2019-11-12 Tue 03:59
中国の国家主席だった劉少奇が、文化大革命さなかの1969年11月12日、非業の死を遂げてから、ちょうど50年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1983年に中国が発行した“劉少奇同志誕生85周年”の切手です。 劉少奇は、1898年、湖南省の寧郷県で生まました。1920年、湖南省の中国社会主義青年団(現中国共産主義青年団)に入り、翌1921年、ソ連に渡ってモスクワの東方勤労者共産大学で学びつつ、同年、中国共産党(以下、中共)に入党しました。1922年、コミンテルン主催の極東諸民族大会に参加したのち、帰国。李立三とともに江西省の安源炭鉱のストライキを指揮し、李立三らとともに指揮して闘争を成功させ、1927年には党の中央委員に選出されました。 1927年に第1次国共合作が崩壊すると、国民党支配地域での地下活動に従事し、1934年10月以降、長征に参加。1935年、党中央より華北に派遣され、1937年に“抗日戦争(支那事変)”が始まると、華北地区での抗日運動を指導しました。さらに、1941年、安徽省南部で国民党軍と中共の新四軍の武力衝突が発生し、新四軍が壊滅的な打撃を被ると、壊滅状態となった新四軍の政治委員に就任し、軍の再建と華中地区の根拠地拡大に努めました。 1943年、延安に戻り党中央書記処の書記に就任。1945年4-6月に開催された第7回全国代表大会(党大会)では「党規約の改正についての報告」を発表し、“毛沢東思想”の語を初めて公式の文書に使用。大会後、第7期党中央委員会第1回全体会議(第7期1中全会)で、毛沢東に次ぐ党内序列2位の中央委員・中央政治局委員・中央書記処書記に選出されました。 1949年10月、中華人民共和国の建国が宣言されると、中央人民政府副主席や人民革命軍事委員会副主席、全国人民代表大会常務委員会委員長を歴任。建国後間もない1949年11月16-23日、北京で開催された世界労働組合連合会・アジア大洋州労働組合会議では、劉は中国全国総工会名誉会長の肩書で会議の議長を務め、開会の辞として「アジアの植民地・半植民地の運動は、中国と同じように人民解放軍による武装闘争をやらなければならない」とする“劉少奇テーゼ”を発表。この発言は、南侵を企図していた北朝鮮の金日成の背中を押すことになったほか、日本共産党が山村工作隊などの武装闘争路線へと転換していく端緒となりました。 その後、劉は、1956年9月、第8回党大会で政治報告を担当し、続く第8期1中全会で中央政治局常務委員に選出され、中央委員会筆頭副主席として、毛沢東に次ぐナンバー1としての地位を確立していきます。 1958年、毛沢東が発動した大躍進政策が惨憺たる失敗に終わると、1959年7月、国防部長(国防大臣に相当)兼国務院副総理の彭徳懐は毛沢東に対して私信の形式を取って政策転換を求めます。この結果、毛の逆鱗に触れた彭は国防部長と中央軍事委員会委員の地位を解任されますが、反面、劉少奇・鄧小平らの官僚グループにより、大躍進の失敗を修復するための調整政策が行われることになり、劉は毛沢東に代わって国家主席に就任しました。 1962年、劉は「今回の大災害は天災が三分、人災が七分であった」と党中央の責任を自ら認め、毛も「社会主義の経験が不足していた」と自己批判を余儀なくされ、政務の一線を退かざるを得なくなりました。 劉少奇・鄧小平の調整政策に対して、毛は「矯正しすぎて右翼日和見の誤りを犯している」と批判。これに対して、劉は「飢えた人間同士がお互いに食らい合っているんです。歴史に記録されますぞ」と応じ、調整政策を維持しようとしました。 これに対して、調整政策に不満な毛沢東と林彪らは大衆を動員し、劉ら“実権派”の追い落としをはかります。 その端緒となったのが、1965年11月10日、姚文元が上海の新聞『文匯報』に発表した論説「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」です。この論説は、北京市副市長で歴史家の呉晗が執筆した戯曲『海瑞罷官』(明代の官僚、海瑞が嘉靖帝を諫める上訴をして罷免された事件を題材にした史劇)を、プロレタリア独裁と社会主義に反対する“毒草”として攻撃するもので、当初の政治的な意図は呉の上司にあたる北京市長の彭真を失脚に追い込むことにありました。しかし、1965年12月21日、毛が「嘉靖皇帝は海瑞を罷免した。59年、我々は彭徳懐を罷免した。彭徳懐も“海瑞”だ」と述べたことで、彭徳懐への批判と結び付けられ、後の文革の端緒となりました。 当初、劉は批判の矛先が自分に向けられているとは認識していませんでしたが、文革派は劉少奇を鄧小平とともに“資本主義の道を歩む実権派”の中心として打倒の標的に設定。1966年8月の第8期11中全会で、毛が配布した論文「司令部を砲撃せよ」では、名指しこそされなかったものの、参会者には“司令部”が劉少奇を示していることは明らかで、同会議の結果、劉は政治局常務委員に残留したものの、副主席の任は解かれ、党内の序列も第2位から第8位に降格されました。 1967年に入ると党の内外から劉批判の文書が出回り始め、劉の自宅には文革派が乱入し、執務室の電話線は切断され、劉は外部との連絡を絶たれます。この時期、息子の劉源が「食後に紅衛兵による“遠征(「反革命分子」に対する家宅侵入や略奪、破壊などの行為)”に行く」と話したところ、劉は中華人民共和国憲法を持ち出して、「四旧」(古い文化とされた物品や事象)の破壊はかまわないが家宅侵入や窃盗、暴行は許されない。自分は国家主席だから国の法を守る義務がある」と諭した上で、「私にはお前たちを止めることはできない。だが、私はお前たちに本当のことを言う義務があるし、お前たちの行動は私の責任でもあるのだ」と述べたというエピソードが知られています。 しかし、1967年4月1日付の『人民日報』は、劉を“中国のフルシチョフ”と名指しで非難。以後、劉に対する攻撃は激しさを増していきます。特に、毛夫人の江青は、劉夫人の王光美に対して激しいライバル意識を持っていたため(毛と江の夫婦関係が冷え切っていたのに対して劉と王は仲睦まじかったこと、王が英語に堪能で、劉とともに外遊先ではチャイナドレスを礼装として着用し、華やいだ容姿もあって“ファースト・レディ”として国民の注目と人気を集めたこと、などが原因とされています)、江青に扇動された紅衛兵らの劉・王夫妻への攻撃はすさまじく、夫妻はとともに大衆の前での批判大会に連れ出され、執拗な吊し上げを受けるのが常態化しました。同年7月18日には、中南海の自宅が造反派に襲撃され、以後、事実上幽閉の状態となります。 そして、1968年10月に開催の第8期拡大12中全会において、劉を「党内に潜んでいた敵の回し者、裏切り者、労働貴族」として永久に中国共産党から除名し、党内外の一切の職務を解任する処分が決議され、劉は失脚しました。 その後も、劉は自宅監禁の状態に置かれ、体調が悪化した後も散髪、入浴を許されず、警備員から執拗な暴行や暴言を受け続けました。1968年夏に高熱を発した後は寝たきりの状態になりましたが、身のまわりの世話をする者はなく、衣服の取替えや排泄物の処理などもされない状態でした。それでも、「生きているうちに劉少奇を党から除名して、恥辱を与えよ」という江青の指示により、最低限の治療は施されて、劉は死ぬことさえ許されないという悲惨な境遇に置かれ続けました。 1969年10月17日、河南省開封市に移送た劉は、寝台にしばりつけられて身動きができぬまま、暖房もないコンクリートむき出しの倉庫に幽閉されます。そして、満足な治療も受けられないまま、11月12日に亡くなりました。遺体は火葬にされた後、火葬場の納骨堂に保管されましたが、その死は長らく外部には秘匿されていました。 1976年に毛沢東が亡くなり、鄧小平が復権すると、1980年2月、第11期5中全会は劉の除名処分がを取り消し、名誉回復がなされるとともに、彼が1969年に開封で病死していた事実が初めて公式に明らかにされました。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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