2006-10-03 Tue 00:54
今年(2006年)は日本・シンガポール外交関係樹立40周年ということで、今日(10月3日)、日本とシンガポールの共同発行として「国際文通グリーティング切手」が発行されます。というわけで、シンガポールがらみの毛色の変わった1枚ということで、こんなものを引っ張り出してみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、太平洋戦争の初期、1942年2月15日に日本軍がシンガポールを陥落させたことを記念して、翌16日、満洲国が発行した切手です。(日本で発行された記念切手については、こちらをどうぞ) 1941年12月、いわゆる太平洋戦争が勃発すると、皇帝溥儀は詔書を発して、満洲国が日本の戦争に全面的に協力することを宣言します。しかし、日本側は、満洲国が連合国に対して宣戦布告すれば、連合国側の一角を占めるソ連は満洲国に対して宣戦布告してくるかもしれないと考え、満洲国は米英に対して宣戦布告をさせない方針でした。 さて、戦争が始まると、日本軍は先制攻撃を仕掛けた勢いで快進撃を重ね、1941年中にはイギリス東洋艦隊を撃滅し、香港を攻略。さらに年明け早々の1942年1月2日にはマニラを占領し、2月15日にはシンガポールを陥落させました。 これを受けて、満洲国でも、事実上の“宗主国”である日本に倣い、シンガポール陥落の記念切手の発行を計画します。ところが、満洲国は“大東亜戦争”に参戦しておらず、実態はともかく、建前としてはイギリスを敵国として公式な場で扱うことはできません。このため、シンガポールの陥落をストレートに記念するのではなく、日本の掲げる“東亜解放”の理念に賛同して、シンガポールがイギリスの支配から解放されて“アジア”に復帰したことを記念するというロジックで切手が発行あされることになりました。そのうちの1枚が、今回ご紹介している切手というわけです。 この切手は、日本のシンガポール陥落の記念切手と同様に、もともとの通常切手の印面を印刷した後、裏糊を引き目打の穿孔作業を行う前に「紀念新嘉坡 復歸我東亞」ならびに「康徳九年」の文字を印刷するという形式で製造されました。このため、正確には、加刷切手というよりも二色刷の切手というほうが適切なのですが、一般には“加刷切手”として扱われることが多いようです。 さて、製造された切手は、2月9・10日の2日間をかけて、首都・新京の郵政総局から満洲全域に配給されました。もちろん、この時点では、シンガポールはまだ陥落していません。 このため、切手の発行日についても、ラジオによりシンガポール陥落の公報が放送された日、もしくは、窓口の終了時間以降に陥落の公報が放送された場合にはその翌日、と決定されます。結局、2月15日の午後10時過ぎにシンガポール陥落の正式な発表があったことを受けて、記念切手も翌16日に発行の運びとなりました。 シンガポールが陥落した2月15日は、たまたま、この年の春節にあたっていたこともあり、切手を売り出した各地の郵便局には二重の祝賀気分で記念切手を買い求める長蛇の列ができ、用意された切手のほとんどは発行初日の16日のうちに完売となりました。このため、切手の発行が政府広報によって正式に発表された2月18日には、実物の切手は郵便局の窓口からはほとんど姿を消しているという珍事が起きています。 さて、このたび角川新書の一冊として上梓した『満洲切手』では、太平洋戦争の開幕からソ連の進行までの時期の満洲国の状況についても、この切手を初めさまざまなマテリアルから分析してみました。是非、ご一読いただけると幸いです。 * 10月7日(土)の午前中10:30ごろから12:00ごろまでの間、東京・目白で開催の切手市場会場にて『満洲切手』の即売(会場内のみでの特典つき)・サイン会を行います。よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。 |
|
||
管理者だけに閲覧 | ||
|
切手を通して国際関係を検証する内藤陽介氏の新刊を紹介します。また氏のカテゴリー(日本・昭和・戦中・戦前)はこちらです。カテゴリー満州・東北はこちらです。切手という動かせない物的証拠を資料として歴史を …
|
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
|