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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 虜囚の地・セントヘレナ
2015-10-15 Thu 10:56
 フランス皇帝を退位したナポレオン・ボナパルトが1815年10月15日にセント・ヘレナ島に配流されてから、きょうでちょうど200年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      セントヘレナ宛捕虜郵便

 これは、1901年3月24日、ケープ植民地ハイデルベルクからセントヘレナに設置されていたボーア戦争の捕虜収容所宛のカバーです。

 1899年10月に始まったボーア戦争は、当初、ボーア軍が英軍を圧倒していましたが、1900年2月、英本国からの増援部隊が到着。2月18日から27日にかけてのパールデベルグの戦いで英軍がボーア軍を破ったことで戦況は逆転し、3月13日にはオレンジ自由国の首都ブルームフォンテーンが、6月5日にはトランスヴァール共和国の首都プレトリアが陥落します。さらに、イギリス軍は、6月11日から12日にかけて、プレトリア近郊のダイアモンド・ヒルでボーア軍の残党を掃討し、正規軍同士の戦いは事実上終結しました。

 ボーア戦争の捕虜収容所は、南ア域内はもとより、遠くセイロンやインド、セント・ヘレナにも設置されており、捕虜となった約2万8000人のアフリカーナーのうち、2万5630人が海外の収容所に送られました。このうち、今回ご紹介のカバーの宛先になったセント・ヘレナの収容所に関しては、ナポレオンさえ脱出できなかった流刑地というメージを連想させ、捕虜たちに対する精神的なダメージを与える意図もあったのではないかと思われます。

 一方、正規軍の戦いが終結した後も、英国の侵略から祖国を守ろうとするアフリカーナーの士気は衰えず、彼らはゲリラ戦を展開し、激しく抵抗していました。

 これに対して、英軍の総司令官ホレイショ・キッチナーは、ゲリラ殲滅のため、焦土作戦を敢行。ゲリラに対する補給を断つとともに、ゲリラ側の戦意を喪失させるためとして、アフリカーナーの家屋や農場を容赦なく焼き払いました。

 その過程で浮上してきたのが“強制収容所”問題です。

 当時の英軍は、いかなる理由であれ(とはいえ、実際には戦禍によるものが大半でしたが)住居を失った現地住民を対象に、人道上の見地から、避難所を設置します。この避難所は、当初、“refugee camp”と呼ばれていました。文字通りに訳すと、難民キャンプです。

 ところが、キッチナーによる焦土作戦が発動され、アフリカーナーに対する事実上の無差別攻撃が開始されると、住居を失うアフリカーナーが急増。ゲリラとみなされた成人男性は処刑されるか遠方の捕虜収容所へと送られ、夫や父親などと引き離された女性や子供、老人は収容所での集団生活を強要された。これが“concentration camp”で、本来の訳語としては“集団生活所”とすべきでしょうが、その実態に照らして、一般に“強制収容所”と呼ばれています。

 しばしば、“集団生活所(=強制収容所)”を設けたのはボーア戦争時の英国が最初といわれていますが、厳密にいうと、米西戦争(1898年)以前のスペイン領キューバやフィリピン、さらには米西戦争後の米比戦争などでの事例があります。ただし、ボーア戦争期の“集団生活所(=強制収容所)”は、現在の南アフリカ共和国に相当する地域のほぼ全域で、住民をもともとの居住地から組織的に駆逐し、収容所での集団生活を強要したという点で、フィリピンなどの先例に比べてはるかに大規模なものであり、その意味では、世界最初の本格的な強制収容所といってよいでしょう。

 英国はアフリカーナーを対象に45ヵ所、アフリカ系黒人を対象に64ヵ所の収容所を設置しましたが、焦土作戦が本格化した後、各収容所には明らかに収容能力を超える人々が抑留され、食糧や医療、衛生環境は極端に悪化。戦時下ゆえに物資の補給が困難であったことに加え、多くの収容所では当局が事態の改善にまじめに取り組みませんでした。さらに、ゲリラとして反英闘争を続けている者が家族にいる場合には食料の配給も減らされ、最終的に2万6000人を超える女性と子供が収容所で命を落としたといわれています。また、アフリカーナーと異なり、アフリカ系の黒人は英国から“敵国人”とみなされていたわけではありませんでしたが、やはり、焦土作戦によって住居を失う者が多く、数万人が強制収容所送りとなり、また1万4154人が死亡しました。

 ちなみに、ナチス・ドイツで設置されていた“Konzentrationslager”という施設に関して、ヒトラーは1941年に「Konzentrationslagerの発明者はドイツ人ではない。英国人だ。彼らはこの種の方法で諸民族を骨抜きにできると思っている」と述べているほか、ゲーリングはニュルンベルク裁判で「Konzentrationslagerはボーア戦争の際に英国が南アフリカに建設したconcentration campをモデルにした」と証言しており、少なくとも、彼らの意識の中では、ナチスの強制収容所は、ボーア戦争以来の先例を踏襲したものと理解されていたことがうかがえます。

 さて、以前の記事でも少し書きましたが、11月上旬、えにし書房から拙著『アウシュヴィッツの手紙』が刊行の予定です。同書では、今回ご紹介したようなマテリアルも使いながら、“強制収容所”全体の歴史の中で、“アウシュヴィッツ”がどのような位置を占めているのかについても考えてみました。また、同書の刊行に先立ち、下記のようなトークイベントも企画しておりますので、なにとぞよろしくお願いいたします。
 

 ★★★ 明日です! 講座「アウシュヴィッツの手紙」(10月16日)のご案内 ★★★ 

     ポーランド・アウシュヴィッツ解放30年   アウシュヴィッツの労務風景

 10月16日(金) 19:00~20:30、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、「アウシュヴィッツの手紙」と題する講座を行います。

 第二次大戦中、ポーランド南部のアウシュヴィッツ(ポーランド語名・オシフィエンチム)は、ナチス・ドイツの強制収容所が置かれ、ユダヤ人を中心に150万人以上が犠牲となった悲劇の地として知られています。今回の講座では、収容者の手紙を中心に、第二次大戦以前の状況を物語る郵便物・絵葉書、アウシュヴィッツを題材とした戦後の切手などもご紹介しつつ、さまざまな角度からアウシュヴィッツを考えてみたいと思います。

 申込方法など詳細は、こちらをご覧ください。(画像は、ポーランドが発行したアウシュヴィッツ解放30周年の記念切手、右側は収容者による労務風景を取り上げた戦後作成の絵葉書です) 皆様のご参加をお待ちしております。

 ★★★ <JAPEX> トークイベントのご案内 ★★★

   アウシュヴィッツの手紙・表紙  ペニーブラック表紙   

 東京・浅草で開催される全国切手展<JAPEX>会場内で、下記の通り、拙著『アウシュヴィッツの手紙』ならびに『英国郵便史 ペニー・ブラック物語』の刊行記念のトークイベントを予定しております。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。

 ・10月30日 15:30~ アウシュヴィッツの手紙
 ・11月1日  14:00~ 英国郵便史 ペニーブラック物語


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 【出版元より】
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 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

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