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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ビロビジャンへ行ってきました
2011-08-11 Thu 08:55
 ハバロフスク滞在もきょうで4日目。実質的な最終日です。きのうは、ちょっと足を延ばして、ユダヤ自治州の州都、ビロビジャンまで行っきました。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ビロビジャン消印     ビロビジャン駅


 これは、1935年4月3日のビロビジャンの消印が押されたソ連切手のオンピースです。ロシア語とヘブライ語のバイリンガルの消印が押されていますが、鉄道の駅の表示がやはりバイリンガルでしたので、参考までに、きのう(10日)撮影した写真を隣に貼っておきます。

 ハバロフスクの西約150キロの地点にあるビロビジャンは、中国との国境近くのビラ川、ビジャン川沿いにあることが地名の由来です。

 ロシア革命後の内戦期、極東地域には、緩衝国家として極東共和国が樹立されていましたが、列強による干渉出兵の最後の兵力であった日本軍が1922年10月にシベリアから撤退すると、ボルシェビキ政権にとって同国の存在意義もなくなり、同年12月のソヴィエト社会主義共和国連邦(以下、ソ連)の成立にあわせて、同国はソ連に吸収され、消滅してしまいます。

 しかし、その後も、ソ連にとって極東情勢は必ずしも安泰とは言いがたい状況でしたから、スターリンは満洲からの脅威に備えるための緩衝地域を極東に復活させようと考え始めます。

 一方、ソ連領内のユダヤ系に関しては、当初、黒海沿岸のクリミア半島の一部に彼らを入植させた民族区を作る構想がありましたが、ユダヤ系を信用していなかったスターリンは、モスクワはもとより中央ロシアやウクライナから彼らを事実上追放し、極東における防波堤として活用することを考えました。この結果、1927年、クリミア半島でのユダヤ民族区創設のプランは破棄され、翌1928年、「社会主義的な枠組みのなかでユダヤ人の文化的自治をめざす」との名目で、極東の国境地帯にユダヤ民族区が創設されました。

 ユダヤ民族区は1935年にユダヤ自治州に昇格し、ソ連政府は「ユダヤ人の歴史上初めて自分の故郷の建設、自らの民族国家の成就への燃えるような要望が満たされた」と喧伝しましたが、国境地帯の過酷な自然環境もあってユダヤ系の移住者はなかなか定着せず、1939年の時点でさえ、ユダヤ人自治州の名前とは裏腹に、同州の人口10万9000人のうち、ユダヤ人は16%の1万7695人しかいませんでした。ちなみに、現在のユダヤ自治州の人口19万人弱のうち、ユダヤ系はわずか4%ほどで、ロシア人が87%と人口の圧倒的多数を占めています。

 なお、今回のビロビジャン日帰り旅行の顛末は、今秋、<切手紀行シリーズ>の第4巻として刊行予定の『ハバロフスク』(仮題)で、詳しくご報告するつもりです。同書の刊行予定日やページ数、価格など、詳細が決まりましたら、逐次、このブログでもご報告してまいりますので、よろしくお願いいたします。


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