2006-08-09 Wed 01:31
1945年8月9日に、アメリカが長崎に原爆を投下した最大の動機は、ソ連が日ソ中立条約を破棄して満洲国の領内に侵攻したことを受け(宣戦布告は8月8日の深夜)、極東でのソ連の影響力拡大を阻止するため、日本をできるだけ早く降伏させるというものでした。
というわけで、ソ連の対日参戦を考えるネタの一つとして、今日はこんな葉書を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます) この葉書は、もともと、満洲国内の日本兵同士がやり取りしていたものですが、受取人はこの葉書を携行して南方へと転戦。そこで米軍と戦って、おそらく玉砕したものと思われます。というのも、葉書の中央下部に押されている円形の印は、この葉書が太平洋地域の米軍によって回収され、情報収集のために検閲されたものであることを示しているからです。 ソ連軍が158万という大兵力で満洲国への侵入を開始したとき、かつて無敵と恐れられていた関東軍は、見る影も泣く弱体化していました。太平洋上での激戦が繰り広げられる中、直接の戦場とならなかった満洲国内に駐留していた日本の兵力は、次第に、激戦地へと転戦するようになり(この葉書の元の持ち主もその一人だったのでしょう)、1945年の時点では、満洲の兵力は櫛の歯が抜けたような状態となっていたからです。 こうしたことから、もともと、日ソ間の軍事力に差があったこともあり、ソ連軍は関東軍を蹴散らしながら、一日100キロの急進撃で東支鉄道に沿ったハイラル・大興安嶺の要塞地帯を攻撃・突破していきます。そして、後ろ盾を失った満洲国はあっけなく崩壊。満洲に残された日本人の多くが、ソ連軍による非道な暴行・略奪によって筆舌に尽くしがたい辛酸を舐めたことは広く知られている通りです。 終戦前後のソ連の蛮行が許しがたいものであることは言を俟たないのですが、日ソ中立条約を過信して国際情勢を見誤り、対ソ防衛を軽視していた日本の国家指導層の対応が事態をより深刻なものとしてしまったという側面も決して否定はできないと思います。そういう意味で、あの戦争に対する政府や軍の責任については、日本人が自らの手できっちりと落とし前をつけておくべきだと思うのですが、まぁ、この辺の問題について話し始めると、ちょっとやそっとでは収拾がつかなくなるのは明らかですから、今日のところは、これ以上の深入りは止めておきましょう。 さて、9月25日に角川選書の1冊として刊行予定の『満洲切手』では、今日ご紹介している葉書を含めて、さまざまな切手や郵便物を使って、満洲国のイメージを再構成してみることに挑戦してみました。刊行までには、まだ少し間がありますので、このブログでも、折に触れて一部予告編のような記事を掲載していきたいと思っていますので、よろしくお付き合いください。 |
日ソ中立条約を無視しての対日参戦、一週間戦争でソ連の得た膨大な戦勝果実、日本人への言語に絶する虐待(シベリア抑留を含む)日本人としてはらわたが煮えくり返る思いです。
ところで、ソ連占領地域での「ソ連軍による非道な暴行・略奪」ですが、ソ連軍より前に現地人による日本人の想像を超えた暴行略奪が行われたようです。「戦後引揚げの記録」(若槻泰雄)に詳しいです。10年ほど前のドラマ「大地の子」で、「ソ連軍の襲撃を受ける前の開拓団員の描写」が事実とかけ離れているという満洲からの生還者の指摘がありました。 #268 管理人のみ閲覧できます
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#269 コメントありがとうございます
おやじ様、他の皆様
コメントありがとうございます。 敗戦後の旧満洲での日本人に対する暴行・略奪に関しては、ソ連軍以外にも、中国人・朝鮮人がかなり加わっていたことは案外、知られていないみたいですね。僕は、現在の中共政府は全く信用していませんが、当時の八路軍が人々の支持をそれなりに集めた最大の理由が、それまでの軍閥や国府軍に比べて暴行・略奪が極端に少なかったことにあった(すなわち、国府軍がそれだけひどかった)という点は、素直に認めてもいいように思います。一旗組として渡満した人たちの中でも、朝鮮人はかなり荒っぽいことをやっていた者が多いので、敗戦後の混乱では、それに乗じてかなりひどいことをした連中が少なからずいたことは容易に想像できます。 それはそうと、最近思うのですが、“東京裁判史観からの脱却”および“中韓からの不当な外圧の排除”というのは、それはそれで結構なことなのですが、それが昂じて、当時の日本の戦争指導層は悪くなかったという論調が目立つようになったのは、いかがなものか、と思ってしまいます。 適切なたとえではないかもしれませんが、ある会社がいったん倒産し、その後、新経営陣と従業員が必死に働いて再建し、倒産以前の水準を上回る優良企業に育て上げたというようなケースで、倒産したときの経営陣なりその遺族なりが、いまさらのこのこと出てきて、あの時はあれで仕方なかった等と言い出したら、会社の再建のために必死で頑張ってきた人たちはどう思うでしょうか。どれほど高邁な理想を掲げていようと、また、どれほど素晴らしい製品を作ろうと、会社を倒産させてしまったら、経営者失格であることに変わりはありません。 その意味で、少なくとも戦争指導層に名を連ねていた連中に対しては、東京裁判がどうのとか、中韓両国との関係がどうのとか、そういうこととは別の次元で、もう少し我々日本人がきっちりとけじめをつけないと行けないように思うのですが、どうもそういうことをいうと白黒二分法の発想しか出来ない人たちからは、“自虐派”のレッテルを貼られてしまうことが多くて、弱ってしまいます。 #270 通信文の解読
小生のテーマである朝鮮近現代史のリニューアル版作りに精進している今日この頃ですが、以前出品した時には知識不足などで、手に入らなかったマテリアルが徐々に入手可能となっています。入手したマテリアルは作品作りの関係上、文面も取り上げることになるのですが、古いマテリアルになればなるほど現代人の小生には読みにくい文面が目に付きます。筆で流れるように書いた文面は正直ほとんど読めません。そうなるとどうしても、その意味を知りたいのですが、どなたかそのような古い文章を解読できる方はご存じないでしょうか?情報を知らせていただけたら幸いです。
#274 「敗戦責任」
大日本帝国の統治原理を考えれば、敗戦の最高責任者は昭和天皇以外にありません。昭和天皇自身、占領軍のトップであるマッカーサーに「自分はどうなっても良いから国民を助けたい」と表明しました。
終戦後、日本国民が敗戦の重大な損害に喘いでいた時、昭和天皇は国内各地を巡幸しました。今のような蟻も漏らさぬ警備体制ではありませんでした。昭和天皇を罵倒したり暴力を振るう日本人がいたという話は全く聞きません。戦死者遺族、大陸からの引揚者、空襲被災者、傷痍軍人といった人たちが敗戦責任者たる昭和天皇を激しく憎んでも当然ですが、そういう動きは全くなかったようです。 一方、A級戦犯の代表とされる東條英機にしても、彼の事績を詳細に見れば「大東亜戦争開戦時の総理大臣になってしまった不運な人」と評価するのが妥当と思います。少なくとも、東條氏が戦争に反対する有力な国内勢力を弾圧して独裁権力によって開戦を決めた事実は認められません。むしろ、昭和16年秋の東條氏はマスコミや世論から「弱腰」を攻撃されていたようです。 ただし、東條氏自身は、敗戦後に「開戦時の総理大臣であった以上、敗戦責任は自分にある。どのようにしても償えない」と考えていたことが知られています。東京裁判から処刑までの過程での東條氏の言動は、敗戦国の責任者として「武人の鑑」と評するに足る立派なものであったように思えます。東條氏は「120%」責任を取っているのではないでしょうか。 講和条約が成立した後に「戦犯赦免」に向けて国会決議などが行われ、戦犯刑死者・獄死者も軍人恩給を受けられるなどの保護が為されたわけですが、実際に戦争被害を被った当時の日本人は、「我々日本人がきっちりとけじめをつけないといけない」とは考えていなかったように思われます。 一方、昭和20年春にソ連の参戦準備を察知し、満ソ国境の開拓民を見殺しにする意思決定を行った関東軍首脳は、事後法の国家反逆罪で死刑になっても良かったでしょう。しかし、例えば関東軍司令官の山田乙三は「開拓民見殺し」ではなく「ソ連への敵対行為」でソ連国内法によって戦犯として裁かれたようです。これについては実にやり切れない思いです。 長文たいへん失礼いたしました。 #277 コメントありがとうございます
皆様、コメントありがとうございます。(亀レスになってしまっってすみません)
・大津太孝様 その昔、日本史だったか古文だったかの先生から、流れるような筆文字が読めなかったら、とりあえず、筆跡を上から指でなぞってみると良いといわれたことがあります。お役に立つ情報かどうかわかりませんが、まずはお試しあれ。 ・おやじ様 昭和天皇に関しては「責任がない」とするのは、純粋な法学上の議論としてはともかく、どう考えても無理だと思います。ただ、その責任の取りかたをどうするかと言うのは別の次元の問題ですが・・・。ちなみに、かつて赤尾敏も同様のことを言っていました。 終戦直後、共産党員とそのシンパが天皇その他の旧来の権威を罵倒することで一部の熱狂的な人気を得た反面、彼らのあまりにも下品な振る舞いに眉をひそめる人も少なくありませんでした。昨日までの鬼畜米英が、突如、ギブ・ミー・チョコレートになるという、日本人の変わり身の早さとあわせて、左翼に対する違和感というものも、天皇に対する批判が強くならなかった原因の一つではないかとも思います。 東条英機に関しては、僕の個人的な評価では、きわめて優秀な事務官僚だが、政治家としてはあまりにも狭量、ということに尽きると思います。開戦時の総理大臣として開戦責任はどう転んでも免れないでしょうが、客観的事実としては、東條内閣は、日米開戦問題をいったん白紙還元することからスタートしていますから、彼らがただひたすらに開戦への道を突き進んだとみるのは、ちょっとどうかと思います。なお、当時、日米開戦を阻止するために一番奮闘していたのは、外務省などではなく、陸軍省軍務局長・武藤章と同軍務課の高級課員・石井秋穂のラインだったという事実は、もう少し重く受け止めるべきだと思います。 敗戦の責任については、誰かがきっちりとらないといけないのですが、不幸にして、十分な検証もないまま、外国人によって一部の人間が断罪され、その他が免責されてしまったことが、議論の混乱の原因ではないかと僕は思っています。もっとも、ドイツのように、ナチスに全て責任を押し付けて、一般国民には罪はないと開き直ってしまうのもどうかと思いますが、外務省だとか大手マスコミの連中が、自分たちは無反省のまま、軽々しく“戦争責任”を口にするのは、なんとも嫌な気分になりますね。 まぁ、この辺については、話が長くなりすぎるので、いずれ、ゆっくり酒でも飲みながらお話できたら良いな、と思っています。 #283 ネット社会の醍醐味
内藤さん、力の入ったコメントありがとうございます。他の2件も合わせ、大変勉強になりました。特に「なお、当時、日米開戦を阻止するために一番奮闘していたのは、外務省などではなく、陸軍省軍務局長・武藤章と同軍務課の高級課員・石井秋穂のラインだったという事実は、もう少し重く受け止めるべきだと思います。」は良く知りませんでしたので内藤さんのサジェスチョンが貴重でした。改めて調べてみたいと思います。
内藤さんのような見識の高い方から直接ご教示を頂けるのは、インターネット社会の良き一面ですね。近く上梓なさる「満洲切手」では、内藤さんならではの鋭い歴史分析を楽しみにしております。 #289 補足
おやじ様
当時の軍務局に関しては、ノンフィクション小説ですが、さしあたって、保阪正康『陸軍省軍務局と日米開戦 』(中公文庫)が参考になると思います。とりあえず、情報のみにて。 #294 コメント
先生の郵便学という明確な証拠に基いた歴史の解説は大変説得力があり敬服いたします。是非いつかは日本の近代史の教科書を書いてくださるようお願いいたします。私も含めて日本人サラリーマンで海外勤務経験者は先生と同じような歴史観を持ってる人が多いですよ。大日本帝国=悪の枢軸という、「ガンダム以前の善悪が単純にはっきりしているマンガ見たいな教育」はマジでいいかげんやめていただきたいです。
#301 コメントありがとうございます
hillsidecnx様
いつもコメントありがとうございます(亀レスですみません) >>是非いつかは日本の近代史の教科書を書いてくださるようお願いいたします。 実は、黒船から安倍政権の誕生(?)までの日本の近代史全てを網羅するテーマティク・コレクションを作りたいという野望があるのですが、昭和史部分だけでアップアップというのが実情です。近現代史の教科書、いつか作れたらいいなとはおもいますが、現状だと、(切手にこだわる限り)夢のまた夢、といったところでしょうか。 #408 お聞きしたいのですが
管理人 様
前略 大変に公正な見方をされていると 敬服いたします いろいろ調べているのですが 中々わからないこととがあり 恐縮ですがご教授頂けたら 幸いです 「満州に付いてですが」 1 昭和20年8月8日にソ連が日本に宣戦布告・9日に進軍開始しました 2 その後のソ連軍の行動に付いてです a 何年まで満州に居たのかどうか・・朝鮮との国境でストップしたそう ですが b その間のソ連軍の行動と 日本人の シベリア抑留された人とされ なかった人は どう違ったのか 誠に無知な事でお恥ずかしいのですが このあたりのことがどうも判ら ないのです 私はs.21年1月に樺太で生まれ引揚げたものです 宜しくお願いいたします 早々 #412 コメントありがとうございます
田原頼男様
ご質問の件ですが、小生の理解している範囲でお答えすると、ソ連軍が旧満州国の領域から撤退したのは1946年4月のことです。なお、ソ連軍は旧満洲国と朝鮮との国境でストップせず、そのまま、朝鮮半島を南下し、朝鮮半島北部を占領しました。38度線での米ソの分割占領というのは、放っておくと、ソ連軍が朝鮮半島全域を占領しかねないことに危機感を覚えたアメリカの提案で、とりあえず、彼らの前進を止めるための措置というのがもともとの発想でした。 旧満洲でのソ連軍の行動については、たとえば、ウィキペディアのシベリア抑留の項目(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99)をご参照ください。 なお、民間人に関しては、抑留者と非抑留者の選別は、担当者がかなり恣意的に行っていたと小生は聞いておりますが、ソ連軍関係者の間では、何らかの基準があったのかもしれません。 #413 近現代史のコレクション作りの覚悟
内藤師匠殿
日本の近現代史をすべて網羅するテーマチィク・コレクションを作るという野望をお持ちだということですが、近現代史のすべてを網羅するテーマティク・コレクションといえば、小生の方が先に朝鮮半島モノに挑んでいるのはご承知の通りです。もし、切手展出品を前提で実行するとなると、時代を区切っての発表にならざるを得ません。昭和史の時点でアップアップというのが実情とのことですが、コレクション作りに当たって「数ヵ年計画」というものをお考えになって、実行に移したほうがよろしいかと思います。小生の場合などは当初から、今回の出品はここまで、次回の出品はここまでと少なからず計画を立てた上で、朝鮮近現代史をすべて網羅するという形で、JAPEX出品に挑んだ訳です。一度の出品で近現代史をすべて網羅すると一体どのくらいのフレームが必要になるやら……。とにかく日本の近現代史のテーマティク・コレクション作りを実行するならば、小生が朝鮮の近現代史のテーマティク・コレクション作りを実行したときと同様の覚悟が必要かと思いますが参考になりますでしょうか? |
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