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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 日豪戦争⑳(最終回)
2012-03-10 Sat 20:32
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第457号が配信となりました。僕の連載「日豪戦争」は、今回は駐日オーストラリア軍撤退の話を取り上げましたが、そのなかから、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      豪・朝鮮495    
      豪・朝鮮495(裏面)

 これは、朝鮮戦争の休戦協定調印から間もない1953年8月19日、釜山に置かれていたオーストラリアの第495野戦局から差し立てられ、東京を経由してオーストラリアに送られた郵便物とその裏面です。

 1950年6月25日、朝鮮人民軍の奇襲攻撃により朝鮮戦争が勃発すると、同月29日、オーストラリア政府は、まず、日本に駐留していたリバー級フリゲート艦「ショールヘイブン」ならびに香港に駐留していたトライバル級駆逐艦「バタアン」を韓国に派遣することを決定します。ちなみに、朝鮮戦争における豪海軍の中核となった空母「シドニー」がオーストラリアを出港したのは、8月31日のことでした。

 一方、空軍に関しては、1950年6月25日の開戦時、第77飛行中隊が岩国に駐留していました。第77飛行中隊はすでに帰国の準備を進めていましたが、開戦により、米第5空軍の指揮下に入り、共産軍と戦うことになります。

 ところで、オーストラリア政府は、日本に駐留していた地上部隊、第3連隊を朝鮮の戦場に派遣することに、当初、難色を示していました。当時の第3連隊は、兵員の訓練・装備ともに、直ちに実戦に投入するには、きわめて不十分な状態にあったためです。このため、まずは第3連隊の中から志願者2000人が日本占領軍から分離され、朝鮮半島に派遣されるとともに、オーストラリア本国でも志願兵の募集が行われました。オーストラリア本国から集められた兵士たちは、広(広島県呉市)および原村(広島県安佐郡:現広島市安佐南区)で訓練を受けた後、朝鮮半島へと派遣されています。

 さて、朝鮮半島の戦局は、1950年9月15日に国連軍が仁川上陸作戦を敢行したことで、攻守が逆転。朝鮮人民軍は北緯38度線以北へと退却を余儀なくされました。

 オーストラリア軍は、その過程で、水原(ソウルの南35キロの都市)周辺で敗走する朝鮮人民軍と戦い約2000人を捕虜としています。さらに、10月22-23日には、開城(北緯38度線のすぐ南側にあり、朝鮮戦争以前は韓国領でしたが、戦後は北朝鮮領となりました)の包囲戦で朝鮮人民軍に大きな打撃を与えました。さらに、中国が人民志願軍を派遣すると、オーストラリア軍は、1951年4月22-25日の加平の戦いと同年10月3-8日の馬良山の戦いで共産軍と死闘を展開。1953年7月に朝鮮戦争が休戦となるまで、オーストラリア軍はのべ2万8000人の兵力を投入。334名が戦死しています。

 ところで、朝鮮戦争勃発後の1951年9月、サンフランシスコで対日講和条約が調印されました。講和条件の策定に際して、オーストラリアは、ニュージーランドとともに、軍備制限条項が盛り込まれなかったことに強い不満を表明します。

 朝鮮戦争の勃発に伴い、在日米軍が朝鮮半島に出動した軍事的な空白を埋めるための措置として、日本では警察予備隊が発足しました。1901年の連邦結成以来、一貫して日本の存在を自国の脅威とみなしてきたオーストラリアは、日本による南氷洋の捕鯨の再開でさえ、強硬に反対していました。彼らにしてみれば、警察予備隊という名で日本が再軍備することなど論外であり、なんのために、多大な犠牲を払って日本と戦い、曲がりなりにも戦勝国の地位を確保したのか、というのが本音でしょう。

 しかし、実際に朝鮮半島で国連軍と共産軍が死闘を展開しているという現実の下に、米国が「我々は中国-日本-ロシアの共産主義支配連合の可能性を阻止しなければならない」と一喝すると、国連軍の一員として朝鮮半島に兵力を送っているオーストラリアも沈黙せざるを得ませんでした。

 かくして、1952年4月28日、対日講和条約が発効すると、日豪間の戦争は正式に終結し、オーストラリア軍を主力とした日本占領・英連邦軍はその存在の根拠を失います。しかし、この時点では朝鮮半島での戦争は継続しており、呉や岩国のオーストラリア軍キャンプは後方支援活動などのためにしばらく活動を継続。このため、オーストラリアの野戦局・基地局なども活動を続けていました。

 今回ご紹介のカバーは、そうした状況の下で、朝鮮戦争休戦直後の1953年8月19日、釜山に置かれていたオーストラリアの第495野戦局から差し立てられたもので、翌20日、東京に置かれていた第8基地局を経由して、同月20日にシドニーに到着しています。

 朝鮮戦争の休戦後も、事務連絡などの必要から、ごく少数のオーストラリア軍関係者が日本国内に駐留を続けていました。その最後の人員が引き揚げ、岩国の英連邦軍基地が閉鎖されたのは、1957年7月のことです。これにあわせて、この郵便物に押されている中継印の第8基地局も閉鎖されますが、逆に言えば、それまで、彼らは日本国内での郵便業務を(細々とではあるが)続けていたことになります。

 さて、2010年7月以来、『本のメルマガ』の月1連載としてスタートした「日豪戦争」ですが、20回を迎えた今回で最終回となりました。今までご愛読いただいた皆様には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。

 なお、今月25日に配信の『本のメルマガ』からは、「日豪戦争」に代わる新連載をスタートさせる予定ですので、引き続き、よろしくお付き合いいただけると幸いです。
 
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