1973年のいわゆる金大中事件について、韓国が外交資料を公開しました。それによると、田中角栄・金鍾泌の両国首相の会談では、事件を早急に幕引きして日韓関係を正常化させたいという両者の意図が一致し、金大中の再訪日という「原状回復」が白紙化されたことが生々しく綴られているようです。
1973年8月8日午後、韓国の前国会議員、金大中が、東京・九段下のホテル・グランドパレスで正体不明の男達によって拉致されるという事件が起こりました。金大中は、一九七一年四月の大統領選挙に際して、野党・新民党の大統領候補として出馬し、朴正煕政権を激しく批判して、善戦。その後、病気治療のために来日したものの、1972年に“10月維新”が起こったことで帰国できなくなり、事件当時は、日本とアメリカを往復しながら、亡命に近い境遇の下で、反政府運動を展開していました。
このため、金大中の活動に不安を抱いた朴正煕は、中央情報部(KCIA。現在・国家情報院)に拉致を示唆したといわれています。
はたして、8月8日、金大中は、野党・民主統一党の実力者、梁一東(代表委員)と金敬仁のふたりとホテル内で昼食を取った後の午後1時19分、2212号室前を通り過ぎたところ、突然、何者かに襲われ、空室であった2210号室に引きずり込まれます。犯人グループは、この部屋で麻酔薬を染み込ませたタオルで彼の意識を朦朧させた後、彼をエレベータで地下駐車場まで運び、そこから車で大阪まで逃走しました。
大阪に着いた一味は、用意していた船に乗り込んだが、このとき、金大中の足には重りがつけられたといわれています。このことは、途中で金大中を船から海へ投げ込むことを意味しており、拉致の目的が彼の抹殺を意図したものであったことがわかります。
しかし、まもなく、事件は日本側に知られるところとなり、大阪埠頭を出て釜山に向かう途中の犯人グループの船を日本海沿岸で自衛隊機が追跡。さらに、アメリカ政府からも事件についての“憂慮”が韓国政府にも伝えられたことから、暗殺計画は中止され、金大中は釜山に連れて行かれた後、事件発生から129時間が経過した後の13日未明、ソウルの自宅近くで発見されました。
当初、韓国政府は、事件への関与を全面的に否定していましたが、9月2日、警視庁特捜部が事件現場で在日韓国大使館の一等書記官・金東雲の指紋を発見したと発表。このため、韓国政府は、11月1日になって、事件は金東雲の単独犯行であり、金東雲は更迭したと発表します。
一連の事件により、日韓関係は一挙に緊張しましたが、結局、日本側は11月1日のこの韓国側の発表を受けて、事件を“政治決着”というかたちで処理してしまい、真相は解明されないままに終りました。今回、公表された資料は、この間の両国政府の動きを生々しく記録したものです。
ところで、こうした状況の中で、韓国郵政は1973年9月3日、“国際刑事警察機構(ICPO)50年”の記念切手を発行しています。
ICPOは、国際犯罪に関する情報の収集と交換、逃亡犯罪人の所在発見や国際手配書の発行を行うための国際機関で、もちろん、韓国も加盟しています。したがって、その設立50年の記念切手を発行することじたいは不思議でもなんでもないのですが、韓国の国家機関が外国で誘拐と殺人未遂という犯罪を行い、その隠蔽に躍起になっていた時期にこうした切手が出てしまうというのは、なんとも間の悪い出来事といえましょう。
今朝の新聞を読みながら、なんとなく思い出した1枚なので、ご紹介してみました。