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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 31年ぶりの国葬
2009-03-19 Thu 14:45
 1978年に左翼クーデターで殺害されたアフガニスタンの初代大統領、ムハンマド・ダーウードの国葬がおととい(17日)、カブールで31年ぶりに営まれたのだそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ムハンマド・ダーウード

 これは、1974年7月25日、“共和国1周年”を記念してアフガニスタンが発行した切手の1枚で、大統領としてのダーウードの肖像が大きく取り上げられています。
 
 ダーウードは国王ザヒル・シャーの従弟にして義弟で、1909年生まれ。1953年に王制下のアフガニスタンで首相に就任しました。

 ダーウードが首相に就任した当時、アフガニスタンは冷戦下での中立を維持すべく、米ソ両国とは等距離を保とうとしていました。このため、ダーウード内閣は、“隣国”であるソ連との従来からの関係を維持しつつも、再三に渡ってアメリカにも軍事援助を要請しましたが、アメリカはこれを拒否しています。対ソ戦略上、イランを「湾岸の憲兵」として取り込んでいたアメリカにとって、アフガニスタンはたいして価値のないものと考えられたためです。

 また、アメリカの支援を得て行われたヘルマンド川(アフガニスタン第一の大河)開発計画が挫折したことも、アフガニスタンにアメリカとの距離を感じさせる原因となりました。さらに、1955年、バグダード条約機構が成立し、パキスタンはその加盟国として西側陣営の反ソ包囲網の一翼を担うようになりましたが、このため、アフガニスタンは、領土問題を抱える敵国・パキスタンへの対抗上、必然的にソ連との関係を強化していかざるを得ませんでした。

 一方、ソ連にとっては、アフガニスタンを勢力圏内に収め、そこから係争地カシミールを経てインド(冷戦下では親ソ派の大国と位置づけられていた)につながることができるようになれば、西側の反ソ包囲網を分断し、インド洋にも到達しうるというプランは、非常に魅力的なものでした。

 かくして、ソ連からアフガニスタンへは巨額の援助が流れ込み、その見返りとしてアフガニスタンからは綿花や羊毛、天然ガスなどがソ連領に送られ、アフガニスタン経済はソ連への従属を強めていくことになります。

 このように、関係各国の思惑が交錯する中で、1955年、パキスタンが西北辺境州(パシュトゥン人居住地域)をはじめとする西パキスタン諸州を一州に統合。これに対して、パシュトゥニスタン地域の反パキスタン闘争を画策していたアフガニスタンは異議を唱え、両国関係は極端に悪化。1961年9月、両国は国交断絶・国境閉鎖の事態にまで陥りました。結局、このときは、1963年に対パキスタン強硬派のダーウードが首相を辞任し、イラン国王の仲介により両国の関係が正常化されています。

 しかし、王族出身の宰相・ダーウードが対パキスタン関係改善のために辞任したことは、アフガニスタンにおける王族の権威を大きく損ない、以後、アフガニスタンは平民宰相の下で政治的に不安定な状況が続くようになりました。そして、1971年、イギリスがスエズ以東から撤退したのを機に、アフガニスタンは外交方針を転換。イギリスとイランに接近し、パキスタンとも関係改善を志向するようになりました。

 しかし、こうした政策転換は、ソ連ならびにその強い影響下にあった左翼将校の反発を招きます。そして、1973年7月、国王ザーヒル・シャーが眼の治療のためにイタリア滞在中、ダーウード元首相を中心に軍の左翼将校と親ソ勢力のパルチャム党が無血クーデタを敢行。国王はローマで退位を表明し、ダーウードがアフガニスタン共和国の大統領兼首相に就任しました。今回ご紹介の切手は、その1周年に際して発行されたものです。

 ところで、共和革命の当時、アフガニスタンは国家収入の40パーセントを外国に依存する状況となっていた。このため、ダーウードは、国家建設に必要な援助を求めてソ連との関係を当面は維持するものの、将来的には、経済的な自立(少なくとも、ソ連への過度の依存状況からの脱却)を課題として掲げていました。その際、ダーウードが注目したのが、石油収入を増大させた王制イランでした。

 ダーウードの共和国政府はイランとの外交関係を強化し、ソ連とは距離を置きはじめるとともに、国内の体制基盤を固めるためにも、1975年以降、革命の際の同志であった親ソ勢力を政権中枢から排除しはじめます。当然のことながら、このことは、ソ連との関係を背景に勢力を拡大しつつあった国内共産主義者たちとの間で摩擦を引き起こし、アフガニスタンの政局は急速に不安定化しました。その結果、1978年4月、アフガニスタン人民民主党(共産党)による反ダーウードのクーデタ(4月革命)が発生。ダーウードをはじめ政府首脳は暗殺され、同年6月には人民民主党のヌール・ムハンマド・タラキーを革命評議会議長兼首相とする左翼政権、アフガニスタン民主共和国が成立し、ソ連軍のアフガニスタン侵攻への道を開くソ連=アフガニスタン友好善隣協力条約が締結されることになるのです。

 このあたりの事情については、以前、拙著『中東の誕生』でもまとめてみたことがあるのですが、同書は現在版元品切れ・重版未定の状態です。いずれ、最近の状況も加えた改訂版を出したいところですが…。 
 

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