2007-03-17 Sat 00:35
1907年3月17日に三木武夫が生まれてから、今日でちょうど100年になりました。三木といえば、何と言ってもロッキード事件ですが、ロッキード事件にまつわる切手については、すでに以前の記事で取り上げてしまったので、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1947年8月15日に発行された“民間貿易再開”の記念切手が貼られた台湾宛の初日カバーです。 終戦直後の1945年9月22日、日本の輸出入は連合国の完全なる管理下に置かれることが明示され、当面、疾病と社会不安を防止するための最低限の輸入と、その決済に必要な外貨を獲得するための輸出以外は許可されないことになりました。 こうした状況に対応すべく、日本側も国家が貿易を直接管理するための機関として、1945年12月14日に貿易庁を設置。さらに、1946年6月20日、貿易等臨時措置令の公布により、「別に定める場合を除いては政府以外の者は物品を輸出し又は輸入することが出来ない」として、貿易の国家管理という原則が明示されました。その後、1947年4月、従来の輸入協会や輸出組合に代わり、アメリカ式の公社に範を採った貿易公団 が設立され、同年7月1日より活動を開始。貿易交渉を貿易庁が、実際の輸出入業務を各貿易公団が、それぞれ担当する体制が確立しました。 こうして、占領下日本の貿易国家管理体制が整ったところで、1947年6月10日、GHQは同年8月15日から制限つきの“民間貿易”再開を許可すると発表。8月15日以降、各国のバイヤーの来日と、日本への総額五億ドルのクレジット設定、輸出製品に必要な材料の一部輸入などを許可することとし、戦後日本の「民間貿易」が再開されました。 もっとも、民間貿易の再開とはいっても、当時の貿易国家管理の原則により、①輸出入品は政府がいったん買い取る、②契約には連合国軍総司令部の確認が必要とされる、③為替レートは商品ごとに取引のたびに決められる、④輸出品にはMADE IN OCCUPIED JAPAN(占領下日本製)の表示を行う、など大きな制約がありました。それでも、民間貿易の再開は、敗戦国日本が国際社会に復帰する第一歩として当時の国民から歓迎され、各都府県市の商工会議所を中心とした各種の祝賀行事もさかんに行われました。今回ご紹介の切手もその一環として発行されたものです。 民間貿易再開の方針がGHQより発表されると、逓信省でも記念切手の発行を計画。1947年6月24日、逓信大臣の諮問機関である逓信文化委員会で発行の計画が承認されたことを受けて、発行に向けての実務作業が開始されました。 このときの逓信大臣というのが、当時、40歳だった三木武夫でした。 1937年に明治大学法学部を卒業し、30歳で衆議院議員総選挙で初当選した三木は、戦前、軍部に対しては批判的な立場を取り、対米戦争反対の論陣を張って大政翼賛会にも参加しませんでした。このため、戦後は公職追放を免れ、保守・革新の双方と一線を画した中間派政党の国民協同党で書記長を務め、1947年6月1日、日本社会党首班の片山哲内閣に伴い、逓信大臣として初入閣を果たしたというわけです。ちなみに、今回ご紹介の記念切手は、三木逓信大臣時代の最初の記念切手となりました。 さて、当初、切手の図案としては、貿易船の船尾に翻る日章旗を描くものと、MADE IN JAPANの文字の入った輸出品の積荷風景を描くものの二種類が用意されましたが、これらは結果として不採用となりました。 このため、当時の輸出品のなかから適当な題材を選んで図案を作成することになり、渡邉三郎が作成した下図を修正したものが切手として採用されることになりました。 渡邉のデザインした切手のうち、1円20銭切手には扇子、置時計、熊手、ギター、玩具、人形、カメラが、また、4円切手にはコーヒー・セット、電気スタンド、織物、生糸、ガラス器具、真珠のネックレスと真珠貝が、それぞれ描かれています。これらは、いずれも、当時の日本の代表的な輸出商品でした。 なお、渡邉の原画では、当初、国号の中央に菊花紋章が入れられていましたが、実際に発行された切手では、菊花紋章は外されています。これは、1947年7月、占領軍民間情報局宗教課長のバーンズが、民主国家として切手上から菊花紋章を除くべきだとの“意見”を述べたことによるものでしたが、デザイナーの渡邉は菊花紋章がなくなることで切手全体を引き締めるポイントがなくなったと不満を漏らしています。 さて、たび重なる変更により、原画の完成が当初予定よりも大幅におくれましたが、印刷局の懸命の努力により、六大都市の郵便局ではなんとか8月15日から発売するよう準備が整えられました。しかし、その他の郵便局では、8月15日に記念切手を売り出すことができなかったため、逓信省は、8月15日付で次のような異例の告示を出しています。 逓信省告示第二百六十二號 民間貿易再開記念として、本日から、次の様式の一圓二十銭及び四圓の各郵便切手を發行し、東京都内普通郵便局、横濱、名古屋、大阪、京都及び戸の各市内郵便局においては發行當日から、その他の郵便局においては同日以後、現品到着次第これを賣りさばく。 昭和二十二年八月十五日 逓信大臣 三木 武夫 ところで、今回ご紹介しているカバーですが、当時の日本は占領下で外信便にもいろいろと制限があり、切手収集家が外国との郵便で切手を交換することは認められていなかったため、検閲で“不許可”として差出人に返送されています。“民間貿易の再開”の記念切手が貼られているのに、切手の交換もできないところに、占領されている国の悲哀を感じるんは僕だけではないでしょう。 なお、この切手を含めて、占領時代の記念特殊切手については、拙著『(解説・戦後記念切手Ⅰ)濫造・濫発の時代 1946-1952』でくわしくまとめていますので、こちらをご参照いただけると幸いです。 |
検閲で不許可、返送になることを見込んでやってみた『ネタ』だったらコレクターがGHQを手玉にとったということで面白いんじゃないかと思います。
#557 コメントありがとうございます
hillsidecnx様
たしかに、収集家の場合は“ネタ”の可能性もあるでしょうね。ただ、同封されていた手紙を読む限り、今回の場合はホントに切手の交換をしたかったみたいです。 |
|
||
管理者だけに閲覧 | ||
|
昭和23年、第二次吉田内閣発足と同時に、白洲次郎は貿易庁長官に
就任します。様々な省庁の中、なぜ吉田茂は白洲を貿易庁へ送り込んだか。
そもそも貿易庁とは何か。
白洲本に記載されている、この件の状況は以下の通りです。
1.貿易庁には利権が集まり、汚職... …
|
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
|