1999年末のパナマ運河返還を決めた新パナマ運河条約の調印から、今日(7日)で、ちょうど30年になります。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1982年11月13日、パナマ運河地帯に設けられていた米軍の野戦局から差し出されたカバーで、消印には“パナマ共和国/アメリカ合衆国軍事郵便局/パナマ運河条約によって公認済”との表示も見えます。
パナマ地峡に運河を建設しようという計画のルーツは、古くは1534年、スペインのカルロ1世が調査を指示したことに求められます。
19世紀になり、スエズ運河を設計したレセップスはパナマ運河の建設を計画し、実際に1880年1月1日に工事も開始しましたが、黄熱病の蔓延や工事の技術的問題、資金調達の面などから、1889年に計画は放棄されてしまいます。
これに対して、1902年、アメリカが運河建設を決定。当時、パナマ地峡は自治権をもつコロンビア領でしたが、運河の地政学的重要性に注目したアメリカ合衆国は、運河を自らの管轄下におくため、1903年1月22日、コロンビアとの間に、①コロンビアがレセップスの設立した新パナマ運河会社の運河建設権を米国に売却することを認めること、②運河地域の排他的管理権等を米国に付与すること、③米国は一時金1,000万ドル及び運河地域の年間使用料として25万ドルをコロンビアに支払うこと等を規定したヘイ・エルラン条約を結び、運河の管轄権を握ろうとしました。
しかし、コロンビア議会が条約を批准しなかったため、同年11月3日、アメリカはコロンビアの支配に不満を持っていたパナマ住民を扇動して独立を宣言させます。こうして発足したパナマ共和国を、アメリカは10日後の11月13日に承認し、5日後の11月18日にはパナマ運河条約を締結。運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得し工事に着手しました。
工事は1903年から始まり、3億ドル以上の資金を投入し、1914年8月15日に開通。運河収入はパナマに帰属するものの、運河地帯の施政権と運河の管理権はアメリカに帰属することになります。その後、運河地帯両岸の永久租借地にはアメリカの軍事施設がおかれ、南米におけるアメリカの軍事拠点として機能していました。このカバーの軍事郵便局も、そうした経緯で設けられていたものです。
しかし、1960年代にパナマの民族主義が高まり、運河返還を求める声が強くなる中で、軍事クーデターによってオマル・トリホスが権力を掌握。これより運河返還をめぐる協議が開始され、1977年、カーター政権の時代に新パナマ運河条約が締結され、1999年末をもって、運河および運河地帯の施政権はパナマへ正式に返還されることになりました。
その後、通航量の増加や船舶の大型化に対応すべく、パナマ政府は2006年4月に運河の拡幅計画を発表。同年10月の国民投票での承認を経て、今月3日に工事が開始されました。なお、完成は運河開通100周年の2014年の予定だそうです。