2016-11-01 Tue 11:52
スリランカの第2代大統領で、1951年のサンフランシスコ講和会議にはセイロン代表として出席し、対日賠償請求を放棄する旨の演説を行ったジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナが、1996年11月1日に亡くなってから、きょうでちょうど20年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
![]() これは、2004年にスリランカで発行されたジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナの肖像切手です。 ジャヤワルダナは、1906年9月17日、英領セイロンの最高裁判所判事の息子として生まれました。ロイヤル・カレッジ・コロンボ在学中には、セント・トーマス・カレッジ マウント・ラビニア校とのクリケットのロイヤル=トミアン(1879年開始の世界で2番目に古い対抗試合)、に選手として出場したこともあります。 コロンボ法科大学を卒業後、法曹界を経て、1938年、独立運動組織、セイロン国家機構 (CNC) の活動家となり、1948年のセイロン独立とともに初代蔵相として入閣しました。1951年のサンフランシスコ講和会議にセイロン代表として出席した際、「日本の掲げた理想に独立を望むアジアの人々が共感を覚えたことを忘れないで欲しい」と述べ、また、「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」という法句経の一節を引用して、対日賠償請求を放棄する旨の演説を行い、日本が国際社会への復帰を後押ししました。 1972年、仏教を準国教扱いにする新憲法が発布され、セイロンはスリランカ共和国となりますが、1977年の選挙でジャヤワルダナ率いる統一国民党が勝利を収め、首相に就任して、資本主義の導入、経済の自由化を開始します。その後、1978年に議院内閣制から大統領が執行権を行使する大統領制に移行し、国名がスリランカ民主社会主義共和国となると、首相を辞して大統領に就任しました。ただし、大統領制への移行当初は、スリランカ共和国時代の儀礼的な国家元首であったウィリアム・ゴパッラワが大統領職にあったため、ジャヤワルダナは、形式的には、第2代の大統領ということになります。なお、大統領の任期は1989年1月2日でしたが、任期中の1983年にはスリランカ内戦が勃発しています。 ジャヤワルダナは訪日経験が豊富で、1989年の昭和天皇の大喪の礼にも前大統領の肩書で、プレマダーサ大統領(当時)に代わって参列ました。また、1991年には日本の仏教関係者の招待で広島市を訪れ、広島平和記念資料館を見学したほか、1996年に亡くなった際には、「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」との遺言により、角膜が日本に贈られました。 ちなみに、今回ご紹介の切手にもあるように、ジャヤワルダナのファースト・ネームとミドル・ネームの“ジュニアス・リチャード”の略号はJRですが、スリランカではジャヤワルダナのサンフランシスコ講和会議でのスピーチが広く知られているため、日本を訪れて電車に乗ったスリランカ人の中には、「日本人は講和会議での恩義を忘れないために、すべての電車にジャヤワルダナのイニシャル“JR”を打ち込んでいる」と勘違いする人もいるというジョークもあるのだとか。それだけ、スリランカの人にとって、ジャヤワルダナは日本との友好のシンボルということなのでしょうが、その反面、日本では必ずしも彼の知名度が高いと言えないのはちょっと残念ですな。 ★★★ 講座のご案内 ★★★ 11月17日(木) 10:30-12:00 毎日文化センターにて、1日講座、ユダヤとアメリカをやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ ![]() 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました! ![]() ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
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