今日(9月5日)は、石炭の良さを見直そうという趣旨のクリーン・コール・デイ(Clean Coal Day)なのだそうです。というわけで、石炭がらみということで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1957年10月1日に西ドイツ(当時)で4種セットで発行された社会福祉切手の1枚で、炭鉱内での採炭場面が取り上げられています。このときのセットは、いずれも、炭鉱労働者を題材に取り上げたもので、ほかの切手にはカンテラを持つ炭鉱夫や石炭をベルトコンベアで運ぶ場面などが取り上げられていますが、やはり、直接採掘している場面を取り上げたこの切手が、それらしくて僕は好きです。
ルール炭田、ザール炭田、ザクセン炭田などを抱えるドイツは、ヨーロッパ最大の石炭生産国かつ消費国、また世界最大の褐炭生産国かつ消費国です。しかし、炭鉱での仕事はかなりの重労働ですから、ドイツのように経済的に豊かで社会保障も手厚い国では、炭鉱夫を確保するのは容易なことではありません。いまから50年前、この切手が発行された当時でさえ、すでに、切手に描かれているようなドイツ人の炭鉱夫は慢性的に不足していました。
その対策として彼らが考えたのが、日本(ドイツと同じ敗戦国)や韓国(ドイツと同じ分断国家)などから外国人労働者(ガスト・アルイバイター)を募ることでした。当初は、日本人もかなりドイツに渡りましたが、1950年代後半に始まる高度経済成長の影響でドイツへの出稼ぎは減少。しだいに、当時は経済的に貧しかった韓国人労働者が“派独鉱夫”の中心を占めるようになっていきます。
じっさい、1963年当時、公式統計に現れただけでも失業者は250万名にものぼっていた韓国で、月収600マルク(当時の米ドル換算で160ドル)の条件で、ルール炭鉱で働く労働者を募集すると、100倍を越える希望者が殺到。その後、1978年までに7800人余りの“派独鉱夫”がルール炭鉱に渡ることになりました。
“派独鉱夫”の労働は非常に苛酷なもので、1966年12月、3年間の雇用期間を終えて帰国した第一陣(142人)のほとんど全員がドイツ滞在中に骨折を経験していたほか、失明者・死亡者も少なからずいたといわれています。
“派独鉱夫”が西ドイツで受け入れられると、これにつづいて、月収440マルクの条件で、韓国人女性が看護婦として西ドイツに派遣されるようになります。彼女たちもまた、死体洗浄など、ドイツ人の嫌がる重労働を担い、激務をこなしていました。
“派独鉱夫”および“派独看護士”による本国への送金は、まだまだ貧しかった当時の韓国に貴重な外貨をもたらし、その額は、一時GNPの2%台に達したこともあったといわれています。このため、1964年12月、ルール炭鉱を訪れた朴正煕は“派独鉱夫”のブラスバンドが演奏する愛国歌に感激し、涙ながらに彼らへの感謝の演説を行ったというエピソードもあります。
朴正煕というと、政権末期の“維新体制”のイメージが強いせいか、現在でも強権的な独裁者というイメージで語る人も多いのですが、韓国に驚異の経済成長をもたらした功績は、そうしたマイナス面を補って余りあるものであると思います。盧武鉉をはじめとする左派の人たちは、とにかく、朴正煕=悪と決め付けてしまい、今回のような彼の美談を意図的に無視されることが多いようですが、そうした歴史の歪曲に腹を立てている良識派の韓国人も少なからずいるんじゃないかと期待したいところなんですが…。