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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 産業革命施設、世界遺産登録へ
2015-05-04 Mon 22:19
 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関は、きょう(4日)、幕末から明治にかけての重工業施設を中心とした「明治日本の産業革命遺産」(福岡、長崎、静岡、岩手など8県の23施設)を、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」として世界文化遺産に登録するよう勧告しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

         製鉄百年

 これは、1957年12月1日に発行された「製鉄百年」の記念切手で、わが国が世界文化遺産への登録を申請していた「明治日本の産業革命遺産」のうち、岩手県の橋野高炉跡の見取図より再現した高炉の図が右下に描かれています。

 古来、わが国では砂鉄を利用した“たたら製鉄”が行われていました。この製法では、日本刀に見られるようにきわめて純度の高い鉄を得ることもできる反面、大型の製品をつくるのには適さず、それゆえ、江戸時代までの日本の鉄製品は武具や農具など、小規模なものにほぼ限定されていました。

 これに対して、19世紀も半ばになると、アヘン戦争黒船来航など国際的脅威が高まる中で、鍋島藩、薩摩藩、水戸藩などでは反射炉が建設され、国防のための大砲や砲弾が製造されるようになったほか、幕府も江川太郎左衛門の建議を入れて伊豆韮山に反射炉を築きます。

 こうした状況の中で、南部藩出身の医師・蘭学者であった大島高任は、オランダの製鉄技術書『西洋鉄熕鋳造篇』を翻訳した経験を活かし、水戸藩の徳川斉昭の下で那珂湊の反射炉築造と大砲鋳造に関っていました。しかし、従来のように砂鉄を原料としていては、良質の大砲を鋳造することが不可能であることを痛感します。このため、故郷・釜石の鉄鉱石に注目した彼は、水戸藩の反射炉への銑鉄供給を目的として、釜石郊外の大橋に西洋式溶鉱炉を建設し、1858年1月15日(安政4年12月1日)、鉄鉱石精錬による出銑操業に成功をおさめました。これが日本における洋式製鉄の始まりです。なお、日本の鉄鋼業界では、このときの旧暦の日付にちなんで、12月1日を「鉄の記念日」に指定しています。

 この大橋高炉に続き、大島の指導により、釜石地区には橋野・佐比内・栗林・砂小渡に10の高炉が建設され、その後の“鉄の町”の基礎が築かれました。

 その後、大島の建設した高炉は、技術革新に伴い、1880年には閉鎖されてしまいますが、そのうちの橋野高炉跡は、発掘調査の後に、今回ご紹介の切手が発行された1957年、鉄産業の文化遺産として国の史跡に指定されています。

 さて、1956年秋、釜石郵趣会の会長で、富士製鉄(現・新日鐵住金)の釜石製鉄所に勤務していた島田健造は「大島高任洋式高炉建設百年記念切手展」を開催し、上述のような日本の近代製鉄の発祥から百年の節目として、1957年に記念切手をすることを提案しました。これが、今回のご紹介の切手発行の発端となります。

 もっとも、1956年の時点では、島田の主張は必ずしも周囲の賛同が得られたわけではなく、記念切手の発行は実現困難なものと考えられていました。

 ところが、1957年6月中旬になって、製鉄百年の記念イベントの一環として、鉄鋼業界として記念切手の発行を申請することが急浮上。島田の勤務先である富士製鉄の担当課長が島田に対して、郵政省への申請を前に、①申請手続きはどのようにしたらよいのか、②切手発行の費用負担はどの程度か、③切手のデザイン料はいくらか、④発行枚数はどのくらいか、⑤切手は全国発売してもらえるのか、などと質問しています。この質問内容を見るかぎり、富士製鉄側は、当初、記念切手の発行を会社が費用負担をして発行する宣伝ラベルのようなものと考えていたようです。もちろん、島田は、記念切手と宣伝ラベルの違いを縷縷説明して、会社側が切手の制作費用を負担することは、本来、ありえないことを強調しています。

 こうした社内での打合せを経て、6月24日、富士製鉄本社が郵政省に接触。10月15日に予定されていた“溶鉱炉百年”(本来の記念日は12月1日ですが、釜石の気候を考慮して記念祭はこの日程となった)にあわせて記念切手の発行が可能か郵政省に問い合わせています。

 こうして、本社側が記念切手の発行に向けて動き出したのを見て、島田は、地元での根回しを開始。6月26日、岩手県知事・阿部千一、釜石市長・鈴木東民、釜石郵便局長・梁川豁郎、東北郵趣連盟会長・渡辺市次、釜石郵趣会長・島田健造、日鉄鉱業株式会社釜石鉱業所長・今井史郎、富士製鉄株式会社釜石製鉄所長・佐山励一の連名で、郵政大臣(田中角栄)宛の“洋式製鉄百年記念”の切手発行方請願書を作成。請願書の文案は島田が起草したもので、当初、切手の名称は“高炉出銑(高炉から銑鉄が供給されること)百年記念”となっていましたが、これは一般には分りにくいとの理由から、提出の際には上記のように改められています。また、“洋式”の文字がつけられているのは、日本古来のたたら製鉄法と区別するためであったと島田は説明しています。

 この請願書を添えて、7月1日、仙台郵政局長・板野学は郵務局長・松井一郎宛に切手発行申請の公文書を提出。こうして、記念切手の発行は順調に進んでいくかのように思われました。

 しかし、富士製鉄では社長の永野重雄 が切手発行の障害となり、なかなか、郵政省に対する申請が行われませんでした。すなわち、切手発行に際しては応分の費用負担を求められるはずだと信じて疑わない永野は、「最近の鉄鋼界の見通しは下り坂である。その折柄、各メーカーに迷惑のかゝる様な、負担はかけたくない」として、記念切手発行の申請を取り下げることを決定。本社として、日本鉄鋼連盟に記念切手の件を持ち出すことは、事実上、できなくなってしまっていたのです。
 
 7月8日に上京してこのことを知った島田は直ちに行動を開始。12日に単身、鉄鋼連盟に乗り込み、富士製鉄の従業員としてではなく、郵趣関係者の代表として、記念切手発行の意義を調査局長に対して力説。連盟として記念切手発行を支持してほしいと懇請しました。その熱意に打たれた連盟側は、記念切手の件は、7月15日の運営委員会で富士製鉄側の議題に追加して、代表者が説明の上、協議決定されれば、事務方としてはただちに文書を起案し、郵政大臣宛の申請書を提出すると島田に対して約束しています。

 こうした連盟側の対応に自信を得た島田は、そのまま富士製鉄の本社に直行。総務部復調に経過を報告した上で、以下のように主張します。

 是非何とかもう一度社の方針を変更して貰う様社長に相談して欲しい、そして来る15日の鉄連(日本鉄鋼連盟)運営委員会に議題を追加して貰い、当日席上で富士鉄(富士製鉄)代表より、各メーカーに対し、製鉄百年の意義を良く説明し、併せて実質的には鉄連傘下の各社に対して負担のかゝらぬ方法で計画を進めたいから、是非鉄連も主催者の一員となつて、記念切手発行方の申請書を郵政大臣宛提出願いたい。と云う趣旨の発言をされる様取計つて頂きたい

 島田の気迫に押された総務の担当者は、とりあえず、その場で社長に相談することを約束します。ただし、島田の説明が終わった時には、すでに夕刻を廻っており、社長の永野も不在となっていました。このため、島田は後の処理を本社の担当者に任せて夜行列車で釜石へと戻りました。

 島田の必死の説得は結果的に永野の誤解を氷解させることとなり、その後、富士製鉄の社内では島田の望む方向にことが進んでいきます。そして、問題の15日の連盟運営委員会では、永野みずからが出席して、島田の振り付けどおりに説明。連盟として、郵政大臣宛の申請書を提出する件は満場一致で採択され、19日には、日本鉄鋼連盟会長・小島新一の名義による郵政大臣宛の申請書が提出されました。

 これと併行して、連盟は、通産省に対しても、郵政省へ切手発行の申請書を出してもらうよう依頼しています。こちらは、省内の手続きにやや時間がかかり、通産事務次官名の郵政事務次官宛の申請書が届けられたのは、7月25日のことでした。

 こうして、8月7日までに郵政サイドも調査をおおむね終了し、記念式典の行われる10月15日ではなく、本来の“鉄の記念日”にあたる12月1日に800万枚の記念切手を発行する方針が省内で決定されます。なお、切手発行に関する事務方からの文書伺に対する郵政大臣の決裁が下り、記念切手の発行が正式に決定されたのは、8月13日のことでした。

 上記のような事務的な手続きと併行して、8月8日からは原画の制作も開始されます。

 下図を制作したのは、郵政省のデザイナーだった久野実と吉田豊の2人で、8月21日、新旧の溶鉱炉を並べた吉田の作品を修正して切手とすることになりました。管理課長の竹下記一が吉田に対して指摘した修正のポイントは、①旧高炉を囲む円形を取り除く、②旧高炉は全体の4割程度の面積の中に拡大する、③旧高炉を描く端の部分は紙が丸まった形とする、④新高炉は全体の6割程度の面積の中に収める、といった内容で、これらは実際の切手ではほぼそのまま活かされています。

 また、切手上の記念銘については、当初の地元からの申請では“洋式製鉄百年”となっていましたが、“洋式”は自明のこととして切手上からは削除され、単に“製鉄百年”とすることが決定されました。

 なお、切手上に取り上げられている旧高炉は古文書の見取図を模写したもので、新高炉は富士製鉄広畑製鉄所(現・新日鐵住金広畑製鐵所。兵庫県姫路市)の第1・第2溶鉱炉です。このうち、広畑製鉄所の第2溶鉱炉は、1957年5月10日、日産1567トンの最高出銑記録を樹立しており、当時の日本最大の溶鉱炉として知られていました。

 こうして、8月30日に完成した原画は、微修正を経て9月9日に決裁となり、印刷局に渡されます。

 当初の予定では、郵政サイドは、今回の切手は溶鉱炉を凹版で印刷し、バックをグラビアで印刷することを希望していましたが、技術的・時間的に不可能とのことで、最終的にはグラビア2色刷に変更されています。

 その後、9月20日になって原画写真を添えた報道資料が発表され(なお、切手発行に奔走していた島田が切手発行の決定を正式に郵政省から通知されたのも、同日だったそうです)、試刷の回校などの手順を経て、12月1日、無事、記念切手は発行され、一年以上に及んだ島田の努力はようやく陽の目を見ることになりました。


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