 1962年、娯楽公司はまず、新花園に最初のカジノを開業した後、各地に小規模なカジノを次々に開業し、年末には内港の16号埠頭に“澳門皇宮”と名付けた大型カジノ船を係留しました。

 これに対して、何ら新興勢力の台頭を喜ばない有力者たちは何に対して脅迫状を送り付けたほか、マカオ船籍の船の香港との往来を妨害するなどの抵抗を試みましたが、何は脅迫状の内容を公開して世論の同情を集めるとともに、香港籍の船を確保。さらに、自分に対する暗殺指令が出ていることを察知すると、24時間以内に自分を狙っている暗殺者を発見した者には100万パタカの報酬を支払うとの新聞広告を大々的にうち、旧勢力を追い詰めていきました。

 さらに、それまでのマカオ経済の中心は内港エリアにありましたが、何は外港に新たなフェリーターミナルを建設。1975年には香港=マカオ間のフェリーの定期運行化を実現し、香港からの日帰りカジノ旅行を可能としました。また、場内で俳優や歌手を招いてショウを行うなど、ラスベガスに倣った最新式のカジノを備えたホテル、リスボアなどを外港エリアに相次いで建設し、外港との間に無料のシャトルバスを運行させるとともに、カジノ税の使途は娯楽公司と政府の協議によって決めるという条項を利用して、公共工事・公共事業の支出は外港エリアに集中させ、内港エリアへはほとんど支出しないようにすることで、内港地域を拠点としていた旧勢力を徹底的に干し上げました。

 そうしたマカオの娯楽産業の再編の一環として、1963年、何はドッグレースの復活を決定。かつての上海ドッグレースの調教師であったオーストラリア人の調教師らの協力も得て準備を進め、上海のドッグレース場で使用されていた出走犬の表示板や、レース開始を告げる鐘、さらには兎のダミーを走行させる機械などをマカオに移設して、ドッグレース場を再開しました。

 再開後のドッグレースは、マカオのみならず、香港からも数多くのファンが訪れ、マカオのギャンブルのひとつとして今も人気を博していましたが、近年はコタイ地区に新規開業した大型カジノに客足が流れたことに加え、動物保護団体からの“虐待”との批判もあって経営状況は悪化していました。

 このため、レース場を所有するマカオ政府は、2016年、契約期限が切れて閉鎖される今月20日までに飼い主を確保するよう、ドッグレース場を運営するマカオドッグレースクラブ(澳門逸園賽狗會)に指示していました。しかし、レース犬の大半を占めるグレーハウンドは、大型で一般家庭での飼育が難しく、マカオ域外に持ち出すためには検疫手続きなども必要なため、ほとんどの犬の引き取り先が見つからない状況が続いていました。

 窮地に追い込まれた運営会社は、閉鎖直前になって「犬の管理責任は政府にある」と主張。これに対して、マカオ政府は、当面、獣医師を手配し、動物保護団体の協力も得て、犬の飼育にあたっているものの、「責任転嫁は許されない」として、運営会社に対して1頭あたり最大10万パタカ(約140万円)の罰金を科す可能性を示唆するなど、両者の主張は平行線をたどっています。 

 なお、ドッグレースを含むマカオのギャンブル史については、拙著『マカオ紀行』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 開催御礼
2018-07-23 Mon 00:03
      ふみの日(2017)

 おかげ様で、<全日本切手展2018>(以下、全日展)および併催の<チェコ切手展>は昨日(22日)16:00、盛況のうちに無事終了いたしました。

  今回の展覧会は、須谷伸宏さんの産業図案切手、高久健一さんのプラハ城切手の両コレクションをはじめ、競争出品もハイレベルな内容で、ご参観者の皆様にもご満足いただけたのではないかと思います。

 これもひとえに、ご後援を賜りましたチェコ共和国大使館、日本郵便株式会社、東京新聞、公益財団法人・日本郵趣協会、一般財団法人・切手文化博物館、日本郵便切手商協同組合、特定非営利活動法人・日本郵便文化振興機構、御協賛を賜りましたえにし書房、スタンペディアプロジェクト、東京創元社、貴重なコレクションを展示したいただきましたご出品者の皆様、ブースをご出店いただきましたディーラーの方々、そして、寄附金を拠出していただきました皆様ほか、大勢の方々のご支援・ご協力のおかげです。

 実行委員長として、この場を借りて厚くお礼申し上げます。(下の画像は、オープニングセレモニーのためにご来場いただいたチェコ共和国駐日特命全権大使トマーシュ・ドゥブ閣下ならびに前チェコ共和国駐箚特命全権大使山川鉃郎閣下と、展覧会の看板前で撮影したものです)

      チェコ切手展・両大使


 なお、来年(2019年)の全日本切手展は、海の日を含む7月13-15日の3連休に、今年と同じく、東京・錦糸町のすみだ産業会館で開催の予定で、すでに準備を始めております。開催資金の調達をはじめ、クリアしなければならない課題は山積しており、今後とも、皆様方にはいろいろとご支援・ご協力をお願いすることになるかと思われますが、なにとぞよろしくお願いいたします。

 * 冒頭の画像は、昨年(2017年)の“ふみの日”切手のうち、“ありがとうございます”の文字を記した1枚です。皆様への感謝の気持ちを込めて、取り上げてみました。


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 全日展、本日最終日です!
2018-07-22 Sun 06:18
 はやいもので、20日から、東京・錦糸町のすみだ産業会館で開催中の全日本切手展2018(以下、全日展)は本日が最終日となりました。今回は、特別展示の産業図案切手、併催のチェコ切手展に加え、山崎文雄さんの審査員出品“Hawaii”の中に、ぜひともお見逃しいただきたくない1点がありますので、ご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) 

      ハワイ・宣教師(13セント)

 これは、1851年にハワイで発行された“宣教師切手”のうち、13セントです。

 1795年以降、ハワイ王朝(カメハメハ王朝)の支配下にあったハワイには、1820年代以降、白人(その中心は米国人)による捕鯨や白檀貿易などが行われるようになり、1835年からサトウキビのプランテーション栽培も始まりました。

 こうした状況の下で、1825年以降、ハワイと米本土との郵便の往来が始まります。当初、郵便料金は手紙のレターシート1枚ごと、かつ距離に応じて異なっていましたが、1845年以降、料金は重量で半オンスごとのレート計算になります。さらに、1850年12月にはホノルルにハワイ最初の郵便局が開局して、制度の整備が進み、1851年9月、郵便制度が確立されました。これにあわせて、郵便局長のヘンリー・ホイットニーは、同年10月1日、現地製の切手を発行します。これが、ハワイとして最初の切手で、当時は郵便の利用者が、ほぼ米国人宣教師に限定されていたため、“宣教師切手”と呼ばれています。

 宣教師切手には2セント、5セント、13セントの3額面がありますが、13セントに関しては、国名表示が“Hawaiian Postage”となっているものと“H.I. & U. S. Postage”となっているもの(今回ご紹介の切手です)があるため、全部で4種類になります。また、当時の郵便料金では、ハワイ域内の郵便料金は5セントで、米東海岸宛に運ぶ場合には、米国内の料金として6セントと、輸送船の船長の手数料として2セントの“Ship Fee”を加えた13セントが必要でした。“H.I. & U. S. Postage(ハワイ諸島ならびに米国宛郵便料金)”との表示はこうした事情を反映したものです。

 ハワイの宣教師切手は、4種類すべてあわせても、現存数はわずか192枚しかなく、オークションに出品されれば最低でも数百万円で落札されています。なかでも、最も稀少な2セント切手は15枚(未使用1枚、使用済み12枚、オンピース1点、カバー1点)しか存在せず、この切手をめぐって、殺人事件が起きたほどでした。今回ご紹介の13セント切手は、50枚(未使用8枚、使用済み32枚、オンピース1点、カバー9点)で、2セント切手に次いで残存数の少ない切手ですが、今回ご紹介の1点は特に状態の良いものとして貴重なマテリアルです。
 
 今回の全日展に審査員出品として展示されている山崎文雄さんのコレクションは、2016年に台北で開催された世界切手展 <PHILATAIPEI 2016>で大金賞を受賞しており、ハワイ切手の分野では、世界的にも著名な作品です。今回ご紹介の13セント切手以外にも、宣教師切手が含まれているほか、1864年以前のハワイ王国の稀少な切手が数多く展示されています。日本国内では、なかなか展示されることのない作品ですので、ぜひ、本日16時までの全日展の会場にて、実物をご覧いただけると幸いです。

 *昨日のトークイベントは、無事、盛況のうちに終了いたしました。ご参加いただいた皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。

★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月20-22日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにチェコ切手展が開催されます。主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2018ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。


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 本日、トークやります。
2018-07-21 Sat 00:35
 昨日(20日)から、東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展2018(以下、全日展)がスタートしました。今回は、チェコスロヴァキア独立100周年ということで、会場では“チェコ切手展”も併催しており、本日(21日)は僕も14:30から「アウシュヴィッツとチェコを往来した郵便」と題するトークイベントをやります。というわけで、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ヘジュマヌーヴ・ムニェステツからアウシュヴィッツ宛

 これは、1942年3月17日、ヘジュマヌーヴ・ムニェステツからアウシュヴィッツの収容者宛に差し出されたものの、収容所側の通信制限を理由に差出人に返送された郵便物です。

 第二次大戦勃発前年の1938年9月29-30日に行われたミュンヘン会談の結果、対独宥和政策を取る英国のネヴィル・チェンバレン首相、フランスのエドゥアール・ダラディエ首相は、「ズデーテンラントは我々の最後の領土的要求であり、チェコスロヴァキアの独立を侵害するつもりはない」と主張するヒトラーに譲歩し、ズデーテン地方のドイツ編入を容認。同年10月1日には、ズデーテンラントでのドイツによる軍政が施行されました。その後、ヒトラーは前言を翻し、1939年3月、チェコスロヴァキア国家を解体。ドイツはチェコ地域の主要部を併合して、ボヘミアとモラビアの主要部分にベーメン・メーレン保護領(ボヘミア・モラビアのドイツ語読み)を設置します。今回ご紹介の郵便物の差出地であるヘジュマヌーヴ・ムニェステツは、現在のチェコの領域にありますが、上記のような事情でベーメン・メーレン保護領に編入されたため、切手も同保護領のモノが貼られています。

 さて、1940年、ポーランド南部に開設されたアウシュヴィッツ収容所は、もともとは、ポーランド人の政治犯・捕虜を収容するための施設でした。ところが、1941年6月の独ソ戦勃発を経て、1942年1月のヴァンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終解決」が決定されると、ドイツ勢力圏下の欧州各地からユダヤ系の人々がアウシュヴィッツに移送されてくるようになり、アウシュヴィッツとベーメン・メーレン保護領との間でも郵便物の往来が始まります。

 アウシュヴィッツの収容者宛の通信に関しては、差出地のいかんにかかわらず、収容者の名前・誕生日・収容者番号・収容棟番号を記して、アウシュヴィッツ郵便局気付で送られました。そして、収用所に到着した郵便物は、まず、収容所当局によって名宛人が収容所にいるか否か、1ヶ月に2通という受取可能な通数の制限内に収まっているか否かをチェックしたうえで、内容の検閲を受け、収容者に渡されるという段取りになっていました。

 このため、収容者の死亡や別の収容所への移送により名宛人が不在となった場合や、受け取り可能な通数を超えた場合には、そのことが明らかになった時点で、事情説明の印を押して差出人に返戻されています。今回ご紹介の郵便物では、下から、名宛人がすでに1ヶ月2通までの制限を超える郵便物を受け取っていたことを示す“schon post erhalten(郵便物受領済)”、郵便検閲を受けたことを示す“Postzensurstelle/ K.L. Auschwitz/ geprüft:…………..(郵便検閲/アウシュヴィッツ収容所/検閲担当者…)”の3行印、“zurück/ Annahme verweigert(差出人戻/受取拒否)”の2行印が押されています。

 今日のトークイベントでは、第二次大戦中のチェコスロヴァキアについての基本的な状況や、アウシュヴィッツからベーメン・メーレン保護領宛の郵便物、テレジーン(ドイツ語名テレジエンシュタット)収容所からアウシュヴィッツに移送された収容者に関して行われた郵便物の偽装工作などについてもお話しするほか、時間に余裕があれば、今年5月、エルサレムでの世界切手展に出品したPostal History of Auschwitz 1939-1945 (審査員出品として会場に展示しています)についても、簡単に解説したいと思っています。

 つきましては、ぜひ、14:30から全日展会場の8階イベントスペースでのトークにご参加ください。また、アウシュヴィッツとその郵便物の概要につきましては、拙著『アウシュヴィッツの手紙』も併せてご覧いただけると幸いです。
 
 
★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月20-22日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにチェコ切手展が開催されます。主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2018ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

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      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

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 きょうからチェコ切手展(+全日展)
2018-07-20 Fri 00:19
 かねてご案内の通り、きょう(20日)から、東京・錦糸町のすみだ産業会館8階で、チェコスロヴァキア独立100周年を記念して、在日チェコ共和国大使館のご後援の下、チェコ切手展(全日本切手展2018=全日展と併催)がスタートします。というわけで、きょうは、チェコ関連の展示の目玉のひとつとして、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      チェコスロヴァキア・プラハ城FDC

 これは、1918年12月18日、チェコスロヴァキア最初の切手“プラハ城”の発行日に、プラハ城切手を貼ってドイツ・ワイマール宛に差し出した書留便で、今回のチェコ切手展に展示されている高久健一さんのコレクションの目玉の逸品です。

 第一次大戦以前、オーストリア=ハンガリー二重帝国の支配下に置かれていたチェコとスロヴァキアは、1918年10月18日、チェコスロヴァキアとして独立を宣言します。当初、新国家はオーストリア時代の切手を接収し、“チェコスロヴァキア共和国”などの文字を上から印刷するなどの暫定的な処置で急場をしのいでいましたが、これと併行して、独立国としてオリジナル・デザインの新切手を発行すべく準備を進めました。

 新国家は自国出身の巨匠であったミュシャ(チェコ語の発音だと“ムハ”)に切手のデザインを依頼。これを受けて、ミュシャは、独立後まもない祖国のためにプラハ城を大きく描き、右手に小さく聖ミクラーシュ教会を配した切手のデザインを無償で作成します。

 ミュシャのデザインした切手は、1918年12月18日、最初の3額面(3ハレル、5ハレル=今回ご紹介のカバーに貼られている切手、10ハレル)が発行されたのを皮切りに、1920年までさまざまな額面のものが発行されました。これが、いわゆる“プラハ城切手”です。

 プラハ城切手は、当時の混乱した状況の中で製造されたことから、一見、同じに見える切手でもさまざまなバラエティに分類することができます。また、当時は、わずか2年5ヶ月の間に3回の郵便料金の値上げがあったため、さまざまな種類の郵便物が残されることになりました。今回、チェコ切手展に招待展示されている高久さんのコレクションは、それらを丹念に分類・研究したもので、これまでにも、2011年に横浜で開催の世界切手展<Philanippon 2011>で金賞を受賞したのをはじめ、世界最高水準のコレクションとして知られています。

 なお、今回のチェコ切手展では、ご来場者先着300名様に、プラハ城切手をおひとり1枚、プレゼントしておりますので、切手もさることながら、“ホンモノのミュシャ”を手に入れてみたいという方はぜひ、会場にお運びください。

 
★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月20-22日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにチェコ切手展が開催されます。主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2018ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。

 なお、会期中の21日には、内藤のトーク・イベントが以下の3件あります。
 13:00 【セミナー・9階会議室】 「国際切手展審査員としての経験から テーマティク部門」
 14:30 【講演・8階イベントスペース】 「アウシュヴィッツとチェコを往来した郵便」
 16:00 【新刊紹介8階イベントスペース】 『世界一高価な切手の物語』(東京創元社)


★★★ 近刊予告! ★★★

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 あすから全日展(+チェコ切手展)
2018-07-19 Thu 00:49
 あす(20日)から、東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)が開催されます。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      全日展2018小型印・本所  産業図案・郵便配達

 今回は、全国の収集家の皆さんによる競争出品に加え、チェコスロヴァキア独立100周年の記念行事として8月にプラハで開催の世界切手展<Praga 2018>が行われることにちなみ、チェコ共和国大使館のご後援の下、同展に出品予定の高久健一さんのプラハ城切手のコレクションを中心とした“チェコ切手展”を併催いたします。

 また、日本切手の特別展示としては、発行70周年を迎えた産業図案切手にフォーカスをあて、国際切手展で初めて金賞を受賞した須谷伸宏さんによる特別展示に加え、郵政博物館所蔵の切手試刷を第1会場で、同原画を第2会場で展示します。こうしたことを踏まえて、第1会場の本所郵便局では、会期中、冒頭の画像のような小型印(産業図案30円切手をイメージしたデザインです)を使用します。一方、第2会場の向島郵便局の臨時出張所では、会期中、産業図案5切手の茶摘みをイメージした小型印を使用します。なお、茶摘みに関しては、第1会場に展示の須谷コレクションの目玉として、原版から直接刷った試刷もy展示されます。(下の画像)

      全日展2018小型印・向島  産業図案・茶摘み(プルーフ)

 このほかにも、審査員出品として、山崎文雄さんのハワイ切手のコレクションや郵便番号制度50周年にちなむ宮崎博司さんの特別展示など、見どころの多い展示となりましたので、ぜひ、会場にお越しいただけると幸いです。
     
 
★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月20-22日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにチェコ切手展が開催されます。主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2018ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。

 なお、会期中の21日、内藤は、以下の3回、トーク・イベントをやります。
 13:00・9階会議室 「国際切手展審査員としての経験から テーマティク部門」
 14:30・8階イベントスペース 「アウシュヴィッツとチェコを往来した郵便」
 16:00・8階イベントスペース 『世界一高価な切手の物語』(東京創元社)


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 マンデラ生誕100年
2018-07-18 Wed 00:38
 南アフリア共和国(以下、南ア)初の黒人大統領となったネルソン・マンデラが、1918年7月18日に生まれてから、きょう(18日)でちょうど100周年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・アパルトヘイト廃止15年

 これは、2009年にキューバが発行した革命50周年の記念切手のうち、“アパルトヘイト廃止15年”と題する1枚で、右側にはフィデル・カストロと抱き合うマンデラが取り上げられています。

 マンデラは、1918年7月18日、東ケープ州トランスカイのウムタタ近郊クヌ村で、テンブ人の首長の子として生まれました。ウィットワーテルスランド大学法学部在学中の1944年、アフリカ民族会議(ANC:African National Congress)に入党し、独立運動家としての道を歩き始めます。

 1948年、南アでは、連合党政権の“対英従属・アフリカーナー軽視”を徹底的に批判する国民党が総選挙で第一党に躍進。政権を獲得しました。このときの選挙キャンペーンとして、国民党が大々的に掲げたのが、アフリカーンス語で分離ないしは隔離を意味する“アパルトヘイト”のスローガンです。

 首相となった国民党のマランは、もともとオランダ改革派教会の聖職者で、「アフリカーナーによる南ア統治は神によって定められた使命である」との信念の下、「国内の諸民族をそれぞれ別々に、純潔を保持しつつ存続させることは政府の義務である」と主張。1950年、全国民をいずれかの“人種”に分類するための人口登録法を制定し、これと前後して、人種間通婚禁止法や背徳法(異人種間の性交渉を禁止する法律)を制定。さらに、都市およびその近郊の黒人居住地から黒人を強制移住させ、その跡地を白人(主としてアフリカーナー)のために区画整理するなどの、差別的政策を強行していきました。

 当然のことながら、ANCはこれに抵抗。1955年6月には、人種差別に反対する多人種の人民会議の開催を呼びかけ、ヨハネスバーグ近郊のクリップタウンで“人種差別のない民主南アフリカ”を目指す「自由憲章」を採択し、1960年には当時議長のアルバート・ルツーリがアフリカ出身者として初のノーベル平和賞を受賞しました。

 ところで、当初、ANCは非暴力主義を掲げていましたが、1960年3月、通行証制度(南アの非白人は身分証に相当する“通行証”の携帯を義務付けられ、不携帯の場合は特定の地域に入れなかったり、甚だしくは逮捕されることもありました)に抗議するデモ隊に會艦隊が発砲し、67名が犠牲となるシャープビル事件が発生すると、これを機に、副議長のネルソン・マンデラを指揮官とする軍事部門、ウムコント・ウェ・シズウェ(“民族の槍”の意味)を設立し、武装闘争もやむなしの路線転換を行いました。これに対して、南ア政府は非常事態宣言を発してANCを非合法化。1963年にはマンデラら幹部が一斉逮捕され、ロベン島の収容所に送られました。その後、マンデラの身柄は、1982年、ケープタウン郊外のポルスモア刑務所に移監されましたが、1990年2月の釈放まで、彼は27年間を獄中で過ごし、アパルトヘイトに抵抗する南ア黒人の象徴的な存在となります。

 この間、ANCの一部は周辺の黒人国家に逃れ、東側諸国の支援も受けながら、反政府闘争を展開していましたが、なかでも、1975年に独立したアンゴラでは、アンゴラ解放人民運動 (MPLA)と密接な関係にありました。このMPLAが親ソ派だったことから、南アの国民党政権は米国をも巻き込んで、MPLAを打倒するため、対立組織の)、アンゴラ民族解放戦線 (FNLA)を支援して、内戦に介入します。

 これに対して、“第三世界の連帯”を掲げるキューバは、1975年11月から1976年4月までの間に3万6000人の兵力を派遣し、南ア軍をナミビア(当時は南アの実効支配下)に押し戻しました。このことは、ANCを含むアフリカの反アパルトヘイト勢力を大いに鼓舞。さらに、その後もキューバの軍事顧問団はアンゴラにとどまり、ANCに対して軍事訓練を施しています。

 こうしたことから、キューバとANCの間には緊密な関係が築かれ、カステラとマンデラとの間にも個人的な深い友情関係が結ばれました。マンデラは、釈放後の1991年、ANC議長に就任しましたが、同年、キューバを訪問してカストロに直接会って謝意を述べています。

 その後、マンデラは当時の南ア大統領、フレデリック・デクラークと協力して全人種代表が参加した民主南アフリカ会議を2度開き、デクラークとともに1993年度のノーベル平和賞を受賞。さらに、1994年4月に行われた南ア史上初の全人種参加選挙でANCを勝利に導いて大統領に就任し、1999年に大統領職を退くまで民族和解・協調を呼びかけ、黒人ととの対立や格差の是正、黒人間の対立の解消、経済復興などに尽力しました。

 今回ご紹介の切手に取り上げられているのは、マンデラの大統領退任後の2001年9月、カストロの南ア訪問時に撮影されたもので、抱き合って再会を喜ぶ2人の姿が取り上げられています。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、キューバとアフリカの関係についても、いろいろな角度からまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。
  
 
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 切手歳時記:祇園祭
2018-07-17 Tue 02:38
 公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2018年7月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      祇園祭

 これは、1964年7月15日に発行された“祇園まつり”の切手です。

 京都・八坂神社の祭礼で、大阪の天神祭、東京の神田祭(山王祭を挙げることもある)とともに、日本三大祭のひとつとされる祇園祭は、毎年、7月1日から1ヵ月間にわたって行われる長い祭りです。

 八坂神社の祭神、もともとは牛頭天王でした。

 牛頭天王は、日本の神は仏教の仏が日本風に姿を変えて現れたものとする“本地垂迹説”の影響を受け、薬師如来が行疫神であるスサノオの姿を借りて現れた行疫神(疫病をはやらせる神)とされています。また、生前の釈迦が説法を行った僧院、祇園精舎の守護神とされているため、彼を祭神とする八坂神社も比叡山に属する“祇園社”と呼ばれていました。なお、八坂神社という社名は、明治の神仏分離令で、神社で仏式の行事を行うことが禁止されたことを受け、神社はスサノオ主祭神とし、社名も、仏教用語の“祇園”から、神社の所在地にちなんで“八坂”に改称されたものです。

 平安時代初期の863年、疫病の流行に際して、朝廷は大内裏の南に位置する神泉苑で、疫神や死者の怨霊などを鎮めるための御霊会を行いましたが、疫病は止まなかったため、あらためて牛頭天王を祀り、御霊会が行われました。

 さらに、864年には富士山の大噴火があり、869年には陸奥で貞観地震が起こり、津波で多数の犠牲者が出るなど、天変地異が続いたため、同年、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立てて諸国の悪霊を移し、神輿三基を送り、牛頭天王を祀る御霊会を執り行いました。

 これが、現在の祇園祭の原型とされており、その経緯から、明治以前は “祇園御霊会”と呼ばれていました。

 なお、八坂神社は、社殿では、656年、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主が創建したとされていますが、現在の学術研究では、876年、僧・円如が寺院として建立したものが、ほどなく祇園神を祀るようになり、祇園社となったと考えられています。これが正しいとすると、八坂神社の歴史は、ほぼ祇園祭と重なっていることになります。

 祇園祭のハイライトとなっている山鉾行事も、もとは、行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたものでした。

 今回ご紹介の切手には、東山の遠景と八坂神社を背景に、山鉾の中でも最も有名な“長刀鉾”が描れています。

 長刀鉾の矛先に付けられている大長刀は、もとは、永延年間(987-989)、名工と謳われた三条小鍛冶宗近が娘の病気平癒を祈願して奉納したものでした。鎌倉時代には、力自慢で知られた武士、和泉小次郎親衡は、一時、この太刀を愛用したものの、いろいろ不思議なことが起こったため、神仏を私する非を悟り、再び返納したと伝えられています。

 その後、宗近の刀は1522年には三条長吉作のものと取り替えられ、さらに1675年には和泉守来金道作のものとなりました。現在は竹に銀箔貼りの模造品が使用されています。

 長刀鉾は“くじとらず”と呼ばれ、毎年、巡行の先頭にたち、現在では生稚児の乗る唯一の鉾となっており、まさに祇園祭りの象徴ともいうべき存在として、切手にも取り上げられました。ただし、お祭りシリーズの切手では、肝心の長刀の部分がぼかされています。病気平癒を祈願しての長刀の姿が曖昧では、御霊会としての有難味も薄れてしまうようで、ちょっと残念ですね。


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 W杯はフランスが優勝
2018-07-16 Mon 10:42
 ロシアで開催されていたサッカーのW杯は、フランスの優勝で幕を閉じました。というわけで、きょうはストレートにこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      フランス・サッカー代表(2006)

 これは、サッカーW杯ドイツ大会期間中の2006年7月5日、フランスで発行された「ありがとう、レ・ブルー」の切手です。切手にある“レ・ブルー”はフランス語で“青”の複数形で、サッカーのフランス代表の愛称。切手が発行された7月5日、フランスは準決勝でポルトガルを破り、決勝進出を決めています。

 サッカーのフランス代表の最初の国際試合は、1904年5月1日、ブリュッセルで開催されたベルギーとの試合で、結果は3-3の引き分けでした。

 W杯に関しては、第1回大会の開催に尽力したFIFA会長ジュール・リメがフランス人だったこともあって、1930年の第1回大会から出場しており、開幕試合の対メキシコ戦ではリュシアン・ローランが大会初ゴールを決めています。

 戦前は地元開催となった1938年のフランス大会でベスト8に進出。1958年スウェーデン大会では、大会中2度のハットトリックを含む13得点で大会得点王に輝いたジュスト・フォンテーヌの活躍もあり、3位に入る健闘を見せました。

 1978-86年までは、ミシェル・プラティニを中心に3回連続して本大会に出場。軽やかにパスをつなげる試合運びは、“シャンパンの泡が弾けるよう”として、“シャンパン・フットボール”と呼ばれました。この間、1984年、自国開催の欧州選手権では優勝したものの、W杯では1982年スペイン大会、1986年メキシコ大会のいずれも準決勝で西ドイツに敗れています。

 その後、プラティニの引退もあって、チームはしばらく低迷を続けましたが、1998年のフランス大会では、アルジェリア系ベルベル人のジネディーヌ・ジダンを中心に、アフリカや、カリブ海などのフランスの国外、若しくは旧植民地からの移民、若しくはその子孫の選手を大幅に増やしたチーム構成とし、初優勝を果たしました。

 1998年大会での優勝後は、2002年の日韓大会ではグループリーグ敗退したものの、2006年ドイツ大会で準優勝(ちなみに、同大会の決勝戦では、この試合での引退を表明していたジダンが相手チームの選手から人種差別的な暴言を浴びせられて激昂し、頭突きを食らわせて退場となるというハプニングも起きています)。2010年の南ア大会ではグループリーグで敗退したものの、2014年のブラジル大会ではベスト8に入り、今大会での優勝という戦績になっています。

 
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 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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 仏革命記念日パレードに陸自参加
2018-07-15 Sun 11:00
 きのう(14日)、パリ中心部のシャンゼリゼ通りフランス革命記念日恒例の軍事パレードが行われました。今年は、日仏友好160年を記念し、日本からは陸上自衛隊第32普通科連隊の横山裕之連隊長ら7人が参加し、国旗と自衛隊旗(八条旭日旗)を掲げ、約2.5kmを行進しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      フランス・WWI軍事郵便(旗)

 これは、第一次大戦中、フランス軍の兵士が差し出した軍事郵便の葉書で、中央上部には、フランスとともに戦う協商側の旗が並べられてます。日本を示す旭日旗(デザインはちょっといい加減ですが…)は、左から2番目、帝政ロシアとベルギーの旗の間に描かれています。ちなみに、この葉書が差し出された1916年1月の時点で協商側に立って参戦していたのは、ベルギー、フランス、英国、イタリア、日本、モンテネグロ、ロシア、セルビア、の各国です。

 なお、日本の自衛隊がフランス革命記念日の軍事パレードに招かれたのは、10年前の日仏交流150周年に際して、国連平和維持活動(PKO)への参加隊員が参加したのが最初で、ついで、2014年の第一次大戦勃発100周年に際して旧協商国の一員として招待され、今回が3回目となります。来年は、1919年のヴェルサイユ条約調印100周年でもありますので、旧協商国(=戦勝国)の一員として、自衛隊が国旗と自衛隊旗を掲げてシャンゼリゼを行進する姿がまた見られるかもしれませんね。 


★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月20-22日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにチェコ切手展が開催されます。主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2018ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。

 なお、会期中の21日、内藤は、以下の3回、トーク・イベントをやります。
 13:00・9階会議室 「国際切手展審査員としての経験から テーマティク部門」
 14:30・8階イベントスペース 「アウシュヴィッツとチェコを往来した郵便」
 16:00・8階イベントスペース 『世界一高価な切手の物語』(東京創元社)


★★★ 近刊予告! ★★★

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 イラク・共和国記念日
2018-07-14 Sat 03:02
 きょう(14日)は、1958年7月14日にイラクで革命が発生し、ハーシム家の王制が倒れ、共和制が樹立されたことにちなみ、イラクでは共和国記念日の祝日です。というわけで、今年は60周年の節目の年でもありますので、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イラク・革命加刷カバー

 これは、1958年の共和革命後、王制時代の国王の肖像切手に“イラク共和国”を意味するアラビア語の文字を加刷した切手を貼り、バグダードからウィーン宛に差し出した書留便です。

 第一次大戦後、オスマン帝国の解体によって建設されたイラクは、ハーシム家の親英王制の支配下にありました。

 ところが、1958年2月、第一次大戦後の中東諸国の枠組を否定し、各国での共和革命の実現を掲げるアラブ民族主義国家のエジプトとシリアが合邦し、アラブ連合共和国(UAR)が発足。このことは、ハーシム家による王政国家のイラクとヨルダンにとって深刻な脅威となりました。

 このため、1958年2月14日 ヨルダンのフセイン国王主導の下、ハーシム家連合としてヨルダン=イラク同盟(アラブ連邦王国)が成立。イラク80%、ヨルダン20%の負担割合で軍を統一することになりました。

 こうした状況の中、同年7月上旬 イラクおよびヨルダンで王打倒のクーデター計画が発覚。ヨルダンで摘発されたクーデター参加者はエジプト(人)の関与をほのめかし、計画は中止されたと自供しましたが、イラクはヨルダン支援のため、軍部隊派遣を決定します。

 一方、イラク国内では、ナセルのアラブ民族主義に感化されたアブドゥルカリーム・カーシムやアブドゥッサラーム・アーリフらの将校たちが、地下組織として“自由将校団”を組織していましたが、イラク政府は、ヨルダン派遣軍の指揮官に、よりによってカーシムとアーリフの2人を任命してしまいます。この結果、武力をえた2人は、7月14日、バグダードでクーデターを敢行し、王族全員と首相のヌーリー・サイードを殺害し、王制の妥当と共和制の樹立を宣言しました。これが、イラク7月14日革命で、今回ご紹介のカバーには、王制を否定するために国王の肖像を加刷文字で抹消した切手が貼られています。

 7月14日のクーデターに、UARが実際に関与していたか否か、さらに、関与していたとして、それはどの程度のものだったのかは不明ですが、革命後ただちに、UARは新政権への支援を表明し、シリア=ヨルダン国境を封鎖しました。

 そこで、ヨルダンとレバノンは米国に軍事支援を要請。特に、ヨルダンはイスラエル経由での通商路の確保のため、米国に仲介を依頼します。米国はレバノンに海兵隊を派遣するとともに、イラクのヨルダン・ウェートへの攻撃やサウジアラビアの政情不安に備えて、沖縄駐留の海兵隊をペルシャ湾に派遣することを決定。さらに、英国もイラク軍の侵攻に備えてヨルダンとクウェートに兵力を派遣しました。

 これに対して、イラクの新政権は、クウェートの領有権は主張したものの、実際には、ヨルダン、クウェートへの侵攻作戦は行わず、また、石油生産で西側諸国との協力を強める意志があることを表明したため、8月初頭には、米英も新政権を承認し、事態は次第に沈静化に向かいました。

 なお、イラクの共和革命を含め、1950-70年代のアラブ民族主義諸国については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。

 
★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

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      全日展2018ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。

 なお、会期中の21日、内藤は、以下の3回、トーク・イベントをやります。
 13:00・9階会議室 「国際切手展審査員としての経験から テーマティク部門」
 14:30・8階イベントスペース 「アウシュヴィッツとチェコを往来した郵便」
 16:00・8階イベントスペース 『世界一高価な切手の物語』(東京創元社)


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 世界の切手:セネガル
2018-07-13 Fri 07:14
 ご紹介がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年7月4日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はセネガル(と一部日本)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) 

      セネガル・マリ連邦混貼カバー

 これは、1960年12月29日、セネガルの首都ダカールから米国宛のカバーで、マリ連邦時代の切手(右上の魚を描く30CFAフラン切手)とセネガル切手の混貼使用となっているのがミソです。

 第二次大戦後の1958年、仏領西アフリカ連邦を構成していた各植民地は、完全独立を果たしたギニアを除き、フランス共同体内の自治共和国として独立。これを受けて、同年12月末、旧仏領スーダン(現マリ)の首府バマコにスーダン、セネガル、オート・ヴォルタ(現ブルキナファソ)ダホメ(現ベナン)各地の汎アフリカ主義者らが集まり、新たな連邦を創設してフランスからの完全独立を目指して会議を開催。翌1959年1月17日、セネガルのダカールで開催された“憲法制定会議”において「“マリ連邦”憲法」が承認され、各共和国で国民投票にかけられることになりました。ところが、各地域での国民投票の結果、実際に同憲法を承認したのは旧スーダンとセネガルのみで、“マリ連邦”は、1959年4月4日、両者の連合体としてスタートします。

 フランスは、当初、マリ連邦の独立を承認せず、フランス本国との国家連合を求めていましたが、最終的に1959年12月11-12日にセネガルのサン・ルイで開催されたフランス共同体委員会でマリ連邦の独立を実質的に承認。1960年6月20日、マリ連邦は正式に独立を達成しました。

 ところが、連邦のあり方をめぐって、旧スーダンとセネガルとの対立が生じ、2か月後の8月20日、首都ダカールに閣僚が集まり、連邦の新制度や正式な大統領の選出方法などについて討議していたところ、セネガルがマリ連邦からの独立を宣言。旧スーダン側は国連軍の派遣を要請してこれを阻止しようとしましたが、結局失敗し、1960年9月22日、旧スーダンの領域のみで、あらためて現在の“マリ共和国”として独立し、同月28日、国連に加盟しました。このあたりの事情については、拙著『マリ近現代史』もご覧いただけると幸いです。

 ちなみに、マリ連邦の解体後も、セネガルおよびマリ共和国の双方では、いずれも、連邦時代以来のCFAフランを使用していましたので、マリ連邦時代の切手を継続して使うことが可能でした。今回ご紹介のような混貼カバーは、こうした事情から生まれたものです。

 さて、『世界の切手コレクション』7月4日号の「世界の国々」では、セネガル狙撃兵についてまとめた長文コラムのほか、ギニアアブラヤシ、ダカールのオベリスク広場、サン・ルイ、ダカール・ラリー、セネガルの柔道切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のセネガルの次は、7月18日に発売予定の7月25日号でのブルガリアの特集です。こちらについては、発行日の7月25日以降、このブログでもご紹介する予定です。

 
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 原油先物が2年ぶりの大幅安
2018-07-12 Thu 08:36
 今月9日、リビア国営石油が不可抗力条項に伴い閉鎖していた石油輸出港4施設を再開し、数時間内に生産・輸出量を通常水準に戻すと発表したことで、きのう(11日)、原油先物相場は急落。米中貿易摩擦の高まりによる需要への悪影響もあり、1日としては2年ぶりの下げ幅となる5%安となりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      リビア・ズウェイティナ油田

 これは、1968年にリビアが発行した“ズウェイティナ石油ターミナル”の切手です。
 
 リビアはアフリカ第1位(世界第9位)の原油埋蔵量(約471億バーレル)を誇る資源大国ですが、独立以前は農業国で、1951年の独立後、1955年から油田開発が進められ、1959年に産油国となりました。

 王政時代の油田開発の中心になったのはオクシデンタル・ペトロリウム社等の国際石油資本で、ゼルテン、サリール、アマルなどを有する東部のキレナイカはリビア最大の油田地帯となりましたが、1969年の革命後、石油産業は国有化され、リビア国営石油の管理下に置かれています。

 リビアの油田は陸上シルテ盆地・キレナイカに存在し、海上油田からも生産していますが、なかでも、今回ご紹介の切手のズウェイティナと、ラス・ラヌフ、エスシダーのターミナルが三大石油積出港とされています。また、リビアの輸出の9割は石油関連ですが、貿易黒字を維持するために輸出量は調節されています。

 1970-80年代、リビアは300万BD(バレル/日)を超える原油生産量を誇っていましたが、パンナム機爆破事件により1992年から1999年まで行われた国連の経済制裁により生産量が低下。さらに、2011年の内戦の影響により、160万BDあった原油生産量がほぼ停止に追い込まれます。内戦終結後の2012年5月には150万BDまで回復したものの、その後も不安定な治安状況が続いたため、2013年は25-80万BDの水準で推移。2016年には、ISことダーイシュによる石油貯蔵タンクへの攻撃もありましたが、徐々に石油施設が再開され、同年11月には約50万BDの生産量を取り戻します。

 その後、128万BDにまで増産が進んだものの、ことし(2018年)2月、武力衝突が発生。リビア東部を実効支配するハリファ・ハフタル将軍の武装組織は、対立する武装勢力から奪還した港湾の管理権を、ベンガジの別の石油当局に引き渡したため、85万BD前後の輸出が停止されていました。このため、7月10日の時点での生産量は52万7000BDと、半年足らずの間にほぼ半減していましたが、今回の施設再開により、ことし2月の水準に回復することが見込まれたため、今回の急落につながったというわけです。

 
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 タイ洞窟、少年ら全員無事救出
2018-07-11 Wed 02:13
 先月23日以来、タイ北部チェンラーイ郊外のタムルアン洞窟に閉じ込められた地元サッカーチームの少年12人とコーチ1人が、きのう(10日)、タイ海軍特殊部隊などで構成された潜水士らにより、無事、全員救出されました。というわけで、チェンラーイにちなんで、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・ワット・ロンクン(2013)

 これは、2013年にバンコクで開催された世界切手展<Thailand 2013>に際してタイが発行した記念切手のうち、ワット・ロンクンを取り上げた1枚です。

 ワット・ロンクンはチェンラーイ市街地から約14キロの地点にあり、1997年、チャルムチャイ・コーシッピパットの設計により建立されました。

 タイの寺院の多くは、迷いを除いて願いをかなえ、人々を喜ばせる色として黄金に彩色されていますが、ワット・ロンクンでは、仏陀の清浄さを象徴する純白の壁面に微妙に色が異なる銀色のガラスタイルがはめ込まれています。ガラスタイルが角度によってさまざまな光を放つさまは、“真の光(仏の光)”は一切の影を作らず、全宇宙に広がり、あまねく衆生に降りそそぐことを表現したのだそうです。

 また、画面右側の橋は“輪廻転生の橋”と名付けられていますが、これは、橋のたもと(切手の画面には入っていません)の周囲に地獄を表現するオブジェを配し、そこから橋を渡って本堂(=天国)に入ることで、参拝者が魂の宮宰のプロセスを意識できるとのコンセプトに由来しています。そして、堂内に入ると、壁面にはバットマン、スーパーマン、プレデター、マトリックスなどポップカルチャーに由来のするモチーフが、仏教的な善悪を表現するよう描かれています。

 なお、ワット・ロンクンは現在なお建築中で、最終的には、塔や庵などを含めて9つの建物が建設される予定です。

 
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 小さな世界のお菓子たち:アイスクリームの切手
2018-07-10 Tue 00:28
 大手製菓メーカー(株)ロッテの季刊広報誌『Shall we Lotte(シャル ウィ ロッテ)』の第40号(2018年夏号)ができあがりました。僕の連載「小さな世界のお菓子たち」では、今回は、こんな切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      ドイツ・夏休み(2003)

 これは、2004年、“休日”を題材にドイツが発行したヨーロッパ切手で、下段右に三色アイスが描かれています。

 ヨーロッパにおける国際間の郵便と電気通信を統括している“欧州郵便電気通信主管庁会議 (European Conference of Postal and Telecommunications Administrations; CEPT) は、毎年、統一テーマの下、加盟各国が思い思いのデザインで切手を発行する”ヨーロッパ切手“の企画を行っています。

 ヨーロッパ切手は、1956年、当時の“欧州石炭鉄鋼共同体”の加盟6ヵ国(ベルギー、フランス、西ドイツ、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ。翌57年、この6ヵ国がEUの前身、EEC設立のローマ条約に調印します)が同一図案で発行したのが最初で、1959年にCEPTが設立されてからは、CEPTの切手として毎年発行されることになりました。

 2004年のヨーロッパ切手のテーマ、“ホリデイ(休日)”にあわせてドイツが発行した切手は、夏のヴァカンスのイメージで、貝殻、カクテル、(自転車の)車輪、サングラス、オレンジ、ビーチボール、ひまわり、方位磁石、麦わら帽子などの円形のモノをずらっと並べていますが、その中には、丸いお皿に盛られた3色のアイスクリームも右下に描かれています。

 ドイツ語ではアイスクリームのことを“シュパイゼアイス(Speiseeis)”または“アイス(Eis)”と言い、国民一人あたりの年間消費量は8リットルにもなるそうです。

 お菓子屋さんやカフェなどの店頭で注文するときには、まず、ワッフルまたはコーンにするか、カップにするかを決めてから、アイスクリームの種類と数をいうのですが、その際、アイスクリームを数える単位としては、“球”を意味する“クーゲル”という単語が用いられます。なお、消費量としては、1位がヴァニラ、2位がチョコレート、3位がイチゴで、2004年のヨーロッパ切手でも、この3種のクーゲルを一つずつ盛ってウエハースを添えたお皿が描かれています。やはり、ドイツ人にとってのシュパイゼアイスと言えば、この組み合わせが定番ということなのでしょう。

 ちなみに、ドイツではこの3つのフレーヴァーをワッフルで挟んだ3色アイスも売られていて、こちらは、考案者とされるヘルマン・ピュックラー侯爵にちなんで、“フュルスト・ピュックラー・アイス(Fürst-Pückler-Eis)”と呼ばれています。なるほど、3種の味を一度に味わう贅沢は、かつては、貴族でなければできないことだったのかもしれません。ただし、現在のフュルスト・ピュックラー・アイスは、スーパーやコンビニなどでも日常的に売られており、誰でもお気軽に侯爵気分を味わえるようになっています。


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 20年ぶりの哀厄首脳会談
2018-07-09 Mon 04:40
 エチオピア(漢字表記は哀提伯)のアビィ・アハメド首相が、きのう(8日)、隣国エリトリア(漢字表記は厄立特里亜)の首都アスマラを訪れ、イサイアス・アフェウェルキ大統領と会談しました。1998年に両国間で国境紛争が発生して以来、首脳同士の会談は約20年ぶりだそうです。というわけで、エリトリアのニュースが話題になることも滅多にないので、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イタリア・エリトリア加刷(1893)

 これは、1893年、イタリア領時代のエリトリアで発行された最初の切手です。

 19世紀後半、エチオピアへの進出を目論んだイタリアは、1885年、エチオピア北東の紅海沿岸の地を占領。1889年のウチャリ条約で同地の保護領化を認めさせました。翌1890年、イタリアはここをラテン語で“紅海”を意味する“Mare Erythraeum”にちなんで、エリトリアと命名し、1893年には本国切手に地名を加刷した最初の切手を発行します。

 第二次大戦中の1941年、英国はエリトリアのイタリア軍を駆逐し、ここを軍政下に置きました。1952年、英軍が撤退すると、エリトリアは内政自治権を保持したまま、エチオピアと“エチオピア・エリトリア連邦”を形成します。しかし、同連邦ではエチオピアがエリトリアの自治権を尊重しなかったため、1962年、エリトリア議会は連邦離脱を決議。これに対して、エチオピアは軍で議会を包囲し、エリトリアの迎合を宣言し、エリトリアをエリトリア州としてしまいました。

 以後、これを不満とするエリトリア住民は独立闘争を展開。1991年、独立勢力のうちの最大勢力、エリトリア人民解放戦線 (EPLF) が、ティグレ人民解放戦線 (TPLF) 等とともに首都アディスアベバに突入し、5月29日、独立を宣言し、1993年5月にはエチオピアもこれを承認しました。

 その後、しばらくは両国関係は良好でしたが、1997年、エリトリアが、独立戦争時の激戦地に由来する名前の独自通貨“ナクファ”を導入し、エチオピア・ブルから離脱。さらに、エリトリアの独立によって内陸国となったエチオピアは、エリトリアに使用料を払って、従来からの港湾施設を使用していましたが、その使用料をめぐって両国は対立します。さらに、内陸部のバドメ周辺の国境未画定地域で金鉱が発見されたことなども重なり、1998年5月6日、バドメでエチオピア民兵がエリトリア兵8名を殺害する事件が発生すると、両国間で国境紛争に発展しました。

 以後、2000年6月18日、アフリカ統一機構の調停により、①即時停戦、②停戦監視のための平和維持部隊の展開、③エチオピア軍は1998年5月6月以前の統治地域まで撤退、④エチオピア軍の撤退ラインからエリトリア側に25kmの暫定安全保障地帯(エリトリア軍は立ち入り禁止)設置、などを骨子とする停戦合意がまとめられるまで、10万人の死傷者と多数の難民が発生しました。

 停戦合意を受け、PKO国際連合エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)が設置され、2002年4月13日には、オランダ・ハーグに設置された国際委員会により、 新国境案が提案されました。しかし、同案ではバドメがエリトリア領とされていたため、エチオピアはこれに強く反発。また、エチオピアへの対抗上、2005年にはエリトリアも国連機を領域内飛行禁止にしたほか、2007年10月16日にはエリトリア軍のタンカーが暫定安全保障地帯に侵入するなあど、UNMEEに対するエリトリアの妨害が激化していったため、2008年7月、国連安保理は7月31日の任期切れをもって、UNMEEを撤退させることを決議し、UNMEEの活動は終了しました。

 さらに、内陸国化したエチオピアが、エリトリアの港湾の使用を事実上断念し、ジブチの港湾を使用するようになったことから、エリトリアとジブチの関係も悪化。UNMEEの撤退直前の2008年6月には、エリトリア軍がジブチに侵入し、ジブチ軍人2名が死亡する事件が発生するなど、両国間の緊張状態が続いていました。

 こうした中で、ことし(2018年)4月2日、新たに発足したエチオピアのアビィ政権は、エリトリアとの関係改善に向けた対話路線を取り、6月18日の人民代表議会では、アビィ首相がみずから2002年の国境案の受け入れを表明。エリトリア側もこれを歓迎し、エチオピアに外交団を派遣するなど、関係改善が進む中で、今回、20年ぶりの首脳会談が実現したというわけです。

 
★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月20-22日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにチェコ切手展が開催されます。主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2018ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。

 なお、会期中の21日、内藤は、以下の3回、トーク・イベントをやります。
 13:00・9階会議室 「国際切手展審査員としての経験から テーマティク部門」
 14:30・8階イベントスペース 「アウシュヴィッツとチェコを往来した郵便」
 16:00・8階イベントスペース 『世界一高価な切手の物語』(東京創元社)


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

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 単独候補でも落選
2018-07-08 Sun 01:08
 先月27日に投票が行われたインドネシア南スラウェシ州の州都マカッサルの市長選で、唯一の候補者だったムナファリ・アリフディン氏に拒否を示す票が総投票数の53%超に上ったため、対立候補がいなかったにもかかわらず、きのう(7日)までに同氏の落選が決まりました。これを受けて、マカッサル市にはインドネシア中央政府から代理市長が派遣され、2年後の次回選挙まで市政を担当することになります。というわけで、マカッサルにちなんで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      蘭印・錨加刷(南セレベス)

 これは、日本占領下のマカッサルで、戦前のオランダ領東インド(蘭印)切手に“大日本”の文字と海軍占領地区を示す錨のマークを加刷した切手です。

 1941年12月8日、オランダに対して宣戦を布告した日本軍は、1942年1月11日、ボルネオ(カリマンタン)島北部のタラカンとセレベス(スラウェシ)島北部のメナドに上陸。以後、島々の占領を進め、3月20日に蘭印の全地域を占領下に置きました。

 これを受けて、蘭印地域のうち、スマトラ島ジャワ島をのぞく地域(具体的には、ボルネオ島の旧オランダ領地域、セレベス、モルッカ諸島、小スンダ列島、西ニューギニアなど)は海軍が占領行政を担当することになり、セレベス島のマカッサルに南西方面海軍民政府本部が設置され、その下部組織としての海軍民政部がマカッサル(セレベス島)、バリックパパン(ボルネオ島。後に島内のバンジェルマシンに移転)、アンボン(後にバリ島のシンガラジャに移転)の3ヶ所に設けられ、現地の占領行政を担当しました。

 こうした海軍の占領地区では、占領当初、接収した蘭印の切手に“大日本”の文字と海軍を示す錨を加刷した切手が使われていました。このうち、マカッサルで製造された錨加刷切手は、主として、南セレベス州で使用されましたが、マカッサルが海軍占領地域の中心拠点でもあったことから、1944年8月頃から、ボルネオ島、バリ島、モルッカ諸島にも配給され、使用されています。

 なお、日本占領時代の蘭印(現インドネシア)の切手と郵便の一端については、拙著『蘭印戦跡紀行』でもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。

 
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 ソロモン諸島独立40年
2018-07-07 Sat 00:36
 1978年7月7日にソロモン諸島が独立してから、ちょうど40周年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。

      ソロモン諸島独立(国旗)

 これは、1978年のソロモン諸島独立時に発行された記念切手のうち、新国家の国旗を取り上げた1枚です。ソロモン諸島の国旗は、独立に先立つ1977年11月8日に制定され、5つの星は5つの主要な島(ガダルカナル島、サンクリストバル島、マレータ島、サンタイサベル島、チョイスル島)を、青は諸島を囲んでいる海、緑は陸地、黄色の線は日光を象徴しています。

 ソロモン諸島は、南太平洋のメラネシアのうち、ニューギニア島東方の100余の島々で、地域概念としては、ブーゲンビル島を含みますが、行政的にはブーゲンビル島はパプア・ニューギニアの支配下にあるため、国家としての“ソロモン諸島”の総面積は、同島を除く範囲となっています。国民の9割以上はメラネシア系ですが、彼らの間には部族間対立が存在しています。

 ソロモン諸島との名は、1568年、西洋人として初めてこの地を訪れたスペイン人探検家、アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラがガダルカナル島で砂金を発見し、これを古代イスラエルのソロモン王の財宝だと誤解して命名したものです。

 1893年にソロモン諸島(の南部)は英領となり、1896年に弁務官としてチャールズ・モリス・ウッドフォードがツラギに派遣されました。しかし、当初、この地域では近代郵便は実施されておらず、外部との通信は幸便に託され、オーストラリアに持ち込まれた後に、持ち込んだ人が差出人から預かったお金で切手を購入して投函するという形式が取られていました。
 
 このため、ウッドフォードはニューサウスウェールズ切手を持ち込んで欧米系の住民に販売。ニューサウスウェールズ切手を貼った郵便物はツラギに集められ、一括してシドニー郵便局長宛に送られ、シドニーで消印された後宛先地に届けるという方式が採用されます。その後、1906年、ツラギでのニューサウスウェールズ切手の販売は停止され、代わりに、“BRITISH SOLOMON ISLANDS PAID”と表示された印が使用されるようになります。この印が押された郵便物は、シドニー以遠の料金相当の小切手とともに一括してシドニーに送られ、シドニーでニューサウスウェールズ切手を貼り、宛先地へ届けられるようになりました。

 翌1907年2月には、英領ソロモン諸島としての最初の切手がシドニーのW.E.スミス社で製造され、発行されています。

 第二次大戦中の1942年5月3日、日本軍は英領ソロモン諸島のツラギ島に進出。その後、この地域の制空権を確保するため、7月から隣接するガダルカナル島のルンガ地区に建設工事を開始して、8月5日には滑走路の第1期工事が完了しました。日本軍はこの飛行場をルンガ飛行場と命名します。

 これに対して、8月7日、米軍の第1海兵師団がガダルカナル島に上陸し、飛行場を占領。同12日、米軍は飛行場をヘンダーソン飛行場と改称します。この名前は、2ヶ月前のミッドウェー海戦で戦死した海兵隊の航空指揮官、ロフトン・R・ヘンダーソン少佐にちなんだものでした。

 その後、約2週間で1100mの滑走路1本が完成し、ヘンダーソン飛行場は米軍の一大反攻基地となりますが、日本軍も飛行場奪回を目指して猛攻を加え、この飛行場をめぐって激戦が展開されます。最終的に、1943年2月、日本軍は“転進(=撤退)”を余儀なくされましたが、ガダルカナル島に上陸した約3万名の日本軍将兵のうち、撤退できたのは1万名余しかおらず、戦死者2万1000名のうち、1万5000名は病死または餓死だったといわれています。このことから、ガダルカナル島、略してガ島は“餓島”とさえいわれました。

 第二次大戦後は英領に復しましたが、1976年に自治権を獲得。2年後の1978年に英連邦加盟国かつ英連邦王国として独立しました。

 独立後は、英連邦王国の一国として独立後、政治・経済の中心地であるガダルカナル島へは、隣のマライタ島からの移住者が急増。このため、もともとの島民と移住者との対立が激化し、流血の事態にまで発展したため、ソロモン諸島政府の要請を受けて、2003年7月、オーストラリアとニュージーランドの軍、警察約2200人が出動する騒ぎになりました。また、人口的には0.3%に過ぎない華人が経済的に大きな力を持っていることへの不満から、2006年4月には、ホニアラで中華街に対する大規模な襲撃事件も発生しています。

 ソロモン諸島のうち、ガダルカナル島には、昨年のアジア国際切手展<Merbourne 2017>の機会をとらえて、現地で戦跡めぐりをしましたが、いずれ、その時の体験を踏まえて、何かまとまったものを書いてみたいですね。

 
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 ヤン・フスの日
2018-07-06 Fri 09:30
 きょう(6日)は、チェコでは“ヤン・フス”の祝日、昨日の“聖キリルと聖メトディウスの日”に続く連休です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      チェコ・ヤン・フス(2015)

 これは、2015年にチェコが発行した“ヤン・フス処刑600年”の記念切手で、フスの肖像が大きく取り上げられています。

 ヤン・フスは、1369年頃、プラハの南南西75kmの地点にあるフシネツで、貧しいチェコ人の家庭に生まれました。1380年代半ばにプラハ大学で学び、1398年には同大教授、1401年に哲学部長、1403年には学長となりました。英国で教会を批判し、聖書による信仰を回復することを説いたウィクリフの教説を知ってその影響を受け、カトリック教会の世俗化を厳しく批判するようになり、1402年からはチェコ語で説教をするようになりました。ちなみに、フスは、一つの記号でそれぞれの音を表すため、チェコ語の綴りに特殊記号(特にハーチェク: č, š, ž, ř, ěなど)を使用し始めた人物でもあります。

 フスの説教と教会改革の主張は、ベーメン(ボヘミア)の貴族や民衆に広く受け容れられ、影響力を持つようになりましたが、1411年、対立教皇ヨハネス23世が、ナポリ王ラディズラーオ1世を制圧するための十字軍派遣にあたって、その遠征費用を賄うため、免罪符の売買を始めると、1412年、フスはこれに反論する論文を発表。フスは同論文で「教会の名のもとで剣を挙げる権利は教皇にも司教にもなく、敵のために祈り、罵るものたちに祝福を与えるべきである」「人は真の懺悔によって赦しを得、金では購うことはできない」と主張し、これに刺激を受けたボヘミアの民衆の一部が教皇の教書を焼き捨て、教会の説教の途中で説教者を否定し免罪符を欺瞞と罵ったため、3人が逮捕・斬首される騒擾事件が発生しました。

 ローマ教会は一連の騒擾事件を不快とし、教皇代理で大司教のアルビックは、フスに対して教書への反対を止めるように説得を試みます。また、ボヘミア王のヴァーツラフ4世はフス派と反フス派の調停を試みたものの失敗。このため、1414年、神聖ローマ皇帝のジギスムントはコンスタンツ公会議にフスを召還。フスは自説を主張する機会と考えてそれに応じたものの、審問では一切の弁明も許されず、一方的に危険な異端の扇動者であると断じられ、1415年7月6日、焚刑に処せられました。

 フス自身は、あくまでもローマ教皇の権威を尊重し、免罪符などの誤りを質して、教会が聖書に基づく信仰に戻ることを求めただけでしたが、彼の思想が“危険思想”として排斥され、フス自身も処刑されたことは、封建領主としての教会やドイツ人に対するチェコ人の不満に火をつける結果となり、1419-36年には、“フス戦争”と呼ばれる大規模な農民一揆が発生しました。

 その後、フス戦争がフス派の敗北に終わり、三十年戦争もフス派とプロテスタントの敗北に終わった後、チェコではカトリックが優勢となったため、フスの名も長らく忘れられていましたが、19世紀以降、チェコ人のナショナリズムが高揚する過程で、フスはチェコの民族的英雄とされるようになり、彼の最後の言葉“真実は勝つ(Pravda vítězí)”がチェコ・ナショナリズムを象徴するスローガンとなります。その結果、処刑から500周年の1915年7月6日にはフスとフス派の群像がプラハ旧市街に建立されたほか、チェコスロヴァキアの独立後の1920年、“真実は勝つ”は国の標語に採用されました。

 さらに、社会主義体制下の1977年1月1日、改革派の知識人らが人権回復を求めて発表した宣言『憲章77』には、フスの言葉を意識したとみられる「真実に生きる者のために真実は勝つ」という標語が掲げられていたほか、1989年のビロード革命では、ヴァーツラフ・ハヴェル大統領がフスの言葉を踏まえて「愛は憎しみを、真実は虚偽を征服しなければならない」というスローガンを唱えています。

 こうした経緯を経て、冷戦終結後の1990年、ローマ教皇ヨハネ=パウロ2世がプラハを訪問し、教会改革者としてのフスを再評価。1999年には、ヴァチカンは「フスに課せられた過酷な死と、その後に生じた紛争に対して、深い哀惜の意を表明する」との声明を発表し、彼に対する完全な名誉回復が行われています。

 なお、7月20-22日に東京・錦糸町で開催の全日本切手展では、ことし(2018年)がチェコスロヴァキア独立100周年であることにちなみ、“チェコ切手展”を併催します。同展では、チェコスロヴァキア最初の切手として知られるプラハ城切手の世界的なコレクションの展示をのほか、チェコ美術に関する講演などのプログラムもご用意しております。僕も21日(土)14:30から、8階イベントスペースで「アウシュヴィッツとチェコを往来した郵便」と題するトークイベントを行いますので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。
 

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 聖キリルと聖メトディウスの日
2018-07-05 Thu 00:18
 きょう(5日)は、チェコとスロヴァキアでは“ 聖キリルと聖メトディウスの日”の祝日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      チェコ・聖キリルと聖メトディウス(2013)

 これは、2013年にチェコが発行した“聖キリルと聖メトディウスの大モラヴィア到達1150年”の記念切手で、天使を従えたキリストの前に跪く聖キリル(左)と聖メトディウス(右)を描くフレスコ画が取り上げられています。フレスコ画はローマのサン・クレメンテ教会のもので、両聖人の肖像画としては最古のものです。なお、“聖キリルと聖メトディウスの大モラヴィア到達1150年”のテーマでは、今回ご紹介のチェコのほか、スロヴァキア、ヴァティカン、ブルガリアで同じフレスコ画を取り上げた切手が共同発行されています。

 聖キリル(キュリロス)は、827年、テッサロニキの富裕な家庭に生まれました。誕生時の名前はコンスタンティノスでしたが、コンスタンティノポリスで哲学を学んだ後、修道士となり、キュリロスと称しました。

 ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語に熟知した文献学者、またユダヤ教やイスラムに反駁する哲学者として知られ、9世紀後半、モラヴィア王国(現在のチェコ東部に相当)が東ローマ帝国にキリスト教宣教師を要請すると、布教のためモラヴィアへ兄メトディオスとともに派遣されてモラヴィア王家に洗礼を施し、キリスト教に改宗させました。また、新たに考案したグラゴル文字(現在のキリル文字のもとになったとされる文字)を用いて古代教会スラヴ語への聖書の翻訳を行うなど、スラヴ世界におけるキリスト教伝道に努めたため、キュリロスとメトディオスの兄弟は、ともに“スラブの(亜)使徒”と称され、スラヴ圏のキリスト教会では崇敬の対象となっています。

 しかし、兄弟によるモラヴィアへの布教に対しては、彼らが翻訳したスラヴ語聖書を使用することの是非をめぐってザルツブルク司教ティトマールが兄弟を攻撃したため、867年、ローマ教皇ニコラウス1世は兄弟をローマに招聘。これを受けて、兄弟は、聖クレメンス(第4代ローマ教皇l)の聖遺物を携え、弟子たちとともにローマへ上り、教皇に謁見。その学識と人格はローマの人々を魅了し、教皇は2人にモラヴィア伝道の許可を確認するとともに、スラヴ語による奉神礼に公式の許可を与えました。

 その後、キュリロス869年2月14日に亡くなり、彼の死後、モラヴィア伝道とスラヴ語奉神礼の整備は兄メトディオスと弟子たちに引き継がれました。しかし、彼らのモラヴィア布教は最終的に東フランク王国の圧力で失敗に終わり、モラヴィアは後にカトリック圏に組み込まれていくことになります。

 なお、7月20-22日に東京・錦糸町で開催の全日本切手展では、ことし(2018年)がチェコスロヴァキア独立100周年であることにちなみ、“チェコ切手展”を併催します。同展では、チェコスロヴァキア最初の切手として知られるプラハ城切手の世界的なコレクションの展示をのほか、チェコ美術に関する講演などのプログラムもご用意しております。僕も21日(土)14:30から、8階イベントスペースで「アウシュヴィッツとチェコを往来した郵便」と題するトークイベントを行いますので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。
 
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 米独立記念日
2018-07-04 Wed 01:46
 きょう(4日)は米国の独立記念日です。というわけで、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』に関連して、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      グアンタナモ基地葉書

 これは、1943年7月23日、キューバ島グアンタナモの米海軍基地内の郵便局から差し出された葉書です。
 
 1898年の米西戦争は、1895年から行われていたキューバの独立闘争を支援することが大義名分でしたが、実際には、1898年8月12日の停戦を経て、12月10日に和平条約として米西間でパリ条約が結ばれると、キューバは保護国化されて米軍政が始まります。

 その後、1902年にキューバは“独立”を達成しますが、これに先立つ憲法制定の過程で、米国はキューバ制憲議会に対して、①キューバの独立が脅かされたり、米国人の生命・財産が危険にさらされたりした場合には米国は介入できる、②キューバは(米国以外の)外国から資金を借りてはいけない、③キューバ政府は(米国以外の)外国に軍事基地を提供したりしてはいけない、④キューバ政府は米軍事基地を提供する義務を負う、など8項目からなる付帯事項(提案した米議員の名前から、“プラット修正条項”と呼ばれています)を押し付けました。

 このうち、上記の④に基づき、1903年2月23日、米国はキューバ島東南部のグァンタナモ湾に面する116平方キロの土地を海軍基地として永久租借する権利を獲得しました。これがグアンタナモ米軍基地で、形式上の主権はキューバ側にあり、米国は“租借料”として、長年、毎年金貨2000枚(4000米ドル)を支払っていました。

 1959年のキューバ革命で成立したフィデル・カストロ政権は、米国による基地租借を非合法と非難しているため、租借料は1度受け取ったのみで、その後は受け取りを拒否し、基地周辺に地雷を敷設しています。基地の敷地内は、米軍法のみが適用される治外法権区域になっているため、1970年代以降、キューバやハイチからの難民を収容する施設が設けられました。後に、収容施設は、アフガニスタン戦争およびイラク戦争の捕虜が収容されるようになり、現在でも、40人が収容されています。
 
 
★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月20-22日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにチェコ切手展が開催されます。主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2018ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。

 なお、会期中の21日、内藤は、以下の3回、トーク・イベントをやります。
 13:00・9階会議室 「国際切手展審査員としての経験から テーマティク部門」
 14:30・8階イベントスペース 「アウシュヴィッツとチェコを往来した郵便」
 16:00・8階イベントスペース 『世界一高価な切手の物語』(東京創元社)


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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 本日未明、ベルギー戦
2018-07-03 Tue 00:04
 サッカーのW杯は、本日未明(日本時間3日03時)、日本代表がベルギー代表と戦います。というわけで、ベルギーのスポーツ切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ベルギー・アントワープ五輪

 これは、1920年5月20日にベルギーが発行したアントワープ(アントウェルペン)五輪の記念切手のうち、古代ギリシャ風のランナーを描く1枚で、第一次大戦での負傷兵のための寄附金(額面と同額)を上乗せして販売されました。きょうの試合でも、こんな感じで腕を前方に突き出しながら走る選手の姿が見られそうですね。

 第6回のオリンピックは、当初、1916年にドイツのベルリンで開催される予定でしたが、第一次大戦が勃発したため、開催が不可能となりました。このため、終戦後の1919年、IOC会長のクーベルタンは5年ぶりにIOC総会を招集。総会では、1920年の大会開催地が議論となり、ベルギーのアントワープが選ばれました。

 なお、当時は冬季五輪と夏季五輪が区別されなかったため、アントワープ五輪は、1920年4月20日の開会式の後、4月にスケートなどの冬季種目を行った後、いったん休会となり、8月14日から9月12日まで夏季競技が行われるという日程になっていました。ちなみに、冬季大会が夏季大会から独立したイベントとなったのは、1924年のシャモニー五輪が最初のことです。

 アントワープ五輪は選手宣誓と五輪旗掲揚が行われた最初の大会で、第一次世界大戦敗戦国のドイツオーストリアハンガリーブルガリアオスマン帝国は参加が許されませんでした。また、男子テニス・ダブルスの熊谷一弥と柏尾誠一郎が、日本選手として初のメダル(銀)を獲得したほか、熊谷はシングルスでも銀メダルを獲得しています。

 
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 メキシコ初の左派政権誕生か
2018-07-02 Mon 03:38
 エンリケ・ペーニャ・ニエト大統領の任期満了に伴うメキシコ大統領選挙の投票が、現地時間の1日朝(日本時間同日夜)、始まりました。各種世論調査によると、元メキシコ市長で、新興左派政党“国家再生運動(MORENA)”党首のアンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール(Andrés Manuel López Obrador:AMLO。アムロ)候補が他の候補を大きくリードしており、メキシコで初めて左派政権が誕生する可能性が高まっています。というわけで、きょうはこの切手です。

      メキシコ・カルデナス(1978)

 これは、1978年にメキシコが発行した“石油国有化40年”の記念切手で、石油国有化を断行したカルデナス大統領の肖像が取り上げられています。

 ラサロ・カルデナス・デル・リオは、1895年、メキシコ中部のミチョアカン州生まれ。1913年、メキシコ革命(1910-20年)に参加して騎兵隊の指揮官として軍功を挙げ、革命後、チョアカン州知事、内務大臣、陸軍長官を歴任して、1934年、国民革命党(メキシコで圧倒的な力を持っている与党で、現在の制度的革命党=PRIのルーツ)から大統領選挙に立候補し、当選しました。

 当選後は、当時の政界の黒幕だったプルタルコ・エリアス・カジェス元大統領(任期1924-28)やその側近、労働組合幹部の腐敗を追及し、革命後も実行されないままだった農地改革に着手。また、1937年には鉄道国有化、翌1938年には石油産業の国有化を断行しました。特に、石油産業の国有化は米国が猛反発したものの、財政危機に陥るほどの巨額の補償金を支払ってこれを乗り切り、国民の支持を得ています。

 大統領在任中の1936年、スペインでフランコ派と共和政府の内戦が勃発すると、カルデナスは共和政府支持の旗幟を鮮明にし、その一環として、共和派の亡命者を大量に受け入れます。また、その流れで、1937年には、スターリンと対立したロシア革命の指導者、レオン・トロツキーの亡命も受け入れました。ただし、その後ソ連とは和解し、1955年にはスターリン平和賞を受賞しています。

 ちなみに、カルデナスの息子、クアウテモクも政治家であり、父親同様、ミチョアカン州知事の経験があります。1988年、クアウテモクは、与党PRIを離れて中道左派政党の国民民主戦線(FDN。後の民主革命党:PRD)を結成し、その党首として大統領選に挑戦します。当時、タバスコ州の先住民チョンタルパ族の支援活動や首都メキシコ市の消費者教育の促進運動などを展開していたアムロは、クアウテモクに従ってFDNに参加し、陣営の選挙運動に関わっています。

 また、クアウテモクは1997-2000年にメキシコ市長を務めましたが、アムロはその後任として2000年の選挙でメキシコ市長に当選。その後、PRDを含む既成政党への国民への不満を背景に、アムロは、PRDから分裂して、より左派色を強めたMORENAを結成しました。

 これまで、メキシコ史上、最も左派色の強い大統領とされてきたのは、今回ご紹介の切手に描かれているカルデナスでしたが、より左派色の強いアムロが、今回の選挙戦で、さかんにカルデナスと自分を比較するイメージ戦略を展開しているのはなかなか興味深いものがあります。


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 郵便番号50年
2018-07-01 Sun 00:24
 1968年7月1日にわが国で郵便番号制度が導入されてから、きょう(1日)でちょうど50年です。というわけで、きょうは今月20-22日に東京・錦糸町すみだ産業会館で開催の全日本切手展での宮崎博司さんの招待展示「郵便番号50周年」のなかから、こんなモノをご紹介しします。(画像はクリックで拡大されます)

      郵便番号初日印・番号簿  郵便番号初日印・番号簿部分

 これは、制度スタート時の『郵便番号住所録』に、郵便番号宣伝の切手(第1次)を貼り、発行初日(=郵便番号制度の初日)の消印を押した記念品です。

 いわゆる高度経済成長の進展に伴い、昭和30年度に48億5500万通だった郵便物の取扱量は、昭和41年度には98億2200万通にまで膨れ上がりました。これに対して、1955年に7万4132名だった郵政職員の数は、1966年の時点で11万3530名までしか増えておらず、従来どおりのやり方では郵便の処理能力は限界に到達することが懸念されていました。

 こうした状況を踏まえ、郵政省は、郵便の機械化を本格的に検討するようになります。

 その作業が本格的に始まったのは1965年のことで、開発を請け負った東芝は、郵政省の指導のもとに、柳町工場(現・機器事業部)と総合研究所(現・研究開発センター)でプロジェクトを編成。まず郵便局内の作業を系統的に分析し、郵便物自動読取区分機(TR)、郵便物自動取揃押印機(TC)、郵便物自動選別機(TS)の順に開発を進めました。

 このうち、郵便物自動読取区分機は、局内作業のうち最も労力のかかる郵便物の区分を機械化するもので、そのために、全国の集配局の配達担当区域に3桁ないしは5桁の郵便番号が割り振られることになりました。機械は、利用者が郵便物に記載した郵便番号を読み取って区分作業を行うというシステムになっていたためです。こうして、1966年、制限手書数字を読取る最初の試作機が完成。さらに、翌1967年には、世界初の手書き文字読取試作機TR-2型が完成します。
 
 一方、番号の割り振りに関しては、当時の郵便輸送の主力であった鉄道郵便輸送の担当部門が担当しました。当初は、郵便番号と電話番号を連動させる(これだと、東京は03になる)ことも検討されましたが、郵務局長の曾山克巳が「第一師団は東京」と主張したことから、東京を“1”で始まる番号とすることが決まりました。ついで、東京を起点として、鉄道路線に沿って、東京-門司線方面の都府県には上1桁に1、2、4、5、6、7、8を、東京-青森線方面の都道県には上1桁に1、3、9、0を割り当てたうえで、全国を97に分けた地域番号が割り振られます。上から3桁目の数字は、比較的大きな規模の集配局の配達担当区域を示すもので、必要に応じて、直接配達を行う小規模の集配局の担当区域に対して2桁の小番号が与えられるという仕組みが取られました。

 こうした経緯を経て、1968年7月1日、日本の郵便番号制度がスタートします。ちなみに、世界で最初に郵便番号制度を導入したのは英国(1959年)で、ついで、西ドイツ、米国、スイス、東ドイツ、フランス、オーストリアの各国がこれに続き、日本での制度開始は世界で8番目でした。

 郵便番号制度の導入にあわせて、新制度を宣伝するための切手を発行するというプランは、1968年1月12日に昭和43年度の記念・特殊切手の発行計画が大臣決裁を受けた段階では、関係者の間でも具体的には固まっていなかったようで、1月18日に発表された新年度の切手発行計画には、郵便番号宣伝の切手についての記載はありません。

 その後、年度が改まった4月1日から、郵政省は本格的な郵便番号普及のキャンペーンを開始しますが、4月25日、全日本切手展(全日展)の表彰式に郵務局長として出席した曾山克巳は、挨拶の中で郵便番号制度の実施に触れ、制度を宣伝するための“普通切手(本人談)”を発行すると発言。5月23日には、7月1日の制度開始にあわせて7円および15円の宣伝切手を各2種(計4種)発行することが正式に発表されました。

 切手の原画は久野実が制作し、いずれの額面も、数字で描いた日本地図に郵便番号のシンボルマークである“ナンバーくん”を配したデザインになっています。なお、今回ご紹介の『住所録』の表紙イラストの地図と郵便番号と比べてみると、切手の地図に配された番号を郵便番号の配置は、関係があるような無いような、微妙な感じですな。

 また、切手の下部には「あて名には郵便番号を」と「あなたの住所にも郵便番号を」の スローガンが交互に入れられました。郵政省が発表した原画写真を詳細に検討すると、切手の原画としては、15円の「あて名には郵便番号を」の切手がオリジナルで、あとは、文字部分を差し替えたほか、15円切手と7円切手で刷色が変更されただけであることが分かります。

 切手に取り上げられたナンバーくんは、もともとは、前年の1966年7月に導入された定型郵便制度をアピールするためのキャラクターとして、木村恒久をディレクターに迎え、イラストレーターの松野のぼるが制作したものです。1966年8月11日から1ヶ月間、東京・大阪で週4回、テレビに登場しました。これが好評だったため、郵政省は、引き続き、1976年以降、このキャラクターを郵便番号の宣伝のために積極的に活用していました。

 その後、1968年に入ってから、地域ごとの郵便番号の割り当てが完了したことを受けて、キャラクターの胴体に当たる封筒の左下にあった“456101”の数字が削除され、デザインが確定しています。ただし、切手の発行が発表された5月23日の時点では、このキャラクターには決まった名称がなく(そのため、民間ではさまざまな名前で呼ばれていました)、郵政省の報道発表でも“郵便番号シンボルマーク”と説明されています。

 ちなみに、“ナンバーくん”との呼称は、1968年4月20日から6月20日までの間に行われた愛称公募の結果、1103通を集めて1位になったものが採用されたもので、その発表は、切手発行後の7月5日のことでした。

 さて、7月20日からの全日本切手展で展示予定の宮崎コレクションでは、郵便番号宣伝の切手のみならず、当時の関連資料などを展示する予定です。ぜひ、会場にて実物をご覧いただけると幸いです。


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