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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 紅い高梁
2012-10-11 Thu 22:49
 日本人作家・村上春樹の授賞が期待された今年のノーベル文学賞は、中国人作家で中国作家協会副主席の莫言が受賞しました。莫といえば、やはり「紅いコーリャン」でしょうから、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      国都建設4分

 これは、1937年9月16日、満洲国で発行された「国都建設記念」の4分切手です。満洲国の切手には、1932年に発行された最初の普通切手以来、しばしば、満洲を象徴する植物として高粱が取り上げられています。そのうち、紅色で最も大きく高粱が描かれているモノということで、持ってきました。

 1932年3月1日に満洲国の建国が宣言された時、新国家の首都は奉天になるであろうというのが大方の予想でした。当時の奉天は人口50万クラスの大都市であり、満洲在住の日本人経済の中心地であるだけでなく、満洲事変後には関東軍司令部も置かれて政治工作の中心地にもなっていたからです。

 したがって、3月10日、新国家の首都が、奉天に次ぐ第2の都市である哈爾浜でもなければ、“満洲の京都”とも称された吉林でもなく、長春に定められた時、奉天の人々は強い衝撃を受けたといわれています。ちなみに、長春が満洲国の新たな首都として“新京”と改称されたのは3月14日のことでした。

 都市としての長春の歴史は、日本の満鉄支配とほぼ軌を一にしているといえます。

 すなわち、1898年、東清鉄道の南部支線として哈爾浜=旅順間の鉄道敷設権を獲得した帝政ロシアは、この地の行政機関として置かれていた長春城の北西に寛城子駅を設けました。1905年、日露戦争のポーツマス条約でロシアから大連=寛城子間の鉄道(これが南満洲鉄道株式会社、すなわち満鉄のルーツです)を譲り受けた日本は、この寛城子駅と長春城の間に鉄道付属地を設定して長春駅を建設します。以後、長春は東清鉄道と満鉄の接続地として、市街地の建設が本格的に進められることになりました。

 とはいえ、満洲国建国の時点での長春は、人口たかだか13万人のローカル都市に過ぎません。それにもかかわらず、関東軍がこの地を“新京”と改名して満洲国の首都としたのには、それなりの理由がありました。

 まず、奉天や哈爾浜は大都市であるがゆえに、旧東三省政府やロシアないしはソ連などの影響力が抜きがたくしみついていました。さらに、満洲全体のバランスを考えた時、奉天はあまりに南に位置しており、哈爾浜はあまりに北に位置しています。

 さらに、奉天や哈爾浜と比べると長春は地価も安く、用地買収が容易であり、新国家の首都としての都市計画を実施するうえでフリーハンドを確保しやすかったという事情もありました。そうした土地を“新京”と名づけ、新たな都市の建設を通じて、満洲国という新国家の存在を内外にアピールすることは統治の技術論からすればきわめて重要なことですが、既存の大都市である奉天や哈爾浜を舞台としては、そうしたイメージ戦略を発動することは困難です。

 こうして、4月11日、国務院の中に国都建設局を設置して本格的な都市計画に乗り出した満洲国政府は、5年後の1937年中の完成を目指して、国都建設第一期事業としておよそ20平方キロの地域の整備に着手。その総予算は3000万円でした。ちなみに、1932年度の満洲国の国家予算は1億1300万円です。

 新たに建設される都市の軸線になったのは、市街地の南北を貫く大同大街と大同大街の西側を併行に走る順天大街の二本の幹線道路でした。

 このうち、大同大街は満洲国建国当初の年号である“大同”にちなんで名づけられたもので、幅54メートル。満鉄の新京駅から南へまっすぐ伸びており、その途中に設けられた外周約1キロの円形広場(大同広場)から四本の道路が放射状に延びています。満洲国の実質的な支配者である関東軍の司令部は、この大同大街と東西方向の幹線道路であった興仁大街の交差点にありました。

 一方、順天大街は皇帝溥儀のために建てられた新宮殿から南に伸びており、幅は60メートル。その両側は官庁街となっています。順天の名は、満洲国の建国宣言にある「新国家建設の旨は、一に以て順天安民を主と為す」から取られました。

 この区画に、まず1933年5月、満洲国政府の第一庁舎が建てられ、翌6月、第二庁舎が建てられます。その後、官衙建設は1934年から本格的に開始され、1936年には満洲国政府の象徴ともいうべき国務院庁舎が完成しました。

 こうして、国都建設第一期事業は、1937年9月16日、完了が宣言されます。この日取りは、建設事業の主役であった国都建設局が1932年に発足した記念日にちなんだもので、それゆえ、当日、溥儀の臨席の下、大同広場で行われた記念式典は、正式には「国都建設五周年記念式典」と呼ばれました。

 今回ご紹介の切手は、これに合わせて発行された4種セットのうちの1枚で、切手の発行に際して、交通部は国都建設事業の成果を広く内外に誇示する意図も込めて、「國都建設の威容及び國民慶祝の状を表現せるものにして、高尚平易なるもの」とする切手図案の懸賞公募を行いました。公募は1937年6月15日に締め切られ、その最高賞を得た石川酵佑の作品が若干の修正を経て切手のデザインとして採用されています。

 このうち、今回ご紹介の切手の主題は、国務院庁舎と満洲国国旗です。切手の構図は、1936年のベルリン・オリンピックのポスターをもとにして作られたもので、切手の両脇には、満洲国の象徴としての高粱と勝利と栄誉のシンボルである月桂樹が描かれました。

 なお、この切手を含む満洲国の切手とその背景については、拙著『満洲切手』でも解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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