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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 モロッコ軍、西サハラで軍事作戦開始
2020-11-15 Sun 01:38
 “西サハラ”のモーリタニアとの国境にあるゲルゲラト付近、モロッコ側と“ポリサリオ戦線(独立派)”実効支配地域との間にある緩衝地帯付近で、13日、モロッコ軍が軍事作戦を開始しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      モロッコ・緑の行進(2017)

 これは、2017年11月6日にモロッコが発行した”緑の行進42周年”の記念切手で、モロッコがタルファヤ(モロッコ本土の南西端、西サハラとの境界に位置する大西洋沿岸の都市)近郊に設置した風力発電施設と、西サハラをモロッコ領とする地図を組み合わせたデザインとなっています。ちなみに、切手中央にはラテン文字とアラビア語でタルファヤと記されていますが、その行間をまっすぐ東西に伸ばすと、モロッコ本土と西サハラの境界線になります。

 現在のモロッコを含む北西アフリカの一帯は、ながらく、1660年に成立したアラウィー朝(現王朝)の支配下に置かれていましたが、1912年までに、フランス保護領、スペイン保護領、タンジールに3分割され、事実上の植民地に転落しました。

 1956年、アラウィー朝のモロッコが再独立を果たすと、スペインはセウタ、メリリャ、イフニ(いずれも飛び地となっています)とモロッコ南部保護領(タルファヤ地方)を除いてスペイン領の領有権を放棄し、国際管理都市となっていたタンジールも10月にモロッコ領に復帰。1958年にはモロッコ南部保護領が、1969年イフニが、それぞれモロッコに返還されましたが、西サハラに関してはスペインが領有を続けます。

 一方、モロッコとモーリタニアは、いずれも、スペイン領西サハラに対する領有権を主張していましたが、1975年10月、国際司法裁判所は、モロッコおよびモーリタニアのいずれも西サハラに対して領土権を有しないとして、その要求を却下。これに対して、1975年11月、モロッコ国王、ハサン2世の号令一下、35万人の非武装のモロッコ人が越境大行進を行い、西サハラを実効支配する“緑の行進”が行われ、モロッコは西サハラが“自国領”であることを改めてアピールしました。

 翌1976年、スペインは西サハラの領有を断念し、西サハラはモロッコとモーリタニアが分割して“再統合”することになりましたが、これに対して、スペイン領時代の1973年から独立運動を続けていたサギア・エル・ハムラ・リオデオロ解放戦線(ポリサリオ戦線)は、アルジェリアの支援を得て両国に対する武力闘争を開始。さらに、1976年2月27日、アルジェでサハラ・アラブ民主共和国(SADR)の樹立を宣言します。

 アルジェリアの支援を受けたポリサリオ戦線の攻撃に対してモーリタニアは敗走を重ね、1978年にはクーデターで政権が崩壊。1979年にはモーリタニア政府はポリサリオ戦線と単独和平協定を締結します。

 こうした中で、同年、アフリカ統一機構(OAU)は、西サハラの住民が自決への権利を行使できるように住民投票の実施を呼びかけます。また、OAU加盟50ヵ国(当時)中、過半数の26ヵ国が1982年までにSADRを承認しました。

 西サハラ問題での国際的な圧力が強まる中、1981年6月に開催されたOAU首脳会議で、モロッコのハサン2世は西サハラで独立かモロッコへの帰属かを問う住民投票を行う意思があると表明。住民投票の実施までに膨大な数のモロッコ人を西サハラに移住させ、あくまでも“民主的”な自由投票の結果、西サハラはモロッコに帰属するという結論を導き出そうと企図します。

 ハサン2世の提案を受けて、8月にケニアのナイロビで開催されたOAUの実務者委員会は、西サハラでの停戦と国連PKO部隊の派遣、OAUおよび国連の監視下で住民投票を行うまでの暫定統治機関の設置などを提案しました。

 ここまでは、モロッコとしても予想の範囲内でしたが、翌1982年2月、エチオピアのアディスアベバで開催されたOAUの理事会では、当初の議事予定になかったSADRの加盟問題が取り上げられ、賛成多数でSADRの加盟が電撃的に承認されてしまいました。

 当然のことながら、住民投票の実施以前にSADRを独立国として扱い、モロッコによる西サハラ支配を全面的に否定するような決定に対して、モロッコは激怒し、モロッコに近い17ヵ国とともに、直ちにOAUの理事会を退席。さらに、1982年のOAUの年次総会は、8月にリビアのトリポリで開催される予定でしたが、上述のモロッコを含む18ヵ国に加え、リビアと対立していたエジプト、チャド(北部の内戦にはリビアが関与していた)が早々に欠席を表明します。

 当時のOAUの規定では、総会は(議長国を除き)加盟国の3分の2以上の出席をもって成立することになっていましたから、加盟50ヵ国中、最低でも(議長国を除き)30ヵ国の出席が必要でした。したがって、20ヵ国が欠席した時点で総会は成立しません。そこで、OAUは、当初の予定を延期して11月にも再度、総会を招集しましたが、やはり、定足数を満たすことができず、流会となりました。

 1982年の総会が流会となったことを受け、1983年6月、アディスアベバで開催されたOAU総会は、SADRの総会出席資格を一時的に停止するという便法を使うことで、何とか流会を免れます。その後、あらためて、同年12月、翌1984年9月に西サハラで住民投票を実施すべく実務レベルの協議が再開されたのですが、1984年2月には、長年、モロッコと共にSADRの存在を否認し続けてきたモーリタニアが、ついにSADRの独立を承認。西サハラ問題でモロッコは孤立してしまいます。

 これを受けて、強行突破でSADRを総会に参加させてしまえば、モロッコも妥協せざるを得ないとにらんだOAUは、同11月12日、アディスアベバで開催された総会にSADR代表の出席を認めました。

 しかし、たとえ最後の一国になろうとも、絶対にSADRの存在は認めないとのモロッコの決意は固く、モロッコは直ちにOAUを脱退。その後、OAUは2002年にアフリカ連合(AU)へと発展的に改組されましたが、モロッコはAUへも参加を拒否し続けてきました。しかし、2016年9月23日、SADRの独立は認めないという立場は維持したまま、モロッコはAUへの加盟を申請し、2017年3月、33年ぶりに(再)加盟しています。

 AU再加盟後のモロッコの西サハラ問題に対する立場は、西サハラはモロッコ領であり、その独立は認めないが、西サハラに対して自治権はふよするというもので、昨年(2019年)6月、米国はジョン・J・サリバン国務副長官をモロッコへ派遣し、モロッコの解決案への支持を表明していました。

 モロッコ側の主張によると、今回の軍事作戦再開の発端となったのは、今年10月以降、ポリサリオ戦線の支持者ら約60人がモーリタニアにつながる主要道路を占拠したため、モロッコ外務省が声明で「政治プロセス再開の機会を失わせる」と非難。13日には、モロッコ軍が道路封鎖を行っている勢力を排除に乗り出すと警告したうえで、「ポリサリオ側の妨害から、国境の自由な往来を回復するため」として、ゲルゲラト付近で軍事作戦を再開しました。

 これに対して、ポリサリオ戦線側は“モロッコ軍の侵略”に抗議して、1991年以来の停戦の“終了”を宣言。一部ではすでに武力衝突が始まり、緩衝地帯に平和維持部隊を派遣している国連やアルジェリア、モーリタニアが双方に自制を促している状況です。


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