2016-11-12 Sat 11:01
1866年11月12日に孫文が生まれてから、今日でちょうど150年です。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、いまから10年前の2006年に香港で発行された孫文生誕140周年の小型シートで、シート・マージンには、香港内の孫文ゆかりの地の地図が印刷されているのがミソです。 孫文は、1866年11月12日、マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨で生まれました。幼名は孫帝象。後に、孫文、孫中山、孫逸仙などの名で、中国の国父として崇められることになりますが、革命家の常として、彼も生涯にさまざまな名前を名乗っています。一般に、日本では孫文、華人世界では孫中山、欧米ではSun Yat-sen(漢字表記だと孫逸仙)と呼ばれていますが、話の混乱を避けるため、ここでは、“孫文”の名で統一したいと思います。 辛亥革命の指導者とされている孫文ですが、1911年に実際の革命が起こったとき、彼は中国大陸のどこにもおらず(というよりも、いられず)米国にいました。じっさい、彼が計画した武装蜂起の類はことごとく失敗し、広州から香港へ、さらには東京や横浜へと逃げ回るというのが、彼の基本的なライフ・スタイルでした。 また、“三民主義”(その内容は決してリベラルなものではなく、一般の国民を“愚民”として、中国国民党による一党独裁を主張するものであることは意外と知られていないようです)を掲げるイデオローグではありますが、現実の革命家としては決して合格点を与えられる存在ではありません。 しかし、それでもなお、人をひきつける強烈なカリスマ性があったのでしょう。現在なお、華人世界では、“孫中山先生”は中国の国父として絶大な尊敬を集めており、彼らの学校では、その生涯は繰り返し教えられているのは周知のところです。 さて、孫文にとっても、香港は革命活動の重要な拠点で、「どこで革命を習ったか、私は香港で、と答える」という言葉を残していますが、実際、香港には孫文にまつわる“史蹟”が少なからず残されており、その一部は観光スポット化されている。今回ご紹介の小型シートは、それらを網羅した“孫文観光”の案内図のような形になっています。以下、地図に振られている番号順に各スポットと孫文の関連をみてみましょう。 ① 香港大學 孫文は革命家として功成り名を遂げた後の1923年2月、香港に立ち寄り、香港大學で講演を行い、人々は孫文を凱旋将軍のように迎えて歓迎しました。 ② 拔萃書室の跡地 孫文より15歳年長の兄、孫眉は、孫文が5歳のときにハワイに渡り、菜園での年季の労働者を振り出しに、マウイ島での開墾事業で成功。“マウイ王”と呼ばれるほどの資産家となり、1878年、当時12歳の弟をハワイへ呼び寄せました。 ハワイでの孫文少年は、英国系のミッションスクールと米国系のオアフ学校に学び、西洋の文化と思想に傾倒。しかし、弟の“西洋かぶれ”が度を越しており、伝統的な祖霊崇拝を捨てて、キリスト教に改宗する気配さえみせるようになると、心配した兄は孫文を故郷に送り返しましたが、ハワイを後にした孫文は、一歳下の同郷の友人、陸皓東とともに香港で宣教師のハーガーから洗礼を受けて、両親に無断でキリスト教に改宗してしまいます。 さて、故郷の翠亨村の生活は、ハワイでの青春を謳歌していた孫文にとって、あまりにも退屈きわまりないもので、ありあまる若さのエネルギーをもてあました彼はいたるところで衝突。そして、陸皓東と2人で、村人の信仰の対象であった北帝廟(悪魔の王を倒して神の称号を与えられたとされる北帝を祀った廟)の神様を単なる“土人形”と罵り、公衆の面前でその腕をもぎ取りってしまうという事件を起こします。 ただでさえ、キリスト教徒というだけで保守的な村では西洋かぶれの鼻つまみ者の2人でしたが、この一件で完全に村にはいられなくなり、孫文は香港へ、陸皓東は上海へ、それぞれ、学校へ行くという名目で逃れました。このとき、香港へ渡った孫文が、英語を学ぶためという名目で入学したのが、②の抜萃書室です。 ③ 同盟會招待所の跡地 同盟會、すなわち中国同盟會は、義和団事件の混乱の中で孫文らが起こした1900年の恵州蜂起が失敗した後、革命派が陣容建て直しのため、1905年に大同団結して東京で結成した組織です。同盟會の結成に伴い、それまで香港にあった孫文の革命組織、興中會は同盟會分会として改組されて、ひきつづき、革命派の拠点となります。 ④ 美國公理會(アメリカン・コングリゲーショナル・ミッション)福音堂の跡地 1883年に孫文と陸皓東がキリスト教の洗礼を受けたという教会の跡地です。 ⑤ 中央書院の跡地 中央書院は1862年創立の官立学校で、1883年に孫文が②の拔萃書室から転入した当時はこの場所にありました。逃げるように香港での学生生活を始めた孫文の身を案じた兄は、弟を休学させてハワイに呼び寄せ、“まっとうな人間”になるよう必死に説得したものの、クリスチャンからの転向はかなわず、1885年、彼は中央書院に復学します。 ⑥ “四大寇”聚所 中央書院を卒業した孫文は、翌1886年、米国長老会派のジョン・ケルが経営する広州の広済医学校に進学しましたが、翌年、香港に新設されたばかりの西医書院(後述)に入学します。 西医書院時代の孫文は、学業成績は優秀でしたが、おとなしく勉学のみをしているはずもなく、広州で知り合った三合会(反清復明を唱える秘密結社)の首領で侠客の鄭士良らと付き合い、清朝政府を公然と批判して“四大寇”(四人の悪党)の一人に数えられるほどの有名人となりました。当時の彼の仇名は孫大砲。すなわち、大法螺吹きの孫という意味です。この四人が出会った場所が、現在は印刷所となっている⑥の場所となります。 ⑦ 楊衢雲暗殺の地 ⑧ 輔仁文社の跡地 楊衢雲は福建省出身の革命家で、1892年に香港で謝纉泰らと⑧の場所に輔仁文社を設立。1895年に香港興中会が結成されると、孫文よりも年長であった彼は初代会長に就任し、1900年の武装蜂起にも参加しましたが、翌1901年、⑦の場所で暗殺されました。 ⑨ 皇仁書院(クイーンズ・カレッジ)の跡地 皇仁書院は歌賦街にあった⑤の中央書院が改組されたもので、1889年から1894年までは維多利亞書院(ヴィクトリア・カレッジ)と称していましたが、1894年に皇仁書院となりました。この土地には1950年まで校舎がありましたが、現在では銅鑼灣(コーズウェイベイ)に移転しています。 ⑩ 西医書院の跡地 西医書院は香港の大富豪・何啓が、1884年に病没した妻アリスを記念して1887年に建てたアリス記念病院の付設施設として設立されたもので、香港初の本格的な西洋医学の教育機関です。 アリス記念病院と西医書院の創立者となった何啓は、185年、香港のロンドン伝道教会の華人牧師の子として生まれ、英国で医学と法律を学び、1881年に妻のアリスと結婚して香港に戻りました。当初は医師として活動するつもりだったものの、華人が西洋人の医師の診察・治療を受けようとしなかったため、1882年からは弁護士として活動し、議政局議員も務めています。 西医書院は、英文名称が“Hong Kong College of Medicine for Chinese”となっていることからもわかるように華人に対して西洋医学を教授するための機関で、1887年10月1日に開校。第一期入学者は孫文を含め11名いましたが、授業は厳しく、卒業試験を受けることができたのは孫文を含めて4名しかいませんでした。 ⑪ 道濟會堂の跡地 道濟會堂は1888年にロンドン伝道協会が建立した教会で、西医書院時代の孫文は、学校の近くのこの教会に足繁く通っていたといわれています。 ⑫ 香港興中會本部の跡地 興中會は、孫文が結成した清朝打倒の秘密結社です。 1892年に西医書院を卒業した孫文は医師としての資格を取得し、その後しばらくは香港を離れ、マカオ、廣州で医師として開業するかたわら、同志とともに時事を論じる日々を過していました。 1894年1月、孫文は、天津を訪れ、清朝の実力者で西医書院の名誉賛助人でもあった李鴻章に対して、国家改革の私案をまとめた進言書を一方的に送りつけます。当時は日清戦争が迫り情勢が緊迫していた時期で、李鴻章からすれば、無名の青年が書いた八千字もの長文を読む時間的余裕などあるはずはないのですが、孫文はそうした事情をまったく考慮せず、自分の建策を受け入れないのは清朝が悪いとして、その打倒を決意。同年11月、革命の秘密結社としてハワイで興中會を結成しました。 さらに、翌1895年、孫文は香港に帰り、鄭士良や陸皓東らの年来の同志とともに、香港興中會本部を立ち上げました。その拠点が士丹頓街13号、すなわち、⑫の場所に置かれていたというわけです。 もっとも、反政府活動の秘密結社ですから、“興中會”の看板を堂々と掲げるわけには行かず、表向きは商店を装って“乾亨行”の看板が掲げられていました。その由来は、『易経』の一節「乾元、天命を奉行すれば、その道乃ち亨る」です。また、興中會への入会の宣誓には「韃慮(満洲族)を駆除し、中華を回復し、合衆政府を創立する」との文言があったといわれています。 ⑬ 杏讌樓西菜館の跡地 香港興中會本部は、“会党”と呼ばれる秘密結社や“緑林”と呼ばれる無法者集団を動員するとともに、何啓やイギリスの新聞記者の支持をも取り付け、武器弾薬を準備して、着々と武装蜂起の準備を進めていましたが、彼らが謀議の場としてしばしば利用していたのが、⑬の西洋料理店、杏讌樓西菜館です。 杏讌樓で食事をしながら、孫文たちは、廣州では旧暦9月9日の重陽節に墓参りの習慣があることに目を付け、メンバーに墓参りを儀装させて香港から広州に送り込み、武装蜂起を起こし、独立政府を樹立しようと計画します。 しかし、この計画は事前に清朝側に察知されて失敗。陸皓東以下、40名以上が逮捕され、孫文も命からがら香港を経て日本に亡命しました。以後、孫文は清朝政府から体制転覆を狙うテロリスト集団の頭目として懸賞首となり、1912年に中華民国の成立が宣言されるまでの間、海外で亡命生活を送ることになります。 亡命生活を始めて間もない1896年10月、孫文はロンドンで同郷の廣東人と称して近づいてきた清朝の公使館員に騙されて館内に拉致・幽閉されてしまい、後は本国に送還されて処刑を待つのみという窮地に陥りました。しかし、熱心なクリスチャンであったことが幸いし、英国人使用人の説得に成功。彼を介して西医書院時代の恩師で、ロンドンに帰国していたジェイムズ・カントリーと連絡し、そこから事件はロンドンの新聞社によって取り上げられ、国際的な批判を受けた清朝は孫文を解放せざるを得なくなりました。 解放された孫文はこのときの経験を Kidnapped in London (中国語題名は『倫敦被難記』)として出版。それがちょっとしたベストセラーとなったことで、それまで単なる国外逃亡の指名手配犯だった孫文は、ようやく、革命家としての肩書を手に入れるのです。 ⑭ 『中国日報』事務所の跡地 1900年の恵州蜂起に先立ち、陳少白が革命宣伝のために発行した『中国日報』の事務所です。 ⑮ 和記棧鮮果店三樓 孫文たちが1903年の武装蜂起(失敗)の謀議をめぐらした場所です。 なお、孫文と香港の関係については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろと説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 講座のご案内 ★★★ 11月17日(木) 10:30-12:00 毎日文化センターにて、1日講座、ユダヤとアメリカをやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました! ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
|
||
管理者だけに閲覧 | ||
|
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
|