2011-07-08 Fri 20:36
ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第433号が配信となりました。僕の連載「日豪戦争」では、今回からは何回かに分けてオーストラリアの捕虜の話を書きますが、そのなかから、まずは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦中の1944年12月、オーストラリアのシドニーから善通寺の捕虜収容所宛てに差し出された航空便で、航空料金相当の5ペンス分の切手が貼られています。 先の大戦で日本軍の捕虜となったオーストラリア人は約2万2000人、そのうち、8301人が亡くなったとされています。当時のオーストラリアの人口は約700万人ですから、35人に1人(小中学校の1クラスに1人というほどの割合となりましょうか)で日本軍占領下での捕虜生活を過ごしたことになります。 一方、大戦でのオーストラリアの戦死者の合計は約1万9000人。このうち、パプア・ニューギニアでの戦死者が2165人、マレー・シンガポールでの戦死者は約1800人、北アフリカの激戦地、エル・アラメインの戦いでの死者が1225人、その他の地中海戦線での死者が3366人だったことを考えると、日本軍の捕虜として亡くなったのが8301人というのは、きわめて大きな数字です。 オーストラリア人が対日戦争の記憶を語る際に、「捕虜」が避けて通ることのできないファクターであり、その犠牲の大きさゆえに、彼らが日本軍による「虐待」を声高に指弾するという構図も理解できないことではありません。 これに対して、オーストラリア軍の捕虜となり、オーストラリア国内の収容所に収容されていた日本人の捕虜は、1944年8月の時点で2223名(うち、544名は海運業者)。日本軍の捕虜となったオーストラリア人捕虜の1割ほどです。 この点に関しては、日本軍将兵には、『戦陣訓』に記された「生きて虜囚の辱めを受けず」の1節が骨の髄まで沁みついていたため、捕虜とならずに死ぬまで戦う者が大半だったからだという説明されることが多いようです。 たしかに、戦陣訓の呪縛は事実ですし、1944年8月5日、1104人の日本人捕虜のうち545人が脱走を企て、231人の死者と108人の負傷者を出したニューサウスウェールズ州カラウ収容所の事件でも、戦陣訓の1節が事件の重要な動機となっていたといわれています。 しかし、その一方で、1942年1-2月のマレー・シンガポール攻防戦で、追い詰められたオーストラリア軍が「捕虜をとるな、負傷兵をそのままにするな」という原則の下で動いていたという事実も見逃してはなりません。要するに、彼らは負傷した日本兵を見つけると、捕虜として収容し、治療を施すのではなく、その場で容赦なく殺害したのです。 この「捕虜をとるな、負傷兵をそのままにするな」という原則が、オーストラリア軍による正規の命令であったことを証明する公的な文書はありませんが、戦後になって刊行された元オーストラリア兵の体験記などによると、負傷した日本兵は殺害するというのは、当時、その場に居合わせた将兵が異議なく合意していたことであり、軍上層部による「指示」であると信じていた者が多かったようです。もちろん、その背景には、白豪主義というパラダイムの下、有色人種である日本人への露骨な差別感情があったでしょうし、なによりも、伝統的にオーストラリア人が抱き続けてきた大日本帝国のにたいする恐怖感もあったでしょう。 いずれにせよ、捕虜にする前に殺してしまったのだから「捕虜虐待」には当たらないといわれればそれまでですが、こうした事情を無視して、日本軍の非道を一方的に責める日本人がときどきいることに、僕は強烈な違和感を覚えます。 さて、日豪開戦後、オーストラリア国内に残された家族は将兵の安否を案じる日々が続いていましたが、ようやく、1942年7月23日になって、一部の兵士の家族に対して、その兵士が“行方不明”であるとの公式の報告が届けられ、それからほどなくして、行方不明者の名簿が発表されました。その後、1942年10月になって、オーストラリア赤十字社は日本との戦闘で行方不明になったオーストラリア軍将兵宛の通信の受け付けを開始しますが、行方不明者のうち、捕虜として日本軍の収容所での生存が確認された者の家族へその旨の連絡が届いたのは1943年2月、さらに、捕虜本人から家族宛の手紙が到着したのは同年9月頃のことだったそうです。 捕虜との通信は確実に先方に届とは限らず、無事に届いたとしても、所要日数は概して半年以上でしたが、それでも、家族にとっては、捕虜の生存を確認し、捕虜と連絡を取る唯一の手段は郵便しかありませんでした。 今回ご紹介のカバーに関していうと、オーストラリアを出る時に、開封・検閲された後に、オーストラリア当局によってあらためて封をされ、検閲済みであることを示す菱形の印が押されており、宛先の善通寺収容所に到着したときには、収容所側の検閲を受け、そのことを示す「善俘 検閲済」(“善俘”は善通寺俘虜収容所の略)の角型の印を押されていますので、ともかくも、無事に名宛人に渡されたのでしょう。 また、到着日や受取日を示す書き込みなどはありませんが、シドニーで差し出されたのが1944年12月だったことから推測すると、名宛人はこの郵便物を受け取って間もなく、終戦を迎え、解放されたのではないかと思われます。 なお、今回は捕虜宛のカバーをご紹介しましたが、今月25日配信予定の次回記事では捕虜差出の郵便物をご紹介する予定です。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 5月29日付『讀賣新聞』に書評掲載 『週刊文春』 6月30日号「文春図書館」で 酒井順子さんにご紹介いただきました ! 切手百撰 昭和戦後 平凡社(本体2000円+税) 視て読んで楽しむ切手図鑑! “あの頃の切手少年たち”には懐かしの、 平成生まれの若者には昭和レトロがカッコいい、 そんな切手100点のモノ語りを関連写真などとともに、オールカラーでご紹介 全国書店・インターネット書店(amazon、boox store、coneco.net、JBOOK、livedoor BOOKS、Yahoo!ブックス、エキサイトブックス、丸善&ジュンク堂、楽天など)で好評発売中! |
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