2007-06-20 Wed 00:39
7月1日付で拙著『香港歴史漫郵記』が刊行されるのにあわせて、現在、友人の磯風さんがご自身のブログ軍事郵便保存会・関西事務局員の日記で“香港祭り”をやってくださっているのですが、その昨日(19日)付の記事で香港の“抑留印”の話が出てきたので、僕の手持ちのマテリアルをご紹介したいと思います。(画像はクリックで拡大されます)
1941年12月8日の日英開戦により、香港から海外宛の郵便物のルートは完全に途絶します。このため、開戦前の香港からの最終便となった1941年12月6日の便には、12月4日正午の消印が押されたものがギリギリ滑り込みセーフで間に合ったものの、それ以降は香港外へは配達できなくなりました。 その後、12月8日に戦争が始まり、25日のイギリス側の降伏までに差し出された海外宛の郵便物は、配達の見込みもないまま郵袋に入れられて、とりあえず、香港中央郵便局の地下に保管されます。しかし、上陸してきた日本側は中央郵便局を接収して郵便業務を開始した後も、地下に保管されていた郵袋には気づかなかったようで、戦後、再上陸したイギリス側は、香港中央郵便局地下の倉庫で、占領時代を通じて配達されないまま眠り続けていた郵便物を発見します。 そこで、彼らは、遅ればせながら、放置されたままになっていた郵便物をあらためて配達することにしたのですが、その際、配達が遅れた事情を説明するため、このとき発見された郵便物には“DETAINED IN HONG KONG/ BY JAPANESE/ FROM DECEMBER 1941 TO SEPTEMBER 1945”(1941年12月から1945年9月まで日本人によって留め置かれた)との事情説明の印を押しています。 今回ご紹介しているカバーはその実例で、日英開戦日の12月8日の午後、湾仔からパレンバン(現・インドネシアの都市)宛に差し出され、翌9日には中央郵便局に運び込まれたものの、終戦まで中央郵便局を出ることはありませんでした。 この事情説明の印が押されている郵便物は、3年8ヶ月にも及んだ戦争をはさんで、宛先不明で差出人戻しとなるケースもかなり多かったのだが、このカバーに関しては、名宛人が戦前同様の住所にいたため、“Soerat ini boleh diserahkan kepada silamat”(本郵便物は宛先地への配達可能)との付箋が到着地のパレンバン局で付けられ、実際に名宛人まで配達されているのがうれしいところです。 なお、本日ご紹介のカバーは、7月1日付で刊行の拙著『香港歴史漫郵記』でも取り上げて説明しておりますので、刊行の暁には、是非、ご覧いただけると幸いです。 【展覧会のご案内】 6月30日・7月1日(土・日)の両日、 東京・目白の切手の博物館特設会場にて、拙著『香港歴史漫郵記』の刊行にあわせて「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」を開催(登録審査員によるワンフレーム展と併催)いたします。 展示内容は2004年のアジア国際切手展のオープンクラスに出品して部門最高賞のExcellentメダルを受賞した僕のコレクション、A HISTORY OF HONG KONGと返還以降2006年末までに発行された中国香港切手が中心です。 入場は無料。時間は両日ともに10:30-17:00で、両日ともに14:30から展示解説を行うほか、先着300名様に英領時代の香港切手をプレゼントしますので、是非、遊びに来てください。 |
#757 大変な事故関連カバー
3年余ともなると、並の長さではありませんね・・・。ほんとに、「届いただけ良し」の世界ですね。
#766 コメントありがとうございます
muraki様
本文にも書きましたが、この印が押されたカバーは、差出人戻しになっているものがかなりあります。そうしたことからも、戦争中の3年8ヶ月という年月が感じられるような気がします。 |
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