2019-07-21 Sun 00:32
今日(21日)は、参議院議員選挙の投票日です。僕も、午前中に投票に行く予定ですが、みなさんもぜひお出かけください。というわけで、国政選挙の投票日恒例の“投票しませう”シリーズ、今回はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
![]() これは、1989年、国連監視下で行われた南西アフリカ(現ナミビア)の総選挙の切手で、南西アフリカの地図を背景に、投票箱に票を入れる手がデザインされています。その下には、英語とアフリカーンス語で「あなたの将来のために投票を」との標語が入っていますが、この文言は、古今東西、どんな選挙にも当てはまるものですね。 現在のナミビア国家の領域は、第一次大戦以前はドイツ領南西アフリカとしてドイツの統治下に置かれていましたが、第一次大戦中の1915年3月、英連邦の一員として参戦した6万7000の南アフリカ連邦軍が進攻し、7月9日にはその全域を占領。これにより、ドイツ領南西アフリカは崩壊し、戦後、この地域は国際連盟によって南アフリカ連邦(以下、1961年以降の南アフリカ共和国も含めて南アと略)の委任統治領となります。 1946年に国際連盟が解散すると、南アは国際連合への引き継ぎ期間の隙をついて南西アフリカの併合を宣言。しかし、国際社会はこれを認めず、南アによる南西アフリカの併合は不法占領であると非難します。 1960年の国連総会では、南西アフリカを、南アを施政権者とする信託統治領(委任統治領と異なり、国連信託統治理事会が、3年に1度、現地を視察して住民に対する人権侵害や搾取がないか、自治・独立に向けた施政が行われているかを調査するほか、地域住民から国際連合への請願が認められます)とすることを決議したが、南アはこれを無視して、国連の“干渉”を排した実効支配を継続しました。 これに対して、1962年、南西アフリカでは民族解放組織として南西アフリカ人民機構 (SWAPO)が形成され、独立運動が展開されましたが、1966年、南アは本国に倣って南西アフリカでも“自治国”としてバントゥースタンを設置し、アパルトヘイト政策を強行。独立運動を徹底的に弾圧しました。 このため、同年8月26日、SWAPOは武装闘争を開始し、いわゆるナミビア独立戦争が勃発します。 国際社会はSWAPOを支持し、1968年には国連総会で南西アフリカをナミブ砂漠に由来する“ナミビア”と改称した上で、国連ナミビア委員会の統治下におく決議が採択されたほか、1973年の国連総会ではSWAPOがナミビアの正統政府として承認されました。 ところで、ナミビアに隣接するアンゴラは、長年、ポルトガルの植民地支配に対する独立運動が展開されていましたが、1975年3月、アンゴラ解放人民運動 (MPLA)、アンゴラ民族解放戦線 (FNLA)、アンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA) の独立運動の主要3組織がポルトガルと休戦協定を調印し、独立が達せられました。当初、MPLAはソ連とキューバの、FNLAはザイールの支援を受けており、独立後の新政権は、最大勢力で首都ルアンダを掌握していたMPLA主体のものとなるとみられていました。 ところが、親ソ政権の発足を嫌った米国がFNLAを支援したことで内戦が勃発。さらに、米国は、ともかくもMPLAを打倒するため、UNITAも支援します。その際、米国とUNITAの窓口になったのが、南アでした。 南ア政府は反アパルトヘイト闘争を主導したアフリカ民族会議(ANC)を激しく弾圧したため、その一部は周辺の黒人国家に逃れ、東側諸国の支援も受けながら、反政府闘争を展開していました。なかでも、MPLAとANCは密接な関係にあり、南ア政府は体制にとっての直接の脅威になると考えていたのです。 さらに、中国も反ソという観点から、ソ連が支援するMPLAに対抗してUNITAを支援するという混沌とした状況ができあがりました。 こうして、南アは実行支配下に置いていたナミビアを拠点にアンゴラ内戦に介入。ナミビアとアンゴラの国境地帯では、南ア国防軍とキューバ軍およびMPLAが対峙することになります。 その後、FNLAは首都進攻を試みたものの、キューバ軍事顧問団が指揮するMPLAに大敗。戦闘の続く中で、1975年11月11日、MPLAが“アンゴラ人民共和国”の、UNITAとFNLAが“アンゴラ人民民主共和国”の独立を宣言したものの、国際的には、MPLA政権がアンゴラの正統政府とみなされていました。 こうした状況の下、“第三世界の連帯”を掲げるキューバは、1975年11月から1976年4月までの間に3万6000の兵力を派遣し、南ア軍をナミビアに押し戻します。このことは、ANCを含むアフリカの反アパルトヘイト勢力を大いに鼓舞。さらに、その後もキューバの軍事顧問団はアンゴラにとどまり、ANCに対して軍事訓練を施していました。 こうして、ナミビア問題がアンゴラ内戦とリンクする状況が続く中で、1988年、クイト・クアナヴァレの戦いを機に、南アはアンゴラからの撤退を表明。同年12月のニューヨーク協定で、南アは、キューバ軍のアンゴラからの撤退を条件にナミビアの独立を承認し、翌1989年、国連監視下で行われたナミビアの選挙ではSWAPOが過半数を制し、1990年3月、ようやく、ナミビアは完全独立を達成しました。 ちなみに、ナミビアの独立闘争とアンゴラ内線については、主として、キューバとの関連を軸に、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもご説明しておりますので、機械がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ ![]() 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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