2017-11-25 Sat 15:21
エジプト北東部、シナイ半島北部アリーシュ近郊で、きのう(24日)、イスラム武装勢力が爆弾と銃でモスクを襲撃。この記事を書いている時点で235人が死亡し、109人以上が負傷しました。エジプトでのイスラム武装勢力による襲撃事件としては過去最悪規模の被害だそうです。というわけで、亡くなられた方の御冥福と、負傷された方の一日も早い御快癒をお祈りしつつ、きょうはこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1982年にエジプトで発行された“シナイ半島解放”の記念切手で、半島の地図にハトとオリーブが描かれています。 シナイ半島は、16世紀以降、ながらくオスマン帝国の支配下にありましたが、1805年に成立したエジプトのムハンマド・アリー朝は1840年までに半島を実効支配下に置き、その後は、エジプトの領有権が確立されました。 1956年の第二次中東戦争に際しては、イスラエル軍により一時的に占領されましたが、戦後はエジプトに返還されます。しかし、1967年の第三次中東戦争で再びイスラエルに占領されました。 このため、1970年にナセルの死を受けて政権を継承したサダトは、シナイ半島奪還を目指して、シリア大統領ハーフィズ・アサドとも連携をとりながら、対イスラエル戦争のプランを練り始めます。 戦争計画の策定にあたっては、サダトとアサドは、戦争の長期化は絶対に避けるとの前提の下、イスラエルに軍事的な大打撃を与えることで、大国による和平の仲介を引き出すという基本方針を確認。このため、戦争計画は、緒戦の電撃的な侵攻作戦に重点が置かれ、スエズ運河の潮流や月齢などを考慮した結果、ユダヤ教の贖罪日(ヨム・キップール)でイスラエル軍の態勢が手薄になる1973年10月6日が開戦予定日として設定されました。 かくして、1973年10月6日、エジプト・シリア連合軍によるイスラエルの奇襲攻撃によって、第四次中東戦争の火ぶたが切って落とされます。 開戦当初の3日間、エジプト軍はイスラエルに対する大規模攻撃を展開し、スエズ運河を渡河して、イスラエルの航空機五十機と戦車550両を撃破するという華々しい戦果を挙げました。このうち、スエズ運河渡河作戦の成功は、イスラエルに対するアラブ最初の勝利として大々的に喧伝され、サダトは「渡河作戦の最高指揮官=イスラエル軍不敗神話を破ったアラブの英雄」として、その権威は絶大なものとなります。 一方、イスラエル=シリア国境のゴラン高原では、シリア軍が快進撃を続け、アラブに対するイスラエルの不敗神話は崩壊しました。 もっとも、エジプト・シリア両軍の優勢は長続きしませんでした。はやくも10月11日にはイスラエルはゴラン高原での大反攻を開始し、シリア領内に突入。さらに、シナイ半島方面でも、同16日にはスエズ運河の逆渡河に成功してエジプト領内に進攻し、形勢は逆転します。 ところが、翌17日、アラブ産油国10ヶ国が米国とイスラエル支援国に対する原油輸出の5パーセント削減を発表すると同時に、同6ヶ国が原油価格の21パーセント引き上げを決定。さらに、イスラエル軍が1967年の第3次中東戦争以前の境界線まで撤退しない限り、以後、毎月5パーセントずつ原油生産を削減すると発表しました。いわゆる(第一次)石油危機の発生です。 10月20日、サウジアラビアが米国に対する石油の全面的な輸出禁止を発表すると、イラクをのぞくアラブ産油国の全てがこれに同調。アラブ諸国から米国とオランダ(米国のイスラエル軍事援助に際して国内の空軍基地使用を許可したことから、アラブ諸国から「敵」と認定されていました)への石油の輸出が全面的に停止されました。アラブ諸国の強硬姿勢に接してパニックに陥った西側諸国は、自国の経済を防衛するため、イスラエルとの友好関係を見直すようになります。 ところで、戦況が次第にイスラエル有利に傾いていくと、ソ連はエジプト(サダトによる軍事顧問団の追放後もソ連はエジプト領内の基地使用権を保有していました)とシリアが第三次中東戦争に続いて大敗することで、中東におけるパワーバランスが大きく崩れることを懸念し、米国と協議を開始。ソ連がエジプトとシリアに対して、米国がイスラエルに対して、それぞれ、早期の停戦を受け入れるよう、強く説得しました。 これに対して、イスラエル敗北の既成事実を作った上で停戦協定を結び、シナイ半島を奪還することを(本音の)戦争目的としていたサダトも、緒戦の優位が失われていたことから、停戦の受け入れに前向きな姿勢を示します。一方、戦況が好転しつつある中での停戦受諾はイスラエルにとっては不満の残るものではあったが、米国はなんとかイスラエルの説得に成功しました。 こうして、10月22日の国連安保理において、関係諸国に対する停戦決議(決議第338号)が採択され、同25日、停戦が成立します。 第四次中東戦争の停戦の成立を受けて、1973年12月22日、米ソ両国の主導によりジュネーヴで中東和平会議が開催されました。 会議の席上、米国務長官キッシンジャーはスエズ運河周辺とゴラン高原でアラブ、イスラエル両軍の兵力を引き離すための協定締結に向けて合同委員会を設置することを提案。これを受けて、1974年1月18日、①40日以内に、イスラエルがスエズ西岸の橋頭堡を放棄し、スエズ東岸で運河から約20マイル撤兵する、②エジプトは東岸に一定の兵力を維持する、③両軍の間を国連の休戦監視軍がパトロールする、というシナイ半島の兵力分離協定が調印されました。 シナイ半島奪還という目標が外交努力によって徐々に達成されつつあるのを確認したサダトは、イスラエルに対する融和的な姿勢を強め、1975年9月にはシナイ半島での第二次兵力分離協定を調印。さらに、1977年11月、サダトは、ついに、アラブ国家の元首としてはじめてイスラエルを公式訪問し、イスラエル国会で演説し、イスラエルとの単独和平を目指す姿勢を明らかにします。これを受けて、同年12月、返礼のため、イスラエル首相のベギンもカイロを訪問し、エジプト=イスラエル間の関係は急速に改善されていきました。 このように、第四次中東戦争停戦後、サダトが展開してきた一連の対イスラエル外交は、関係国との個別交渉を通じて問題の解決を図ろうとするイスラエルの方針に沿ったもので、イスラエルの存在そのものを容認しないという“アラブの大義”に照らして絶対に許容されえないものでした。このため、サダトはアラブ諸国から激しい非難を浴び、シリア、アルジェリア、リビア、南イエメン、リビアがエジプトと断交します。 そして、1978年9月17日、いわゆるキャンプ・デイヴィッド合意が成立。この合意では、シナイ半島の返還に関してはエジプトの主張が大幅に認められており、両国間の平和条約調印も定めていましたが、ヨルダン川西岸とガザ地区のイスラエル占領地に関しては「パレスチナ人の統治について協議を開始する」とされたものの、実質的に、イスラエル軍の駐留継続を追認する内容となっていました。 このため、キャンプ・デイヴィッド合意は、自国の利益のためにパレスチナをイスラエルに売り渡したものとして、エジプトを除く全アラブ諸国から激しく非難され、エジプトは周辺諸国から完全に孤立。1981年10月6日、サダトは、“第6回1973年10月の勝利記念パレード”を閲兵中、イスラム原理主義組織“ジハード団”のメンバーだったハリド・イスランブーリーによって暗殺されました。 一方、シナイ半島はキャンプ・デイヴィッド合意の後、1982年までに、数段階を経て、エジプトに返還されています。 エジプトへの返還後のシナイ半島は、軍事的な要地ではあるものの、経済開発や住民のための行政サービスは不十分なままの状態が続いています。このため、治安状況も不安定で、2004年にタバ、2005年にシャルム・シェイク、2006年にダハブで外国人観光客を狙った爆破事件が発生。2011年の革命の後はさらに治安が悪化し、過激派組織が、天然ガスのパイプラインの破壊、イスラエルに対する越境攻撃、エジプト軍と警察に対する襲撃といった武装闘争を展開しています。 なお、シナイ半島奪還をめぐるサダトの動きについては、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は30日!★★ 11月30日(木)16:05~ NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第12回が放送予定です。今回は、12月1日に予定されているパレスチナの西岸地区とガザ地区の統治一元化にちなんで、ガザ地区の歴史についてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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