昨年9月19日のタイの軍事クーデターからちょうど1年がたちました。というわけで、タイの国軍関係のブツが何かないかと思って探してみたところ、こんなものが出てきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ベトナム戦争中の1968年(タイの仏暦で2511年)8月23日付の軍事郵便所の印が押されたカバーです。表にも紫色の軍事郵便所の印が押されていたのですが、不鮮明で日付もわかりませんでしたので、今回は裏面のみのご紹介としました。右側には、やはり8月23日付のバンコクの標語印が押されています。
第2次大戦後の東西冷戦という国際環境の中では、インドシナ紛争に関する“ドミノ理論”が広く信じられていました。これは、南北に分かれて戦っているベトナムで北の共産政権がベトナムを統一するようなことがあれば、その影響で周辺諸国の共産主義勢力が力を得て、最終的には東南アジア全体が共産化するのではないかという考え方です。
第2次大戦の終結から1991年まで、一時的な例外はあるにせよ、タイでは基本的に軍事政権が続いていました。王室を戴き権力を掌握していた国軍にすれば、共産主義の国内への波及はなんとしても阻止しなければなりませんから、タイは西側陣営の一員として“反共の防波堤”としての役割を積極的に買って出ることになります。
具体的には、東南アジア条約機構(民族解放運動の展開を抑え、社会主義勢力を封じ込めることを目的に、1954年9月の東南アジア防衛条約によって作られた東南アジア・太平洋地域の軍事同盟。タイ、フィリピン、パキスタンの3ヵ国が加盟)に参加するとともに、ベトナム戦争ではアメリカ支持の立場を鮮明にして、1964年以降、東北地域を北ベトナム空爆(北爆)のための空軍基地として米軍に提供。さらに、1967年には約2000名の地上部隊をベトナムに派兵しています。今回のカバーもそうした状況下で差し出されたものです。
こうした親米反共政策の結果、タイはアメリカの直接的な経済援助・軍事援助を獲得するとともに、インドシナへ派遣される米軍の補給・休養のための後方基地となり、急激な経済成長を遂げていくことになりました。
ちなみに、他の東南アジア諸国に比べてタイでは道路の舗装率が高く、しかも、その舗装はアスファルトではなくコンクリートが主流になっています。これは、高温多湿の気候ではアスファルトが溶けてしまうという事情もさることながら、ベトナム戦争時に軍事目的を考慮して主要幹線の舗装が進められたという事情によるもので、重量のある軍用車両が通行しても大丈夫なように設計されているそうです。
さて、11月初めの<JAPEX>にあわせての刊行を目指して、現在制作中の拙著『タイ三都周郵記』(仮醍)では、今回ご紹介のカバーも使いながら、ベトナム戦争期のタイのことについても触れる予定です。同書の内容については、追々このブログでも予告編的にご紹介していくつもりですので、よろしくお付き合いいただければ幸いです。