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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 シリアとレバノン
2006-01-14 Sat 10:47
 切手の博物館で開催中の<中近東切手コレクション>展も今日・明日(14・15日)の2日間となりました。

 今日と明日は、14:00からと15:30からの2回、簡単な展示解説を行います。また、13:30頃からは会場に詰めていますので、展示に関するご質問等があれば、お気軽にお声をおかけください。

 さて、イランの核開発やイスラエルのシャロンの容態などのニュースの陰に隠れて見逃されがちですが、レバノンの元首相暗殺事件のほうも、目が離せない状況になっているようです。

 そもそもの発端は、昨年(2005年)2月、レバノンのハリリ元首相が暗殺されたことにあります。この事件にシリアのアサド政権が関与していた疑惑が強まり、シリア軍はレバノン内戦以来駐留していたレバノンからの撤退を余儀なくされました。

 その後、暗殺事件に関しては、国連の独立調査委員会が2次にわたる報告書を安保理に提出し、シリア機関の関与を示唆。シリアに対する国際的な包囲網が強まる中、この年末年始にかけて、昨年6月に辞任した前副大統領のハダムが、アサド(シリア大統領)が元首相暗殺の数カ月前に「我々の決定を邪魔する者は誰だろうとたたきつぶす」と同元首相を脅していたと証言。さらに、ハダム氏「いかなるシリア機関も独断でこのような決定はできない」と述べ、元首相暗殺へのシリア政権中枢の関与を示唆したところから、アサド政権はますます窮地に追い込まれているという状況です。

 シリア軍が長年にわたってレバノンに駐留できり、シリアの政権がレバノン政府に圧力をかけるということが日常的に行われてきたりしたのは、シリアとレバノンがもともとは一体のものであったという歴史的な背景があります。

 非常に大雑把にいうと、第一次大戦以前、地中海東岸のアラブ地域は一括して“シリア”と呼ばれていました。それが、オスマン帝国の解体と英仏による植民地分割の過程で、シリア・レバノン・パレスチナ・トランスヨルダンに分割されます。このうち、フランスの支配下に置かれたシリアとレバノンは、旧レバノン県を中心に、キリスト教徒が人口の過半数を占めるように“レバノン(大レバノン)”が画定され、現在のシリアから切り離されました。

 当然のことながら、シリアではレバノンはもともと自分たちの国の一部という国民感情が根強くあるわけです。

 さて、今回の<中近東切手コレクション>展に出品している僕の作品の中には、こんなカバー(封筒)も入っています。

 ベイルート・フランス局

 このカバーは、第一次大戦以前の1905年1月、ベイルートに置かれていたフランスの郵便局からクレタ島のハニア宛に差し出されたものですが、消印の表示は“ベイルート・シリア”となっています。歴史的にシリアとレバノンが一体のものだったというシリア側の主張を裏付けるようなものと言っても良いかもしれません。

 もっとも、「歴史的に云々~」という主張は心情的には分からなくはないのですが、だからといって隣国の要人を暗殺してもいいということにはならないはずなのですが…。

 *<中近東切手コレクション展>の詳細については、http://yushu.or.jp/museum/toku/をご覧ください。


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