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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 シハヌーク前国王崩御
2012-10-15 Mon 11:17
 カンボジアの前国王、ノロドム・シアヌーク陛下(以下、“シハヌーク”と敬称略)が、きょう(15日)未明、療養先の北京で崩御されました。享年89。謹んでご冥福をお祈りいたします。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       シハヌーク(1964)

 これは、1964年、カンボジアで発行された“社会主義人民共同体(サンクム・リアハ・ニヨム)10周年”の記念切手で、国家元首としてのシハヌークの肖像が大きく取り上げられています。シハヌークの切手は、フランス領インドシナ(仏印)時代にも発行されていますが、今回は、独立後の切手を持ってきました。

 ちなみに、今回ご紹介の切手は、1964年当時、カンボジア政府が国家元首としての正式の肖像として認定していた写真をもとに制作されました。その後、ロン・ノルのクーデターで亡命を余儀なくされ、ポル・ポト政権下で事実上の幽閉状態に置かれ、さらには延々と内戦が続くという状況の中で、1993年に彼が国王として再即位するまで、政府として公認のシハヌークの肖像というのはアップデートされないままになっていましたので、新聞などでこの肖像を目にした記憶のある方も多いのではないかと思います。

 さて、シハヌークは、1922年、カンボジア王族ノロドム・スラマリットとシソワット・コサマック妃の息子としてプノンペン生まれ。同じく腐乱氏の支配下にあったサイゴンに留学中の1941年、祖父のシソワット・モニヴォン国王(コサマック妃の父)の崩御に伴い、請われて帰国し、18歳で即位しました。

 1945年3月、いわゆる明号作戦によって、インドシナ半島に進駐していた日本軍がフランス軍を駆逐すると、日本軍の影響下で、シハヌークは、ヴェトナム(バオ・ダイ)、ラオス(シーサワーンウォン)と相前後してカンボジアの独立を宣言。同年6月には、コーチシナの約半分の領有を主張し、日本へ仲介を依頼しています。

 1945年8月15日の日本の敗戦後、ヴェトナムではホーチミンがヴェトナム民主共和国(ヴェトミン)の独立を宣言しますが、フランス支配以前、歴史的にヴェトナムの圧迫を受け続けてきたカンボジアは、ヴェトミンの侵略を恐れて、一旦フランスの帰還を制限つきで承認。アメリカを始めとする諸外国を歴訪してカンボジアの現状と独立を国際世論に訴えました。

 その後、カンボジアは1949年にフランス連合内での独立を認められますが、フランス側は警察権・軍事権を手放さなかったため、シハヌークは離宮に籠もり「完全に独立が達成されるまで首都・プノンペンには戻らない」と宣言。これを機に、カンボジア国内では反仏デモが盛り上がり、1953年11月9日、カンボジア王国の完全独立が達せられました。

 独立後の1955年3月、立憲君主国の象徴的な元首としての“国王”の地位にあきたらなくなったシハヌークは退位し、父親のノロドム・スラマリットを国王として即位させました。退位後のシハヌークは“殿下”の称号を使いつつ、政治団体“社会主義人民共同体(サンクム・リアハ・ニヨム)”を結成。同年の総選挙で圧勝(全議席を制したそうです!)し、首相兼外相に就任しました。さらに、1960年3月、国王が崩御すると、王位を空位とし、自身は新設の“国家元首”となり、“王制社会主義”を推進しました。

 王制社会主義というのは、一種の語義矛盾ですが、仏教の保護と王室(実質的にはシハヌーク)の指導の下、対外的には中立政策を守り、国内では社会主義的な政策を進めるというもので、要するに、東寄りないしはリベラル色の強い開発独裁体制と言えましょう。じっさい、隣国ヴェトナムでの戦争に関して、シハヌーク政権は、ヴェベトナム解放民族戦線の補給基地や北ベトナムから南ベトナムへの人員物資補給路であるホーチミンルートの存在を黙認し、その結果として、アメリカ軍と南ベトナムの攻撃を受けています。

 こうしたシハヌークの容共姿勢に対して、1970年3月、首相兼国防相ロン・ノル将軍と副首相シリク・マタク(シハヌークの従兄弟)らは、アメリカの支援を受けてクーデターを敢行。北京に外遊中のシハヌークを国家元首から解任し、王制廃止と共和制施行を宣言しました。これに伴い、国名は“クメール共和国”と改められています。

 これに対して、シハヌークはクーデター後も北京に留まって、亡命政権“カンボジア王国民族連合政府”を結成。ロン・ノル政権打倒を掲げて、中国・北朝鮮の仲介でクメール・ルージュ(ポル・ポト派)と提携することになりました。

 1975年、カンボジア全土を制圧したポル・ポト派が、シハヌークを国家元首とする共産主義国家“民主カンプチア”の成立を宣言すると、シハヌークは平壌から帰国しました。1979年までに100万人以上の国民が亡くなったとされる悲惨な状況の下で、シハヌークの“国家元首”は名目的な地位にとどまり、事実上、プノンペンの王宮に幽閉されてしまいます。第6夫人のモニク妃と2人の間に生まれた2人の王子(シハモニ、ナリンドラポン)とわずかな側近・従者以外との同居は許されず、残りの王族は容赦なく虐殺されました。このため、シハヌークは病気療養を理由に海外出国を望んだものの許されず、1976年4月、国家元首の辞任が認められただけでした。結局、1979年にヴェトナム軍がカンボジアに侵攻すると、彼は、国連安保理でヴェトナム軍の不当性を訴えるという名目で、ようやく、国外に脱出しました。

 その後、カンボジア国内では、クメール・ルージュとシハヌーク国王派、ロン・ノル派の流れをくむソン・サン派の三派は連合し、ベトナム軍およびヘン・サムリン軍との内戦が続きましたが、1992年3月、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が平和維持活動を開始。翌1993年4月から6月まで国連の監視下で総選挙が行なわれ、シハヌークの二男ラナリット王子の率いるフンシンペック党が第一党となり、同年9月に制定された新憲法で立憲君主制が復活。シハヌーク国王として再即位しました。

 なお、シハヌークは2004年10月29日に国王を退位し、癌治療のため、定期的に北京を訪れる生活を送っていましたが、きょう、崩御したというわけです。ちなみに、ギネスブックでは「世界の政権で最も多くの経歴を持つ政治家」として、シハヌークが認定されています。


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