ご報告が遅れましたが、『SAPIO』6月13日号が発売になりました。僕が担当している連載「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、今回は、フランス新大統領の就任を記念して、フランス共和国大統領を名乗った最初の人物、ナポレオン3世を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)
![ナポレオン3世](http://blog-imgs-23.fc2.com/y/o/s/yosukenaito/20070526104450s.jpg)
後にナポレオン3世を名乗るシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルトは、皇帝ナポレオン・ボナパルトの弟、ルイ・ボナパルトと、ナポレオンの妻ジョゼフィーヌの連れ子、オルタンス・ド・ボアルネの三男として、1808年、パリで生まれました。皇帝の甥として優雅に暮らしていた彼は、伯父の失脚後、母親のオルタンスとともに亡命生活を余儀なくされ、ドイツ・イタリアを転々とした後、スイスで少年時代を過しました。
血は争えないというべきか、20歳前後の彼はギリシャ独立戦争に参加しようとしたり、スイスのトゥーンにある砲兵学校で軍事訓練を受けたりしていましたが、1830年のフランス7月革命を機に帝政復活の野望に目覚めてしまいます。
この年、彼は避暑のためイタリアを訪問。ナポレオン1世の支配が崩壊した後のイタリアは、オーストリアとローマ教皇の影響力が強い分裂国家の状態にあり、これに反発する秘密結社のカルボナリ(こいつらもテロっ気がありますんで、いずれ、連載で取り上げることになりそうです)が各地で一揆を起こしていました。「伯父がいなくなったからこのザマだ」と憤慨したルイ=ナポレオンは、兄とともにカルボナリの活動にコミットし、その結果、オーストリアの官憲から追われる身となります。さらに、1832年には、従弟の“ナポレオン2世”が若くして病死したこともあって、ルイ=ナポレオンは伯父の後継者になることを固く決意するようになりました。
その第一段階として、1836年10月、ルイ=ナポレオンはストラスブールのフランス軍駐屯地で、砲兵第4連隊に呼びかけて7月王制打倒の一揆を試みます。“ナポレオンの甥”を名乗れば部隊はひれ伏すと考え、ほとんど準備らしい準備もせずに行なわれた一揆は、当然のことながら瞬時に鎮圧され、逮捕された彼はアメリカに追放されました。
その後、ロンドンに移り住んだ彼は、1840年8月、英仏海峡の港町ブローニュでも第24歩兵連隊に呼びかけての一揆を試みますが、やはり失敗。今回は、前回のように“性質の悪い冗談(本人は大真面目でしたが)”ではすまされず、彼は終身禁固の判決を受けて北フランスのアム要塞に収監されました。しかし、1846年に出入りの職人に変装して脱獄に成功した彼は、再びロンドンに渡り、莫大な財産を蕩尽して恋と革命に熱中する生活を続けます。
そうしているうちに、1848年、2月革命が勃発。7月王制は打倒され、第2共和制が発足すると、社会的安定を求める国民の間に根強いナポレオン神話を背景に補欠選挙で議員に当選。晴れて、政界デビューを果たしました。
同年末、フランスは初めての大統領選挙を実施し、ルイ=ナポレオンもこれに立候補しました。玄人筋の予想では、大本命はカヴェニャック将軍でルイ=ナポレオンは泡沫候補扱いでしたが、フタをあけると、日本のタレント候補同様、“ナポレオン”ブランドの力で彼が圧勝。ルイ=ナポレオンはフランス共和国の初代大統領になりました。
もっとも、大統領にはなったものの、政治家一年生で権力基盤のなかった彼は、議会の反対で自分の思い通りの政策を実現することができなかったこともあり、1851年12月、クーデターを起こして議会を解散して有力議員を逮捕。翌1852年には偉大なる伯父の先例にならって、国民投票を経て皇帝ナポレオン3世として即位し、帝政復活の彼岸を果たしたというわけです。
まぁ、皇帝としてのナポレオン3世はパリのインフラ整備を初めそれなりに業績を残しているのですが、クーデターという政権の出自に加え、普仏戦争で自ら捕虜となって退位という無様な最後ゆえに、フランスでの評判は散々です。
なお、今回ご紹介しているのは、1862年に発行されたナポレオン3世の20サンチーム切手。ホントは大統領時代の“REPUB FRANC”と表示されたものを持ってこれれば良かったのですが、まぁ、勘弁してください。