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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ブータン、イスラエルと国交樹立
2020-12-14 Mon 04:59
 イスラエル外務省は、12日、インドのニューデリーのイスラエル大使館で、イスラエル、ブータン両国の駐印大使らが出席し、両国の国交樹立に関する文書の署名式が行われたことを明らかにしました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブータンの鳥(地図シート)

 これは、1992年にブータンが発行した“ブータンの鳥”の切手シートで、余白には、ブータンと周辺国の関係を示す地図が描かれています。この地図から、ブータンはインド主要部と北東部を結ぶシリグリ回廊の北側に位置していますが、この回廊の非常に幅が狭いため、中国がブータンを影響下に置き、回廊の自由な交通が妨げられると、インドは国家分断の危機にさらされることになることがお分かりいただけるかと思います。

 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、インドを支配していた英国はブータンと隣接するチベットをめぐって清朝と対立していましたが、1907年のシムラ会議で両者の妥協が成立し、チベットにおける清朝の主権が確認されます。これを受けて、清朝はチベット支配を強化し、チベットの近代化改革に着手しましたが、そのことは、建国後まもないワンチュク王朝にとっても大きな脅威となりました。

 このため、1910年、国王ウゲン・ワンチュクは、プナカ条約を締結してブータンを英領インド帝国の保護国とし、国土防衛を英国に委ねるとともに、鎖国体制を維持しようとします。こうした状況は、1947年に英領インド帝国がインドとパキスタンに分離独立するまで続きました。

 英領インド帝国の解体に伴い、1949年8月、ブータンは独立インドとあらためて友好条約を締結。同条約では「インドはブータンの内政には干渉しないが、外交に関しては助言を行う」とされ、ブータンがインドに依存する関係が構築されます。一方、中国は、1951年12月、“平和解放”と称してチベットに進駐し、ブータンは共産中国の直接的な脅威にさらされることになりました。

 こうした中で、1958年、インド首相のネルーがブータンを訪問し、インドはブータンの独立維持を支援すると約束。さらに、帰国後、インド議会で「ブータンに対する攻撃は、いかなるものであっても、インドに対する攻撃と同等とみなす」と演説し、ブータンの事実上の“宗主国”としての責任を果たす意思を明確にしました。

 しかし、翌1959年、いわゆるチベット民族蜂起が起こり、ダライ・ラマがインドに亡命すると、中国はチベット域内にあったブータンの飛び地領8ヵ所も占領してしまいます。さらに、1962年の中印紛争を受けて、ブータン政府は、中国との国境は、ドクラム高地、ギプモチ(ガモチェン)山からバタングラまでの稜線、シンチェラ、アモチュフの4ヵ所が未確定であるとし、以後、インドが中印国境をめぐる係争の一環として、国際的にはブータンの主張を代弁することになりました。

 こうして、伝統的な鎖国政策を維持できなくなったブータンは、1971年、国連に加盟する一方、1974年、国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクの戴冠式に、駐印中国大使を招待し、中国との外交的な接触を開始。1984年以降、国交樹立と国境画定を議題とする定期外相会談もスタートしました。

 この結果、1988年には中国と「国境地域の平和維持に関する協定」が調印され、「中国はブータンの主権と領土的統一を尊重し、両国は平和五原則に基づき、友好関係を築くのが望ましい」とされましたが、その直後、中国はブータンが自国領と主張する地域にブータンの許可なく道路を建設。その後も、冬虫夏草目当てとみられる中国人の越境が相次ぎました。

 このため、ブータンは再びインドとの関係を強化し、2007年、インドとの新友好条約を調印。2008年にはインドのシン首相がブータンを訪問して “強力な支援”を表明したほか、2014年にはモディ首相が最初の外遊先としてブータンを訪問しています。

 こうした中で、2017年6月29日 ブータン領のドクラム高地で中国人民解放軍が無断で道路建設(40トンの戦車が走行可能)を行ったため、ブータン政府は即座に抗議。インドもブータン支援のため、ドクラム高地に派兵し、中印両国がにらみ合う緊張状態(ブータン危機)が発生。8月末、両軍はともに撤退し、本格的な軍事衝突は避けられたものの、ブータン情勢は一挙に緊迫します。さらに、2020年11月には、衛星写真の分析により、中国がブータンで大規模な武器の備蓄庫を建設していることが明らかになり、インドはかなり危機感を強めます。
 
 ところで、インドは1992年にイスラエルと国交を樹立しましたが、国内の人口の約1割がムスリムという事情もあって、歴代の政権はイスラエルとの関係強化に慎重な姿勢をとっていました。しかし、中国の一帯一路構想に危機感を抱いたモディ首相は、2017年4月、イスラエルの航空産業から約20億ドル相当の武器を購入しただけでなく、ブータン危機さなかの7月5日には、インドの首相として初めてイスラエルを公式訪問。表向き、その最大の目的は、海水の淡水化や家庭排水の再処理など、乾燥地帯での農業を可能にする技術やテロ対策での協力を確認することとされましたが、しっかり、(中国に対抗するための)防衛面での連携強化でも合意をまとめています。

 一方、イスラエルは、インドと同じく1992年に中国と国交を自立して以来、対中武器輸出を盛んに行い、中国との関係を深めていましたが、2000年に中国の早期警戒管制機にイスラエル製レーダーの「ファルコン」を搭載する計画が発覚したことで米国の反発を招き、ブッシュJr政権時代の2005年には、いったんイスラエルは対中武器輸出の中止に追い込まれました。

 しかし、オバマ政権下では、ふたたびイスラエルは中国との関係を緊密化させるようになり、2015年には上海国際港務集団(SIPG)がハイファ港の25年間にわたる運営権を獲得。これに対して、2017年に発足したトランプ政権は深刻な懸念を表明し、2018年には中国企業がハイファ港を運営するなら、米海軍第6艦隊の寄港を取りやめる可能性があることが示唆されます。

 その後も、米国はイスラエルに対して、イスラエルのインフラ事業への中国企業の進出と、イスラエル企業の軍民両用技術の対中輸出に関する懸念を盛んに表明。このため、2019年10月30日、イスラエルは、通信、インフラ、運輸、金融、エネルギー分野など、安全保障上重要な分野への外国投資を審査する諮問委員会を設置します。同委員会は、形式上はすべての国を対象にしていますが、実際には、中国の対イスラエル投資を監視し、適格性を判断するための組織です。

 こうした事情が絡み合って、近年、イスラエルとインドの関係は緊密なものとなっており、外交面ではインドの強い影響下にあるブータンとイスラエルの国交樹立もその延長線上にあるものと考えてよいでしょう。両国の国交樹立文書の署名が、ブータンの首都ティンプーやイスラエル国内ではなく、ニューデリーで行われたというのも、非常に象徴的です。

 なお、今後、イスラエルは、水資源管理や農業技術、人材開発などの面でブータンを支援していくことになっていますが、ブータンは山国の地形と豊富な水資源を利用した水力発電によるインドへの売電が主要な外貨獲得源になっています。したがって、イスラエルの支援により、ブータンの水力発電能力が向上することになれば、それはインドの電力事情の改善にもつながることになりそうです。


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