2019-09-02 Mon 00:43
ヴェトナム独立の父、ホー・チ・ミン(胡志明)が、1969年9月2日、ヴェトナムの国慶節(独立記念日)に亡くなってから50周年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年、いわゆるヴェトミン(越南独立同盟)の支配地域で発行されたホー・チ・ミンの切手です。 ホーの出自や青年時代の行動についてはハッキリとわかっていないことも多いのですが、一般には、1890年5月19日、中部ヴェトナムのゲアン省で生まれたといわれています。 15歳の頃から愛国運動の地下組織に関わっていた彼は、いったんはフランス植民地政府の官吏を養成する学校に入学するものの、1908年に退学。その後、ごく短期間、民族主義者の設立した小学校で教鞭をとった後、1911年、フランス船のコック見習いとして、マルセイユ、チュニジア、アルジェリア、セネガル、コンゴ、米国、ブラジル、アルゼンチン、ロンドンなどを経て、1917年にパリに移住します。 パリでのホーはフランス社会党に参加し、1919年に行われた第一次大戦の講和会議(いわゆるヴェルサイユ会議)の際には、フランス在住のヴェトナム愛国者グループとして“グエン・アイ・クォック”(阮愛国)を名乗り、独立を求めて「ヴェトナム人民の要求書」を提出しています。 その後、彼はフランス共産党の創立(1921年)にも関わるなど共産主義への傾斜を強め、1923年にはドイツを経由してソ連に入り、翌1924年、コミンテルン第5回大会でアジア担当の常任委員に就任。1941年までヨーロッパとアジアを往復しながら革命家として活動しました。 この間、1930年には香港での第1回インドシナ革命会議に参加するとともに、ヴェトナム共産党の創立に関わり、九龍のサッカー場で開催された同党創立大会を主催しましたが、1931年6月にはコミンテルンの工作員として英植民地当局に逮捕・勾留されました。しかし、結核を病んでいたこともあって、1932年8月に国外追放となります。ちなみに、このときの追放に際して、コミンテルンは「帝国主義者の恐怖政治によって香港の刑務所の病院に監禁されたインドシナ共産党創設者、グエン・アイ・クォックの死亡」を発表。ホーは完全な地下活動に入りました。 その後、地下活動を経て、1941年2月、およそ30年ぶりに帰国したホーは、ヴェトナム独立のための民族統一戦線、ヴェトナム独立同盟(ベトミン)を結成し、フランス当局からは共産ゲリラ、テロリストの頭目として恐れられるようになります。 1941年、大東亜戦争勃発の直前にフランス領インドシナ(仏印)全域に進駐した日本軍は、仏印におけるフランス当局の主権を尊重する代わりに、仏印を実質的な軍事占領下に置き、仏印当局は日本に対して好意的な中立を保つという状況が戦争末期まで続いていました。 ところが、戦争末期になって、東南アジアから日本軍の撤退が相次ぐと、日本本土と中国戦線の交通が途絶することを恐れた日本軍は、1945年3月、“明号作戦”を発動し、フランス植民地政府を武力によって解体。ヴェトナム、ラオス、カンボジアに旧王族を担いだ親日政府を樹立します。 その後、1945年8月に日本軍が降伏すると、フランスに対して植民地解放闘争を戦ってきたヴェトミンはヴェトナム独立を宣言してハノイで蜂起。9月2日、ホーを国家主席とするヴェトナム民主共和国臨時政府が樹立されました。 一方、独立宣言と同日、降伏文書調印に続き、連合国軍最高司令官(ダグラス・マッカーサー)の名前で「一般命令第一号」が発せられると、ヴェトナムでは、旧宗主国のフランス軍が本格的に進駐するまでの暫定措置として、北緯16度線以北に中国国民党軍が、以南に英軍が進駐。その後、10-11月にかけて、ようやく、フランス軍が進駐します。なお、この間、日本軍第38軍は連合国軍の進駐に備えて待機していましたが、一部はヴェトミンなどに武器を引渡したり、個人としてヴェトミンに合流する者もありました。 中英による分割占領時代、ヴェトナム北部では、反共を国是とする国民党軍の下でヴェトミン系労働者の多くが逮捕・追放されたため、臨時政府は非共産主義者を入閣させるとともに、1946年1月6日に総選挙を実施。3月3日には憲法制定のための第1期国会が発足します。 さて、1946年2月28日と3月6日、臨時政府はとフランスと予備協定(ハノイ暫定協定)を締結。これにより、フランス連合インドシナ連邦の一国としてのヴェトナム民主共和国独立と、独立後もトンキン地方にフランス軍が駐留することが決められました。しかし、その一方で、ヴェトミンの勢力が及ばなかったヴェトナム南部に関しては、フランスは、プランテーション入植者の既得権益を優先するため、3月26日、親仏傀儡政権として“コーチシナ共和国”を成立させます。 こうしたこともあって、予備協定の締結後も、ヴェトミンとフランス軍との小競り合いは止まなかったため、6月1日、ヴェトミンは独立戦争の長期化に備え、クァンガイ陸軍中学を設立します。同校の校長はグエン・ソン将軍、政治委員は第5戦区上級軍事幹部ドアン・クエ(いずれもヴェトナム人)でしたが、教官・助教官と医務官は全員、旧日本陸軍将校・下士官で構成されていました。こうした日本軍出身教官の指導の下、ヴェトナム初の本格的な陸軍士官学校となった同校はヴェトナム陸軍をインドシナ随一の精強兵力に育て上げ、フランス、米国、中国との戦争でのヴェトナム軍の勝利に大いに貢献しています。 陸軍中学の設立後、ホー・チ・ミン以下、臨時政府の代表団は、フランス本国のフォンテーヌブローでヴェトナムの独立問題についてフランス側と協議したものの、コーチシナの分離問題などで9月には交渉は決裂。同年12月19日、フランス軍がトンキン・デルタ地帯の各要衝やハノイのホー・チ・ミン官邸、その他重要施設を襲撃したのをきっかけに、第一次インドシナ戦争が勃発しました。 第一次インドシナ戦争が勃発すると、ホーは『全国民に抗戦を訴える』を発表。1951年2月、ヴェトナム労働党が結成されると、ホーは党主席に就任し、党と国家の最高指導者としてインドシナ戦争を指導し、1954年、ディエンビエンフーの戦いでフランス軍に致命的な打撃を与え、ジュネーヴ協定によりフランス軍をインドシナ半島から駆逐しました。 ジュネーヴ協定調印後のホーは、国家主席兼党主席として国政の重要問題について最終的な決裁を下す立場にあったものの、基本的には、レ・ズアンを中心とする党指導部の決定を容認。むしろ、国家主席として外交問題を担当するとともに、集会やラジオでの演説などを通じて、国家統合の象徴的な存在となりました。 1965年のトンキン湾事件を機に、米軍による北爆が本格的に始まると、1966年7月17日にラジオ演説で『抗米救国檄文』を発表して「独立と自由ほど尊いものはない」と呼びかけるなど、国家元首としてヴェトナム人民を鼓舞し続けたましたが、1969年9月2日、心臓発作で亡くなりました。享年79歳。 なお、ホーは、個人崇拝につながる墓所や霊廟の建設を望んでいませんでしたが(遺書には、遺骸を火葬し北部、中部、南部に分骨して埋葬するよう、指示がありました)、ヴェトナム労働党政治局はこれを無視し、レーニンに倣ってホーの遺体を永久保存し、南北統一後、ハノイ市のバディン広場に建設されたホー・チ・ミン廟に安置されています。 ★ 9月6日(金) 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 9月6日(金)05:00~ 文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★ イベントのご案内 ★★ ・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー 9月28日(土) 15:30~ 於・イオンコンパス東京八重洲会議室 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 武蔵野大学生涯学習秋講座で、以下の講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ・2019年10月13日(日) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) ・2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 切手と浮世絵 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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