2020-04-17 Fri 00:34
1895年4月17日に日清戦争の講和条約として下関条約が調印されてから、きょうでちょうど125年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1955年8月15日に韓国が発行した“光復(=日本統治からの解放)10周年”の記念切手で、ソウルの独立門が描かれています。 長年にわたって清朝を宗主国とし、事実上の鎖国体制を採ってきた朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、1876年に日朝修好条規を結んで開国。その後、列強諸国の圧力に対して、清朝の属国としての地位から脱して近代独立国家の建設を目指すべきだという勢力(開化派)と、清朝との関係を維持・強化することで危機を脱すべきと考える勢力(事大派)が対立していました。こうした朝鮮国内の対立は、朝鮮半島の権益をめぐる各国の対立ともリンクし、1894年には日清戦争を引き起こしています。 日清戦争は、朝鮮での農民反乱の鎮圧をめぐる両国の対立が直接の発端となったことにみられるように、朝鮮に対する清朝の宗主権を認めるか否かというのが最大の焦点でしたが、戦争は日本の勝利に終わり、清朝は朝鮮に対する宗主権を放棄して朝鮮が独立国であることを承認。朝鮮からの朝貢なども廃止されます。下関条約の第一条が「淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス 因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ淸國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ」となっているのは、こうした経緯によるものです。 清朝の属国ではなくなったことを受け、朝鮮ではいつまでも属国の首長である“国王”を名乗るのはおかしいということになり、国王を皇帝となり、国号は大韓帝国と改められました。 そして、清朝からの独立記念事業の一環として、ソウル4大門の一つで、清朝の使節を迎えるための門として迎恩門とも呼ばれていた西大門と清朝への服属のシンボルであった大清皇帝功徳碑などを破壊し、その隣に建てられたのが、切手に描かれている独立門です。 門は、徐載弼の案をもとにロシア人建築家のアファナシー・イバノビッチ・セレディン=サバチンが設計施工。パリの凱旋門をモデルとしており、高さ14.28m、幅11.48mで、約1850個の御影石が用いられています。建設費用は、開化派の団体である独立教会が中心となり民間の浄財を募り、1897年11月20日の完成時には、新生大韓帝国の臣民によって独立を祝賀する式典も行われました。 なお、もともと、門は現在の位置より東南に70mほど離れた場所にありましたが、1979年、高速道路の建設により現在の場所に移設されました。本来は、迎恩門の跡である2本の柱と独立門の間にはそこそこの距離がありましたが、移設に際して両者は近接するようになっています。 いずれにせよ、独立門は、もともと、清朝からの独立を記念して建てられたものであり、間接的には、日清戦争での日本の勝利を記念する門とみなすことさえできます。すくなくとも、今回ご紹介の切手が発行された1955年の時点では、この門が1945年以前から存在しており、日本からの“解放”を記念して建てられたものではないことは、南北を問わず、全朝鮮人がしっかりと認識していたことは間違いありません。したがって、独立門はまさしく“日韓友好”の象徴ともいうべきもので、このデザインなら“朝鮮独立60周年”とでも表示したほうが適切だと思うんですがねぇ。 なお、このあたりの事情については、拙著『日韓基本条約』でもいろいろ書きましたので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 4月17日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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