2020-12-22 Tue 10:32
『東洋経済日報』2020年12月18日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、クリスマスシーズンなので、この1枚をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1959年12月15日に韓国が発行した1960年用の年賀切手のうち、教会を背景に賛美歌を歌う少年少女を描いた1枚です。 韓国は人口の4人にひとりがキリスト教徒といわれており、社会的に儒教道徳が深く浸透している一方で、アジア最大のキリスト教国のひとつとして知られています。このため、12月25日のクリスマスは聖誕節として祝日にも指定されています。また、1950年代後半、李承晩政権の時代には、年末に“年賀切手”として発行されるものの中にも、クリスマスを意識した題材の切手が含まれていて、今回ご紹介の切手もその1枚です。 1876年の開国に伴い、米国系のプロテスタント諸派が朝鮮での布教を開始し、宣教師の派遣も始まりました。 このうち、長老派のホレイス・グラント・アンダーウッドは1884年末にサンフランシスコを出港し、経由地の横浜で韓国人クリスチャンの李樹廷から朝鮮語を学び、1885年4月、メソジスト派のヘンリー・ジェラード・アペンゼラー夫妻を合流して仁川に上陸します。 アンダーウッドとアペンゼラーに朝鮮語を教えた李樹廷は、1842年、朝鮮王朝の名家の生まれ。弘文館の校理出身の官僚として宮廷に仕えていましたが、1882年の壬午軍乱の際、閔妃(明成皇后)の危機を救ったことから、特に高宗の許可を得て、日本に派遣された修信使の朴泳孝に随行して来日し、そのまま東京に滞在して遊学中にキリスト教に感化され、洗礼を受けた人物です。 さて、漢城(現ソウル)でのアンダーウッドは、1887年に貞洞教会(現・セムナン教会)を設立したほか、1890年には『韓英辞典』、『韓英文法』を発行しました。ちなみに、聖書の朝鮮語訳は、1887年、スコットランド長老派のジョン・ロスが奉天の東関教会で翻訳・出版していましたが、これとは別に、アンダーウッドはアペンゼラーとともに聖書の朝鮮語訳にも取り組んでいます。 宣教師たちは布教活動の一環として朝鮮人に讃美歌を教えましたが、当初は朝鮮語訳の歌詞が準備できなかったため、中国語の讃美歌をハングルで音訳した歌が歌われていました。さすがに、これでは、宣教師にも朝鮮人にも歌詞の意味が分からないので、次第に、歌詞の簡単な(=訳しやすい)歌には朝鮮詩がつけられるようになり、1891年にはソウルで地元の子供たちが朝鮮語で「有福之地(あまつみくには)」を歌っていたとの外国人の証言が残されています。 また、初期の頃は歌詞や楽譜をまとめた歌集もなかったため、讃美歌の歌詞を書いた掛け軸を吊るし、参加者はそれを見ながら賛美歌を歌うというスタイルが一般的だったそうです。 こうした経緯を経て、1892年には、メソジスト派がハングル・漢字交じりの歌集『讃美歌』を刊行したとの記録があります。ただし、記録上は、これが文字として記録された朝鮮語の讃美歌の最初とされているものの、同書の実物は、現在、確認されていないので、1894年に長老派のアンダーウッドが刊行した『讃揚歌』が現存最古の朝鮮語讃美歌集となっています。 その後、1908年に長老派とメソジスト派が共同で『讃頌歌』を刊行すると、以後、両派による讃美歌集の刊行が相次ぎ、韓国人クリスチャンの間に定着していきました。 なお、朝鮮王朝時代の朝鮮半島では識字率が低く、特に、地方の女性の多くは字が読めませんでしたが、宣教師たちは彼女たちに朝鮮語訳された讃美歌を教え、そこから彼女たちは讃美歌集に掲載された歌詞を通じて文字を覚えていくということも珍しくありませんでした。この結果、宣教師たちの期待に反して(?)聖書よりも讃美歌集のほうがよく売れたのだとか。語学の勉強には歌が良いテキストになるというのは、古今東西、万国共通の現象のようですね。 なお、朝鮮半島におけるキリスト教受容史については、拙著『日韓基本条約』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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