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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 チベット遠征軍の野戦局
2008-03-30 Sun 22:50
 14日の暴動以来、緊張が続くチベットで、昨日(29日)午後、首都・ラサ中心部にあるラモチェ寺前のほか、近くのジョカン寺前などで大規模なデモ(ダラムサラの亡命政府によると数千人規模、アメリカ系のラジオ自由アジア(電子版)によると数百人規模)が発生したそうです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 ラサ・イギリス局

 これは、英領切手にイギリスのチベット遠征軍の野戦郵便局の消印を押したものです。

 1858年にインドを植民地化したイギリスは、インド防衛のために周辺諸国を侵食していくことになりますが、その過程で、チベットをめぐって、これを保護国とする清朝と対立します。
 
 こうした状況の中で、1903年3月、イギリスはフランシス・ヤングハズバンド大佐率いる遠征軍(チベット辺境使節団)の派遣を決定。同年7月、遠征軍はチベットに到着し、現地のチベット軍を破って進軍し、8月3日、ラサに到着しました。この間、6月にはダライラマ13世がガンデン・ティ・リンポチェおよびロザン・ギャルツェン・ラモシャルの2人を摂政に任じてラサを脱出してモンゴルに亡命しています。

 ラサに到着したヤングハズバンド一行は、9月7日、ポタラ宮で摂政とラサ条約(イギリス・チベット条約)を調印。同条約には、①チベット-シッキム間の国境確定、②ギャンツェ・ガントク・ヤトンでの通商解放、③外交的に重要な案件(領土の譲渡・売却・租借、外国によるチベット内政への干渉、外国代表団の受け入れ、外国への鉄道・鉱山・電信などの利権の供与など)にはイギリスの同意を必要とすることなどが含まれており、清朝のチベットに対する宗主権を実質的に否定するものでした。

 その後、清朝は1906年の「チベットに関する条約」でラサ条約を追認させられますが、翌1907年の英露協商で、イギリスのチベット特権は否定されましたが、清朝のチベットに対する宗主権の問題は英露の協議の対象とはなりませんでした。

 さて、ヤングハズバンドの遠征軍は、ラサ条約の調印後、9月23日にはラサを出発して撤退を開始しますが、この間、彼らは野戦郵便局を設置し、英領インド切手を持ち込んで使用しました。これが、チベットにおいて、切手が用いられた最初の事例となります。

 今回ご紹介のモノは、彼らがラサに到着した1904年8月3日の消印が押されたもの(おそらく、“記念品”として作られたものでしょう)です。当時はすでにエドワード7世の切手が使われていましたが、ここでは、ヴィクトリア女王の3パイス切手(折れ目のあるものが貼られているのが残念ですが)が使われています。消印の表示は、現在、一般的に見られるLHASAではなく、LAHSSAです。

 さて、今回のデモは日米欧の15カ国の北京駐在各国外交団の訪問に合わせて行われたと考えられていますが、中国当局は治安部隊を投入し、主要な寺院を包囲・封鎖したほか、戦車や装甲車両などを投入しデモを鎮圧したそうです。中国の圧政に徒手空拳で抵抗しているチベットの人たちのニュースを聞くたびに、つい5年ほど前、“自由なイラクの実現のために”という大義名分を掲げてイラク戦争を起こした人たちや、人道介入の名目でコソボへの空爆を行った人たちの間から、自由なチベットの実現のために、チベット遠征軍を派遣しようという声が上がってきてもよさそうなものなのに・・・と、ついつい思ってしまうのは僕だけなんでしょうかねぇ。
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