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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ピアソラ生誕100年
2021-03-11 Thu 04:29
 “タンゴの革命児”と呼ばれたアストル・ピアソラが1921年3月11日に生まれてから、ちょうど100年になりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アルゼンチン・ピアソラ(2018)

 これは、2018年にアルゼンチンが発行したピアソラ顕彰の切手シートです。

 ピアソラは、1921年3月11日、ブエノスアイレスから南に400キロの位置にあるマル・デル・プラタでイタリア系移民の家庭に生まれましたが、4歳の時、一家でニューヨークに移住します。8歳の誕生日に、音楽好きだった父親から中古のバンドネオンをプレゼントされたのを機に、音楽にのめり込むようになりましたが、当時のピアソラは、タンゴよりもジャズやクラシックに惹かれていました。ただし、演奏技術の面では、10歳の時点ですでにひとかどの実力者になっており、“天才少年”としてブロードウェイのラジオ局でフォルクローレ(民謡)を演奏しています。

 15歳の時に、一家はアルゼンチンに帰国。故郷のマル・デル・プラタで父親の経営するレストランでバンドネオンやハーモニカを演奏していましたが、1938年、17歳の時に、たまたまラジオから流れてきたエルビーノ・バルダーロ楽団の演奏に衝撃を受け、タンゴの音楽性を強く意識するようになります。そして、翌1939年、18歳でタンゴの本場、ブエノスアイレスに出て、バルダーロの流れを汲み、当時最先端といわれたアニバル・トロイロ楽団のバンドネオン隊に参加しました。

 ピアソラはトロイロの下でタンゴの基礎をみっちりと仕込まれたものの、当時のタンゴ業界が、封建的な慣習を数多く残していたことに加え、タンゴをダンス音楽としてしかとらえようとしていなかったことに不満を感じ、楽団の活動と並行して、新進気鋭のクラシック作曲家、アルベルト・ヒナステーラの下で音楽理論を学び、習作的なクラシック作品を作るようになります。

 1944年、トロイロ楽団を脱退し、歌手フィオレンティーノの伴奏楽団指揮者を経て、1946年には自らの楽団を率いるようになりましたが、自作曲を発表する機会はほとんどなく、裏方的な仕事をこなしながらクラシックの作曲家としての修練を積んでいました。

 1954年、ピアソラは奨学金でパリに留学する機会を得て、数多くの一流演奏家・作曲家を世に出した音楽教師、ナディア・ブーランジェに入門。それまでに書き貯めたクラシック作品をブーランジェに見せましたが、ブーランジェの評価は、「よく書けているが、個性がない」というものでした。当時のピアソラは、クラシックに比べてタンゴを一段低いものとみていたため、タンゴのミュージシャンとしての経歴を隠していたのですが、そのことを知ったブーランジェは、ピアソラにタンゴを書くよう課題を出します。そこで、ピアソラは師の前で自作の「勝利」をピアノで演奏。すると、この曲が“ピアソラの音楽”であり、この路線を進むようにと強く勧められ、“踊るためではなく聴くためのタンゴ”を掲げたタンゴ革命を目指すようになりました。

 1955年7月、アルゼンチンに帰国すると、それまでタンゴとは無縁の楽器と思われていたエレキギターを取り入れたブエノスアイレス八重奏団を結成。タンゴ革命の第一歩を踏み出します。ピアソラの楽曲は、従来のタンゴにバロックやフーガなどのクラシックの構造や、ジャズの要素を組み込んでメロディを自由に展開させる斬新なものでしたが、この結果、あくまでも“踊るためのタンゴ”を目指すブエノスアイレスのタンゴ業界からは、“踊れないタンゴ”を作る“タンゴの破壊者”と攻撃されます。自らの“革命”への理解者があまりにも少なかったことに失望したピアソラは、1958年、新天地を求めてニューヨークに渡りましたが、なかなか思うような活動はできませんでした。しかし、翌1959年、プエルト・リコ巡業中に亡くなった父親に捧げるために書いた追悼曲、「アディオス・ノニーノ」は、彼の代表作の一つとなっています。

 1960年、ピアソラは再びアルゼンチンに戻り、バンドネオン、ヴァイオリン、ピアノ、コントラバス、エレキギターからなる五重奏団を結成。1965年に発表したアルバム『ニューヨークのアストル・ピアソラ』以降は、カバー曲を演奏するのが当たり前だったタンゴ界では極めて異例のことですが、原則として自作曲しか演奏しないという姿勢を貫きます。また、この時期、詩人で評論家のオラシオ・フェレールとの共作で発表した小オペラ『ブエノスアイレスのマリア』は音楽史に残る傑作と評されています。

 1973年に心臓発作を起こした後、1974年、ピアソラはローマに移住。日本でも、サントリーのCMに使われたことで人気を博した『リベルタンゴ』は、イタリア滞在中の1974年の作品で、曲の題名は、“libertad(自由)”と“tango(タンゴ)”の合成語です。

 1976年、ピアソラは活動の拠点をパリに移しますが、以後、世界各国の幅広いジャンルの音楽家や映画人から注目を集めるようになります。そして、1980年代の世界ツアーによって、ブエノスアイレスのローカルなダンス音楽という色彩が強かったタンゴを“聴くためのタンゴ”に昇華させたことを全世界にアピールしました。すでに、この頃には、彼の先進性を攻撃していたタンゴ界の保守的な長老はおらず、タンゴ革命の世界的な成功により、ピアソラはアルゼンチンの文化的英雄として誰もが認める存在となります。

 ただし、彼の音楽世界はあまりにも独創的であるがゆえに、後継者がほとんどできなかったのも事実で、ピアソラが自分の“後継者”として生前に指名したのは、フランスのアコーディオン奏者、リシャール・ガリアーノしかいません。

 なお、ピアソラは、1990年8月、パリで脳梗塞で倒れた後、アルゼンチン政府により大統領専用機でアルゼンチンに搬送され、闘病生活を経て、1992年7月4日に亡くなりました。

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#2619
投稿ありがとうございます^^
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