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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 わらしべマッドサイエンティスト
2008-02-09 Sat 10:55
 ご報告が遅くなりましたが、現在発売中の雑誌『TV Bros』の「わらしべマッドサイエンティスト」というコーナーに僕のインタビューが掲載されています。このコーナーは、変わった研究をしている人間を呼んできて話を聴いてみるという趣旨で設けられており、そのなかでインタビューを受ける人間がお薦めの5点を囲み記事で紹介することになっています。

 で、僕の場合は反米プロパガンダ切手5点を取り上げたのですが、その中から、きょうはこの切手をご紹介したいと思います。(画像はクリックで拡大されます)

      アメリカ大使館占拠

 これは、1983年11月にイランが発行したアメリカ大使館占拠事件4周年の記念切手です。大使館に突入する学生たちと目隠しをされた人質の大使館員、炎に焼かれる星条旗などが取り上げられています。

 1979年2月のイスラム革命後、開発独裁政策を進めてきた親米パーレビ体制に対する不満が爆発したものでした。このため、パーレビ王制崩壊後、国民の矛先は旧王制を支え続けてきたアメリカへも向かうことになります。そして、亡命中の国王が治療を名目にアメリカに入ったことで、急進革命派の反米感情は沸騰。1979年11月、国王の身柄引渡しを求めて急進派学生らがテヘランのアメリカ大使館を占拠する事件が発生。これを機に、対米関係は修復不可能なものとなりました。

 こうした状況の下、1980年にイラン・イラク戦争が勃発。イランへの侵攻作戦を開始したイラク軍は、イラン側の革命の混乱に乗じて緒戦において赫々たる戦果を挙げましたが、イラク軍の補給体制の不備もあり、戦争が長期化するにつれて、戦況は次第に逆転していきました。

 このため、イラン側の予想外の反攻により、守勢に立たされたイラク側は即時停戦を求める立場を強調し、国際世論を味方につけるべく外交戦略を展開することでイランに対抗。これが一定の効果を挙げ、イランの対イラク反攻はことごとく頓挫してしまいます。そもそも、イラン・イラク戦争はイラン革命の混乱に乗じてイラクが発動した侵略戦争でしたが、当時の国際社会は、そうした背景には目をつぶり、とりあえずイランのイスラム革命阻止ないしは反イランの立場で一致しており、とにかくイランの勝利を防ぐことを最優先課題としていたのです。

 当然のことながら、イランは既存の国際秩序に対する不満を募らせ、アメリカ、イスラエル、エジプト、サウジアラビアなどに対する非難を強めていった。そして、それに伴い、イラン郵政は、過激なプロパガンダ切手を発行していくことになります。
 
 今回ご紹介の切手もそうした文脈に沿って1983年に発行されたもので、同時期の国連の日世界保健デーとならんで、非常に分かりやすい1枚です。

 しかし、イランがどれほどイラン包囲網を形成している国際社会を非難しようとも、イラクの敗退を防ごうとする国際社会の壁は厚く、革命政府には徒労感が漂うようになっていきます。そこで、こうした状況を打開すべく、イランは外交方針を根本的に転換。1984年半ば以降、外相ヴェラーヤティーの下、「外交は原爆よりも威力を持つ」として、外交努力によりイラク支援体制を切り崩すべく“積極外交”と呼ばれる外交戦略を展開することになるのですが、このあたりについては、拙著『反米の世界史』をご覧いただけると幸いです。

 PS 『TVBros』の記事で取り上げた5枚の切手は、今日ご紹介のものと、勅額切手北ベトナムの米軍機撃墜記念切手北朝鮮の日本語入り反米切手イラクの湾岸戦争10年記念切手、です。

 *昨日の午後、カウンターが29万ヒットを超えました。いつも遊びに来ていただいている皆様、ありがとうございます。
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