2007-12-26 Wed 11:50
イギリス史上、最も有名な“敗軍の将”の1人とされるアーサー・パーシバルが1887年12月26日に生まれてから、今日でちょうど120年になりました。というわけで、こんな葉書を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1943年12月8日、いわゆる太平洋戦争の開戦2周年に際して発行された“大東亜戦争記念報国葉書”のうち、宮本三郎の戦争画「シンガポール英軍の降伏」を取り上げた1枚です。“大東亜戦争記念報国葉書”は、額面2銭の葉書を3種セット30銭で販売したもので、このうちの10銭が国防献金となっています。画面の奥、一番右側を歩いている痩せた人物がパーシバルで、中央のヒゲを生やした日本の軍人は情報参謀の杉田一次中佐です。 パーシバルは、第1次大戦中に徴兵されたことから軍人としてのキャリアをスタートさせ、いわゆる戦間期に軍の官僚として能力を発揮して出世した人物です。1939年に第2次大戦が始まるとフランス派遣軍の参謀長として、1940年5月のダイナモ作戦(ダンケルクから英国本土への撤退作戦)に参加 。帰国後は第44師団長として英国本土の沿岸防備を担当した後、 1941年4月にイギリス極東軍(マレー軍)の司令官となりました。 マレー軍の司令官としての彼の言動は、もともと、官僚的な気質があったことに加え、日本軍を舐めきっていたこともあって、かなり強烈です。 1941年12月8日、日本軍がマレー半島に上陸すると、シンガポールの要塞に篭城して本国からの援軍を待つという作戦を取った彼は、“持久戦”にこだわって弾薬の倹約を部下に命じたほか、マレー半島の兵力をシンガポール島に集中させたらどうかとの部下の進言に対しては「それだけの兵を入れる兵舎はない」と応えて、ほとんど無策のまま日々を過ごします。さらに、 シンガポール島全域に陣地を作るよう進言した部下に対して「ゴルフコースに機銃陣地を作るつもりだったが、委員会に諮らないと施設の改造はできない」と応えて、周囲を唖然とさせました。 結局、1942年2月15日、シンガポールは陥落し、パーシバル率いるイギリス軍は降伏。ブキテマ高地にあるフォード自動車工場での降伏交渉の際に、日本側の第25軍司令官・山下奉文中将が机を叩いて「イエスかノーか?」と決断を迫ったとされるエピソードは有名です。 もっとも、このエピソードに関して、後に山下本人が語ったところによると、通訳の不手際で交渉がこじれてしまったことから、弾薬をほとんど使い果たし、同夜にも最後の夜襲をかける予定であった日本軍としては、「細かいことはともかく、とりあえず降伏するのかどうか、その意思を示してほしい」という意味でパーシバルに尋ねたというのが真相のようです。 また、交渉が予想よりも長引いたことでフィルムが足りなくなることを心配した日映(社団法人・日本映画社。現・日本映画新社。ニュース映画を制作・配信した)のカメラマンが、フィルムの撮影速度を通常よりゆっくり回したことから、映写のときは山下の動きが実際よりも早くなり、机の上に普通に手を置いた場面が、机をドンと叩いて恫喝しているように見えることになったのだそうです。 ちなみに、その後、捕虜となったパーシバルは、満洲に送られて抑留生活を送りましたが、終戦とともに解放され、1945年9月2日、ミズーリ号で行われた降伏文書の調印式にも参加しています。 なお、シンガポール陥落に関する切手や消印の類はさまざまなものがあるのですが、その一部は拙著『切手と戦争』や『満洲切手』でもご紹介していますので、機会がありましたら、ご一読いただけると幸いです。 |
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