2008-07-10 Thu 10:07
きょう(7月10日)は西インド諸島の島国、バハマが1973年に独立した記念日だそうです。というわけで、バハマがらみのネタはないかと探してみたら、こんなモノが出てきました。(画像はクリックで拡大されます)
![]() ![]() これは、1920年11月、イギリス占領下のモースル(イラク)から、バハマの首都・ナッソー宛に差し出された書留便で、1921年1月のナッソーの着印も押されているのが嬉しいところです。 現在のイラク国家を構成する地域は、オスマン朝時代、バスラ・バグダード・モースルの三州から構成されていました。 第一次大戦が勃発すると、イギリス軍はペルシァ湾に面する港湾都市バスラに上陸し、バグダードへ向けて進撃を開始します。しかし、フォン・デア・ゴルツ将軍ひきいるオスマン朝軍の守りは堅く、イギリス軍はクートから先にはなかなか進むことができませんでした。このため、1916年8月以降、英印軍が投入され、翌1917年3月になってようやくバグダードが陥落します。そして、1918年11月、イギリスは休戦時の混乱に乗じて北部のモースル(イラク有数の油田地帯で、休戦時には陥落していませんでした)を攻撃してここを占拠し、イラク全域を勢力圏内に収めることになりました。 イラクを占領したイギリス軍は、オスマン朝時代の切手に、当初は“BAGHDAD IN BRITISH OCCUPATION”の文字を、ついで、バグダードをイラク“IRAQ IN BRITISH OCCUPATION”の文字を、それぞれ加刷した暫定的な切手を発行しています。なお、これらの暫定切手の額面は、英印軍による占領の影響により、インド式のアンナ・ルピーで表示されていました。今回ご紹介のカバーは、この時期の使用例です。 その後、1920年4月になると、サンレモ会議の決定に従って、イラク(シリア・パレスチナ地域と異なり、分割されずに単一の行政単位とされました)は正式にイギリスの委任統治領となりましたが、これに対して、同年6月から10月にかけて、イラクのほぼ全域で反英暴動(現地では1920年革命と呼ばれる)が発生。このため、現地住民を慰撫する必要に迫られたイギリスは、同年11月(ちょうど、このカバーが差し出された時期ですな)、暫定アラブ政府(国民評議会)を設置しています。 こうした経緯を踏まえて、翌1921年3月、イギリスの植民地相であったウィンストン・チャーチルは、いわゆるカイロ会議を招集。その結果、①イラクの行政権をアラブ政府に委譲する、②ファイサル(イギリスとともにオスマン帝国と戦ったアラブの英雄)を確実にイラク王とするためにイギリスは影響力を行使する、③委任統治に代わる同盟条約をアラブ政府と締結する、というイラク政策の基本方針が決定され、同年8月に行われた国民投票の結果、イギリスの目論見どおり、ファイサルがイラク国王(アミール)となり、イラクにおける親英政権の基盤が確立することになりました。 オスマン帝国が解体され、アラブ諸国が形成されていく時期の切手や郵便については、以前、『中東の誕生』という本でまとめてみたことがあるのですが、現在は版元品切れという状況のようです。その後、いろいろとマテリアルも増えたことですし、そろそろ、リニューアル版を作ってみたいのですが、あんまり売れそうにないジャンルですからねぇまぁ、気長にチャンスを待つしかなさそうですな。 もう一度切手を集めてみたくなったら 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。 |
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