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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ハバロフスクの抑留者
2015-08-29 Sat 20:38
 ロシアで、きょう(29日)、一連の対日戦勝70年記念行事の最初の行事として、ハバロフスクで軍事パレードが行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      シベリア抑留葉書タイプ4(ハバロフスク宛復片)

 これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、ハバロフスク近郊で強制労働に従事させられていた日本人抑留者宛に差し出された葉書です。

 いわゆるシベリア抑留者と日本との通信に使われた専用往復葉書(捕虜郵便用の料金無料葉書)については、さまざまタイプがあることが知られていますが、これはそのうちのタイプ4と分類されているモノの復片です。

 1945年8月9日、ソ連派、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲北朝鮮、千島、樺太に侵攻。捕虜となった旧日本兵に対して、ソ連側は「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。戦争が終わり、これで帰国できると信じていた旧日本兵の心理を逆手にとって、国家ぐるみで騙したのです。

 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、5万3000人が亡くなったといわれています。

 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。

 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。

 じっさい、1945年8月23日付の国家国防委員会決議第9898号「日本軍事捕虜の受け入れ、配置および労働利用について」と題する極秘文書によれば、ハバロフスク地方だけで「6万5000人。その内訳は、ライチハ・キヴジンスク石油採掘に2万人、ヒンナン錫鉱採掘に3000人、国防人民委員部住宅開発部の兵舎建設に5000人、石油産業人民委員部のサハリン石油と石油精製工場に5000人、森林産業人民委員部の木材調達に1万3000人、海洋移送および河川移送人民委員部に2000人、運輸人民委員部のアムール鉄道に2000人、建設人民委員部のニコラエフスク港建設およびコムソモリスクのアムール鉄鋼と第199工場建設に1万5000人」を動員する方針が記されています。

 さて、終戦後、日本政府は連合国側の指示を待つまでもなく、ただちに、復員・引揚事業に着手しました。ソ連を除く連合諸国も、迅速な在外邦人の復員・引揚を希望し、1946年3月16日に“引揚に関する基本指令”が発せられたときには、中国・東南アジア・南洋諸島などでは既に大規模な引揚が行われました。しかし、この基本指令では、ソ連の占領地域(旧満州・北朝鮮・千島・樺太)からの引揚に関しては“適当な協定が成立した場合”と規定されているのみで、引揚の基礎となる法的文書さえもできていない状態でした。

 その後、1946年9月になって、ようやく、ソ連当局は捕虜が各自の家族に通信することを許可すると発表。10月20日付で、日本人抑留者に対して本国への通信を認めた「日本人軍事捕虜と日本、満洲、朝鮮に居住するその家族との交信規定についての訓令施行に関するソ連邦内務省指令第00939号」を発し、抑留者と祖国との通信が始まりました。ただし、これは抑留者全員に許可されたわけではなく、ソ連側の基準で“(労働などの)成績の良好な者”に限られていたといわれています。

 抑留者の通信に関しては、専用の往復葉書が用いられ、それ以外の葉書や封書での交信は禁止されていましたが、今回ご紹介のタイプ4とされるモノは、抑留末期の1954-56年に使用されました。

 抑留者たちが書いた葉書は、内務省沿海地方本部検閲課を経由してウラジオストクから日本宛に発送されましたが、収容所の所在地などを葉書に記載することは禁じられていたため、1949年まではウラジオストク郵便局の、1950年代以降はバロフスク郵便局の私書箱が、差出人の住所として記載されています。

 私書箱の所在地がウラジオストクからハバロフスクに変更されたのは、1949年までに抑留者の帰還がそれなりに進み、1950年以降は収容所の数が激減(ピーク時の1946年に509ヵ所あった極東25地区の収容所は、1950年には15ヵ所となりました)し、そのうちの過半数(1950年の時点では8ヵ所)がハバロフスクに集中していたという実情を踏まえたものと考えられます。

 なお、シベリア抑留者の郵便に関しては、拙著『ハバロフスク』でその概要についてまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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