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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 2007年の初荷
2007-01-06 Sat 00:49
 年賀状(年内に出したと思われるものが、まだチラホラと届きます。なんだか、年々、配達が遅くなっているような気がするのは僕だけでしょうか)に混じって、年末にオークションで落札したカバー(封筒)が届きました。僕にとっては、今年の初荷ですから、ご紹介してみましょう。(画像はクリックで拡大されます)

キリキアのカバー

 これは、1920年1月25日、フランス占領下のキリキア(Cilicia:アナトリア半島南部の地中海沿岸、シリアとの国境に近いトルコの一地方)のアダナから差し出されたカバーです。

 第1次大戦でオスマン帝国が敗れると列強諸国は帝国の分割を画策して各地に進駐します。このうち、現在のシリア・レバノン地域を勢力圏内に治めようとしていたフランスは、1919年1月、キリキアに進駐し、この地を占領しました。

 ベルサイユ会議では、戦後のシリア・パレスチナ地域は、①イギリス支配の南部OETA(敵国領土占領行政区域:Occupied Enemy Territory Administration)、②アラブ支配の東部OETA:アカバからアレッポにいたる内陸部、③フランス支配の西部OETAに3分割されましたが、キリキアは、このうちの西部OETAに組み込まれ、オスマン帝国の戦後処理を決めた1920年のセーブル条約によって、フランス委任統治領のシリアに属するものとされます。

 今回ご紹介しているカバーは、この時期のアダナからのカバーで。旧オスマン帝国時代の切手つき封筒にCiliciaと加刷したものに、フランスの占領切手(キリキア専用のもの+全占領地域共通のもの)を貼って、フランス本国のマルセイユ宛に差し出されたものです。

 カバー上部の開け方がちょっと乱暴なのが気に入らないのですが、切手にはダメージを与えているわけではありませんし、イタリアの検閲印と思われる印も押されているので、気の利いたものが少ないキリキアのカバーとしては十分に合格点の部類に入るでしょう。

 なお、セーブル条約の内容は、オスマン帝国の解体のみならず、アナトリアにトルコ人の国民国家を作ることも否定したものであったため、ムスタファ・ケマル(ケマル・パシャとかアタテュルクとか呼ばれている人物です)のアンカラ政府はこれに抵抗。1923年にはセーブル条約に代わる講和条約としてローザンヌ条約の締結に成功し、現在のトルコ共和国の枠組と基盤を作り上げることに成功します。

 なお、このローザンヌ条約により、キリキアはトルコに帰属するものとされたため、フランスの占領加刷切手もその役割を終えることになりました。

 オスマン帝国解体後の東地中海、なかでも、現在のシリアの枠組が作られていく過程では、郵便史的にもいろいろと面白いマテリアルが生まれていますので、いずれは、それらを集めてまとまったコレクションを作ってみたいと考えています。もっとも、それが実現できるようになるまでには、まだ当分時間がかかりそうです。まぁ、あせらずにぼちぼち行くしかないですね。
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