2019-12-29 Sun 10:06
国連総会は、27日(ニューヨーク時間)、コンゴ動乱調停中の1961年、スウェーデン出身のダグ・ハマーショルド国連事務総長が墜落死した問題をさらに調査するよう求める決議を全回一致で採択しました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
![]() これは、1962年にコンゴが発行したハマーショルドの追悼切手です。 1960年、アフリカ諸国が相次いで独立する中で、同年6月30日、ベルギー領コンゴもコンゴ共和国として独立。コンゴ族同盟(アバコ党)の指導者であったジョセフ・カサブブが大統領に、コンゴ国民運動(MNC)を率いたパトリス・ルムンバが首相に就任しました。 しかし、コンゴ駐留のベルギー軍撤退問題をめぐり、対外強硬路線のルムンバとベルギー軍が衝突。さらに、混乱の中で、地下資源の豊かなカタンガ州を地盤とするモイーズ・チョンベは、7月11日、ベルギーの支援を受けて、カタンガの独立を宣言。親西側のカサブブと急進民族主義路線を掲げるルムンバの路線対立もあり、独立間もないコンゴは四分五裂の状態に陥りました。いわゆる第1次コンゴ動乱です。 ルムンバの要請を受けた国連は、7月14日、安保理決議143を採択。“国連軍”が編成され、カタンガ独立問題へ関与しないことを条件にコンゴに進駐すると、カタンガ政権は豊富な資金力を背景に白人の傭兵部隊を大量に雇い入れ、ルムンバ側からの攻撃に抵抗しました。 各派入り乱れての泥沼の内戦の中で、1960年9月、大統領のカサヴブが首相のルムンバを更迭すると、ルムンバ内閣は大統領の解任を決議。コンゴ共和国を政府を名乗る組織として、首都レオポルドビルのカサブブ政府と、スタンレービルを拠点とするルムンバ派政府が併存する事態となりました。しかし、CIAの支援を受けた陸軍参謀長ジョセフ・デジレ・モブツ大佐のクーデターにより、ルムンバは逮捕され、1961年1月17日、カタンガ政府のベルギー人顧問によって処刑されます。 ルムンバ処刑後の2月20日、カタンガ政府は「ルムンバはカタンガ当局の手から脱走したところ、とある村の住民に殺害された」として、ルムンバの死を発表すると、ルムンバ派の拠点であったスタンレービルでは兵士が激昂し、ルムンバの殺害にはレオポルドビル政府が関与しているとの思い込みから、キブ州制圧戦で捕虜となっていたレオポルドビル軍の士官が処刑されました。 国際世論は、一挙にスタンレービル政府に同情的になり、各国でルムンバ追悼のデモが行われたほか、ソ連はルムンバの死の責任を問うとして、国連事務総長ハマーショルドの解任とベルギーへの制裁、モブツおよびチョンベの逮捕を要求。また、ギニアとエジプトは、事件を機に、スタンレービル政府を正式に国家承認しています。 2月17日の国連安保理では、エジプト、リベリア、セイロの共同提案として、ルムンバの死を悼んだうえで、①国連が、休戦の取り決め、一切の軍事作戦の停止、衝突の阻止、必要な場合に限ってあくまで最後の手段としての武力の行使を含む、コンゴの内乱の発生を阻止するための一切の適切な措置を即時とること、②あらゆるベルギー人および他の外国の軍人および軍属、国連司令部の管轄に属しない政治顧問、および傭兵をコンゴから、即時撤退させ、引揚げさせる措置を講ずること、③すべての国に、上記の要員がコンゴに向かって、その領土から出発するのを防止し、彼らに輸送およびその他の便宜をはかることを拒否する措置を、即時且つ効果的に講ずること、などを要求する決議案を提案。21日、同決議案は「コンゴ問題にかんする決議S4741」として採択されました。 決議S4741では、国連の武力行使には強い制約が課せられていましたが、レオポルドビル政府およびカタンガ政府は、同決議を根拠として国連が無制限に武力介入してくると“誤解”。レオポルドビル政府首班のイレオは今回の国連決議を「コンゴの主権を侵害するもの」、カサブブは「国連はコンゴを裏切った」と声明し、カタンガのチョンベも「決議はコンゴ全体に対する国連の宣戦布告である」と猛反発し、南カサイのカロンジもこれに同調しました。 かくして、2月28日、カタンガの首都エリザベートビルに集まったイレオ、チョンベ、カロンジの3首脳は国連およびスタンレービル政府に対抗するための軍事協定を締結。3月には、マダガスカルの首都タナナリブで、あらためて、カサブブを大統領とする“ゆるやかな連邦国家”の設立を目指すとする「タナナリブ協定」が結ばれます。同協定では、コンゴ中央政府は権限を持たず、外交に関しては合同会議で協議するものの、内政に関してはカタンガをはじめとする“州国家”が実質的な独立国として扱われることになっていました。 タナナリブ協定を受けて、3月10日、ハマーショルドはコンゴ国連機構の現地代表代理としてスーダンのメッキー・アッバースを派遣し、決議S4741は必ずしもコンゴに対する無制限の武力行使を意味するものではないことをカサブブに理解させます。 ところが、3月23日、チョンベがコンゴ・ブラザビル(旧仏領jから独立)を訪問し、カタンガがコンゴ・ブラザビル領内のダム建設を支援することを骨子とする経済援助協定を調印。これは「外交に関しては合同会議で処理する」とのタナナリブ協定を無視するものであり、そもそも、外国を援助する資金があるならコンゴ国内の社会・経済再建のために提供すべきではないかとレオポルドビル政府は反発します。 このため、レオポルドビル政府は再びカタンガとは距離を置き、スタンレービルのルムンバ派政府との関係改善を模索するようになり、4月17日、カサブブはその一環として、安保理決議S4741の受け入れを表明。4月24日には、赤道州コキラビル(現ムバンタカ)でコンゴ諸勢力による会議が開催され、タナナリブ協定の原則について具体的な協議が行われ、安保理決議S4741の受け入れを宣言したうえで、①国連の強い指導のもとで諸問題の解決をはかるべきこと、②6月25日にレオポルドビル近郊のロバニウム大学で議会を(9ヶ月ぶりに)再開し、新しい中央政府を選出すること、が決められました。そして、安保理決議S4741の「外国人の即時撤退」の適用第1号として、チョンベが連れてきていた外人顧問を逮捕・追放し、チョンベも正式に拘束されます。 当初、チョンベは6月開会の議会への参加を拒否していましたが、会期直前の6月22日、モブツの説得を受けて議会への参加を表明し、拘束を解かれます。ところが、25日にカタンガに戻ったチョンベは「議会参加の約束は脅迫されてしたものだから無効」としてその破棄を宣言しました。 こうした経緯を経て、7月24日、国連軍一個大隊が警備する厳戒態勢の中で、当初より1ヶ月遅れで議会が開会。議場ではスタンレービル派が僅差で優勢だったため、米国はチョンベの参加を強く求めましたが、チョンべ本人は拘束の可能性を恐れて姿を見せず、旧ルムンバ派の出身でレオポルドビル政府の内相のシリル・アドゥラを首相とし、スタンレービル派、レオポルドビル派、カロンジ派、ルアラバ州政府代表を含む挙国一致内閣が組織されました。 混乱が続く中、1961年9月、戦闘目的ではなかったはずの国連部隊とカタンガの兵力が交戦状態に陥ったため、ハマーショルドは停戦交渉のため、現地に向かおうとします。しかし、その途中、9月18日にローデシア・ニヤサランド連邦のンドラ(現ザンビア領内)付近で乗機が墜落し、ハンマルフェルドを含む乗客乗員16名全員が死亡しました。 ハマーショルドの死に関しては、当時から、背後にさまざまな謀略があるとの推測がなされていましたが、2014年から再調査を担ってきた国連の調査団は、今年10月の報告書で「南アフリカと英米は、ほぼ間違いなく重要な情報を隠している」と批判。今回の国連決議も、これを受けてのもので、「特に報告書で言及された国は、保持している関連記録を公開するよう」促しています。 なお、ハマーショルドは1961年のノーベル平和賞を受賞しましたが、ノーベル賞は死者への追贈は行われないことになっているため、彼に関しては、すでに生前に授賞が決定されており、死後にそのことが発表されたと説明されています。 さて、ハマーショルドの死により、コンゴ情勢は一層の混乱が懸念されましたが、後任の事務総長となったウ・タントは、ハマーショルドの穏健路線とは対照的に、アドゥラの挙国一致政府を支援するかたちで、国連軍が外国人傭兵の逮捕・追放のための大規模な作戦を開始します。カタンガ政権に対する経済制裁も発動したため、資金源を断たれたカタンガ政権は急速に弱体化し、1963年1月に降伏チョンベもスペインに亡命したことで、ともかくもコンゴは外面上の統一を回復し、第1次コンゴ動乱も終結しました。 第1次動乱の終結後も、しばらくは国連の部隊がコンゴに駐留していましたが、1964年6月、国連軍が撤退するとピエール・ムレレ率いる共産ゲリラのシンバが中国の支援を得て反乱を起こし、第2次コンゴ動乱が勃発することになります。この第2次動乱には、キューバ革命の英雄だったチェ・ゲバラも深くかかわっていくことになるのですが、そのあたりについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも1章を設けてご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ イベント等のご案内 ★★ 今後の各種イベント・講座等のご案内です。詳細については、イベント名をクリックしてご覧ください。 ・第11回テーマティク研究会切手展 ![]() 1月11-12日(土・日) 於・切手の博物館(東京・目白) テーマティク研究会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。今回の展覧会は、昨年に続き11回目の開催で、香港情勢が緊迫している折から、メインテーマを香港とし、内藤も「香港の歴史」のコレクションを出品しています。 また、会期中の12日13:00からは、拙著『(シリーズ韓国現代史1953-1865)日韓基本条約』の刊行を記念したトークイベントも行います。 展覧会・トークイベントともに入場無料・事前予約不要ですので、ぜひ、遊びに来てください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ ![]() 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★ 2020年はアウシュヴィッツ収容所解放75周年!★ ![]() 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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